間歇日記

世界Aの始末書


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98年2月中旬

【2月20日(金)】
▼さてさて、おととい書いた“チャルメラわらび餅屋”の話であるが、思ったよりも反響が大きく、各地から続々と(というのもオーバーだが)「私も見た」「うちの地方にも出る」といった報告が寄せられている。中には笑える亜種もあり、そこそこ情報が集まったところで一挙公開しようと思う。お楽しみに。
 と、ここまで書いたところ、ふと「これはなにかのノリに似ているな」と思い当たった。あっ、これは“イタイ話”“オジギビト”と同じパターンだ。このページの読者にはご存じの方も多いはずだが、なんのことかわからない方は『愛のさかあがり(上・下)』(とり・みき、ちくま文庫)をご参照ください。つまり、読者にネタを振って、送られてくる生の素材をさらにネタにして楽しむという、インタラクティヴなインプロヴィゼーションの試みである。当時は“連載を持っているマンガ家”という特権的な存在のみが駆使できた手法だが、いまやプロバイダに金払ってホームページを持っている人なら、誰にでもできるようになってしまっているわけである。まあ、ある程度の固定読者がいる必要はあるけれども。
 そう気づいて『愛のさかあがり』をざっと再読してみると、この作品の面白さは、勝れて個人ホームページ的なところにあるのを発見した。このページも含めて、おれが楽しんでいる個人ホームページが(とくに日記が)、ことごとく『愛のさかあがり』のパロディーに思えてくるくらいだ。以前、自分のホームページの面白さをホットメディアとしてのラジオに通じるところに求めたいといったことを97年7月29日の日記で書いたけど、とり・みきはすでに十年以上前、読者から生素材を募集する“エッセイ・コミック”という形でラジオ的面白さをマンガに導入していたのだった。道理で、いま読めば個人ホームページ的な面白さが感じられるはずである。とり・みき怖るべし。
 おれにマンガが描けたとしたら、寄せられる生情報を面白おかしく絵にしていたかもしれない。そうなると、完全に『愛のさかあがり』のパロディーになってしまう。べつにそれでもいいのだが、マンガにできたことをそのままウェブでやっても進歩がない。いかに『愛のさかあがり』を超えるか、しかも文字で超えるかが、「世界Aの始末書」の課題であるな(大きく出たもんだ)。

【2月19日(木)】
▼日興証券に利益供与を求めた疑惑が浮上していた新井将敬衆議院議員が自殺。腹立たしいかぎりだ。この日記を続けて読んでくださっている方であれば、死後の世界を信じないおれは、どんなに尊敬している方がお亡くなりになろうが、けっして「ご冥福をお祈りします」などという自分に不誠実な(それはすなわち相手にも不誠実な)クリシェを使わないことをご存じかと思う。だが、今度ばかりはいささかご冥福をお祈りしたい気持ちだ。なぜなら、死後の世界があるとすれば、新井議員はいまごろ坂本龍馬にこっぴどく叱責され、逮捕されることなどなんでもないと思われるほどの恥辱にまみれているはずだからである。同じような想像をしてにやにやしているか胸を撫で下ろすかしている輩はちゃんと生きていて、あたかもゴーストライターに書かせた本が大当たりした偽作家ででもあるかのように、その懐には今日も自動的に金が流れ込んでいるのであろう。

