間歇日記

世界Aの始末書


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97年12月下旬

【12月31日(水)】
▼昨日買ってきたヨーヨーをちょっと試してみる。なんだこれは。クラッチ付きタイプは、むちゃくちゃ簡単である。いわゆる“犬の散歩”(下で空回りさせて床を転がす技)なんて、誰にでもできてしまうではないか。やっぱりこれは邪道だなあ。こんなものが流行ったら、ますます子供が不器用になるばかりのような気がするが、逆に考えるとそれだけ市場は広がるはずだ。ヨーヨーを受け止めずに腕の外側で回転させる技もやってみたが、むかしのヨーヨーに慣れている身としては、ちょっと勘が狂う。やっているうちにクラッチ式でもすぐにできるようになった。慣れてくると、なるほど“大回転”もこちらのほうがやりやすい。あ、言い忘れたが、おれはスポーツは子供のころからまるでだめだけど、この手の小手先の技術を問われる遊びは得意である。体力や筋力はないが、身体の微妙な動きを統合する機能はまんざらでもないということか。楽器をちゃんとやっておくんだったなあ。
 クラッチ式が簡単に高度な技ができることはわかったが、メカを内蔵しているだけに重く、長時間やっていると筋肉に負担がかかる。手に戻ってくるときの衝撃も相当なものだ。掌の人差し指の根元あたりが腫れてしまった。これは小さな子供にはちょっと危ないかもな。
 それにしても、ヨーヨーなんて子供のころにやったきりなのに、たちまちコツを思い出した。なるほど、小脳で記憶したことは忘れないものなのだなあ。それどころか、手首や肘が大きくなったせいか、子供のころよりもうまくできるようになっている。なんだかしばらくハマってしまいそうだ。
▼先日忘年会のゲームでもらった「元祖ドラえもん本舗のドラヤキ」は、聞くところによると座布団大の大型のものがあるのだそうだ。7800円もするらしい。
▼さて、今年の日記もこれで終わり。ご愛読くださったみなさま、ありがとうございました。来年もよろしくお願いいたします。

【12月30日(火)】
▼分量はたいしたことがないのに、ああでもないこうでもないと苦しんでいるうち、原稿は朝までかかってしまう。NIFTY-Serve・FSF2の「本屋の片隅」にアップして昼過ぎまで寝る。起きるとモスラが呼ぶ。成長して体節がひとつ増えていた。風呂に入って、届いたばかりの餅を四個、電子レンジで溶かして呑む。さて、お出かけだ。今日は三年ぶりにアメリカから帰省している友人と食事する予定である。時間ぎりぎりに、待ち合わせ場所の南座前に到着。
 まず、日本の社会状況を最も端的に把握できる場所に行くのがよかろうと、二人しておもちゃ屋へゆく。昨日たまごっちを買ったところだ。ヨーヨーがまたまた流行っているようなので、店先で最近のヨーヨーを見て驚いた。なるほどね、軸を固定しているクラッチが遠心力で外れ、軸が空回りするようになってるのか。むかしは軸に固定されていない糸のほうが空回りするタイプが流行ったもので、メカに頼るのは邪道ではないかという気もする。これは試してみなければなるまいと、クラッチ付きのニュータイプと、むかしながらの空回りタイプを一個ずつ買う。
 友人と焼き鳥屋へ。いちいち注文するのが面倒なので、適当に見繕って焼いてもらうことにする。「刺し身はどうしはりますか?」と、おやじ。一瞬おれの頭をあることがよぎったが、一応友人にも訊いてみる。やっぱり彼も同じことを考えているらしく、刺し身は遠慮しておくことにする。当然の流れとして、狂牛病の話題が出て、そこからは進化論へCGへ認知科学へと話題が跳びに跳ぶ。彼はSFにさほど詳しいわけではないが、基本的におたくなCGの研究者なので、おれが関心を寄せている文化圏の話題は、術語なども説明抜きですいすい通じる。こういう話し相手は日常生活では得難く、ついつい酒も進むのだった。脳の話になり、たまたま携行していた『BRAIN VALLEY』の上巻を見せると、彼は瀬名秀明は知らなかったが、河口洋一郎の名に目を留めた。あっ、そうか。彼の業界で河口洋一郎を知らなかったらモグリなのだろう。
 進化論の話をしているとき、彼が「Darwin Award って知ってるか?」と問う。はて、どこかで聞いたような気もするが、そんな賞があったっけな? チャールズ・ダーウィンを記念して、進化の研究に貢献した人に与えられる賞なのだろうか――と思うでしょうが、さにあらず。これは、遺伝子プールから生存価の低い遺伝子を除去した功績を賛え、とんでもなくバカな死にかたをした人に与えられるジョーク賞なのだ。死にかたはともかくとして、死んだ人を冗談のネタにするというのだからなんとも悪趣味だが、まあ、興味のある方は Darwin Awards Official Home Page などをご覧ください。たしかに世の中には笑うしかない死にかたをしている人がいる。もっとも、死というものは本質的にみなそうなのかもしれないが。
 腹一杯食って焼き鳥屋をあとにし、からふね屋へ。おれも友人もチョコレート・パフェを注文。野郎が二人でチョコレート・パフェを食っているとホモに見えると、吉行淳之介だか安岡章太郎だか遠藤周作だか(要するに、あそこいらへんの第三の新人だったと思う)が書いていたが、気にせず食う。日付も変わり、名残惜しいがタクシーに相乗りして帰宅。

