間歇日記

世界Aの始末書


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2002年10月中旬

【10月20日(日)】
▼夜中に腹が減ったので、「うまかっちゃん しょうゆとんこつ」にパスタを足して食ってみた。ラーメンだけだとどうも量が少ないような気がしたので、パスタを先に茹で、時間差を計算してラーメンを放り込んで、パスタとラーメンが交じり合った(混じり合った、ではない)食いものを作ってみたわけである。仕上げにオリーブオイルをひと垂らし。いやあ、合わない合わない。パスタはパスタで、ラーメンはラーメンで、最後までひたすら自己主張を続け、オリーブオイルととんこつスープも互いに一歩も譲らない。腹だけはいっぱいになったけどね。ふつうのラーメンの倍くらいの量になったもんな。こんなものばっかり食っていては肥るだろう。

【10月19日(土)】
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『竜とわれらの時代』
(川端裕人、徳間書店)
「Treva」で撮影

 けっしてSFを書いているわけではないのだがSFファンが注目せざるを得ない川端裕人の本格恐竜小説である。“なにかに凝る人々”のきわめて狭い宇宙をレーザービームのように描きつつ、その狭さから普遍へと到る川端裕人流が、本書でも遺憾なく発揮されている――と予知したと書きたいところだが、これはあらかじめゲラを頂戴していたので、本日の日記で予知しなくてもいいのだった(ああ、ややこしい)。〈週刊読書人〉2002年11月8日号に書評を書くにちがいないと予知するから、詳しくはそちらをご参照いただきたい。
 恐竜さえ出てくれば喜ぶところがSFファンにはあるが、だからといって、本書はそればかりを狙った恐竜本ではないのである。恐竜を書いていながら、恐竜を書いていない。“恐竜なるもの”という抽象概念があるとすれば、それを狂言回しに、人間および人類のドラマを描こうとしているわけである。とはいえ、川端裕人のことであるから、恐竜そのものについても玄人はだしの知識・見識を得るところまで徹底的なリサーチをしているのであるが、“ウリ”に入った評をあえてするなら、これは恐竜小説であると同時に、“ポスト9・11小説”として非常に優れていると思う。川端裕人は頭のいい人である。だから、自分の中で答えの出せるようなことなら論文で書いたほうが明解に決まっている。それでも彼が小説を書くのは、論文では書けないことが書きたいからなのである。小説“で”書くのではない。小説“を”書くのだ。いわゆる主流文学としては風変わりな書きかたをしつつ、それでいて、SFではない。どちらから見ても周辺になるような微妙な書きかたをあえて選び取る作家と言えよう。つまり、おれ流に言えば、“一般主流文学”の作家だ。ゆえに、マーケティング的には非常に宣伝が難しいのだ。まあ、心あるSFファンは、すでに川端裕人を注目リストに入れているであろうから、おれごときがわざわざ宣伝することもないだろうけど。

【10月17日(木)】
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『イリーガル・エイリアン』
ロバート・J・ソウヤー内田昌之訳、ハヤカワ文庫SF)
「Treva」で撮影

 あやや。といっても松浦亜弥のことではない。上記の紹介からbk1にリンクを張ろうとしたら、なんと2003年1月2日時点では、bk1のデータベースにはこの本が入っていないことを予知してしまったのである。そこで、amazon.co.jp にリンクを張った。
 おれは最近、ロバート・J・ソウヤーという作家は、おれが思っていた以上にたいへんな作家なのではないかと思いはじめている。書くもの書くもの、ホームランにはならないが、必ず塁に出る内野安打にしてしまう実力は並大抵のものではない。もし文庫本を買う金にも困っているときにどうしてもSFが読みたくなったら、ソウヤーの作品を買うのが誰にとっても最も安全な賭けであろう。本書も例外ではない。〈週刊読書人〉2002年12月6日号に書評を書くにちがいないことをいま予知したので、詳しくはそちらをお読みいただきたい。ミステリファンにもお薦めしたいが、SFの“楽しさ”を味わいたい初読者にもぜひお薦めしたい。エイリアンが殺人の容疑者として地球人に逮捕され、アメリカの法廷で裁かれるなどという小説がいまだかつてあったであろうか。アリー・マクビールもびっくりである。
 『十二人の怒れるイリーガル・エイリアン』という小説を思わず書きたくなってしまったが、あまりにアホらしいのでやめておこう。

【10月16日(水)】
▼やはり日野啓三氏が編集委員を務めていらした讀賣新聞だけあって、今日の夕刊には大きな追悼記事があった。追悼文の筆者にはこの人が最もふさわしいだろうと思っていたら、案の定、池澤夏樹「境界ない無限の思索 日野啓三さんを悼む」を書いている。さすがは池澤夏樹、日野氏もきっと望んだであろう、非常に乾いたトーンのドライな追悼文であった――。

