間歇日記

世界Aの始末書


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98年4月上旬

【4月10日(金)】
▼先日、おれの日記を紹介してくださった「おしゃべりランチ」ラジオカロスサッポロ/毎週月・水曜日/12時15分〜13時15分/パーソナリティー・三瀬恵さん)の当日放送分テープを三瀬さんが送ってくださったので、さっそく聴いてみる。自分の文章が音声で放送されるなどという体験は、中学生のころラジオに葉書を書いて以来だ(おれのことだから、当然この手のものは大好きだったのである)。頼まれもしないのにものが書きたくてたまらなくなる人間というのは、つまるところ自己顕示欲の塊であるにはちがいないのだが、その文章を誰かが自分の目の前で読んでいたりすると、「ああ、やめてくれ〜」と穴の中に入りたくなるフクザツな心理の持ち主でもある。「あれ読みましたよ」と、あとで言われるのは平気なのだ。おそらく自分で朗読するのも平気だと思う。なのに、他人が読んでいるのを見たり聴いたりすると恥ずかしい。だけどやっぱり、ラジオで読んでくれると嬉しい。わけがわからん。
 この日記のように比較的日常言語に近いもので書いていてすら恥ずかしいのだから、作家なんかはもっと恥ずかしいと思う。作家を拷問しようと思ったら、その人の目の前で作品を音読すればよいのではなかろうか。朗読会を開いたりする人もいるくらいだから、自分で読むのはたぶん恥ずかしくないのだろう。いや、これも人によるのかな。
 おれはなにが厭と言って、書きかけの文章を人に読まれるのがたまらなく厭だ。健康診断のとき、自分の小便を入れたコップを看護婦さんに渡すのはまったく平気だけれど、コップに小便を入れている現場を見られていたら厭だろう。だからおれは、人前で文章が書けない。べつに世間の人はおれが書いているものを覗き込むほど暇でもないのだが、そう頭では理解していても、人のたくさんいるところで文章を書くのは、その場でおちんちんを引っ張り出して小便をするくらいに恥ずかしい。ほかの人はどうなんだろう? そもそも人に見られようが見られまいが、ものを書くという行為はそれ自体がとてつもなく恥ずかしいことだよね。毎日駄文を垂れ流しているやつがなにをほざくかと言われそうだが、ものを書くことの本質的な恥ずかしさはいくら書いてもいささかも減じることがない。できればこんな恥ずかしいことをせずにすめばそれに越したことはないのだが、呼吸をするのが恥ずかしいからといって息を止めるわけにはいかないのだ。

【4月9日(木)】
▼他府県の人に言うとびっくらこかれることが多いのだが、じつはおれは学校で『君が代』を歌ったことがない。私立学校ばっかりだったんだろうと思われるでしょうが、小学校、中学校は京都市立、高校は京都府立である。じつに安上がりな公立ばっかりだ。京都というのは、少なくともおれが子供のころはそういう政治的土地柄(?)だったのである。たしかに音楽の教科書には一応載っていたが、どの教師もそこは飛ばしてまともに教えなかった。一回や二回は「こんな曲だ」と示すためだけにオルガンやピアノで弾いてみせた教師はいたかもしれないけれども、おれの記憶にはない。音楽の時間に習わないくらいだから、入学式や卒業式で歌うなどもってのほかである。じゃあ、おれは立派なサヨクに育ったかというと、そんなことはまったくなく、ちゃんと自分の翅が四枚ある極楽蜻蛉になり、選挙のたびにその都度いちいち手前の弱い頭で考えては、共産党に入れたり自民党に入れたりという非効率的なことをしている。そういうわけで、おれにとって『君が代』とは、点けっぱなしになっていたテレビから流れてきて、リモコンを手に取り民放に切り替える合図となる音の羅列以上でも以下でもないのである。歌詞は歌詞として知っているだけで、メロディに乗せて歌えるかどうか自信がない。たぶん歌えないだろう。苔のむすあたりの歌詞がどの音と対応していたかどうもあやふやだし、丸谷才一じゃないが、声の低いおれには裏声でも歌へない。なのにおれは、God Save the Queen ならちゃんと歌えるのであった。これは困った。おれは非国民であるにちがいない。なんという新鮮な発見だろう。まあ、同じ立憲君主国だから、堅いことはぬきにしようよ。望むらくは『地球の緑の丘』を国連で“星歌”に指定してもらいたいものだ。これなら歌えるから嬉しいぞ(笑)。