【2月18日(水)】
▼昨日と同じ書き出しだが、会社の帰りにバスを待っていると、駅前に石焼きいも屋のトラックが停まっている。それがなんとも変化のない石焼きいも屋で、「い〜しや〜きいも〜……い〜しや〜きいも〜……い〜しや〜きいも〜……い〜しや〜きいも〜……い〜し――」とただただ繰り返すばかりである。ふつう、「い〜しや〜きいも〜〜〜〜、おいもっ! い〜しや〜きいも〜〜〜〜、いもいもっ!」などとアクセントをつけると思うのだが、みなさんの地方ではちがいますかね? 今日のいも屋は、一分間に約五回くらいのペースで「い〜しや〜きいも〜」をひたすら繰り返していたから、十五分ほどバスを待っていたおれは、75回くらいは「石焼きいも」を聞かされた勘定になる――「けれども宣伝は、鈍感な人々に間断なく興味ある変化を供給してやることではなく、確信させるため、しかも大衆に確信させるためのものである。しかしこれは、大衆の鈍重さのために、一つのことについて知識をもとうという気になるまでに、いつも一定の時間を要する。最も簡単な概念を何千回もくりかえすことだけが、けっきょく覚えさせることができるのである。」(『わが闘争(上)』アドルフ・ヒトラー、平野一郎・将積茂訳、角川文庫) 鈍重な大衆であるところのおれが、あの軽トラックはどうやら“石焼きいも”なるものを売ろうとしているらしいという簡単な概念をようやく確信したころ、バスが来た。
 そういえば、もの売りの声で思い出した。前から広く日本中の人に尋ねてみたいと思っていたのだ。じつは、おれの住んでいるあたりに夏場やはり軽トラックでやってくる“わらび餅”屋は、奇怪な呼び声を出す。チャルメラとまったく同じメロディーで、「わぁらびぃもちぃ〜、わぁらびぃもちだよぉ〜」と歌うのだ。京都市内では広く見かけることができるようである。最初のころは年配のおじさんだったのだが、近年は女性になっている。奥さんだろうか、二代目なのだろうか。ここ何年かは、「わぁらびぃもちぃ〜〜、かきごおりっ!」という変奏もときおり入り、多角経営化を図っているようだ。はて、あのメロディーの著作権はどうなっているのだろう。JASRACが管理しているのだろうか。
 おれがこのわらび餅屋の話をすると、他府県の人はまず信じてくれない。おれがふだんギャグばかり飛ばしているものだから、おれの作り話だと思われてしまうのである。この“チャルメラわらび餅屋”は、京都市内のみに出没するのだろうか。それとも、この“流派”は各地に勢力を拡大しているのだろうか? 「京都以外にもたしかにやってくる」という情報をお持ちの方は、どこでご覧になったのか情報をお寄せいただきたい。
▼北海道にお住まいという地の利を活かして、いつもヘンテコな菓子を見つけては送ってきてくださる、この日記ではおなじみの“妖菓子ハンター”明院鼎さんから、またまた変わったものが送られてきた。「網走監獄から帰りました。」というのが正式な商品名のキャラメルである。網走市にある株式会社水野商店なるところが出しているのだが、箱の側面に妙に真面目に「品名/網走監獄から帰りましたキャラメル」などと書いてあるのが、そこはかとなく滑稽だ。もしかすると、北海道のジョークおみやげとして有名なのかもしれないが、このセンスはすごい。明院さんからの情報によると、ビター風味の「脱獄」という商品もあるという。うーむ、どちらかというと暗い土地のイメージを逆手に取って、笑える菓子にしてしまうあたり、侮り難いメーカだ。世の中には洒落のわからない人も多いから、きっと抗議なんかもあるにちがいないが、頑なに自社ブランドにこだわっているのだろう。ま、中身はただのミルクキャラメルなんだけどね。
 明院さん、ありがとう。この箱は永久保存ものだ。

【2月17日(火)】
▼会社の帰りにいつも乗るバス(なにしろ本数が少ないので、毎日乗れるとはかぎらないのだが)で妙なことに気づいた。おれはバス待ち行列の先頭に並んでいたため、とことことバスの奥まで入ってゆき、運転席の真うしろの席に座った。わりとよく座る席だ。みなさんの乗るバスと構造がちがうかもしれないので説明しておくと、運転席のうしろには広告などが掲げてある仕切り板があり、乗客側からは運転手の姿は完全に隠れている。このバスでは、その仕切り板の右側には空間があった。そこから前に身を乗り出し、運転手の右頬にキスができてもおかしくないくらいの空間だったのだが、そこにいつのまにか透明なアクリル板が取り付けられ、運転手とおれとのあいだを完全に遮断している。
 ← 略図で示すと、こんな感じである。はてさて、これはいったいなんなのか? エアコンの吹き出し口を運転手側に向ける乗客がいて運転手が寒いのだろうか。待てよ、いまは冬だ。吹き出して来るとしても温風であり、しょっちゅう開閉されるドアのそばにいる運転手には、むしろありがたいはずである。夏のことを考えて、冬の最中、唐突に仕切り板を取り付けるというのも妙だ。しかも、厚さ1cmはあろうかという頑丈な板である。風よけにしてはおどろおどろしい。まるで、要人が乗るリムジンの防弾ガラスのような趣なのだ……。運転手にキスができそうな空間だということは、拳銃やナイフを突きつけたり首を締めたりすることも容易にできるわけで、ひょっとすると防犯用の防護壁であるのかもしれない。バスだってタクシーだって、現金輸送車にはちがいない。昨今の物騒な世相を鑑み、労組が改造を要求したのだろうか。たしかに、もし乗客がおれひとりで、真うしろの席に座られたら、運転手は少なからず身の危険を感じるやもしれない。バス・ジャックは、あとさきを考えないのなら、非常に実行しやすい犯罪である。京阪バスを乗っ取って「北朝鮮へ行け」というやつはおらんだろうけれども、料金箱に入っている程度の小銭欲しさにバタフライナイフの切れ味を試してみたくなるやつがいても不思議ではない。
 うーむ、あのぶ厚いアクリル板は、いったいなんなのだろう? 運転手の肩ごしに気軽に話しかけるおばさんがいて危ない――などというほのぼのした理由で取り付けられたのならいいのだが。

