間歇日記

世界Aの始末書


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98年3月上旬

【3月10日(火)】
▼おっと、昨日の日記で『トゥモロウ・ネバー・ダイ』などと表記してしまったが、CMよく見たら『トゥモロー・ネバー・ダイ』でありましたので直しておきました。きっと、“明日はけっして死ぬな”ではなく、“モロー博士よ、永遠に”というSFなのかもしれない。
 サイコドクター(サイコなドクターではない)風野春樹さんからもご指摘。『ダンス・ウィズ・ウルブズ』の原題は Dances with Wolves だけども、なんでダンスのほうだけ s を取ったのかいずれにしても奇妙だと訝っておられる。あっ、そういえば原題はたしかに dances だったのを思い出した。おっしゃるとおり、これも奇ッ怪ですなあ。
キトラ古墳の話題があちこちで出ているところへ、中村紘子氏のカレーのCMを観たりすると、ある人物の名が浮かび上がってくる――って、児玉清のクイズ番組みたいだけども、三十代以上の方はもうピンと来たはずだ。
 そう、庄司薫。1937年東京に生まれ、日比谷高校を経て東京大学法学部を卒業。福田章二の本名で書いた「喪失」(中公文庫『喪失』所収)で、二十一歳にして第三回中央公論新人賞をかっさらい、その後いくつかの短篇を書いただけで完全に沈黙した。1969年、ほぼ十年の沈黙を破り庄司薫の筆名で突如再登場、『赤頭巾ちゃん気をつけて』(中公文庫)で第六十一回芥川賞を受賞。続く『白鳥の歌なんか聞えない』『さよなら怪傑黒頭巾』『ぼくの大好きな青髭』(いずれも中公文庫)の赤・白・黒・青(朱雀・白虎・玄武・青龍)四部作で若者たちを魅了した。ピアニスト/エッセイストの中村紘子氏のご夫君である。が、またまたいくつかのエッセイ集を出したあと沈黙し、おれが最後に本で名を見たのは(化けもんみたいだけども)『家族としての犬と猫』(庄司薫編、新潮社、1987年)というアンソロジーの選者としてくらいだ。
 庄司薫の作品というのは、三十代半ばのおれの世代あたりを最後に、四十代くらいの読書好きは、中学生から大学生くらいまでのあいだに、まず一冊は読んでいるだろう。計算された青臭さに嫌悪感を覚えて拒絶した人と、太宰やフロイトやマルクスにハマるように、ハマってしまった人に分かれるんじゃないかと思う。おれはハマったクチだ。どっちかというと、主人公の薫クンよりも、彼の親友の小林クンが好きだったのだが……。ま、いずれにせよ、庄司薫は「むかし夢中で読んだ」と口にすること自体がこっ恥ずかしいような、誇らしいような、苦々しいような、日本文学史に特異な位置を占める不思議な作家である。
 庄司薫のゲリラ戦はまだ終わったわけじゃないと、おれはずっと気になっている。時代の風が圧倒的に不利な方向に吹いていた八十年代には彼は潔く沈黙していたが(たまーに対談とかやってたみたいだけど)、おれは最近、なんとなく、時代がまた庄司薫的なものを欲しはじめているような気がしてならないのだ。そろそろおれたちの度肝を抜くような小説をひっさげて、ゲリラ薫クンがジャングルの中から颯爽と現われるんじゃないか、などと思っている。成長した薫クンも読みたいが、小林クンにもぜひ再会したいものだ。

【3月9日(月)】
▼以前にも『ザ・インターネット』とか『ザ・エージェント』とかで同じことをぼやいたけれど、今度のはもっとひどい。“明日はけっして死ぬな”と、あさってになれば死のうがなにしようがかまわないらしい奇ッ怪なタイトルの映画を、テレビでしきりに宣伝している。もちろん、007シリーズ最新作『トゥモロー・ネバー・ダイ』のことだ。そのままカタカナにするんなら、“ダイズ”にしてどこに不都合があるのだろう? 義務教育で習う英語だぜ。“ネバー・ダイズ”ではまるで納豆のようだというクレームでもあったのであろうか。そのくせ、むかしは“ゼロゼロセブン”と言っていたものを、いつのころからか“ダブル・オー・セブン”と言うようになっている。義務教育で dies を習わなかった人たちへの配慮をするのなら、“ダブル・オー・セブン”などとハイカラな言いかたはやめて、わかりやすく“ゼロゼロセブン”と言ってあげればいいのに。かと思うと、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』などという、英語のわからない人にはなにやらさっぱりわからない、いや、わかる人にもたいへん読みにくいどっちつかずの邦題(?)を平気で使ったりする。映画の配給会社には、ちゃんとしたコピーライターを雇う余裕もないのだろうか。いまだったら、むかしの007も『フロム・ロシア・ウィズ・ラヴ』とかいう邦題になっちゃうんだろうな。原題とはまったく関係なくてもいいから、日本語としてこなれていて作品の味わいをそこはかとなく感じさせるような、藝になってる邦題を頭絞ってつけてほしいよね。かといって、『狼と踊れ』なんて映画があったら、それはそれで神林長平みたいでややこしいが、あれはまた妙なことに、wolf の複数形が wolves だと誰もが知っているはずだという前提に立ってるんだよな。なのに、dies はいかんらしいのだ。さっぱりわからん。

