間歇日記

世界Aの始末書


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2002年11月上旬

【11月8日(金)】
▼ソフマップで Pocket LOOX の拡張バッテリパックを買う。本体バッテリだけだと、通信をしまくって丸一日保つかどうかがやや心許なかったのだが、これで安心。一泊くらいなら外泊もオーケーだろう。あんまり外泊ってしないけどね。ついつい朝まで歌っているなんてのは“外泊”とは言わん。
 ついでにDVDコーナーに寄ったのがまずかった。おれの好きなB級SF映画『タイム・アフター・タイム』があったので、思わず買ってしまう。いそいそとレジへ向かおうとしてふと平積みコーナーを見ると、『チャーリーズエンジェル』(もちろん、ドリュー・バリモア、キャメロン・ディアス、ルーシー・リューのやつだ)が出てたんで、これもうっかり買ってしまう。どうも、B級だとかバカ映画(褒めてるのだ)だとかを手元に置きたくなるのがDVDの怖いところだ。それでいて、古典的名画もやっぱり手元に置きたくなるのである。結局、なんでも欲しくなるんやんけと思わないでもないが、中途半端な名画、中途半端なB級、中途半端なバカ映画には、金を払いたくないな。DVDって高いからねえ。

【11月6日(水)】
▼コンビニに『ウルトラQスナック』グリコ)ってのがあったので二個買ってみる。食玩じゃなくて、カードが二枚ずつついているというのだ。帰宅して開けてみると、ペギラ二枚、パゴス二枚。つまんねー。しかも、あたりまえのことながらモノクロである。おれとしては、「悪魔っ子」と若いころの桜井浩子が欲しいなあ。そんなカード、あるのかどうか知らないけど。

【11月4日(月)】
▼先日『アルジャーノンに花束を』のテレビドラマ版を初めて観たので唐突に思い出して書くのだが、“アルジャーノン”と“ジャー”にアクセントを置いて言われると、なんとなく腰がくだける。役者はみんなそういうふうに発音しているのだ。おれは英語と同じように第一音節にアクセントを置いて“ルジャーノン”と言うんだがなあ。いやまあ、カタカナにした時点で日本語だから、音引きのところにアクセントが来るのが自然ではあるし、少しも悪くはないんだけれども、どうもおれの耳にはざらつく。おれだって、日本語では“スス”とか“インシュタイン”とか言ったりはしないのだが、なぜかアルジャーノンだけは気にかかるのである。

