間歇日記

世界Aの始末書


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97年12月中旬

【12月20日(土)】
▼この日記ページのカウンタが30,000を突破。来る日も来る日もウェブの上で、見得を切ったり喚いたり、白痴のおしゃべり同然、がやがやわやわやすさまじいばかりで、なんの取りとめもない風の中の蝋燭みたいな日記をご愛読くださり、まことにありがとうございます。関節の外れたこの時代、おれのような小市民にできることといえば、荒々しい運命の石つぶてと矢ぶすまを堪え忍び、なにかが道をやってくる足音に耳をすましながら、きれいは汚い、汚いはきれいと言い続けるくらいのもので、シェイクスピアを引用する者は心が傷ついているらしいのだが、それはさておきこれからも、性懲りもないウェブページ、足らわぬ節は大車輪、勤めますればご愛読、伏してお願い奉る次第であります。
『ウルトラマンダイナ』(TBS系)を観る。遺伝子操作で新怪獣を作ろうとしているマッド・サイエンティストの秘密研究所に乗り込むスーパーガッツ隊員。その科学者がなにやら装置を作動させると、隊員の前に赤い光線の格子が立ちはだかり(幸い点滅はしていない)、彼らの動きを封じる。キレてる先生曰く、「そのレーザーには7千ボルト電流が流れている」――って、おいおい、マッド・サイエンティストというのは、行動の動機や目的が常軌を逸しているべきものであって、科学者としての能力はちゃんとしていなくてはならない。この先生、怪獣にいろんな形質を与えるための遺伝子をつぎはぎして、己の意のままになる“怪獣細工”を作ろうとする遺伝子工学の専門家なのだが、どうも物理のほうはかなりいいかげんのようだ。もしかすると、極度に専門分化したアカデミズムを批判する意図が込められた台詞なのだろうか……なわけねーよな。

【12月19日(金)】
▼コンビニに並んでいるのを最初に見たとき、思わず声を立てて笑ってしまったマルちゃんのカップ麺「麺・イン・ブラック」を、恐るおそる食ってみる。うまい。マルちゃんは製品はどれもオーソドックスなところを手堅く攻めてくるから、大はずれだったことはないのだが、こいつはとくにおいしいほうに入っているだろう。イカスミを練り込んだ黒い麺がいささか不気味ながら、味は和風でなかなかいける。これなら年越しそばにだって使えそうだ。だけど、よくこの商品名が企画会議を通ったよなあ。もともとイカスミ麺の企画があったところに、渡りに舟でMIBが封切りとなったのか、それとも「麺・イン・ブラック」という商品名を誰かが唐突に思いつき、名に合わせて体を作ったのか。このカップ麺がまずいというのなら単なる“いろもの”企画としてご愛嬌なのだが、こいつがうまいんだから、ちょっと話ができすぎである。マルちゃん、侮り難し。もしやこれに味をしめ、次は「エア・フォース・ワンタン」を出すんじゃないだろうね。

【12月18日(木)】
▼帰宅して飯食って風呂入って、いつものようにNIFTY-ServeのSFファンタジー・フォーラム(FSF)に行くと、大きく訃報が出ていた。同フォーラム初代シスオペで、SFマガジン読者にもおなじみのゲームライター、多摩豊さんが今日お亡くなりになったという。驚いた。面識はないのだが、ほとんどゲームをしないおれも情報源として多摩さんの記事は読んでいたし、何度か深夜チャットでご一緒したこともある。ここ二年ばかりはFSFのチャットではまったく接触がなく、どうなさったのだろうと思っていたのだ。多摩さんを個人的に知る人から伺った話では、たいへんな難病を抱えていらしたそうだ。なにより、同い年の人が、しかも平均寿命の半分で亡くなるというのは、電脳世界でひとときの筆談を交わしただけの関係とはいえ、なんとも言えぬ複雑な気持ちである。例によって、おれは人の冥福を祈ったりはしない。しかし、コンピュータゲームが産声を上げ、やがて代表的な大衆娯楽になるまでの、人類史でたった一度の時代を生きることができた多摩豊という幸運なゲームライターがいたことを、ずっと憶えていてあげようと思う。
▼ううむ、宝塚歌劇団の五番めの組は“宙(そら)組”になったのか。8月27日の日記では、“虹組”がいい、これに決まりだなどと、われとわが思いつきに酔っていたのだが、はずれだったかあ。だが、聞くところによると、応募では“虹組”が圧倒的に多かったそうだ。己の発想の陳腐さを嘆くべきなのか、同志がたくさんいてよかったと思うべきなのか。
 それはともかく、宙組ってのはなかなかいい。手塚治虫ゆかりの地らしい、宇宙的な名前である。待てよ。たしか、ミッシィコミックスを出してる宙(おおぞら)出版ってところがあったぞ(「発売」は主婦と生活社だけど)。宝塚ファンは少女マンガを読むだろうから、案外このあたりから発想したのだったりして。