【3月8日(日)】
▼さきほど今日の日記を書いていると――ってのも、日記の書き出しとしては画期的かも――夜中だというのに、突然玄関ドアの鍵穴に金属が差し込まれる音がして、カチャカチャと穴をほじっている音が続いた。玄関ドアとおれがパソコンを叩いているところとは、襖を隔てて三メートルくらいしかない(狭い家だなあ)。誰かがドアの向こうにいる。しばらくすると、おずおずドアをノックしはじめた。このあたりで、おれにはもうそれが誰かわかっている。おれは母と二人暮らしであり、母はといえば奥の部屋で寝ている。となると、あいつしかいない――。やがて、あいつはドンドンと拳を固めてドアを叩きはじめた。そっとドアのレンズ穴から覗くと、はたしてあいつであった。最初のノックのあたりで、年寄りのことゆえ眠りの浅い母は、睡眠薬を飲んでいないとすれば目を覚ましているはずだが、まあ、慣れたもので、敢えて起きてこようともしない。あいつはしばらく拳でドアを殴り続けていたが、やがて気づいたのか諦めたのか団地の階段をとぼとぼと降りて行った。
 団地というのは、まったく同じ外見の棟が規則正しく並んでいる。さっきのあいつは、おれの住んでいる棟のひとつ隣の棟の同じ部屋番号に居を構える酔っぱらいのおっさんなのである。酔ってるから棟をまちがえているのがわからないのだ。過去にもときおりこういうことがあって、さすがに最初のときはびっくりし、ベートーベンやマクベスの気持ちがよくわかったものだが、いまでは「ああ、またあのおっさんか」という程度で、ドンドンとドアが響き続けているあいだも、おれは「カルビーワッフル ハニーシナモン」を食いながらキーボードを叩いている。おっさんが酔っているときは、こちらに危害を加えるおそれもなきにしもあらずだから、けっしてドアを開けてやったりはしない。また、明日あたり、奥さんが謝りに来るだろう。昼間奥さんと会った母によれば、けっして悪い人ではないらしい。でも、このおっさん、絶対にアメリカにだけは移住しないほうがいいよな。同じことをやらかしたら、ドアごしに蜂の巣にされても文句は言えまい。
 おや、最初日記に書こうとしていたネタを忘れてしまったぞ。まあ、いいや。団地の平和な夜は更けてゆく……。

【3月7日(土)】
▼昨日、会社の帰りの電車で――ってのも、日記の書き出しとしては画期的かも――外国人の男女が隣に座ってきた。ぺちゃくちゃとよく喋る。うるせえなあと思っていると、なにやら迷信について話しはじめた。どうやら出身国がちがうらしく、互いの国の迷信を紹介しあっている。喋りかたや発音、使用語彙からすると、たぶん男のほうはアメリカ人、女のほうは高等教育を受けたオーストラリア人かイギリス人といった感じだった。やがて、話題が日本の迷信のことになり、男が言う。「日本にも妙な迷信があるよね。ぼくが聞いたのは、たしか夜に爪を切ると、ええと……どうかするんだ。どう言ってたっけな……ええっと、夜、爪を切るとぉ……」 おれはじれったくなって、よっぽど「親の死に目に会えないんだ」と割り込んでやろうかと思ったが、聞き耳を立てているのを知られるのもみっともないし、ぐっと我慢した。その後も、その男、「さっきのだけどさ、ええっと、夜爪を切るとぉ……ええくそ、思い出せない」と話題を蒸し返してこだわり続けている。精神衛生に悪い。
 電車から降り、最寄駅のそばのコンビニに入ると、コピー機の上にでかでかと模造紙の横断幕。「パラサイトイヴ 予約受付中」と大書してある。もうすぐゲームが出るのだ。おれは“パラサイト”と“イヴ”とのあいだにうずうずと「・」を打ちたくなり、背広の内ポケットのボールペンに手が伸びそうになったが、ぐっとこらえた。アブナイ人だと思われてもかなわん。精神衛生に悪い。えー、全国のコンビニの店員さん、余計なお世話ではありますが、『パラサイト・イヴ』が正しいので、おれみたいな細かいことが気になる客の精神衛生のため、くれぐれもよろしく。
3月4日の日記でご紹介した“早く来ないと行ってしまうわらび餅屋”の呼び声だが、これはわらび餅屋の専売特許ではないことがわかった。林譲治さんがお寄せくださった情報によると、「わぁらびぃもちぃ〜/つめたぁくて/おいしぃいよ/はやくこないとぉ〜いっちゃぁうよ/しーらないっ」の“わらび餅屋・行っちゃう型”(と勝手に呼ぼう)と同じ生存戦略を取るものが、なんと異種の石焼きいも屋にもあるというのだ。林さんが札幌で耳になさった呼び声は、「いしやきいも〜あたたかくて(もしくは、ほっかほかで)/おいしぃいよ/はやくこないとぉ〜いっちゃぁうよ/しーらないっ」というものであったそうである。ううむ。どちらがオリジナルなのだろう。石焼きいも屋のほうが、わらび餅屋よりむかしからあったような気はするが、速断は禁物だ。札幌の地は寒いだけのことはあって、石焼きいも屋が優勢種らしく、独特の進化を遂げているようである。札幌駅以西に棲息するものなどは、『独特の口上の「東海の浜のなんとかかんとか」とえらく妙なフレーズが延々と続き、最後まで聞かないと石焼きいもを売っているとはわかりませんでした』というのだから、ものすごい。つまりこれは、いったいなにを売っているのかを最後まで伏せることによって、ターゲットの興味を繋ぎ留めようという戦略だ。一種のティーザー広告である。もっとも、地元の人は「東海の浜の……」とはじまると、すぐに石焼きいも屋だとわかってしまうだろうけれども。北海道なのに“東海の浜”云々からはじめるあたりが奇ッ怪だ。本州から伝播した名残なのか、それとも、およそ関係ない土地に冒頭で言及し度肝を抜こうという戦略なのか。北海道で「北海の……」などと切り出す口上はうようよあるだろうから、これはなかなか賢い出だしかもしれない。林さん、貴重な情報をありがとうございました。

