間歇日記

世界Aの始末書


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98年6月下旬

【6月30日(火)】
▼あっ、なんてことだ。一昨日の日記で、風野春樹さんのお名前を“晴樹”などと表記してしまっていたぞ。まだ新しいパソコンの辞書が使い込まれていないせいもあろうが、人名のまちがいを見落とすとは情けない。風野さん、失礼いたしました。さっそく直しておきました。
昨日の日記で、テレビの『仮面の忍者赤影』の赤影や青影は、白影に比べて影が薄かったと書いたのだが、個性派・牧冬吉が演じていたという以外に、あまりにも単純な理由に思い当たった。そのころ、うちのテレビは白黒テレビだったのだ。“赤い仮面は謎の人”などと威勢のよいテーマソングが有無をも言わさず宣言しているものだから、どう見ても濃い灰色にしか見えないものの、「あれは赤だ」と自己暗示をかけながら観ていた。サイボーグ009のマフラーだって、まったく同じ事情である。さすがに『仮面ライダー』くらいになると、うちもちゃんとカラーテレビになっていて、“真紅のマフラー”は、真紅とは言わぬまでも、一応ずず黒い赤には見えるようになっていた。そういうわけで、ただひとり白影だけが、「なるほど、あれはたしかに白影にちがいない」と心の底から納得できる、言語と視覚の乖離から自由な忍者だったのであった。
 こういうむかし話をすると、「白黒テレビってなに?」とか言われそうだが、まあ、かつてそういうものがあったのである。まだカラー放送が少なかったころなど、カラーの番組になると、いちいち画面の隅に[カラー]などと、これ見よがしな文字がスーパーインポーズされるのだ。が、その[カラー]の番組も、白黒テレビで観ていては白黒にしか見えない。あたり前田のクラッカー。[カラー]だということになっている『黄金バット』を観ながら、あのころの大部分の日本人は「早くカラーテレビが買えるようになりたいなあ」と思いつつ、せっせと働いていたにちがいない。活気こそあったが、思えば単純な時代ではある。
 しかし、だ。いまはみな“もの”に満ち足りているから“心”とやらを欲しがっているというのも、これまた胡散臭いクリシェである。満ち足りてるかあ? 少なくとも、おれは満ち足りてないぞ。もっともっと、ほしい“もの”がいっぱいある。電車の網棚で新聞を拾って読んでるお父さんたちは、“もの”に満ち足りているのか? ガキは鍵のかかる勉強部屋とやらを与えられて彼女連れ込んではセックスしてるのに、自分の書斎すら持っていないお父さんたちは、もう“もの”はたくさんだと悟りを開いているのか? 「ああ、やっとローンを払い終わった。これからゆっくりできる」と、ほっとひと息ついたのも束の間、長年の激務が祟ってすぐにガタが来て死んでしまい、結局、自分で買った家で過ごす時間がいちばん短かったお父さんたちは、次元の低い“もの”を超越した聖人なのか?
 そんなことはあるまい。物質至上主義の符号を換えただけの精神至上主義は、早い話が、宗教屋どものマーケティング活動にすぎない。“精神ブーム”だということにしておけば、世間知らずのくせにプライドだけは高いガキどもなど、いとも簡単に引っ掛けることができ、そこにおいしい市場が広がってゆく。宗教のひとつやふたつ、おれだってでっち上げることができよう。べつに信者がほんとうに救われる必要などないから、高尚な教義を苦心して作ることはない。おれと、あとはおれの手足となる幹部どもが適当にいい思いができる期間だけ教義が保てばよろしい。おれがいい思いをして死んだあと、末端の信者がどうなろうと、おれの知ったことではないのである。そんな下っ端信者にも才覚のあるやつがきっといて、当然、そいつ自身にとって最も合理的なことはなにかに早晩気がつくはずだ。自分が新たに別の宗教の教祖になればよいのである。そうすれば、ネズミ講のごとく、また下から繰り上がってくる純朴(だがバカ)な若者を引っ掛けて、自分はおいしい思いができることであろう。どこぞの教団のようにテロリズムに走らぬかぎり、このプロセスにはけっこう景気の高揚効果があるやもしれず、経済対策として適当な宗教をどんどんでっち上げることを奨励するのもいいかもしれない。もちろん、宗教法人は税制上ももっともっと優遇する。そのうちアホらしくて株式会社など作るやつはいなくなり、名だたる大企業もみーんな宗教法人になってしまう。教祖の号令一下で、多数の信者が要りもしないものをどんどん買うように仕向けよう。たちまち景気は回復する。そのころともなると、評論家たちは「みな“心”が満ち足りてしまったので、社会に悪影響が現われはじめている。これからは“もの”の時代だ」などとほざいて、めでたく社会は元の地点に戻ってくるわけである。やれやれ。

【6月29日(月)】
▼ああ、どうやら、また嘘をついてしまうことになってしまった。たいへんたいへん長らくお待たせしております第三回「○○と××くらいちがう」大賞の発表でありますが、六月中にはなんとか発表したいと申し上げたにもかかわらず、バタバタしているうちに六月が終わってしまいそうであります。ごめんなさい。ほんとうにごめんなさい。来月こそ、なんとかいたします。応募してくださった方々は、もうご自分の作品を忘れてしまっておられるかもしれませんが、なにとぞ気長にお待ちくださりたく存じます。乞う、ご期待っ!