 ま、こんなことはどうでもいいや。昨日書いた所沢高校の騒動は、結局、“校長の入学式”と“新入生を祝う会”の並立ということになった。けっこうなことだ。校長は“校長の入学式”に出席しなかった生徒にも、教育的配慮から(どういう意味かよくわからん)入学を認めてくださったという。ぼこぼこに殴られたあとの池乃めだかのギャグみたいだ。
 おれがいまの学校なるものについてずいぶんと厭味たらしいことばかり書くので、なにか学校に恨みでもあるんじゃないかと読者諸氏は思っておられるかもしれないのだが、べつにそういうわけではない。幸か不幸か、おれが関わった個々の先生方には、いい人が多かった。ただ、システムとしての学校教育については、いま振り返っても「くだらない仕組みに不本意ながらつきあわされた」という思いが強い。それは偏差値教育がどうのこうのという単純な思いではない。より高度な学問をしたければそれ相応の勉強をしなければならないのはあたりまえであって、いわゆる“受験地獄”だの“点数で人間を判断する”だのといった浅薄なシステム批判はおかしいと思っていた。そんなことではなく、うまく言えないのだが、当時からそろそろ“なにかがずれはじめている”という感触があったのだ。
 大人になって学校と縁がなくなってみると、自分が十代のころに感じていたことがおぼろげながら掴めて、言語化してみるだけの余裕が出てきた。そのあたりは、四年前に機会を得て書いてみたことがある(『迷子から二番目の真実』[10]〜 教育 〜)ので、ご興味があればそちらをご参照いただきたい。いま読み返してみても、四年前とほとんど考えは変わっていない。むしろ、おれの認識もまんざらではなかったと、ますます自分が納得できる方向に世の中が動いていると思う。おれは教育アナーキストではない。教育は人間社会に欠くべからざる必要悪だと思っている。どこにもベストなどないのだが、時代に応じたベターは模索してゆくべきだろうと考える。
 世間は金融ビッグバンや少年犯罪のことで持ちきりだ。が、マスコミは、まるで経済と教育とが別の分野に属する没交渉なものであるかのように報道している。大蔵省と文部省の役人が密に情報交換をしているようすも見受けられない。文部省は大蔵省が世間から叩かれているのを対岸の火事だとでも思っているのだろうか。これはじつに奇妙な話だ。経済と教育は等価であるに決まっているじゃないか。相互に影響を及ぼすと言っているのではない。本質的にまったく同じものなのはあきらかである。文部省というところは、こんなあたりまえのこともわからない人が多数派なのだろうか。経済も教育も、情報の流通によって幻想を維持することで成り立っているシステムだ。ちがう言葉で呼ぶからふたつのものに見えているだけで、本来どっちがどっちでもいい。一般相対論の加速度と重力のようなものだろう。さらに突っ込めば、言語(97年10月28日の日記参照)だって、そう、国家だって同じシステムである。
 具体的に言えば、おれの財布に入っている一万円札が一万円相当の価値あるものとして扱われているのは、ひとえにみながそう思っているからだ。それ以外の理由は存在しない。「xとyの和と差の積はxの自乗マイナスyの自乗である」とか「1192年に鎌倉幕府が成立した」とかいう知識が学校で教えるべき基本的なものだと看做されているのも、ただみんながそう思っているからにすぎない。ほんのちょっと事情が変われば、聖徳太子が隋の煬帝に宛てた親書の文句など知っているよりも、偉大なる首領様が○年○月○日におっしゃったお言葉を諳じられたほうが“価値ある知識を持った人”と看做され、上級学校に進んで高給取りになれるといったことにもなる。
