間歇日記

世界Aの始末書


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98年3月下旬

【3月31日(火)】
▼昨日書いたニュートン表記の重量制限(?)の話は、各界で波紋を広げつつあるようだ。さまざまな説が飛び交っている。海法紀光さんは、Nは力の単位なのだから、それを箱に入れるという表現はおかしいと指摘してくださった。まったくそのとおりなのだが、そのおかしい表現を敢えて使っている謎を推理して遊ぶのがこの日記の主旨である。ちなみに、昨日おれは、「日常の表記でも質量と重量とをちゃんと区別しようという主張をしている人たちがいると、以前に新聞で読んだことがある。つまり、ササニシキを98N注文したり、1.96Nの挽き肉をおまけして2Nにしてもらったりしようというわけである」と書いたが、海法さんは、おれが新聞で読んだというこの主張は、たぶん高校教育をSI単位系に統一しようという意味であったかと記憶しておられるとのこと。朝日新聞のコラムでおれと同じように「買いものにNを使ったらややこしい」と書いた人がいたらしくて、数日後に訂正があったのだそうだ。おれが読んだのは朝日新聞ではなかったが、やっぱりその記事も同じ茶化しをやっていた。高校教育でkg重などというローカルな考えかたを教えるのをやめようという話なら、全面的に賛成できる。おれも高校時代、かえって混乱したのを憶えているからだ。むろん、SI単位系で教えろと主張している人々も、べつにNで買いものをしろなどと言っているわけではないということである。買いものは質量ですればよいのだ。
 さて、面白いのは林譲治さんから、ジョークとしていただいたご意見。地球の見かけの表面重力は、地球の質量による重力と自転による遠心力との合力だから、緯度がちがえば同じ物体でも“重さ”がちがう。だから、この書類整理箱のメーカは海外にも輸出することを前提にしてN表記にしたのかも――って、そんなアホな(笑)。でも、日本で平気で使えていたこの箱を南極に持って行くと、たちまちぺしゃんこになったりしたら面白いよな。
 つまるところ、野尻抱介さんのサイトの掲示板[発言:2629]で寺館伸二さんがいみじくも指摘なさっているように、衝撃荷重という概念を誰にでもわかるように説明しようとした苦肉の策なのではないかというのが当たっているような気がする。たとえば、「高所から落とさないでください」と書くとすると、「中に半分ほど書類を入れて20cmの高さから落としたら壊れたが、これはおれにとっては高所ではない。どうしてくれる」などとごねるやつが現われかねない。かといって、中にどのくらいの重さのものが入っているかを想定しないと「○○cmの高さから落とさないでください」などとは書けない。また、落とすのとは逆に、書類を入れて床に置いてあるこの箱を、背筋力でも測定するかのように急激に持ち上げるといった場合の説明も必要だ。そうなると、ガルだのなんだの、加速度の説明まで書かねばならない。かといって、「○○Nの力に耐えます」と書いたのでは、「どの向きの?」と突っ込まれる。加速度だって同じだ。よしんばそれを丁寧に説明したとしても、「これでは平均的消費者にはわかりにくい」などと文句を言われる。この説明書を書いた人物は、おそらく悩みに悩んだ挙げ句、できるだけ科学的に正確を期しながらも日常感覚でもなんとなくわかるという折衷案を編み出したのではあるまいか。その葛藤が、「ボックスに入れる重量は80N以内としてください。(1Nは約0.1kgです。)」なる、なんとなく言いたいことはわかるが、よく考えるとおかしい絶妙な文章に結実したのだろう。虻蜂取らずとはこのことだ。でも、「説明不足でなにか事故でも起こって訴えられたら……」などと考えると、わかりにくかろうがなんだろうが、突っ込まれたとき法的にガードの固い記述に流れてゆくのは理解できないでもない。日本が、くだらない訴訟ばかり起こしては弁護士の懐を潤すばかりのアメリカのような社会になってゆくとすれば、商品の説明書きはもっと奇ッ怪な文章になることだろう。パッケージのわずかな紙幅に虫のような字でびっしりと使用上の注意が書いてある――なんてのは、結局、誰も読まなくなるから逆効果であるうえに、それを書いて印刷するために膨大な労力が費やされる。商品の説明が丁寧なのはいいけれど、消費者のための利便性や商品の安全性を増すためではなく、ひたすらメーカが訴訟に負けないようにする方向にばかり説明が丁寧になってゆくのは、やっぱりどこかおかしいよね。