【12月29日(月)】
▼結局、朝四時ころまでゲームをやっていた。ゲームの合間に、テレビに映っていた静止画天気予報(深夜なのだ)のBGMを耳に留めた岡田靖史さんが、「あ、また菅ちゃんのを使うとるな」 映っていたのは京都テレビの深夜天気予報で、ゲーム音楽のようなピコピコした曲が流れていた。なんでもこの曲は菅浩江さんが作曲なさったものなのだそうである。おれも地元だから何度も聴いたことがあった曲だが、菅さんの作だとは知らなかった。京都テレビを観ている人は、菅浩江作曲とは夢にも思わず聴いているにちがいない。多才な人である。
 三、四時間寝て、朝飯。まだ朦朧としている。食後、今村さん、岡田さん、藤元さんと部屋で駄弁ってから旅館を出る。
 例年のごとく、喫茶店でお茶飲んで一応解散。一応というのは、だいたい同じ面子で三条から四条あたりの本屋に寄って散ってゆくのがお決まりのコースになっているからである。ジュンク堂で適当に本を買い、水鏡子さんたちと別れる。帰りに四条のおもちゃ屋にふらりと入ったら、たまごっちをたくさん売っていた。そういえば、初めてたまごっちの実物を見たのは去年のこの忘年会だった。もう珍しくもなんともない。噂には聞いていた「モスラのたまごっち」があったので、休みのあいだに育ててみようと買う。いかん、まだ帰ってから原稿を仕上げねばならんのだ。
 帰宅すると、東京創元社からリーディング用のペーパーバックが届いていた。仕事はあるうちが華であるが、とても年内には取りかかれそうにない。などと言いながらもたまごっちを初期化すると、卵と双美人が現われ、どう見ても人魂にしか見えないモスラの幼虫が誕生する。いまは人魂のようだが、きっと脱皮すると体節が増えてくるのだろう。ときどき暴れだしタワーを壊すので、そんなときには「愛情をもってしかってあげてください」とある。ようし、そんなときは“おかし”を与えてみよう。
 ちょっと仮眠して原稿にかかる。ときどきモスラがおれを呼ぶ。面倒なのでお菓子ばかり与えていたら、さっそく病気になった。病気になるとどうすればいいかというと、双美人を呼び出して歌を唄わせると治るのである。なかなか凝っている。「育て方によって、モスラ以外のキャラクターに変身する事もあります」と書いてあるな。キングギドラになったら面白いのだが、この画面の解像度でキングギドラを表現するのは無理だろう。ふつうのたまごっちにように“おやじモスラ”になったりするのだろうか。

