間歇日記

世界Aの始末書


ホームプロフィール間歇日記ブックレヴューエッセイ掌篇小説リンク

← 前の日記へ日記の目次へ次の日記へ →


98年4月中旬

【4月20日(月)】
▼書店で文庫の新刊を見ていると、どうもしょっちゅう見ているかのような字面のタイトルが目に飛び込んできた。『冬の蜻蛉(とんぼ)』(伊集院静、講談社文庫)。雑誌ではいくつか短篇を読んだ憶えがあるが、おれは伊集院静の本を買ったことがない。が、このタイトルは個人的に見過ごせぬ。“冬の蜻蛉”というのは、自分で気障だと思いながらペンネームに使っているくらいだから、なぜかおれにとって重要な心象風景にある表象なのだ。はて、こんなタイトルの単行本が伊集院静のビッグネームで過去に出ていたのなら、当然広告くらいは目に留まっていたはずだが……。とにかくどんな作品か気になり、一も二もなく手に取ってしまう。裏表紙の紹介文を読んで納得。『とんぼ』という95年に出た短篇小説集が、このたびの文庫化で改題されたものだった。
 今週はやたら忙しいので、帰宅してとりあえず表題作だけ読んでみる。うまいなあ。ええ話やあ。いい短篇は、するりとこちらの中に入ってくる。そして、年月を経てすっかり忘れたつもりでふと心の片隅を見ると、まだそこにそのままあって驚かされるものなのだ。何百ページもつきあっておきながら、もはや主人公の名前すら出てこない長篇があるかと思えば、二十数ページの短篇に一生心に突き刺さったまま消えないだろう名前があったりもする。小説好きの人なら誰もが体験していることだろうが、じつに不思議なものだ。識別記号はすぐ忘れるが、人間の名前はなかなか忘れないからかもしれない。
 妙な動機で手に取った本だけど、ちょっと得した気分である。ひと息ついたときに、ちょっとずつ読むことにしよう。二十年後にも憶えている作品はあるだろうか。