【11月3日(日)】
湯川光之さんの日記で、チャールズ・シェフィールドの逝去を知る。先日、ロバート・L・フォワードの訃報に触れたばかりだ。今年はハードSF作家の厄年なのか。しかも死因は、フォワードと同じ脳腫瘍。頭を使いすぎるのがよくないなんてわけでもあるまいが……。そんなこと言うとまるで、ハードじゃないSF作家が頭使ってないみたいに聞こえるわな。そんなことはないそんなことはない。でも、よく使う部位はちがうかもしれん。
 それはともかく、シェフィールドさん、ありがとう、おつかれさまでした。
 おれ、『マッカンドルー航宙記』(酒井昭伸訳、創元SF文庫)、大好きなんだよなあ。“慣性相殺航法”で飛ぶ、あのとんでもない宇宙船は、ハードSFのみならず、SFというものの特色を非常によく体現したものだと思う。なぜ、そう思うのか? SFファンだけがこの日記の読者なら、アレがアレだからよってアレだと数行で言えるのだが、あんまりしょっちゅうそういうことをやっていては読者を限定しているみたいで不親切なので、少し長くなるかもしれないが、SFを考えていただく一助として、一から説明してみよう。
 『マッカンドルー航宙記』というのは、ブラックホールをこよなく愛する(うるさいことを言うと、無個性なシュヴァルツシルト・ブラックホールじゃなくて、角運動量を持っていることでいろいろ遊べるカー=ニューマン・ブラックホールだ)天才変人科学者(天才というのはたいてい変人だ)、マッカンドルー教授の活躍を描く短篇連作の宇宙ものである。というとなんだかスペースオペラみたいだが、大目玉の怪物も半裸の美女も出てこない(やたら男らしいスペースウーマンは出てくるけど)。主人公のマッカンドルー教授が宇宙をあちこち飛びまわるためには、速い宇宙船が必要である。そこで、マッカンドルー教授は、五十Gで加速できる夢の航法“慣性相殺航法”を編み出す。どうせなら超光速航法をひねり出せばいいのにと思うが、簡単に魔法を使ったんじゃ面白くないのだ。
 さて、その“慣性相殺航法”とはなんぞや? 人間の乗る宇宙船というやつは、ふつう、あまり大きな加速で飛ぶわけにはいきませんわな。人間が潰れちゃうからだ。この常識はよろしいですね? だけど、高Gで加速しても人間を潰さなくてすむ、非常に単純な方法がある。人間が潰れちゃうのは、加速の反作用として人間の質量分だけの慣性力が人間にかかってしまうからだ。自分自身のその場に留まっていたがる性質のために潰れてしまうわけである。だったら、その慣性力と同じ大きさの加速度を、向きを逆にして常に人間にかけ続けてやればいいのだ。宇宙船の加速のせいで人間にかかる慣性力を、逆方向の加速度で相殺してやるのである。ちょっと待て。言ってることがヘンだ。そんなことをしたら、結局、宇宙船はその場に留まっているだけで、全然進まないじゃないか。そんなことができるのか? できるんである。人間に進行方向への重力がかかるようにしてやればよい。重力と加速度は同じものだということに、一応いまの科学では(一般相対性理論の前提では)なっている。べつに一般相対論によらなくても、電車やエレベータに乗ったことのある人なら、そうだろうと感覚的に知っている。じゃあ、重力はどうやって“作る”か? ばかでかい質量の物体がそこにあるだけでよい。つまり、宇宙船の進行方向に巨大な質量の物体を掲げながら、そいつごと飛べばよいのだ。人間が乗る居住区とその物体との距離を調節できるようにしておいて、宇宙船の加速によって人間にかかる慣性力を相殺できるだけの重力が常に居住区にかかるよう、宇宙船の加速に合わせて居住区をずらしてゆくわけだ。宇宙船に大きな加速をかけるほど、居住区を巨大質量の物体に近づけてゆく――という発想で誕生したのが、高密度物質で作った巨大な円盤に細長いエレベータシャフトがくっついた、ばかでかいキノコみたいな形の全然カッコよくない宇宙船である。円盤の直径は百メートル、厚さは十メートルで、円盤を構成している物質は、一立方センチメートルあたり百七十トンもある。静止状態でこの円盤に真ん中に立つと、あなたには五十Gの重力加速度と一G毎メートルの潮汐力がかかってしまうという、とんでもなく大きく重く密な円盤だ。だけどこいつが、あなたにかかる重力と同じ方向に四十九Gで加速中だとしたら、あなたは地球上と同じ感覚で快適に円盤の上に立っていられるというわけである。
 さて、こんなコロンブスの卵的なことをここまで律義に想定しておきながら、この宇宙船を加速するエネルギーはというと、“真空から汲み上げる”ってんだから、はらほろひれはれなのである。この“はらほろひれはれ”感覚はけっこう微妙だ。たしかに、なーんにもない空間から質量(エネルギー)が出てくるってのは、一応いまの科学では(量子論的には)“アリ”だということになっている。とてつもなく短い時間のあいだになーんにもないところからぴょこんと粒子とその反粒子が飛び出してきてぶつかってあとかたもなく消えるなんてことを、物理屋さんたちは天気の話でもするようにあたりまえに言う。だけど、極微の時間でのそうした対生成・対消滅が量子論の常識であるからといって、真空からエネルギーを“汲み出せる”かどうかに関しては、ちゃんとした科学者はきわめて慎重である。なにしろ“汲み出せる”と言っちゃうと、エントロピー増大則という、この宇宙におけるきわめて強力な法則に挑戦することになりかねないわけだし、極端な話、それは“宇宙が創れる”と言っているにも等しいからだ。しかも、厄介なことに、現時点でも真空からエネルギーを汲み出す装置を研究中(実際に作った!)という怪しげな人があちらこちらにいて、その手の方々はむろんいわゆる“トンデモ系”と分類されている。そういう方々は宇宙の創りかたを少なくとも理論的にはご存じのはずだから、近所に住んでいたら、ぜひ訊いておいてほしい。
 “ふつうの人”であれば、どうせエネルギー源に真空エネルギーを用いるのであれば、最初っから高G加速で人間が飛べるなんらかの超技術を出せばすむだけの話ではないかと思うであろう。エネルギー源には、非科学的とまでは言わないまでも非常にロングショットな技術を用いてくるくせに、ニュートンやアインシュタインにはやたら義理立てしているように見える。“頭隠して尻隠さず”みたいなところがある。で、おれが言いたいのは、“慣性相殺航法”のこの奇妙なアンバランスが、SFの本質にかかわるものを持っているのではないかという点なのである。“嘘のつきどころ”にポリシーがあるのだ。作家それぞれ、作品それぞれに、“ここは譲れない”という線がある。『マッカンドルー航宙記』の場合、たまたまそれは科学者にとってあまりにも基本的であるがゆえに強力なニュートン力学や相対性理論だが、ハードSF作家ならずとも、一般的なSF作家にも、純文学的要素に重点を置くSF作家にすら“ここで嘘をついてはならない”という“縛り”が必ずある。同じSF作家でも、作品Aでは律義に守っている法則を作品Bではどうでもよいものとしていることは当然ある。が、同一作品内では、“ここで嘘はつかない”というポリシーは頑に守られているものだ。そのポリシーを作家はいちいち説明しないのだが、少し読んでゆくうちに、おのずと読者にわからせてしまう。それができないような作家は下手くそである。その世界の論理、その世界のノリを、語りに有機的に組み込んで表現できていない証拠だからだ。ちゃんとした技量のある作家が書けば、読者も「この作品では、こっち方面では嘘はつかないな」という作家の暗黙のメッセージを正しく受け取ることができるものである。
 ともあれ、SFのこうした“頭隠して尻隠さず”構造を、マッカンドルー教授の“慣性相殺航法”は非常に象徴的に表わしているとおれは思うのである。
 ついでだが、「ハードSFの人は、なんであんなに重箱の隅をつつくように科学的事実や論理的整合性にこだわるのか」という意見をよく聞くけれども、それを言うなら、純文学作家にだって、「この人物がこういう場合どういう想いを抱くものか、どうしても実感できない。うーむ、書けない」ということがあるだろうし、ミステリ作家にだって、「このトリックは反則だ。これをあえて使うのであれば、この人物があそこいらへんでナニなアレをカニしたことを匂わせるくらいの伏線が絶対に必要である」といったこだわりがあるだろう。ハードSF作家の場合、それはたまたま科学であるというだけの話である。
 じゃあ、科学的に正しいと考えられるようなことばかりが書いてあればハードSFとして面白いかというと、どうもおれにはそうは感じられない。科学というのは基本的にはこれ以上ないくらい地味なものだと思うので、地味なものを地味に書かれたのでは、どうしても小説としての面白みが欠けちゃうような気がする。地味な科学で華のある現象や状況を作り出してみせているものに、おれは読者としてわくわくするんだな。原理はシンプルなのに、そこから展開されるものにダイナミックな華があるってのがいい。そこにを感じるかどうかが、ハードSFが好きかどうかではないかと思う。ハードSFというのは、地味な科学に華のある驚異を展開させるプレゼンテーション技術ではないかとすら思うことがある。ほれ、子供にウケのいい“りかじっけん”ってのは、たいていそうでしょう。日常のありふれた事物が、“反直感的”counterintuitive なふるまいをするとき、「おおっ」と思うわけだ。子供のころに磁石が鉄片を吸いつけたり、同極同士で反発し合ったりするのに「おおっ」と思ったときの“わくわく感”が大人になってもずっと続いていて、たぶんおれはハードSFに“あのわくわく感”を求めているのだと思う。超伝導状態の物質の上に磁性体がふわりと浮かんでいるという、マイスナー効果のあのプレゼンを考えた人は、そういうわくわく感が背後にある健全ないたずら心とマーケティングセンスの持ち主だと思うな。あれを見れば、「なんじゃこりゃー!」と、ふつう思う。小学生であれば「磁石の同極が反発するみたいな感じなのかな」と思うだろうし、電磁誘導を知っている中高生であれば、「超伝導状態の物質が磁場を嫌うってのは、なんとなく感覚的にわかるような気がするな」と思うかもしれないし、量子力学的に現象の本質を深く理解した理科系の大学生であれば、ともすると抽象的に捉えがちな難解な数式に満ちた極微の世界の量子現象が、日常の巨視的レベルに立ち現われているのに感慨を覚えるだろう。それぞれに思うことは異なるだろうけれども、やっぱり「なんじゃこりゃー!」というわくわく感は同じだろうと思う。だからおれは、優れたハードSFなら、少なくともそのエッセンスは、誰にでもわかると思うのである。
 ありゃりゃ、シェフィールドからの連想でおしゃべりをしていたら、ずいぶん長くなってしまった。きちんとエッセイにでもまとめりゃよさそうなものだが、少々未整理でも気楽に思ったことを書き散らせるのが日記のいいところだ。
 あっ、ひさびさにマッカンドルー教授の宇宙船のことを考えたら、くだらないことを思いついた。あれをもっとずっと巨大にするのである。エレベータシャフトに地球が丸ごと入るくらいの巨大なマッカンドルー方式の宇宙船だ。シャフトは対称軸を回転軸として回転しており、一Gの遠心力を作り出している。マッカンドルー宇宙船のエレベータシャフトの部分が、巨大なスペースコロニーになっているわけだ。進行方向にはそれはそれは巨大な高密度の円盤があり、この巨大世界ごと五十Gの加速で宇宙を飛びまわっている。そういう設定を最初は一切隠して、コロニー内部で暮らす人間たちの不思議な日常を淡々と描写してゆくのである。そこは重力加速度遠心力コリオリの力とそれらの合力が支配する、はなはだややこしい世界だ。もちろん、中に住んでいる人々は、自分たちが五十G加速で宇宙を飛んでいるなんてことは知らず、物語が進むにつれ、じわじわと世界設定があきらかになってゆく。コロニーの回転軸に沿って歩いてゆくと、どちらに進んでもやがて身体に奇妙なテンションがかかって苦しくなってくるので、人間は円盤の重力と世界の加速度がちょうど相殺されるあたりに集中して住んでいる。なぜ苦しくなってくるのかについて、奇妙な宗教が形成されているかもしれん――なーんてことを考えてみたのだが、これって、作風からすると、いかにも小林泰三が書きそうな話だよな。この世界で野球やサッカーをするとどういうことになるかとか、嬉々として計算しそうだ。