【3月30日(月)】
▼こまごまとした書類が家の中に散乱しはじめたため、少し整理せねばと、会社帰りに文房具屋に寄って手ごろな整理箱を捜す。プラスチック製の折り畳み式整理箱があり、電車で持って帰ることを考えるとちょうどいいから、ふたつ買う。さらに、ゲラ読み用にと厚めのパンチレス・ファイルを買い店を出る。
 家に帰って箱を組み立てようと、いま一度袋の説明書きを読んで首を傾げた。「ボックスに入れる重量は80N以内としてください。(1Nは約0.1kgです。)」などと書いてあるのだった。にゅ、ニュートン。文科系のおれは、高校の教科書で見て以来、ハードSFを読むときのほかは、まず日常では目にしない単位である。それにしても、精密機械でもあるまいし、こんなプラスチックの整理箱のスペック(!)をなんのつもりでニュートンで表記しているのだろう。PL法の絡みか? えーと、たしか1Nは質量1kgの物体に1メートル毎秒毎秒の加速度を生ぜしめる力であったはずだから……重力加速度は9.8メートル毎秒毎秒で、地球上で質量1kgの物体に働く重力は9.8Nだな。すなわちこれは1kg重のことだから、うむ、「1Nは約0.1kgです」という補足説明は、かなり大雑把な表現だがまちがいではないな。おおお、これくらいは憶えているぞ。びっくりだ。しかし、だからなんだというのだ。おれに高校物理Iの復習をさせるのがこの説明書の目的か。
 そういえば、日常の表記でも質量と重量とをちゃんと区別しようという主張をしている人たちがいると、以前に新聞で読んだことがある。つまり、ササニシキを98N注文したり、1.96Nの挽き肉をおまけして2Nにしてもらったりしようというわけであるが、地球上でそんなことをしてなんのメリットがあるのかよくわからん。たしかに宇宙時代の理科教育には役立つやもしれないが、混乱を来すのがオチだよなあ。ミリバールがヘクトパスカルになるのとはわけがちがうのだ。となると、より小さい重力を表わすにはニュートンでは不便で、その下のダインを使うことになるだろう。1dynは、質量1gの物体に1センチメートル毎秒毎秒の加速度を生ぜしめる力であるから、gとkgで10の3乗ぶん、cmとmで10の2乗ぶんで、10の5乗dynが1Nだよね、たしか。こんな単位を使って商店街で晩飯の材料を買ったらややこしくてしかたがないぞ。おれは暗算が苦手だから、電卓なしでは買いものもできなくなる。
 この整理箱の説明書がなぜこんなまわりくどい書きかたをしているのか、まったくもって不可解だ。「約8kgまで入ります」と書くよりは、「80N以内にしてください」としたほうが、なにやら箱が強そうに見えるという効果はあるよな。あっ。そうか。この箱は折り畳み式である点が売りなのだから、もしかすると地球上以外の場所で使うことを想定しているのかもしれないぞ。宇宙船の中とか。有名文具メーカの製品だから、もしかするとNASAかNASDAの御用達なのやもしれん。でも、それだと少なくとも4Gくらいには耐えなければならないだろうから、地上で2kg前後のものしか入れられないよな。待てよ。折り畳んで宇宙に持ってゆき、そこで組み立てて宇宙船内の小物を収納するのか。そんなアホな。もしかすると、この整理箱の説明書は野尻抱介さんがアルバイトで書いてらっしゃるのだろうか。まさかねえ。

【3月29日(日)】
▼三十を過ぎたころから、どうも肉欲が衰えていけない。野菜ばかり食いたくなってくるのだ。たまに大量に肉を食うと、すぐ腹具合が悪くなる。さきほどステーキを食ったところ腹がごろごろしてきて、トイレに行ったらすっとした。まさか食ったものがすぐ出たわけじゃないだろうけど、なんだかわざわざ高いものを食って栄養を排出しているような気がして、ちょっとアホらしい。味そのものは、野菜料理より肉料理のほうがはるかに好きなんだけども、もう身体がついてこないのね。動物の死体をばりばり消化するほどの体力がなくなってきたのだろう。肉を大量に食うと体調を崩すものだから、なんとなく肉が不浄のものであるかのような感じを抱くようになってきた。そういう考えの宗教ってけっこうあるけど、単に肉をたくさん食えなくなった爺いの教祖が腹具合を悪くして思いついた禁忌だったりしてね。こうしておれも徐々にヴェジタリアンになってゆくのだろうか。
▼どうも最近化けてしまって見えないページが増えてきたので(そういうページはソースを保存してエディタで見ると読めるのである)、しぶしぶブラウザのヴァージョンを上げる。マシンが貧弱なものだから、あまり重たいブラウザだとかえって不便なのだ。いままでずっと Windows 3.1 で Netscape Navigator Ver.2.01[ja]を使っていたが、このたびようやくブラウザのほうだけ Ver.3.01[ja] に上げた。すげーハイテクな人になったような気分である(って、タダなんだから威張るなよ)。次は、Windows 98 が出るころに Windows 95 がプリインストールされている値崩れまくったマシンでも買おうかと思っている。さすがに会社では業務に支障がない程度に新しいパソコンを使ってはいるが、おれはプログラマでも電脳ライターでもないので、安月給で自宅にまで最新のマシンやソフトを持つ気にはとてもならない。安定して動いてくれることが第一である。そもそも、なにが哀しくて出たばかりの製品のバグ取りをタダでやってやらにゃならんのだ。辞書は初版を買うなというのは常識で、中にはミスや誤植を楽しみにして初版を集めている人もいるが、おれにはそういう趣味はない。
 そういうわけで、会社のペンティアム機と自宅の486sx機のどちらが快適かといえば、カスタマイズしまくった後者のほうなのである。会社だと、ネットワーク環境やら社の方針やらの要請もあって、使いたくもないタコなソフトを使わざるを得ない事情が多々あるからだ。さらにタコソフトの不備を少しでも補うため、おれが勝手にフリーソフトやらシェアウェアやらを放り込むため、ディスク容量が圧迫され、全体的パフォーマンスも落ちる。ひどいときには、わずか十数行ほどのテキストをわざわざ MS Word で作成して電子メールに添付して送ってくる人がいたりする。インターネットを経由するならセキュリティ面での意味もあろうが、社内からそんなものを送ってこられると、それを読むだけのためにクソ重たい Word を立ち上げねばならず、まず三十秒は損する。プレーン・テキストで送ってくれればメールを開くだけで読めるし、仮に添付ファイルになっていたとしても、秀丸エディタでなら三秒もあれば立ち上がる。
 おっと、ぼやきはともかくとして、ここまでは本音ね。で、ここから建前に切り替えよう。やはり、パソコンやソフトウェアはできるだけ新しいものを買って使ってみて人に先んじるのがよろしい。多少の不具合があったにしても、それだけ人にはできない勉強ができる。若いころの苦労は買ってでもしろと言うではないか。Windows 98 など、真っ先に買うべきであろう。どんな新しいマシンを買っても、三か月もすれば古くなってしまうが、古くなったらすぐ叩き売って、売れた金にちょっと上乗せして最新機を買うのがよい。それも三か月もすれば古くなるが、たかが機械に愛着など持ってはならない。すぐ叩き売り、次の最新機を買う。みながこれを繰り返せば、景気がよくなること請け合いである。減税分はぜひパソコンに投資しよう。パソコン業界が潤えば、おれの給料も少しは上がるだろう。で、上がった分はありがたく貯金させていただくことにする。海外書店から洋書をまとめ買いしてもいいな。いいでしょ、橋本首相?