【4月19日(日)】
▼匂いの出るCM(?)でおなじみのカップヌードル「レッドカレー」(日清食品)を食ってみる。ふつうのカレーヌードルだと思って食えばけっこうおいしいほうだと思うけど、派手なカップのデザインから想像されるほどには辛くない。あれ見たら、ひぃひぃ言うほど辛いのかなと誰だって期待しちゃうよね。外見からの期待が大きいだけに、食ってみたら拍子抜け。けっしてまずくはないので、外見でかえって損してるよ、この商品は。なんか、最近カップヌードルも洗剤みたいだな。さほど中身が斬新になったわけでもないのに、名前や外見だけが次々と変わる。あ、これは洗剤に失礼か。政党みたいだと言ったほうが的確だよね。
17日の日記に書いた怪しい“水の検査の男”だが、なんと風野春樹さんのお宅にも、同じ手口(?)の水道検査男がやってきたのだという(風野さんの98年4月18日の日記参照)。風野さんはうっかり家に入れてしまったとおっしゃっているが、幸いなにも盗まれてはいらっしゃらないようだ。だとしても、奥さんがひとりでいらしたときだったとしたら、これは怖い。検査男は豹変したやもしれぬ。全国的に同時発生している手口なのか、むかしからある手口がチェーンメールのように再燃したのか、謎は深まるばかりである。なんらかの全国組織の手の者か、それとも、それこそインターネットなどで“成功者”の手口を知った阿呆どもが各地で模倣をしているのか? そもそも、いったいこの水道検査男の目的はなんなのか?
 風野さんのご報告のように、ほんとうに水道の検査らしきことをしてなにも盗らず、凶器を出して脅しもしないのだとしたら、彼らの目的はなんだろう? さしあたり、三つは想像できる。
(1)強姦、あるいは、和姦を目論んでの侵入というのが、下卑てはいるがありそうだ。女性がひとりでいることが確認できたときのみ、本性を顕すのやもしれない。まあ、和姦に関しては、べつに問題ないけどね。よろしくやってくれ。
(2)情報収集。あらかじめ定められた項目を水道の検査をしながらチェックするのかも。忘れたころに、浄水器かなにかのセールスマンがやってくるのか? それとも、個人情報ブローカーに流して対価を得るのか? あるいは、より利益率の高い犯罪を後日に期して、下調べを行なっているのだろうか? 風野さんの記述から、蛇口の水の塩素濃度を調べれば、その家庭が留守がちかどうか、ある程度当たりをつけることはできそうだ。あるいは、その検査の過程で巧みに雑談めかして知りたい情報を得るのかもしれない。なんにせよ、犯罪の臭いがする。
(3)なにも盗まないが、逆に余計なものを置いてゆくのかもしれん。ものがなくなっていると気づくのだが、余計なものが加わっていても気づかない可能性はある。なぜなら、ひとり暮らしでないかぎり、見慣れぬものがちょこんと置いてあっても、「あ、また夫(妻、子供)がなにか買ってきたのかな」などと、お互いに思い込んだままでいるやもしれないからだ。たとえば、一見それとはわからぬような盗聴器、あるいは、CCDカメラ。むかしなら、盗聴器など仕掛けられるのはなんらかの意味での重要人物にかぎられただろうが、昨今はちがう。録音・録画した媒体で好事家相手に小規模な商売をしたとてあまり金にはなるまいが、いまならはるかに金にできるインフラがある。言わずと知れたインターネットだ。ふつうの家庭の寝室の物音ですら、下手すると、ちょっとした技術で世界へ向けて生中継されてしまう怖れすらある。ホンモノかヤラセか知らないが、そういう仕組みのサイトが雨後の筍のように出てきているからねえ。
 あるいは――ちょっとトンデモがかってくるけど――怪しげな宗教団体かなにかが、われわれの想像を絶するなんらかの計画を抱いているのやもしれない。いったい一般家庭の水道水を検査して、どんな怖ろしいことができるものやら……。非現実的な想像ならできないこともない。もっとも、狂信者というやつが非現実的としか思えないことを現実にやってしまった記憶も新しいだけに、この可能性も一笑に付すわけにはいかないだろう。
 ワイルドな想像はいくらでもできるが、ひとつたしかなのは、どう考えてもこの水道検査男たちは怪しいということだ。だいたい、こういう検査に来るのなら、事前に訪問日と時間の通知があるのがふつうである。「ガス管が破れました!」なんて緊急時ならともかく、試薬で水道水の塩素濃度を測る程度の用事のために、抜き撃ちで来たりするものか。おれの住んでいるあたりはけっして治安がいいとは言えないから、この手の妙なやつがやってくるのは珍しくもないのだが、地理的に隔たった風野さんのお宅にまで同じような怪しい水道検査男が現れたとあっては、みなさんも警戒はおさおさ怠りなくなさったほうがよろしいかと思う。おれの母の証言によると、水道検査男は、水道局から来たといった権威の詐称だけはいくら問い詰めてもけっしてしなかったそうである。それをやると、あとから罪を問われることをあきらかに知っているのだ。「水(道)の検査に来た」などと曖昧なことを言うやつがやってきても、絶対にドアを開けないのが賢明だろう。曖昧な言葉遣いのほんものだったとしても困るので、「最近これこれこういう怪しい人が出没するらしいので、水道局に確認を取りたい。あなたの所属部署の直通電話番号を教えてくれ」とでも、ドアごしに問い詰めてみるのがよろしかろう(もちろん、仮に番号を教えてくれたとしても、その番号を信用してはいけない。共犯者がいるかもしれないからだ)。うちに来たような気の短いやつなら退散するはずだ。素性をあきらかにせぬまま食い下がるようなら、警察に通報するしかあるまい。
 警戒してはいても、バタバタしているときなどにひょいと来られると、うっかり家に入れてしまうこともあるかもしれない。女性ひとりだったりしたら、それは怖ろしいことだろう。挙動が怪しいと難詰したりしては、居直った男になにをされるかわかったものではない。また、(ひょっとしてもしかするとほんものの水道局員かもしれぬ)相手を目の前に警察に通報するのは相当勇気がいるし、そんなこと怖くてできない状況かもしれない。そういうときは、ものを盗まれることは覚悟で席を外し、一刻も早く友人(できれば、お隣の奥さん)に世間話を装い電話して、怪しい来訪者に聞こえるように、大声で水道局員(?)が来ていることを告げればよいと思う。とにかく、その男が来ている事実をたったいま外部の人間が知ったと、男に悟らせることだ。肉体に危害を加えられるリスクは少しでも低下する。ものは盗まれるかもしれないが、なにしろ相手の主目的がわからないのだから、身を守るための行動を優先すべきだろう。無事に男を追い出せたら、“水の検査”と称して怪しい男が来たことは警察に通報しておくべきだ。警察がマークしているとしたら、少なくとも怪しい男があなたの家に何時ころいたという、警察にとって重要な情報を提供できる。
 盗聴器が気になるようなら、最近はそういうのを調べてくれる業者もある。ただ、しっかりしたところに頼まないと、逆に盗聴器を仕掛けられる可能性もあるからご注意を。素人でできる簡易検査法としては、ラジオを使う手がある。戸外に出て携帯用のラジオのバンド選択をAMにし、音を聴きながらなるべくノイズが少なく放送局のない周波数にセットする。そのまま家に入って、ガイガーカウンターで放射線源を調べるようにして、仕掛けられそうなあたりにラジオを左右にゆっくり動かしながら近づけてみる。イヤホンがあれば使うほうがよい。どう考えても電磁波が出るはずのないところで、ラジオの動きに合わせて大きくなったり小さくなったりするノイズが入ってきたら、疑ってみるべきだ。さらに、バンドをFMにして同じことをやってみる。プロの盗聴器発見屋さんは、さまざまな盗聴器の周波数に合わせた検波装置を持っているだけで、周波数が合っていなくとも強い電磁波源がきわめて近くにあれば、ふつうのラジオにもなんらかのノイズが入ってくるものである。ラジオを左右に動かすのは、至近距離からのノイズをバックグラウンド・ノイズから浮き立たせるためなのだ。いや、おれはべつに盗聴器発見屋をやっているわけではなく、工場などにパソコンを設置する際、強い電磁波源がモニタ画像を不安定にしたりすることがあるため、怪しいときはこの手で調べられるよう小型ラジオを持ち歩いているのである。被覆の甘い高圧線が走っているところでは、周期的なノイズが入ったりする。ザウルスなどのPDAや携帯電話をお持ちであれば、簡単な携帯ラジオで至近距離の電磁波源が発見できることを試していただけるだろう。電源を入れたポケコンなどうっかりラジオに近づけようものなら、ものすごいノイズが入る。
 それにしても、いったいなんなんだろうね、この水道検査男は? 詳しいことがわかったら、この日記でも広く公開してゆきたい。うちの母など、「あたしが(警察に)通報したと思われたら厭やわあ」などと婆さんらしい怖がりかたをしているが、この手の妙なやつは情報網で包囲してしまうにかぎる。インターネットはさまざまな犯罪や犯罪に通じる商売を生んだが、犯罪に対する小市民の自衛手段も生んだ。妙なやつがうろついているとここに書けば、少なくとも推定約四百人の常連さんには伝わる。その人々が自分の情報網に情報を流せば、たちまち数万人、数十万人に伝えることができるのだ。「怪しい水道検査男がうちにも来た」「詳しいことを知っている」など、なんらかの情報をお持ちの方はご遠慮なくメールをください。風野春樹さんも、メール・掲示板で情報を求めておられる。なにしろ、おれたちにとっては他人ごとではないのだ。

