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97年1月下旬 |
【1月29日(水)】
▼普段のおれの丁寧な言葉遣いを知る女性から、「どうして日記は“おれ”なの?」と質問のメールが来た。この日記をはじめたころに一度書いたのだけど、ありがたいことに新しい読者がじわじわ増えてきたので、いま一度説明しておくことにする。
最初、この日記は“私”を一人称にして書いていた。でも、それではなんとなく日記というものが書きにくく、極力主観的にするため、また、このページのエッセイとも差別化するために、“私”をやめてみようと思った。“ぼく”という一人称は苦手だし、使いこなす自信がない。そこで“おれ”にしたところが具合がいいので、以後ずっと続けているというわけ。
こんなことは語り尽くされているけれども、WWW日記というのは妙なもので、不特定多数の人に見てもらうための(あるいは、見てもらい得る)日記なのである。その気になればこういうものが誰にでも書けるようになったというのは、人類の言論史上に於ける大きな事件のひとつだ。「人の日記読んでなにが面白い?」とよく言われるが、おれは人の日記を読むのが楽しい。というか、厳密には、「日記という本来人に見せないための文章の最たるものが、人に見せるための場所で、あたかも従来の日記であるかのように演じられている」さまが面白くてたまらない。こういう新たな言論形態になんの興味もないという人の言語感覚を疑う。また、WWWでほんとうに従来の日記を書いている人がいたとしたら、その人の感覚もどこかおかしい。
以前、某雑誌のホームページ紹介リンク集で大森望さんの日記について、「これを見てると日本の現代文学が衰退したわけがわかる」だの「エラソーに先生している」だのと好き勝手書いているのを見たことがあるが、WWW上の日記は必然的に“日記を演じている”ものなのであるから、「エラソーに先生している」ように読めたとしたら、そこがこの媒体の面白さなのだ。大森日記はそうした媒体特質に意識的である。この程度のこともわからないやつが、それこそエラソーに“現代文学”を云々したりホームページ評をしたりできる媒体なのだから、WWWというのはまったくもって可能性に満ちていると逆説的に納得したことであった。
というわけで、おれはここでは“おれ”なのです。お便りくれた方、わかっていただけましたか?
【1月28日(火)】
▼セガバンダイって、どこかで聞いたような語感だよなあ……と、ずっと頭に引っかかっていたのだが、昨夜やっと気づいた。いまに、“セガ=バンダイ・サイバースペース7”とかいうデッキが発売され、そこらの子供が電脳空間にジャック・インしては機密データを狙うようになるぞ。うーむ、ウィリアム・ギブスンはこんなことまで予見していたのか。
【1月27日(月)】
▼リクルートの「じゃマール」に関西版が出たので読んでみる。なんだ、パソ通の掲示板を紙に印刷してあるだけじゃないか。まあ、こちらのほうが品がいいみたいだけど。
関東の人はご存じないかもしれないので書いておくと、関西版創刊のテレビCMというのはこうである――鈴木紗理奈が「右にしか曲がれない自転車」の処理に困って「じゃマール」に投稿する。「いやあ、捜してたんですよー」と大袈裟に感謝するコミカルな服装の男がアップで登場。カメラが引くと、男と紗理奈の足元で、男と同じ服装のチンパンジーが自転車に乗って同じところをくるくる回っている――まあ、うまいっちゃうまいよね。雑誌の特徴がよくわかる。「そんなやつぁおらんやろぉ」と思わずツッコミ入れたくなるところが関西風。はて、関東版のときはどんなCMをやったのだろう?
読んでいると、『首都消失』(上・下)をなくしたので800円で譲ってくれという主婦やら、『ジョン・レノン対火星人』を定価の1.5倍以内でという学生やら、やけに提示額が細かいのが愉快だ。どちらも二冊ずつ持ってたら売ってあげるのだがなあ……。坂口安吾の『白痴』にハマってます、興味のある方お友だちになりましょうなんて二十歳の女の子がいたりして、こういう人とはぜひ一緒に堕落して褌を洗ってもらいたくなるわけだが、これってそういう雑誌じゃないよな。
【1月26日(日)】
▼妹の誕生日である。気がつけば、二人の子持ちの三十女になっていて、自分が歳を取る以上に不思議な気がする。おれ自身は主観的には二十歳くらいのつもりでいるのだが……。誰だ、笑ってるのは。
【1月24日(金)】
▼いやあ、嬉しいなあ。日野啓三の『光』(文藝春秋)をSFとして評価している人があまりに少ないので寂しく思っていたのだが、堀晃氏がホームページの「マッドサイエンティストの手帳 3」で、「昨年度のベストSFと信じている」とまで激賞しておられる。おお、やっぱりSFマガジンの投票で一位に入れてよかった。おれごときに勝手になつかれては堀氏がご迷惑であろうが、地獄で仏を見た(オーバーな)思いである。