【12月17日(水)】
▼さてさて、今日は一日ポケモン騒ぎで持ちきりだった。昨日、無事だったと書いたおれの姪どもだが、なんでも下の子のほうが放送直後から下痢を起こしているとのことで、妹が母に電話してきてポケモンの影響ではないかと心配しているという(やっぱり観ていたのだ)。自律神経の失調を誘発されたとすれば、まったく無関係だと一笑に付すわけにもいかないが、たいしたことはないらしいからよかったじゃないか。
 昨日は「事故なのか、過失なのか」と悩んだけれども、事態があきらかになってくるにつれて、おれはこれを過失と判断することにした。というのは、報道されている“光過敏性てんかん”やそれに類する現象について、門外漢のおれがちょっとネットを漁るだけでも山のように情報が出てきたし、昨日も書いたファミコンてんかんの話にしても広く報道され多くの人が知っているわけだから、映像や放送の世界に身を置いて飯を食っているプロが知らないはずのことではあるまいと結論づけたからだ。今回の事件の原因と思しき刺激の危険性は、昨日学会で発表されたばかりでまだ専門誌・業界誌にも載っていないといった新事実ではない。それを知らなかったとすれば、映像・放送のプロとして糾弾されて然るべきレベルの事実だと思われる。また、知っていたとすれば、視聴者の心身に危害が及ぶ可能性を看過した点で、やはり糾弾されるべきだ。
 たしかに、無知がどこまで罪であるかは、たいへん難しい問題だ。厳格に考えれば、日進月歩の現代社会で、無知のそしりを免れるプロはどの業界にもひとりもいないだろう。厄介なことに、ある業界でどのレベルのことを知らないと“無知”と看做すべきなのかは、その業界の人間でないと容易には判断できないのである。たとえば、ソフトウェア技術者がライプニッツチューリングとは誰か知らなかったとすれば、これは無知であるが(そうかな)、メアリ・シェリーとは誰かを知らなかったとしても無知と責められるだろうか?
 しかし、あるレベル以上の無知は、とくにそれが他人に危害を加えうる場合、犯罪と、少なくとも犯罪的と看做す必要がある。でないと、日本のサリドマイド禍水俣病も、非加熱血漿製剤ヒトの脳硬膜移植が招いた悲劇にしても、当事者が「発表される論文が全部読めるはずもないし、まだ外国のことはよく知らなかった」と言えば、それですまされることになってしまう。かかる事態に備えて、社会はそれぞれの分野で情報を収集し勉強することが仕事である“専門家”“専門家集団”を飼っており、彼らに社会的地位や報酬や、あるいはその両方を与えているのだ。「素人は口を出すな」などとほざく“専門家”はバカである。専門家というのは、その専門家を除くすべての素人のために存在しているのだから。
 それにしても、早くもポケモン・バッシングにも似た動きが兆しているのは、なんとも嘆かわしい。べつにポケモンが悪いわけじゃないでしょうが。こういう事件が起こると、「だからテレビやゲームにばかり夢中にならず、子供は外で元気よく……」などと、論理のすり替えを行うやつが必ず現われる。こうした輩はちゃんと叩いておいてあげなくてはいけない。なにか事件があると、己に都合のよい意味を過剰に付与しては、ここぞとばかりに売名行為に走るだけなのだ、この連中は。マスコミだって、この連中の尻馬に乗ったりすることが少なくないから要注意である。
 なお、ご参考までに、テレビ映像の脳への影響に関して、網羅的な小論文を見つけたのでリンクを張っておく。東京大学社会情報研究所の橋元良明助教授が書かれた「画像メディアの脳への影響に関する研究をめぐって ―テレビ映像の大脳生理学的アプローチ」というものだ。同研究所ウェブサイトの「サイバーライブラリー」内の「情報化社会と人間」プロジェクトというところに入っている。今回のような現象も含めて、テレビの脳への「影響」(短絡的に「害」と言ってはいけないのだ)についての研究を客観的に紹介なさっている。論文なんだから極力客観的なのはあたりまえではあるが、学者が書いた文章にもそうでないものはたくさんあるからね。この論文がいつのものなのか正確にわからないんだけど(1993年以降であることは文献リストからわかる)、紀要かなにかから抜粋してウェブページにするときには、この点、要注意ですよ、大学関係のウェブマスター殿。うっかりどこにも日付のない情報を載せてしまいかねないよ。

