間歇日記

世界Aの始末書


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99年3月上旬

【3月10日(水)】
▼いっそのこと、国旗も国歌も新しく作ってはどうかね? 思い出したくない歴史も忘れず背負ってゆくべきだという目で見るのなら、たしかに日の丸や「君が代」を正式に国旗・国歌と定めることにも意味があろうが、そういう話はあまり聞かないよな。
 新しく作ったのでは薄っぺらでなんの愛着も持てないということであれば、日本人に最も親しまれている歌の中から国歌を選定してはどうか。おれとしては「赤蜻蛉」(作詞:三木露風/作曲:山田耕作)なんか最高だと思うね。
 まず、この曲を知らない日本人はおるまい。たいそうな文句はどこにもないにもかかわらず、この国で生まれ育った者の情緒にさりげなく、しかしこれほど深く訴えかけてくる歌がほかにいくつもあろうか。おれは負われてアカトンボを見た記憶もないし、山の畑で桑の実を小籠に摘んだこともないが、この曲を聴くと、その“ないはずの記憶”が鮮やかにどこからか蘇ってきて、わけもなく涙が出そうになる。由紀さおりみたいなポピュラー歌手としての唄いかたも悪くないが、みずからを楽器と化し、あからさまな情緒を抑制して歌っている鮫島有美子のクールなヴァージョンのほうが、かえって曲そのものの美しさがしみじみと感じられておれは好きだ。スーザン・オズボーンをはじめ、英語に訳して唄っている歌手もいるのはご存じだろう。歌詞はたいてい直訳調であまりいただけないのだが、外国語で聴いたとて、どこまでも日本的な香りがしてくるのは不思議である。国歌なんてものは、わざわざ外国人が自国語に訳して歌ったりはしないものだから、「赤蜻蛉」を国歌に制定したらきっと外国人は驚くぞ。「日本の国歌はすばらしいから、ぜひアルバムに入れたい」などと、あちこちの国の歌手から申し入れがあろう。
 象徴的にも申しぶんない。なんたって秋津洲ってくらいで、トンボは古来日本を象徴する昆虫でもあったわけだ。たしか神武天皇も、わが国土の形を眺め渡して「トンボがセックスしてるとこみたいやな」と(関西弁じゃなかろうが)おっしゃったはずであるぞ。
 問題は、十五で姐やが嫁に行ったりすると、どこぞの淫行条例に引っかからんかということであるが、法律や条例はどうか知らんが、きょうび十五にもなりゃ、やることやる子はやっとるから気にすることはなかろう。ちゃんと避妊しておれば、なんの問題もない。遅きにすぎるが、ピルも解禁になるし、めでたいことである。温室育ちの阿呆な子にかぎって、ろくな知識もなしにトンボのようにまぐわっては、世間体ばかり考える親にあわてて結婚させられ子供を生んで、育児ノイローゼで子供を殴り殺してビニール袋に詰めて生ゴミと一緒に捨てたりするのである。ろくに栄養も摂れず小さな子供が死んでゆく国もあるというのに、食べもしないものを殺すとはけしからん。なんとなく話がずれたような気がするが、まあ日記だからよろしい。
 「赤蜻蛉」を国歌にするアイディア、いかがなものでしょう? 紙幣にだって文化人の肖像を使っているのだ。国旗やら国歌やらになると、どうしてそう、国家だのなんだのと大仰なものにこだわるかね。なに、おまえこそ、どうしてそうトンボにこだわるかって? ううむ、ばれておったか。
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『慟哭の城XXX(トリプルエックス)』
田中啓文、集英社スーパーファンタジー文庫、集英社)

 それにしても、「あとがき」の書き出しがすごい。シリーズものの巻末解説を書いたことがある身としては、こういう捨て身の書き出しを食らわされると、これからこういう仕事が来たらどうしようかと苦笑してしまう。これは著者による「あとがき」だからできることで、第三者が「解説」でやるわけにはいかんだろうなあ(やって悪いことはないとは思うが……)。こんなちょっとしたところでも定型を捻らないと気がすまない“いちびり”精神に、田中啓文さんの正統派関西系SF作家の血を感じますなあ。