【4月18日(土)】
川本真琴「“恋してる”ツアー1998」のテレビCMをご存じだろうか。カワマコがただひたすら、次から次へといろんなものを貪り食うというビデオクリップである。やきそばパンがあったかどうかは忘れた。もちろんワンカット撮りじゃなく(大仁田厚ならワンカットで撮れるやもしれん)食ってるシーンをたくさん繋ぎ合わせたものだけど、若い女性がパクパクとものを食うところは、見ていてじつに気持ちがいい。もう、おじさんにはできない芸当だ。とくに、小柄で燃費のよさそうな川本真琴だけに、編集してあるフィルムとはいえ、「これだけ食ったものがどこへゆくのだ」と唖然とさせられる。それくらいエネルギッシュなステージであるのだぞというメッセージを識域下に送り込むのが狙いなのだろう。
 和田勉「食いっぷりの悪い女優はダメ」だとよく言っているが、現場の人の実感なんだろうな、あれは。映画やテレビの撮影なんて、すごい肉体労働にちがいない。生活が不規則だろうし、長距離の移動も多いだろうし、さほど動かない演技でも、演ずるという行為自体、たいへんエネルギーの要るものだろう。むかし、NHKの『驚異の小宇宙・人体』で、『道成寺』を演じる能楽師の心拍数を計る実験をやっていて、ほとんど動いていないにもかかわらず、一分間に心拍数が200を超える状態が十数分も続くというのにはたまげたものである。未熟者がアガっているのではなく、こうなるのが一流なんだそうだ。おれがこんなことやったら(できたとして)、まず一、二分でぶっ倒れるだろう。全力疾走でもしないと、これほどの心拍数にはならない。ひどい風邪で身体も起こせないくらいになったときの心拍数は120くらいだった。風邪による苦しさを差し引いても、200以上が十数分続く状態なんてのは想像を絶するよ。これは極端な例だけども、俳優だって程度の差こそあれ、同じようなことがあるのだろう。なるほど、食わんと一流にはなれんでしょうな。
 ちなみに、おれは常人よりかなり徐脈気味で、平静時で50強くらいである。健康診断で46なんて数字が返ってきたこともあった。毎年診断のたびに下がってゆく時期があったので、「このぶんでは早晩止まるな」などと、あと何年の命か計算してバカ笑いしていた。深刻な病変が徐脈を招いていることもあるそうだが、おれはまだ生きているから、どうやらそういうのではないらしい。医者に訊いても、気にするほどではないという。おれなりに原因を考えてみると、就職してから睡眠時間が激減したことに思い当たった。おれは本来長眠型で、放っておけばいくらでも寝ていられるタイプだが、現代の社会生活に適応するうち、おれの身体がみずからの代謝を落としていったのではないかと思っている。しかも、献血時の検査では、おれの血はたいへん重い。「上等の血ぃやなあ」と看護婦に言われたくらいだ。分析結果を見ると、単位体積あたりのヘモグロビンの含有率が高いのだ。血液が酸素を運搬する効率を高めることで徐脈のデメリットを相殺しようとしているのかもしれない。勝手な想像だが、高地に住むマラソン選手などの例を思えば、ありそうなことではある。しかし、これは悪く考えれば血液の粘性が高いということで、脳梗塞などの循環器系の障害を招く怖れもあるはずだ。磁場の影響で血液の粘性が変わるため、地磁気の微変動と脳血管系疾患の発生率とのあいだに相関があるという磁気生物学上のデータもある(どのくらい信憑性のあるものかは知らないが)。まあ、おれが死ぬときは、循環器系が原因となるだろう。そう思いながら煙草を吸っているのも考えものであるが、「酒も煙草も女もやめて百まで生きた莫迦がいる」とも言うじゃないか。三番めのやつにあまり恵まれないぶん、前二者はせいぜい楽しむつもりである。
 それはさておき、やたらうまそうに食いまくる川本真琴を見て、『傷だらけの天使』のオープニングを連想したのはおれだけじゃないはずだぞ。そこのおじさん、おばさん、白状しなさい。
「リンクワールド」(お友だちのリンク)でもご紹介している、ヘンなことを考えるのがお好きな齋藤冬樹さんが、またもやヘンなことをはじめた。「日本人としての常識がないんじゃない?」とよくお友だちに言われる齋藤さんは、なにが“ふつう”なのかという積年の疑問を解消するため、「この度一念発起し、アンケートを用いて日本人の普通の考えについて調べることにしました」とおっしゃる。題して「百万人の日本人普通の人アンケート」。あなたがどのくらい日本人として“ふつう”なのか、二十の設問に答えるだけで測定してくれる。面白いのは、母集団が大きくなってくるにつれて、あなたの普通度(あるいは、変である度合=“変さ値”)ランキングがダイナミックに変化してゆくしかけになっている点である。今日の普通人は、明日の変人であるかもしれないわけだ。この遊びは母集団が大きいほど面白いので、ぜひやってみてください。ちなみに、ランキングや回答者一覧には、野間美由紀氏や皆川ゆか氏のお名前も見える。インターネットってのは広いようで狭い。職業的に“変さ値”が高いはずのこういう方々が回答しておられるわけだから、まだまだ変人が普通人と判定されている可能性が高い。おれも回答したから、近々集計に入ればなおさらかも(笑)。待てよ。この日記の読者の方々が参加なさると、ますます母集団の変人比率が高くなり、つまりそれが“ふつう”の基準になってゆくということになるよなあ。じつに深い遊びである。まさにこの遊びに等しい状況の社会をオーウェル風にシニカルに描いたSFを思い出した。かんべむさし『公共考査機構』(徳間文庫)だ。お、ちゃんと最後はSFの話になったぞ。