【12月16日(火)】
▼テレビを聴いていると(おれがパソコンを使っているとき、テレビを背にする位置関係になる)、なにやら妙にSF的なニュースな飛び込んできた。テレビアニメの「ポケットモンスター」(テレビ東京)を観ていた子供たちが、全国各地で相次いで引きつけ様の症状を呈し病院に運ばれたという。呼吸困難に陥っている重症の子もいるらしい。一瞬、ふたりの姪どものことが気になった。なにしろこいつらはポケモンの大ファンで、おれが攻略本を買ってやったら狂喜していたのだった。それどころか、家中でハマっていて、妹一家はいまごろ四人で引きつけを起こしてぶっ倒れているのではあるまいか。ここいらでは系列のテレビ大阪は映らないのだが、妹夫婦が住んでいるあたりではたしか映ったはずだ――待てよ。だが、考えてみれば、妹は毎夜九時に母に電話をかけてくるのが日課であるから、なにごとかが起こっておれば報告したはずである。ひと安心して、キーボードを叩き続ける。
 聞けば、ポケモンたちが電脳空間に入ってゆくというストーリーだったらしい。十五年前に跳んで、ウィリアム・ギブスンに教えてやったらなんと言うだろうな。彼はリアリズム作家だから、「さもあらん」と("No wonder."と言うかな)平然とタイプライターを叩き続けたかもしれない。
 今回の事件、重症の子に大事ないといいのだが、原因には興味をそそられる。ファミコンに没入している子にも同様の現象が見られる例が報道されているし、以前にも、テレビの深夜番組で催眠術の実演を観ていた相当数の若い女性が意識を失ったり、呼吸困難に陥ったりした事件があった。専門家にしてみれば、怪現象というほどのことではないのだろう。大勢の人に一度に画像情報を送れる媒体が存在するのだから、特定の性向を持つ人々にそのような効果を及ぼす情報が偶然流されてしまうことはこれからもあるはずだ。法的にはどういうことになるんだろうね、これは? 事故なのか、過失なのか。番組内容をこうした事態を防止する観点から事前にチェックできようはずもなく、製作会社やテレビ局に過失があったとするのは難しいだろう。しかし、故意にこうしたフィルムを作れる可能性がもしも技術的にあるのなら、関係者に犯意を持った者がいなかったことをあきらかにしなくてはならない。意図も結果もちょっとちがうが、アニメに某テロリスト教団の教祖の画像を挿入した“サブリミナル”事件も実際にあったしね。このあたり、法律や心理学、心身医学などの専門家の見解を聞いてみたいものだ。
 さらに通信インフラが洗練されてくれば、不可抗力の事故にせよ過失にせよ故意にせよ、インターネットでだって今回のような事件は起こりかねないだろう。ネットサーフィンしてると突然意識不明になる――なんて、小林めぐみ『電脳羊倶楽部』(角川スニーカー文庫)を地で行くようなニュースが、そう遠くない将来、飛び込んでくるかもしれないのだ。“人に引きつけを起こさせるウェブページの作りかた”なんてのを、爆弾やらなにやらの製法と一緒に公開するバカも出てくるだろう。新手のネット犯罪だ。まあ、見てると引きつけを起こしそうになるくらい、いろんな意味で怖ろしいページは、いまでもけっこうあるけどね。