【3月9日(火)】
谷田貝和男さんも無茶をする。日記「夢の島から世界を眺めて」(98年3月8日)によれば、エスタロンモカの錠剤を一気に十錠以上(“以上”と曖昧なのがやたら怖い)飲んだことがあるという。「死ぬかと思った」って、そりゃそうだ。一回服用ぶんの二錠中、コーヒー三〜四杯に相当するカフェインが入っているわけでしょう。ということは、濃いめのコーヒーを二十杯以上一気飲みしたに等しいカフェインを摂取したんだから、目が醒めるなんてもんじゃないだろうね、これは。目玉が飛び出して、星のようにそこいらを飛びまわるにちがいない。
 なにをマンガみたいなレトリックをとおっしゃるでしょうが、ハムレットの親父だって真面目に言ってる台詞なんですからね。成仏(?)できないハムレットの親父の霊が“あちら”でどんな怖ろしい目に会っているかを聞いたら、目ん玉が飛び出て髪の毛がヤマアラシみたいに逆立つらしい。それってふつう、マンガだったら、餡の代わりにわさびが入っているアンパンを食ったときとかの描写だと思うんだが、どうもむかしのイギリス人の感覚はようわからん。
 とてつもなく怖ろしい目に会ったとき、英語で喋る連中は、hair curl して blood curdle するようだ。日本語だとふつう“血も凍る”んだが、どうもこれは英語からの直訳の“血も凝る”がなまったものなのではあるまいかと、おれは前から疑っている。どうなんでしょうね? 以前、Charles M. Shultz Peanuts で、hair curdle して blood curl するほど怖ろしい」というネタがあって大笑いした。なるほど、こちらのほうがはるかに怖ろしそうである。あ、そういえば、こういうのも malapropism 98年2月20日24日参照)だよね。
 うーむ。「エスタロンモカを飲んだ」と書くのも、インターネット上で危険な薬物の情報を流していることにはなるわけだよなあ。よい子のみんなは谷田貝さんの真似しちゃだめだよ。髪の毛が凝って、血が縮れてしまうぞ。

【3月8日(月)】

“わたしは、小さなプロダクションで映画を作っている一製作者であります。あなたの作られた「アストロ・ボーイ」を見て、NBCにあなたの住所を訊いてお便りするのですが、実は、こんど、わたしは、純粋なSF映画をひとつ作ろうと思っています。それは、二十一世紀の月世界を舞台にしたもので、科学的根拠に基づいた、シリアスで、真面目なドラマであります。ついては、あなたにその映画の美術デザインのことで協力を求めたいので、次のわたしのお訊ねにご返事いただければ幸いです。
一、あなたは英語ができるのか?
二、一年ほどの間、あなたが家族とはなれ、ロンドンのわれわれのスタッフといっしょに生活してもらえるか?
以上、なるべく早くご返事を賜れば幸甚です”
 
 そして、最後に、スタンリー・キューブリックと署名されていた。
『秘密の手塚治虫』石津嵐著、手塚治虫黙認、太陽企画出版)

 まあ、手塚ファンなら知らない人はいないエピソードであろう。ここに引用した手紙の文章は孫引用なのだが、あいにく原典の手塚自伝が見つからないので石津氏の著書から引かせていただいた。この手紙の受取人は十年前に世を去った。そして今朝、差出人の訃報がわれわれに届いた。
 おれは“あの世”とやらを信じないが、もしもそういうものがあるなら、完全主義者のキューブリック監督のことだ、手塚治虫をとっ捕まえてこう言っていることだろう――「あのときはあなたが会社を抱えていたために断られたが、さあ、今度こそお願いしますよ。皮肉屋のアーサーは一病息災で、まだまだ百年くらいあちらにいそうな気配だからね。彼が観にくるときのために、私は最高のSF映画を用意しておかねばならない。あなたの協力が必要だ。もっともあいつのことだから、それを観たらすぐに発奮して、最高のSF小説を書きはじめるにちがいないが……」