 ――などとほざいておりますが、七月も文庫解説が一本入ってるんだよな。リーディングも溜まってるし、SFオンラインもあるし……いやいや、心頭滅却すれば一日は三十六時間くらいには伸びるっ!
白影さんは凧に乗って行ってしまった――俳優の牧冬吉氏が二十七日に亡くなられたとのこと。ご自宅は京都市山科区だと新聞を読んではじめて知った。白影さんは意外と近くに住んでおられたのだなあ。おれたちの年代だと、テレビの『仮面の忍者赤影』は少年時代のリアルタイムの思い出だ。新聞の遺影を見ると、いまでもあの名曲「忍者マーチ」が聞こえてこないか? “やさしいおじさん、白い影”とテーマソングにも歌われたように、そこいらのおっちゃんが忍者ごっこをしているような親しみを感じて観ていたものである。牧冬吉という個性派名脇役なくして、あの番組はこれほど子供たちの心に残らなかったであろう。赤影や青影には失礼であろうが、じつのところ、白影さんがいちばん人気があったんじゃなかろうか。どうも、いま思い返してみても、白影さんに比べれば、ほかの二人はそれこそ“影が薄い”ような気がしている。
 また味のある俳優がひとり逝った。『ウルトラマン』の科学特捜隊“キャップ”であり、『仮面ライダー』の“立花のおやっさん”であった小林昭二氏も二年ほど前に亡くなられたし、おれたち特撮ヒーロー世代にとっては、一緒に原っぱを駆けまわって遊んでくれた近所のおじさんたちが亡くなってゆくようで、ぽっかりと寂しい。昭和は遠くなりにけり、か。

【6月28日(日)】
Geocities が最近不安定らしく、よくダウンしている。この日記でもおなじみ、風野春樹さん「サイコドクターあばれ旅」も、いつのまにか NIFTY-Serve のほうに移っていた。いや、べつに、それだからジオシティーズをやめてニフティにしましょうなどという話をしたいのではない。風野さんのニフティでのアカウント名が面白い。“windyfield”というのだ。こんなふうにきれいに英語になる名前は便利かもしれない。英語を解する外国人との雑談のネタになる。以前、「ミーのペンネームの文字は、winter tree dragonfly を意味するざんす、さいざんす」(トニー谷か、おまえは)とアメリカ人へのメールに書いたら、「オー、ハイクみたいあるね、趣があるアルよ」(どこのアメリカ人じゃ)などと感心された。まあ、アメリカ人の頭の中には、日本人がなにやら自然に関することを言うと「ハイクみたい」、支離滅裂なわけのわからんことを言うと「ゼンみたい」とお愛想を言うマニュアルがあるのやもしれん。真に受けてはいけない。
 風野さんのアカウント名を見て、むかし読んだ話を思い出した。数学者の矢野健太郎氏がプリンストンにいらしたとき、「西洋人の姓には、たとえば Whitehead のように、“意味がある”ものがあるが、日本人や中国人の名前もそうなのか? “ヤノ”というのはどういう意味だ?」と同僚に尋ねられたそうだ。矢野氏はすかさず、「“vector field”という意味だ」と答えたというから、これはじつにできすぎた話である。なんでも、ちょうど矢野氏はベクトル場に関する研究をなさっていて、あまりにできすぎているので信用してもらえず、中国人学者の証言を得て、やっとジョークではないと納得してもらったのだという。
 おれは姓名判断などというものをまったく信じていないけれども、“星”という姓の人や、“新井素子”(旧姓の本名である)という人がSF作家であったりすると、さすがに確率のいたずらに感動してしまう。“新しい井戸の素子”とは、たぶん量子論的な現象を利用した電気回路素子のことであろう。エサキ・ダイオードを予言したものかもしれん――って、ノストラダムスの予言の解釈だって、これと似たようなものだ。
