間歇日記

世界Aの始末書


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98年3月中旬

【3月20日(金)】
▼朝から雨だ。会社のある大阪にも雨が降っている。ついつい欧陽菲菲『雨の御堂筋』を口ずさんでしまうが、どうして雨の歌というのはこうも暗いものが多いのであろうか。おれも雨は嫌いだけども、だからといって頭の中で暗い歌ばかり歌っていると、余計に気分が沈んでしまう。だんだんと暗い曲を連想していって、『子連れ狼』(橋幸夫)にまで辿り着くと、もうこの下はない(あっても教えてほしくない)。いかんいかんとは思うが、どんよりと曇った空の下、にこにこと『恋のメキシカンロック』を口ずさんでいるやつがいたら、これもまた不気味ではあるが……。日本の歌謡曲は、雨すなわち暗いという紋切り型に嵌っているものがあまりにも多いように思う。演歌系は全滅ではあるまいか。演歌はそれほど知らないけれど、カラオケで人が歌っているのを聴いていても、雨の歌は十中八九暗い。むろん明るい雨の曲もたくさん存在するのにはちがいなかろうが、なぜか紋切り型のほうが愛唱され、残ってゆくのだ。この点では、梅原克文氏に賛成したくなってしまう。竹内まりや『恋の嵐』くらいになると異色は異色だが、これとてやたら明るい感じながら、やっぱりかなりせつない不倫の歌であることには変わりはない。
 その点、海外ポップス(とくにアメリカの曲)は、“雨”を歌っていても落ち込んでゆくばかりではないような気がする。定番中の定番、Raindrops Keep Fallin' on My Head B. J. Thomas)などは(映画音楽だけど)、歌っていると元気が出てくる。“雨”をなにやら乗り越えるべき試練と捉えて、「なあにおれは大丈夫」みたいなポジティヴなノリなんだよね。I Made It Through the Rain Barry Manillow)になると、もろに象徴的な意味での“試練としての雨”を乗り越えて、“自分で自分を褒めてあげたい”心境になったやつの歌ですわな。要するに成功者の歌なので、My Way Frank Sinatra)と同じで、成功した(つもりの)おやじが自己陶酔的に歌っているぶんにはいいが、自分で歌うには恥ずかしい。だがこれも、たいへんポジティヴな歌ではある。おなじみ Carpenters Rainy Days and Mondays だと、かなり日本的なダウン気味の感じなのだが、曲自体はしっとりとした名曲で、けっしてどどどーっと沈んでゆくノリではありませんわな。あくまで一時的な落ち込みであって、ちゃんとこの歌の一人称の主人公には慰めてくれる恋人がおるわけだ。
 こんなふうに“テーマ縛り”カラオケみたいな調子で歌謡曲を比較してみると、ひとつの言葉にまつわる文化的刷り込みのイメージの差が垣間見えるようで面白い。同じ雨という自然現象でも、それこそ“風土”による降りかたなどのちがいが、人々の心の中に連綿と伝わるイメージにも影響を与えているのだろう。やっぱり日本の場合は、じとじとしてあまりポジティヴな気持ちにはならないよなあ。かあさんが蛇の目で迎えてくれるので嬉しいというやつが、いちばん明るい曲だったりして。
 で、おれのいちばん好きな雨の曲は、Supertramp It's Raining Again 。失恋の歌ではあるんだけど、Supertramp らしい独特の道化た明るさが、妙におれを元気づけてくれる。彼らの晩期最高傑作だとおれは思う。でも、カラオケで見たことないんだよなあ。

【3月19日(木)】
