間歇日記

世界Aの始末書


ホームプロフィール間歇日記ブックレヴューエッセイ掌篇小説リンク

← 前の日記へ日記の目次へ次の日記へ →


97年8月上旬

【8月10日(日)】
▼夏休み最後の日。たまにはステーキでも食おうと、初めての肉屋で母親が買ってきた肉が大ハズレ。脂がまずいのなんの、ふた切れも食うと胸が悪くなってきて、茶で流し込むようにしてほとんど食ったが(それでも食うところが哀しい)、さしものおれも残す。病死肉じゃねーかと心配する(それでも食うところが哀しい)。どこをどう流れてきた肉だかわかったものじゃない(それでも食うところが哀しい)。安もの買いの銭失いとはこのことだ。親子でクロイツフェルト・ヤコブ病にでもなったら、白骨化するまで発見してもらえんぞ。
▼ビールの肴に焼き鳥の缶詰を開けていると、ふと疑問が湧いた。缶切りのメカニズムと形状は、缶詰の形状に依存している。また、缶詰の形状は、缶切りの存在を前提としている。缶詰は最初からこのような形だったのだろうか。それとも、あとから出現した缶切りに合わせて、缶詰の形状にも改良が加えられ現在のような姿になったのだろうか。でなければ、缶詰と缶切りは同時に発明されていなければならない。同時に発明されていないとすると、缶切りが缶詰より先に発明されたはずはなかろうから、きっと缶詰の黎明期にはなにかちがうものを缶切りの代用にしていたはずだ。それはなんだろう? たしか缶詰はナポレオンの時代だかにフランスで発明されていたはずだが(うろ憶えだから、まちがってたらごめんね)、缶切りの発明の話というのはあまり聞かないのだ。草野仁(草上仁ではない)に投書してクイズの問題にしてもらったら、粗品くらいもらえそうだな。

【8月9日(土)】
The Official A.A. Attanasio Website などというものが、いつのまにかできていた。といっても、おれは古沢嘉通さんに借りた The Last Legends of Earth しか読んだことがなく、あまり詳しい作家じゃない。これを読んだぶんには、テクノロジーが十分に発達しすぎて見かけはファンタジーになってしまっている(笑)ハードSFという感じだったなあ。ファンタジーの道具立てを科学で説明しちゃうんだよね。あれ、こう言ってしまうと、どことなく Catherine Asaro に通じるものもあるかも(笑)。
 それはともかく彼の公式ページでありますが、はっきり言って、非常に趣味が悪いうえに、はなはだ読みにくい。アクセスすると、マグマ大使のゴアのようなおやじが上目遣いに見上げている不気味な画像がばーんと出てくる。作家の顔が見たいというファンの要望に応えようという意図かもしれないが、おじさんなんだからもう少し控え目な写真にしてほしいなあ。大原まり子さんや菅浩江さんがトップページに出てくるのを見慣れている目には、刺激が強すぎる。また、きわめて自己主張の強い壁紙は、あたかも来訪者にテキストを読ませまいと努力しているかのようだ。おまけに、トップページのカウンタは三か月で175(そのうち2回はおれ)って、一日ふたり弱である。孤高のスタンスにもほどがある。日本ですら、いま大きな洋書店に行けば、The Dragon and the Unicorn のペーパーバックが見つかる確率は高い(先日おれは見た)。昨日や今日デビューした人じゃないのに、これがほんとうに公式ページだとはにわかに信じ難いほどだ。 Linda Nagata 氏のページがリオのカーニバルのように思えてくる(ここはハイセンスだが、なぜか来訪者が少ない)。ファン層にインターネット族が少ないということも考えられるが、もう少しホームページ作りに慣れたファンがブレーンに着いて、デザインとかPR戦術とかアドバイスしてあげるべきだと思うなあ(すでにそういう人が作っているのだったりして)。