【2月16日(月)】
▼あんまり幼稚だから子供の犯行だろうと先日書いた倉敷の誘拐事件、三十にもなった女が犯人(まだ犯行を否認しているそうだが)と聞き驚く。よく考えたら中学生にしても幼稚すぎ、中学生に失礼だったかもしれん。それにしても、よくわからん事件だ。このままうやむやになってしまうのだろうか。ふつう、子供と引き離されたり、子供ができないことを負い目に感じている女が(だいたい、そう感じさせる社会がまちがっている。人が子を産もうが産むまいがほっとけよ)、“あまりかわいいのでつい連れ去ってしまった”というのが日本人の喜ぶパターンなのだが、つい連れ去るにしてはあらかじめご丁寧にワープロで脅迫状まで作っていたのが腑に落ちないし、かといって、本気で金をせしめるつもりだったにしては犯行が杜撰すぎる。こういう事件を論理的に考えてはいかんのかもしれんが、フェミニストのおれ(この日記を続けて読んでらっしゃる方は、よもやお気づきでないわけはないですわな)としては、この女の奇妙な行動になにやら根の深い問題が潜んでいそうな気がして気色が悪い。そもそも三十にもなった女がこれほど幼稚でありうるということが、おれにはにわかに信じ難い(などと言いつつ、そのじつそんなに珍しいことでないのはよく知っている)。この女個人の遺伝的問題か、それとも、この女は、あたかも纏足を施されたかのように、自立した個としての知能と精神の発達を意図的に阻害されて育った“半人間”なのだろうか。こっちのほうがクローン人間の問題などよりよっぽど気にかかる。まだ幼いおれの姪どもには、少なくとも悪いことをするときには、己の知恵と力をふり絞り周到な計画を練ったうえで「これは悪いとされていることだ」と確信と覚悟を持って悪事を働けるような、ひとりの大人としての女性に育ってもらいたいものだ。三十面を提げた精神的な幼児などというグロテスクな女にだけはならぬよう、いまから唆しておかねばなるまい。

【2月15日(日)】
▼通販で注文していた枕が届く。そう、あの「通販生活」(カタログハウス)の看板商品、イタリア製の「メディカル枕」である。たかが枕ひとつに13,800円というのは相当抵抗があったが、とにかく凝りがひどい頚や肩が少しでも楽になるのならと、ええいダメモトじゃと思い切ってとうとう買ってみたのだ。もはやこれは寝具ではない。医療器具、いや、商売道具とも言えよう(といっても、経費として認められるはずはない)。
 さっそく読書に使ってみる。なんで読書に枕がいるのかって? そりゃあなた、仰向けに寝転がって本を読むのには枕が要るでしょうが。頭の位置がぴたりと決まり、たいへん具合がよろしい。頚周辺の筋肉にまったく無駄な力が入らない。さすがは13,800円の枕である。問題は、仰向けになって本を読むと腕がしんどいことなのだが、肘をぴんと伸ばして読めば案外楽なうえに、目と本との距離が適正に保たれる。おまけに、居眠りをすると顔の上にまともに本が落ちてくるため、緊張感が維持できるのだ。おれが長年の経験から編み出した“ダモクレスの読書”と呼んでいる方法である。照明に多少工夫がいるけれども、頚や肩の凝りに悩まされている人にはなかなかよい方法だと思うので、一度お試しあれ。あまり重い本はお薦めできない。顔を怪我したり眼鏡が曲がったりする怖れがある。
 特定の商品をあまり褒めることになると宣伝みたいでいやなのだが、この枕を読書や睡眠に継続的に使ってみてどのくらいの効果があるか、折りに触れてレポートすることにしよう。べつにおれは、亀田製菓から金をもらっていないのと同じように「通販生活」からも一銭ももらっていないから、市井の一モニタの意見として読んでくださってけっこうである。いいものはいい、悪いものは悪いと書く。もっとも、おれがいまさら褒めなくても、相当の人気商品なんだけどね、これ。この日記の読者には、ひねもす文字を読んだり書いたりしている人も少なくないだろうから、きっと愛用者もいることだろう。