【12月15日(月)】
▼世間が酒鬼薔薇事件に揺れる半年前の6月12日の日記で、「たまごっちに防犯ブザー機能を付ければ一石二鳥ではあるまいか」「たまぴっちを作ったほどのバンダイのことだから、もう企画しているやもしれぬ」などと書いていたら、バンダイめ、ほんとうにやりおった。ぬいぐるみにサイレンを内蔵した「キャラコットアラーム」という製品を12月25日に発売するそうで、「ハローキティ」と「てんしっちのたまごっち」の2種類のキャラがある。90デシベル以上のアラームが鳴り響くというから、立派な実用品だ。定価は1800円。来春までに20万個の販売を予定しているそうだ。
 たまごっちと合体させるというおれの案とはややちがうが、あの無愛想な防犯ブザーをランドセルにぶら下げて歩いている映像を見れば、バンダイともあろうアイディア会社がこのコンセプトに思い当たらないはずがない。やるぞやるぞと思っていると、はたしてやってくれるあたりはさすがと言える。ヒッチコック映画のようだ。きっとコンセプトは半年前からあったのだろう。不謹慎と非難されるのを怖れ、酒鬼薔薇事件のほとぼりが冷めるのを待っていたにちがいない(ほとぼりが冷めているかどうかは問題だが……)。しかし、そうか、ぬいぐるみに入れたか。これならおれが気にしていたバッテリーの問題もクリアできる。たまごっちと合体させるという無理をしなくても、キャラクターを使えば子供は持ち歩くのを厭がらないし、たまごっちより大きなぬいぐるみなら乾電池を使うことができるのだ(単4乾電池2本使用)。負けたな。天晴れじゃ、バンダイ。
 バンダイのサイトには、これを書いている時点ではまだ情報はなかったけど、毎日新聞「AULOS」「Hot Hot Information」に、詳しい情報と実物の写真があった。毎日新聞なんぞの宣伝をしてやるのは本意ではない(97年8月19日の日記参照)が、バンダイみたいな会社は応援したいのでリンクしておく。
 これ、姪たちに買ってやろうかな。哀しいことだが、いまの世の中、人を見たらジェイソンだと思えくらいのことは言っておかなくてはなるまい。学校の先生が襲ってきかねないのだからな。気にかかるのは、子供のこととて、ふだん面白がってピーピー鳴らし、肝心のときには電池切れなんてことにもなりかねないことだ。バッテリ・インジケータを付けると完璧だと思う。待てよ、実物を手に取っていないおれが知らないだけで、じつは付いてたりしてね。だとしたら、もう脱帽するしかない。まあ、残量が見えるデュラセルの乾電池を使ってもいいか。