FBI“ほんもののX−ファイル”をウェブサイトで公開したというので、野次馬根性が騒ぎ見にゆく。要するに、キャトル・ミューティレーションやらマジェスティック12やらロズウェル事件やら、その筋ではおなじみのことどもに関する調査文書の一部を公開したわけだ。それにしてもまあ、ファイルがでかい。X−ファイルはPDF形式だったとは知らなんだが、UFOに関する文書など5MB〜6MB級のものが十六個もある。全部ダウンロードするのはかなりたいへんだ。週末にでもテレホーダイ時間にちびちび落とすか。京都iNETは定額で使い放題だからタダみたいなもんだ。おれは超常現象の研究家ではないので、ダウンロードしたって丁寧に読んでいる暇などない。だけど、タダでほんものが読めるのは魅力である。誰かがSFの素材に使うやもしれず、資料として入手はしておきたくなる。まあ、ほんものったって、アメリカ政府が宇宙人と裏取引きしている証拠とかは書いてありそうにないが……。もの好きでお暇な方は、FBIの Electronic Reading Room にある Unusual Phenomena へどうぞ。しかし、Unusual Phenomena などと堅苦しい言葉を使っているくせに、ファイル名が「ufo.htm」なのは笑える。こういう茶目っ気がアメリカの役所のいいところですな。「私らは納税者のために日夜こんな仕事をしておるのです」と積極的にアピールせんと、たちまち税金泥棒呼ばわりされかねないのだろう。公開していないということは、すなわち、疚しいところがあるのだという論理が納税者側にも定着している。これはおれたち日本の納税者も見習わねばならん考えかただよね。

【6月27日(土)】
▼郵便受けにオウム真理教のチラシが入っていたと、母が気味悪そうに持ってくる。げらげら笑いながら読む。面白いので、ちょっとキャッチコピーを引用してみよう。
 「時とともに進行するオウム裁判。しかし彼らは信仰を捨てはしない」――そうかあ? 信教の自由があるからべつに強制はしないが、そんな愚にもつかない信仰はさっさと捨てたほうが、世間の人もさすが君らは賢いと褒めてくれると思うぞ。おれは、林郁夫知能が低いとさんざんにこき下ろした(98年5月26日29日)が、いつまでもインチキに騙されつづけている君らよりは、彼のほうがずっと知能が高いぜ。何度でも言ってやろう。君らはたしかに、真理を求める純粋な気持ちを持っているのやもしれんが、いくら気持ちが純粋でも人格が高潔でも、まことに残念なことに知能が低い。信仰を捨てた卑怯者の林郁夫よりも、はるかに知能が低いと推察される。どのくらい低いかというと、信仰心などかけらもないおれよりも低いにちがいない。べつに知能が低いことは悪いことではないから、少なくともおれくらいの知能があるなら、さっさとこっちへ帰ってこい。君ら、真理がどうのと口あたりのよい言葉でその気にさせられているが、悪徳商法に騙される人々といささかもちがいはしない。「悪徳商法マニアックス」でも読んで、真理に目覚めるがよいぞ。
 チラシにいわく、「なぜ彼らはオウムを続けているのか?」――そんなこともわからんのか? なんの学もない婆さんにすぎないおれの母親ですら、一発で見破ったぞ。「そら、かっこわるいさかい、いまさらやめられへんのや。あほや」 ほかになんの理由もあるまい。どうやら、おれの母は思ったより知能が高いようだ。いや、こんなこともわからんやつの知能が低すぎるのであろう。何度も言うように、知能の高低は身長の高低と同じ立派な個性であって、知能が低いからといって悪いわけではないのだが、おれ程度に高い知能の持ち主は、いまだにオウムを続けているような知能の低い君らをついつい哀れみの目で見てしまう。これは傲慢なことであり、慎むべきことだ。君らはべつに悪人なのではない。むしろ、おれなどよりよっぽど純粋な善人だ。ただ、悲しむべきことに知能が低いため、騙されているのがわからないのである。ほかの点では立派な若者なのかもしれないのだが、唯一、呪われたように知能だけは低いのだ。天は二物を与えぬものなのであろう。