▼昼の仕事にか夜の仕事にか、とにかくなにかの参考にはなるだろうと先日買った「TRIGGER 4月別冊 まるごと一冊電磁波問題」(日刊工業新聞社)をぱらぱらと読んでいると、さすがに気味が悪くなってきた。おれなんぞ、一日中電磁波を浴びていないときがない(まあ、誰だってそうなのだが、程度問題である)。思うに携帯電話の通話料は、あまり下がりすぎないほうがよいのではあるまいか。電子レンジのマイクロ波は2.45GHzというから、最近の携帯電話の1.5GHzは、周波数だけを見ればけっこうな数字だ。出力ははるかに小さいとはいえ、やっぱり脳が温まっちゃうんじゃあるまいかと、気にはなる。おれは携帯電話を左耳に当てて使うから、ちょうど言語中枢のあたりがだんだんホットになってきて、携帯電話で話していると喧嘩っ早くなる――かどうかは知らないが、いずれにせよ疑わしきはなるべく避けるのが賢明であろう。電子レンジを初めて買ったとき、ご多聞に漏れずおれも卵を爆発させたクチで(やるなと書いてあることはやってみたくなるよね)、携帯電話で話していると、頭がぽーんと破裂するんじゃないかとシュールなイメージが浮かんでしまう。もしかすると、最近の若者がよく支離滅裂な言葉を喋っているのは、言語中枢が“はあどぼいどぅど”になっているからではあるまいな。
 とかなんとか、おどろおどろしい想像ばかりをめぐらせてしまうのが素人というもので、その感性はけっしてバカにしたものではないけれども、やっぱりものごとは“正しく怖がる”必要があるだろう。怖い危ないとばかり言うておったのでは、マッチ一本擦れない。みんなが車に乗っているのは、酷な話ではあるが、年間何人かは必ず事故で死ぬことを“見込んで”乗っている。事故で死んだ人の遺族の感情を逆撫でするつもりはまったくないので冷静に意をお汲み取りいただきたいのだが、事実、そうなのである。おれはこれを、かんべむさしの名作に倣って“『サイコロ特攻隊』的論理”と呼んでいる。つまり、犠牲が避けられないのであれば、くじ引きででも犠牲者を一定数選んでしわ寄せすれば、論理的には円く収まるではないかという論理だ。だけど、みな、その何人かに自分は絶対入りたくないものだと思っていて(おれだってそうだ)、「年間交通事故で何人死にました」などという統計数字を見ても、それを数字としてしか把握しない。まして、自分が明日にもその数字を「一」増やすことになるとは、まあ、よほど悲観的な人でもないかぎり思っていない。現代文明のいたるところに“『サイコロ特攻隊』的論理”は潜んでいる。というか、その上に成り立っているのが現代文明である。その論理は、ミクロなレベルでの個人感情としばしば対立する。原発問題だって、沖縄基地問題だって、みんなそうだ。全体の利便性のしわ寄せを食らう人々が不特定多数である場合、“『サイコロ特攻隊』的論理”は巧妙に隠蔽されているのだが、それが“特定多数”になったとき、やっぱり誰もが「おれは厭だ」と声を上げるのだ。おれも厭だ。厭だと言う権利がある。「じゃあ、おまえは電気を使うな。いざというときアメリカに護ってももらうな」という論法があるが、それは微妙なところで論理をすり替えている。別の問題だ。健康を害されるのは「おれは厭だ」と主張してなにが悪いものか。
 こう考えてくると、かんべむさしの二番煎じになるが、SFが一本書ける。人体に悪影響のある電磁波を発しない携帯電話が発明される話なのだ。個々の電話からは、ホニャララ波という未知の人畜無害の波動が発せられる。ただし、ホニャララ波をまとめて中継するには、以前に増して大出力の電磁波を送受信する中継所が必要であり、中継所建設予定地の周辺住民は携帯電話反対運動に立ち上がる――なんてのは二流だけども発想は立派なSFだと思うんだよね。

【3月18日(水)】