【2月14日(土)】
▼さてさて、第三回「○○と××くらいちがう大賞」だが、回を重ねるごとに応募者数も増え、今回は早くも14名16通ものご応募をいただいている。レベルも上がってきており、かなりの激戦になりそうだ。締切まで二週間ほどあるので、まだまだどんな傑作が舞い込んでくるかわからない。自分で「面白くないなあ」と思っていてもおれのツボに入ることもあるから、言葉遊びの精神をお持ちの方はご遠慮なく応募なさってください。
▼倉敷の幼児誘拐事件、犯人のあまりの幼稚さに爆笑してしまった。五千万円も要求するつもりなら、スーパーマーケットで子連れで買いものしてる若夫婦を行き当たりばったりに狙ってどうする。子供のいるそれくらいの若夫婦の多くは、ふつう五十万円だっておいそれとは調達できない生活をしているぞ。おまけに「サリンをばらまく」だの「爆弾を爆発させる」だの、言ってることが支離滅裂だ。オウムの残党にでも見せかけたかったのかもしれないが、ほんもののオウムの残党ならサリンなどという言葉をわざわざ出すはずがないし、オウムとは無関係にサリンを入手もしくは製造する才覚のあるやつなら、誘拐のターゲットを絞り込んだうえで計画性のある犯行に及ぶことだろう。おそらく、これも子供が犯人の愉快犯だろう。女の声で脅迫状のありかを示す電話があったとのことだが、これも子供の犯行と考えればありそうなことだ。完全に声変わりしていない男の子が大人の男性の声を真似るのは難しいが、女の子には成人女性の声がかなりうまく真似られる。おっさんみたいな声の男の子はいるにはいるが、喋りかたは男の子のほうが概して幼稚であって、大人の口調の真似は女の子のほうがずっとうまいものだ。中学生くらいの女子の単独犯行か、グループ(男子を含まない可能性もある)による犯行だろうと思う。大方、またなにかに“むかついて”やったんじゃないの。こんなのは、脅迫状に使ったワープロからすぐ足がつくだろう。なんにせよ、子供が無事戻ってよかったことだ。

【2月13日(金)】
亀田製菓の「えびっぷり」シリーズに、またもや新製品が出ているのを発見。今度は鱈と明太子を練り込んだ「明太っぷり」である。かっ、かなり苦しいネーミングだが、味はなかなかのもの。ここまで来れば、そろそろいろものが欲しい。酒の肴になるような濃密なやつがいい。海鼠腸をたっぷり使った「なまこっぷり」とか、キャビアが嬉しい「きゃびあっぷり」、エスカルゴ風味の「かたつっぷり」もいいな。
 突然告白するが、おれにはひとつ、長年温めている一大歴史浪漫小説の構想がある。百年戦争が舞台で、フランスとの戦で大活躍したエドワード三世の王子“ブラック・プリンス”には、じつは双子の弟がいたという設定なのだ。欧州情緒も馥郁たる、佐藤亜紀ばりの格調高い文体にせねばなるまい。幼いころに兄と引き離された弟は、フランスの貧しい農家に引き取られ、心根の優しい明るい若者に育つ。やがて兄と弟は戦場で相まみえることになる。うむ、なんだか宝塚風でいいぞ。敵を容赦なく蹴散らす兄のエドワード黒太子に対し、弟のほうは陽気で軽薄だが、ひとたび剣を取れば小柄ながらもピリリと辛い若武者なのだった。フランス軍に“エドワード明太子”ありと怖れられ――って、このギャグを使うためだけの小説だから、まず永久に書かないだろう。