【3月7日(日)】
森下一仁さんの99年3月6日の日記「――みたらし――」を読んでいると、おなじみ「だんご3兄弟」の話が出てきた。「対抗して『産婆3姉妹』という曲(もちろんサンバのリズムで)を作ってはどうか」というアイディアですが、森下先生、往年のサディスティックミカバンド「マダマダ・サンバ」というのがありまして、どういう歌かと申しますと、子供が生まれそうなので早く産婆を連れてこい、産婆が見つかって無事生まれたはいいが、産婆が要求する報酬が高い、もっと安くしろ――とひたすら訴えるサンバなのであります。「お産婆さんのサンバ」というリフレインがあって、(礼金が高いから)「マケーロ!」などと叫び声が上がったりする、人を食った(しかし、音楽性は高い)傑作でございます。ちょっと、これを超える産婆サンバはなかなか出そうにありませんです、ハイ。
 ここはひとつ、お萩の丹波屋のCMに出演したりしている丹波哲郎氏に「タンバでダンゴ」でも唄っていただくより、「だんご3兄弟」の騒霊現象を鎮める手はないのではないかと思う次第です。

【3月6日(土)】
▼マクドナルドで昼飯を食う。今日は“チュインティーズバーガー”を注文しないようにと頭の中でゆっくりと練習し、自信たっぷりに注文してやった――「ツインチーズバーガー」
 どうだ、まいったか。
『ウルトラマンガイア』(TBS系)に呆然。一週遅れで放映される東海地方の方にはネタバレになっちゃうので書きにくいのだけど、ああ、ついにセーラームーン化がはじまってしまったのだろうか……。おれの予言(98年9月26日)は当たってしまうのだろうか。次回の予告篇で「ヴァージョンアップ・ファイトだ!」なんてことをナレーターが叫んでいて、ますます厭な予感がする。まあ、オープニングで必ず石橋けいが一瞬出るようになった点は高く評価したい。
エスタロンモカ錠剤があるのを先日発見し、このところちょいちょい使っている。「エスタロンモカ12」(エスエス製薬)というのだが、一錠中の無水カフェイン含有量は100ミリグラムカーフェソフト錠(エーザイ)が93ミリグラムだから、劇的にちがうわけではない。エスタロンモカ12のほうには、ビタミンB(1,6,12)が入っているので、総合的にはお得だろうな。二錠飲んで、しこしこ原稿を書く。