 経済が再編を受けているのならば、好むと好まざるとにかかわらず、教育もすでに再編を受けてしまっている。それは逐次的なプロセスではなく、厳密に同時進行しているはずだ。いま日本の教育システムに起こっていることは、「一万円はじつは五千円ではないのか」とか「ドルでも資産を持っておいたほうがよさそうだ」などと、みなが思いはじめているための混乱ではあるまいかとおれは思うのだがどうか。よって、文部省がすべきことは、すでに再編を受けてしまった幻想システムを、一刻も早く制度で後追いして摩擦を減じ、新たな幻想システムを確立してゆくことしかないだろう。後追いすら拒むようであれば、形骸化したシステムが時間の問題で崩壊するのを指をくわえて見ているしかない。一度ぶっ壊れるのをただ待つというのも、ひとつの選択ではある。だが、その犠牲は大きいし、流血はなるべく少ないほうがいいから、おれは文部省にじっと待っていてほしくはない。わかったようなエラそうなことを好き勝手にほざくのがこの日記の特徴ではあるが、頭の中でわかっていることを実際に現場に作り上げるのは容易なことではないのは百も承知だ。だからこそ、すぐにでも新しい制度の確立に着手してほしいと思う。だけど、おれはちょっと悲観的だ。今回の所沢高校騒動への対応を見ていると、教育委員会や校長のやってることはまさしくMOF担そのものに見える(文部省だから、MOE担か)。隣で護送船団が砲撃を受けて沈んでしまったのに、自分のところの護送船団だけはまだまだ安泰だとでも思っているんじゃあないでしょうね。

【4月8日(水)】
▼わははははは、このところ世間を騒がせている(騒ぐほどのことでもないけど)埼玉県立所沢高校の擦った揉んだはケッサクだよね。県の教育委員会までが、“入学式に出ないと高校に入れてやらないぞ”という主旨の脅迫状(でなくてなんなのだ?)を入学予定者に送り付けていたなんてのは、噴飯やるかたない(ってフレーズがいまできた(笑))。現行の教育システムの断末魔を聞く思いだ。どうやら、教育委員会だの所沢高校の校長だのという方々は、よっぽど自分の生きざまに自信がないらしい。ポリシーなんて言葉は彼らの辞書にはないのではないか。生徒がごっそり入学式に来なくたって、べつにいいじゃないか。がらんとした講堂の中で、数えるほどしか来ていない生徒に向かい、己の信ずるところに従って堂々たる祝辞を述べ訓辞を垂れればいいだけだ。それでこそ、生徒たちの何倍も生きてきた人生の先輩たる者の威厳が感じられようというものである。あのような文書を入学予定者に送り付けるなんてのは、彼らがなにかを激しく怖れているからだとしか思えない。彼らはとにかく怖くてたまらないのだ。自分たちが不動の地盤と信じて疑わなかったシステムが、がらがらと音を立てて崩壊してゆくのを前にして、パニックに陥っているのであろう。もはや、教育委や校長のほうが、完全に弱者の立場にある。怖れに囚われた弱者がやることは決まっている。虚勢を張って相手を脅すか、尻尾を巻いて逃げるかのいずれかだ。あの文書は要するに、“頼むから入学式に出てください。でないと、わしらの立場がない”ということを激しく脅えながら述べているだけだ。彼らと彼らの信じてきたシステムの墓碑銘とでも言うべきものだろう。
 だから、所沢高校で自主的に“祝う会”をやろうとしている生徒諸君よ、あんまり弱者をいじめすぎてはいけない。彼らの時代はたしかに終わった。それは時代の風を鋭敏に感じている君たちがいちばんよく知っていることだろう。しかし、彼らのやりかたが過去の日本の一時代を作ったことはたしかであるし、彼らの信じてきたことが絶対的にまちがっていたわけではない。それくらいは認めてやってもいいだろう? 彼らにはポリシーこそないかもしれないが、たぶん家のローンがあるだろうし、いろいろ老後の貯えも必要であろう。君たちももう高校生なのだから、滅びゆく者たちの顔だけは一応立てて、惻隠の情を示す知恵を身につけてもよいころだ。これから日本を、日本の教育システムを変えてゆくのは、若い君たちの特権だ。ここはひとつ、バカバカしいのはよくわかるが、放っておけば遠からず君らより先に死ぬ人たちの面子を立てて、入学式に出てやってくれまいか。もちろん、腹の中ではローリング・ストーンズ(君らは知らないだろうか?)のあの歌を唄いながら――Time is on my side, yes it is.

