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97年7月下旬 |
【7月30日(水)】
▼一昨日書いた『失楽園』と携帯電話ネタで、もうひとつ特筆すべきことがあったので書く。
あれを観ていてお気づきの方もおられようが、不倫カップルを演じている古谷一行も川島なお美も、人目を忍んで携帯電話で話しているとき、なぜかアンテナを伸ばさない。どう考えてもあまり電波状態がよいとは思えない場所でも、頑なに携帯電話のアンテナを収納したまま話している。あれではまるでPHSではないかと思うのだが、画としてはああでなくてはならないのである。監督の注文にちがいない。
携帯電話のアンテナは長い。フルに伸ばすと、たいてい本体と同じくらいの長さがある。こいつをぴぃんとおっ立てて話していたのでは、いくら声をひそめてみても、堂々と話している画になってしまうのだ。マンガでいえば、アンテナから波紋状の電波がびんびんと広がってゆき、世間様に対して「私ら、不倫してるんでっせ〜っ!」と大声で放送しているかの如き図になる。ここはやはり、実際には相手に繋がるはずがないような状況でも、ぐっとこらえてアンテナを収めたまま、携帯電話を両手で包み込むようにして話していただかなくては風情もなにもあったものではない。
これは“映像の嘘”というやつである。観ている者に重要なメッセージを伝えるため、合理性を犠牲にしてでも、画を重視しているわけだ。手塚治虫は、よく“鉄腕アトムの角”を挙げていた(あれはホントは髪の毛なのだが)。アトムの角は、ユークリッド空間では、真横から見ると二本が重なって一本しか見えないはずである。だが、そんな絵はあったためしがなく、あの角はいついかなるときでも必ず二本見える。これは、そのほうがほんとうだからだ。映画なんてのは、こういう嘘の塊であって、だからこそある種の真実を伝えることができるのである。プロが撮ったり創ったりした画は、膨大な嘘の資産を観ているため、こうした“映像の文法”が内在化されてしまっているのか、どうしようもなく“絵になって”しまっているのが感じられる。事実をありのままに撮っているかに見えるニュース映像にすら、現場の光景をあるアングルから限られた大きさのフレームで切り取るという作為にプロの技(というか、習性)が出てしまい、不可避的に映像の嘘が入る。嘉門達夫が唄うように、川口浩はカメラマンと照明さんのあとに洞窟に入っているのだ。
こうした嘘は、人間の作るものには必ず入る。うまいと言われる人がやるほど入る。それを読むのもまた、創作を鑑賞する楽しみのひとつだ。事実をありのまま描いた(つもりの)ものが、受け取るほうにはこの上なく嘘臭く感じられることもあり、嘘の塊が受け手の中に紛れもない真実のかけらを生むこともある。世間では“作りもの”というのは悪いイメージのある言葉だが、おれは全然そうは思わない。受け手の中になにが生まれるかが肝心であって、物事をありのままに捉えることなどけっしてできない人間という生きものにとって、“作りもの”ほど大切なものはないとおれは思う。送り手は、ほんとうに伝えたいことを伝えるためなら、嘘でも魔法でも、なんだって使っていいのだ。
とかなんとか堅い話になっちまったが、テレビの『失楽園』のアンテナの話に戻ろう。ひょっとして、という予言なのだが、今後、あの不倫カップルと世間との関係性に変化が生じるにしたがって、アンテナが伸びることもあるんじゃないかと思う。終盤になってくると、二人とも携帯電話のアンテナを目一杯伸ばして喋っている――なんて演出もありじゃないかな。
【7月29日(火)】
▼『ニュースステーション』(テレビ朝日系)を観ていたら、Candy Dulfer が登場、すばらしいサックスを披露してくれた。かぁっこいいなあ。マニッシュなファッションのパツキンのおねーちゃんがサックスを吹くと、どうしてこんなにかっこいいのだろう。ライヴのビデオでも見つけたら買っちゃいそうだなあ。
