間歇日記

世界Aの始末書


ホームプロフィール間歇日記ブックレヴューエッセイ掌篇小説リンク

← 前の日記へ日記の目次へ次の日記へ →


97年12月上旬

【12月10日(水)】
▼2000年からアジアの台風にはアジア名を付けることになったらしい。日本が人名を採用するかは未定とのことだが、台風を“タロウ”などとすると太郎君が学校でいじめられないかと懸念する声もあるという。あのなー。こんなことが真剣に懸念される国って、ほかにあるのかねえ。これ、気象庁の人が言ってるらしいんだよな。なんだか情けない。アメリカやイギリスで、ジェーンちゃんやキャサリンちゃんはいじめられているのであろうか。でもって、子供がいじめられるから人名はやめようなどという話が持ち上がっているのだろうか。どうして大人が、「台風に君の名前が付くかもしれないんだぞ。かっこいいぞ」と言ってやれないのだ? 「誰の名前でも付くわけじゃないんだぞ。きっと日本人の名前を代表するものが使われてゆくにちがいないぞ」と、“太郎”や“次郎”といった平凡な名前に誇りを持たせてやれないのだ? どうして、差異を持つこと、すなわち、いじめられることだという卑屈な発想を、大人が子供に押しつけるのだ? 人とちがうことはいいことだ、すばらしいことだという価値観を、どうして授けてやれないのだ? 笑止である。結局、大人が変わらないと子供の世界も変わらない。
 それはともかく、「人名にしたほうが危機感があってよい」という話をニュースで聞いたが、そ、そうなのか? ジェーンちゃんが襲ってくるほうが、台風19号が襲ってくるより怖そうな感じがあるのかなあ。おれにはどうもピンと来ないけど、このあたりの感じかたは国によってちがうだろうから、ただただ感心して聞いていた。待てよ。危機感を持たせて警戒してもらうのが目的であるなら、わが国が世界に誇る命名法があるじゃないか――怪獣の名前を付けるのである。

大型で並みの勢力を持つキングギドラは、室戸岬の沖150kmを時速40kmで北北東に進んでいます。中心付近の気圧は980hPa、最大風速は……
紀伊半島に上陸したアンギラスは、激しい雨を伴って北上しています。風と雨による近畿各地の被害は……

 これは危機感があるにちがいない。伊福部マーチが鳴り響く中、煮しめたような防災頭巾をしっかとかぶり、家財一式積み込んだ大八車を懸命に引きずって安全なところに非難しないと、なにやらたいへんなことになりそうな気がしてくる。いや、冗談抜きで、どうですかね、このアイディア?
▼温暖化防止京都会議がまだ紛糾している。ああやって各国の代表がそれぞれの事情と思惑を背負って、それでもみなが乗る同じ船が沈みそうだというので夜遅くまでがんばっている姿を、子供たちにはしっかりと見せておきたい。子供のいないおれですらそう思う。
 それにしても、むかしの映画なんかだと怪獣や宇宙人が攻めてくれば、あっというまに世界中が一致団結して闘ったりしたわけだが、この会議を見ているかぎり、あれは嘘だというのがよくわかる。きっと地球人というのは、小惑星が地球めがけて突進してきても、「うちの国の負担が大きい」とか「おまえの国がもっと辛抱せんか」とか、ぎりぎりまでやり合っていることだろう。そういうところが同胞として妙にいとおしく、そんな阿呆で可愛い地球人の一員として小惑星にぶつかって滅びてゆけるのなら、それはそれでよいような気もしている。
 まあ、温暖化程度なら、ちゃんと目の前に策があるのだから、あっさりみんなで滅びましょうと悟ってしまうにはいくらなんでも早すぎるだろう。そこでまたまた日本が世界に誇るやりかたで、会議をスムースに運ぶ方法を考えてみた。怪獣を作るのである。
 遺伝子工学の粋を結集し、大気中の二酸化炭素濃度が一定レベル以上になるとどんどん分裂して巨大化する、二酸化炭素怪獣カーボンダイオクサイドンを開発するのだ。こいつは地球のどこに現われるかわからない。突如ニューヨークに上陸して摩天楼を蹴散らすやもしれず、だしぬけにダッカに飛来して民家を踏み潰すかもしれない。いま人類が直面している事態は、これとまったく同じことのはずなのだが、敵が目に見えないためにみんなやりにくいのだろう。ちゃんと怪獣の形にしてあげればいいのだ。どうだろう? 昭和三十年代生まれの発想かなあ。