「その思索には境界がない。いわゆる専門家が最初から範囲を限定した上でわかったようなことを言うのと対照的に、自由に思考する者の考えはどこまでも伸びてゆく。普通の文学者が可視光線の範囲で書いている時に、日野さんの視界は赤外線領域へも紫外線から電磁波とγ線の方へも拡がっていた。スペクトルの幅がおそろしく広かった。
 最もよい例として長篇『光』がある。かつて月面を歩いた宇宙飛行士が、恩寵を失って地上をさまよったあげく、ホームレスの生活にやすらぎを見出す。だがそこも終着点ではない。彼は再度救われなくてはならない。その過程を導くのは中国人の女性である。
 このような男を現代に生きるわれわれの代表として提出する文学を他に知らない。ここには、無限であるはずの世界観を都合よく切り取って描きやすい絵を描こうという姑息な意図がない」

(讀賣新聞10月16日夕刊より)

 この追悼文で「おお、やはり」と驚いたのは、池澤夏樹が『スティル・ライフ』(中央公論社)を書いた一か月についての述懐である。池澤はその前月に刊行された『Living Zero(リビング・ゼロ)』(日野啓三、集英社)によって「目を開かれ」「その頃まで自分の中でどうにも整理しかねていた科学的思索と文学的営為の対立を通底することができた」という。『スティル・ライフ』を書いていた翌月も、「日野啓三の思想の圧倒的な支配下にあった気が」していて、「自分のものを書くことによってそこから抜け出そうと必死だったことをおぼろげに覚えている」と述べている。
 「自分のものを書くことによってそこから抜け出そうと必死だった」当時の池澤夏樹には悪いが、おれが池澤夏樹という作家の作品に出会い“「ここにもいたか」リスト”に加えたのはまさに芥川賞受賞作の『スティル・ライフ』であって、それも「日野啓三と近い波長の持ち主だ」という感想を持ったからだった。以前にも池澤夏樹はこうしたことを告白していたのかもしれないが、少なくともおれは初めて知ったのである。長年引っかかっていたことが、すとんと腑に落ちた感じだ。

【10月15日(火)】
▼ケータイに転送されてきたメールを読んで愕然とする。日野啓三氏が亡くなられた。朝、新聞社のウェブサイトで訃報に触れたケダちゃんがメールで教えてくださったのだ。
 なにしろ作品になっているくらいだから、日野氏が長年癌と闘っていらしたことはよく知っていたが、亡くなったと聞いて覚悟していた以上の衝撃を感じたことに自分でもちょっと驚いた。すぐPDAで通信社・新聞社ページの訃報を確認し、日野啓三ファンを公言している田中哲弥さんにメールで知らせたら、やはり存外の衝撃を感じている自分に驚いているといった思いを返信してこられた。
 それにしてもショックだ。日野文学なるものは、おれにとって最も愛着が持て共振できる世界の感じかた、切り取りかたである。それがどこだかわからないのだが、同郷の人間がおれのふるさとのことを書いてくれているかのような感じだ。残念だ。とても残念だ。気が落ちついたら、また日野啓三作品をじわじわ読み直してゆくことにしよう。日野啓三こそは、おれの言う“一般主流文学”の最高峰のひとり、“SFの手法で書かない正真正銘のSF作家”であったのだ。
 いつもなら「お疲れさまでした。ありがとう」と言うところなのだが、亡くなったということが頭ではわかっていても心情的に信じられないのでやめておく。日野啓三なる個人を超えた“日野啓三という現象”から、おれがまだまだこれから学び読み解かねばならないことがたくさんあるはずである。日野啓三は、都市に埋立地に砂漠に、あるいは名も知らぬ惑星の平原にいつの日か独り佇む誰かの中に再生され、命なきものの生命の息吹と己の内なる細胞の声とが織りなす懐かしくも未知なる音楽に耳を傾け続けるにちがいない。

【10月13日(日)】
▼最近お気に入りのCM。授業参観に遅れてきた黒木瞳が前のめりにコケる保険のCM――黒木瞳の眼鏡がたいへんよい。
 仲間由紀恵・菊川怜の二大美女が競演するケータイのCM――「顔だよ〜ん」「小学生か」の掛け合いがいい。とくに仲間由紀恵がいい。おれもぜひ仲間由紀恵に「小学生か」とバカにされてみたい。それだけではなく、「おまえらのやってることは、まるッとお見とおしだっ!」と啖呵を切られてみたい。『TRICK』のスタッフは当然よくわかって狙ってるんだろうけど、ああいう、童顔で貧乳(あくまでドラマの設定に則った発言であり、仲間由紀恵さんに於かれてはご寛恕いただきたい)の美女が突如男言葉を使ったり年上の男を呼び捨てにしたりするのには、じつになんともこの、なにかをそそるものがありますな。和田アキ子「おまえら」とか「やるぞ、上田っ」とか言ってもまったくいつもどおりで面白くもなんともないが、仲間由紀恵が言うとそそる。なんなんだろうね、あれは? おれが思うに、『TRICK』のようなドラマの関係者は子供のころからああいうパターンのデコボココンビの謎解きが好きで、むかし『三つ目がとおる』(手塚治虫)の和登サンにそそられていた人が多いのではなかろうか。だものだから、あのような演出を脚本家か監督あたりが思いついた。山田奈緒子のルーツは和登サンなのだ――というのがおれの推理である。どうだ、おまえらの萌えツボは、まるっとお見とおしだっ!
 サラリーマンの丸山茂樹が一人乗りロケットで会社に飛んでゆく栄養ドリンクのCM――あのロケットは欲しい。あれが欲しいと思っている人はきっとたくさんいると思う。武田薬品工業のサイトに行ってみると、驚いたことにあのロケットにはちゃんと「Vスピーダー」という名前があるのだった。覚えておこう。だけど、Vスピーダーで会社に行くとしたら、自分で操縦しなくちゃならないから通勤途上で本が読めなくなるよな。やっぱり通勤は電車のほうがいいか。