かっこいいサックスのおねーちゃんといえば、Quarterflash の Rindy Ross はどうしているのだろうと気になり、ネットで探索してみる。お若い読者の方にご説明いたしますと、Quarterflash ってのは、80年代の一時期に Harden My Heart という曲でちょっとだけ一世を風靡した(笑)いわゆる“一発屋”バンドのひとつである。リード・ヴォーカルの Rindy Ross はソプラノ・サックスも吹いていた。あまり上手じゃなかったけども、恨みがましい声の女性ヴォーカルがサックスを吹くロックバンドという珍しさと、それなりの渋い雰囲気もあって、なかなか人気があった。
で、面白いページを見つけたのだ。Charles R. Grosvenor Jr.さんという人が作っている Chucky G's Eighties Web Pages である。この人、とにかく80年代が大好きらしく、音楽・テレビ番組・映画・政治などなど、80年代情報を集めまくって整理しているのだ。こういうページを押さえておくと、なにかの折に役に立つこともあろう。80年代バンドのコーナーには、「あの人はいま……」の情報もあり、見ていると懐かしさに涙がちょちょ切れる。Quarterflash は、ちゃんと(笑)解散していた。ベストアルバムが今年になって出ているくらいだから、忘れ得ぬ80年代バンドとして、いまもファンは多いのだろう。
最近のテレビCMを観ていると、The Knack の My Sharona だとか Chicago の Hard to Say I'm Sorry だとかをだしぬけに聴かされ、「ああ、おれと同世代のやつが企画・選曲してるんだろうなあ」と親近感を覚えることが多い。80年代というのは、おれにとってはMTVではじまったような印象がある。中学から高校にかけてはテレビを観るよりもラジオを聴いている時間のほうが長かった。辞書を引きひき歌詞を憶え、好きな曲が流れると一緒に歌ったりしたものでした(って、Yesterday Once More そのまんまじゃねーかよ)。80年代初頭には、画像付きで洋楽が楽しめるテレビ番組は、小林克也の『ベスト・ヒット・USA』(な、懐かしい)くらいだった。小林克也は、当時『百万人の英語』なんてラジオの英語講座で洋楽をネタに英会話を教える講師をやっていたりして、これだけ聴いてた人もいるんじゃないすか。それが、やがてMTVが上陸すると、画像なしでは音楽じゃないみたいな調子になってしまい、ラジオが完全に弱体化してしまったのだ。そんな時代の空気を察知したのか、Buggles の Video Killed the Radio Star や Queen の Radio Ga Ga など、ラジオへのノスタルジーを感じさせる歌がこのころいくつかありましたね、うるうる。
マクルーハンが“ホットな”のメディアの例としてラジオを挙げたように、ラジオには聞き手が能動的に関与してしまうなにかがある。ぼけーと観ているテレビとは、そのあたりの“巻き込まれ度”とでもいうものがちがうのである。おれがパソコン通信をはじめたころ(昨日、NIFTY-Serveから「満6年おめでとう」のメールが来てたな)、「あ、これはラジオだ」と直感的に思った。マイナーだが常連投稿者の付いているローカル局の番組の雰囲気にそっくりだ。インターネットのホームページは、まだまだほとんどがMTVが席巻しているような段階にあり、せっかくのホットなメディアをクールにしか使っていない。掲示板やメーリングリストには、“あの”ラジオ的な息吹な感じられるものも少なくないけれども……。おれはこのページを、できるだけラジオ的な良さを保持したものにしてゆこうと思っている。テレビを観るようにしかホームページを見ない読者(というか、見物客)には、敬遠されてもかまわない。
あっ、いかん。メディア論にまで話を広げるなら、きちんとエッセイにすりゃよかったな。ま、このへんのいい加減さと即興性がラジオなんである(笑)。
【7月28日(月)】