【12月28日(日)】
▼とうとう原稿は完成せず、なんとか一日猶予をもらうことにして、疚しい思いで忘年会へ。遅れたかなと思って旅館に入ると、ちょうどよい時間だったようだ。水鏡子さんや米村秀雄さんは、早くも風呂に入って浴衣姿である。忘年会本会は、大広間で蟹すき。家族ぐるみのSF関係者が多く、子供が駆け回って賑やかだ。
 今年のビンゴゲームでは「元祖ドラえもん本舗のドラヤキ」というおもちゃをもらう。ほんもののどら焼きくらいの大きさのぬいぐるみで、ジッパーを開けて裏返すとドラえもんの人形になる。胸を押すと、大山のぶ代の声で「今日の運勢“小吉”」などと叫ぶ。大吉が出るとファンファーレが鳴るのである。他愛ないが面白い。ドラえもんの人形状態にしておくより、ドラやき状態にしておいたほうがなんとなくシュールでおれは好きだ。
 夕食後、部屋に戻ると、今村徹さんがビンゴで当てた携帯用の「電車でGO!」を、岡田靖史さんが難しい難しいと言いながらやっている。そのあとしばらく、岡田さん、藤元直樹さんと、ちょうどテレビでやっていた『ターミネーター』を観てから、ゲームの部屋へゆく。The Settlers of Catan というドイツ製のゲームが面白いらしく、さっそくルールを教えてもらってプレイをはじめる。一種の地勢戦略ゲームで、無人島に入植する設定のプレイヤーたちが、各地に産する資源を他のプレイヤーと取り引きしながら街を拡大してゆくというものである。どうもおれはこの手のゲームを覚えるのが苦手で極端なスローラーナーなのだが、2ゲームめくらいから要領がわかってきた。おれでもすぐ覚えられるくらいだからルールは比較的簡単である。やりはじめるとなかなか面白く、二時間や三時間はすぐに経ってしまう。日本語版も遠からず出るらしい。ゲームを続けているうち、夜は更ける。

【12月27日(土)】
▼プロバイダのログを見ると、昨日おれのサイトが1,152ページ・ヴューを記録している。一日で一千PVを超えるというのは、ホームページ開設以来初めてのことだ。瞬間風速ではあろうが、読んでくださる方がこんなにあるというのはありがたい。なにしろこのページ、「画像がほとんどない」「裸がない」「なにももらえない」「役に立たない」「掲示板がない」「有名人が作ってない」「技術を駆使していない」「可愛くない」「かっこよくない」「ためにならない」「ひ弱な坊やと呼ばれなくならない」「彼女や女房が悦びにむせばない」「ペン字検定に合格しない」「魂の救済に繋がらない」「水中に一時間潜らない」「空中に浮揚しない」「仲間を増やすだけで大金持ちにならない」などなどなど、アクセス向上に繋がる要素がなにもないことにかけては自信がある。ただひとつ、ちょっと覗いてやろうか思わせる要素があるとすれば、「こいつはなにを言い出すかわからない」ということだけであろう。ここはそれだけが売りだし、今後も売りにしてゆくつもりだ。「こんなバカなこと書いてた人がいるんだけどさ――」と面白がってもらえたなら、それで本望である。というわけで、今後ともご贔屓に。
▼今日一気にかたづけてしまうはずのNIFTY-Serve・FSF2「本屋の片隅」用の原稿が、全然一気にかたづかない。ううう、これは徹夜しないと、恒例の“関西のSFな人々の忘年会”(正式名称がよくわからない会である。昨年の12月29日の日記参照)に行けなくなってしまうぞ。寝てしまうと起きられなくなるのは必定だ。焦る焦る。
「SFオンライン」がまだ更新されていない。きっと年末の諸般の事情で編集部は修羅場なのだろう。察するに余りある。身体を壊さないようにがんばってください(って、人に言えた生活してないか)。救世軍でなくたって年末は忙しい。ここはひとつ、毎年この時期になると必ず言う自信作コピーをお送りして、世の忙しいみなさまのご多幸を祈ることにしよう――「愛があれば、年の瀬なんて」