【3月28日(土)】
▼さてさて、昨日の日記で触れた「おしゃべりランチ」(毎週月・水曜日/12時15分〜13時15分/パーソナリティー・三瀬恵さん)で、おれの日記を紹介してくださる放送日だが、4月1日(水)が第一回ということになった。12時30分以降になる予定。とりあえず、まずは「インターネットの中のおもしろい日記ページ」ということで触れてくださるそうである。例のナイフ事件の話題などは順次ご紹介してゆきたいとおっしゃっているので、何度かに分けて言及してくださるらしい。この時間に聴ける方は、電波ラジオ(ってのも妙な言いかただけど)かインターネット・ラジオで聴いてみてね。
▼以前観た『ヘンダーランドの大冒険』に舌を巻いた憶えがあり、忙しいにもかかわらず、せっかくテレビでやるのだからと、映画『クレヨンしんちゃん 暗黒タマタマ大追跡』(監督:原恵一/1997)をテレビで観る。なんて丁寧な作りの脚本だろう。切れのよいギャグ、伝統を踏まえつつも前衛的な小ネタ、そして、なによりもしっかりとした構成――ううむ。マルクス兄弟トム・ストッパードが手を組んで子供向けに作ったような、最良質のドタバタに仕上がっている。大人向けの凡百の粗製濫造二時間ドラマが屁のように見えるなあ(まあ、かけてる金が段ちがいだろうけど)。幼児向けだからこそ子供だましを許さないプロの仕事がすばらしい。こんなのなら劇場で金を払って観てもよい。おれは映像技術のための映像技術などにはさして興味はないから、やたらチカチカしているだけの花火大会みたいなものよりは、こういう映画のほうがずっと好きだ。なんだったら、映像の質はもっと落として、浮いた金を脚本と音楽にさらに注ぎ込んでもらってもいいくらいである。爺いの発想だ。ま、いいじゃん、ほんとうにいいものは子供にも絶対わかるはずだ。
 うちの母などは、姪どもがクレヨンしんちゃんの真似をして下品な言葉を使うなどと目くじらを立てておるのだけれども、己の中にものさしを持たず“世間一般の意見”(そんなものはじつは存在しない)や“エラい人の意見”(これも相対的にしか存在しない)にばかり踊らされる人々はいつの時代にも必ずいるもので、そんなのは無視すればよろしい。ビートルズだって手塚治虫だってビートたけしだって、こういう人々にはボロクソに言われておったのだ。十年後、二十年後に、そういう人々が掌を返したようにかつて貶していたものを褒めはじめるのを、にやにやしながら眺めるのがおれの品のない趣味のひとつだ。信じられないことだが、“文部省推薦”なんて惹句に目が眩む人種というのは、いまの世にも存在するらしい。わはははは、もしあなたがクリエータだったら、いまの文部省なんぞにあなたの作品を推薦してほしいと思いますか? そんなことされたら迷惑だよねえ。いまなら、“大蔵省推薦”なんてのをもし正式に取りつけられたら、これはギャグとして強力な宣伝になる。推薦する映画は、べつになんだってかまわない。適当に選んで“大蔵省推薦”とくっつけるのだ。『禁じられた遊び』(大蔵省推薦)、『俺たちに明日はない』(大蔵省推薦)、『勝手にしやがれ』(大蔵省推薦)、『酒とバラの日々』(大蔵省推薦)、『アンタッチャブル』(大蔵省推薦)、『許されざる者』(大蔵省推薦)、『十戒』(大蔵省推薦)、『日本沈没』(大蔵省推薦)――なんの変哲もないタイトルの映画も、なんだか急に面白そうに見えてくるじゃないか。
 それはそうと、映画の『クレヨンしんちゃん』には、SFに通じたブレーンが何人かいるのだろうか? どうも、おれには“クる”ネタが多い。こちらの動きが読まれてしまうため無敵とも思えるテレパスの敵に、しんちゃんの両親が歌を唄いながら立ち向かうとは、伝統的な方法ながら子供にもわかりやすくてうまい。「SFマガジン」97年12月号に訳載されたジェイムズ・ティプトリー・ジュニア「いっしょに生きよう」(伊藤典夫訳)にも、対テレパス戦術としてまさにこの“強迫唄”が使われていたのは記憶に新しい。こういう“さとるの化けもの”の弱点は、誰も意図しなかった偶発的な攻撃であるというのがさらに古い定石ではあるが、そちらには逃げないセンスがいい。しかも、しんちゃんと、まだ赤ん坊の妹ひまわりの心をテレパスに強引に読ませて衝撃を与えるなどという攻撃法もSF的だ。ただでさえ子供の意識なんてのは超自我の抑圧が未発達であるはずだし、前意識になだれ込んで来るイドのどろどろが、意識の表面にも沼気のように浮かんでは消えているはずだ。しかも、しんちゃんがかなり異常な精神構造の持ち主であることは想像に難くなく、彼の心は大人のテレパスが覗き込むにはあまりにも怖ろしいものであるだろう――なんてことを踏まえて、子供にもわかるようにシンプルな画で説明してしまうのがすごい。
 近日劇場公開予定の『電撃!ブタのヒヅメ大作戦』も、なにしろコンピュータ・ウィルスの話だというから、期待してしまうなあ。こんなことをうっかり家で漏らすと、じゃあ姪たちを連れて行ってくれということになりそうでまずい。おれは映画はたいていひとりで観る。優れた作品を子供に観てほしいとは思うが、じっと観ている集中力(もしくは忍耐力)に欠ける子供をおれが劇場に連れてゆくのはたまらん。『クレヨンしんちゃん』のようなよくできた映画は、ひとりでしみじみと鑑賞したい。誰かを誘うのも大儀だ。