【3月6日(金)】
▼おれが大学生のころである。同じ学年に片腕のない男子学生がいた。体育の卓球の授業で彼と一緒になったおれは、彼のプレイを見てたまげた。強いのだ。サーヴのときだけラケットを顎と肩で挟み、障害のないほうの手でボールをワンバウンドさせると、次の瞬間には、いままでボールを持っていた手の中にラケットが魔法のように収まっている。あとは健常者とまったく変わらない。いや、健常者以上である。彼と対戦するとき、おれの中にほんの少し「思いきりやっていいのだろうか」という気持ちが自動的に湧き上がってきてしまったのを感じた。が、すでに彼のプレイを見ていたおれは、その気持ちを恥ずべきものだと切り離した。たまたま自分に腕が二本あるくらいのことでそのような気持ちを抱くのは、彼に対する侮辱である。彼の敏捷な身のこなしと大自在のラケット捌きの前には、運動神経の鈍いおれのほうこそ障害者だ。はたして、おれは全力で対戦し大敗した。思えば、卓球というのは、サーヴのときを除いては、片腕であることのハンディキャップが最も少ないスポーツのひとつだろう。それでも、身体のバランス制御に空いているほうの腕のモーメントを利用できないという不利はあるにちがいない。おそらく彼は、障害のある自分に最も向いているスポーツを選択して精進し、その点をも克服したのだろう。
 同じ学年に全盲の男子学生もいた。おれと同じ英米文学科で、講義ではよく一緒になった。彼は中途失明であるにもかかわらず、驚くべき速さで点字の英文を読む技術を身につけており、寸暇を惜しんで勉強していたものだ。何度か彼にノートの整理を手伝ってくれと頼まれたおれは、彼の寮の部屋で生まれて初めて“カニタイプ”(点字用タイプライタ。六本のキーが蟹の脚のようなのだ)というものを見たのである。大学にあった“オプタコン”という装置も、彼に触らせてもらった。出力部に人差し指を差し込むと、指の腹にざらざらしたものが当たる。それは微細な針でできた小さな剣山なのである。入力部には文字が書かれたふつうの紙をセットする。すると、装置は紙の上に書かれた文字の濃淡をそのまま針の上下運動に変換し、針が指の腹を刺激する仕組みなのだ。つまり、オプタコンを使えば、健常者が読むふつうの本が視力障害者にも読めるわけである。彼はこの装置を使うこともできた。オプタコンで読むときには文字の形がそのまま指に伝わっているのに対し、点字の体系はこれとはまったくちがった表音的なものだ。ということは、彼は指の腹ですでにふたつの文字体系をマスターしているのだ。しかも、それで日本語と英語の両方を読んでいるのだから、彼の頭の中では二種の言語体系と三種の文字体系があたりまえのように乱舞していることになる。おれの想像を超えた世界だ。
 彼となんの気なしに話していたときのことだ。話題が誰某先生を知っているかといった流れになった。「えーと、ピンと来ないな。もしかしたら、その先生は頭が禿げてる?」と、おれはさらりと彼に尋ねた。ちょっと彼が困った顔になったので、しまったと気づいた。おれはそのとき、彼が目が見えないことをまったく意識せず接していたのだった。彼はとくに気にしたふうでもなく、おれも「ごめんごめん」で笑ってすませた。内心おれは自分の無神経さを呪うと同時に、彼が盲人であることを忘れて話をしていた自分がちょっと嬉しかった。

 なにやらおれのカラーに合わない思い出話でたいへん恐縮だが、ここからいつものおれに戻る。おれが彼らから教えてもらったことは、ハンディキャップのある人との最良の接しかただ。すなわちそれは、健常者との接しかたとまったく同じであるという、じつにあたりまえのことであった。思いやりが必要だとしたら、それは健常者に対する思いやりとまったく同じものでよいはずで、それ以上でもそれ以下でもあるべきではなかろう。相手が同じ土俵に乗っているのなら、「かわいそう」だとか「手加減せねば」だとかいった気持ちを抱くのは、相手に対する最大の侮辱である。
 さて、長い前振りでなにが言いたいのかわかってきた方もおられよう。そう、嬉しいことに、昨日の日記で改めてフェアに批判した米田淳一氏が、「裏日刊文藝事情 第10号」の3月6日の記述で、さっそくおれの昨日の日記に関する見解を示してくださっているので、おれも真摯にお答えする。
 まず、昨日の日記の補足になるが、おれが批判した「裏日刊文藝事情 第8号」の2月22日付の分は、じつは一度にまとめてアップロードされたものではない。「老婆心から言っておきますけど、メールって出すと自分のメールアドレスが相手にばれちゃうんですよね。本気で反撃されるとメールボックス使用不能とかなりますので、気を付けた方がいいですよ。言葉は刃物です。使えば自分にも返ってきます。とくに生き死にかけてHP作っている人とか壊しに来る人とかはホントにコワイことしますから。そう言うコワイ人たちのことは『ゲスッメモリアル』http://atropos.org/alice/ura1.htmにあります。ご参考まで。」で終わった状態でアップロードされ、かなりのあいだ放置されていたものである。おれはそれに反応して2月22日の日記を書いた。まあ、これは「そうじゃない」と言われてしまえばそれまでだが、おれ以外にも相当数の人が実際に見ておられるにちがいないから、天知る地知るではあろう。もっとも、そのあとの部分が加わったからといって、おれがこれを脅迫と読むことに変わりはないが。
 さて、ここからは、米田氏のおれへの反論(?)をしばしば引用するので、読みやすいよう、問答形式にする。