【8月8日(金)】
▼久々に茹でトウモロコシを食う。といっても、スーパーなんかで売ってる真空パックのお手軽なスイートコーンである。おれはトウモロコシが大好きだ。ほら、ケンタッキー・フライドチキンで出てくるコーンがあるじゃないか、あれはなんつったっけな? あれを米の代わりに毎食食ったっていいと思うくらいだ。丸ごと焼いたやつもいい。縁日の屋台とかでぷんぷんいい匂いさせていると、くー、たまらんなあ。ウィスキーだってバーボン党だ。
 愛しのトウモロコシの真空パックを切り、中身を電子レンジで温めているあいだ、パックに書いてある「お召し上がり方」を読んで爆笑する。「袋から取り出しそのままお召し上がりできますが……」だと。ふつー「お召し上がりになれます」だよなあ。原産国は中国と書いてあるから、もしかすると中国人が辞書でも引きながら「お召し上がり方」を書いたのか?? まあ、そこはかとなくエキゾチックな趣があって面白い。日本人ネットサーファーのために怪しい日本語が書いてある海外のアダルト・サイトに遭遇したかのような面白さだ。ありそうじゃないですか、「小さい娘をクリツクすると、大きい画像の爆薬娘がご覧できます」とか(笑)。

【8月7日(木)】
▼ホテルから送った袋が宅急便で届く。よくよく考えてみると、コンビニで買ったクロネコヤマトの袋をホテル御用達のペリカン便で送ったのだった。ペリカン便の人、運ぶの厭だったろうなあ。マイクロソフトとアップルが提携するご時世だ。通りすがりの人に、「あら、ペリカンとクロネコも一緒になったのね」などと思われかねない。
 坂口哲也さん(ソニーコミュニケーションネットワーク)に「ポストペット」のPR用“クマの耳”をもらったのだが――


← これの耳ね

(ちなみに、これはフリー画像。ポストペットのページに、ほかのキャラのもあるよ)



――はて、どこに貼りつけたものか。おれはカチューシャとかティアラはしないし(したら不気味だろうな)、パソコンのディスプレイに貼ろうにもノートだから貼る場所がない。そうだ、うちにあるぬいぐるみに貼りつけて改造してやれ――と、耳が似合うぬいぐるみを捜しはじめた。新井素子氏の足元にも及ばぬ数だが、おれはこう見えても(どう見えてもだ?)けっこうぬいさんが好きだ。新井氏唯一の翻訳書『ぬいぐるみさんとの暮らし方』(グレン・ネイブ著、新井素子・土屋裕・共訳、新潮社)だって、ちゃんと買って読んだくらいだ。住宅事情もあって、進んでぬいぐるみを買うことは滅多にないが、人にもらったりゲーセンで取ったりした小ぶりのぬいさんはたくさんあるのだ。
 まず、むかし女性にもらった(男性にもらったら気持ち悪いぞ)ぼのぼのに試着させてみたが、どうも色が合わない。冷蔵庫を買ったときについてきたペンギンもいまひとつだ。次にスナフキンを試すも、帽子が尖っていてよくない。明治製菓の“カールおじさん”に麦藁帽子の上からくっつけてみると、これがなかなかファンキーでいい。メフィラス星人の化けたカールおじさんのようだ。
Primary Inversionなどでおなじみ、新進気鋭のSF作家にして職業科学者にしてバレエの先生、Catherine Asaro 氏のホームページがいつのまにかできていた。ひととおりの情報は揃っているし、試し読みコーナーもある。三人称で書いてあるからメンテナンスは人に任せている可能性もあるが、少なくとも内容は本人が書いているとおれは踏んだ。AltaVista で検索してみると、AltaVista のロボットが8月7日に捕捉したテキストでは、自己紹介が"I'm a theoretical physicist"となっているのに、実際のページでは、"Catherine Asaro is a theoretical physicist"と三人称に変わっているのだ。公開した途端にファンメールやいたずらメールが殺到したため突き放した表現にしたのかとも思うのだが、彼女の経歴を読むと、三人称にしたくなる理由も推測がつこうというものだ。あまりに立派すぎるのである。これを一人称で書いたページに載せたのでは、いくら自己主張の強いアメリカ女性だといっても、自慢たらたらに見えかねないくらいものすごい経歴だ。おまけに、彼女の夫君はNASAの科学者だし、これはホームページには書いてないが、父君も恐竜絶滅の原因が隕石の衝突である説を最初に唱えたグループにいた科学者だということだ。要するに、サラブレッド科学者なんだが、どこでどう道を踏み外した(笑)のか、SFを書いてくれたのは嬉しいことである。もちろん小説は経歴で書くものではないにしても、きちんとした科学知識と方法論を身につけた本職の科学者がSFやリーダビリティーの高い科学エッセイをものしてくれることは、噴飯ものの「ちょ〜」科学やオカルトが蔓延している昨今、次代の送り手・受け手を育成する観点からも非常によいことだ。まあ、本職の科学者が“トンデモ本”を書いているケースも少なくないけれども……。
 こういうタイプの女性SF作家は日本からは残念ながら出ていないので(海外でも少ないだろう)、とても貴重な作家だと思う。失礼な言いかただとは承知だが、作風からしても“女シェフィールド”みたいな人だと思っていただければ、大まかには当たっているだろうか。ここでも何度か書いたように、本格ハードSFとイカニモイカニモのスペオペの幸福な結婚なのである。石原藤夫氏や橋元淳一郎氏が女性だったら……などと考えると、日米の教育環境や学術環境のちがいに関心を寄せずにはいられない。日本にもこんな女性が現われてほしいなあ。