 トレンチコート姿の冬樹蛉、バーのカウンタで紫煙をくゆらせ、I.W.ハーパーを飲んでいる。そこへ現われる妙齢の美女、冬樹から少し離れたカウンタに座り、もの憂げに長い髪を掻き上げる。

冬樹「マスター、あちらのお嬢さんにマティーニを……」

 女、少し戸惑った顔で冬樹に会釈する。冬樹、グラスを軽く差し上げてニヒルな笑みを返すと、女の隣にやってきて座る。

「これ、ごちそうになるわ。ありがとう」
冬樹「あなたのような美しい人が、こんなに早くからひとりで飲んでるのは似合わない」
「お酒が好きなの」
冬樹「どうですか、いまから映画でも」
「よろしくてよ。なにかお薦めでも?」
冬樹「『電撃!ブタのヒヅメ大作戦』」
「は?」
冬樹「いえ、ですから、クレヨンしんちゃんですよ。『電撃!ブタのヒヅメ――』」

 去ってゆく女のうしろ姿を、マティーニでびしょびしょになった冬樹、呆然と見ている。

……ということになりがちであるから、やはり映画はひとりで観たほうがいいですよ。

【3月27日(金)】
▼さて、3月5日の日記で、この日記がラジオで紹介される件に触れたが、さらにおまけがついた。このラジオカロスサッポロ「おしゃべりランチ」(毎週月・水曜日/12時15分〜13時15分/パーソナリティー・三瀬恵さん)という番組は、マリモネットの協力でインターネット・ラジオとしても実験的に同時放送するという試みをはじめており、すでに番組紹介のウェブページもできている。ということは、である。電波では札幌市の一部地域でしか聴けないが、インターネットでなら理屈の上では全世界から聴けることになる(むろん、サーバや回線の負荷状況や伝送経路に大きく依存するが)。RealAudio Ver.3.0 以上か RealPlayer が使えるパソコン環境であれば、あなたのところからも札幌の三瀬さんの声が聴けるかもしれないのだ。ちょうどお昼休みの番組なので、ご家庭で、あるいは、もし不都合がなければ職場で、札幌の声が聞こえるかどうか、ちょっと試してみていただきたい。職場では、社内ネットワーク環境の設定次第では、RealAudio や RealPlayer が利用できないようになっている場合もあると思うから、その点ご注意を。なにしろインターネットのほうは実験放送なので、「ここからはちゃんとラジオ並みに聞こえたよ」とか「うちでは断続的な音しか聞こえず、なに言ってるのかわからなかった」とか、受信状況をおれ「おしゃべりランチ」にご報告くださればたいへんありがたい。
 なお、この日記を紹介してくださる放送日は未定である。確定したら、ここでお知らせいたします。うーむ、なんだか面白いことになってきたぞ。