【11月3日(日)】
『ちょびっツ』(TBS系)最終回。引っぱったわりには、ありきたりな終わりかただった。まあ、思いきりマス向けに作っているテレビ番組の限界ということもあるので、原作の終わりかたに期待しよう。こういうのを観たり読んだりするたびいつも思うけど、人間の“心”とやらはそんなにありがたいものだろうか? 人間のものとはまったく異なる“心”があってもよいのではないか? いや、あってほしい。それは宇宙のどこかからやってくるのかもしれないし、おれたち人間がいずれ造るのかもしれないし、はたまた、おれたち自身の“心”がいまとはまったく異なるものに変貌するのかもしれないが、とにかく、いまのおれたちの“心”とやらしか“心”がないなんてのは、じつにつまらない。まったく異質な“心”が現われてこそ、おれたちの“心”の正体にも、より近づけるのではあるまいか。外国語を学ぶことで、母国語についてより深い見識を持てるようにだ。
「女の母親」という言葉が背後のテレビから聞こえてきたので、ぎょっとしてテレビにふりむく。が、これは正しい表現であったのだった。つまり、こういう文脈だ。「○○県××市で、女が女児を殴り殺す事件がありました。この女は母親と暮らしており、女の母親は……」というわけである。うーむ、まちがってはいないよなあ。ニュースではけっこうある表現だろう。でも、このニュース、結局そのあと女の氏名を明かしていて、だったら原稿の早いところでとっとと「女」呼ばわりをやめて名前で言えば、こういう耳に奇妙な表現を使わなくてもすむのに、と思ったことであった。小説じゃないんだから、なにもサスペンスを考慮しなくてもねえ。