【12月9日(火)】
▼三菱自動車の「タウンビー」という車のCMを観て感慨無量。こ、この曲は、The Nolans I'm in the Mood for Dancing ではないか。80年代ポップス総まくりといった様相を呈しているCM曲だが、なにかを忘れているような気がしていたのだ。ニクいところを突いてくるね、まったく。ノーランズねえ――いったい、いまなにをしているのだろう。再結成したところを見たいような見たくないような……五人組のかしまし娘といった感じだろうなあ。ノーランズがどうなっているかを想像するには、現在の石野真子を見ればよいかもしれない。そう、ノーランズの Gotta Pull Myself Together という、やたらブレスの難しい曲の日本語カバー『恋のハッピー・デート』を歌っていたのが、ふりふりスカートに太腿むちむちで全国の若者をあちこちで狼に変えていた真子ちゃんなのであった。少女老いやすく楽成り難し。
 いったいあれはいつごろであったろうかと、ふとあることを思い出して古雑誌を当たってみる。あった。聞いて驚け。ラジオ講座『百万人の英語』(日本英語教育協会)のテキスト、1981年1月号の表紙はノーランズである(大爆笑)。なんともはや、よく残ってたな、こんなもの。この雑誌、前半は英語学習雑誌、後半はラジオ講座のテキストという構成なのだが、面白いのでちょっと中身を紹介してみよう。
 まず巻頭エッセイは、意外や意外、夏樹静子「ニューヨークのエラリー・クイーン」。夏樹氏が55年にクイーンの自宅を訪ねたときの回想録である。そこからページを繰ってゆくと、「インタビュー・ナウ」という企画。英語学習雑誌らしく英語のできる有名人へのインタビューであるが、ゲストは「新アメリカ大統領の取材が夢です!」と抱負を語るニュースキャスター、田丸美寿々(当時フジテレビ)である。お姫様人形のようなふっくらとした童顔からは、たじたじする企業のトップに遠慮会釈なく質問を浴びせる現在の勇姿など想像もできない。「World News Highlights」なるコーナーでは、「レーガン大勝利」「ボイジャー1号、土星に最接近」「マックウィーン死去」「王選手、現役を引退」などの英文ニュースが解説つきで載っている。当時は“マックウィーン”なんて表記があったのか、それともこの雑誌が特殊だったのか。
 当時のラジオ講師陣には、若い方もご存じであろう人が名を連ねている。名物講師のJ・B・ハリス氏を筆頭に、神戸一中時代に小松左京氏と同級生だったことでSFファンにもおなじみの“同時通訳の神様”國弘正雄氏、奈良橋陽子のペンネームでゴダイゴなどに詞を書いてた野村陽子氏、おれたちの世代で洋楽DJと言えばこの人だった小林克也氏。以前にも書いたけど、小林克也氏のコーナーでは一週に一曲洋楽の課題曲を取り上げて、歌詞を解説しながら関連表現を教えるなんてことをやっていた。この号では、The Police Don't Stand So Close to Me (高校教師)、Supertramp Dreamer (ドリーマー)、Dire Straits Tunnel of Love (トンネル・オブ・ラブ)、Blondie The Tide Is High (夢みるNo.1)が紹介されている。ひいいい、懐かしいよお。ダイアー・ストレイツのはどんな曲だったかピンと来ないが(曲聴くと思い出すかも)、あとは歌詞を見ると歌えちゃうなあ。やっぱり、若いころ憶えた歌というのは一生抜けないね。いまの若い人は三十、四十になってカラオケで華原朋美とか歌うことになるんだろうか――うーん、ちょっと想像もつかないぞ。そもそも、そのころのカラオケにあるかどうかが問題だけども。
 今日は、CMのおかげで十七年前にタイムリープしてしまった。さらに十七年後、おれが五十二の年にこの日記を読み返したら、さぞや面白いだろうなあ。それまで生きてればいいのだが。

