間歇日記

世界Aの始末書


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2003年8月下旬

【8月31日(日)】
一歩さんのサイトで、「SFセンター試験」なるものをやってみる。今年の「第42回日本SF大会 T-con 2003」で行われたもののウェブ版だそうだ。やってみると、全然わからん。いや、わかるわからんという問題ではなくて、知らんことが多すぎる。読んだこともない作品からの出題がずいぶんあった。結果62点。ひでえなあ、やはり爺いには難しい――と思ったが、この結果発表に出ている中ではけっこう上のほうだった。だがじつは、おれの実際の点はもっと低いはずなのである。制限時間は二十分と書いてあったのだが、気がついたら三十分以上やってしまっていた。反則だ。
 まったく読んだことがない小説からの出題がうようよあって、どう挑んだかというと、作家の名前作品のタイトルから「ははあ、こういうノリの作品だな」とアタリをつけ、「選択肢2では風呂敷が畳めまい。選択肢3にしたほうがタイトルのノリにふさわしいし、おれならこうするだろう」といった具合に答えた。知らないのなら純然たる当てずっぽうで答えればいいものを、律義に“推理”してしまったため時間がかかったのである。いちいち答え合わせはしてないが、してみると、けっこう当たっていたのかな。
 でも、この試験、センター試験(おれたちの世代では共通一次試験と呼ぶ。受けたことないけどね)というよりも、私立進学校の中学や高校の試験っぽくないか?

【8月30日(土)】
▼最近、北野武監督の『座頭市』のCMが厭というほど流れ、台詞が耳に残ってしようがない。トイレで小便をしたあと滴を切っていると、なぜか頭の中にあの台詞が流れるのである――「こんな狭いところで、刀そんなふうに使うんじゃダメだよ」
 それはともかく、子供のころから気になっていることなのだが、“座頭市”の読みかたって、ふつう使われているアクセントはおかしいよね? “市”という名の座頭なわけだから、本来は「波頭、位置」と同じアクセントで読むべきなのではなかろうか? 世間一般に広く用いられている読みかただと、なんだか、ワケアリの座頭とかキズモノの座頭とか電車の中に忘れられていた座頭とか、ともかくいろいろな座頭を道端にずらりと並べて売っているような感じがする。「なっとういち」と同じアクセントではないか。思わず、「♪匂い控えめ、座っ頭市」と唄ってしまう。
 でも、おれが「波頭、位置」のように座頭市を発音しているかというと、そんなことはまったくない。ヘンだなと思いつつも、世間に合わせている。“アカトンボ”を“かとんぼ”などと、“ア”の音が高い江戸風に発音したりはしない。現代では、東京の人でも、例の童謡を唄うとき以外は、そんなふうに発音する人は珍しいだろう。えらいもので、以前、三遊亭円楽の落語を聴いていたら、ちゃんと“かとんぼ”と発音していた。プロだ。上方では“あかんぼ”だろう。おれもふつう“あかんぼ”と言う。「それでは、垢がこびりついたトンボということになってしまう」と、井上ひさしに怒られるかもしれないが、やっぱり“あかんぼ”だよなあ。
 面白いことに、近年、母の関西弁がおかしくなってきた。“まと”などと標準語で言う。ふつう、関西では“とと”と、“マ”にアクセントがある。“雲”も“も”などと言っている。ふつう関西では“蜘蛛”と同じで平板に発音する。最初、いよいよボケてきたのかと思ったのだが、そういう理由ではないらしい。母は怖ろしく非社交的で(まあ、おれも人のことは言えんが母ほどではない)、身体が弱いせいもあって、歳とともにますます世間と交じわる機会と時間が減ってきた。生身の人間と話す機会が減っている。そのぶん、テレビを観る時間が増えている。そうなのだ、驚いたことに、六十年以上も関西弁を使ってきたくせに、いまになってテレビの影響を受けているのである。母は元々自意識過剰気味で、人前でしゃべれない。さらに、大阪弁を激しく嫌う。標準語や京都弁は高級で、大阪弁は低級だと思っているのである(だが、おれに言わせれば、母のしゃべっている言葉は京都の中央部の言葉ではない)。神戸弁など世の中にないにも等しい。大阪弁も京都弁も神戸弁も、語彙や文法はかなり異なるが、アクセントはみんな基本的には同じようなものである。関東風のアクセントと対比すれば、同じ関西風のアクセントを用いる言葉だと括ることができる。母はあまり言葉に器用な人間じゃないので、上品にしゃべろうとすると標準語になりそこなった関西弁になる。そんな人間が、あまり地元の人と交じわらずにテレビばかり観ているとどうなるか。正しい関西弁のアクセントを、部分的に忘れてしまうのだ! 驚異である。
 おれはというと、最初に覚えた言葉が東京弁で、まだ幼いうちに関西に来たから、テレビっ子で本好きだったこともあって、標準語と関西弁をちがうものとして使い分けることができる。その気になってモードを切り替えれば、関西人だと見破れない程度には標準語が駆使できる。子供のころは、そのことにちょっとした優越感のようなものがないではなかったが、長ずるにしたがって、意識してどんどん大阪弁を使うようになってきた。兵庫県の大学に行きだしたころから、大阪弁度がいっそう上がった。大阪の会社に勤めるようになってから、ますます大阪弁が強くなった。おれは東京生まれで京都育ちのくせに、大阪弁がいちばん好きなのである。さすがに、「でんにゃわ」「まんにゃわ」「でっしゃろ」などはめったに使わないが、おれがふだんしゃべっている言葉は、大阪弁以外のなにものでもない。有名な「あの犬、チャウチャウちゃうんちゃう?」くらいのことは、無意識に言っている。公式の場では「お手元の資料3ページの先頭あたりに……」などとスカして言っているが、内輪の打ち合わせでは「3ページのドあたまに……」とツルっと口から出てしまう。これはいくらなんでも過剰適応ではないか、大阪弁というよりは単にガラが悪いだけなのではないかとも思うが、どうも“あたま”に“ド”をつけないと「いちばーん最初だぞーっ」という感じがしないのだ。人間の脳というのはじつに柔軟なもので、こんなふうになってしまったのも、やっぱり大阪で過ごす時間がいちばん長いからであろう。テレビやラジオも、全国ネットのものより、関西ローカルのものを好んで視聴してしまう。なんか、落ち着くんである。
 だものだから、母が“まと”などと発音すると、じっつに気色が悪い。関西弁が下手な役者が無理に関西人の役をしているような不快感に襲われる(母の場合、逆のケースだが)。『極道の妻たち』を観ているかのようだ。よっぽど、「ここは関西じゃ。それは、“とマと”じゃ」と直してやろうかと思うが、本人は自分が標準語のアクセントに影響を受けてしまっているなどとは、まったく気づいていないのだ。このまま放っておいて、今後どのくらいテレビの影響を受けるかを観察してゆこうと思っている。
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『アマチャ・ズルチャ 柴刈天神前風土記』
(深堀骨、ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)
『なぜ人はニセ科学を信じるのか I 奇妙な論理が蔓延するとき』
『なぜ人はニセ科学を信じるのか II 歪曲をたくらむ人々』
(マイクル・シャーマー、岡田靖史訳、ハヤカワ文庫NF)