【8月6日(水)】
▼今回の上京最終日。朝起きて、広島の平和記念式典をホテルのテレビで観る。午前八時十五分、黙祷。おれも毎年これは電車の中でやる。この日この時刻には、電子手帳やポケコンに年次でアラームが設定してあるのだ。縁なき衆生のおれが黙祷などするのはおかしいではないかと、おれの日記を読んでくださっている方からご指摘があるかもしれないが、そのとおり、おれは死んだ人がどこぞでこの式典を見ているなどとは毛頭信じていない。あれは生きている人が二度とバカなことをしないようにとやっている式典である。遺族感情を逆撫でするつもりはないし、親しかった人の魂(かなにか)がどこかで安らかに存在し続けていると信じたい気持ちは、おれにもよくわかる。だが、そういう気持ちがわかるからこそ、おれ個人は敢えてそうは考えないことにしている。死んだらその人は消滅すると思っている。おれが黙祷するのは、もっと生きていろいろなことができ、いろいろなことが考えられたはずの大勢の人々が、無念にも生を絶たれてしまったという、取り返しのつかない事実に対してである。人類がとうとうみずからを滅ぼせる力を得てしまい、それを同胞に向けて使ってしまった事実に対してである。祈って無念の魂が慰められるのであれば、もう一度同じことをしたときにも、祈って慰めればすむことだ。そういう逃げ道があるかぎり、人間は何度でも同じことをやるにちがいない。「ゴメンですめば警察要らん」などとよく子供のころ言っていたものだが、死後の世界だのなんだのは、ゴメンですませるためにでっち上げられている部分がかなりある。おれの中では、そうした心理的退路を断ちたいと思っているのだ。やってしまったことは、なにをどうしようが絶対になかったことにはならない。謝ったって祈ったって過去の再解釈とやらの名の下に理屈を捏ねてみたって、あったことはけっしてなくならない。こういう背水の陣を敷いたほうが、心理的には愚行の再発防止に役立つとおれは思うのだがどうか。だからおれは、いま死んでいる人に向けて黙祷はしないのだ。かつて生きていたが死んで(殺されて)しまった人に黙って感情移入をするのみのである。英語の to the memory of somebody に近いとでも言えばいいだろうか。
 さて、堅い話はともかく。ブックス・ファントムで買った本と一緒に、行きの列車で読んだ本やもらったカエルグッズを荷作りして宅急便で自宅に送り、ホテルをチェックアウト。最終日は、神田で古本漁りの予定である。いったん東京駅で姪たちに土産を買って、せっかく神田まで行くのだからと、SFマガジンの塩澤編集長に電話する。月初の編集部はむちゃくちゃに忙しいだろうから、ちょっと立ち寄ってご挨拶するだけにして、SFスキャナーの写真撮影のためにお預けしてある本をついでに持ち帰らせていただこうと思っていたのだが、塩澤さんは「昼食でもご一緒に」と時間を割いてくださった。要するに、お休みの時間に仕事をさせてしまったわけで、まことに申しわけないことだ。塩澤さん、ほんとうにありがとうございました。