【12月26日(金)】
▼いつも行くコンビニで煙草を1カートン買ったら、本来ほかの煙草に付いてくるはずのマグカップをおまけにくれた。金曜の夜にやってきては、やたらスナック菓子を買ってゆくサラリーマンとして、おばちゃんに覚えられてしまったのかもしれない。余談だが、この店のアルバイト店員に、高野史緒さんにそっくりの娘がいる。このあいだの京フェスで初めてお目にかかったとき、「なんでコンビニのねーちゃんがこんなところに来ているのだろう」と一瞬思ったくらい似ているのだ。
 今年最後の原稿が残っているのが気にかかって仕方がないのだが、今日は会社の忘年会で酒を飲んでいるためか、どうもはかどらない。カフェイン錠を飲んでもいっこうに頭は冴えず、うだうだしているうちにメルティーキッスをひと箱食ってしまう。うーむ、今日はやめだ。明日、尻に火を点けて一気にかたづけてしまおう。

【12月25日(木)】
▼むかし読んだヒトコマ・マンガに、暖炉からサンタクロースの燻製が出てくるというやつがあり、大笑いした憶えがある。これをプラクティカル・ジョークとして誰かが実行しないかと、かねてから期待しているのだ。適当な動物の死骸を継ぎ合わせて河童のミイラみたいなものを作り、西洋式の家の煙突から投げ込んでおく。「サンタの死骸発見!」と大ニュースになる。星新一氏がお好きそうなネタだ。いや、もしかすると報道管制が敷かれ、サンタの死骸はネバダ州かどこかの地下研究施設に厳重に保管されるやもしれない。極秘プロジェクトが編成され、サンタの遺伝子マッピングがはじまる(瀬名秀明入ってるな)。いや、マッピングなどという面倒なことをせず、燻製からサンタのDNAを抽出し複製を作ってしまうのが手っ取り早いかもしれない。“サンタクローン”と呼ぼう。クローン製造の過程で予期せぬ変異が起こり、巨大化・狂暴化するなどという事態も正しい怪獣映画の作法だ。『サンタ対ガイラ』なんてのは、なかなかシュールでいい。狂った科学者がサンタを大量生産し、あちこちでいたずらをはじめるのも面白い。こうして日記を書いているあいだも、パソコンの上に緑色のサンタがしゃがみ込んでおれに厭味を言うのだ。世界中を恐怖のどん底に陥れるサンタどもであったが、ある朝、街に出てみると、そこらじゅうにサンタの死骸が散乱し、サンタたるありさまになっている。野良犬なんか、サンタの肉をくわえて歩いているくらいだ。サンタ・レジスタンスの人々が、こういうこともあろうかと秘かに開発しておいた対サンタ細菌兵器を風船に乗せてばらまいたのだった。しかし、前作は予告篇にすぎなかった。対サンタ細菌は低温では活動できず、一万体あまりのサンタが南極に生き残っていたのだ。もともと北極に住んでいたのにはわけがあったのである。それを知った人類はサンタを滅ぼさんと南極に攻めてくる。逃げるサンタ。追う人類。脱走と追跡のサンタだ。やがて、最後のひとりになったサンタは、こういうこともあろうかと秘かに開発しておいたサーンタ型ロケットで地球を脱出する。行くあてのないサンタが宇宙をさまよっていると頭の中で声がする。宇宙生物が脳に寄生してしまったのだ。しかもこの宇宙生物は未熟なやつで、師匠がいないと自制を失い、やがてサンタの脳を食い荒らしてしまうという。いつしかそいつと友だちになってしまっていたサンタは潔い最後を決意し、手近な太陽めがけて突っ込んでゆく。これが、たったひとつのサンタやりかたなのだ。“サンタイバー”というのもありかもしれん。ところでおれはいったいなにを書いているのだろう。苦しんでいる原稿がひとつあるせいか途中から脳がハイになってしまい、たまにはこういうのもいいだろうとヨコジュン・モードでバカ話をしてしまった。今日の日記(?)は、SFファンでない人にはさっぱりわからない。ごめんなさい。ここらで終わりにするとしよう。サンタの魂に安らぎあれ。