【3月5日(金)】
▼おれごときでも本を頂戴することがある。ありがたいことだ。たいへん助かる。だが、もらったからといって、つまらない本が面白くなるわけではないし、その逆もまた真で、本の入手過程がおれ自身の意見にいささかの影響も及ぼさないように、むしろおれはもらった本ほど粗を捜すような読みかたをして心理的バランスを取るくらいの心構えでいる。お隣さんにおすそ分けでいただいた料理を食って、「いやあ、奥さん、昨日のアレ、やたら塩辛かったですわ。ようあんなもん食えますな、わははははは」などとにこやかに感想を述べるだけ述べ、あとはなにごともなかったかのようにお隣さんと君子の交わりを続けてゆくような因果な精神構造を維持してゆかねばならない。基本的におれは淀川長治たらんと願いながら仕事をしているからまだいいようなものの、ぶった斬り型のスタイルを自分に課している方などは、たいへんだろうなあといつも敬服している。精神衛生に悪いにちがいないのだ。
 さらに精神衛生に悪いのは、いただいた本が物理的に読みきれない場合である。半年も一年も経ってから、「いやあ、あれは面白かった」「あれはつまらなかった」と言われたのでは送ってくださったほうも拍子抜けするだろうから、できるだけ早く読みたい。が、目先の仕事やら雑事に追われるのとおれの怠慢とで、早急に仕事で読まねばならないものを除いては、先延ばし先延ばしになってしまいがちだ。最初のころは「おお、もろたもろた」などとすぐさま読めたけれども、昨今なかなか全部には手が回らなくなってきた。ありがたいと同時に心苦しくもある。
 もうひとつ悩むのは、第三者がいる場所や公の場所でご恵贈のお礼を述べるべきか否かということである。「あんなやつに送って、うちには来ないのか」などと気を悪くなさる方があるとしたら、ご恵贈くださった方にも副次的に迷惑をかけてしまったりはしないかと心配してしまうのだ。「あの人がいろいろ謹呈されるのはあたりまえだろう」と誰もが思っている高名な文筆業者であればいざ知らず、おれが人前で礼を言うのは二十年早いのではないかと恐縮してしまう。しかし、だ。送ってくださった方にしてみれば、公の場でどんどん言及してもらうほうがありがたいに決まっている。とはいえ、読んだ本なら、たとえばこのウェブページや、人との雑談や、仕事上の文章で感想を述べたりすることもできようが、読めていないものの感想を述べるわけにもいかない。
 要するに、本を送ってくださったことに対する謝意と内容の評価とは別なので(あたりまえだ)、はてなんとしたものかと悩むわけである。
 そこでおれは考えた。もらった本は、この日記でとりあえず書名を出すことにする。まったく個人的にはじめたウェブページではあるが、読者のみなさまのご愛顧のおかげを以て、この最新日記ページのアクセス数は、プロバイダのログ上で一日に七百は超える。ReadMe!のカウント数から考えても、ある程度のリピーターは、四百から五百はいらっしゃるだろう。おれが好むと好まざるとにかかわらず、すでに数百部発行のミニコミ誌くらいの媒体になってしまっている。著者・訳者・編者・出版社等々から兼業SF紹介屋としてのおれに提供される情報は、おれが冬樹蛉名義で運営している個人誌〈 A Ray of Hope 〉へのプレスリリースであると解釈してもよかろう。提供された情報をどう扱うかの編集権と責任はあくまでおれにあるので、それに言及しようがしまいがおれの勝手ではあるのだが、「世の中にこんな本が出ている」という生情報として書名を出すことは、この日記を読んでくださっている方々に対しても、なにがしかのサービスにはなるはずだ。むろん、この日記の読者の多くは本好きのはずで、新刊情報は然るべき筋から得ておられると推察する。「あ、そういえば、この本が出ているのを忘れていた。明日本屋で見てみよう」くらいのお役に立てばいいだろうと思う。
 さて、そういうわけで、今後《ご恵贈御礼》をたまにやることとする。“SF紹介屋”としてのおれではなく、純然たる“個人”としてのおれに本をくださった方は、「なにも宣伝してほしくてあげたわけではない」とかえって気を悪くなさる可能性もあるのだが、そこはなにとぞご寛恕くださり、少なくとも書名を出すくらいの宣伝はさせていただきたい。ただ、その後その本を読んだ結果、批判的な評価や感想を述べることはもちろんあり得る。個人誌(ウェブページ)とはいえ、それはおれの仕事の一部でもあるからだ。本を頂戴するのはもちろんありがたい。しかし、おれはおれの文章の読者に対しては、批評家めいたスタンスで上からものを言うのではなく(そういう柄ではない)、同じ一読者、一消費者としての評価や感想を述べる案内役でありたいので、あくまで本というものは自分の金で買って読むのが基本だと思っている。もし、ありがたくもいただけた場合は、感謝の意は個人として表明し、内容の評価や感想は、SF紹介屋の冬樹蛉として述べる。どこかよその媒体、とくに商品として売られている媒体で意見を述べるのなら当然商品としての制約にある程度従うべきで、それに従えないときはなにも書かなければよいだけの話であるが、ここはおれのウェブページだから、おれの責任の下に好き勝手を書く。でなければ、ウェブページを構えている意味がない。
 今日は読者にとってはなんの意味もなく面白くもないことを長々と書き連ねてしまったけれども、一応おれはおれの姿勢を明確にしておくべきであろうと思ったので、説明がましいことをほざいてみた。
 なお、この日記での《ご恵贈御礼》では、とくに必要を感じないかぎり、どなたが本をくださったのかには意図的に触れない。本が送られてくる場合、「謹呈 著者(訳者)」「乞御高評」などと書いた短冊が入っている。入っていないこともある。ときに、いったいどなたがご手配くださったのか判然としないこともあって、お礼の言いようがなくて困ったりもするが、それはともかく、原則として、著者や訳者はご自分の負担でご恵贈くださっているのに対し、出版社が自主的判断で本をくださる場合には法人としての宣伝費を割いてくださっている。どなたがくださったのかを伏せることで、特定の個人や法人に副次的にご迷惑をかけるのを極力避けたいと思う次第である。
 でもって、《ご恵贈御礼》コーナー、初回だから、今年になってからいただいた本の情報をまとめて書いておく(手前が記事を書いた雑誌等は除く)。ご手配くださった方々には、篤く御礼申し上げます。