【12月8日(月)】
『タイル』(柳美里、文藝春秋)の腰巻の惹句を見て苦笑する。「純文学なのにホラー」って、文藝春秋もここまで言うか。はなはだ奇妙なフレーズであって、それだけにインパクトはある。おれは、べつになんであってもかまわないのが純文学だと思っているから、“なのに”という逆接がやたら気色悪い。「アルコールなのにワイン」と言われているような感じだ。まあ、もちろん営業なんだろうけど、いくらなんでもなあ。芥川賞作家の受賞第一作ですら、こうまであからさまにやらんといかんほど、本って売れないのだろうなあ。おれは結局買ったんだけども。
 そういえば、筒井康隆『虚航船団』(新潮社)が出たときにも、「面白い純文学」って惹句があったっけ。純文学はたいてい面白いものだと思っていたおれは、あれにものけぞった。なんだか、いまに「面白いSF!」などという腰巻が登場しそうな厭な予感がするぞ。でも、わかりやすくてけっこういいかな、この惹句(笑)。やるなら早い者勝ちですよ、出版社の方。

【12月7日(日)】
亀田製菓「しゃけっぷり」を食ってみる。うまいことはうまいが、最初に「えびっぷり」や「かにっぷり」を食ったときほどの感動はない。ほんものの海産物を大量に練り込んだノンフライ製法と斬新なパッケージで彗星のように登場した「ぷり」シリーズも、ここへ来てややマンネリの感がある。スナック菓子の場合、うまい=飽きがこないという意味ではないので、いかにロングセラーになるかが勝負どころだろう。元祖「かっぱえびせん」のような傑作は、二十年、三十年にひとつ、ふたつしか出ないのではあるまいか。スナック菓子の世界は厳しいのだ。
▼おなじみ『特命リサーチ200X』(日本テレビ系)を最後のほうだけ観ると、方向音痴の原因を取り上げていた。方向音痴は女性に多いのだという。脳梁が男性より発達していて、左右の脳の情報交換がより密に行なわれるためにかえって混乱するのだという説を紹介していた。この番組、切り口はたいへん面白く、SFファン好みだと思うのだが、紹介している説は必ずしも定説というわけではないから、あまり鵜呑みにせず常に疑問視しながら観たほうがよい。その訓練が楽しめる点では優れた番組だ。
 そこで素朴な疑問なのだが、空間認識を主に司る右脳と、言語・論理を主に司る左脳との情報交換をするパイプ(脳梁)が太ければ、それぞれの半球の優位機能が擾乱を受けやすいのだとすれば、女性は方向音痴であるばかりでなく、言語能力に於いても劣る人が多いということにならないか。統計を取ったわけではないけれど、これは言語を操る能力はむしろ女性が優れているとされる一般的通念に反する。むろん、脳のハードウェアの器質的要素とソフトウェアの文化的・社会的要素が、成人の脳の働きにどれくらいどのように影響しているのかという点も見過ごせない。このあたりもおそらく研究している人がいるにちがいないから、そういう研究者の意見も併せて紹介してほしいものだ。
 男女の脳に形態的差異があるのは否定し難い事実であろうが、それと機能とを結びつけて明解に論じられるほど脳科学って進んでいるのか? この路線の研究成果が過度に単純化されて報じられることに、おれは警戒心を抱く。ダーウィニズムをひん曲げ、自然人類学を悪用したナチスの例もある。テレビというのは、いつも単純化しすぎるから怖いのだ。まあ、だからこそテレビなのだけれども。
 じつは、おれはものすごい方向音痴である。脳が女性的なのだろうか? そういえば、おれが多少なりとも平均より秀でているのは、たいていが女性的能力であるとされるものばかりだ。おれを論理的だなどと評する人がたまにいるけれども、とんでもないかんちがいである。おれは論理的推理がまるで苦手だ。直感的に結論が見えてしまって、それを他人に説明するためにああでもないこうでもないと苦手な論理で道筋をつけるといったものの考えかたをする。だから、直感が結論を見せてくれないときは、そこから一歩も踏み出すことができない。運よく直感が働いた場合も、うまく直感と論理が一致すれば「もしかするとこれは正しいのだな」と思い、うまく道がつかないときは「ひょっとするとまちがっているのだな」と思う。こんなものは全然純粋論理じゃない。当たりはずれの大きい脳と言えるだろう(笑)。逆に、論理ではまったく正しいのに、直感が「そうじゃない」と言い続けることがある。そういうときは気色悪くてしかたがなく、結論が出たはずのことをいつまでも考え続けたりする。じつに効率の悪い脳だと自覚しているけれど、そうなっちゃってるんだからどうしようもない。藝術家じゃないんだから、直感ばかり主張していては社会生活に支障を来す。よっておれは、基本的に直感を最も信頼しているにもかかわらず、他人とコミュニケートする作業に於いては極力論理的であるようにしている。世渡りは難しい。他人の脳はどういう働きかたをするのか、一度でいいから覗いてみたいと思う。もっとも、テクノロジーが発達して脳を直結できるようになったとしても、他人の脳の働きかたをおれの脳が“見た”とて、そもそもOSがちがうようなものなのかもしれず、まったく無意味な信号としてしか受け取れないかもしれないよな。