【12月24日(水)】
▼「冬きれいさま(夏はきたないんですか?)、いつも日記を読んでいます。きょうはしつもんがあってメールしました。ほんとはもっとえらい先生にききたかったのですが、なんだか恥ずかしいので、冬きさんくらいがてごろだと思ったのです。いつもネタに困るとお菓子の話ばかり書いてるし、人の小説には好きかってを言うのに、自分ではたいしたこと書いてないし、なんとなくしんきん感があるんです。それで、しつもんなんですが、サンタクロースってほんとうにいるんでしょうか?」
「わははははは、サンタなんていないんだよ、ヴァージニア。いないんだ。それじゃつまらないから、君が作ればいいじゃないか」
▼SFマガジンの「創刊500号記念特大号 PART・II 日本SF篇」が届く。分厚いクリスマス・プレゼントである。PART・IIも読み応えがありそうだ。雪風シリーズが満を持して再開されたのも嬉しい。「日本長篇ベスト50ブックガイド」に書かせていただいたのだが、いやはや、自分の書いたところはもう二度と読みたくない。こわごわ読者の目で読み直してみると、なんてガチャ文だ。安部公房、筒井康隆、大原まり子の日本SF史に残る名作を一作あたり400字前後で紹介するなどという仕事は、おれごときにははなはだプレッシャーが大きい。SFとやらを読んでみようとした方がこのガイドを参考に本を選ぶかもしれず、みずから本を手に取ってくださればまだいいのだが、おれの拙い紹介のみで「なんだ、おもしろくなさそうだ」と判断されてしまったらなどと考えると、申しわけなさで石になってしまいそうである。もっとも、このガイドに出ているような作品は、おれなどがどうドジを踏んだ紹介をしたとて、毫も揺るがぬ傑作ばかりであって、だからこそ書かせてもらえたのだと自分を慰めることにしよう。こういう原稿ってしんどいよね。「○○字以内で述べよ」という試験問題をやっているような気になってしまう。
 それにしても、ほかの方々はうまいなあ。正直言って、相当苦しんでおられるにちがいない箇所もいくつか読み取れるのだが、自分で書く側に回ってみて、この手の地味な記事にいかに労力がかかっているかがよくわかった。こんなのが回ってこないでよかったと胸を撫で下ろしている作品もある。書いているほうは原価意識もへったくれもないこだわりで書いているのだが、おれがSFマガジンの“純”読者だったときのことを思うと、こういうコラム的記事は気楽にざっと目を通す程度だった。それがあたりまえであって、書く側に回ってもその感覚をけっして忘れてはならないと思う。「これを書くのはたいへんだったろうな」などという目で見はじめると、それは読者としての目が歪んできたことになるからだ。おれの書いた400字に“ふつうの読者”が目を走らせるのは長くて数秒であろうと肝に命じたうえで、自分で納得のゆくものを書きたいものだ。