 塩澤さんと別れて、神保町を絨毯爆撃する。目を剥くような掘り出しものはなかったものの(そんなもん、ふらっと立ち寄ったお上りさんに見つかるかよ)、まあそこそこのSFペーパーバックは仕入れることができた。妙なところでは、夏目漱石の『英文學形式論』の復刻版が千円と安かったので買った。大正十三年に岩波書店から出たものを、昭和五十年にほるぷ出版が復刻したというややこしいもので、買ったのは復刻版の初版(笑)である。明治三十六年に漱石が東大で教えていたときの講義録なのだが、漱石自身の草稿が残っていないため講義ノートから起こしたものなのだ。だから、厳密には漱石著とは言えない。ソシュールの『一般言語学講義』みたいなもんですね。べつに復刻版でなきゃ読めないというものでもないのだろうが、こいつの序文がやたら面白いんである。漱石の前任だったラフカディオ・ハーンが「不必要な文學のみを語つて語學を教へない」という理由でクビになったため(東大でもそんなくだらないこと言ってたんですね)、新任の漱石は心ある学生には反感を持たれていた。「教室内見渡す所、或者は頬杖をしたまゝに新しい講義者の講義を聞き流さうとした、或者はペンを執ることさへなくて居眠りに最初の幾時間を過した」というありさまで、小泉八雲先生を追い出した大学当局に対する学生の憤懣の八つ当たりを罪のない漱石が食らっていた――などと、要するに、だから講義ノートが集まらなくてえらく苦労したと述べているわけである。コピー屋で講義ノート売ってる時代とはちがうんだよねえ。なんだかほのぼのとしてて、やたらおかしい。
 へとへとに疲れて(本ってのは、ほんとに重いなあ)東京駅へ。八重洲の地下でCDの安売りしているのを見てるうち、ついつい買ってしまう。ベストものとかは、たいていこういうハンパなところでハンパな版を買っちゃうんだよね。ま、ちゃんと音が出りゃいいんだけども。新幹線に乗ると、たちまち眠くなりあわてる。博多まで行くやつなのだ。土産に明太子を買う羽目になったら洒落にならない。HP200LXのアラームごときでは目が覚めない可能性大なので、携帯電話のアラームをセットする。こいつは、止めるまで止まらないから目覚ましには持ってこいだ。無事、京都で降りることができた。
▼いつも思うのだが、東京の電車で目立つのは、席が空くと、親が立って子供を座らせていることだ。ガキなんか、どうせじっと座っちゃいなんだし、税金払ってない、払ったこともない未熟者をチヤホヤするんじゃねーよ。「おまえは健康だし、揺れる電車で足腰を鍛え平衡感覚を養わねばならん。わしらはおまえを育てるために働いているエライ大人なのだから、わしらが座る」って、座ればいいのよ、おとーさん、おかーさん。みながそうだとは言わないが、どうもいつも乗ってる関西の電車に比べて、子供が偉そうにしてる気がするんだよなあ。そう思いません?
▼帰りの新幹線に乗って、ほっとひと息、生貯蔵酒を啜っているとき、積年の(?)疑問が解けた。佐藤藍子は、どっかで見たような気がしていたのだ。そう、なにかの映画だった。『タイム・リープ』が映画初出演のはずがない――おお、そうだ! ジム・ヘンソンの『ダーク・クリスタル』の主演だったじゃないか(笑)。