【12月14日(日)】
▼まーた、きやがった。例の「合法的に90日以内に500万円の収益を確実にあげることが可能」だというビジネスの電子ダイレクトメールである。こんなもの、わざわざ頭を使って仕組みを検証してみるまでもない。おれがそんな方法知ってたとしたら、タダで他人に教えるものか。「バカめ」と書いて返信してやろうかといつも思うのだが、このメールアドレスが生きていることをわざわざ知らせてやるのも癪に障るから放置せざるを得ない。
 なにもおれは、楽して金儲けるのがいかんとか、額に汗して稼げとか、くだらんことを言うつもりはない。“楽して金儲けしたい”という想いは、無駄を省いた新しいやりかたを生むための貴重な原動力である。苦労しなくていいところで苦労するのはバカのすることだ。額に汗することは、ときとして麻薬的な自己満足をもたらす。額に汗すると、「ああ、ずいぶんと頑張ったものだなあ」と、なにやらえらく尊いことをしたような気になり、自分を褒めてやりたくなる危険な衝動が頭をもたげてくるのだ。これは自我増幅装置として働く衝動なので、おれはあくまでおれの美学として、これを警戒することにしている。額に汗してしまったときには、「待てよ。そもそも、ほんとうにおれはこのように額に汗する必要があったのだろうか」と、より楽であり得たかもしれぬ代替案をあとから考える。よりよいアイディアがあった場合、「ああ、つまらぬことで額に汗してしまった。おれはなんとバカだったのだ」と自分を責め、やはりこの方法しかなかったのだと納得したときには、「次に同じようなことに遭遇するまでには、もっと楽できる方法が見つけられるやもしれぬ」と考えるように心がけている。まちがっても、額に汗することは尊い、自分はよくやったなどとは考えぬのが、おれの美学である。誤解なさらないでほしいのだが、おれは額に汗することが悪いと言っているのではない。そうしなければならぬことがしばしばあるほどに、われわれの世界は不完全だ。額に汗したことで完結してしまうのは、単なる宗教にすぎぬと言いたいのだ。そして、この日記の読者はご存じのように、おれは知の対象としてしか宗教には興味がなく、それを信仰するといった発想を一切持たない。人類が生んだ必要悪としての文化だとしか思っていない。
 そういう観点からは、件のダイレクトメールも、なかなかいいことを言っているとも思えるのだが、決定的にくだらない一点がすべてを台なしにしている。楽して儲けようとすることは尊いことだ。それは認めよう。問題は、楽して儲ける方法を他人に教えてもらおうとする人々に成功を保証している点である。そんな人々が成功するわけがないじゃないか。したがって、このメールは嘘である――と、おれの論理ではそうなる。
 この手の怪しげな“楽して儲かる”商売が話題になると、おれはその考案者には一種の尊敬の念すら覚える。少なくとも、そいつは創造的なやつにはちがいないからだ。古いやりかたのヴァリエーションを考案しただけでも、なかなかたいしたやつではある。だが、それに引っかかるやつを、おれは徹底的にバカにすることにしている。人に教えてもらったやりかたで楽して金儲けができるなどと間抜けにも信じているその心性に、人を騙そうと知恵を絞る輩のそれをはるかに凌ぐ卑しさを感じるからだ。

【12月13日(土)】
▼この日記ページのカウンタとトップページのカウンタとの差が、いつのまにか3000を切っている。日記のほうが毎日100以上多いのだ。直接日記を読みにきてくださる方々がかなりいらっしゃるからだろう。もちろん、どこから読んでくださっても、おれはまったくかまわない。日記のアクセスがどんどん増えてゆくということは、常連の方が定着してくださっているのだろうから、まことにありがたいことである。この調子で差が縮まってゆくと、来月あたり日記のカウンタがトップページのそれを追い抜くはずだ。だからどうだというわけでもないけれど、なんとなく嬉しい。
▼このところ、干し無花果にハマっている。無花果なんて、そのまま食ったら水気が多くて何個も食えたものではないが、干したものはゴキブリくらいの大きさで(ほかに例はないのか、ほかに)、いくらでも食えてしまう。杏のようなイチゴのような妙な味だ。まずくはないが、とくにうまいというわけでもない。種がぷちぷちと歯先で潰れる感触が楽しい。栄養はそのままだから、非常にヘルシーな食いものであるらしい。袋に書いてあるデータを信用すると、とくにカリウム、繊維質、鉄分、カルシウムを多く含んでいる。この日記の読者はよ〜くご存じのように、おれはふだん夜食や間食にジャンクフードばかり食っているから、たまにはこのようなものも食わなくてはいけない。「ちゃんと食べてくださいね」などというメールをいただいたりするのだから、われながら苦笑する。ご心配なく。日記に書くのはジャンクフードのことばかりだけれども、一応晩飯はちゃんとしたものを食っている(朝と昼はろくなものを食っていないのは事実であるが)。
 しかし、現代人が必要な栄養をきちんと食事だけで摂るのは至難の技だろう。一日三十品目食えとか、新鮮な野菜を食えとか、テレビや雑誌は無茶を言う。いろんなものを少しずつ食うのは、そうでない食いかたに比べて金と時間がかかるのである。バンコラン少佐はステーキとワインばかり食って、栄養学のなんたるかを知らんやつだとパタリロに呆れられていたものだ。バンコランのような食いかたは、かっこいいようでかなり貧乏くさいのである。ほんとうに金と時間に余裕のある人は、いろんなものを少しずつ食う。これが庶民にはけっこう難しい。米を大量に食いながら、せいぜい二、三品のおかずをつつくのが庶民的な食事であろうと思うがどうか。他人の家でごちそうになるときには、その家庭のふだんの食事をありのままに見ていることにはならないから、よそのことはけっしてわからないのだ。量子論の観測問題のようである。突然テレビが取材に来たはずの家庭の晩飯が、やたら豪華だったりするのはどういうわけだろう。ホームドラマに欠かせない食事シーンにしても、ちょっとおかずの品目が多すぎないか?
 そこでおれは思うのだが、下手に家庭で手作りした二、三品を大量に食うよりも、コンビニで売ってる幕の内弁当でも買ってきて食うほうが、栄養面では豊かなのではあるまいか。とくに小人数の家庭では、コンビニ弁当と同じものを作ったら、その原価はコンビニ弁当の値段を上回りそうな気がする。「最近の若い奥さんは、コンビニで買ってきたものをそのまま出す」などとよく年配者が嘆いているが、彼らはたいてい三世代くらいは同居している大家族で育っているのだ。大家族は、多品目の食事を作るコストパフォーマンスがいい。現代の核家族に同じことを期待するのは酷というものだ。コンビニ弁当ばかりでは別の感情的問題も生じてくるだろうけど、出来合いのものをうまく使うことは、栄養面でも経済面(エコロジーも含む)でも現代人の知恵だと思う。なんでもかんでも家庭で手作りしたものが絶対にいいという価値観から、そろそろおれたちは抜け出さなくちゃならないのではないか。梅棹忠夫の言う“擬装労働”の呪縛から自由になってきた点に於いて、おれは“最近の若い奥さん”はものぐさになったのではなく(ものぐさな人もいるだろうが)、現代に適応して賢くなったのだと見ているのである。

