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2004年12月上旬 |
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文庫書き下ろしのホラーである。『縄の女』ではないので、『屁の王』のオンナのコ、気をつけるように。牧野修であれば、『縄の女』という作品を書いてもまったく違和感がないから、まちがえる人が続出するような気もする。『蠅の女』ってのはどっかで聞いたタイトルだな、荒木経惟がそんな写真集を出していなかったかなどと思う人は例外で、牧野修という名前を見ただけで、べつにヘノオウのコでなくとも、うっかり『縄の女』だと思い込んでしまいかねない。もっとも、アラーキーだって、『蠅の女』よりは『縄の女』のほうがずっとそれらしいのだが、まあ、とにかくややこしいから注意してくれたまえ。念を押すが、『蝿の女』もまちがい、『蠅の女』ですからね。蠅のほうがいやらしい字でしょ。
今日はおれの予知能力も調子がいいので、まるですでに読んでしまったかのように内容がありありと予知できる。カルト教団の怪しい儀式を目撃してしまったグループのメンバーが、一人ひとり、殺されてゆくのである。どうやら敵は、人に怖ろしい幻覚を見せたりするような超常的能力を持っているらしい。主人公を含む生き残りのメンバーは、藁にもすがる思いで、これ以上ないくらいに強力な助っ人を召喚する――。とまで書いちゃうと、ちょっと書きすぎか。ま、腰巻にもはっきり書いてあるからいいか。なにしろ『蠅の女』だしな。アイディアにさほど驚きはないんだが、さすがは牧野修、中篇を少し長くしたくらいの短さなのに、本の薄さに驚くほど、たっぷりと読ませる。冬の寝苦しい夜、“厭(イヤ)感”と痛快感(矛盾してるようだが、厭で痛快なんだ、ほんとに)に浸って清々しい悪夢を見たいという方は、お休み前にぜひどうぞ。
【12月7日(火)】
▼OECDが実施した国際的な学習到達度調査とやらの結果に、なにやらお上があわてているようだ。いまごろ気づいたわけでもあるまいに、なにをあわてているのであろうか。ろくに現場の準備もできていない状態で「ゆとりの教育」などというバカなことをやったのだから、ごくあたりまえのことが起きただけにすぎない。だから何度も言っているではないか、「日向にコップに入れた水を置いておいたら水の温度が上がるからといって、コップの水に湯を注ぎ足せば曇り空が晴れ上がるか?」 教育というのは本質的に“必要悪”以外のなにものでもないという認識もないお気楽な理想主義者どもにモルモットにされた子供たちが、いい面の皮である。「私の教えていることは正しい」と信じて教えている教師がおったら、そいつは阿呆だろう。「これが私の教えられる精一杯のことだから、おまえらは自分のために一度はそれを身につけてくれ。そして、願わくば、私以上のものを自分で見つけてくれ」と、先輩としての義務と“申しわけなさ”との葛藤を心の中に持ちながら、自分ごときが伝えられる程度の価値観を押しつける“必要悪”を毅然と行うのが、心ある教師だとおれは思っている。
とまあ、利いたふうなことをほざくのはさておき、ほんとうに子供がアホになっているのかどうかとなると、おれはやや懐疑的である。以前にも書いたのだが、「必要とされていない能力は伸びないという単純な話ではないか」ともなんとなく思うのだ。ほんとうに必要な能力なら、学校でなんぞ教えなくとも、子供はそれを日常生活、社会生活の中で勝手に身につけるんじゃあるまいか? おのれの子供時代をふり返っても、どうもそんな気がする。「数学的リテラシー」やら「読解力」やらが落ちているというのなら、学校がどういうメッセージを発しようがそんなものはあんまり影響なくて、社会が「そういうものは必要ない」というメッセージを発してしまっているのではあるまいか、と思うのである。もしそうだとすると、教育改革なんかよりもずっと根の深い問題だということになる。
おれは「数学的リテラシー」やら「読解力」やらがあったほうが、「人生なんぼか楽しいぞ」(「いい学校に行けるぞ」、「金持ちになれるぞ」じゃなくて、だ)というメッセージをちゃんと子供たちに発しているであろうか? 子供に触れる機会などあまりないにしても、「あのおっさんは、なんだかどうでもよさそうなことばかり知っていたり、どうでもよさそうなことばかりができるみたいだが、とにかくとても楽しそうだ」というメッセージを与えることができているだろうか? 大人一人ひとりが、「そうよ、こういうことができると、とにかく生きてて楽しいぞ。おまえもやれ」と子供たちにプレゼンできているかどうかが、つまるところ、その国の“学力”とやらにも影響してくるんじゃないかと、自戒を込めてそう思うね。
【12月2日(木)】
▼《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。
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も、ものすごい取り合わせの二冊の本が同じ日に送られてきた。これはなにかの辻占にちがいない。あるいは、誰かの企みにちがいない。なんか、前にも牧野修と森奈津子の本が同じ日に送られてきたようなかすかな記憶があるのだが、おれの勘ちがいだろうか?
『アシャワンの乙女たち』といったなにやら舶来の少女小説のようなタイトルは、牧野修がソノラマ文庫に書くときの定番になりつつあるようだ。なにしろ、前にソノラマ文庫から出したのが『乙女軍曹ピュセル・アン・フラジャーイル』([bk1][amazon])だからな。もう騙されんぞ。この『乙女軍曹ピュセル・アン・フラジャーイル』ってのが、どんな麗しい話だろうと思って読みはじめたら、なにやらジャンヌ・ダルクみたいな滑り出しだ。へえ、牧野修がこんなのを書くんだ、意外だなあ、バーナード・ショーの Saint Joan みたいな厭味な展開になるのかなあ……と、ちょっと英米文学科出の教養が迸る格調の高いことを考えながら安心して電車の中で読み進めていたら、ある箇所で、危うく声を立てて噴き出しそうになった。あ、あのなあ……。やっぱり、牧野修だったのだった。それ以来、おれは鼻歌で“あのアニソン”を歌うときに、「飛行車両形態!」と叫びそうになるのだった。
だもんだから、今度もそういうふうなものではあるまいかと期待してしまうのだが、あにはからんや、「あとがき」によれば、やっぱりそういうふうなものらしい。まあ、『これらは実は「ありとあらゆる物語や妄想や夢が互いに浸食しあって形成された宇宙」という、わたしの脳内設定から生まれている』と牧野修が言うように、そして実践してきたように、牧野作品はじつはみんな繋がっていると考えておいても差し支えなさそうだ。そうか、今度は「特撮もの」か。
『ゲイシャ笑奴(えみやっこ)』は、またもや官能短篇集、今度はレズビアンものをこれでもかこれでもかと集めてある。腰巻やアオリにある「叔母×姪」とか「女教師×女子高生」とかは、まあ、おれにも想像のつく範囲の組み合わせなんだが、「芸者×女秘書」ってのはなんだこれは? どんな話だか、さっぱり予測がつかん。芸者といえば、ふだんは探偵とかをやっていて、たまに唄ったり踊ったりする人なんだろうと世間の人は思っているであろうが、その芸者が、なにがどうなって女秘書と「×」で表現されるような関係になるのか、そもそもそれは誰の女秘書なのか、妄想は膨らむが、たぶんおれの貧困な妄想は大きく裏切られることになるのであろう。いやしかし、森奈津子、今年は絶好調ですねー。ようやく、時代が彼女に追いついてきたのか。
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