▼かなり視聴率を稼いでいるらしいので、話のタネにと『失楽園』(日本テレビ系)を初めて観てみる。小説も読んでないし、映画もCMしか観てないのだ。渡辺淳一は嫌いじゃないけど、『白夜』とか『神々の夕映え』とかあのへんが好きで、男女がどーのこーのという作品は生々しくていまひとつ好きになれない。同じ性を描いていても、吉行淳之介のほうが植物的でおれの好みに合う。あれは関係性のハードSFと言ってもいいくらいの緻密で人工的なものだ。
『人間・失格』やら『家なき子』やら、古典のタイトルをパクったドラマがいくつかあったが、これはまさか最初からテレビドラマにするつもりで小説のタイトルをつけたわけじゃないよな。どうも『失楽園』などと聞くとミルトンの小難しい詩を連想してしまい、黒木瞳や川島なお美の悩ましい恍惚とは十四万八千光年くらい隔たっているような気がする。学生時代に英文学講読でさわりを読まされたが、さっぱりピンと来ない。ミルトンより古いシェイクスピアのほうが、ずっと活きいきとしてわかりやすいと思った。要するにおれは宗教音痴なので、原罪なんてものは金輪際身体で理解できることはないだろう。現にここにこうしてあるものが、なんの因果で罪なのであるか、そんな理屈はわしゃわからんよ。
それはともかく、今回観ていて改めて思ったのだが、現代の小説家や脚本家にとって、携帯電話というのは恐るべき罠である。不倫の必需品だからといって濫用は禁物だ。ほら、少し前から刑事ドラマが様変わりしていると思いませんか? やたらテンポが速くて、なんとなく断続的な印象を覚える。こいつは携帯電話の仕業だと、ある日気づいた。
たとえば、刑事なり素人探偵なりが、偶然目にした看板とか日用品とかにトリックのヒントを得たりする場面がある。「あっ――」と彼は膝を打ち、むかしならここで公衆電話を捜すなり最寄りの電話を借りるなりのあいだに、思わぬ人物と遭遇するといった調子で話が広がったものだ。最近では、「あっ――」と膝を打ったかと思うと、もう懐から携帯電話を取り出して、自分の思いつきをどこぞの誰かに喋っている。いっそ、はじめから終わりまで、画面に登場する人物の誰かが必ず携帯電話で喋っているドラマを作れば、それはそれで面白い実験かもしれない。登場人物もあまり無駄に(?)移動しなくてもすむ。
携帯電話に頼りすぎると、コミュニケーションがスムーズに行きすぎて面白みがなくなる。携帯電話があれば、ロミオとジュリエットはまんまと駆け落ちしていたはずなのだ。また逆に、いまや完全に日常生活に浸透している道具であるのもたしかで、読者や視聴者に「なぜ、この人はこんな回りくどいことをするのだろう? ケータイ使えばいいのに」などと思わせてしまってもいけないのだ。厄介なことである。
先日、秋津透さんとチャットでこんなことを話していたら、「私もそれで困ったことがある」とおっしゃっていた。ちょっと意地悪かもしれないけど、小説を読んだりドラマを観たりするとき、携帯電話やPHSをどう効果的に使っている(あるいは、使っていない)かに着眼してみると、けっこう面白いよ。
【7月27日(日)】
▼終日、SFマガジンのスキャナー原稿を書く。深夜に電子メールで入稿。したがって、なにも事件らしい事件は起こっていない。いつもだって事件らしい事件はまったく起こっていないのに長々と日記(?)を書いているが、今日という今日は、くだらないことを考える暇もなかった。
さて、『敵は海賊・A級の敵』(神林長平、ハヤカワ文庫JA)の残りをゆっくり読むとしよう。おれはラジェンドラのファンである。あの絶妙な当てこすりが大好きだ。性格が悪いのだろうか。ラジェンドラのCDSがあったら、コンピュータ関係者は食うに困らない。「あの会社からは最近あまり注文がないから、そろそろやるか……」と狙いを定め、コンピュータを一気に破壊するのだ。西暦2000年問題って、客の側に立ってみると、これと似たようなものかもしれない。
【7月26日(土)】