【12月12日(金)】
▼鳥から人間への感染が初めて確認されたH5型インフルエンザ・ウィルス、N1の話題で持ち切りだ。人間から人間への感染力の強さにもよるだろうが、『復活の日』(小松左京)のようなシナリオがどうしても頭をよぎる。SFファンってやつは、究極にまでエスカレートした事態をとりあえず想像せずにはいられないのだ。
 もっとも、自然な突然変異で人間への感染力を獲得した(のだろうか?)ウィルスなのだから、人為的に“設計”した生物兵器がもたらし得る事態を当てはめてはいけないのかもしれない。根拠は薄いけれども、自然が生んだウィルスは宿主を滅ぼすほどバカ(レトリック上の擬人化だよ、念のため)ではないだろうとなんとなく期待したくなるのは事実だ。生態系の経済の中で“見えざる手”が働いて、人類が絶滅させられるほどのものは自然には出てこないだろうという信仰に似た気持ちはある。ウィルスだって、バイオスフィアの中でなにかの役目を割り当てられた必要不可欠な存在であるはず(?)だから、無茶はすまいと思うじゃないか。
 しかし、それら虫のよい仮定もしくは信仰がもし正しかったとしたところで、人為的に撒き散らされた物質や、人為的に増やされた紫外線の被曝が変異に寄与しているとすれば、自然様の知ったことではないだろうし、ウィルスなるものが遺伝情報の種間伝達や種の絶滅も含めた進化の加速に与っているという説や、宇宙から飛来し続けている地球の生態系外の存在もあるという説を持ち出されると、人間に都合のよい希望的観測はたちどころに萎えてしまう。そもそも、ことによると狭量かもしれぬ人間の作った定義からすれば、あいつらは一人前の生物とは言い切れないのだし、また、あいつらがなんのために存在し続けているのかという根本的な問題についても、人間はまだまだ無知だ。なにが起こっても不思議ではないはずである。
 人間がやるべきであり、また、できることといえば、自然の摂理とやらを過大評価も過小評価もせず、みずからの存続のために、降りかかる火の粉を淡々と払い続けることだけだろう。その結果、いつの日か人間は、自然を、宇宙を、自在に創造・破壊できる神のごとき力を手に入れるやもしれないし、自然を過大評価したために袋小路に入ったり、過小評価したために一夜にして絶滅してしまったりするのやもしれない。考えてみれば、この三つのシナリオはSFが繰り返し描いてきた重要なテーマだが、最近これらに真っ向から挑戦する作品が減っているように思う。古いと言われるかもしれないが、“個と種を描く文学”という小松左京的SFの定義を、おれはまだまだ重要なものだと考えている。
 ところで、SFの話はともかくとして、インフルエンザが流行ると、テレビの健康番組などが必ず予防を呼びかけたりするのだが、あれを聞くとおれは虚しくなる。いわく「栄養のバランスの取れた食事をしましょう」、いわく「睡眠を十分に取りましょう」「なるべく人ごみに出ないようにしましょう」「ストレスが溜まらないように気をつけましょう」――おいおい、そんなことができるくらいなら、誰も苦労せんよ。言ってる医者も、聞き手のアナウンサーも、「おれたち、なにをバカなこと言ってるのかなあ」と思っていそうな、白々しい雰囲気を醸し出している。「また、規則正しい生活を心がけ――なーんちゃって、こんなこと全部実行したら、風邪は引かないかもしれないけど、飢え死にしちゃいますわな。あはははははは、ははははは、はは、は、はは」などと、うっかり生放送で本音を口走ってしまう医者がひとりくらいいても面白いのではないか。「しばらくお待ちください」と放送が中断し、番組が再開されると、医者の座っていた席にクマのぬいぐるみが置いてあるとか……。
 あれに比べれば、病身に鞭打って仕事ができることをアピールする風邪薬のCMは、じつに現実味があっていい。ま、おれだったら、和久井映見に「休めばいいのにィ」なんて言われたら、その場でついつい激しい運動をしてしまい、風邪を悪化させることでありましょう。

