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2004年12月中旬 |
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元暴走族の不良少年が、呑んだくれで借金まみれの噺家・笑酔亭梅寿(六代目笑福亭松鶴を彷彿とさせる)に弟子入りする羽目になり、気の進まぬまま修行を続けるうち、師匠の藝や人柄を通じて落語の魅力に目覚め、才能を発揮してゆく。落語の才能もだが、謎解きの才能も……。
最近また、もらったばかりの本の内容をなぜかすでに読んでしまったかのように“思い出す”ことができる予知能力が冴えわたるようになってしまった。絶好調である。それはともかく、田中啓文作品の主人公というのは、学習能力というものがないことが多く、しばしばひどいめに会いながらも、いっこうに賢くならないのが常である。ひどい場合は、騙されていることにすらまったく気がつかない。ミもフタもない言いかたをすれば、アホであることが多い。だものだから、この作品は、落語ミステリという点でももちろん異色なのだが、田中啓文読者にとっては、主人公が賢く、しかもちゃんと成長するという点で、ものすごく斬新な感じがするのである。いつものようなみごとな阿呆が描けるのは、このようなきちんとした清々しい成長物語が書ける筆力あってのことであるのだなあと、改めて感銘を受けた。
田中啓文作品は通常著しく読者を選ぶが、この作品はもしかすると、テレビドラマ化されることもあるのではなかろうかと思う。それくらい一般向けで、しかも面白いのである。そう、『部長刑事』の一本であっても不思議はないような、笑いと人情とミステリの短篇連作なのだ。筒井康隆だって『部長刑事』のシナリオを書いたことがあるわけだし、在阪の朝日放送がこれを見逃すとは思えないのである。ひょっとしたら、もうオファーをしているのかもしれないが、まだやったら、どないですか、朝日放送さん?
【12月19日(日)】
▼ダンベルのわっかを増やす。10kgのを半年ほど振りまわしていたらだんだん軽くなってきて、二十回くらいのカールはできるようになってしまったので、さらに5kg増やした。片手に15kgずつ、計30kgを振りまわすのは、さすがにけっこうきつい。カールは、六回から八回くらいでヘタる。筋トレには、ちょうどよいくらいか。有酸素運動には、小さいやつを両手に5kgずつ持って振りまわす。
リウマチが出て以来、母がふだん軽いものしか買って来られなくなってしまったので、瓶詰めやら液体やら、重めのものはおれが土曜日にまとめ買いしにゆく習慣になっているのだが、多いときは、やっぱり片手に10kgくらいずつにはなるんだよねえ。筋トレのおかげか、それくらいの量ならスーパーから提げて帰ってくるのも、さほど苦ではない。買いもの袋はカールしなくていいからね。なにしろおれは色男であるから、金と力がないことがむしろウリ(なんのウリだ?)だったのだが、筋トレがこんな具合に実生活に役立ってしまうことになるとは思わなんだ。まあ、乗りかかった船だ(なんの?)、20kg×2くらいまではめざそうか。
【12月15日(水)】
▼うわあ、ASIMOが走ってるよ。なんというか、はっきり言って、関節リウマチを患っているおれの母が、あわててトイレにゆくさまにそっくりだ。
【12月14日(火)】
▼《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。
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書影が入るようにしてみた。第五回小松左京賞受賞作。作者は一九四五年生まれということで、ずいぶんと遅いデビューである。まあ、海外では五十代でデビューしているSF作家だっているんだから、日本でもこういう人が出てきたというのは、たいへんいいことだ(たしか、かつての小説新潮新人賞をSFっぽいもので取った六十代の方がいらしたようなおぼろげな記憶があるが……)。
腰巻のアオリを読むと、冒頭から『バーチャルリアリティを使ったホラーゲーム「ダークキャッスル3」制作中に、主要スタッフが相次いで変死する』なんて怖ろしい文章。どう怖ろしいかというと、こんな陳腐な紹介をして大丈夫かと誰もが思うからである。だがしかし、瞬間的におれの頭をよぎったあーんな話やらこーんな話やらとたいして変わらんようなものが、「確固たる視点に裏付けられた、重量感あふれる迫真の作品 ――小松左京氏絶賛!」てなことになっているとはとても思えない。アオリやらあらすじやらにまとめてしまうと、やたら陳腐に響いてしまう名作というのはあるものだ。これはちょっと注意してかからねばなるまい。
それにしても、「あとがき」見ると、奥さんが原稿読んでくれてたり、息子さんがゲームと遺伝子工学について監修してくれてたりと、なんとも羨ましい話ではある。身内がこともあろうに小説などというヤクザなものを書きはじめたりすると、家族というのは、たいてい「バカなことはやめろ」と止めるか、下手をすると妨害をはじめるのが当然だという前提がおれなんかにはあるんだが(古いかね?)、こういう家庭もあるんだねえ。
【12月13日(月)】
▼《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。
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まだまだSFの小道具としての旨みもある量子コンピュータだが、そもそも実際それはどういう原理のコンピュータなのか、現実にどこいらへんまで実現されているのかをわかりやすく解説してくれる本である。量子コンピュータどころか、「コンピュータとはなにか」というところから、きちんと説明しているのには驚かされる。あまり厚くない本なのに、そんなところから初心者向けに解説を進めて、ちゃんと最後までには量子コンピュータの先端的な種々の試みまで説明しちゃうのだ。優れたポピュラーサイエンス本の手本である。つまり、“人並みの好奇心と理解力は持っているが、たまたま当該分野に関する知識は少ない”という読者が読んで、知的な楽しさを味わうことができる本だということだ。ポピュラーサイエンスって、そういうもんでしょう?