【4月17日(金)】
▼おれが会社へ行っているあいだに面白いことがあったようだ。昼下がりにドアにノックの音。母がもちろん鍵を開けずに誰何すると、若い男が「水の検査に来ました」とのたまうそうな。セールスだなと踏んだ母がさらに、「なんの水の検査ですか? 水道局の方ですか?」と尋ねると男は苛立ち、なにやらわけのわからないことを言う。しぶとく“水の検査”とやらの詳細を尋ねる母に、「ほんなら、検査せんでもええんですね」などと脅し文句を吐いたが、埒があかないので退散したそうである。それから団地の婆さんたちの電話連絡網をたちまち怪しい“水の検査の男”の情報が先回りし、むろんドアを開けてやる家はない。やがて誰かが通報したらしく警官がやってきて、水の検査男は共犯者(?)らしい男とバイクで逃げ去った。あとでうちにも警官が事情聴取に来たそうな。
 新手の泥棒だろう。例の「消防署のほうから来た」という古典的なやつのヴァリエーションだ。家に入れて“水の検査”とやらをさせたら、金目のものをこっそり盗むか脅し取るかするにちがいない。若い女性が住んでいるようなところならほかの目的もあろうが、生憎ここらは爺婆比率が異様に高い。しかも、はっきり言って、裕福な家庭など一軒もない。低収入者世帯用の市営住宅なんだからあたりまえだ。バカな泥棒である。こういう地域でも中にはずいぶんと贅沢な生活をしているかのように見える家庭もあるが、それが貧乏人特有の一点豪華主義であることをおれは知っている。おれが本と情報だけは金に糸目をつけず(といっても限度はあるが)バカスカ買うのと同じように、車にだけは金をかける人、着るものにだけは出費を惜しまない人、オーディオ・ヴィジュアル生活だけは貴族のような人などが低収入者にもけっこういるのだ。その一点豪華主義を表面的に捉えて、「ここらは小金持ちの年寄りがいそうだ」などとオリジナリティーに乏しい窃盗を計画するなど、まだまだこの泥棒どもは尻が青い。仮におれの家に押し入ったところで、自慢じゃないが現金はほとんど置いてないうえ、金目のものなどないに等しい。このパソコンを盗んで行ったとて、下取り店に叩き売っても、まず一万円にもならないはずである。あとは泥棒どもには紙屑にしか見えないものしか置いてない。けけけけけ。血眼になって金目のものを物色する泥棒君が放り投げたその黄ばんだ本は、売る人に売れば二万円でも買ってくれるかもしれないのだがね。窃盗で儲けようというのなら、もっとターゲット・エリアを研究してから来たまえ。
 まあ、一般論だから当然例外はあるだろうけれども、おれの知るかぎりでは、貧乏人が頑張ってなまじ家など買うと一生ローンにひいひい言うばかりで、まるで家を買うためだけに生きているかのようなことになりがちである。馬車馬のように働いた結果、気がついたら house が空疎に建っているだけで home はぶっ壊れていたなんて笑い話も多々耳にする。面白いことに、自分は家など持てるわけがないと最初から諦めている階層というのは、じつは無理して家を持っている階層よりはるかに文化的に豊かな生活をしている。ちょっと観察すればわかることだ。そもそもこの国で、庶民が全員自分の家を持てるわけがない。なけなしの可処分所得は、自分に投資するのが得策だ。その財産はちょっとやそっとでは盗めない。そうやって最初から持ち家など眼中にないやつのところに、結果的に“おまけ”のようにして家が建つ程度の富が転がり込んでくることもけっこうあるから、人生ってのはよくよく皮肉にできている。

【4月16日(木)】
▼さて、ご期待にお応えして(?)『RIONA』(モデル:葉月里緒菜、撮影:篠山紀信、ぶんか社)を買う。おれがアイドル写真集の話などしても菊池誠さんの蘊蓄の足下にも及ばぬに決まっているが、葉月里緒菜は菊池さんの守備範囲ではないはずで、ここはやはり購入者代表として、とくにこの日記の読者の多くが疑問に思っているであろう一点をあきらかにしておかずばなるまい。葉月里緒菜にも、ちゃんと乳首があった。どうだ、驚いたか――って、まあ、みなさん週刊誌でご覧になってるでしょうけどね。
 すでにお気づきかもしれないけれども、いまさらのようにおれの弱い点をまとめると、三点に集約される。(1)目に存在感のある女性に弱い。(2)世間一般に言うところの悪女に弱い(実際どうかはわしゃ知らん)。(3)猫系に弱い。となると、やっぱり残るのはシャーロット・ランプリングと葉月里緒菜になるのであった(もちろん、ランプリングの写真集だって持っている。ドイツ語版だが)。今回、脱いだからこそ確認できたのだが、予想どおり、葉月里緒菜は着衣のほうがはるかにエロチックである。これもシャーロット・ランプリングと同じだ。篠山紀信も意識してるのかどうかはさだかでないけど、どうもあのヘルムート・ニュートンのランプリングっぽい画面が多いような気がする。ランプリングの出演作のカットを連想させるようなものもある。篠山紀信も“目フェチ”なのだろうか。いっそ、彼女らの目だけ大写しにした写真集を作れば、おれみたいなフェチが喜んで買うんじゃないか。ええい、この際だから、今日はカムアウトしてしまうぞ。おれは“目フェチ”“声フェチ”(これは前に書いたよね)“脚フェチ”であって、胸やら尻やらにはあんまり興味がない。なぜかよくわからんが、おそらく胸やら尻やらというのは生産手段に直結したイメージを(おれには)与えるので、糠味噌臭い日常を連想するからかもしれぬ。だから、おれがいちばん理解できないフェティシズムは“エプロンフェチ”である。あんなもん、いくら見てもなにも感じないぞ。
 まあ、おれの性的嗜好は置いておくといたしまして、書物としてはそこそこだと思う。葉月里緒菜ファンでない方にお薦めできるほどのものではありません。バルチュスとか好きな人には、けっこうクるかも。要するに、葉月里緒菜という人は(しつこいようだが、シャーロット・ランプリングも)、“目”と肉体の発育がアンバランスなところに一種のフリーク性があって、少女のようにも老婆のようにも見える。そこが“エロい”のだ。わっかるかなあ。まあ、同好の士しかわからんだろうね。