【12月6日(土)】
▼さてさて、お待ちかね「冬樹蛉の血液型が当てられるもんなら当ててみろ」ゲームの結果発表である。有効票数は27。まず分布を見てみよう。

A型*********9票
O型*****5票
B型******6票
AB型*******7票

 そして正解はといえば、おれはO型である。嘘のようだが、ほんとうなのだから信じてもらうしかない。Rhはプラスだ。
 この結果をどう見るかは各人の自由である。傾向を云々するには総数が少なすぎるからだ。それにしても、皮肉な結果が出たものだ。おれの血液型は、日本で二番めに当てやすいというのになあ。だが、この結果はある意味で健全であるとも言える。面白い推理は個別に紹介するつもりだったけれど、ぶっ飛んだ推理はなかったので、簡単に紹介しよう。大きく次のように分けられる。

・手がかりがあるはずもないので、ギャンブルとすればA型に張るのが合理的である。
・手がかりがあるはずもないので、自分と同じ血液型に張ることにする。
・理由はないが、*型に張る。
・文章やホームページのレイアウトから、*型だと思う。

 おそらく、このページの読者で、遊びにつきあってくれたような方々の多くは、血液型占いを信じていないのだろう。とすれば、当てやすいA型と大穴のAB型に二極分解するのは、ありそうなことだ。自信たっぷりにわざわざ「当ててみろ」などと言う人は、よもや当てやすいA型ではないだろうと見る推理もあれば、逆にだからこそA型の可能性が高いという推理もあろう。O型の票が二番めに多くなるよりも、むしろこのほうが合理的な結果と言えないだろうか。もしかすると、誰が「当ててみろ」と言っても、票の分布は今回の結果と大差ないのかもしれないのだ。O型は二番めに当てやすいのではなく、「当ててみろ」と言われた場合には最も当てにくいのかもしれないと想像すると、たいへん愉快だ。
 繰り返すが、今回のゲームでなにが証明できるというわけでもない。ただ、この結果を見て面白がっていただければ幸いである。「何人もの血液型と性格を調べた結果……」などという統計(?)的調査はけっこうあるが、サンプルがたったひとりで、その血液型を複数人が当ててみるなんてのは、あまり聞いたことがない。
 ネタばらしになるので作品名は出さないが、あるミステリを連想しながら、おれは今回のゲームを楽しんだ。殺人犯と犯行現場に偶然居合わせた唯一の人物が盲人なのである。だが、犯人が犯行現場にいたことを証明できる目撃者は、その盲人だけとはかぎらない。ある条件が整えば、盲人の目撃証言を用いて犯人のアリバイ工作を崩すことができるのだ。今回おれがやりたかったのは、それに似ている。この作品をご存じの方も多いと思うけど、ピンと来ない方も先ほどのおれの要約をよーく読めば、なにを証明すべきなのかに思い当たるはずだ。
 ゲームにおつきあいくださった方々、ありがとうございました。