「私のしたことは脅迫らしいです。」「でも、あの調子であの人が私に対してするのと同じようにあちこちに書きまくっていたら手痛い目に遭うのが予想されたので、それをただ書いただけのことで、私には攻撃をする能力など全くありません。ただ、噂としてメール爆弾のことを聞いていたのでそれを書いたわけです。勿論あの人のアドレスについては私は厳重に秘匿しています。」

 あたりまえだ。無断でアドレスを公開したら、それこそ実力行使になってしまうではないか。上記引用部分に対しては、おれの2月11日の日記を以て反駁に代えることとする。誰かにナイフを突きつけたら、相手は脅迫だと感じるし、第三者もそう判断するのが常識だ。「私には攻撃する能力など全くありません」などということを、おれが脅迫だと判断するテクストから読み取ってもらえて当然とでも言うのだろうか。世間の人々はみなテレパスだとでも思っているのだとしたら、それはSFの読みすぎである。

「私がただひたすらああいう脅迫にも我慢すれば良かったのですね。」「本当、どうしたらいいか分かりません。着信メールのことを一切書かずに黙殺すればいいのかもしれませんが、それもまた問題だと思うし。」

 問題じゃない、問題じゃない。ご存じないかもしれないので、こっそり教えてさしあげると、世間の人はたいていそうしているのだ。

「メール爆弾について書いたことが『ネットの信頼性を落とすので良くない』と仰るのですが、実際そういうものが存在している以上はタブーにしたところでどうにもならないと思うのです。存在している以上は、被害者を少なくするためにも、そういった不正行為からの自衛策の普及に努めるのが正しい対策ではないでしょうか。」

 おれの書いたことをちゃんと読んでいただきたい。おれは「比較的簡単に実行できる電子メール爆弾を含め、卑劣な業務妨害攻撃、いわゆるDoS攻撃(Denial-of-Service attack)をほのめかすようなことはしてはならない」と、すなわち、「おれはやりかねんぞ」と脅迫してはならない言っているのであって、言及してはならないなどとはどこにも書いたつもりはない。その誤読以外の部分は、米田氏のおっしゃることはまことに正しい。余談だが、おれは給与所得の一部をそういう仕事でも得ている。

「それに、例の嫌がらせメールが『読んで下さったお客様』なのだというのも疑問です。だって文脈とは関係なく単語をただそれらしくちりばめているだけなのだし、HPを見て下さる方々が全て善意のお客様だとは思えません。『招かれざる客』もいらっしゃるでしょう。」

 ホームページなるものが不特定多数を対象にした媒体である以上、原田知世が読もうがサダム・フセインが読もうが、彼らが“お客様”であることは定義上の事実だ。“招かれざる客”という表現はさっぱりわからない。ホームページを公開すれば、特別なシステム上の措置を講じないかぎり、不特定多数の人々をみずから進んで招いているのに決まっているではないか。自分の好む、また、自分を好んでくれる来訪者のみを“お客様”というのだと米田氏が考えているのだとしたら、とんでもない了見ちがいである。NTT本社に爆弾を仕掛ける相談を電話でしているテロリスト集団がいたとしたら、彼らはNTTにとって目下のところ“お客様”だ。レストランに犬を連れてずかずか入っていってみるといい。「お客様、困ります」と呼び止められるはずだ。

「アドレスを公開しているのだから何を送りつけられても受け止めろ、と言うのにも何だか疑問です。ネットではそうなのかもしれませんが、現実に自分の家のポストに汚物を投げ込まれた場合、『ポストを置いておくのが悪い』とはならないと思うのですが・・・、って、自信がない。ネットについてはまだ4カ月しか触れていないので分かりません。」

 人が自分の家に郵便受けを置いているのは、自分宛の郵便物を受け取るメリットと汚物を投げ込まれるデメリットを秤にかけて、前者がはるかに大きいから置いているのである。当然のことながら、汚物を投げ込まれるリスクを見込んでのことである。

「ただ、それでもなお、『ポストを置いておく方が悪い』のだったら、ネットってずいぶんな世界ですね。」

 わははははははははははははは。これには大爆笑した。「ネットってずいぶんな世界ですね」か。そのとおりだ。ついでに教えてさしあげると、ネットの外も“ずいぶんな世界”だ。この世界は、どこへどう逃げようと“ずいぶんな世界”なのである。インターネットだって、この世界の中に存在しているからには、“ずいぶんな世界”に決まっている。“ずいぶんじゃない世界”がどこかにあるというのなら、おれにだけこっそりメールで教えてほしい。
 そして、ものを書いて発表するということは、その“ずいぶんな世界”に自分なりのやりかたで進んで関わってゆくことにほかならない。プロでもアマチュアでもだ。この世界が“ずいぶんな世界”だと思えるようになったら、坂口安吾、フィリップ・K・ディック、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアなどをお読みになることをお薦めする。米田氏は『堕落論』をお読みだそうだが、失礼ながら、われわれが投げ込まれているところが“ずいぶんな世界”だと気づいていないようでは、米田氏に安吾が理解できるとはおれにはとても思えない。