 まあ、知能が低いからといって、悲観することはない。君らはインチキがわからない程度に知能が低いだけですんでいるが、インチキだと知りつつ「かっこわるいさかい」信仰を捨てていないかのように見せかけねばならないほどにさらに知能の低い連中だっているのだ。安心するがよい。少なくとも、君らは彼らよりは知能が高い。まだまだ、こっちへ戻ってきてもなにかの役には立つだろう。君らには、カート・ヴォネガットが生んだ偉大なるSF作家、キルゴア・トラウト《キルゴアの教義》を贈ろう――「あなたは病気だったが、もう元気になって、これからやる仕事がある」(『タイムクエイク』浅倉久志訳、早川書房)
 もう、うちにチラシなんか入れるんじゃないぞ。

【6月26日(金)】
▼例によって、終末、じゃない、週末の間食を会社の帰りにコンビニで買っていると、『もののけ姫』(監督/宮崎駿、制作/スタジオ ジブリ)のビデオが今日発売になっていて、思わず買う。コンビニのおっさんいわく(最近、あの高野史緒さんそっくりのコがいないのだ。辞めたのだろうか)、「いやあもう、私ら、こういうので食ってるようなもんですよ」 まあ、コンビニで売るものとしては値が張るほうだしね。最近、この店は酒を売り出したうえに、音楽CDやゲームソフトも売りはじめたばかりだ。ソフトどころか、プレイステーションの本体だって売っている。もちろん、井上雅彦監修の《異形コレクション》シリーズ(廣済堂出版)だって、ちゃんとフランス書院文庫の隣に並んでいる。もう、コンビニで絶対に売っていないものを挙げるほうが難しいくらいだ。
 おっさんが言うには、「コンビニでこういうもの(ビデオや本や酒など)を買わはるのは、帰りの遅い人やね。そういう人には重宝がられてますわ」 そりゃまあ、そうだろう。だいたい、ふつうのサラリーマンがちょっと残業すると、帰りにはもう本屋やビデオ屋は開いていない。東京の人には信じられないかもしれないが、地方の本屋は青山ブックセンターみたいなところばかりじゃないのだ。してみると、コンビニや通販は、時間に囚われずにものが買えるという点で、文化から切り離されがちなサラリーマンにとっての大いなる福音なのにちがいない。
 そういえば、ずいぶん長いあいだ生の舞台で芝居を観ていない。学生のころなどは、財布と相談しながらけっこう芝居を観に行った(一応、専攻だということになっている)ものだ。イギリスの劇団がハロルド・ピンター『背信』Betrayal をやるというので、ドイツ語の授業を早引けしてわざわざ奈良まで出かけていったこともある。それが会社員になってからというもの、五、六回しか行ったことがない。よく言われることだが、日本でふつうの勤め人が芝居や映画を平日に観ようとすると、これがじつにたいへんなのである。まず、残業せずに定時に会社を飛び出すとする。劇場に着くころにはもう開演も迫っていて、ゆっくりと晩飯を食うこともできない。終わったら終わったで、今度は交通機関がなくなりかけていて、芝居の話をしながらゆっくりとお茶でも飲んで語らうこともできない。このあたりの余裕がイギリスなどでは全然ちがうのだそうである。つまるところ、日本では、堅気の大人が平日に芝居など観てはいけないことになっているのだとしか思えない。結局、存分に藝術に触れられるのは、金も時間もあるお子様だけということになり、お子様文化がいちばん大きな顔をする。提供者のほうだって、三十代、四十代、五十代のふつうの勤め人にこそ、観てほしい芝居や映画、読んでほしい本があるはずである。そのあたりのことを改善せずして、個人消費を増やしましょうもないものだと思うがどうか。だいたい、文化なんてものは、「ああ、これは文化だ」だなどと襟を正して触れるものではない。帰りの電車で網棚から拾ったスポーツ紙を読むように触れられるものこそが、真にその社会の文化の名に値する。専門家だけが触れられるものが文化なのだったら、それは定義上の矛盾である。「よう、いまから芝居でも観にいこうや」「いいすね。で、帰りにどこかで一杯」みたいなノリで、テネシー・ウィリアムズやら近松やら別役実やらを観られたら、どんなにいいだろう。経済効果だって大きいと思うぞ。橋本さん、しゃちこばってばかりいないで、こういう側面でもものを考えてもらえませんかね?