【12月11日(木)】
▼電器屋に注文していた「マイコン沸とうジャーポット」というのが届く。おれが夜中に台所で湯を沸かすと、不眠症でやたら眠りの浅い母が目を覚ましてしまい睡眠薬の消費量が増えるという悪循環があり、「沸かせるポットでも買うたらどうや」「それもそうやな」と買ったのであった。電気のような上等のエネルギーを、最下等のエネルギーである熱に直接変えてしまうなどとはもったいないことおびただしく、資源物理学的には最低の行為である。よって、極力こういうものは買わないようにしていたのだが、ついに悪魔の器具に屈してしまった。時代に逆行している。地球が温暖化するわけだ。時期が時期だけに、京都の会議でがんばった人々に申しわけが立たない。
 で、いざ使ってみると、これは便利だ。なんて便利なんだろう。熱い茶が、コーヒーが、生姜湯が、白湯が、ボタンを押すだけですぐに飲める。人間なんて、しょせんこんなものである――いや、ホモ・サピエンスのみなさまを勝手に一緒にしてはいかんな。少なくともおれは、しょせんこんなものである。
 なぜ、たかが湯沸かしにマイコンなど搭載せねばならんのかが不思議でしようがなかったのだが、なるほど、温度制御に使っていたのか。節電機能がある。わざわざコンピュータで電気を使って節電させるくらいなら、電気で湯を沸かす道具など最初から作らねばよっぽど節電になるはずだ――などと買っておいて言うなよな。どうも悪魔に魂を売り渡したような気分である。だが、じつのところ、おれがガスで湯を沸かす場合と、電気で湯を沸かす場合とで、ガスや電気の生産に関連するすべての系での物理エントロピー収支(エネルギー収支ではない)を比較しないと、どちらがほんとうに“地球にやさしい”かわかったものではないのである。このあたりが個人からはよく見えないということも、おれの罪悪感に拍車をかけている。あくまで一般常識として、上等な(エントロピーの低い)資源を直接下等な(エントロピーの高い)資源に変えるようなことは日常生活ではなるべく避けようとしているだけだ。しかし、個人がせっせと“地球にやさしい”つもりで選んでやっていることが、より大きな系で見ると、ほかのやりかたより地球を汚している可能性は十二分にある。難しいよね、この問題は……。
 少なくとも、情報を迅速に広く行きわたらせれば、誰かにとっての廃物が誰かにとっては資源になる可能性が増すだろうとは、定性的に言えそうだ。より効率よく賢いやりかたで資源を食い潰してゆくことができるようにはなるだろう。乱暴すぎて理科系の人に怒られるかもしれないけど、そういう意味では情報もエネルギーなんじゃないの? マクスウェルの悪魔が一匹いれば温度差発電が永久にできるはずだよね? 結局、地球規模で誰もがマクスウェルの小悪魔にならなきゃならないのかもな。電気湯沸かしについてるマイコンみたいに。


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冬樹 蛉にメールを出す