【4月15日(水)】
川島なお美が脚に大怪我をしたと聞きびっくり。いまの彼女には、商売道具の肉体を二十三針縫うほどの怪我は、肉体的苦痛よりも精神的苦痛のほうが大きいだろう。これが大仁田厚であれば、もう二十三針増えたところでさほど変わりはしないが、常人の基準からすれば大怪我だ。
 おめーは葉月里緒菜のファンじゃねーのかと呆れておられる方もいらっしゃいましょうが、川島なお美だって好きなのである。白状すると、おれは『お笑いマンガ道場』(中京テレビ)時代から川島なお美のファンであり、正確に言うと、いまでも『お笑いマンガ道場』時代の川島なお美がいちばん好きである。女優としては演技力がどうこうと評価する以前の実力だとしか思わないが(葉月里緒菜のほうが数段上だろう)、それは好き嫌いとは別の話なのだ。どうも、いまの川島なお美は無理をしているような気がしてならない。大きなお世話だけども、“美人で利発なそこいらのねーちゃん”としての才能を殺しすぎだ。ちょっと知的な大人向けバラエティーのパーソナリティーなんかにすごく合うのではなかろうか。“なかなか切れる女子大生タレント”から脱皮して生き残るというのは、過去の例を見てもかなり難しいことだろうとは思う。竹下景子ほどの演技力はないのだから、川島なお美は麻木久仁子路線でゆくのが、おれ個人はいいんじゃないかと思っているのだ。
▼校内で首吊り自殺があった堺市の中学校で、校長先生が命の尊さとやらを訴えている。悲しむ人が一人でもいたら死んではいけないなどとおっしゃっているのだが、おれにはずいぶんと無神経なもの言いに聞こえた。いや、むろんこの校長先生は悪い人ではないのだろうし、心底そう思ってみずからの信念に基いて生徒に語りかけていらっしゃるのだとは思う。その点では、学習指導要領などという他人の作文を機械的に生徒に押しつけているような先生よりずっとましだろう。だが、おれの経験からすると、「おれが死んでも悲しむ人などいない」と思えるようなときにこそ、ふらふらと死を考えたりするものであって、もしそのような心境になっている生徒がいたとしたら、この校長先生のお言葉はかなり残酷なものに響くのではないかと思うのだ。「おれ一人死んでも世界がどうなるわけでもない」「そもそもおれはなにしに生きているのだ?」と、しばしば思うのが十代のあのころで、その疑問は大人になったいまでも、精神的に弱っているときなどにしばしば襲ってくる。自分の中でこの疑問が頭を擡げてきたとき、「あ、来やがったな」とおれは自分に反撃する。その問題に関しては、おれの中ではすでに答が出ているのだ。すなわち、「そのとおり。おまえ一人死んでも世界がどうなるわけでもない」「おまえはなにしに生きているわけでもない。生きているからには、生きているということがすなわち答なのだ。ご立派な理由がなければ生きていてはいけないのなら、この世に生きていてもよい資格のあるやつなどいるものか」――要するに、「理由はともかく、おれはここにこうして生きているのだから、生き続けていてなにが悪い。文句あるか?」というのが、生きものとしての健全な答だとおれは思う。
 子供のころ、親戚に顕微鏡をねだって買ってもらったおれは、そこいらの汚らしいどぶ水を汲んできては、ゾウリムシやらミドリムシやらを飽かず見ていた。最大倍率400倍というおもちゃに毛の生えた程度のものではあるが、そこに生きものがいることを観察するには十分だった。子供は残酷なもので、プレパラートに薄く伸ばした水滴に適当な“毒液”(“昆虫採集セット”についてるやつや、洗剤などの界面活性剤でまにあう)を垂らし、微生物どもがどうなるかを試したりした。毒液の分量が多すぎると、微生物どもはたちまち弾けたように丸まって動かなくなってしまう。細胞膜を破壊されたのだろう。適度に毒液が広がってゆく条件がうまく得られたとき、こんな単純な単細胞生物ですら、なにやら苦しいぞ、脅威が迫っているらしいぞと察知(?)すると、やはり毒液の薄いほうへ“逃げようとする”のである。自分がけっこうえげつないことをしているなと思いつつ、これには少なからず感動する。これだこれだ、なにしろこいつらは生きているのだから、これが正しい反応だ。「おれが生きててなにが悪い!?」という、生きものとしての素朴なふてぶてしさは、逆境にあるときには存外に重要なものだとおれは思っている。一部の女子高生なんぞの挙動を見ていると、それ以上ふてぶてしくならんでええわいとも思わんでもないが(笑)、どうもいまの子供たちにはゾウリムシにすらあるような素朴なふてぶてしさが不足しているような気がする。
 件の校長先生の論理であれば、おれが死んでも誰も悲しまないようなら、おれはいつ死んだっていいわけだ。それでは自分の生を他人の評価に依拠していることになってしまうではないか。冗談じゃない。おれが生きてることで悲しむやつがうようよいたって、おれには生きる権利と義務がある。ゾウリムシにもできるようなことをおれがしたとて、なにを非難されることがあろうか。さしものふてぶてしいおれでも、「生まれてすみません」的心境になることはままあるのだが、それは自分の知性に自家中毒を起こしかかっている症状なのだ。ふてぶてしく三十五まで生き長らえてきたおれが、十代の精神的に不安定な人たちにアドヴァイスできることといえば、これくらいしかない。自分の生きる理由を他人(親や兄弟姉妹だって他人だ)に求めたが最後、彼らは最終的に君を殺す。君が生きていていい理由(?)など、彼らの勝手な都合でコロコロ変わるからだ。下手すると、彼らは明日にでも、君には生きている理由がないと判断するやもしれない。君の生の主導権を彼らに渡してはいけない。彼らが束になって「おまえには生きている理由がない」と迫ってきたとしても、「おれが生きてて文句あるか!」と胸を張ればよいのだ。そいつらだって、大した理由があって生きているわけではないのだから。