【2月12日(木)】
『タイム・リーパー』大原まり子)がハヤカワ文庫JAになって本屋に並んでいた。ハードカバーがあるから買うこともないかと思いつつ手に取ったところ、榎本正樹氏の解説がじつに面白くて、やっぱり買ってしまう。作品そのものの解釈はやや牽強付会の感なきにしもあらずだが、現代日本文学に於ける大原まり子の位置づけに関しては、おれの考えとほぼ一致していて心強く思った。榎本氏は、「アンチ・リアリズムをみずからの文学の出発点とし、神話的・歴史的視点から父権社会を相対化する作業を通して女性自身の哲学を思考し続ける三枝和子のような物語作者の正当な継承者の一人として大原まり子を認識している」のだそうだ。SFファンとしてのおれは、これではちょっと大原まり子を矮小化しているような気色の悪さを覚えるのだが、なるほど主流文学的タームで表現するとこうなるだろうし、おれの中のジャンルSFの語彙を封じて榎本氏の言わんとすることに歩み寄れば、これはじつに正しい評価だとおれも思う。少なくとも榎本氏は、SFを主流文学の下に置いたりしないだけの柔軟な知性の持ち主なのだろうということはわかる。もっとも、おれに言わせれば、大原まり子が主流文学の中でこのように位置づけられるのではなくて、三枝和子のほうがSFを書いているのだ。97年11月23日の日記98年1月25日の日記でちらとほのめかしたのだが、ここではっきり書いてしまうと、たとえば“響子”シリーズが、土俗的リアリズムの隠れ蓑を纏ってはいるものの、そのじつメカニックなまでに人工的なフェミニズムSFであることは、SFファンが読めばすぐわかる。ご本人がどう思って書いておられようが、SFなんだからしかたがない。ル・グィンは言うまでもなく、最近だとシェリ・テッパーニコラ・グリフィスなんかが肩肘張って大上段に振りかぶりやっていることを、中上健次のふりしていけしゃあしゃあとやっているのが三枝和子だと、おれなどは勝手に思っているのである。
 さて、榎本氏のおっしゃることはよくわかるし、この方にSF差別意識がないこともあきらかなのだが、おれはもう少しSF贔屓の考えかたをする。すなわち、おれが“SF”という言葉で指しているものこそが、本来“主流文学”と呼ばれるべきものであったのではないかと、おれは自分ひとりの中では確信しているのだ。単純な喩えをすれば、本来「文学とは平行四辺形を扱うもの」であったとする。だが、不幸なことに、日本の近代文学は「正方形でなきゃ文学じゃない」として発達してきたらしい(このあたり、養老孟司著『身体の文学史』の評を参照されたし)。あとから出てきた“SF”は、正方形の定義から無縁であったのが幸いし、いろんな平行四辺形を手当たり次第に書いてきた。菱形はもちろん、ほとんど針みたいな平行四辺形も同じ“SF”としてカテゴライズした。ついには、辺と辺とが三次元的にねじれの位置にあるようなものまで、「おお、これはねじれた面の上に描かれているとすれば平行四辺形だ」などと貪欲に面白がってきた。そんな中で、当然、正方形に近い平行四辺形が出現することもあり、それを見た“主流文学”が「おや、SFが主流文学のようなものを生むことがあるぞ」と注目しただけの話である。それは話が逆なんだってば。正方形だけを描いて“主流文学”と名告ってきたほうが誇大広告だったのである。いわゆる“主流文学”のほうでもさすがにそれに気づいてきて、盛んにいろんな菱形を描きはじめたのが昨今の状況であろうと思う。
 だとしたら、SFはお株を奪われて雲散霧消してしまうじゃないか、という声が聞こえてきそうだ。そうだろうか。その考えの中にこそ、狭義の“主流文学”崇拝が忍び込んでいる。おれの目には、いまの状況は、ついにSFが正しく狭義の“主流文学”を併呑しつつあるようにしか見えない。正方形付近でちまちまやっていた“主流文学”が、より包括的な“平行四辺形”の特殊形態でしかないことが正しく認識されつつあるだけだ。いっそのこと、いままで使ってきた“SF”という言葉を“一般主流文学”とし、従来の狭義の“主流文学”を“特殊主流文学”と呼べばいいと思うのだがどうか。こういうこと考えてるのがおれだけとは思えない。特殊主流文学原理主義者(?)の方は、おれのこんな見かたに激怒なさるかもしれないけれども、いまや権威ある特殊主流文学賞(とされていた賞)の選考委員の中にも、一般主流文学作家がたくさんいるんだもんね。楽しい状況ではあるまいか。
 結局、ガラス板に描かれた大原まり子という絵を、榎本氏は“あちら”から正しく見ており、おれは“こちら”からあたりまえのように見ているだけのことだから、大原まり子の位置づけに関して意見が一致するのは当然のことなのである。Q.E.D.