【8月5日(火)】
▼昼ごろ起き出す。さぞやすさまじい頭痛に悩まされるにちがいないと踏んでいたが、ああら不思議、疲労は感じるが頭はすっきりしている。魔法のようだ。早い時間にビールを一本しか飲まなかったからか。やっぱり会社のおやじの自慢話と説教聞きながら安酒飲むよりゃ、好きな話して飲み明かすのは身体にいいのかもね。ラーメン食って、SF・ミステリー専門書店ブックス・ファントムへ。ちょっとわかりにくい場所にあるというので、昨日坂口さんに教えてもらっておいたのだ。うおお、こりゃいい本屋だね〜。来た甲斐があった。懐と相談しながら、京都・大阪では見かけない買い損ね創元・ハヤカワ・徳間を購入。コインロッカーに放り込んで、秋葉原電気街散策へ。デジカメの型落ちが安けりゃ買おうかとも思っていたが、品揃えはともかく値段は京阪神とあまり変わらなかったので、冷やかしに留める。夕方、秋津透さんのお宅にお邪魔し(いま“おたく”を変換しようしたら、第一候補に“堺三保”という文字列が出てきた。なんて辞書だ)、夕食をごちそうになる。久しく会っていなかったパソ通オフ仲間の方々と、おいしく楽しく過ごした。OCHIKA/LUNAさん、宇海遥さん、またまたカエルグッズをありがとう。宇海さんのくれた『けろけろ 大好き!かえるコレクション』(矢島さら編著、パルコ出版)という本は、全国かえる奉賛会の「かえる新聞」で推薦図書に指定されてましたよ。