 さて、しかし、今日買ってきた『もののけ姫』はいつ観よう。まだ先週の『カウボーイビバップ』も観てないぞ。

【6月25日(木)】
▼このところパソコンの話題ばかりで、興味のない方々には退屈かもしれないが、まだ続く。「この日記の読者は、少なくともインターネットを使っているんだから、パソコンにまったく興味のない人はいないだろう」とおっしゃる人もいるかもしれないけれども、おれにはそうとは思えない。うまい米を食うことに興味がある人が、炊飯器に興味を持っているとはかぎらないではないか。むしろ、炊飯器のことを意識しながら米を食わねばならないほうが異常な状態と言える。「友だちに設定してもらってインターネットを楽しんでいるけど、パソコンは全然わからない」という人からだって、けっこうメールが来たりはするのだ。
 さて、ひととおりの環境設定がすんだので、コンピュータ・ウィルス対策にワクチンソフトを買ってきてインストールした。たいていのことはフリーソフトとシェアウェアですませてしまうおれも、こればかりは市販のものを買わざるを得ない。ワクチンソフトってのは、買ったままで放って置いたら、早晩、なんの役にも立たなくなってしまう。人類の叡知(?)は日夜新しいウィルスを開発するので、それに対抗するための新しいデータを頻繁にワクチンソフトに入れてやらなければならないのだ。ワクチンソフトってのは、商品を買うのではなく、そのあとの継続的なサポートを買うという体のものである。さしものフリーソフトやシェアウェアの作者たちも、こんなサポートはしていられない。ウィルス開発者たちとイタチごっこを続けてゆくには、どうしたって組織的な取り組みが必要だ。おれにとってけっして安くはないが、保険にでも入るつもりで市販のソフトを買った。それでも、やられるときにはやられるのだが、確率は下げられる。損な買いものではない。
 腹立たしいのは、こんなものを買っても、おれにとってなにもプラスの価値は生まれないことである。マイナスを減らすという意味しかない。どこのどいつがウィルスなんぞ作って喜んでいるのかしらんが、迷惑なことおびただしい。だが、パソコンを使っているかぎり、どれほど細心の注意を払っているつもりでも、絶対にウィルスに感染しないなどということはあり得ない。通信をやってればなおさらだ。ウィルスの開発テクニックも日進月歩であり、自分はわかっている、ワクチンなんかなくても運用で自衛できるという慢心は禁物だ。
 最近はパソコンを買うと、おまけとしてワクチンソフトが形だけは入っていることが多いが、初心者の方々にご注意申し上げておくと、そのままなにもせず使い続けていては、すぐに効きめが激減する。ウィルスにも流行り廃りがあり、大むかしに流行ったものの最近ではほとんど見ないウィルスしか発見できないようなワクチンでは、ものの役には立たないのだ。きちんと正式ユーザになって、新しいウィルスのデータをソフトメーカから継続的に入手なさることをお薦めする。フロッピィで送ってくれたりするサービスもあるけれども、メーカのウェブサイトやFTPサイト、BBSなどからダウンロードできるようになっているのがふつうだ。どこの製品でも表向きのスペックにはさほど大きなちがいはないが(おれはおれなりの意見はあるけれども……)、ネットワーク・アソシエイツ(旧マカフィー)の「VirusScan」トレンドマイクロ「ウイルスバスター」シマンテック「Norton AntiVirus」の三大人気商品あたりであれば、かなり強力な防護(絶対安全なんてものは、この世にはない)になるだろう。これまた初心者には不親切なことに、ウィルスを発見するための“手配書”に相当するデータが入っているファイルを、ネットワーク・アソシエイツは「ウイルスDATファイル」と呼び、トレンドマイクロは「パターンファイル」と呼び、シマンテックは「ウィルス定義ファイル」と呼ぶ。ネットワーク・アソシエイツとトレンドマイクロは“ウイルス”と表記するが、シマンテックは“ウィルス”を使う。どーでもいいんだけど、商売柄(どっちのだ?)気になるものでねえ。アメリカの宇宙飛行士はアストロノートで、ロシア(旧ソ連)のそれがコスモノートであるのと同じような些細なこだわりがあるのであろう。ちなみに、「SFマガジン」“ウイルス”にすることにしているそうである。
 え? おれはなにを使ってるかって? そういう情報はあまり公の場では言いふらさないほうがよい。なぜなら、ワクチンソフトにも得手不得手があり、どこの製品を使っているかという情報は、意図的な攻撃者にとって有益なものとなってしまうおそれがあるからだ。だから、おれがどの製品を使っているかは、国防上の機密なのである。まあ、パソコンやソフトにかぎらず、おれが(個人としては(笑))どういうスタンスの会社のどんな製品を好むかという手がかりは、この日記を続けてお読みの方々にはとっくにばれてしまっているから、容易に推測がつくであろうけれどもね。