【11月2日(土)】
筒井康隆が紫綬褒章受章。いやあ、タイムマシンで二十年前のおれに教えてやったら信じないだろうね。そのうちノーベル文学賞を取ってもまったく不思議ではないと二十年前にも思っていたけれども、勲章となると意外だ。筒井氏も若いころなら蹴ったろう。あれくらいの歳になると、むしろ受けたほうがギャグとして面白い。「筒井康隆が勲章をもらう」というのがいかにブラックな冗談であるかは、愛読者がいちばんよく知っているだろう。筒井氏いわく、「名誉だ、ありがたい、というより『おもしろい』が先にくる。僕の読者もそう思っているはずだ」 はい、そう思ってます。
 だけど、勲章なら、すでにフランスの芸術文化勲章・シュヴァリエ章をもらってらっしゃるもんなあ。いまさら自国におずおずと紫綬褒章ごときを差し出されても、ノーベル賞のあとに文化勲章を差し出された大江健三郎みたいな気分だろう。大江健三郎とちがって、しれっともらってしまうところが、痛快に凶悪なわけだが……。
NTTが公衆電話の新規機種開発を三月末で打ち切っていたことが昨日あきらかになったそうな。現行機種が最後の公衆電話だとばらしたら、マニアが盗んでまわって、ますます絶滅が早まらんか?
 そもそも“公衆電話”って名前がよくないよな、名前が。“公”って字がついているだけでなんとなく堅苦しいうえ、ろくなことがないような不吉な印象を与える。不必要に金をかけて作ったような印象を与える。八時五十九分とか十二時五十九分とか十七時一分とかに訪ねていっても知らん顔で横を向いて新聞を読んでいそうな印象を与える。取り外すときにもすごく費用がかかりそうな印象を与える。こっそり余計に課金されているかのような印象を与える。かけてもかけてもかからず五、六台盥回しにされてようやくかかったと思ったらちょっとしかしゃべれないかのような印象を与える。意味不明の書類の意味不明の空欄をえんえんと埋めないとかからないような印象を与える。サラリーマンはわざわざ有給休暇を犠牲にしないとかけられないかのような印象を与える。とにかく、あんまりいい印象のない名前だ。“大衆電話”とでもしておけばよかったのかもね。でも、いまどき大衆なんていないから、“分衆電話”“個衆電話”かな。“アウトドアフォン”ってのはどうだ。なんか、キャンプ場かどこかになきゃならんみたいだな。おお、そうじゃ、“シティーフォン”がよかろう。シティーでなくても、とにかくシティーフォン。待てよ、NTTドコモ関西の料金プランには、「シティオ」ってのがあるんだよなあ(まだあったのか!)。よく考えたら、滅びゆく公衆電話の新しい名前を考えたとて詮ないことじゃて。
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『ロミオとロミオは永遠に』
(恩田陸、ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)
『アイオーン』
高野史緒、ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)
「Treva」で撮影