「まあ、冬樹蛉さんは私のことが相当お嫌いなご様子なので何を言っても無駄かも知れません。」

 おれもずいぶんバカにされたものだ。まあ、おれも米田氏をバカ呼ばわりしたから、これでおあいこか。
 おれが米田氏のことが“相当お嫌い”なのは事実だが、そのことを以て米田氏の言説の評価を左右するほどにおちぶれてはいない。おれは伝記上で知るモーツァルトが大嫌いだが、その才能は高く評価し、作品は愛聴する。作家に申し上げては失礼であろうが、卑しくも言葉を売って口を糊す者が「何を言っても無駄」などという言葉を吐いたのでは、みずからの依って立つ基盤をみずから否定していることになる。おれは、米田氏には「何を言っても無駄」などと思わないからこそ、こうやって言葉を書き連ねているのだ。昨日の繰り返しになるが、おれは米田淳一なる作家の作品を優れていると判断したら、人間としての米田淳一氏をバカ呼ばわりしながら、その作品を激賞するであろう。

「あと、プリンセス・プラスティック講談社版が不完全だというのはいろいろな意味を込めて言っているわけで、ノイズが入ってしまったということと私の力不足がゴッチャになっています。私に力があればノイズを排除できたのかも知れないけれど、新人である私には無理だったのか・・・という逡巡があることをお酌み取りいただければ幸いです。というわけでよろぴく>ALL。」

 よろぴくはいいのだが、米田氏はおれが昨日の日記で出したヒントにまったく気づいてくださらなかったようだ。
 『プリンセス・プラスティック』の出版経緯がどのようなものであって、作家と出版社(担当編集者)とのあいだでなにがあったのかなど、950円を払って本を買い求めた読者には、まったく関係のないことである。たしかに、作家として納得のゆくヴァージョンをなんとしても世に問いたいという執念は見上げたものだ。そのためにホームページを立ち上げたというのなら、それもよかろう。しかし、なにかひとつ、やることを忘れていないか? 講談社版『プリンセス・プラスティック』をお買い求めくださった方々への謝罪だ。ホームページで別ヴァージョンを公開してゆくというのなら、当然のことである。ところが、ホームページ「プリンセス・プラスティック」の日記に出てくるのは、手前がどうしたという手前の事情ばかりである。「これこれこういう事情ですので、読者のみなさまにはご心配やご迷惑をおかけしまことに申しわけございませんが、これこれこうこうすることにいたしました。講談社版をお買い求めくださった方々には、あるいはご不快な思いをさせてしまったことと深くお詫び申し上げます」くらいのことを、まずサイト立ち上げ一番に書くのが筋であろう。
 米田氏には、同じく出版社(編集者)とのトラブルで大切な作品の処遇に苦慮なさったマンガ家の水樹和佳さんの「近況」をお読みになることをお薦めする。分量は多くないので、すべて読むことをお薦めする。

「私は論戦は嫌いなんです。全然創造的じゃないし。」

 論戦の好き嫌いは人それぞれだが、全然創造的じゃないというのは、大きなまちがいだ。創造的じゃないのは“口論”である。論戦が嫌いであれば、簡単に実行でき、効果も抜群な方法がある。なにも書かず、なにも言わないでいればいいのだ。