【3月26日(木)】
▼今月の「SFオンライン」は、大学SF研の特集。意外と思われるかもしれないが、おれは大学時代、SF研究会には縁もゆかりもなかった。SF研出身の人たちの和気藹々とした記事を読んでいると、なにやら羨ましいような気になる。それにしても、SFオンラインのスタッフって、ほとんどSF研出身なんだね。
 一度だけ母校のSF研を覗いたことがあった。ふだんは活動をしているのかしていないのか、部室なんてあるのかないのかすらさっぱりわからない影の薄い(失礼)感じだったが、学園祭のときに一応催しものらしきものをやっている看板を見かけたので、ふらりと入ってみたのだった。おれの行っていた大学は、名の知られたSF関係者をあまり多くは輩出していない(しているのかもしれないが、おれは知らない)。山野浩一氏(中退なさっている)、かんべむさし氏、無理にSFに引っ張り込むとすれば、三枝和子氏くらいであろう。団鬼六氏という奇才もいるが、この方はSF関係者ではなく、SM関係者である。なぜ大学名を書いてしまわないかというと、おれは必要以上にお手軽に個人情報を調べられるのを好まないので、手間をかけるほどもの好きな人とSFファンにだけ通じればいいと思っているからだ。
 さて、恐るおそる催しもの会場になっている教室に入ると、いかにも“SFファンでございます”と顔に書いてあるような女子学生(新井素子風)二、三人と、これもまた、いまもむかしもあまり変わらない“SFファンでございます”と顔に書いてあるような男子学生(神林長平風)が三、四名、お客を待つでもなく雑談をするでもなく屯していた。“展示品”らしきマンガとSF雑誌がぱらぱらと並べてあり、なぜかビデオデッキとモニタが用意されている。おれはおずおずと展示品を見てまわっていたが、学園祭の催しだというのに、おれ以外の客は誰も来ない。ずいぶんと地味である。興味のある展示はすぐに見終ってしまった。さて、どうしたものかと思案していると、部員の人が「ビデオ見ませんか」と声をかけてきた。なんだったと思います? 公開間近だった『さよならジュピター』のメイキングである。いや、サウンド・トラックこそ入っているが、宣伝文句のナレーションすら入っていない。つまり、まだ売りものになっていない状態の予告編ビデオをなんらかの手段で入手したらしい。小説は読んでいたから、説明なしでもなんのシーンかはだいたい見当がついたけれども、リーダー格であるらしい聡明そうな眼鏡の学生が、ご親切にも“弁士”をしてくださった。といっても、観ている“客”はおれひとりである。平田昭彦が乗ったスペース・アロー号が、ブラックホールの潮汐力でバラバラになるシーンだけはやけに鮮明に憶えている。その“弁士”さんは、他の学生に「小松さん」と呼ばれていたのだが、おれは「面白い取り合わせもあるものだ」とさして気にも留めず、ビデオを見終って教室をあとにした。堺三保さんとチャットしていて、「ああ、それは小松左京さんの息子さんやがな」と教えられのけぞったのは、それから十年以上経ってからのことである。道理で予告編が入手できたはずだ。年齢も合う。冬樹はなんて鈍いやつだとお思いでしょうが、おれたちくらいのSFファンにとっては、小松左京なる作家は天上人のような存在であって、人間の形をした御子息がいらしてそこらを歩きまわっているというあたりまえの可能性が、おれの思考回路の中でブロックされてしまっていたとしか思えない。その証拠に、SF作家ではない藤本義一氏の奥様が、社会人聴講生としておれのすぐそばでしばしば講義を聴いておられたのはちゃんと認識していた――って、証拠になってないか。
 というわけで、大学SF研にまつわるおれの想い出は、これくらいしかないのである。