【12月5日(金)】
▼「読書週間・書店くじ」の当選発表を新聞で見る。もののみごとに全部はずれ。「ニュージーランド8日間の旅」は要らんから、図書券50万円ぶんくらいを特賞にしてほしいぞ。これくらいなら一年で十分使い切れる(が、全部読めないに決まっている)だろう。
 そこでふと、今年どのくらい本を買ったかを概算してみると、約30万円と出た。海外注文の送料などを入れると、もう少し多いだろう。これが多いのか少ないのかよくわからないのだが、仮に1000円の本を一日一冊読まなければならないのだとすれば(このノルマはおれには達成できない)月3万円で年間36万円の本を買わなければならない。これはかなり痛い(が、結局このくらいは使ってしまう)。
 むろん図書館で借りるという手もあるが、これはサラリーマンにはけっこう難しい。地の利がないと時間のロスが大きいからだ。同じ結果が得られるとして、時間と金のどっちを捨てるかの選択を迫られれば、金額にもよるけれど、おれはたいてい金のほうを捨てる(道理で貯まらないはずだ)。時は金なりとはよく言ったものである。
 辞書や年鑑などのリファレンスの類をもっと買いたいし、すぐ読まなくても手元に置いておきたい本もしばしば出現する。よって、一年で50万円自由に本代に使えれば、かなり快適だろうと思う。もっとも、それだけ本に使えれば使えたで、「100万円使えれば……」などと文句を言うにちがいないのだ。今日はなんだか所帯じみた話になってしまったなあ。

【12月4日(木)】
▼「本屋の片隅」でお世話になっているNIFTY-Serve・SFファンタジー・フォーラム《読書館》シスオペの折原偲さんから、イタリア旅行のお土産が届く。カエルのぬいぐるみなのだが、TRUDI GIOCATTOLI というイタリアでは名の通ったブランドらしい。商品名を見ると RANA とある。イタリア語をまるで解さぬおれにも、これくらいはわかる。学名のラテン語と同じだからだ。タグの説明書きもすべてイタリア語。カエルであること以外はなんだかさっぱりわからないが、面白いので推理しながら読んでゆく。赤字で書いてある ATTENZIONE は製品取り扱い上の注意書きにちがいない。アイロンに×印がしてあるのは万国共通か。その注意事項の中に、NON CENTRIFUGARE というのがある。英語で“遠心力”を centrifugal force と言うくらいは海外SF読みだからわかる。“遠心分離機”は centrifuge だ。centrum (中心)から fugere (逃げ去る)するというラテン語が語源である。ぬいぐるみを遠心分離機にかけるやつはおらんだろうから、これはきっと「脱水機にかけるな」という意味なのであろう。さすがイタリア語ちゅうのは、ラテン語の痕跡がそのまま残ってる言葉なんですなあ。