だもんだから、かえって“科学者”には書きにくい類の本だと思う。“ポピュラーサイエンスライターという専門家”の藝がなくては、量子コンピュータなんて小難しいものを、楽しく平易に(難しくなければならないところではちゃんと難しく)語ることはできないだろう。
こういう書き手が日本にも三十人くらいは欲しいところだ。楽譜は読めないし音痴だけど音楽を趣味として楽しむって人がたくさんいるように、専門家じゃないけど科学を趣味として楽しむって人ももっとたくさんいるのが自然だと思いませんか? そういう人が増えてくれば、優れたポピュラーサイエンスライターが多く出てくるのだろうが、優れたライターがいないと、趣味の科学人も育ちにくいんだろうしなあ……。はてさて、卵が先か鶏が先か。
SFファン的には、“量子コンピュータで演算したところ正しい答えが出たとすると、それはわれわれが正しい答えの出た世界を選び取ったからだ”といった例の多世界解釈にはさらりと触れているだけ。現象としてどうか、原理としてどうかという点に重点を置き、量子コンピュータによる演算なるものの“解釈”には意識的に踏み込まないようにしている点も、素人にはわかりやすくていい。われわれ地球の生物は、量子論的な現象に適応する必要のないマクロな世界で進化してきたのだから、直感的にわかろうとしても無駄、そういうもんだと思うしかないといったあっさりした割り切りをしていて、門外漢を悩ませる解釈地獄への道を避けている。まあ、その解釈のところが、SFファンには魅力的なのも事実だけど、これは一般向けの科学書であって、SFではないのだ――と、今日届いたばかりなのにまるでもう読んでしまったかのように言っているが、これはおなじみのおれの予知能力である。気にしない気にしない。
【12月11日(土)】
▼11月28日に地上波テレビで放映されたのを録画しておいた『座頭市』(監督:北野武)をようやく観る。うーむ、やっぱり面白いね。時代劇ってのは、こうでなくっちゃ。
クライマックスのたけし座頭市と浅野忠信との対決を観て、昨年劇場公開されていたころにさかんにテレビで流れていたCMの台詞を、おれは聞きちがえていたことが遅ればせながらわかった。あれは、「こんな狭いところで、刀そんなふうに使うんじゃダメだよ」じゃなくて、「こんな狭いところで、刀そんなふうに掴んじゃダメだよ」と言っていたのか。映画もテレビもご覧になっていない方にネタばらしをしてはまずいのだが、結局、あのCMの台詞は、非常に重要な台詞だったのだな。これはやっぱり『椿三十郎』へのオマージュと見るべきなのだろうな。というか、北野監督は、自分の『椿三十郎』がやりたかったんだろう。一対一の対面早抜きで刀のグリップが生死を分けるってのは、椿三十郎必殺の孤刀影裡流抜刀術を髣髴とさせる。髣髴とさせるが、もちろん単なる真似じゃない。椿三十郎とはまるでちがう刀の使いかたなのだが、居合い抜きらしからぬ刀の使いかたを座頭市がするという点で、椿三十郎との共通点を窺わせるあたりが巧い。
いやあ、しかし、おれも気がついたら、とっくに四十郎も越えちゃってますなあ。
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