堀氏が日野作品のファンだったとは初めて知り、やっぱりそうかと膝を叩いた。じつは以前、NIFTY-ServeのSF・ファンタジー・フォーラムに、『聖岩 HOLY ROCK』(日野啓三、中央公論社)を推薦する書評じみたものをアップしたことがあり、その中でおれは『バビロニア・ウェーブ』(堀晃、徳間書店)を引用して、その感性の類似を論じたのだった。なんのレスポンスもつかなかったため、「おれはものすごいトンチンカンを言っているのではあるまいか」と不安だったのだが、これで安心した。短い文章なので、ここに載せてしまおう。同志がおられたら、ご感想メールをいただければ嬉しく思います。
【1月23日(木)】
▼以前にも書いた例の巡回貸本屋が文藝春秋二月号を持ってきたので、筒井康隆の「断筆解禁宣言」をゆっくり読む。結局、文學界と新潮は貸本屋を待ちきれず買ってしまい、文春だけはざっと立ち読みですませていたのだ。事実関係や認識を覆される内容はなかったが、やはり読んでいると嬉しくなってくる。まさに、 a giant leap for mankind だ。もしも、「いや、女性にとっても巨大な飛躍だ」と文句がある人がいらっしゃれば、ここはインターネットで、おれのページだ。ほかの誰でもない、おれに抗議のメールをくださればいいのである。覚書もなにも要らない。
【1月22日(水)】
▼!!!FROGLAND!!!というとんでもないカエル・フリークのページがある。作者は Dorota さんという女性。まさにカエルと共に生きるという感じで、なんにであれ人間ここまで凝ると幸せであろうといういい見本である。あまりに感動したので、「あなたの名前は日本語では“泥田”、すなわちカエルのポピュラーな棲息地のことである。あなたはカエルを愛すべく運命づけられているのだ」みたいなことをしたためてメールした。ついでに、「カエル界にも言語のバリアがあるようだが、画像はユニヴァーサルである。小生の友人のページをエンジョイすれば、カエルへの愛は太平洋を越えることを理解なさるであろう」みたいなことを適当に書いて、ゲコゲコ大王さんのページを勝手に紹介した。あっ、異国人からファンレターが来て困っているというけろすけさん、ひょっとして、この人からじゃないですか(笑)? ゲコゲコ大王様か私のページからリンクをたどってそちらへ行ったのかも。なにしろ、あなたのページのバナーは、日本語を知らないアメリカ人が見てもカエルのページらしいとわかるでしょうからね。
それはともかく、「かくも素晴らしいカエルページは人類の偉大な業績に数えられよう」なんてことを、カエル好きのアメリカ人にわかるように、It is a giant leap for mankind. などと気軽に書いたのだが、あとになって気になった。相手は女性なのである。しかも、アメリカ人だ。 mankind というのは、 politically correct ではないなどと気分を害したやもしれぬと思い当たったのだ。しかし、 womankind としたのでは、元ネタを崩しすぎて面白くないような気もするし、 man-and-womankind と無理やりに書いても口幅ったくてやっぱり面白くない。 humankind が無難なところなのだろう――でも、面白くない。まあ、ああいうユーモアセンス溢れるページを作る人が、そうしたことに過度に目くじらを立てるとも思われないのだが。
【1月21日(火)】
▼あららら、昨日の日記に誤字がある。メジャーに“踊り出る”じゃない、“躍り出る”だ。ラッカーとかなら、なんとなく“踊り出る”でもいいような気もするけど。
▼今日発売の『ワイアード』を読んでいたら、だしぬけにジェントリー・リーの上半身ヌードが出てきたので、椅子から転げ落ちそうになる。あのー、『宇宙のランデブー』じゃなくて『宇宙のランデヴー』なんですけど、校正の人、次回からよろしく。
それにしても、世界中で共著として売ってるんだから、クラークファンなら知っててもあえて口にしないことを、クラーク自身が言うならともかく、自分から吹聴しないでよね、リーさん。サムライじゃねーな――と思うのはおれの勝手で、アメリカ人の知ったこっちゃないんだろうなあ、こういう感覚。
▼今日はむちゃくちゃに寒かった。京都に帰ってきてからは、歯の根も合わない。駅で帰りのバスを待ちながら神林長平の『ライトジーンの遺産』(朝日ソノラマ)を読んでいると、フェアリイ基地でもないのに雪が降る。いかにも寒そうな細かく固い雪がページに当たってぱらぱらと音を立て、悪意があるとしか思えない寒風がコートを透過して突き刺さってくる。やがて、あまりの寒さに文字が二重に見えはじめる。乾燥を防ぐため涙が多めに出るせいか、低温で眼球や水晶体が縮み焦点距離が変わりでもするのだろうか、面白い現象だ。さらに手が震えて本が小刻みに揺れ、風がページをはためかせる。そんなにおれの読書を邪魔したいか。なんのこれしきとそれでも読んでいると、ついには気が遠くなってきて、ようやく慌てた。もはや面白いどころではない。雪国でもないのに会社の帰りに行き倒れたのでは、それこそSFだ。なんとか家に帰りついて飲んだ焼酎のお湯割りのうまかったこと。税率の低いうちにできるだけ飲んでおこう。
▼ちょっと笑いたい人は、だまされたと思って、かえる新聞の最新号(1月20日号)をご覧あれ。
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