▼パンパカパーン! 今週のハイライトぉ!――てなことを言ってた人も、いまでは大阪府の知事をやっているわけでありまして、まさに光陰矢のごとし、一瞬の虫にも五分の魂。十有五にしてキレて人を刺し、三十にして勃たず未来を奪われ、四十にしてルーズソックスに惑い、五十にして社命も尽き、六十にして耳遠く、七十にして心の欲するところに従おうと思ったら、それが自分にもわからないときたもんだ。強ければそれでいいんだ、力さえあればいいんだなどと、ひねくれて星を睨もうとしたら、おやまあ、東京には空がない。ソラの上にはシドがあると歌っていたムーミン・パパの大人の知恵もとうのむかしに御用済み。それでも空きチャンネル色の空の下、なんとかかんとか生きてゆくのが小市民というものでございまして、その多様性が維持されているかぎり、全員は無理としても誰かは生き残ることでありましょう。なあに、そう悲観したものでもございませぬ。歴史はぶり返す。上を向いて歩こう、下見てると躓くから。
 というわけで、おかげさまで間歇日記「世界Aの始末書」も50,000カウントを達成いたしました。常連の愛読者の方々、一度でも読んでくださった方々、誤謬や不適切な表現をご指摘くださった方々、ギャグにウケてくださって夜中に爆笑しご近所に迷惑をかけたという方々、他愛のない企画におつきあいくださった方々、貴重な情報をご提供くださった方々、励ましのお便りをお寄せくださった方々、みなさま、ありがとうございます。今後も、十万カウント、二十万カウントを目指して、マイ・ペースで踊ってまいりますので、よろしくお願いいたします。On and on and on, keep on rocking, baby, 'til the night is gone!On and on and on, by ABBA)
 とまあ、すっかりこのサイトの看板コンテンツと化してしまった日記なのかなんなのかよくわからないこのコーナーだが、なにが嬉しいと言って、「いままでSFなんてほとんど読んだことなかったけど、このサイトに出入りするようになってから、ちょっとSFを読んでみた」という主旨のお便りがいちばん嬉しいなあ。来る日も来る日もくだらないことを書き散らしている三十面提げたいいおっさんが、飽きもせずに読み続けているSFとはいったいどのようなものであるのか――などと、ちょっとでも興味を持ってもらえたら、おれもホームページ構えてる甲斐があるというもの。小泉今日子が『アルジャーノンに花束を』(ダニエル・キイス、小尾芙佐訳、早川書房)を褒める五万分の一ほどの効果もあるまいけれど、ひょっとしたら、そんなお便りをくれた方やそのお子さんが継続的なSF読者やSF作家になったりしないともかぎらないのだ。つまるところ、人間の世界は“ミームの戦場”なのであって、SFというミームの生存戦略も極力多様化していったほうがよいとおれは思うのであった。他の生物の核遺伝子にプロウィルス状態で入り込んだSFの塩基配列が、ある日爆発的に活性化してSFとしての形質を発現、宿主細胞を食い破ってうようよ出てくる――なんてことも、これから多々起こるにちがいない。人はそれをSFとは呼ばないかもしれないのだが、そんなことはミームの生き残り戦略にとっては些細なことなのだ。
▼この日記に日付指定でリンクを張ってくださるケースも増えてきているので、日付にアンカー(<A NAME="日付">)を打っておくことにした。日付指定でリンクなさりたいときは、「ファイル名#yymmdd」(例:<A HREF="http://web.kyoto-inet.or.jp/people/ray_fyk/diary/dr9803_1.htm#980301>)のように記述してくだされば、指定日の頭出しができる。いままでの日記を全部一度にやるとたいへんだから、さしあたりは98年3月1日からは打ってある。暇を見つけては少しずつ全部に打つつもりだが、「過去の特定日で頭出しがしたい」というご希望があれば、リンクしてくださる際にメールでご一報ください。アンカーを打っておきます。