【3月25日(水)】
▼朝、電車の中で若い女性が二人で話している。春から勤める会社の話などがちらほら出てきて、卒業したばかりの女子大生だとわかる。女子の大学生なのか、女子大の学生なのかはさだかでない。“女子高生”という文字遣いはダメで“女子校生”なら許されるというのは、たしかビデ倫か。なるほど“女子高生”の字面のほうが徒に劣情を煽るような気はするが、アダルトビデオってそもそも劣情を煽るために観るものとちゃうんかいな。“倫理”の二文字が入った組織・団体が大真面目に言うことは、しばしば秀逸なギャグになっているので、おれは“倫理”が大好きである。なにを言い出して笑わせてくれるか、わくわくするのだ。
 えっと、話が逸れた。で、その元女子大生たちの話を、例によって、じぃっと立ち聞きしていた。この日記の常連の方々はすでによくご存じでありましょうが、おれは立ち聞きが趣味だ。しばしば書きもののネタにしたり、バカな思索のヒントにしたりする。品性下劣な趣味だなあと思いつつも、そういう習性なんだからしかたがない。小説なんかに出てくる会話というのは、どんなに自然にリアルに書かれていても、読者に自然だリアルだと思わせるところにこそ作家のプロの技が発揮されているわけだから、それは本質的に人工的なものだ。嘘なのである。嘘だからこそ、ナマの事実にはけっして伝えられない真実を伝え得ることもある。おれはそういう嘘をたいへん好む。だが、正真正銘のナマの会話にも、やはりその媒体でしか伝えられない面白さがあり、こっちはこっちで大好きだ。
 その元女子大生たち、ひとりは主に聞き役に回っていて、もうひとりがよく喋る。ときどき相方の絶妙な突っ込みが入るところは、さすが関西人だ。聞いていると、大学を卒業することになってなにが辛いかという話題になった。お喋りなほうのコが言うことがよかったね。「ほら、○○○(京都の有名私立大)なんか、就職課行ったら、インターネット使い放題、コピー取り放題やんかあ。あれはほんまに、よう遊ばしてもろたわ」おいおい、就職課をインターネット・カフェにしておるのか。まあ、就職できたんだから、よかったことだが。「(就職すると)それができんようになるのが寂しいわ。やっぱ大学はむっちゃ金あるわ」
 うーむ。おれは腹の中で唸った。たしかに、インターネットが業務に不可欠で、一人一台以上のパソコンを与えられ自由に情報にアクセスできるという企業は、まだまだそんなに多くはない。サラリーマンとしては情報産業の片隅に従事しているおれが言うのだから信じてほしいのだが、いわゆる“情報産業”の従事者というのは、あくまで情報を右へやったり左へやったりする環境を顧客に提供する人々であって、必ずしも自身の情報リテラシーが高い人ばかりではない。簡単な調べものひとつにも難渋する人がたくさんいる。また、湯水のように情報が収集できたとしても、それを分析・解釈し、あまつさえ加工・統合して新たなオリジナル情報を作り出せるとはかぎらないし、それは自分たちの仕事ではないと思っている。SEやプログラマにも、情報流通の仕組みを作ることには関心があっても、情報そのものにはまるで無関心な人も少なくない。もちろん、本人がその気になれば、他の業界より環境は恵まれているのだから、情報収集ノウハウを身につけてゆくことは比較的容易だ。にもかかわらず、まるで自分の働いている店では買い物をしないスーパーの店員のように、自分たちは情報そのものには手をつけないものだという空気がまだまだある。会社にある高価な機材や設備は、あくまで包丁や俎板であって、茶碗や箸ではないと思っているようですらある。情報産業の会社がこれなのだから、他の業界は推して知るべしだ。
 きっと、この元女子大生も、WWWはおろか電子メールすらろくろく使えないかもしれない春からの職場環境にフラストレーションが溜まることだろう。最初からまったくそういう世界を知らないのならまだしもだが、昨今の学生は恵まれた情報環境を備えた学校で、すでにインターネットなどに触れてしまっているのだ。もうあとへは戻れない。となると、いかに情報環境が充実しているかで就職する職場を選ぶという観点も出てくるだろう。これは中小零細企業には痛い。ほんとうは、中小零細企業だからこそ、大企業と渡り合うには情報が最大の武器になるはずなのだが、「パソコンなんてのは、腰かけの女の子にでも“叩かせて”おけばよいもの。人の上に立つ者は、手ずからそんな下級労働をするものではない」といった意識が年配者にはまだ残っているのは困りものだ。おれのところにも、ときおり慶應義塾大学湘南キャンパス内のアドレスで感想メールが来たりするが、あのようなすさまじい情報環境を持つ企業は、大手一流にもそうそうあるものではない。一度天国を見た学生には、現代社会で電子メールすら使わずに企業活動が成り立つとはとても信じられないであろう(さしあたり、いまのうちはまだちゃんと成り立っていることも多いのだが……)。他の大学だって、少子化の進む昨今、情報環境の充実を受験生にアピールし、文部省の助成金を死にもの狂いでもぎ取っては設備の拡充に鎬を削っている。そうした状況に危機感を覚える慧眼の中小企業経営者が情報投資をしようと思っても、銀行は貸し渋ってにっちもさっちもゆかない。おまけに西暦2000年問題で、直接の利益を生まない出費を否応なしに強いられる。情報環境の整備に遅れを取った企業は、情報リテラシーの高い学生をますます取り逃がす。こうした悪循環が、企業の情報環境整備や人材獲得の二極分解を進行させ、立ち遅れたところはバタバタ潰れてゆく――こんな近未来像が、女子大生のきゃぴきゃぴした会話からも十分に窺えるのである。
 だから、小規模ながら独自の強みを持つ企業は、苦しい時世だからこそ、いまのうちに情報投資をしておかないとあとがないかもしれないすよ――とかなんとか、冬樹蛉名義で“昼の仕事”をしてどうする(笑)。