【4月14日(火)】
Financial Times時事が伝えるところによると、なんでも来年秋公開予定で『サンダーバード』が映画になるらしい。オランダのポリグラムが制作するそうだ。また楽しみが増えたなあ。あのスティーヴン・バクスターだって、サンダーバードがなかったらSF作家になっていなかったかもしれない(SFオンライン:第3号「ハードSFを復活させた男 スティーヴン・バクスター来日インタビュウ」)――わけはないよな。おれの知るSFファンというやつは、環境がよいサラブレッドならサラブレッドで当然のようにSFファンになり、また、環境に恵まれなかったやつはそういうやつで、反動でSFファンになっている。要するに、SFファンになるやつは、呪われたようにSFファンになっているのだった。結果論なんだけどね。でもやっぱり、手塚治虫がいなかったり、少年ドラマシリーズサンダーバードアポロの月着陸がなかったり、早川書房東京創元社角川書店徳間書店が存在しなかったりという悪条件の重なった宇宙に生まれていたとしたら、おれははたしてSFファンになったかどうか……。「私はこれでSFファンになりました」という決定打の思い出のある人は少数派だと思う。いろんなものの累積が、ある日臨界に達し、気がついたらSFファンだったという人のほうがずっと多いにちがいない。
 それはともかく、『サンダーバード』ってのは、いま振り返ってもほんとによくできてたよね。いまでこそ、実際の災害救助をテレビの特番でしょっちゅうやってるし、レスキュー隊の“秘密兵器”なんかもいろいろ出てくるけど、1960年代に近未来を舞台にあのような設定ができたことが奇跡のようだ。
 ところで、あなたはサンダーバード何号が好きだろう? おれは子供のころはほかの多くの子供と同じように2号が好きだったが、歳を食うにつれて、5号がいちばんかっこいいと思えるようになってきた。あいつがないと、なにもはじまらないのだ。宇宙空間なんだから上も下もあるまいに、なぜか画面の中に“斜め”になって現われる5号にティンパニだけのテーマ曲が重なりはじめるや、もうそれだけで“アドレナリンがお嫁サンバを踊り出”さないか? あの高揚感に比べて、4号など影が薄いことおびただしい。レインボーマンダッシュ6のようだ。あるいはライダーマンのようだ。あるいはカプセル怪獣・アギラのようだ(あとは自分で考えてね)。
 この歳になっても、自分がなにか重大な局面にさしかかり行動を起こすときには、気がつくと頭の中で『サンダーバード』のテーマ曲のイントロが流れはじめている。下手すると、口ずさんでいたりする。三つ子の魂だよなあ。みんな黙っているだけで、けっこうそういう人は多いと思うぞ。