『ニュースステーション』(テレビ朝日系)で、糖尿病の危険度チェックをやっていたので(むかし“金曜チェック”ってのもありましたねえ)、ダイレクトメールの裏にメモしながらつきあってみる。十五設問中、おれに該当したのは九項目。判定は“要注意”である。やばい。やばいが、ジャンクフードはやめられない。飯を食わずにジャンクフードばかり食っていてはマジで危ないだろうけど、おれの場合は、一応飯を食ったうえでジャンクフードを食っているから、まだしも健康的と言えるであろう。言えないか。

【3月17日(火)】
98年3月8日の日記に登場した、夜中におれの家のドアを殴りにくる酔っぱらいのおっさんだが、なんでも今日の朝だか昼だかに警官に連れてゆかれたらしい。このおっさん、ひどく酔うと自分で救急車や警察を呼ぶのだそうである。母によれば、団地の電話ボックスのそばで寝ていたのをベランダから見たから、大方また自分で110番したのだろうとのこと。そういえば先日おれの家にやってきたあと奥さんが謝りに来ないなと思っていたら、すでに奥さんも逃げてしまったそうだ。二人の息子も独立して、もちろんこんな親父はとっとと捨てている。要するに一人暮らしで、酒を食らって道端で寝ては、税金で買ったガソリンで走る運転手付きのツートンカラーの車を電話一本で呼びつけ、これまた税金で運営されている宿泊施設にいるお友だちとお話をしにゆくわけだ。けっこうなご身分である。こういう暮らしをはじめたら、それはそれでなんの不自由もなくまことに具合がよいはずで、それこそ三日やったらやめられないにちがいない。
 駅の券売機で切符を買おうと財布をまさぐっていると、よくこの手合いが「兄ちゃん、金貸してくれへんけ?」と擦り寄ってくる。「貸したってもええけど、返してくれんのけ、おっさん」と腹の中で思いながら、おれはいつもそいつがそこにいないかのように完全に無視する。じつは、一度試してみようかと思っている行為があるのだが、いまだにできないでいるのだ。
 ヘンリー・ミラーの短篇に「頭蓋骨が洗濯板のアル中の退役軍人」(『愛と笑いの夜』吉行淳之介訳、角川文庫・所収)というのがある。この作品で、語り手の作家(ミラー本人の影が濃い)が、むかし物乞いをしていたころのある雨の夜の出来事を語る。腹を空かせて人通りの少ない深夜の街をうろついていた語り手の男が、通りがかりの身なりのよい紳士に金を恵んでくれと頼むと、その紳士はチョッキのポケットに無造作に手を突っ込み、ひと把みのコインを投げて寄越す。コインは道に散らばり、転がって溝に落ちる。語り手はそこで怒りに震えて立ち尽くすのだが、やがてヒステリックに笑い出すと、感謝の気持ちに身を震わせ、闇に消えた“恩人”に向けて大声で礼を言い、笑いながら雨の中に這いつくばってコインを拾い集めるのだ。これって、痛いほどわかるよねえ。コインを投げられて怒りを感じないような人間になったらそれはもう終わりだし、怒れるならばまだ這い上がれる可能性がある。
 「金貸してくれへんけ?」のおっさんに言い寄られるたび、おれはこの短篇を思い出し、一度溝の中に小銭をひと把み投げてみてやろうかという衝動に駆られることがあるのだ。だが、もしおっさんが怒りもせずに、おれの目の前で淡々と小銭を拾い集めはじめたら、これ以上ないほどいやあなものを見ることになる。だから実行できないのである。おれはプライドの高すぎるやつは嫌いだが、低すぎるやつはそれ以上に嫌いだ。どうでもいいプライドと、捨てちゃいかんプライドとがあると思うぞ。
 さて、警官に連れてゆかれた例のおっさんだが、どうせまたすぐ帰ってくるのである。ただでさえ女児にいたずらする男が徘徊しているらしいと、このところご近所がピリピリしているのに、またまたこのおっさんが酒食らって道で寝ていたら、おっさんが自分で警察を呼ばずとも誰かが通報するに決まっている。いつまで繰り返すのやら……。