【3月5日(木)】
▼おれが2月22日の日記で、「開いた口が塞がらない」某個人ページに言及しているにもかかわらず、批判対象を読者自身が検証できる形で示していないのは「アンフェア」だと、大森望さん「狂乱西葛西日記200」(2月22日付)でご批判くださっている。「このような下劣な品性の者に、人様に読んでいただきお金を頂戴する文章など一行だって書く資格があるものか」とのおれの言説に対しても、「小説のおもしろさは作者の品性とはまったく関係がない」と、まことにもっともな指摘をなさっている。
 まず、品性云々と小説の面白さについてだが、たしかにおれの書きかたには「こんなやつの小説が面白いわけがない」と解釈される曖昧さがあった。もしそのように解釈し不快に思われたり混乱なさったりした方がいらしたなら、深くお詫びする。むろん、おれだって、小説というものの質が作者の品性とまったく相関がないと思ってものを読んでいる。むしろ、品性などという社会性を超越したところにいる者ほど優れたものを書き得るという一般的イメージに傾きそうになるところをぐっとこらえて、「まったく相関はないのだ」と肝に命じて読むように心掛けているくらいだ。ただ、弁解にならぬ弁解をさせてもらうと、おれの中では、藝を売って対価を得る者は、端くれのおれも含めてすべて河原乞食の裔の者とする古風かもしれぬ認識があり、アドレスを掲げて河原で踊っているのなら、「つまらねえぞ」と汚物を投げられて当然というくらいの覚悟と矜持くらいあるべきだとカチンと来たため、品性云々と、それこそ品性を問われるような言辞を弄してしまったのである。河原乞食が河原乞食を笑ってはいかん。これはひとえに、「まだまだ堅気の側にいる」というおれの河原乞食としての自覚の不足からくる傲慢なもの言いであった。重ねて言うが、作者の品性と作品の質はまったく関係がない。おれがインターネットのユーザとしての言説を批判している某作家についても、今後も、インターネット・ユーザとして批判しつつも、作品は激賞するといったことも当然起こり得るだろう。
 さて、いつまでも某作家と呼んでいるのも口幅ったいので、今度はフェアに行こう。人に言われて急にフェアになるのはフェアではないという論理もあろうが、過ちを改むるにしくはなく、アンフェアであり続けるよりはいいだろう。おれが批判対象を明記しなかったのは、バタフライナイフを振り回している少年の脚を撃つという意味合いもあったのだが、大森さんに言われてみて、その考えがそもそも傲慢であったことに気づいた。相手は大人だ。もの書きだ。その日記がいかに「一青年の赤裸々な苦悩の記録」であるかのように書かれていたとしても、そこにテクストとしてあるからには、おまえももの読みの端くれなら、それを作家の言説として読むべきだと、大森さんはおれに水をぶっかけてくれたのだ。そのことは、おれ自身が97年1月29日の日記で書いているではないか。
 おれが2月22日の日記で貶したのは、昨年『プリンセス・プラスティック 〜母なる無へ〜』(講談社)97年11月21日の日記参照)でデビューした米田淳一氏のサイト「プリンセス・プラスティック」にある日記、「裏日刊文藝事情 第8号」の2月22日付の記述である。
 誤解のないようにお願いしたいのだが、おれがこれから再度批判するのは、作家・米田淳一ではない。ホームページを構えて<ご意見お待ちしております>とアドレスを公開しているインターネット・ユーザの米田淳一氏である。
 作家・米田淳一に関しては、おれにはなにも言う資格がない。なぜなら、おれは『プリンセス・プラスティック』を書籍版もホームページ版もまだ読み通していないからだ。話題作なので買ったのだが、ようやく読みはじめたころに突如作者のホームページが立ち上がり、おやおやと思っていると、なにやら書籍版の『プリンセス・プラスティック』は自分にとって不本意なものとして世に出てしまったので、今後ホームページで納得のゆくものを公開してゆくなどといったことを作者自身が書いている。おれは混乱した。「ほんなら、わしがいま読もうとしとるやつはハンパもんかいな……わしの950円は……」ここでなんとしても読み通すほどの気力は萎え、気力が湧くときを待って積んである。その後、ネットスケープのブラウザが突然無料になったときにも同じような気持ちを味わったものだが、それはまあいい。出版には余人の立ち入り難いいろいろな事情があるのであろう。
 さて、米田氏の2月22日の日記である。実物を読んでいただいて、おれが無茶な読みをしているのか、おれが怒っても無理はないと思われるか、みなさんで検証していただきたい。「老婆心から言っておきますけど、メールって出すと自分のメールアドレスが相手にばれちゃうんですよね。本気で反撃されるとメールボックス使用不能とかなりますので、気を付けた方がいいですよ。言葉は刃物です。使えば自分にも返ってきます。とくに生き死にかけてHP作っている人とか壊しに来る人とかはホントにコワイことしますから」とあるが、これはおれにはどう読んでも脅迫に読める。というか、それ以上深読みすると、それは筆者の個人的事情を乏しい材料で推測したものにならざるを得ず、それは読者の仕事ではなく医者の仕事だ。ここに言う“生き死にかけてHP作ってる人”には、このサイトの立ち上げまもなくからこの日記を読んでいる者にとっては、筆者が含まれることは自明だと思うがどうか。
 さらに、これはおれがおれの22日の日記を書いたあとで加筆された部分でだが、「私ら自由業はメールとかHPの存在への依存度高いんです」と米田氏はすごくいいことを言う。まったくだ。地方在住のおれにとってもそうである。そういう大事なものであるからこそ、比較的簡単に実行できる電子メール爆弾を含め、卑劣な業務妨害攻撃、いわゆるDoS攻撃(Denial-of-Service attack)をほのめかすようなことはしてはならない。ましてや一個人をターゲットにしたDoS攻撃など、ターゲットがトイレに入ったビルを丸ごと爆破するに等しい無差別テロのようなものだ。被害を受けるのは無関係の人間のほうが多いのだ。また、それらは、実行されてもされなくても、実行の可能性が人口に膾炙するだけで社会資本としてのインターネットの信頼性を低下させ、結局は、米田氏のような自由業者にも跳ね返ってくるのである。
 最後に、大森さんのご批判にあった、よその掲示板での誹謗中傷の再生産であるが、あれは全面的におれに非がある。水を向けられても、しらばっくれるのが潔い態度であったはずだが、つい品のない揶揄を加えてしまった。品性下劣なのはおれのほうだ。掲示板の主催者である野尻抱介さんには、ご多忙のところお手間をかけることになりまことに申しわけないけれども、当該発言の削除をお願いし、また、同掲示板で謝罪することにする。また、おれの2月22日の日記からは、今日の日記にリンクを張り、話題を辿れるようにしておく。ご意見、ご批判は大歓迎である。おれは“サポート”外(裏日刊文藝事情 第8号/2月20日参照)などという傲慢なことは言わない。サラリーマン兼業のことゆえ、即答というわけにはいかないが、とくに非建設的で無礼なメールを除いては、どんなに遅くなっても必ずお返事を差し上げる。
▼さて、じつは面白い驚きが舞い込んできた。なんと、この日記が電波に乗ることになったのである。話せば長いことながら、やっぱり話すのだが、この日記のファンだとおっしゃる札幌医科大学にお勤めの三瀬敬治さんが、とくに2月3日の日記あたりから何度か取り上げた少年のナイフ暴行事件についてのおれの意見にいたく共感してくださって、奥様にお見せになったところ、これまた狂喜なさったという。で、その奥様が、札幌のミニFM局のパーソナリティーをなさることになり、おれの日記を紹介したいとおっしゃってくださっているわけである。放送日や放送部分など詳しいことは未定だが、「ラジオカロスサッポロ」(78.1MHz)の毎週月曜と水曜日のお昼に放送される「おしゃべりランチ」(12:15〜13:15)という主婦向けの番組だそうだ。パーソナリティーは三瀬恵さん。札幌市の中央区、西区を中心とした範囲で受信可能だと思われるとのこと。詳しくは、追って情報をくださると思うが、もし受信可能地域にお住まいの読者がいらしたら聴いてね。おれみたいな独身三十男の他愛のない雑文が、お昼の主婦層にどのように受け止められるのか、興味津々である。