▼台風が来ているというのに、どうしても外出しなければならない用事があり、バスで出かける。途中で予想外に風が強くなってきて、いきなり見当ちがいの方向から吹いてきた突風で傘が壊れた。骨が曲がるなんてものじゃなく、あっという間に骨が折れ、カシャカシャカシャンとアスファルトの地面を転がっていった。弱ったな。傘を買っておかないと、こいつのほかには折り畳みしかない。当初の用事をすませて、「傘がない〜」(古い)と頭の中で歌いながら帰路を急ぐ。台風接近のため16時に閉店しようとしていた近所の百貨店に飛び込み、閉店5分前に傘を買う。バスの時間はむちゃくちゃになっており、しかたなく百貨店から歩いて帰る。買った傘はもちろん使わない。ふだんなら徒歩15分だが、壊れた傘で強風と豪雨に立ち向かいながら歩くため、遅々として歩は進まず。「風速40メートルがなんだぁ」(ふ、古い)と頭の中で叫びながら、濡れ鼠になってようやく帰宅。バーンズの『大暴風』みたいなことになったら大変だと、つくづく実感した。台風が来るたび、のび太くんが卵から孵して育てた“台風のフー子”が、日本を襲う台風に立ち向かって消滅するという『ドラえもん』のエピソードをいまだに思い出す。これだけのエネルギーをなんとか利用できんものか。
▼テレビ朝日の『ザ・スクープ』で“エヴァンゲリオン現象”の特集をやっていた。表層的で、あまり面白くない。香山リカ氏がきっと出てくると思っていたのに、ご尊顔を拝することはできなかった。“朝生”で懲りてしまわれたのかもしれない。最後に入った台風情報に、気象予報士・小川隆という人が出てきて大笑い。“小谷真理”という気象予報士はいないのかな。
【7月25日(金)】
▼SFマガジン・9月号、話題の緊急フォーラム「SFの現在を考える」第4回を読む。ちゃんと義務教育を修了した永瀬唯氏と長山靖生氏が、梅原克文氏の“原理主義”を完全に撃破している。とくに永瀬氏の反撃は痛快ですらあるが、梅原氏の論はどう考えても意図的なパフォーマンスであって、あまりものを考えずに一種の洒落として吹聴なさっているのだから、ここまで本気に論として扱って反論して差し上げては、梅原氏がかわいそうだというものだ。ああ、ひとりの作家の言動に(作品に、ではない)寄せる感想として最大の侮蔑にあたる言葉をついに言ってしまった。
森下一仁さんも7月24日付けの近況で、「梅原さんの「法則」は無茶だから一応たしなめるのが筋でしょうが、作家の決意表明としてはあれで構わないと、森下は思う」と、例の“原理主義”発言について触れておられる。これにはおれも賛成で、“私の創作に於ける心構え”として表明する意見であればかまわないと、ここでも何度か書いてきた。が、先日、SFマガジンのような専門誌の読者を対象にしているとは到底思われない媒体で、梅原氏がSFマガジン・緊急フォーラムの“寄稿者”に喧嘩を売っておいでになるのを目にして、「これは梅原氏を買いかぶりすぎていたかな」とちょっと考えを改めた。梅原氏は“プロ作家”と名告るのがお好きなようであるが、媒体の特性を意識しない“プロ作家”があるものか。これは読者を無視した行為である。そう悟って梅原論を考え直してみると、この論は“大勢の読者の側に立っているように見せかけながら、そのじつ読者をバカにしている”ように強く思えてきた。「そこいらの読者には、多種多様の面白さを受けとめ理解する能力などないから、わかりやすいものを書いてさえやればよく売れるのである。そして、売れた作家はいちばんエライのだ」と言っているようにしか聞こえなくなってきたのである。あー、これはおれにはそう聞こえるようになってしまったというだけで、梅原氏が口に出して言ってるわけじゃないからね。そこんとこ、誤解のないように。
よって、それ以降、おれは個人的には、梅原氏の一連の“原理主義”発言を、誤った過剰な売名行為以外のなにものでもないと看做すことにした。作家が、「ああ、あのヘンな論とパフォーマンスの……」などと有名になってしまってどうするのだ。「あのすばらしい作品の……」と万人に知られるようになっていただければ、SFファンとして非常に嬉しいのであるが。