 人間は弱いものだというのは、おれだって人間だからよくわかっているし、将来はこのおっさんのようになっているかもしれないのだが、その弱さを売りものにして生きてゆくような真似だけはしたくない。それはとてもとても楽なことだろうと想像できるからだ。いつの日か、酒を食らって物乞いをしてくるおれをあなたが見つけたときのために、いまからひとつお願いをしておきたい。そのときは、おれの目の前で道端の溝に無造作に小銭を投げ込んで、鳩に豆をやったほどの注意も向けず通り過ぎてやってみてほしいのだ。

【3月16日(月)】
『OLたちの<レジスタンス> サラリーマンとOLのパワーゲーム』(小笠原祐子、中公新書)を読んでいてのけぞる。なんでも、著者がある会社の人事部に尋ねたいことがあって電話をかけると、女性が応対に出て最初のうちはてきぱきと質問に答えてくれていたが、突っ込んだ質問をしたところ突然相手の女性が言ったというのである――「ただいま男性と代わりますので」
 ひょえええ。いまどきこんな言葉遣いをする女性がいるのか。女性はものごとについて詳しい知識を身につけてはならないとか社則にでもあるのかもしれないが、それにしてもこの言葉遣いはすごい。「女は一般的にバカです」と言っているも同じではないか。おれもいままでいろんなところに電話をかけたけれども、同様のシチュエーションでもこんなことを言った女性はひとりもいない。ふつう、「詳しい者と代わりますので」くらいだと思うぞ。いったい、どんな会社なんだろうな、この著者が電話をかけたのは。おれが電話を受けて相手の質問に答えきれないとき、「詳しい者と代わります」と女性に振ることはけっこうあるが、“詳しい者”が男性であろうが女性であろうが相手の知ったこっちゃねえよなあ。うーむ、おれたちの業界(コンピュータ業界)が、この会社と比べてほんの少しまともなだけなのだろうか。世の中には「ただいま男性と代わりますので」などという言いまわしがおのずと身についてしまうような、想像を絶する職場がまだまだあるのにちがいない。
 だけど、職場の男女差別がどうのという以前に、この言葉遣いはあきらかに一会社員として電話の相手に失礼だよね。相手が女性だったらどうするのだ(この本の著者はまさに女性なのだが)。「おまえが私の質問に答えられないのは、おまえが女性であることが理由ではなかろう。同性の私を勝手に道連れにしてバカにするな」と、むっとすると思う。職場の女性が電話でこんな応対をしていたら、「君、それはお客様に失礼だよ」と注意するのがふつうであろう。もっとも、みながそれに気づかない会社だからこそ、こういう言葉遣いが身につくのだろうけれども。

【3月15日(日)】
▼祝日を極力月曜日に持ってきて三連休を増やそうという法改正案が自民党でまとまった。自民案では「成人の日」と「敬老の日」だけだそうだが、野党はもっと増やそうと言っているらしい。さすがに三連休ともなれば庶民の財布の紐も緩むだろうという狙いなのだろうけど、どうだろうなあ。三連休が増えたらおれはどうするだろう。読み損ねている厚めの本がじっくり読める。ホームページの新しいコンテンツが作れる。ものを書くほうの仕事が腰を据えてできる。うーむ、おれはつくづく景気によくない人間だな。大ぶりの経済活動がまるでない。おれのような金を使わない人間が国を傾けているのであろうか。本代と通信費だけは一般家庭をはるかに上回るはずだから、せめてもの罪滅ぼしか。
 子供のいる家庭であれば、三連休は義務のようにして遊ばねばならないようなところがあり、これはけっこう景気高揚に効くのかもしれない。でも、一日休んだ分の仕事が翌週にどっと来て、結局、親がしんどいだけの話になるやもしれない。その三連休にはみんなが出かけるから、交通機関は混むわ、行楽地は都会をそのまま持ってきたようなさまになるわで、仕事をしているほうがよほど楽だという苦行のような遊びかたをしなければならない。また、移動休日は事前に計画が立てやすいのがメリットだから、学習塾などもその日に特別講座や模擬試験を持ってきたりするとも考えられる。