【12月23日(火)】
▼パソ通友だちのOCHIKA/LUNAさんから、カエル型のレードル・スタンドをクリスマス・プレゼントに頂戴する。“レードル・スタンド”とはなんぞやという問いが出るかもしれないので解説しておくと、料理に使う“おたま”(ladle)を使用中一時的に立てておくための受け皿のようなものである。おたまの皿部分がスリッパを履く足のように受け皿の半蓋で固定されるようになっており、倒れようとするおたまの柄の自重は、梃子の原理でおたまの皿を受け皿の半蓋にさらに押しつける力に変換されるわけだ。すなわち、おたまの皿はみずからの柄の位置エネルギーの一部によって把持されるというエレガントな仕組みになっている。なんだかよくわからない? 金物屋かどこかで実物を見ていただきたい。それにしても、カエル型のおたま立てとは、とりもなおさず、おたまの立ったものがカエルであるからして、日本語ではちゃんと粋な洒落になっている。OCHIKA/LUNAさん、ありがとう。
 だが、困ったことにわが家にはおたま立てを使う文化がなく、おたまなるものは頭の部分を小皿に置いて寝かせることになっているのだ。はて、ほかになんに使ったものかと、添付されている説明書きを見ると、灰皿やキャンドル・スタンドにも使えるとある。おお、これじゃ。過日、水玉螢之丞さんから「食いだおれ太郎」のお返しとしていただいたカエルグッズの中に、カエル型キャンドルがあったはずだ。カエル型のスタンドでカエル型キャンドルを楽しむ。これぞ正しいカエラーのクリスマスの過ごしかたであろう。さっそく、実行する。
 緑色のカエル型キャンドルの頭のてっぺんから芯が出ている。火を灯すと、暗くした部屋に暖かい光がぱあっと広がる。じつに幻想的だ。最近は香の出るやつが流行っているが、蝋燭の炎というやつはただそれだけでなんとも言えぬ鎮静効果がある。じっと見ていると、やがて炎はカエルの目のあいだに達し、目が溶けはじめる。白と黒の顔料かなにかで書かれた目玉の位置が徐々にずれてゆき、内側に崩れるように頭の形が変わってくる。いつしか溶けた頭の中に脳漿のような蝋の池ができ、そこに浮かんだ目玉たちがちぐはぐな視線でこちらをじっと見つめている。物体Xが乗り移ったカエルというロマンチックな趣きで、はなはだSF的である。これを書いているいまもまだ炎は消えない。キャンドルはすっかりカエルの形を失い、緑色の吐瀉物のようなものの中で小さな炎が健気に揺れている。エルトン・ジョンなら歌のひとつも作りそうな感動的な光景だ。
 うーん、いいなあ、蝋燭は。なにしろストレスの溜まりやすい性格だから、アロマ・キャンドルってやつも一度試してみようかなと思うのだが、二酸化炭素を無為に増やすのもなあ……などと考えるから、そもそもストレスが溜まるんだよな。蝋燭を灯しているあいだは蛍光灯を消せば罪滅ぼしになるだろうか。

【12月22日(月)】
▼まだ伊丹十三ショックから抜けきれないので、今日は伊丹十三についてうだうだと書く。
 森下一仁さんがエッセイストとしての伊丹十三を日記(12月21日)で高く評価しておられるのだが、不勉強にもおれは伊丹十三の著書を読んだことがない。森下さんは伊丹十三のエッセイを、東海林さだおや椎名誠に通ずる、いわゆる“スーパーエッセイ”の始祖であろうとおっしゃる。これを読んでおれは膝を叩いた。伊丹十三のエッセイを読んだことがないにもかかわらずである。伊丹監督の映画には、たしかに東海林さだお的、椎名誠的な、ディテールへの滑稽なまでのこだわりがある。おそらくエッセイもそうなのだろう。褒めているのか貶しているのかよくわからなくなってしまうのだが、おれは伊丹映画のストーリーというものにあまり強い印象を受けなかった。ただただ、鋭く切り取られたディテールたちが記憶に突き刺さって消えない。そのディテールたちは、作品に厚みを加えるための単なる肉づけに供されたツールではなく、ひとつひとつがそれ自身に神を宿している“作品”なのだった。
 おれの印象に残っている好きなシーンを並べて追悼としよう。「あったあったあった」と肯いてくださる方がたくさんいるはずである。