『やみなべの陰謀』
田中哲弥、電撃文庫、メディアワークス)
『スバル星人』
大原まり子、《ファンタジーの森》、プランニングハウス)
『幻惑の極微機械(ナノマシン)(上・下)』
リンダ・ナガタ、中原尚哉訳、ハヤカワ文庫SF)
『プラネットハザード(上・下)』
(ジェイムズ・アラン・ガードナー、関口幸男訳、ハヤカワ文庫SF)
『エンディミオン』
(ダン・シモンズ、酒井昭伸訳、早川書房)
『なぜ人はニセ科学を信じるのか UFO、カルト、心霊、超能力のウソ』
(マイクル・シャーマー、岡田靖史訳、早川書房)

 おっと、忘れていた。なんらかの方法でおれの住所を調べて、『われわれを見守ってくださる宇宙人様の教えに従い悔い改めましょう』だの『メールを出すだけで大金持ちになれる方法』だの『私の名はクリストファー・エリクソン』だのといった本を大量にご恵贈くださっても、そういうのははっきり言って迷惑以外のなにものでもありませんので、あえてお礼は申し上げません。あしからず。

【3月4日(木)】
▼大阪に「だんご3兄弟」があったら買ってきてくれと妹に頼まれたので、会社の帰りにCD屋に寄ってみる。欲しがっているのは、妹ではなく姪である。近所のCD屋に行ったところが、売り切れてしまっていたという。あれほど前宣伝が行き届いているのだ、そんなもん、予約しとかんと買えるかい。
 あるとすれば大量にあるだろうが、ないとすればまったくないだろう――と、CDシングルのコーナーを見渡すも、やっぱりない。無駄だろうが一応店員に訊いてみようと、レジのほうへ行こうとすると、ふだんビジネス街のCD屋に出入りしているとは思われぬ雰囲気のがさつなおやじがひょいひょいと店に入ってくるや、レジに直行し大声で言った――「兄ちゃん、だんごの歌ないのん?」
 やっぱりないのである。おやじのおかげで手間が省けた。家に帰ってみると、結局、妹は予約して買うことにしたそうである。「おっちゃん、(CD屋で買うのが)恥ずかしいんとちゃうかなあ」などと姪は心配していたそうであるが、なんの、おっちゃんの部屋のありさまをしょっちゅう見ている姪の言葉とも思えん。先日も別のCD屋で『ウルトラマンシリーズ主題歌全曲集'99』というのを買ったばかりだ。だんご3兄弟だろうが八木沢三姉妹だろうが、遠慮なくおっちゃんに頼むがよいぞ。
 子供番組から出たヒット曲といえば、やっぱりカーペンターズ Sing にとどめを刺す。Carpenters Live in Japan に入ってる日本語版はいいぞ。一九七四年の大阪公演のやつだ。一緒に唄ってる京都少年少女合唱団の連中も、いまごろはちょうどおれと同じくらいのおじさんおばさんになっておることだろう。余談だが、むかーしおれんちに遊びに来た友だちが、Carpenters Live in Japan のジャケットを見て、「カーペンターズは日本に住んでいます」と訳していたな。なんて頭のいいやつだろう。Sing には、スペイン語版 Canta だってあるのだぞ。やたら音節余りが多いうえに、なに唄ってるのかおれにはようわからんが……。
 よし、姪どもよ、待っておれ。いずれ英語を習うようになったら、おっちゃんが Sing の歌唱指導をしてやろう。いまは「だんご3兄弟」で喜んでいるがいい。おまえらが生まれる前にすごい歌手がおったことを、おっちゃんが教えてやるぞ。