 つまるところ、97年3月28日の日記にもやや異なる視点から書いたように、大人がほんとうに金を出したいと思う娯楽が少なすぎるのではあるまいか。購買力が高く比較的容易に流行で振り回せるお子様ばかりに媚びを売って、お子様文化を蔓延させてきたツケが回ってきているのだとしか思えない。なんの業界でもそうだけど、いまこそ、おじさん・おばさん、爺さん・婆さんが貯め込んだ金を使っても惜しくないと思えるような商品やサービスを、大人のテイストで企画すべきときだと思うよ。お子様狙いは即効性はあるが、飽きられるのも早い。これからは、じっくりと腰を据えて趣味を楽しみ、少額でも継続的に金を使ってくれる大人を狙わなきゃ。子供の数は減ってくるし、逆に“おたく”っぽい目の肥えた大人は下から繰り上がって増えてくる。金を使う動機がなければ、どんなに休日が増えたって、金は回転しないと思うよ。
▼今月は Kyoto-Inet の来年度分の使用料が自動引き落としされるんだっけと思い出し、久々に自分のホームページ情報を見てみた。面倒くさい。以前は誰にでもどこからでも見えたのだが、アカウント情報が悪用されやすくなるとかで、いまはパスワードを入れないと見えないようになっているのだ。おやまあ、ファイル数はちょうど200個。2.2MBも使っている。手元のディスクの日記ディレクトリ(おれはWindows3.1ユーザだから、あくまで“ディレクトリ”である)を見てみると、1.1MBある。つまり、おれのウェブサイトは半分が日記だ。それにしても、これだけ画像の少ないサイトで、よくも2.2MBも塵が積もったもんだなあ。これもみなさまのご愛顧の賜物。日記ページのカウンタももうすぐ50,000。これからも、どうぞよろしく。

【3月14日(土)】
▼カロリーの高いものを食わねばなるまいと、コンビニで売っていたスティック・タイプの蜂蜜を嘗める。スポイトのような容器で小分けにしてあって、嘗めるのに便利だ。なかなかおいしい。漱石のようにジャムをひと瓶嘗めるなどというのはさすがに身体に悪そうだが、蜂蜜なら身体にもよかろうと自分を納得させ、結局、ひとパック全部嘗めてしまった。なんとなく、まだ甘いものが食い足りず、チョコレートにも手を伸ばしそうになるも、目が冴えるといけないと思いやめておく。これだけやっても、おれはけっして肥らない。不思議だ。
 朝の三時ころ、堰を切ったように猛烈な眠気が襲ってきた。よく考えたら、電車の中で本を読んでいるうちに居眠りしてしまったのを除けば、木曜の朝から一睡もしていない。しめたと思い、「通販生活」で買ったメディカル枕に倒れ込み丸太のように眠る。目が覚めたら『ウルトラマンダイナ』をやっていた。晩飯を食い、メールの返事を何通か書いて、本を読んでいるうちに今日という日が終わる。なんという非生産的な日だ。
▼バレンタイン・デーにチョコレートなどをくださった方々、いささか忙しくてホワイト・デーのプレゼントを買い出しにいけないので、お送りするのが少し遅くなってしまいます。おればかり甘いものを食っているようで恐縮であります。いましばらくお待ちくださいね。

【3月13日(金)】
▼この日記は、零時から二十四時までを一日としているから、今日まず最初にあったことを書くとすると「電車に乗っていた」ということになる。昨日残業で遅くなり、拙宅方面最終連絡の急行電車になんとか滑り込んだのだった。最寄りのローカル線に揺られている最中、日付が変わって俄然(?)今日になった。よし、ここからは起こることは今日の日記の対象だ――と思ったのかどうだか知らないが、電車の中でふと顔を上げると、前にやけにきれいな若い男の子が座っていた。いや、男の子かどうか自信がない。身体つきやちょっとした仕草に、どこか女性っぽいところがあるのだ。いやはや、最近は男性が女性化し女性は男性化しているというが、どちらかほんとうに区別がつかないくらいのサンプルには久々に遭遇した。