【4月7日(火)】
▼電車の窓から外を眺めていると、沿線の桜がきれいだ――なんて書き出しは、はなはだおれらしくないな。それはともかく、よく見ると(よく見なくてもそうだが)桜の花の色は同じソメイヨシノでも相当ちがう。電車からは、それがとてもよくわかる。土壌のpHなどが影響するのだろうなあと思ったとき、ふとおれの思考が立ち止まった。
 いまあなたは“pH”をどう読みました? “ペーハー”だったらおれと同じ。少なくとも、おれの世代は小学校からそう読んできた。が、最近、“ピーエイチ”と英語読みしている若い人が増えてきたように思う。どうやらそっちに移ってきているらしいのだが、おれは研究の場にも教育の場にも直接の縁はないから、事実どうなのかよくわからない。いまは小学校でも、英語読みで教えているんですかね? いくらなんでも“エネルギー”を“エナジー”とは教えていないだろうとは思うけど(これは中学校か)、教科書にそう書いてあったらどうしよう。ドイツ企業でも、社内公用語を英語にしているところが増えているそうだしなあ。なんだか寂しい。ドイツ語起源のカタカナ語って、独特の響きがあって好きなんだが……。小学校で“ペーハー”という言葉を習ったとき、なにやらすごくカガクテキな言葉を使っているような気になって、口にするのがちょっぴり嬉しかったりしたものだ。おれの感覚ってヘンだろうか?
 そういえば、おれが“ピーエイチ”に違和感を覚えるように、おれより上の世代の人たちも、おれが当然のように使っている言葉になじめないということがあるらしいのだ。たとえば、ちょっとむかしの本を読んでいたり、年配の人の話を聴いていたりすると、“グラム分子”なんて言葉が出てきて面食らうことがある。おれたちが習った“モル”のことだ。おれの家にある百科事典も相当記述が古いので、グラム分子派である。モルも載っているのだが、「“グラム分子”を見よ」などとモルのほうが新参者の扱いを受けているのだ。もっとも、おれはモルなんて言葉を、マグマ大使のカミさん以外の意味で日常使ったことがないから、どっちでもいいんだけどね。
 こんなこともあった。うどん屋で昼飯を食っていると、隣の席で年配のサラリーマンが二人、“うどん定食”を食っていた。ここで、関東の人には“うどん定食”とはなんぞやという説明が必要かもしれない。関西人(ことに大阪人・京都人)は、うどんをおかずにして米を食うことになんの不思議も感じないので、関西のうどん屋のメニューには、おにぎりなどの“ご飯もの”とうどんをセットにした“うどん定食”なるものが必ずあるのである。そのサラリーマンたちの会話を、例によって座って立ち聞きしていると、片方はネイティヴ関西人ではなかったのだろうか、運ばれてきたうどん定食を前に割り箸を割りながらぽつりと言った――「含水炭素ばっかりだな」
 が、含水炭素。それがなにを指すのかはシチュエーションからあきらかで、ちゃんと彼の相方が突っ込んだ。「○○さん、古いなあ。いまは炭水化物と言わんと、若いもんに笑われまっせ」 まあ、笑いはしないけど、すげえクラシックな感じは受けるよ。それに“含水炭素”というのは政治的に正しくない。炭素のほうが偉くて、水素が従属物扱いされている。やはり、炭素と水素をできるだけ平等に扱ってあげるとすれば“炭水化物”のほうがよいだろう。「いや、炭素が先なのはけしからん。“水炭化物”とすべきだ」と主張する1A族議員とか、「漢字三文字が望ましい」などとだしぬけに言い出す大臣とかがいたら面白いのに。いい大人がそんなことで税金使ってもめるなんてくだらない話は、さしものSF作家たちも思いつかないだろうな。