【3月4日(水)】
▼相手の出かた次第で consequences を招くなどと英語で言えば、なにも形容詞がついてなくたって、日常言語ですらかなり脅迫的な表現である。ましてや、 severe consequences がすなわち戦争であることなど、外交英語表現の常識のはず。日本語で気楽に言う“深刻な結果”とは雲泥の差の最後通告的なもの言いだと、少なくとも外交のプロが知らないわけがない。過去にも同じような“実質的誤訳”事件による混乱があったやに記憶している。今回の場合など、 severest consequences とまであるんだから、こういう文言を入れちゃったことがそもそもの問題だと思うな。クリントンもクリントンで、安保理の真意を知りながら、知らないふりをして「英語でこう書いてあるじゃねーかよ」とダダを捏ねてるんだから曲者だ。この決議案は、“英米弁”としての英語で書いてあるんじゃなくて、デファクト・スタンダードとしての“国際語”たる英語で書いてあるんだよ。カマトトぶっちゃいけませんぜ、クリントンさん。
 思うに、今回の擦った揉んだは、英語などというローカル言語をそのまま国際語として使っていることによる齟齬なんじゃないか。日本語ができる外国人が「うちの娘が幼稚園で男の子に乱暴された」と言うのを聞いた日本人が、「強姦されたとは、最近の幼稚園児は怖ろしい」などと、わざと言ってるようなものだ。勇ましさをアピールするばかりにあんまり大人げないことばかり言ってると、スキャンダルが再燃しますぜ、大統領。
▼さて、2月18日と2月20日の日記で書いた“チャルメラわらび餅屋”に関するご報告である。
 まず、大阪府高槻市にお住まいの高杉緑さんからの情報によると、高槻にもチャルメラわらび餅屋は出没する。おお、京都だけではなかったのだ。冬場はみたらし団子も併せて売っているそうで、記憶はおぼろげながら、かき氷とみたらし団子も併せて売っていたやもしれぬとのことである。大阪ではほかに、門真市の喜多哲士さんから、「ぅわらびぃもち、かきごおりっ」というコブシの利いたチャルメラわらび餅屋の目撃例が寄せられている。ちなみに、奥様の喜多真理さんご幼少の砌、大阪市天王寺区にも同様のわらび餅屋が現れたとの証言も飛び出しているが、喜多さんの奥さんが子供のころといえば、ついつい先日のことにちがいないと強引に推察されるから、歴史的資料価値は小さいやもしれぬ。
 大阪あたりであれば、京都と同じ流派のチャルメラわらび餅屋が出現してもさほど不思議ではないのだが、愛知県名古屋市の久高はるゆきさんの言葉におれは驚愕した。久高さんは、「今や私はチャルメラわらび餅以外にわらび餅売りを想像できません」とおっしゃるのである。わらび餅といえば、ういろうの宿敵にちがいない(そういうことにしておこう)。しかるに、ういろうの本拠地たる名古屋にも、チャルメラわらび餅屋は存在したのだ。なんたる生命力! 海底火山の溶岩噴出口にも嫌気性バクテリアが息づいて(?)いるかのような感動がある。久高さんのご記憶では、「わらび〜もち、つめた〜くて、おいし〜い〜よ〜。ほっぺが落ちちゃう、××××……」という口上だそうだ。××××の部分は、べつに往来で猥語をわめきちらしているのではなく、はっきりご記憶でないという意味である。
 この証言を補完するのが、同じく名古屋市の沢辺真一さんのご報告だ。「わぁらびぃもちぃ〜/つめたぁくて/おいしぃいよ/はやくこないとぉ〜いっちゃぁうよ/しーらないっ」という口上のわらび餅屋が名東区を徘徊していたのだそうである。“冷たくておいしいよ”と、ういろうにはないセールスポイントを強調している点からも、久高さんの目撃証言にあるわらび餅屋と同種、あるいはその亜種であると考えられる。特筆すべきは「しーらないっ」などと客を脅迫している点であろう。ういろうが名古屋市内に遍在し、じっと留まって客が来るのを待っているのに対して、「わらび餅はそんなありがたみのないものではない。早く来ないと行ってしまうような貴重なものだ」と、まさに一期一会、アインマーリッヒカイトを売りものにするという生存戦略を取っているのだ。しかも、そのような貴重なものを口にする機会を逃すことは、ほかならぬおまえの落ち度であると断じている。こうまで言われたのでは、なにかよんどころない事情でわらび餅を買いに走らなかった者は、「おれの人生はこれでよかったのだろうか」と一生後悔と自責の念に苛まれることになろう。恐るべき合目的的な戦略だ。
 ちなみに、ういろうだって、新種として大きな淘汰圧に晒されていたころには、現代のわらび餅のような戦略を取っており、その売り口上たるや洗練のきわみに達しているのだが、サーベルタイガーの牙のごとく発達しすぎた口上はやがてふつうの人間には喋りきれなくなって、いまでは伝統芸能として歌舞伎十八番にその姿を留めるのみとなっている。「外郎売り」の全文とナレーションのプロによる実演に触れてみたい方は、フリーMC・益田沙稚子さん「益田沙稚子のVOICE PRESENTATION」へどうぞ。考えてみれば、SFだって、歴史的にはまだまだ若い分野で、伝統芸能になってしまうにはほど遠い。その証拠に、わらび餅と同じ売りかたをしている。「面白い面白いえすえふぅ〜/かっこよくて〜/映画にもなるよ/はやく買わないとぉ〜品切・絶版になっちゃうよ/しーらないっ」 あわわわわわ。
 ともかく、チャルメラわらび餅屋は、名古屋にまでは存在していることが確認された。今後も各地からの情報は大歓迎である。「那覇にも出た。琉球音階のチャルメラだった」とか「納紗布岬にも出没するが、わらび餅だかかち割り氷だかよくわからない」とかいった貴重なご報告をお待ちしている。