 北野勇作作品はきわめて要約がしにくいといったことをここに何度か書いているが、その点、深堀骨(「ふかぼり・ほね」と読む)の作品は、たいへん要約がしやすい。本書『アマチャ・ズルチャ 柴刈天神前風土記』裏表紙のアオリがあまりに名文なので、全部引用することにする。これを読めば、「なるほど、そういう内容なのか!」と誰もが即座に全容を把握なさること請け合いである――

『その街では、謎の奇病「バフ熱」に冒された男が食用洗濯鋏に余生を捧げ、「蚯蚓、赤ん坊、あるいは砂糖水の沼」の三面記事ほどに陳腐な溜め息を吐くコインロッカーがあった。しかしときには、加藤剛をこよなく愛する諜報員が「隠密行動」を展開し、国際謀略に巻き込まれた茸学の権威「若松岩松教授のかくも驚くべき冒険」が繰り広げられる街。謎の物体「飛び小母さん」が目撃者たちの人生にささやかな足跡を残し、とある人妻とマンホールが哀しき「愛の陥穽」に堕ちたのもまた、この街の片隅だった。あるいはまた、「トップレス獅子舞考」が試みられた風俗発祥の地、江戸幕府を揺るがした「闇鍋奉行」暗躍で歴史に刻まれる街――そう、柴刈天神前。このありふれた街と人に注がれた真摯な眼差しと洞察をもとに、現代文学から隔絶した孤高の筆が踊り叫ぶ、愛と浪漫と奇蹟の8篇。』