【3月24日(火)】
▼このごろ駅でよく“ハイカラさんが通る”スタイルの若い女性を見かける。卒業式帰りだ。どうもおれは式典というやつが苦手で、つまらん話を長々と聴かされてしんどいとしか思えない。そのくせ、なにかいいことがあると、自分ひとりで祝杯を上げたりするのは好きである。部屋を暗くして、好きな音楽でも聴きながら、ゆっくりとグラスを傾ける。これ以上に心のゆとりを感じることがあろうか。要するに、おれは人がうじゃうじゃいる場所が嫌いなのだ。そんなおれでも、きゃぴきゃぴと嬉しそうにしている卒業式ルックの若者を見ると、なにやら羨ましいような微笑ましいような気持ちも微かに抱く。「これから社会に出てゆくのか。かわいそうに……」という思いもかなりあるのだけれども(笑)。まあ、それぞれにそれぞれの世界でそれぞれの道を歩んでゆくのだろうから、戦線に加わった友のようにも見えないことはない。
 それにしても不思議なのは、小学校ならいざ知らず、大学の入学式や卒業式に親がついてくる光景がすっかりあたりまえになってしまっていることだ。あれって、たぶん子のほうでは厭でしようがないと思うぜ。親がどうしても卒業式が見たいというのなら、無碍に断わるいわれもないし、まあ、しようがねえなあ、これも親孝行か、親ってのはいつまでも子供だなあなどと諦観し、関西弁で言えば“しょうことなしに”門の前で記念写真など撮ったりしているのだと思うのだが……。
 おれの場合はどうだったかと回想してみると、子は「卒業できないならともかく、ちゃんと卒業するんだから、親の知ったことではあるまい」とふだんとまったく変わらない服装で大学に出かけた。親は親で式典嫌いであるから、仮に頼んだってやってこなかったろう。だからおれの親は息子の行ってた大学を見たことがないし、正確にどこにあるのかも知らない。中学、高校では、進路相談だの三者懇談だのというおためごかしの儀式があるから、さしものうちの親も学校の門をくぐらざるを得なかった。だが、そのほかにはべつに親が呼び出しを食らうようなこともしなかったから、学校にやってきたことはない。小学校となると、さすがに入学式は親が同行したけれども、卒業式に来ていたかどうかということすら、すでに記憶にない。親が式典嫌いでほんとうによかったと思っている。おれは自分の親とまったく波長が合わないので、親に相応の感謝の気持ちこそ抱いているにしても、親を尊敬したことなど一度たりともない。子供のころは迷惑もかけたが、こちらも子供のころからずいぶん迷惑をかけられてきたのでお互いさまだ。そんな波長の合わない親子ではあるが、こと式典に関してだけは、双方の利害が一致したのである。親は式など見たくない。子は来てほしくない。めでたし、めでたし。
 大学の卒業式にのこのこついてくるくらいであれば、親孝行じゃと耐えることもできようが、世間には入社式やら新婚旅行にまでついてくる親がいるらしいと聞くと、おれは他人事ながら赤面してしまう。よくも恥ずかしくないものだ。いまの世の中、なにかにつけて子供にかまいすぎなんだよ。親だって、自分の個人としての生活があるだろうに。よっぽど暇なのか?
 以前、保険屋が持ってくる人生設計チャートとやらを見ていて仰天した。五十歳から六十歳くらいまでのあいだに“子供の結婚資金”がいくらいくらかかるなどと書いてあったのだ。世間ではそれがあたりまえであるらしい。カルチャー・ショックとはこのことだ。なんで成人して仕事を持ち配偶者まで見つけた一人前の大人の結婚資金を、そいつに遺伝子を半分ずつ提供したというだけの理由で親が出してやらにゃならんのだ。あほか。だいたい自分の稼ぎで結婚できないようなら、まだ一人前じゃないんだから結婚なんてするなよ。あるいは、自分の稼ぎでできる範囲の結婚をしろよ――おれが呆れてこのような感想を口にすると、そばにいた壮年の上司が言った。「親は(そういうことに金を)出すのが嬉しいんよ」 なあるほど、奇妙な親孝行もあるものだ。たしかに金を出してもらうことが親孝行になるんなら、こんなおいしい話はなく、そういう親孝行ならいくらでもしたいもんである。だけど、この世の鉄則として、金を出したやつは必ず口を出す。それはなによりも厭だから、おれがこれから結婚するようなことが万が一あっても、親なんぞにビタ一文出してもらうものか(二、三万程度の祝い金なら受け取ってもよかろう)と固く誓ったことであった。もっとも、親はおれの収入で生活してきているのだから、金の出しようがないわけだが(笑)。ここでも、卒業式と同じように、親子の利害は完全に一致している。波長が合わないわりには、けっこう良好な親子関係かもしれないな。

【3月23日(月)】
▼地下鉄に乗り、席が空いていないのでドアのそばに立っていると、ちょっと離れたところに座っている菅野美穂に似た、しかし、菅野美穂の2.5倍は可愛い若い女性が、おれのほうを恥じらうように上目遣いに窺いながら頬を染め、目が会うといっそうもじもじとあわてて下を向いたりしている。こういうとき、哀しいことにおれは、まず「そんなバカな」と思う。女性がおれに熱い視線を注いでいるなどという事態は、あり得べからざることとして自我が発達しているのだ。オペランド条件づけである。そりゃ世の中には、菅野美穂の2.5倍は可愛いくせに冴えない風采のサラリーマンのおっさんが好みだという、なにかトラウマでも負っている女性がおらんとはかぎらん。が、やっぱり確率は著しく低いような気がするぞ。冷静に状況を分析したおれは、頭の上に鳩の糞がついていないかとか、社会の窓が開いていないかとか、さりげなくわが身をチェックした。大丈夫だ。だとすると、論理的に導ける状況は……ビンゴ! その女性からおれを挟んだ位置に、きりりとハンサムなおれよりちょっと若いくらいの渋いおやじが立っていた。おれはほっとして、明日も太陽は東から昇るであろうと確信した。