【8月4日(月)】
▼昼過ぎの新幹線で東京へ。夕方、池袋で中国料理お食事会。面子は、秋津透夫妻、大原まり子さん、水樹和佳さん、SFオンライン・プロデューサーの坂口哲也さんとめるへんめーかーさん。こうしてリンク張りながら書くと、ホームページ族が多いなあ。前回上京したときに教えてもらった秋津透夫妻御用達のお店で、ここがじつにおいしくてリーズナブル。大原まり子さんと水樹和佳さんには初めてお会いする。うう、美女のダブル攻撃だ。お二人ともサイバースペースでは“電識”があるのだが、やはり目の当たりにするとアガってしまう。おれは、アガっていることを顔に出しては相手も居心地が悪かろうと思うがゆえにきわめて冷静にアガるというややこしい精神構造をしている。おれが“いつも以上にふつうに振る舞っている”ように見えるときには、たいていアガっているのである。
 お食事会を終えて、秋津透さん、坂口さん、めるさんと二次会カラオケへ。秋津さんと坂口さんは例によって、外道なアニソンで迫る。七色仮面の映像は何度観てもまぬけだ。坂口さんが『流星人間ゾーン』を絶唱。この歌、何年ぶりに聴いたことだろう。そういえばそんなものがあったことを歌を聴いて思い出したくらいだ。人数が少ないと、おれはいつも苦手な曲や歌ったことのない曲を練習する。このところ発声練習のため歌ってみることもある、ジャニス・イアンの『You Are Love』(ってのは、映画『復活の日』のテーマである)をやったら、坂口さんが『復活の日』ファンであることが判明した。同世代だよなあ。篠原ともえの『ウルトラ・リラックス』に初挑戦し、難しさを確認する。くそー、これはCD買わんといかんな。練習ついでに、いつもなぜこれがちゃんとカラオケに入っているのか不思議でしようがなかった、映画『メリー・ポピンズ』の劇中歌 Supercalifragilisticexpialidocious をリクエストしてみる。速読訓練ソフトのようなスピードで歌詞が明滅(笑)するばかりで、リフレインの部分は歌えるが、それ以外は黙読することすら難しい。完璧に暗詞してさらに滑舌訓練をせんと歌えんわ、こりゃ。今後の課題であるな。おれがディック・ヴァン・ダイクになり、女性にジュリー・アンドリュースになってもらってデュエットするのが夢である(そんなやつぁいねえよ)。カラオケ店で“お好きな中古CDシングル一枚どうぞ”ってサービスをやってたので、森高千里の『素敵な誕生日』をもらう。
 カラオケ終わって、秋津透さん帰宅。「なんか飲み足りないな」と坂口さん。「そうすね」「行きますか」「行きましょう」――で、坂口さん、めるへんめーかーさん、おれの三人で夜の池袋に繰り出す。ゲーセンで落書き機能つきプリクラをやる。無理やりフレームに三人押し込んで、仕上げはめるへんめーかー先生直筆ドラゴン。そこから朝まで二軒はしご。強い強いと聞いてはいたが、このお二人はホントに強いね。めるへんマンガ家が酒豪であることをこんなところでばらしたものかとは思うが、もうとっくにばれているはずだから書く。坂口さんは酔うと目が座ってきて(ふだんから座っているという説もある)、広い額を剥き出し長髪をざんばらにして飲んでいるさまは、どう見ても落武者である。おれはおれでいくら飲んでも顔に出ない。「ジョン・ウィリアムズの音楽って、みんな同じでしょう」と、おれ。「いや、あれは同じだからすばらしい」「それって『気まぐれ指数』だかにあった論理かも」濃い会話は続くが、このあたりになると文脈はすでに破綻している。「やっぱり、ジェリー・ゴールドスミスはいい」と、坂口さん。「うんうん、気がつくと、鼻歌が『アヴェ・サンターニ』になってることある」「それは変わってるねえ」お互いさまだ。「『さよならジュピター』も、映画はともかく音楽は好きだなあ。羽田健太郎の」と、突然邦画に跳ぶおれ。「ああ、あれね、ぱーんぱぱぱーん、ぱーんぱんぱぱぱぱぁ〜ん――」と、三十面提げた二人の男が早朝の酒場で人間カラオケと化し『さよならジュピター』のサントラを合唱している姿を、いくら飲んでもにこにこにこにことまったく変わらず眺めているめるへんめーかーさんが結局いちばん強いと思う(笑)。