【7月24日(木)】
▼創元の小浜さんよりご依頼のリーディングをようやく終えて、レジュメと評価をメールする。さて、週末はSFマガジンのスキャナーだ。こっちは対象作をかなり前に読み終え、頭の中で評価ができているからあとは書くだけである。そのあとは次のSFオンライン、と。うーむ、おれみたいな遅れてきたSF青年(中年かな、もう)に絶えず仕事がいただけるとは、まことにありがたいことだ。とりあえず、スキャナー終えてひと息ついたら、夏休みということにしよう。
【7月23日(水)】
▼あー、暑い。そもそもが京都というところは、夏はじめじめと暑く、冬は切るように寒く、京都に住めたら世界中どこでも住めるなどと言われるほどの土地である。おれのように自律神経が狂ってる者には拷問だ。
この季節になると思い出すのが、子供のころに飲んだカルピスの味である。あのころのカルピスといえば、他所様はいざ知らず、少なくともおれの家では“やや貴重品”くらいの位置づけであった。濃いめに作って飲むと怒られる。で、母親が作ると、やたらと薄い、オナニーのやりすぎみたいな液体になるわけだ(それにしても、もう少しましな喩えはないのか?)。あの薄味もいま思えば、豚型の蚊取り線香入れと同じように懐かしい。
カルピスが貴重品であった当時、より格下の飲みものというのが当然存在したのである。それこそ、ワタナベのジュースの素にほかならない(と、突然、巽孝之になってみる)。おそらく、いまディスプレイの前では、のけぞって懐かしがっている人と、きょとんとしている人がいらっしゃるはずである。えーと、つまり、粉末ジュースでありますな。水で溶くと、いかにも身体に悪そうな、写生大会の筆洗の如き毒々しい色合いの液体ができあがる。これをむかしの子供はありがたがって飲んでおったのです。いつごろからか、まったく見なくなってしまったが、はて、あれはまだ売ってはいるのであろうか? その粉末ジュースですら、あまり濃く作るとやはり叱られたもので、自分で金を稼いでいるいまこそ、スプーンが立つくらいに濃いやつを作って飲み干してみたい――などと、トラウマを引きずっている三十代以上のおじさん、おばさんは全国にたくさんいることだろう。
【7月22日(火)】
▼東京創元社のリーディングが遅れているにもかかわらず、コバルト8月号を買う。コバルト買ったのって、いったい何年ぶりだろう。むかーしに一回買ったことがあるだけだ。今月のSFマガジンに初登場なさった田中啓文さんの「卵」というホラーが載っているということで、失礼ながら立ち読みですまそうと思っていたのだが、ふだん読まない雑誌だから興味が湧いて買ってみたわけである。ぱらぱらと見ていると、おれのペンネームって、ひょっとして少女小説系かもと思った。まあ、“虫”の字面ですっとぼけちまってるからだめかな。余談だが、巻末の執筆者紹介写真の田中さんは、つぶやきシローに似ている。
取り急ぎ田中さんの短篇だけ読んだが、うーん、やっぱりSFのホラーって難しいのかなあ。お話としては、若年層向けSF作品としてよくできている。だが、おれにはちっとも怖さが感じられない。おれがスレてるだけかもしれないが、「お、SFだな」と、そのつもりで読みはじめたが最後、なにが起こったって驚異こそ感じても怖さは感じなくなってしまうのである。やはりホラーというのは、あたりまえの日常がベースにあって、そこからずれてゆくところから怖くなってくるものなのだろうか? だとすると、SFでホラーをやるのはきわめて難しいはずだ。