 いまにおれも、姪たちに言われる日が来るにちがいない――「あははは、おっちゃん、“ペーハー”てなこと、いまは言わへんで。なんや派手な服着て、芸能人のくせに芸能人と記念写真撮ってまわったはる夫婦みたいや」

【4月6日(月)】
▼あちこちの仮想商店街では閑古鳥が啼いているそうだが、たしかにインターネットってのはまだまだだなあと思う。だって、葉月里緒菜シャーロット・ランプリングのオフィシャル・サイトがないではないか――って、そういう問題だろうか。
▼やっとコートが要らなくなったかと思ったら、なにやら目が痒い。今日は雨だったから、明日からりと晴れたりしたら、一日中目を擦っていなくてはならない。花粉症なのだ。むかしはひたすら鼻に来たものだけど、不思議なことに、煙草を吸いはじめてから鼻はましになった。抵抗力がつくとでもいうのだろうか。同じように感じている喫煙者の方はいらっしゃいませんか? こういう曖昧ながら素朴な感触が、意外と新薬開発のヒントになったりして……そんな甘いもんやおまへんな。
「SFオンライン」の連載に、文庫解説が一本に、ブックガイドが一本に、リーディングが二本――おまけに“昼の仕事”もバタバタする四月。おれは今月を無事乗り切れるのだろうか……とか言いながら、日記だけはまめに書くんだよね、これが。一種のセラピーになってるのかもしれないな。

【4月5日(日)】
▼昨日 U2 Pride(In the Name of Love)の歌詞にあるキング牧師暗殺の日のことを書いたけど、前に一度「あれ?」と思ったことを今日改めて確認した。キング牧師が撃たれたのは現地時間で4日の夕刻だ。となると、Early morning April 4 A shot rings out in the Memphis sky という歌詞はヘンである。U2の連中はアイルランド出身だからアイルランドの時間で記憶していたのかなと、ダブリンとメンフィスとの時差を計算してみると、これが六時間しかない。メンフィスで「一発の銃声が響いた」のは、ダブリンでは同じ日の深夜近くである。やっぱりヘンだ。
 思うに、1968年当時のこととて、キング牧師が撃たれて亡くなったという第一報がアイルランドの一少年の耳に入ったのが、early morning だったのではないだろうか。少年の耳には、そのときまさに一発の銃声が響いたのであろう。その印象があまりに強く、彼の記憶は回想するたびに歪曲を受けてしまい、後年この詞を書くにあたって自己の記憶に忠実に時間を記したのだろうと推測する。単に歌詞の語呂が悪いので早朝にしちゃったのかもしれないけど、こんなふうな記憶ちがいだと想像したほうが画にはなるよね。まあ、このくらいの疵はどうでもいい名曲だし。

【4月4日(土)】
▼書評コーナーの「天の光はすべて本」があまりにもほったらかしになってしまっているので、またもや“ありもの”を引っ張り出してきて加えた。SFマガジン・96年9月号の戦争SF特集に書いた「ポスト・ホロコーストSF再考」という大それたタイトルのブックガイドである。できるだけ初心者向けに、いわゆる“ポスト・ホロコーストSF”を独断と偏見でまとめてご紹介している。ちょっと端折りすぎたくらいに本のタイトルを詰め込んであるから、自分の好みに合いそうな作品を捜していただくには便利かもしれない。こうして見ると、絶版・品切になっている本が多くて愕然とするのだが、映画化を機にめでたく『ポストマン』(デイヴィッド・ブリン、大西憲訳、ハヤカワ文庫SF)も復刊されたことだし、ケヴィン・コスナー人気に便乗させていただこう。核戦争後の荒廃したアメリカで、ケヴィン・コスナーがクマとネコとカメを引き連れて、絶望した人々に“ひみつ日記”を届けてまわるSF――って、誰か書かないかな。「さばいばりすとに、いっぱいなぐられた」とか。