 ね、わかりやすいでしょう? じつにありふれた街である。要約はたしかにしやすい。要約を読んでもわかりやすい。が、問題は、書いてあることはわかりやすいのに、なにが書いてあるかは要約からはさっぱりわからない点である。おれも収録作のいくつかはすでに読んでいるが、このアオリを書いた編集者には心から敬意を表したい。「私はすでに読んでいるからいいようなものの、こんなアオリ書いても、読者にはなにが書いてあるのかさっぱりわからないだろうなあ」と思いながらこれだけの名文をものする作業の不条理に対する戦きが伝わってくる。しかし、この要約はみごとに成功していて、読者は、なにが書いてあるのかさっぱりわからないがゆえに、激しく読みたくなってくるにちがいない。これが深堀骨である。しかし、いいなあ、食用洗濯鋏。おれは四十年以上生きているが、いまだに食用洗濯鋏ほどのものも作れていない。たぶん、これからも作れないのではなかろうか。人の一生とは、見果てぬ食用洗濯鋏を追い求めるだけのものなのかもしれない――などと、わけのわからない感慨に浸ってしまう不思議なものを書きますなあ、この人は。
 『なぜ人はニセ科学を信じるのか I・II』は、一九九九年に出たハードカバー『なぜ人はニセ科学を信じるのか UFO、カルト、心霊、超能力のウソ』の文庫化。文庫化にあたって、サブタイトルがかっこよくなっている。巻末にある訳者・岡田靖史氏の「文庫化にあたって」によれば、本国ではその後、一章ぶんを増補した版が出ており、今回の文庫化では増補分を補足することはかなわなかったということだ。増補された第18章のタイトルというのが面白い――「なぜ頭のよい人々は奇妙な物事を信じるのか」
 いやあ、ほんとにいつも、おれ、これ不思議に思うよ。訳者が「文庫化にあたって」でざっと内容を紹介してくれているので、「あとがき」やら「解説」やらは読まない習慣の方も、ぜひ最後までお読みいただきたい。『興味深いのは、「教育を受けた人ほど偏見をもちにくい」「受けた教育レベルが高いほど、迷信を信じない」「自然科学・社会科学の研究者のほうが、美術や人文科学の研究者よりも懐疑的傾向が強い」などの統計結果がある一方で、「科学知識の多寡は、超自然現象を信じる度合いとは関係がない」という結果が出ている点だ』ということなのである。たしかになあ、空中浮揚するとかいうグルの意のままに人殺ししたやつらも、スカラー波とやらを避けるために白装束纏ってうろうろしているやつらも、けっして頭脳の情報処理能力が劣るという意味でのバカではなさそうなんだよなあ。以前、この日記で『ウルトラマンガイア』に突っ込みながら書いた“知能と知性に関する考察のようなもの”を思い出す。知能的であるよりは、知性的でありたいものだ。ニセ科学の類に騙されないためにも。