【3月3日(水)】
広島県立世羅高校の校長自殺事件、まったくやりきれん。世の中には真面目な人がいるもんだ。いいかげんなおれなどには、この校長の心中たるやまったく想像の埒外にあるのだが、本人にしてみればたいへんな問題であったのだろう。真面目な人というのは、ほんとうに真面目なものなのである。気の毒としか言いようがない。99年2月15日の日記でも述べたように、やはりこのむちゃくちゃな世界では「己の正気を保つためには、ある程度は世間に合わせて自分も狂うという柔軟な姿勢が必要」なのにちがいない。個々人の精神を健康に保つには、文部省が狂っているなら、ある程度は調子を合わせて狂ってやらねば精神を病む。まったくもって先生というのは、繊細でありながら図太くなくてはやっていけない激務なのだなあ。この校長先生はこの“ある程度”のマージンが十分に取れない人だったんだろう。まあ、このままでは、これからもこういうことが後を絶たないでしょうね。「君が代」や日の丸には、一般的に考えられているのとはまた別の意味での、血塗られた歴史が刻まれ続けてゆくにちがいない。こういうやりきれない事件のおかげで、世羅高校の生徒はもちろんのこと、またもや多くの日本人が「君が代」や日の丸が嫌いになっただろうから、文部省もいったいなにをやっているのかわからない。逆宣伝の最たるものである。
 98年4月8日9日埼玉県立所沢高校“ふたつの入学式事件”絡みで書いたように、幻想と実態との“ずれ”は来るところまで来ているとおれは思う。その“ずれ”に挟まれて死んだり傷ついたりする人が、できるだけ少なくてもすむように、文部省には早く目を覚ましてほしいものだ。
 おれは、どちらかというと、愛国心が強いほうだ(これ、そこ、笑うんじゃありませんっ!)。この国が歴史と共に育んできた文化の精髄たる日本語を愛しているからである。では、その日本語を、言葉なるものを、軽〜いかる〜いものにするのに最も貢献してきたのはどういう人々かと考えてみると、まちがっても県立高校の一校長などではない。ほんとうの意味での“非国民”“売国奴”は、もっとずっと上のほう、国家の中枢に近いところにいるのではあるまいか。たとえば、国民が「君が代」や日の丸に対してろくなイメージを持たないように、それらがますますますます嫌いになるように、じつに巧妙きわまりない手口で工作をしているのは、なにを隠そう文部省なのである。おや、知りませんでしたか?
 そのむかし、どこぞの学校の卒業式だか入学式だかで「君が代」をジャズ風にアレンジして演奏した音楽の先生が物議を醸し処分を受けたという事件があった。アホか。すばらしいアイディアではないか。ジャズ風と言わず、ルンバだろうがサンバだろうがボサノバだろうが、ほんとうに宣伝する気なら、どんどんアレンジさせるべきである。なんなら、「君が代 baby, take me higher/千代に八千代に いま/君が代 Take me, take me higher/苔のむすまで 永く」などとV6にでも歌わせるといいぞ。オウム真理教の阿呆どもにすらわかっている宣伝戦略が、なぜ文部省にわからんのだろう。最近は、アニソンを流しながら走っている右翼の街宣カーだってあるのだぞ。