▼今日はキング牧師が暗殺された日だよね。といっても、おれはべつにキング牧師の崇拝者だというわけではない。偉い人やなあとは思うけど。単に U2 Pride(In the Name of Love)の歌詞が頭をよぎっただけだ。3コーラスめに、Early morning April 4 A shot rings out in the Memphis sky とあるよね。ちょうど三十年前、1968年のことだ。で、三十年経ったいまでも、アメリカのどこぞの高校だかにマーティン・ルーサー・キングの名を付けろ、いや付けるななどと擦った揉んだしてたなあ。アメリカ人は草葉の陰で泣いたりはしないが、代わりに墓の中で寝返りを打つんだよね。ひょっとしてアメリカのいまの子供は、キングと言えば、ロドニー・キングしか知らなかったりして……。まさか、そんなこたぁないか、な?

【4月3日(金)】
▼先日の“書類整理箱ニュートン事件”(3月30日31日の日記参照)で改めて気づいたのだが、考えてみれば、日常使われているわかりにくい単位はけっこうある。“わかりにくい”とは、おれにとってわかりにくいという意味だ。
 海外の小説を読んでいていらいらするのが、ヤード・ポンド法。勝手にメートル法に換算されても迷惑だし、かといってそのままでも感覚的に掴みにくい。困ったもんである。翻訳家の苦労が偲ばれる。ゴルフでもやっている人なら、百ヤード刻みくらいの距離は感覚的に掴めるのだろうが、おれはいちいち換算しないとピンと来ない。エルキュール・ポアロの身長が5フィート4インチで“小男”だなどと書いてあっても、そのままではどのくらい小男なのかさっぱりわからない。換算してみると1メートル60センチ強だから、ベルギー人にしては小男なのかもしれぬなとようやく思うけれども、これがもし「1メートル60センチ強の伊達男が口髭を撫でながら……」などと翻訳されていたとしたら、なんだかこのポアロは5フィート4インチのポアロより頭が悪そうだ。現代の英国人がクリスティーを読むときには、ちょっと大時代な華々しい社交会の雰囲気みたいなものを最初から期待していて、同じ国のことながらそこに一種のエキゾチズムを感じることで非日常の世界に浸る楽しみがあるのだろうと推察する。日本人のために翻訳するときにも、同じとは言わぬまでも、その雰囲気に似たものは伝えるべきだろうから、ヤード・ポンド法のまま訳すのは正解だ。
 では、現代の海外小説はどうかというと、これはきわめて難しい問題で、訳者によってポリシーの分かれるところだろう。おれはといえば、そもそも翻訳という作業には本質的な限界があると思っているから、“翻訳文体”などと揶揄されることがあっても、翻訳文体であることによって一種独特の“雰囲気”を伝えることに成功しているものなら、それも大いにけっこうだと考える。佐藤亜紀『バルタザールの遍歴』(新潮社)みたいな藝当も、一般に翻訳文体と認知されているある種の定型があるからこそできることである。おれは、翻訳小説が日本語オリジナルの小説とまったく同じものであってはならないとすら思っている。「これは翻訳小説だぞ」と主張しつつ、かつ日本語としてのリーダビリティーが高いのが優れた翻訳文体だろう。もっとも、ここで言っているのはかなり上のレベルの話であって、日本語になっていない“翻訳文体”は問題外であることは言うまでもない。そういうのは“翻訳文体”の名には値せず、“学校翻訳”あるいは“「永遠のジャック&ベティ」(清水義範)翻訳”とでも呼ぶべきだろう。たとえば、不発弾の信管を抜こうとしているヒーローの傍らで He seems to know what he's doing. とか言っているやつがいたとして、「彼は自分のしていることがわかっているようだ」などと訳してあったら、金返せと言いたくなる。「あいつに任せておけば大丈夫だ」、映画の字幕なら「あいつに任せておけ」くらいにはしてもらいたいよね。