【8月28日(木)】
大阪教育大付属池田小学校殺人事件の被告――などというスカした呼びかたは、この事件に関しては好かん――殺戮者・宅間守に死刑判決が出る。まあ、当然といえば当然だが、なんとも後味の悪い事件である。“後味”などという言いかたも適切ではなかろう。被害者の遺族や友人にしてみれば、これで終わらせられてたまるかという気持ちだろう。
 子供が子供の首切って校門の前に置いたり、さんざんいたずらしたあとでビルからゴミのように投げ落としたりといった事件に比べれば、宅間の事件は妙にわかりやすい。少なくとも、宅間守なる人物が、なにかに強烈な憎悪を抱いているらしいことはわかるからである。わかりやすいだけに、おれはなんとも気色の悪いものを感じる。
 宅間の生い立ちを鑑みるに、多少は情状酌量の余地はあるのではないかという考えかたもあるだろう。単なる逆恨みであるにしてもだ。逆恨みをするような人格に育ったのは宅間の罪なのか否か。人格だって脳の中で走るソフトウェアにすぎないと考えるならば、どんな凶悪犯だって、凶悪になるに至った最初の責任は本人にはないということになる。プログラムが妙な走りかたをした場合、悪いのはプログラムではなくプログラマである。宅間をプログラムしたのは、宅間が胎内にいて脳が脳として働きはじめたころからのすべての周囲の環境だ。みーんなみんな環境の巡り合わせが悪い。いや、環境に悪気なんぞない。
 このように考えれば、善人も善人である責任(というか手柄?)は本人にはないのである。マザー・テレサが偉かったのではない、マザー・テレサを作ったすべての環境が偉かったにすぎない――てなことになる。世界はミームのプールだとしよう。膨大な数の波源から出たミームの波が、あちこちで強め合ったり打ち消し合ったりしている。たまたま“宅間守”という点でさまざまな波が最悪の巡り合わせで重なり、深い深い谷になってしまったのだ。また、“マザー・テレサ”のところで最良の重なりかたをして、高い高い山になってしまったのだ。本人の責任でも、本人の手柄でもない。なるようになっただけである。
 ――という考えかたは、超自然的なものを導入しなければ、定性的には正しいだろう。おれは“魂”だのなんだのの存在を含めて、いかなる生気論的考えかたも取らない。だが、おれにはこの考えかたは気色が悪い。この考えかたは、人間の自由意志を排除している、というか、自由意志なんてものはないという前提に立っているからである。マザー・テレサを聖人だという人は、宅間守を、けっして生育環境の犠牲者などではなく、悪人だと認めなくてはならない。でなければ、その人の思想はウソだ。都合がよすぎる。人間の社会は、人間の自由意志の存在を前提として成り立っている。その前提がまちがっているとしても、人間の社会とはそういうものだ。よって、マザー・テレサが聖人なら、宅間守は悪人なのである。
 おれは、おれ自身には自由意志があることを前提に生きている。たとえ、それがまちがっているとしてもだ。宅間のような人間が現われるたびに、おれはこのようなことを考えてしまい、非常に気色の悪い思いをする。おれの知性は、有機物でできた機械に環境が最悪のプログラミングを施した存在として宅間のような人物を捉える。が、おれの感情は、宅間のような存在に“悪人”であってほしいと願う。宅間が悪人でなくては、おれの自由意志の存在が脅かされるからだ。おれの言っていることが、論理的にダブルスタンダードに立ってしまっていることは当然よくわかっている。わかっているからこそ、このダブルスタンダードを思い出させ、浮き彫りにしてしまう宅間のような存在が、はなはだ気色悪く、不快なのである。あなたもそう思いませんか? 早い話が、おれは――あるいは、社会は――自由意志なるものが存在するという前提を守るため、宅間のような不快な存在を消し去る当座の手段として、死刑を持っているのではあるまいか。おれは欧米の尻馬に乗っての死刑廃止論には、慎重な反対の立場を取る。冤罪の余地などない、明々白々たる凶悪犯のために、死刑を残しておいてやるべきだ。人間には自由意志が存在するという、まちがっているかもしれない、この社会の大前提を守るためである。人間には自由意志があるからこそ、“ひき裂いても飽き足らぬやつ”が存在する。存在するということにせねば困る。もっともおれは、現在の死刑を極刑だとは思っていないけどね。

【8月25日(月)】
“アナウンサーの悪夢”というやつを思いつく。それは水平線の彼方からやってくる。あああー、ゴー、ゴー、トリトーン――じゃなくて。双眼鏡で沖を見ていると、唐のほうから首長鳥の雄がつーーっと――じゃなくて。双眼鏡で沖を見ていると、三隻の大きな船がやってくるのが見える。赤い船と黄色い船と茶色い船だ。船はどんどん近づいてくる。あなたの双眼鏡は、三隻の船の名を捉える。あなたはそれを、全国放送で的確に報道しなくてはならないのだ。CMが終わった。キュー! 「赤万景峰号、黄万景峰号、茶万景峰号」
 さあ、三回言ってみよう!

【8月21日(木)】
▼やれやれ、ここ二週間ばかり、ワームやウィルスにふりまわされて、会社に行ってもろくろく仕事らしい仕事ができない。いっそのこと、行かんといたろかと思うが、そうもいかん。なにやらマスコミが騒いでいるので厭でも耳に入ってくるのだが、なんでも今年は、六万年ぶりに阪神が優勝するらしい。そのせいか、人智のおよばぬ不可思議な法則が、わけのわからない事件を呼び寄せているような気がする。そういえば、六万年前の一九八五年にも、ハレー彗星が来ていたような記憶がおぼろげながらある。さらに六万年前は一九六二年で、やはり荒唐無稽なことを好む“気”のようなものが、その年に生まれた者たちに生涯消えぬ悪影響を与えたという。あな、恐ろしや、阪神の優勝。このような吉兆だか凶兆だかが顕わなときは、元号を変えるのがよい。皇室典範を改訂して強引に改元し、今年を猛虎元年とでもしてはどうか。なんだかんだいって、野球にあまり興味のないおれだが、常連の方はご存じのように、根が判官贔屓なものだから、阪神が優勝するのはなんとなく嬉しいのである。新井素子氏に於かれては、そろそろ、「阪神が、勝ってしまった。2」の執筆準備に入っていただきたいものである。といっても、お若いSFファンの方々は、「阪神が、勝ってしまった。」なんて作品をご存じないかもしれないが、阪神ファンの方は、古本屋で『SFマガジン・セレクション 1985』(早川書房編集部編/ハヤカワ文庫JA)でも探し出して読み、この非現実感を噛みしめてください。


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