【2月11日(水)】
▼またもやバタフライナイフの事件だ。高校生の三人組が帰宅途上の女性を狙ってナイフを突きつけ、強盗未遂を重ねていたという。バカが舞い上がるナイフだから、いっそ“バカフライナイフ”とでも呼べばどうかと思うが、このガキどもはとくに軟弱で許せん。いじめのターゲットにされている弱い子が、必死の思いでナイフを携行するといった心理なら、肯定しないまでもわからんでもない。だが、このガキどもは、高校生にもなって、徒党を組んで弱い者を狙い襲撃していたのだから、情状酌量の余地などない。こいつらはきっと言うのだ。弁護士もきっと言わせるのだ――「ナイフを突きつけたのは脅すためで、傷つけたり殺したりする意図はまったくなかった」
 あほんだら。ナイフを出して他人に突きつけ金品を要求したら、おまえにその意図があろうがなかろうが、立派に行動で殺意を表明していることになるんだよ。したがって、襲われた女性が武器を携行していたら、それで反撃されたって文句は言えん。反撃されて傷つけられたら、きっとこのガキどもは法廷でこう言ってビービー泣くのだ――「うぇええん、傷つける気ィも殺す気ィもなかったのに、あのお姉ちゃんがナイフで刺さはったぁ〜。びぇえええええええええええ」 で、泣き声があまり大きいものだから、大人どもは「おお、よしよし、悪気はなかったんやね、そやろ、そやろ」とアホガキを宥めてやり、高校生にもなっているガキは陰で舌を出すに決まっている。腹が立つ。子供であることにつけ上がっているのだ。おれが弁護士だったら、まず確実にそういう戦法を取るだろうと考えると、ますます腹が立つ。
 先日も書いたが、もう一度言う。おまわりさん、こういうアホガキは、取り逃がして他の市民を襲う前に撃て。マスコミやわれわれ一般市民も、ナイフを出して人を脅したら撃たれてもしかたがないという社会通念を醸成してゆかねばならない。撃ち殺せとは言わない。捕えて更正させてやるのが大前提だ。だから、行動を封じるべく腕、脚、肩などを狙って撃て。情況が正確な狙撃を許さず、撃ち殺してしまう場合もあるだろうが、それはナイフで他人を脅したやつが負うべきリスクだ。そういうことが極力少なくなるよう、警察官の方々には射撃の腕を磨いていただきたい。そして、プロの情況判断でやむを得ないとなったときには、相手が子供であろうが確実に射殺できるよう、腕を磨いていただきたい。その拳銃は、おれの税金で買ったものだ。おれは、おれ自身やおれにとって大切な人々を守ってもらうべく、あなたがたに正当な暴力の行使を委託している。あなたがたが取り逃がしたアホガキが、おれやおれの友人たちを刺し殺す前に、その拳銃におれの意思を代弁させてくれ。
 もし警察がやるべきことをやってくれないのなら、各人が自衛の名の下に武器を携行するようになることだろう。そして、その武器の魅力に抗しきれず、みずから犯罪に走る人間がさらに増える。それはアメリカの姿にほかならない。日本は治安の面ではいい国だ。その数少ないよいところを失ってしまう前に、涙を呑んでその拳銃でアホガキを撃ってくれ。
 万一おれが人の親になるようなことがあり、高校生にもなった自分の子供がナイフ強盗を働いて撃ち殺されたら、おれはもの言わぬわが子の頬を霊安室で張りとばして、「おまえが悪いのだ」と言える親になりたい。「私の育てかたが悪かったせいでご迷惑をおかけいたしました。罪もない人を傷つけたり殺めたりする前に撃ち殺してくださって、ほんとうにありがとうございました」と警官に礼を言える親になりたい。


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冬樹 蛉にメールを出す