 じゃあ、べたべたの日本語(?)にすりゃいいかというと、それも程度問題だ。外国の小説であることを無視して、ほとんど翻案みたいな訳にしてしまうのは原作に対する冒涜だと思う。まあ、ディープ・ブルーカスパロフを破ろうとも、翻訳家、少なくとも小説の翻訳家が全員失業するようなことは、おれの生きているうちにはないだろうな。SFファンとしては、そういう日がいつかは来てほしいものだけど、そんな人工知能が誕生したら、“それ”にはわれわれと変わらぬ人権を与えるべきだろう。
 おっと、単位の話のつもりが翻訳の話になってしまった。わかりにくい単位の話に戻そう。
 前から言いたかったのが、放射能・放射線関係の単位。あれはわかりにくい。わかりにくいくせに、マスコミにしょっちゅう出てくる。もしかすると、報道しているほうだってわかってないんじゃないか。レントゲンキュリーベクレルラドグレイシーベルトなんてのが、発表する団体や報道する媒体によってごっちゃになって現われるでしょう。これらのちがいがすらすらと説明できる人なんて、理科系の人にも少ないのではないだろうか。そりゃまあ、理科年表やら解説書やらを見れば、それぞれの定義と、なにを表わしたい単位なのかは一応頭では理解できるよ。でも、「大気中に○○ピコキュリー漏れました」とか「どこそこの食品から○○ベクレルの値が……」とか言われても、だからどうなんだというのがさっぱりわからん。「このパソコンだったら、バッテリー装着すれば1.2kgだな」とか「あちちちち、このお茶80度はあるよ」みたいな感覚がまったく湧いてこない。α線やらβ線やらを感じられるやつはいないだろうから(ひしひしと感じられたとしたら、それはどえらい事態だ)、感覚的にわからないとぼやくのはないものねだりではある。それにしても、放射能・放射線関係ってのは、素人に感覚的にわかりにく単位の代表格だよねえ。「あちちちちち、β線を0.002グレイくらい被曝してしまったかな」などとわかる能力が人間にあれば、それはそれで気が散ってたまらんだろうけど。べつにこれらの単位を全部感覚的に理解できるようになるまで修行しようとは思わんから、せめて、どれがどのくらいだったらどのくらいおれに害が及ぶのかをわかりやすく報道してほしいね。思うに、放射能・放射線関係でマスコミに発表される数字というのは、たとえば屁をこいたやつが「腹具合が悪かったので、10デシリットルは大気中に漏れたようだ」「幸いガスだけで、身は出ていない」「これは満員電車で5人の健康な人が、うっかり“プッ”と出してしまった程度の量であり、さほど問題はない」などと言っているような感じで、それが芋の屁だったのか豆の屁だったのかキムチ鍋の屁だったのかによっても事態の深刻さはかなりちがうと思うのだが、そのあたりはけっこう曖昧だ。おれが知りたいのは、屁をこいたやつの側から見た事情ではない。それがおれにとってどれほど臭いのかなのである。

【4月2日(木)】