いわゆる美形ではないにしても、きりりと賢そうに引き締まったハンサムな顔立ちだ。はっきり言えば、おれ好みである。おれには少年愛の趣味はないが、少年っぽい女性はけっこう好きなのだ。歳は十八、九だろう。学生か、勤労青年(古い言葉だなあ)か。さらに観察を続けると、どうも女の子の線が濃厚になってきた。やがて、そのコがくしゃみに続けて咳払いをした。その“声”から、おれは女性だと確信した。緩めのジャンパーにジーンズ、いかにも地味なグレーのショルダーバッグを膝に載せて雑誌を読んでいる。明るい色のものはなにも身に着けていない。不潔感はなく、むしろ品のある感じなのだが、客観的には“ダサい”としか言いようのない服装である――そうか、なんらかの事情で日々終電に乗らなければならないような生活をしているのだとすれば、この女の子は安全のために男装しているのかもしれない。緩めのジャンパーは、胸の膨らみを隠すためか。男装は一応は成功しているのだが、なかなかの美少年に見えてしまい、いかにもその方面を好む人々の目を惹きそうで、べつの意味で危ないのでないかなどと心配になってしまった。
 帰宅して飯を食うと、夜でもない朝でもない中途半端な時間。寝てしまうと起きられなくなるおそれもあり、ちょっとネットを見てまわって本を読む。朝方風呂に入り、身仕度してまた会社へ。なにしにわざわざ家に帰っているのかよくわからない。一日働いて帰宅すると、二十三時を回っている。飯を食っても神経が立っていてあまり眠くならない。ネットを見てまわっているうちに今日という日が終わる。

【3月12日(木)】
SFマガジン・4月号の「エキストラ」(グレッグ・イーガン/山岸真訳)を読んで、ふと別唐晶司『メタリック』(新潮社)を思い出す。その後も「新潮」に短篇を発表なさってたのは見たことがあるから作家活動も続けておられるはずだが、新刊が出ないので気になってるのだ。おれは『メタリック』みたいなの好きなんだがなあ。そりゃアイディアという面だけで見れば、脳移植なんて目新しくもなんともないが、あれだけストレートに(生硬にとも言うけど)“脳”を現代日本文学の問題として書いた小説は少ないと思うのだ。瀬名秀明『BRAIN VALLEY』(角川書店)が、およそ脳に関係ありそうな分野の自然科学を総動員して外へ外へと広がってゆくのに対して、『メタリック』は肉体対精神、自己の同一性、中枢と末梢の関係性など、自己としてある脳の主観にこだわり、ひたすら武骨に内へと内へと食い込んでゆく。まあ、はっきり言えば暗いんですけど、その武骨さが新鮮だった。
 SFマガジン・4月号の森下一仁さんのエッセイ「脳と心 一元論と二元論をめぐって」にも指摘されているように、どうも日本人には、脳と肉体(末梢)とをCPUと周辺機器のように割り切っては捉えられない文化的な刷り込みみたいなものがある。“脳と心”という対比で考えればどちらかというと一元論的だが、日本に生まれ育ったおれの印象では、日本人の場合、その対比以前に“脳と肉体”を切り離さない考えかたが文化として流れてるような気がする。つまり、「脳も肉体でしょうが」というのね。日本人の座標には“脳と心”の一元論・二元論に加えて“肉体(とないまぜになった脳)と心”という象限も、無視できないものとしてあるだろう。おれ個人は、心の座は脳だと割り切っており一元論を支持するが、中枢としての脳が末梢としての肉体と相互依存している面もけっして軽く見ているわけではない。ただ、そうなるとそれは脳科学の問題じゃなくて、哲学としての身体論の問題だとは思うけれども。身体論も射程に入れれば、『カエアンの聖衣』(バリントン・J・ベイリー、冬川亘訳、ハヤカワ文庫SF)だって、歴とした脳SFだ。