 まあ、なにはともあれ、自分の身は自分で守らねばならない。締切直前にウィルスにシステムを破壊されたら洒落にならんからね。ところで、早川書房さん、東京創元社さん、ソニーネットワークコミュニケーションさん、NIFTY-Serve さん(ってのは、おれの目下の取引先だが)、ウィルス対策はちゃんとなさってますか? やっとのことで集まった原稿が、ハードディスクごとウィルスにふっ飛ばされたら洒落になりませんですよ。

【6月24日(水)】
野田昌宏大元帥が講師をなさるNHK人間大学「宇宙を空想してきた人々」(1998年7月〜9月期)のテキストを買う。喫茶店で昼飯を食いながら、三回分ほど読んだ。こんなものがたったの530円+税だとは、なんというお得な買いものだろう。テレビを見るつもりの人も見るつもりでない人も、このテキストだけは買っておいたほうがいいよ。
 この人間大学のテキストって、興味をそそられるものしか見たことはないが、存外によくできてるんだよね。下手な大学の先生の講義を受けるより、よっぽど安上がりで、ためになるかもしれない。なにせ“大学”なんだから、「こんな面白い世界がある」というアウトラインと、“学生”が自分で掘り下げたくなるような核になるものを与えてくれれば、それでいいわけだ。なんでも、どこぞの大学で“ノートの取りかた”など、要するに“勉強のしかた”とやらを教える講座が正式にあるのだというが、バカも休みやすみ言え。勉強のしかたがわからないやつが大学なんか行くな。大学側も大学側で情けない。そんな阿呆どものために手取り足取りの講座なんか作るなよ。ついてこられないやつは、どんどん落第させろ。そもそも勉強するということの前提がどうかしているそんな学生が、まかりまちがって医者だの弁護士だの高度な専門職に就きでもしたら、患者やクライアントが迷惑する。ほんとに勉強したいやつは、方法なんか自分で痛い目に会って体得してゆくにちがいないし、テレビ観ようがラジオ聴こうが図書館に通おうがネットサーフィンしようが、大学で「はい、知識をあげるから、あ〜んして」などと甘やかされて、口開けて待ってるだけのカシコく阿呆なお子様なんぞが想像だにしないことを貪欲に学んでしまうものなのだろうよ。

【6月23日(火)】
▼またまた新しい(といっても、おれにとってだが)“視覚障害者誘導ブロック”を見つけた。突起が六個の列が三行、五個の列が三行という妙なものである。つまり突起が三十三個しかないわけで、ひとつひとつの突起がやたらでかい。これからほかにどんなものに遭遇するか、じつに楽しみである。
▼原稿を書いていると、慣れないキーボードに指がコントロール・キーを捜してうろうろする。コントロール・キーを使うたびにキーボードを見ながら打っていたのでは、思考の流れが中断してしまう。さっさとなんとかせねば。IBM106系のキーボードでおれがいちばん気に入らないのは、コントロール・キーとCAPSキーの位置である。おれは人一倍小指が長いため、こればかりは慣れで解決できる問題ではないのだ。以前使っていたキー割り当て入れ替えソフトを試してみるも、やっぱり Windows95 では動かない。そこで NIFTY-Serve を探索し、Windows95 用のキー割り当て入れ替えシェアウェアをあっさり発見。福村幸広さんという方が開発なさった「KEYLAY」というソフトだ。インストールして文章を書いてみると、たいへん具合がよい。設定の操作性も抜群だ。もう少し使って不具合が出ないか見てから金を払おうと思ったが、じつによくできているうえ、きちんとヴァージョン・アップを繰り返しているソフトのようだから、とっとと NIFTY-Serve の送金代行サービスで送金してしまう。おれをフラストレーションから救ってくれるのなら千円は安い。送金代行サービスに繋いだついでと言ってはなんだが、ダウンロードしておいた大原まり子さんのシェアウェアPDF本「インターネット・ものかき日記」(「スタジオKEI/MARI PDF出版局」制作)も買い、ちょっとだけ読む。一度は読んでいる日記なのだが、改めて縦書きの書物としてまとまったPDF版を読むと、また新鮮なものがある。なんだかおれもPDF本が作りたくなってきたなあ。