【10月12日(土)】
▼行きつけの病院でぼけーっと行き交う人々を観察していて(人々がぼけーっと行き交っていたのではない。おれがぼけーっと観察していたのである。とわざわざ断るなら語順を変えろよ)、ふと思う。車椅子というのは、なぜあんな具合に、車輪よりも直径の小さな輪に力を加えて動かすようになっているのか。梃子の原理からするといかにも不合理なのは小学生にでもわかる。わざわざ力が要るように作ってあるとしか思えない。上半身のトレーニングをすることも見込んで設計してあるのだろうか。ボートを漕ぐようにレバーかなにかを前後に動かせば前進・後退ができるように、ギアやらクラッチやらを組み合わせた仕掛けが作れそうなものだと思いませんか?
 と考えたところで気がついたが、それだと方向転換がやたら難しくなりそうだ。コツを掴めばできないことはないだろうが、ああいうものは誰にでもすぐ使えなければならない。努力して“操縦”を身につけなきゃならんようでは困る。極力シンプルでなければならないにちがいない。
 しかし、恒常的に車椅子を使っている人のためには、操縦の習得は難しいけれどもいったん習得すれば非常に自由度の高い機動ができるといった設計思想のものがあってもいいような気がする。おれが見たことがないだけで、すでにそういうものはあるのかもしれないが。
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『あしたのロボット』
瀬名秀明、文藝春秋)
「Treva」で撮影

 瀬名秀明のロボットもの短篇集。おれは読んでいないものが多いので楽しみだ。上の書影は、撮影した部屋の照明の加減でずいぶんと暗い感じになってしまったが、この本のカバーは全面鈍い銀色、つまり、象徴としてのロボット色なのである。光沢があるから光が反射してしまって、おれのケータイのおもちゃデジカメではこのようなこととなる。ちゃんとした書影がご覧になりたい方は、上の書名と書影のリンクからbk1へどうぞ。
 こんな感じの鈍い銀色をしているロボットは、フィクションの中でも現実でも、考えてみるとそれほど多くはない――いや、むしろ少ないだろうが、やはり多くの人の頭の中では、こんな色がロボットを象徴しているのではなかろうか。また、この本の腰巻には「オキテクダサイ、オキテクダサイ」と、ロボットの台詞らしきものが書いてある。そう、やはり多くの人の頭の中では、ロボットはカタカナでしゃべることになっているのだ。おれの好きなロボットも常にカタカナでしゃべっていた――「シカシ、ダンナサマ……」
 しかし、ほんもののロボットが二本足で階段を上ったり、パソコンの合成音声がかなり滑らかにしゃべったりする現実と、われわれに深く刻まれている“かつての未来”とのあいだには、微妙なズレが生じはじめている。それは、“ちょっとずれている”というのではなく、“ねじれている”といった感じなのだ。つまり、意識するとしないとにかかわらず、この現実の延長線は、われわれの“かつての未来”とは永遠に交わらないだろうという予感をわれわれは持ちはじめている。このあたりの“ねじれたズレ”に、いまロボットが瀬名秀明を惹きつけるなにかがおそらくあるのだろう。

【10月11日(金)】
ノーベル賞といえば、ブラック・ジャックは他人がノーベル賞を取るのを二度支援している。さて、手塚ファンの方に問題です。その二度のエピソードを挙げよ。
 正解は、「ナダレ」「きたるべきチャンス」。いずれも医学(・生理学)賞の受賞を直接・間接に支援している。なに? 大江戸博士による「大脳組織のD・O効果の発見」に至る研究を鹿の手術で直接支援し、綿引博士によるネオポリサチニン(癌の特効薬)の開発を開発者本人を手術で救うことで間接的に支援したんでしたなあって、そこまで言えたらすでにファンなんてものじゃなく、『ブラック・ジャック』フリークの域ですな。


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