 『ロミオとロミオは永遠に』は、またもや予知したところによると、〈週刊読書人〉2002年12月6日号に寸評を書くにちがいないので、ご用とお急ぎでない方はリンク先の未来のページをご参照ください。〈SFマガジン〉連載時には、風呂敷を畳み切れずにかなりとっちらかった終わりかたをしたのだが、単行本化の際にはもっと整理されてタイトルの意味もあきらかになるにちがいない――と思っていたのだが、はたして、本書のあとがきにあるとおりである。たしかに一度聞いたら忘れない不思議なタイトルであるからして、成功しているんだろう。多少とっちらかってはいても、不思議と面白いんですなあ、これが。単行本での加筆は、筋をよりくっきりとさせるためではなく、部分の奥行きを出すためという感じだ。
 『アイオーン』は、大部分〈SFマガジン〉で読んではいるものの、まとめて読むとこれまたぐぐっと面白くなる予感がある。高野史緒の“歴史変調SF”(おれ用語に言う“augmented history”。もちろん“augmented reality”を意識した語である)には、いろんな読みかたがあるだろうけど、考えてみれば、人間なんていつの時代も同じようなことばかりしているわけだから、多少順番が前後しようがなにしようが、人間の話は人間の話としてちゃんと成立するのがあたりまえかもしれん。というか、むしろ時代をごっちゃにしたほうが事実以上の真実に迫れる場合もあるかもしれん。ある事物なり人物なり現象なりの本質を、のちの世にはじめて登場するなにものかが、より本質的に具現することがあるだろうからだ。『ヴァスラフ』(中央公論社)なんかは、とくにそう思ったな。ニジンスキーヴァーチャル・リアリティーであったほうが“ほんとう”なのであろう。それはつまり、貨幣は電子貨幣であったほうが、より“ほんとう”であるのに似ている。よりくっきりとエッセンスが立ち現われるという点に於いてだ。ニジンスキーをVRにしてしまうというのは、漱石の『それから』を“ひきこもり小説”と捉えるのと、発想は似ている、というか、ほとんど同じなのである。ま、格調はかなりちがうけどね。


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