【3月22日(日)】
▼今日は原稿書きばかりで、ろくろくくだらないことを考えている暇もなかったので、昨日に引き続きウルトラマンの話を書く(なんて日記だ)。もっとも、おれは網羅的な知識を持つ京本政樹氏のような“ウルトラおたく”ではないから、あくまで独断と偏見に基いた意見を書く。
 おれがウルトラマン・シリーズでいちばん好きなのは『帰ってきたウルトラマン』なのである。テーマ曲も、どうもぱっとしない歌詞に比して、異様にアンバランスな名曲だ。『帰ってきたウルトラマン』(ウルトラおたくの方々の専門用語では“帰りマン”と称するらしい)のなにがいいと言って、暗いところがいい。そもそもウルトラマン=郷秀樹役の団次郎が暗いし、岸田森なんてそこに存在しているだけで暗い。あれがなんとも言えずいいんだなあ。
 変身のしかたが異色である。郷秀樹は、本来、自由意志ではウルトラマンに変身できない設定なのだ。人間としてギリギリまでがんばって、生命の危険に晒されるほどのピンチに陥ったときはじめて、ひとりでにウルトラマンに変身するのである。道具が要らない。リーフラッシャー(ってのは、ダイナの変身道具ね)の玩具を売らなければならないいまなら、絶対通らない企画だ。だが、これではさすがに脚本家が苦しくなってきたのか、郷秀樹もだんだん要領がよくなってきて、無謀なことをしてみずからを危機に陥れることで変身するという安易な方法を取ることがあった。あれは堕落だ。ビルから飛び降りて変身したときには、おれは哀しかったぞ。
 で、話は突如初代ウルトラマンに跳ぶ。先日、NIFTY-Serve・SFファンタジー・フォーラムのスタッフの東部戦線さんとチャットしていて、初代ウルトラマンの名作“ジャミラ”(「故郷は地球」に登場)の話になった。東部さんは言うのである――「ジャミラは自然の雨で死んだほうが、より哀しくテーマが引き立ってよかったのに」 おお、とおれは膝を打ち、諸手を挙げて賛成した(ら、キーボードが打てないから、諸手を挙げたつもりで賛成した)。ご存じない方のためにご説明いたしますと、ジャミラという怪獣は元地球人の宇宙飛行士なわけね。事故のため消息を断ち、水のない過酷な惑星にたどり着き暮らすうち異形の怪獣になってしまったのだが、艱難辛苦の末、宇宙船に乗って地球に帰ってきたのである。ところが、怪獣になってしまったジャミラを地球人は受け入れない。暴れるジャミラに、しかたなくウルトラマンは指先から水を噴射して(ウルトラ水流というらしい)ジャミラに浴びせ退治てしまう。水のない惑星で長期間過ごしたジャミラは、水に弱いのだった――という話なんだが、これはやはり東部戦線さんのおっしゃるように、ジャミラは雨で死ぬべきだったろう。暗く冷たい宇宙を渡ってようやく故郷にたどり着いたジャミラは、地球の生命の故郷である“水”、恵みをもたらす自然現象としての“雨”に打たれて死ぬほうが、ウルトラマンに水を浴びせられる結末よりも、はるかに哀しく画になる。故郷に決定的に拒絶される存在に望まずしてなってしまった悲哀が強く出る。おれは東部さんの提起を引き継いで、その場で脚本を書き変えた――夕立に打たれて動かなくなるジャミラ。いつしか陽は西に傾き、夕陽を背に佇むウルトラマンのシルエット。カメラ、回り込んでジャミラの亡骸を捉えると、ジャミラの傍らから空に虹がかかっている――。
 うーん、やっぱりこのほうがいいよ。ただ、これだとウルトラマンが出てくる必要がないというのがいちばんの問題なんだけどねえ。

【3月21日(土)】
▼ちょいとほにゃららな野暮用で朝帰り。まあ、アレです、さあ、これからやたら忙しくなるぞというときには、少々羽目を外したくもなる。
 電源が切れたように眠り、目が覚めると『ウルトラマンダイナ』(TBS系)の時間。あれ、ちょっと前にも似たようなことを書いた気がするぞ――それはともかく、ダイナのエンディング曲は、前のほうがよかったなあ。古のLazyファンには申しわけないけど、今度のはやたら威勢がいいだけだ。おれの耳は幼稚なのかもしれんが、リコーダー一本で吹いてもメロディーが楽しめる曲がおれは好きだ。『君だけを守りたい』(中島文明)は、ウルトラシリーズ屈指の名曲だと気に入っていたのに。
 さて、「SFオンライン」原稿の仕上げにかかるか。


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