【8月3日(日)】
「ワイアード」に連載中の「爆笑問題の日本原論」はけっこう面白い。同名の単行本はベストセラーなので買うのを控えているのだが(笑)、これなら買ってもいいと思わせるものがある。漫才やコントの台本というのは演じられてこそ面白く、それをそのまま活字にしたものを読んだら、井上ひさしの作品であってもちっとも面白くなかったという経験がある。だが、爆笑問題の太田光(背の高いほうね)は、活字にするときには活字媒体の面白さを意識したネタ・構成にしており、こいつらやっぱりタダモンじゃないと思う。バカSF書いたらいい線行くんじゃなかろうか。
▼さて、明日からちょっと上京して遊ぶので、次回更新は6日か7日になる予定。パソコンは持って行かないから、メールのお返事も出せません。ネタ仕入れてきます。期待せずにお待ちください。ではでは、行ってきます。

【8月2日(土)】
▼差し迫った締切もないから、休日らしくうだうだ過ごす。来週いっぱい夏休みなのだ。永山則夫の死刑が執行されたというので、『無知の涙』(永山則夫、河出文庫・増補新版)をひさびさに取り出し、パラパラと拾い読み。これは非常に不幸な現実によって模倣されてしまった『アルジャーノンに花束を』なのである。SFファンたる者、一読されたし。河出文庫増補新版の秋山駿氏の解説を読んでいると、どうしても酒鬼薔薇クンのことがちらつく。かの少年の犯行について、永山則夫自身のコメントをぜひ読んでみたいと思っていたのだが、それも永遠に叶わぬこととなった。
 『キューティーハニーF』を惰性で観て、『3001年 終局への旅』(アーサー・C・クラーク、伊藤典夫訳、早川書房)を読み進める。じつはおれは、オデッセイ・シリーズを日本語で読むのはこれが初めてで、やけに新鮮だ。2001年も2010年も2061年もペーパーバックでしか読んだことがない。べつに翻訳が嫌いなわけではなく、最初の2001年を「せっかく映画で観ている名作なのだから……」とペーパーバックで読んだところが、固有名詞をカタカナの字面で捉え直すのが面倒なのと、ペーパーバックのほうがハードカバーの翻訳本より安いのとで、惰性で原書を読んできてしまったわけである。将来、まさか手前がクラークの文庫解説を書いたりすることになるとは夢にも思っていなかった。カタカナ表記を勉強するため、たまたま本屋にあった2010年の文庫本を買ったりしたものだ。
 おれが高校生くらいのころには、しばしば言及されるにもかかわらず翻訳が入手しにくい古典名作がすでにいくつもあった。「ああ、こいつは中学生のときにはたしかに本屋で見かけたのに……。あのとき買っとけばよかったな」などと、高校・大学に入ってから思ってももう遅い。中学のころは、ミステリのほうを多く読んでいたのだ。運のよかったことに、京都というのは教育水準の高い外国人がたくさんいる。よって、大きな本屋へ行けば、古典名作は原書のほうが入手しやすいくらいなのである。京都に住んでいたことと古典名作を読みはじめたのが遅かったことが幸い(災い?)し、「古典名作と言われているものなら、時間をかけて読んでもハズレは少ないだろうから、いっそできるだけ原書で読んでやれ」と思うようになってしまった。そういうこともあって、『夏への扉』『虎よ!虎よ!』『1984年』『火星年代記』(は、こないだ書いたっけ)などは、いまだに翻訳読んでません。ごめんなさい。
 こういう偏った読書が役に立つこともある。ガイジンと話すとき便利だ。大学時代、英文学のアメリカ人教授が「君らが授業以外で英語の本を読んでみたりすることがあるかどうか知っておきたいのだが、英語で読んだ本の中ではどんなのが好きかね?」とクラスに(もちろん英語で)尋ねた。おれはいけしゃあしゃあと「Childhood's End とか」と答えた。「残念ながらその作品は知らないが、著者は誰かな?」「Arthur C. Clarke というSF作家です」「名前を聞いたことはあるよ」――しばらくしてその教授の研究室を訪ねたとき、本棚に Childhood's End のペーパーバックが置いてあるのを発見し苦笑した。と同時に、教育に対する彼の真摯な姿勢に打たれたものだ。あえて感想を聞いたりはしなかったが、おそらく彼は、自分が教えている日本人学生が馴染みのない書名を答えたので、なんだSFかと頭からバカにせず、少なくとも読んでみようとしたのだろう。あるいは、読んだのかもしれない。メルヴィルやフォークナーの麗々しいハードカバーと並べてちょこんと立ててあった『幼年期の終わり』のペーパーバックは、いまでも微笑ましく思い出される。こういう先生は、小中学校にこそ必要ではないかと思うなあ。