 以前のWX2+辞書の登録語も、とりあえずMS−IMEにぶち込めた。長文を書きはじめるとMS−IMEはまだまだバカだが、当面はいたしかたない。これで以前のパソコンの入力環境は、ほぼ再現されたぞ。快適、快適。あとはパソ通のチャット環境の構築だが、これはもっと時間のあるときにやるとして、さて、SFオンラインの追い込みにかかるか。
▼パソコンに向かっていると、けっこう大きな地震がきた。こういうとき、立ち上がりながら咄嗟にパソコンの蓋を閉めてサスペンド状態にしてしまうのは、おれだけの癖だろうか。開きっぱなしより、なんとなくこのほうが安心じゃないか。

【6月22日(月)】
▼ああもう、フラストレーションが溜まるなあ。新しいパソコンの日本語入力システムの辞書がまだ処女なので、おれの指先に思うように反応してくれないのである。とにかく文章を打ちまくって、おれ好みに調教してゆくしかないわなあ。
 いままでもいろんな日本語入力システムを使ったが、中でも苛立たしいのは、新しいうちはなんでもかんでも漢字に変換してしまうやつ。気をつけて気長に教え込んでゆかないと、ワープロ病の典型みたいな文章ができあがる。いくら教えても、ちょっと連文節変換をすると、たちまち勝手に判断して漢字を多用してしまいやがるものもあった。あんまり腹が立つので、わざわざ“ひらがな”の文字列を辞書に登録していたものだ。あれに比べれば、Windows95 のMS−IMEは、ずいぶんと賢くなったもんだ。
 おれの文章ですら、最近の若者向けの小説などに比べるとまだまだ漢字が多いほうだ。いっそひらがなに開いてしまおうかと、その都度迷う言葉がけっこうある。たとえば、“そのつど”とか(笑)。あんまりすかすかのひらがなばかりではこれまたよみにくいにちがいなくていどもんだいではあるのだが。見た目に快い漢字とひらがなの比率は人によってちがうから、自分のポリシーを持つことが肝要だろう。もっとも、この日記にしたって、ある箇所では漢字で書いているものを、別の箇所ではひらがなで書いているところが少なからずあるはずで、あまり大きなことは言えない。また、「おれはこの言葉はひらがな(漢字)で書く」と厳格に決めている人があるかと思えば、その都度の字面の美しさをいちいち考えて、同じ言葉を一本の作品の中で漢字で書いたりひらがなで書いたりする人もいる(坂口安吾とか)。いずれにせよ、野放図になってはいかんということだろうな。「自分はこう書くことにしている」という意識が薄い(あるいは、そういう意識をまったく欠く)人は、ワープロに容易に振り回される。読者に、「あ、この人、日本語FEPを変えたな」などと見透かされるほど、かっこわるいことはない。
 日本語の面白いところは、どんな文章でもタイポグラフィーであることだ。漢字を読点代わりに用いることで、実際の読点をほとんど使わずにきわめて読みやすい文章を書いてみせる最近の筒井康隆『邪眼鳥』なんかすごいよね)などは、タイポグラフィーとしての日本語表記の実験をさんざんやりまくった過去をみな知っているだけに、一朝一夕に真似できそうにない凄みがある。
 ホームページで難しいのはルビだよなあ(やってやれないことはないが、誰もがちゃんと表示される環境で見ているとはかぎらない)。ルビのタイポグラフィカルな効果ってのは面白いよね。漢字とルビとを脳のちがうところで同時に認識しているかのような(実際、そうらしいが)奇妙な快感がある。あれは日本語でしかできまい。“黒丸ロマンサー”ルビなんか、一度は真似してみたいかっちょよさだし、編集者・写植者泣かせの“秋津ルビ”なんてのもある。秋津透さんのは、独特のコミカルな感じがあって、あれも容易に真似できそうにない。掟破りの“冒険ルビ”(なんて知らないかなあ)を開発する余地は、まだまだありそうだ。
 おれは「はやる」「流行る」と書くけれど、「みつめる」「凝視る」「凝視める」吉行理恵などが使う。詩人系の人はこういうの好きなのかな)などと書くのには抵抗がある。でも、独特の味があるよねえ。いっそ、この伝の当て字を使いまくって、訓読みを考えるのに四苦八苦する難読実験小説を書いてみたら面白いかも。書くほうも最初から訓読みを当てていなかったりしてね。これを極めれば、読者はついに頭の中で文字を音声化することを諦め、漢字の表意文字としての側面が増幅されることになるだろう(どうも最近の若い読者には、そういうふうに読むのがあたりまえだという感覚の持ち主が多いような気がしている)。まるで、中国語を知らない人が中国の書物を眺めて、なあ〜んとなく意味がわかった気になるような不思議な感じが出せるのではなかろうか。どなたか書いてみませんか? 待てよ。漢字をあまり知らない読者が、漢字の多い小説を読む場合、自動的にそういう読みかたをしているはずだよな。読者層を見きわめて、それを逆手に取ったのが“秋津ルビ”なのかもしれない。