【3月3日(火)】
▼突然だけど、むかしおれには、宮沢りえと観月ありさと一色紗英がほとんど同じように見えていた。ところが、宮沢りえと一色紗英が長ずるにしたがってしょわしょわと萎むように光彩を欠いてゆくというのに、観月ありさだけがだんだん大きく魅力的になってくる。異論もあろうが、とにかくおれにはそう見える。おそらく、持って生まれた素材だけで勝負できる時期というのは、人生の中でほんのわずかなのだろうな。
▼例のジャーポットが帰ってきた。というか、新品と交換してくれた。もちろん無料だ。最近はちょっと味噌のついた製品は、いちいち修理なんてことはしないんだよね。一度躓いたものは、廃棄して取り替えてしまうのが効率的だ。おれたち自身が、子供のころからそういう扱いを受けて育ってきた気もしないではないしな。いまは、おれたちのころよりもさらに効率的になっているらしい。効率的だからどうだというのか、そこのところはさっぱりわからないのだが、とにかく効率的らしいのだ。かくも効率的に育てられる子供たちがいざ学校を出てみると、そこにはバカバカしいばかりの非効率的な世界が待っているのであった。だったら、最初からのんびり行こうぜ。ふぅんわかふぅんわっ、ふぅんわかふぅんわか、ふんわかふんかわふっ。

【3月2日(月)】
▼去年の暮れに買ったばかりのジャーポットの蓋が開かなくなったことを書いた2月28日の日記で、「軽くするという要請とトレードオフになるのだろうが、熱衝撃の大きな部分にプラスチックの部品を使っているのは素人でもわかる構造的欠陥だと思うのだ」と述べたところ、友人の電脳ライター・水野寛之さんから、そうとばかりはかぎらないというご指摘をいただいた。水野さんは航空宇宙学科出身で、会社員時代には某有名電子部品メーカでプリンタのメカ設計などにも携わっていた人だ。つまり、設計のプロである。水野さんによれば、耐熱という観点からは金属製部品よりも耐久性に優れているプラスチック製部品もあり、最終的にはコストや組み立てのしやすさ等を考慮して設計者がいずれを用いるかを決定することになるけれども、熱を受ける部位にプラスチックを使っているからすなわち構造的欠陥だとは、必ずしも言えないとのこと。
 うむ、言われてみればそうにちがいない。灰皿に使えるようなプラスチックもあるもんな。それに、硬けりゃいいというものでもないはずだ。さまざまな弾性や粘性や可塑性を併せ持つ材料を適切な部分に用いれば、柔よく剛を制すような効果を得ることもできようし、そこがまた設計者の腕の揮いどころなのだろう。適材適所だ。構造的欠陥とまで断じたのは早計だった。もし、あれは自分の設計したポットだと思い当たる方がお読みでしたら、失礼いたしました。
 で、例のポットだが、電器屋が持ち帰ってただいま修理中である。とくに乱暴な扱いをしていないにもかかわらず、かくも早く不具合を起こしたことは重大な瑕疵ではあるが、初回のトラブルだということもあり、極刑をもって臨むには躊躇を感じざるを得ない。ただし、もしまた同じところが壊れたら、今度はメーカ名と正式な商品名と型番を明記してぼやいてやるからな。

【3月1日(日)】
▼さてさて、昨日締切の第三回「○○と××くらいちがう大賞」でありますが、非常に多数のご応募をいただき、嬉しい悲鳴を上げております。まだ集計もままならぬ状況ですが、メールの本数にして38通、お一人で何通もくださった方もいらして、総作品数はおそらく100を超えるものと思われます。今回は審査にかなりの時間がかかりそうですが、今月中には結果を出したいと考えております。いやあ、なんの気なしにはじめた遊びがこうまで反響を呼ぶとは、嬉しいかぎり。この調子で紳士淑女の健全娯楽として日本中に広まってくれれば、おれの名も文学史の片隅くらいには――残らへん、残らへん。
▼関西ローカルの話題で恐縮だが、2月26日の日記に、吉本新喜劇の「ふぅんわかふぅんわっ、ふぅんわかふぅんわか、ふんわかふんかわふっ」というテーマ曲(?)はなんてタイトルなんだろうと書いたところ、上方芸能にも造詣の深いおなじみ喜多哲士さんが情報をお寄せくださった。「ふんわかふんわか……」は朝日放送で使われていた曲で、Somebody Stole My Gal(作曲:Leo Wood/演奏:Pee Wee Hunt)というのだそうだ。ちなみに、毎日放送で使われていた「たーらら、たった、らたった、たらららら〜」(関西の人はわかってね)というのんびりしたほうは、「生産性向上のためのBG音楽 工場向け第一集その5」(作曲:山根正義/演奏:COLUMBIA ORCHESTRA)という曲。いずれの曲も、『吉本新喜劇のテーマ』(アポロン/APCE-5281)なるCDに収められているとのことである。なんだか懐かしいな。そのむかし、半ドンの土曜日は学校からさっさと帰って、インスタントラーメンでも食ってからテレビで吉本新喜劇を観るのが、正しい関西の小学生の生活であった。小学生から学習塾行ってる子なんて滅多にいなかったしなあ。結局、吉本新喜劇で培ったギャグの間とかヘンテコな発想みたいなもののほうが、小学校で教わったことより役立っているような気がするのは、おれがSFファンだからだろうか。
▼えーと、例の“チャルメラわらび餅屋”2月18日、2月20日の日記参照)に関しても、そろそろ状況報告をしたいのだが、なにぶんいろいろと忙しい季節なのでお寄せくださった情報の整理が遅れている。いましばらくお待ちくださいね。


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