【4月13日(月)】
▼本屋でやってたエジプトものセール(?)のような催しで買ったのだが、おれはパピルスの栞が気に入って愛用している。素材はパピルスなんだろうけれども、なんだかやけにきれいに漉いてあって、どう見てもこれは現代の技術で大量生産したものだ。紙の先輩を栞に使っていると、なんとなく不思議な気持ちになって楽しい。とくに講談社学術文庫を読むときはお洒落だ。「講談社学術文庫のシンボルマークは、古代エジプトにおいて、知恵の神の象徴とされていたトキをデザインしたものです」って、フラップに書いてあるじゃないか。こんなのは手前にしかわからない自己満足のお洒落なのだが、人にはまずわからないところでヘンに洒落てみるのもなかなか愉快なものなのだ。つまらないことで、人生なんぼか豊かになったような錯覚に陥る。錯覚でも本人が楽しけりゃいいのだ。この伝でゆけば、サンリオSF文庫を読むときにはスルメを栞にしてみるとよいかもしれない。
 今日はたいして書くことがないなあと思いながら本を読んでいたら、そこにネタが挟まっていたというわけなのだ。こういうのは厳密には日記とは言わない。書くことがなきゃ書かなきゃいいのにと思うでしょうが、書くことがないときにこそ、手近な題材でどれだけ無駄話ができるか試してみるのも修行のうちである。わらしべ長者みたいに、そいつをひねくりまわして連想しているうちに、ほんとうに面白いネタを考えついたりすることだってけっこうあるのだ。白状すると、この日記は半分くらいそうやって書いている(笑)。
 考えてみれば、栞というのも哀れな道具である。読みかけの本に挟む以外の用途が、なにひとつ考えられない。しかも、その本職ですら、栞になるためになんの努力もしていない一本の紐に簡単に真似られてしまうのだ。栞を発明したやつは、自分が栞を発明したという自覚すらなかったことであろう。
 待てよ、それでは本を発明したやつには、「おれは本を発明した」という明確な意識があったのだろうか。そもそも本というやつは、いつ発明されたのであろうか。
 ここで、以前から唱えてはバカにされている“本の発明”に関する冬樹蛉説をご紹介しよう。「そんなもの、文字と紙が発明されて、文字の書かれた紙を束ねているうちに本になったに決まっているじゃないか」などと、先入観に囚われた者は言うであろう。そうだろうか? おれの説によれば、最初、文字は石やら木切れやら手近なものに書かれた。それらを持ち運ぶのが重いので、できるだけ軽くしようとして加工しやすい木の板をだんだん薄くしていった。そうして紙ができたのだ。そう、あれは“薄い木の板”なのである。で、それらを束ねて本ができたかというと、ちがうんだな、これが。そうやって紙を発明したやつは“軽い木の板を作る”という設計思想の持ち主だったのだが、ひとまず軽い板ができたので満足してしまい、人類史に貢献し損なったのだった。こいつは、自分の作ったものが“薄い木の板”だと思っているので、それを束ねるなどという革命的着想を得ることはなかったのだ。
 しかし、紙の発明者の成功を横目で見ながら、「あいつの設計思想はおかしい」と思っていたやつがいたのである。“重くてもいいから、たくさん文字が書ける木の板を作ろう”と、この彼だか彼女だかは考えた。分厚い木の板に多くの文字を書くにはどうすればよいか? 表面積を増やせばよいのだ。そこでこの人物は、魚のように背の皮一枚を残して、木の板を二枚におろしてみたのだ。おお、いままでの倍近くも文字が書けるようになったぞ! この概念的ブレークスルーを成し遂げれば、あとは簡単だ。木の板を四枚におろし、八枚におろし十六枚におろし三十二枚におろし六十四枚におろし……ていったものが、いまの本になったのであった。
 では、この人物が本の発明者として称えられたかというと、そうではない。この人物の発想にも限界があった。木の板を分離せずに、ぎりぎりのところまで切り込みを入れるという技術にこだわりすぎたために、大量生産ができなかったのだ。時すでに遅く、そのころには最初の紙の発明者が、自分の発明のほんとうの重要性に気がついた。そして、“薄くした木の板を束ねる”という低コストで大量生産に適した本の製法を編み出し、本の発明者として後世に名を遺した――はずだが、遺っていない。きっと、薄い木の板を束ねようが、厚い木の板に切り込みを入れて表面積を増やそうが、本の利用者にとってはどうでもよかったからにちがいない。
 ――というのが、おれの説だが、どう思う、ビル?