【12月3日(水)】
▼去年もぼやいたが、今年もぼやく。また今日もアレを目にしたのだ。“X'mas”じゃなくて“Xmas”だってば。キリストをギリシア文字で表記した頭文字 X を、一文字でキリストを表わす“絵文字”として英語が拝借しているのだから、文字が省略されているわけではないのだ。よって、アポストロフィは不要である。
 あまりこういうことをうるさく言うのはおれの美学に反する。日本ではこう表記するのが一般的なんだからいいじゃないかという意見もあろう。たしかにおれも、97年6月4日の日記で“ハッカー”と“クラッカー”について触れたとき、カタカナ語は日本語なんだからそんなに目くじら立てるなよと書いた。だが、よそ様の言語をよそ様の文字を使って表記するのならば、その言語の流儀に従うのが紳士的である。“X'mas”などという表記を見ると、なんだか英語をレイプしているかのような気になって落ち着かない。日本流に表記したければ“クリスマス”と書けばよろしい。
 どうも日本の人々は、むかしから他国の言語を“ちょっと変わった日本語の方言”と看做しているとしか思えないフシがある。つまり、工夫すれば外国語は日本語になるとナイーヴに信じているようなところがある。“翻訳できる”という意味ではない。日本語そのものになると思っているようなのだ。漢文に返り点を打ったりする輸入方法は、そのあたりの思想(というか勘ちがい)から来ているような気がしないでもない。その工夫自体はすばらしい発明なのだが、根本にある考えかたが好きになれない。ご存じかと思うけど、怖ろしいことに、わが国には英文に返り点を打った書物だって存在する。涙ぐましい努力にはちがいない。しかし、その方法にとことん熟達したところで、外国語を理解したことにはまったくなっていない。他言語を使っている連中は、自分たちとは異なったやりかたで世界を切り取っている、つまり、ちがう宇宙を生きているのだということが、いくら説明してもわからない人がけっこういる。いや、ほんとですよ。
 学生のころ、アルバイトで中学生相手に塾で英語を教えていたことがあって、まだ十二、三年しか生きていないはずの子供たちが、すでにして骨の髄まで“外国語は日本語の一種だ”という考えに染まっているのを目にして愕然としたことがある。「いや、そうじゃないんだ。英語は日本語とちがう言葉なんだ」と、あの手この手で教えようとした。おれのことだから、ファースト・コンタクトSFの話までしたが、きょとんとするばかりである。じつは、そうやって言葉で説明してわかるような子は、最初からそんなことを教える必要がない。わからない子は、いくら説明しようとも、そもそも“ちがう言語”という概念自体が理解できないのだ。これは深い問題だなあと思ったことですよ。自分の言語と“ちがう”言語があるというあたりまえのことを理解するには、ヘレン・ケラーが“ものには名前がある”ことを知ったときのような認識のジャンプが必要なのだ。外国語など習う前からそこに到達している子もおれば、一生その地平を見ない(見る必要がない)人もいる。とてもじゃないが、おれはサリヴァン先生にはなれないなと頭を抱えたものだ。
 私見だが(まあ、この日記はすべて私見だ)、このジャンプをさせることができれば――すなわち、外国語は日本語とちがうのだと悟らせることができれば――外国語教育は九割がた成功したと見てよい。あとは単に知識と慣れだけの問題だ。不幸にして外国語を学ぶ機会がなかった人でも、このジャンプを達成している人はいる。そういう人は、たとえひとことも外国語を知らなくとも、外国語は日本語だと思いながら数千語の知識を持つ人よりも、はるかに外国語を知っていると言えるだろう。