三瀬敬治さんからメール。奥様がパーソナリティーをなさっているラジオ番組「おしゃべりランチ」ラジオカロスサッポロ/毎週月・水曜日/12時15分〜13時15分/パーソナリティー・三瀬恵さん)の昨日の放送で、無事におれのサイトとこの日記を紹介してくださったそうだ。“無事に”というのは、ミニFM局だからと技術を心配しているわけではなく、「親は子供を殴れ」だの「警官は必要とあらば子供でも撃ち殺せ」だのとほざいている日記をお昼の奥様番組で紹介してもよいものかどうか心配だったのである。「おまえこそ撃ち殺されろ」などというメールがおれのところに来ることは、日記に書いた時点から覚悟のうえではあるが、万一、放送局に迷惑がかかっては心苦しい。まあ、おれと同じようなことを考えている人が多いことを祈るばかりだ。インターネット・ラジオで同時放送することもあって、その説明のために、なんと旦那様も出演なさったそうである。ご夫婦でラジオ出演とは、こういう家族的なところはさすがコミュニティ放送局だなあ。
▼千葉県の少年が友人の親父をダンベルで殴り殺した事件で、当の友人、すなわち被害者の息子が共犯容疑で逮捕された。おれとしたことが、この展開は当然論理的に読めたはずなのに、第一報に驚いてしまった。実の親を殴り殺すほうが、友人の親を殴り殺すよりはよほど自然であるにもかかわらず、実の息子が犯人の手引きをした可能性に思い至らなかったのはじつに不覚だ。血縁というものを賽の目で決まった程度の関係だとしか看做していないつもりのおれの意識の底にも、実の親殺しの手引きをする子供はおるまいという歪んだ偏見が残っているのかもしれない。そのため思考がブロックされていたのだろう。真に自由で柔軟な思考に至るには、まだまだ修行が足りないと痛感する今日このごろである。

【4月1日(水)】
▼昨日の日記の日付をうっかり“3月30日”と書いてしまっていたら、「エイプリルフールですか?」というメールが2通も来た。これはほんとうにまちがえたのであります。直しておきました。今年もまた面白い嘘をつけずに終わってしまうなあ。
biosphere records からダイレクトメール(郵便のほうね)が来ていた。べつにここからのDMは迷惑じゃなくて、CD買ってアンケート葉書を出したりスコアを買ったりしているから新譜案内を送ってくれるのだろう。おおお、KARAK(小峰公子&保刈久明)のアルバムが6年ぶりに出るのか。これは楽しみだ。『七月の雪』というのが4月22日に発売されるそうである。なにはともあれ、買いだな。プロデュースは、おなじみ zabadak の吉良知彦。おれは6年前に前作の『flow』(キングレコード)が気に入って KARAK のファンになり、あわててファースト・アルバム『Silent Days』を(キングレコード)捜して買ったのだが、いま思えばそれは正解だったらしい。というのは、この二枚はもはや入手困難で、主に zabadak 絡みの曲で小峰公子・保刈久明を知った若いファンが、血眼になって捜しているのをメーリングリストやら掲示板やらでよく見かけるからである。今度のアルバムは、販売元がパイオニアLDC、発売元はバイオスフィアレコードなのね。
 よく考えたら、なんでおれがこんなところでバイオスフィアの宣伝をしているのかわからないのだが、まあ、品のいい作風のアーティストが多いし、派手に金をかけない手作り感覚の宣伝にも好感が持てるから、なんとなく応援したくなるのだ。物量でマスに訴える力はないが、一度掴んだファンは丁寧にサポートして離さず、ファンにファンを再生産させてゆくというタイプの地味なレーベルである。これって、個人ホームページ的だよね。もっとも、この KARAK のニューアルバムから全国展開をしてメジャー・レーベルになるそうだから、いままでのいいところを失わないように伸びていってほしいな。


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