■カメラが棺桶の中から死人の視点で親類縁者を見上げるカット(『お葬式』)。これには劇場で爆笑した(が、笑っている人は数人だった)。冷蔵庫の中を漁っている人を冷蔵庫の中から撮るといった手法の応用だろうが、こんな手があったとは、まさに度肝を抜かれた。
■葬儀屋の江戸屋猫八がかけているヘンな眼鏡(『お葬式』)。あの“眼鏡のキャラ”が立って、葬儀屋の存在感をすべて物語っている。
『タンポポ』の冒頭で、若いトラック運転手が東海林さだおのラーメンについてのエッセイを朗読する。そいつがやたらうまそうである。伊丹十三自身、東海林さだおを愛読していたのだろう。森下さんのご指摘に説得力が出てくる。まあ、『タンポポ』って、全篇“丸かじり”シリーズみたいだよね。
■口に含んだ卵の黄身を口づけでリレーする男(役所広司)と女(黒田福美)(『タンポポ』)。やがて感きわまった女の口の端から、黄身がとろりと流れ出る。『ナインハーフ』もかなわない、映画史上最もエロチックなシーンのひとつだとおれは思っている。
■海女の少女(洞口依子)から生牡蠣を手渡された男(役所広司)が、それを啜って唇を切る(『タンポポ』)。貝肉の表面に鮮やかに広がる一滴の血。映画史上最もエロチックなシーンのひとつだと……(以下、略)。
■撃たれて瀕死の状態なのに、「猟師は山芋をしこたま食った猪を殺して腸を焼いて食う」という話を、嬉しそうに女(黒田福美)にするギャングの男(役所広司)(『タンポポ』)。死にゆく男に縋って泣き叫びながらも、「わさび醤油なんか合いそうね」と意見を述べる女。うん、たしかに合いそうだ。
■裏金を表に出す手伝いをしてやると、宝くじの当たり券を金満家の社長(山崎努)に売りにくる浮浪者(ギリヤーク尼ケ崎)(『マルサの女』
■悪事の証拠写真を撮ったカメラマンを買収しようとするヤクザが、カメラマンの目の前に片手の指を全部立てて金額を提示する。カメラマン氏、ヤクザの小指を叩きながら、「なんだ、こりゃあ。四千五百万か?」(『マルサの女2』
■査察部の押収資料保管室のロックを内側から解除する暗証番号が“マルサ怖いよ”(035814、だろう)。(『マルサの女2』)。
■入院中、メロンを“丸剥き”にさせて食う政治家(北村和光)(『あげまん』)。おれも一度やってみたい。

 どうも、『大病人』『ミンボーの女』『スーパーの女』などは、観てはいるのだが、記憶に突き刺さるというほどのシーンがすぐには出てこない。やはり、新しいものはまだ一回しか観ていないからだろう。これから繰り返し観るのが楽しみだ。もう新作はないのだから。

【12月21日(日)】
「SFオンライン」の原稿をひたすら書く。SFマガジン・499号は記念号だけあって、読むのが苦にならない傑作・佳作ばかりだが、いかんせん量が多い。小説の本数にして、いつもの三倍くらい載っているのだ。「S-Fマガジンを読もう」のコーナーをサラリーマン兼業のおれがひとりでこなすのはさすがにきつい。よって、今回はおれが十本、スタッフの堺三保さんと添野知生さんで残りの十本をやることになっている。
 いやしかし、499号はほんとに読み応えあるよ。入手困難な作品の再録もあるし、少々お高いけれども買っておいて損はない。SFファンは(もちろん、そうでない人も)本屋さんにあるうちに入手しておかれるとよいと思う。商売抜きで(おれは499号には書いてない)お薦めする。
▼朝、Spa王を食いながらテレビを点けると、伊丹十三監督が自殺したとのニュース。呆然。じつに意外だ。おれは伊丹十三という人を、最も自殺しそうにない人、というのは失礼に当たる場合もあるので言い直すと、なにがあったにせよ、自殺という決着を美学として嫌う人であろうと思っていたからだ。なにかよほどの決意を迫る事情があったのだろうか。いや、やっぱりなにかのまちがいではないのか。例の暴力団の事件もあるし、ことによると手の込んだ謀殺ではあるまいかと、まだ思っているくらいである。人間の精神の動きというやつは、まったくもってわからない。もう伊丹作品の新作で笑えないのかと思うと残念だ。とても残念だ。


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