 『メタリック』は、そのあたりのいかにも日本的(とおれには思える)な問題を、脳死や臓器移植といった主流文学(おれ用語で言う“特殊主流文学”ね(98年2月12日の日記参照))にも許容されそうな領域を敢えて飛び越えて、先天的に肉体がぼろぼろでありながら人一倍優れた頭脳を持つ青年の“肉体への憎悪”と脳だけの「純粋存在」になる渇望として描いてみせたのだから、おれは一種の“ジャパネスクSF”と見るのだ。この作品に於ける「脳対肉体」という主題は、いささか明示的すぎる誘導によって、「中枢対末梢」→「個人対社会」→「日本対世界(西欧)」という図式にまで、重層的なアナロジーとして広がってゆく。そうしたアナロジカルな象徴操作はいかにも“純文学”的な手法で、サイエンスをSFの最重要要素として捉えるタイプの読者がSFとして読んだ場合には違和感を覚えざるを得なかったのだろう。逆に主流文学側からすれば、まるでSFのよう(!)な設定と律義に描写された医学的ディテールがミもフタもない無粋なものと見えたのかもしれず、結局、どちらからもあまり高く評価されなかったのではないかと思う。別唐晶司はすごく損な領域を損な時期に損なやりかたで書いてしまったのかもしれない。おれみたいに“一般主流文学”と“特殊主流文学”を連続的なグラデーションとして捉えている偏屈者は別として、たいていのジャンル読者は面食らってしまったんじゃなかろうか。この脳ブームを機に、いま一度評価されるべき作家だとおれは思うな。

【3月11日(水)】
▼おっと、昨日の日記で『赤頭巾気をつけて』なんて表記してしまったが、これはもちろん『赤頭巾ちゃん気をつけて』のまちがいなので直しておきました。面白そうだなと思ってくれて、もしも書店に問い合わせたりした方がいらっしゃったら、たいへん申しわけありませんでした。どうも、最近誤記が多くていけない。そろそろ眼鏡を調整したほうがいいのだろうか。調整しなきゃならないのは脳のほうだったりして。それにしても、べつに意識したわけでもないのに、昨日の日記が狼と赤頭巾の話になってるのは、ちょっとできすぎだ。無意識のいたずらというのは愉快なものである。
 それでですね、昨日は眠かったものだから短く切り上げちゃったんだけど、おれは半ば本気でいまの十代の人にも庄司薫は“わかる”んじゃないかと思ってるのだ。青春の気恥ずかしさと醜さは、多少時代が移ったって、そうそう変わるもんじゃないだろうし、十年前の十代にはあるいはピンと来なかったかもしれないが、いまの十代はむしろ『赤頭巾ちゃん気をつけて』の高校生の薫クンたちに近い感性を持ってるんじゃないかとなんとなく思うんだな。べつに確たる根拠があるわけじゃない。おじさんの勘です。でもって、『赤頭巾ちゃん……』にはじまる四部作で、こっ恥ずかしく醜く眩しく青春している(わ、恥ずかし)エリートの薫クンたちの世代は、いままさに世間を騒がせている接待漬けの腐敗した官僚を輩出している世代でもあるのだということを考えると、なおのこと面白いと思う。小説の中の薫クンたちが年月を経てああなっちゃったのか、それとも、薫クンはやっぱり足の生爪を剥がした痛みに耐えながら、赤頭巾ちゃんを護ろうと日々国を憂えて目立たぬところで頑張っているのか。きっと、頑張っている薫クンも相当数いるからこそ、なんとかこの国が保ってはいるんだろう。
▼第三回「○○と××くらいちがう大賞」の選考でありますが、募集しておいて申しわけないことに、いっこうに進んでおりません。いや、三月ってのは、会社の仕事でも私事でもその他諸々でも、やたら忙しくなるように世の中が回るもんなんでありまして、そんなことは読者のみなさまも同じでありましょうが、まあ、そういうわけでちょっと遅くなります。もっとも、忙しいときほど、なんの役にも立たないバカなことをむきになってやりたくなるヘンな心理もあるから、着手しちゃえばあっという間かもしれないんですけども。


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冬樹 蛉にメールを出す