【4月12日(日)】
▼トップページのカウンタが50,000を超えた。間歇日記はとうに超えているので新鮮味はないにしても、これほど実用的情報を無視したサイトで看板ページのカウンタが十万の半分にもなると、なかなか気持ちがいい。毎度ご贔屓にありがとうございます。
▼一日偏頭痛に悩まされる。バファリンを飲むと、今度は腹具合がおかしくなる。なにをする気も起こらないが、自虐的に本を読む。夕刻、頭部に衝撃を与えぬよう、そぉっと上を向いて歩いて投票所へ。よりによって、今日は京都府知事選挙と府議会補欠選の投票日なのだ。蚊のなくような声で生年月日を言い、投票用紙をもらう。投票所が近いからいいようなものの、乗りもので行かねばならないところだったら、この体調ではまず棄権しているだろう。自宅に居ながらにして、布団の中から投票できるような仕組みに早くならないものか。もっとも、そうなったらなったで、認証のためのバイオメトリックな、あるいはジェネティックな情報を役所に知られることになる可能性は高く、それも厭な気がする。利便性とプライバシーはトレードオフにならざるを得ない……などと、SFマガジンに連載中の「エリコ」(谷甲州)を読みながら考え、また頭痛をひどくする。
加藤秀一さんの「旅する読書日記」(98年4月1日)に、往年の「週刊少年チャンピオン」黄金時代の話が出てきて懐かしく読む。おれが小学生上級から中学生くらいにかけてのころだ。いまはあまり雑誌でマンガを読まなくなってしまったが(読みたいんだけども)、あのころのチャンピオンは毎号欠かさず読んでいたなあ。加藤さんはおれとほとんど年齢が変わらないせいか、書いておられることにはいちいち肯いてしまう。山上たつひこ『がきデカ』手塚治虫『ブラック・ジャック』が人気の双璧だったのは、どうやら全国どこでも同じらしい。『がきデカ』の「ライバルの『マカロニほうれん荘』(冬樹註:鴨川つばめ)も面白かったし笑えたが、結局『がきデカ』の比ではなかったし、ピークも短かった」と加藤さんはおっしゃっているが、おれ個人にはマカロニのほうがインパクトがあった。ただ、加藤さんのご指摘どおり、短期間に狂気が爆発した感があり、面白さにムラがあったのは事実である。しょわしょわとギャグのパワーが失速してゆき、砂漠に墜落するようにして終わった。それを思うと、たしかに『がきデカ』の安定的パワーはすごかった。ギャグ屋さんは、ものすごい精神的な重労働だろうと以前(97年9月15日)にも書いたけれど、風の噂では、実際に鴨川つばめは一時期精神を病んだという。また、病むポテンシャルがあるからこそ、あれだけのものが出てくるのだろうな。読み切りや四コマなどの短い形式で継続的にギャグを考えるというのは、ある意味で非常に危険な作業なので、おれはギャグマンガ家やギャグ作家には危険手当を出してもいいのではないかとすら思っている。
 それはともかく、加藤さんがここで書いていらっしゃる手塚治虫評はとても読み応えがあった。はっきり言って、おれも加藤さんと同じく、手塚治虫の本質を最も端的に的確に抉ったと同感できる論は中島梓のそれだと思う。おれもいまだにそこから抜けきれない。自分が感じていたことをずばり文章にされてしまったので、付け加えるべきことを捜したり、ちがう読みを模索したりするのに苦労するという小憎い思いすらある。中島梓の手塚理解は、加藤さんの挙げておられる秋田文庫版『白縫』の「解説」や『コミュニケーション不全症候群』の一部、一冊補えば、『マンガ青春記』(集英社/集英社文庫)などに見ることができる。
 逆説的な言いかたになるけれども、おれが心底“共感”できる(それは必ずしも作品の評価とは一致しないが)表現者は、「人間に共感なんてことができるものか」と、じつは思っているにちがいない表現者だ。さしあたり、ニヒリストと言ってしまってもよいかもしれない。むろん、手塚治虫はそのひとりだ。ほかに手塚に匹敵する“ニヒリスト”としておれが好むのは、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアフィリップ・K・ディックカート・ヴォネガット坂口安吾吉行淳之介筒井康隆富岡多惠子などである。しかし、おれは彼らを(そして自分自身を)“ニヒリスト”と呼んでしまうことには抵抗がある。先ほど“さしあたり”と言ったのは、そこだ。ニヒリストなのであれば、表現する必要などないし、他者の表現を読み解く労を取る必要もない。しかしそれでも、表現してしまう、他者の表現を読んでしまうという、ぎりぎりの矛盾した行為にこそ、共感を覚えるのだ。このとんでもない世界に望まずして投げ込まれた“戦友”という気がする。彼らに共通した特徴は、そのあまりにもミもフタもない絶望のために、下手をするとヒューマニズムの汚名を着せられかねない面も持っていることである。ドライアイスに触れると熱いと感じるようなものだ。また、こうした表現者にも、「なぜこんなベタベタにおセンチなものを……」と首を傾げるような作品がひとつやふたつあるもので、そういうものが出てきた葛藤を想像すると、これまた共感を覚えてしまう。
 おれは姪たちによく本など買ってやるのだが、手塚治虫を与えたものかどうか、いまだに悩んでいる。「こんなものを子供に読ませてよいものか」と(手前は読んでおいて)思うのである。結局、毒抜きされたアニメの『ジャングル大帝』をビデオ屋で借りて観たよと姪が言えば「ああ、よかったね」と曖昧に微笑み、バレンタイン・チョコのお返しには『風の谷のナウシカ』のビデオを買ってやったりするという不甲斐ないおじさんに留まっている。そろそろ読ませてもよいころだとは思うのだが……。

【4月11日(土)】
▼紙幣がいまのものに切り替わったときおれの婆さんはまだ生きていて、おれはさっそく入手した夏目漱石の千円札を婆さんに見せた。婆さんは老眼鏡の奥の目を細めて、なにやら汚らしいものでも検分するようにしばらく矯めつ眇めつしていたが、やがて言った――「おもちゃとちがうんか?」 そりゃまあ、子供のころは婆さんをかついでいたずらもしたけれども、ずいぶんと信用のない孫であることよ。婆さんは新紙幣が出ることをほんとうに知らなかったのだ。婆さんの世代にとっては夏目漱石よりは伊藤博文のほうがありがたみがあったのかもしれないが、なにやら小さくなってしまった新千円札が非常にちゃちなものに見えたのだろうなあ。いまでも、偽札事件があるたびに婆さんを思い出す。
 婆さんはとうとうドル紙幣を見ることがなかった。「これが使えるようになってるところも出てきたし、これで貯金してもいいんだよ」なんて教えてやったとしたら、きっとまた婆さんは「嘘言いよし。おもちゃやないか」と言ったにちがいない。そうなんだよな。外貨ってのは日本人にとっては偽札なのだ。偽札なんだが、あんまりたくさん出回っているためにそれなりの価値があって、“ほんもののお金”と交換できたりする。たが、偽札である証拠に、価値がふらふらと増えたり減ったりするのだ。でもって、日本円の紙幣だって外から見れば偽札であって、結局、人類ってのは偽札を交換しあっては一喜一憂する奇妙な歴史的段階を生きているのだろう。こういうケッタイな仕組みがいつまでも続くとはおれには到底思われないのだが、じゃあ次になにが来るかと言われれば、そんなものを提示するだけの学識も天才もないんだよね。やっぱり、明日も明後日も、せかせかと偽札を稼ぎに会社に行き、家に帰れば原稿を書いて本代程度の偽札をいただくのにちがいない。婆さんが生きていたら、「おもちゃのお金で銀行ごっこでもしてるんか」と笑うだろうな。どなたか、経済学や人類学に造詣の深い方が、目から鱗が落ちるような驚天動地の経済SFを書いてくれないものかな。そんな売れそうにないもの書くより、金儲けのノウハウ本書いたほうが賢いよね、やっぱり。でも、百年にひとりくらいは、そういう阿呆もいてほしいよ。


↑ ページの先頭へ ↑

← 前の日記へ日記の目次へ次の日記へ →

ホームプロフィール間歇日記ブックレヴューエッセイ掌篇小説リンク



冬樹 蛉にメールを出す