【6月21日(日)】
▼まだ完全に新しいパソコンに慣れたわけではないが、SFオンラインの原稿に取りかからなければならない。キータッチそのものはたいへん快適だ。とりあえずインターネット環境は構築したが、パソコン通信環境はまだ細かい設定などが終わっていないから、NIFTY-Serveにメールをくださった方には、ちょっとお返事が遅れるかもしれません。ご了承ください。
 キーボードを叩く音がいままでに比べて格段に小さくなった。なのに、快いたしかなクリック感がある。じつに快適なキータッチだ。おれはノートパソコンしか買ったことがないから、キーボードにはこだわるのである。ここで初めてメーカ名を出すわけだが、AT互換機ノートはなんたってソーテックですよ。二台にわたってソーテックを使っているが、老朽化によらない重篤な不具合が起こったことなど一度もない。今度の WinBook Eagle 266MTX で三台めだ。いままでちょっとした質問があって電話したときなども、サポートがたいへん丁寧であった(まあ、これはどのメーカでも、担当者の当たりはずれがあるけどね)。きわめて地味なメーカだが、その製品には細かいところに職人的こだわりがあるのが使い込んでゆくとわかる。デザインもおれの好みだ。たいへん人気のあるF社やN社やI社やSH社やSO社のノートパソコンが悪いわけではない。じっくり使ってみないとわからないよさや悪さもあるから、そうそう表面的なイメージやスペックだけで迂闊なことは言えないのだ。だが、実機を置いてもらえる店さえ地方ではきわめて少なく、雑誌にもそれほど頻繁に出ているわけでもなく、販路や宣伝力において上記の華々しいメーカに圧倒的に劣るソーテックは、運よくユーザになった人が悪口を言っているのを聞いたことがないのである。なんとなく、「わかる人だけ買うとくれやす」などという老舗の漬物屋や和菓子屋のような趣がある。運悪く製品のトラブルに見舞われた人でさえ、ソーテックをけちょんけちょんに貶したりはしないのだ。使い倒してみて、さもありなんとおれも思う。ほんとにマシンが好きな人が作ってるなという感じがする。まあ、どこのメーカだってマシンが好きな人が作ってるんだろうけど、そういう人の意見が製品にスムーズに反映されているな、と思わせるものがあるのだ。要するに、渋い
 初めてソーテックのノートを買うとき、パソコン・ショップで目移りして、いかにも自分の仕事が好きそうなパソコン・ショップのおたくな兄ちゃんにいろいろ探りを入れたのだが、ねちねちと質問するおれに、彼は本来いちばんに薦めなければならないはずの大メーカの量産機を差し置いて、とうとう仕事を離れた打ち明け口調で、まるでおれが犯罪の共犯者ででもあるかのように囁いた。「正直言うて、こっちのほうがよろしいですよ。サポートもええしね」 どうやらおれはパソコンおたくと勘ちがいされたらしい。「あんたをおたくと見込んで言うのだが……」みたいな感じだったからね。おたくはおたくでも、そっちのおたくじゃないんだけども。ソーテックなんて、そのころは名前を聞いたことがあるという程度だったが、見たところスペックにもさほど不満はないし、ちょっと長い文章を打ってみたら展示機の中ではいちばんキータッチがよかったので、おたくな兄ちゃんを信用することにした。おれはこの兄ちゃんにいまでも感謝している。
 なんだかベタ褒めしてしまったが、おれはパソコンライターじゃないから、ソーテックさんと利害関係は一切ないよ(むしろ、昼の仕事では敵対関係すらないとは言えない)。三台も買ったユーザとしての正直な感想だ。もっとも、おれが気に入っているからといって、ソーテックさんには悪いが、広く万人にお薦めしたりはしない。一般に、ノートパソコンのほうがデスクトップ・パソコンより使いこなすのに知識を必要とするから、初めてパソコンを買うような人はデスクトップのほうがいいし、ノートを買うにしても、多くのお友だちが持っている無難な機種がよろしかろう。そこそこパソコン歴があって、「このメーカの買ってミスったなあ」などとちょっと後悔した経験のある方々になら、検討対象に入れる価値のあるメーカだとおれは断言する。ただし、ノートにかぎる。ソーテックのことだから、近年出しはじめたデスクトップもいいものにちがいないとは思うのだが、自分が使ったことのないもののよし悪しを判断することはできない。ま、おれの判官贔屓を差し引いても、とにかくいいもの作ってますよ、ここは。露出が高いメーカが、すなわちいいメーカだとはかぎらないのだ。


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