【12月2日(火)】
▼毎年この時期に年末調整用の申告書を記入するたびに思うのだが、配偶者特別控除なる奇ッ怪な制度がおれには金輪際理解できない。働いて貨幣収入を得る能力のある成人が他の給与所得者のメンテナンスをするためにおとなしく家にいるから、その給与所得者の税金を控除してやろうというのだ。狂気の沙汰である。あんなもの廃止してしまえ。
 おれは独身だが、仮におれが高給取りの女と結婚したとする。おれが外で働くよりカミさんがそうしたほうがずっと金になるので、ひとまずおれが家にいてカミさんの後方支援に当たることに決めたとする。それでも、おれとて一日家にいると、電化製品の発達した現代のこと、手の空いた時間に原稿でも書いて稼げるではないかと思い立ったとする。ところが、おれがあまり仕事をしすぎると、おれのカミさんは罰則のようにして税金を控除してもらえなくなるのだ。逆に言えば、国は家にいるおれに、あまり仕事をするな、要するに、一生ヒモでいろと推奨しているわけだ。これが人権侵害でなくてなんであろう。これでは、おれがカミさんに愛想を尽かしても、おいそれと離婚することすらできなくなるではないか。いや、それよりカミさんに捨てられたら、おれはどうやって食っていけばいいのだ。このご時世、長いあいだ家にいて本ばかり読んでいた三十男など急に雇ってくれるところを捜すのはたいへんだぞ。もし子供でもいて、おれが扶養することになったら、子連れで聖書でも売り歩くしかあるまい。子供に釣り銭詐欺も仕込んでおかなくてはならない。おれが聖書売ってるあいだに、子供はあちこちで釣り銭詐欺をやる。どう考えても、日本じゃ聖書売りより釣り銭詐欺のほうが儲かりそうだから、おれは子供に養ってもらうことになる。子供が家に帰りゃいいが、帰らぬときは、おれは雨の中、骨になってしまうではないか。
 こんな奇妙な制度は、いったんは家庭に入った優秀な労働力を半永久的に死蔵する一助になっているうえに、「大きくなったらお嫁さんになるのぉ」などとほざくバカ娘を大量に生産しているだけだ。バカ野郎、いや、バカ女郎、お嫁さんはいつから職業になったのだ? おれがもし「大学出たらお婿さんになる」と答えたら、親は泣いたにちがいないぞ。「大きくなったらお嫁さんになるのぉ」派のバカ娘どもよ。おまえら、もっと怒れ! 怒り狂え! 社会はよってたかって、おまえらをバカにしているのだぞ。一生自立させないように罠を仕掛けて、子供の世話や老人介護をみんなおまえらにタダでやらせようとしているのだぞ。いまからでも遅くない。ふざけた爺いどもを赤絨毯から引きずり下ろして、菊のバッジをつけたおまえらの代表を送り込むのだ! でないと、おれみたいな男はおちおちボケ老人にもなれんじゃないか。

【12月1日(月)】
11月29日の日記で“資本主義”という言葉を連発しているが、よく考えたら制度としての“家父長制”と並べて論じる文脈なので、“資本制”という言葉を用いたほうが適切だった。そう読み換えておいてください。資本主義はそもそも“主義”なのかどうか、あるいは逆に、イデオロギーと離れたニュートラルな“資本制”なんてものが存在するのかは、いろいろ議論の分かれるところだとは思うけれど、あの文脈ではやっぱり“資本制”のほうがいいよね。
▼先日、年表を確認しようと引っぱり出しておいたSFマガジン・400号の値段をふと見て感慨に耽る。この1990年10月号は総ヴォリュームが800ページ。さらに巻末に創刊号の復刻が50ページばかり付いていて、定価2500円なのである。今度の499号は、616ページで2300円だよね。7年と3か月で物価もずいぶん上がったなあ。この程度の値段に据え置いているのは、むしろ大したものなのかもしれない。
「冬樹蛉の血液型が当てられるもんなら当ててみろ」ゲームの結果発表ですが、いま少しお待ちください。なにぶん師走でバタバタしておりますもので……。27票もの有効票を頂戴いたしました。まことにありがとうございます。たいへん興味深い結果になっておりますよ。お楽しみに。


↑ ページの先頭へ ↑

← 前の日記へ日記の目次へ次の日記へ →

ホームプロフィール間歇日記ブックレヴューエッセイ掌篇小説リンク



冬樹 蛉にメールを出す