【3月2日(火)】
大森望さんの日記(99年2月26日)を読んで大爆笑。ううーむ、我孫子武丸さんといえば、おれの中では論理的な硬派のイメージが強かったんだが、あちこちの日記で語られる最近の我孫子武丸像は、おれの認識を改めさせるに十分である。「朱に交わればマグロマル」などと、むかしの人はいいことを言ったものだ。我孫子さんの新境地というか、潜伏していたもともとの性向というか、そういうものがいったい全体どこいらへんの刺激によって解発されてしまったのか、おれには皆目わからないと言えば嘘になることは大方の日記サーファーにはバレバレであろうが、うーむ、やっぱりそうなんだろうな。ジャンル間交流というのはたいへん重要である。《異形コレクション》シリーズ(井上雅彦監修、廣済堂文庫)は、日本文藝史のこういう部分にも、多大な影響を与えてゆくにちがいない。我孫子さんが“五番めのマンガ戦士”として完全に覚醒する日も近いであろう。日本の作家の中に、あと三人はこういう人が眠っているはずだ。いや、あと五人かもしれん。あと百三人だったら、ちょっと怖いものがあるが……。
▼う、うーむ。これはたぶんギャグなんだろうな……いや、しかし、この人はほんとうに困っているのかもしれん……。
 なにを悩んでいるかというとですね、おれのウェブページを見てくれた人からメールが来たんだが、冗談なのか本気なのか判別しかねているのである。とくに最低限の礼すら失するような非常識なメールでもなく、きわめてふつうの、真面目なお問い合わせだ。ほんとうに困っている人であれば差し障りがあるやもしれんのでお名前を出すのは控えるが、なんでもこの方は、社員旅行の“わかめ酒体験ツアー”なるものの幹事にされてしまったそうなのだ。こんなツアーを企画するくらいであるから、野郎ばかりの職場なのであろうが(もし女性がおったら“松茸酒”も出さねば不公平である)、そんなもんの幹事にされたら、おれだって大いに困るだろう。その点は同情できる。しかし、「わかめ酒を体験できる旅館等ご存じであれば教えていただけませんか?」って、おれに訊いてこられても困る。もしかするとおれは、知らないあいだに“わかめ酒の権威であるSF紹介屋”として世間に認知されつつあるのだろうか? そんなSF、紹介した憶えも書評した憶えも解説を書いた憶えもないんだがなあ……。
 あっ、そうか。たしかこの日記で一度だけ“わかめ酒”という言葉を書いたことがあった。97年11月29日の日記“女体盛り”をネタにしたときだ。だけど、べつにおれ自身が“わかめ酒”を飲んでうまかったという話をしたわけではない。川上宗薫先生がご存命でウェブページを構えておられるのなら、迷わずそちらのURLをお教えするのだが、まことに残念である。うちのサイトの「リンクワールド:SF・ファンタジー関係のリンク」を丹念にたどってゆけば、あいだに一ページ挟むだけで、たいへん高名な官能小説作家の公式サイトに跳べるけれども、この方が実践を伴うタイプの作家かどうかは存じ上げない(というか、実践すると犯罪になる可能性がきわめて高い)。作家としての取材はしておられるかもしれないが、まちがってもこの方に「わかめ酒を体験できる旅館等ご存じであれば教えていただけませんか?」などとメールを出さないように。きっとそんなメールもゲップが出るほど受け取っておられるにちがいないからだ。おれは面識も電識もないが、パソコン通信評論家としての顔も持っておられる方なので、手厳しくぶった斬られても知りませんよ。
 まあ、おれからアドバイスをしてさしあげることはできる。たしかにそういう特殊な飲酒方法があることは知っているが、おれは初対面の女性の協力を得て試みる気にはなれない。それこそ、口腔内にスピロヘータでも移されてはかなわないからだ。だが、そうした好奇心と、実験してみたいという精神には大いに共感するところであり、どうしてもやるなら、妙な微生物を飼っていないことが判明している女性、たとえば、配偶者や恋人やセックス・フレンドなどに協力をお願いし、個人的にお楽しみになってはどうだろうか? もちろん、相手が望むなら、同様の返礼も忘れてはならない。
 スピロヘータくらいならアルコールで死ぬ可能性は高いとは思うが、不運に不運が重なれば、どんな厄介な微生物を移されるかわかったものではない。厳密には生物とは呼びにくいがきわめて怖ろしい蛋白質と核酸の塊だって、世の中には存在するのである。確率は低くとも、あまりつまらないリスクは負わないほうがよい。やっぱりむかしの人はいいことを言う――「クンニ危うきに近寄らず」と。

【3月1日(月)】
先日も書いたようにドラマはいまいちの『犯罪心理捜査ファイル ボーダー』(日本テレビ系)だが、オープニング主題歌の『オフェリア』(中森明菜)はなかなかいい。こないだCD買って聴いてみたのだ。詞がシンプルでいいね。歌謡曲の詞は“詩”じゃないので、あんまり難解で高尚なイメージを展開してはいかんのだ。これくらいがちょうどよい。陳腐といえば陳腐なんだが、じゃあ、この陳腐なことが常人にこれだけ平易な言葉で言えるかというと、まったくそんなことはないのである。作詞の下郷亜紀という人をおれはよく知らないが、歌謡曲の作詞家としてプロですね。うまい。『ボーダー』だけ観てる人は、この歌に台詞の部分があることをご存じないかもしれないけど、これがけっこういいのだ。ちょっと聴くと赤面するような“はぁどぼいどぅど”な台詞で、平易な中にもクるものがある。フィリップ・マーロウに半日ほどついて歩いていたら、これくらいの台詞はすぐ集まりそうだ。“オフェリア”って誰やねんなどと言ってる人はいないでしょうね? 「涙の川に墜ちて/還らぬ人にならないで」とあるからには、やっぱりアレなわけやね。おれは“オフィーリア”のほうが好みなんだが、この詞では“オフェリア”じゃないと語感がハイカラすぎていけない。
 うむ。中森明菜の歌でいいなと思ったのは、これが二曲めである。一曲めはなにかって? 『スローモーション』だよ。


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