必ずしもそうとばかりは言えないのだろうけれど、思えばSFで腹の底から怖いと感じたことはあまりない。半村良の「箪笥」とか筒井康隆の「熊の木本線」とか、ああいうのがおれは怖い。でも、ホラーじゃないよなあ。テレビの怪談を聞いても全然怖いと感じないし、死ぬのが怖いかと言えば、あれは“怖い”というより“痛いのや苦しいのは厭だ”という感じである。死そのものには、あまり怖さを感じない。おれのハードウェアとソフトウェアの機能が停止して、おれという現象が消えてなくなるだけの話で、考えようによっちゃすがすがしいことだ。それに至る過程が“厭”なだけなんだな。つまるところ、おれは怖さ音痴なのだろうか? こんなおれでも、子供のころはもっと“上等な恐怖”を感じていた記憶があり、「あのころの恐怖をもう一度」という渇望はあるのだ。ま、このへんはむかし「迷子から二番目の真実(19)〜 恐怖 〜」で書いたので、ここでは突っ込まないでおこう。手抜きだなあ。
【7月21日(月)】
▼以前、NIFTY-Serve・SFファンタジーフォーラム<科学館>のシスオペで琉球大学講師の前野(いろもの物理学者)昌弘さんが、“どこでもドア”の画期的な利用法を考案しておられた。出口側のどこでもドアを入口側のドアと同じ向きにして合板のように二枚を貼り合わせる。すると、入口から入ったものが瞬間的に入口から出てくるどこでもドアができるわけで、これは画期的なテニスの練習器になるというものである。SF者というのは概してくだらないことを真剣に考えるものだが、超紐理論の研究者である前野さんは、こんなことをしょっちゅう考えているのが職業なのだからたいへんだ。ひょっとしたら、ドラえもんにだってパタリロにだって便所の落書きにだって、大発見のヒントが隠されているやもしれないのだ。片時も気を抜かない武術の達人のようなものである。
しかし、このテニス練習器、壁打ちとは勝手がちがいそうだ。壁打ちをしているのなら、ボールは壁に当たったところから跳ね返ってくるだけだが、どこでもドア練習器では妙な跳ね返りかたをするんじゃなかろうか。いま、長方形の“どこでもドア・テニス練習器”の重心を原点(0,0)とするxy座標を考えてみよう。おれの打ったボールが(3,2)からどこでもドアに吸い込まれたとすると、その瞬間、ボールは(−3,2)から飛び出してくるはずである。(−3,−2)から飛び出してこないだろうことは、ドラえもんたちがどこでもドアを使っているところを見ればあきらかだ。彼らは逆立ちして出てくるわけではないからである。こいつは、壁打ちよりいい練習になるかもしれない。では、ボールがy軸に命中したらどうなるだろう? 当然、どこでもドアに入ってゆこうとするボールは、どこでもドアから出てこようとするボールに当たって跳ね返るにちがいない。おれはここでは、どこでもドアを瞬間移動装置と捉えているから、入るときと出るときは厳密に同時であると仮定している。移動に時間を要するものだとしたら、仮説を修正しなくてはならない。
さらに妙なことを考えてみた。上記のテニス練習器の面が地面と水平になるように設置し、“どこでもドア・トランポリン”にしてみたらどうなるのであろうか? 両足を揃えてぴょんと飛び込むと、どこでもドアに吸い込まれた足が、自分の目の前に下からにょきりと生えてくる。胸、首、頭と吸い込まれるに従って、同じ順序で自分の身体が倒立して現われる。ところが、重力が働いているだろうから、倒立して現れた身体は、すぐに頭からドアに落ちてゆき、同時にドアから頭が生えてくる。どこでもドアの外には空気抵抗が働いているだろうから、何度か振動を繰り返すと、やがて風呂桶に放り込んだ空のシャンプー容器のように、仰向けになった“前半身”とうつぶせになった“後半身”が、どこでもドアの面にぽっかりと浮かんでいるという不気味な状態で安定するであろう。ではでは、最初にどこでもドア・トランポリンのy軸上に着地(?)したらどうなるであろうか? 理屈からいけば、どこでもドアに入ってゆこうとする足の裏は、出てこようとする足の裏とぶつかり、空中に立っている状態になるはずである。待てよ、そもそも、どこでもドア・トランポリンの上や下の空間では、重力はどのように働くのだろう? うーむ、わからん。
ま、とにかく、たまにはくだらないことに頭を使って、新しいスポーツ用品を考案してみてください。
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