【8月1日(金)】
SFオンラインにかっこいいバナーができたので、リンクを張っている人はぜひ利用しましょう。以上、CMでした。
▼金曜日だから、例によって会社の帰りに、曾根崎の旭屋と梅田の紀伊國屋をはしごする。紀伊國屋に行くと、催しもののコーナーで、映画のポスターやパンフレットを並べて売っていた。とても全部チェックできるような量ではなく、かといってさほど検索の便が図られているわけでもない。どうやって欲しいものを捜せというのだ。本であれば背を見ればタイトルがわかるが、映画のパンフなどいちいち引っ張り出して表紙を見ないと作品名が確認できない。中古レコードの特売なんかも同じですなあ。要するに、運よく欲しいものが見つかったらお慰みという、一種の“当てもの”なのである。若いころなら数時間かけて端から端まで一枚一枚見たかもしれないが、さすがにもうそんな気力はない(このへんの執着のなさが、おれが真正のおたくになれない理由である)。捜しやすそうな絵葉書に狙いを絞り、『2001年宇宙の旅』の“立体絵葉書”を買う。ほら、異なる絵を描いた透明フィルムを何枚も重ね合わせて立体感を出すという、むかし懐かしいアレである。
 ポスターも欲しいが、買って帰ったって貼る場所がない。襖や天井にそのまま貼るという手はあるのだが、せっかくのポスターがすぐ埃焼けして色褪せてしまうのがオチだ。ちゃんと額に入れて飾るようなスペースは、3DKの市営住宅にはもはやない。ただでさえ、本の山の中で寝ているのだ。
 そんな状況ではあるが、気に入った何枚かの絵(もちろん、安物のポスターである)は精神の安定のため無造作に貼ってある。まず玄関には、いきなりバルチュスの『コメルス・サンタンドレ小路』 Le Passage du Commerce Saint-Andre がでかでかと画鋲で留まっている。でかでかとといっても、こいつのほんものには遠く及ばない大きさだ。京都国立近代美術館に来たとき見たが、3メートル平方くらいのでかい絵なのである。見れば見るほど欲しくなる絵だ。だが、ルパン三世かキャッツ・アイでもないかぎり盗めまい。おれががんばって腕を磨き盗んだところで、そもそもこいつを家の中に入れる手段がないのだから、情けない怪盗になってしまう。三畳間の書庫(物置とも言う)に入ると、ダリの The Broken Bridge and the Dream (英題しか知らない)、岩崎賀都彰の『銀河の全望』、クロード・ベルランドの『破れ目』 La dechirure というやつが、並べて貼ってある。脈絡のないことおびただしいが、「おれが好きなものは、おれが好きという点で首尾一貫した美があるはずだ」という都合のよい論理で納得することにしている。六畳の寝室兼書斎兼特別応接室には、ソファーベッドの枕側にキリコの『不安がらせるミューズたち』 Le Muse inquietanti がいる。床に入って見ているとちっとも不安にならず、はなはだ落ち着く。
 貼る場所がないとなると、せめていつでも見られるように手元に置いておこうと画集に頼ることになるのだけれども、画集というやつは、わざわざ出してきて鑑賞するという姿勢になってしまうので、なんかちがうんである。ありふれた日常の中で、ふと目をやったとき、そこに異界への入口が広がっていてほしいのだ。
 場所を取らずになんとか日常を打破する方法はないものかと、若いころはいろいろ試行錯誤をしたものだ。その中から、非常に効果的な方法をひとつご披露しよう。まず、捨ててもよいポスターや古雑誌を用意する。適当な人物写真を選び、目の部分だけ切り抜く。で、その“目”を部屋のあちこち、できるだけ突拍子もないところに貼るのである。やってみると、これはなかなかクるものがある。ふと顔を上げると鴨居と目が合ったり、本棚の視線を感じたり、じつに刺激的だ。面白いので、学生時代は部屋中を目だらけにしてけらけら笑っていたのだが、ついに家族から苦情が出てしぶしぶ撤去した。
 ひとり暮らしの人や同居人が高尚な趣味を理解してくれる人は、ぜひ一度お試しあれ。ただし、刺激が強すぎて精神に変調をきたしても当局は一切関知しないから、そのつもりで。


↑ ページの先頭へ ↑

← 前の日記へ日記の目次へ次の日記へ →

ホームプロフィール間歇日記ブックレヴューエッセイ掌篇小説リンク



冬樹 蛉にメールを出す