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98年5月下旬 |
【5月30日(土)】
▼先日JRの電車に乗っていたとき(なんて書き出しの日記があるものか)、思わず笑ってしまった。ほら、私鉄もたくさん走っている土地だと「JRなんとか」って名前の駅があったりするでしょう。でもって、駅名表示板には「じぇいあーるなんとか」と、必ずひらがなでも表記してある。あれが見れば見るほど面白い。だいたい、日常生活で「あーる」などという文字の組み合わせを目にすることはほとんどない。だものだから、自分の唯一知っている例をすぐ想起することになる。ね? そこのあなた、想起したでしょう(笑)。
▼わはははは、今日の『ウルトラマンダイナ』(TBS系)、「怪獣戯曲」(脚本/村井さだゆき)は、なかなかヘンテコで面白い。怪獣というものの意味をブレヒト流に問いながら遊んでみたといった脚本だ。寺山修司へのちょっとあざといオマージュがあったり、怪獣を作る錬金術のレシピに『華氏451』が出てきたりと小ネタでも遊んでいる。「どーせブラック・ジャックが治すんでしょ?」と、手塚治虫が当該作中で自己言及的批判に及んだように、毎回怪獣が現われてはウルトラマンが倒すというパターンへの疑問と苛立ちを、ほかならぬそのパターンの中で表現してみせた面白い試みだ。それにしても、演劇的異化効果の権化のような現われかたをする“マグリット風に”造形された怪獣ブンダーが、wunderbar, wunderbar とドイツ語で哭きながら演劇空間たる“町”でドリルをサイのように突き出して暴れるなんてのは、素敵にふざけている。演劇論のおさらいをしているようで、おれは大笑いしながら観た。「こんなの子供が観て面白いのかな」と思ってはいけないのだ。洒落がわかるわからないはべつとして、子供が「なんじゃ、こりゃあ!」と岡本太郎のように思ったら、それで大成功なのである。おれが子供のころに観たウルトラ・シリーズも、いつものパターンを捻ったものほど印象に残っているものだ。でも、こんなのを毎週やったらちっとも異化にならないので、シリーズ中、一、二作にしておくつもりだろうな。
【5月29日(金)】
▼おれが98年5月26日の日記で、「医者になるほどの知能を持つはずの立派な成人が自分の意志でインチキ宗教の信者になったことの愚かさを軽視しすぎではないか?」と書いたことについて、看護婦のナース知世(馬から落馬しているが、この“ナース”はペンネームの一部だと解釈しているもので)さんが、「医者になるほどの知能とインチキ宗教に惑わされる愚かしさに関係があるのだろうか。私にはあるとは思えない」(98年5月27日の「怠惰な日々」)と、ご意見を述べておられる。おれ宛の公開書簡形式で書いておられるから、おれも公の場でお答えすることにしよう。
まず、“医者にもバカはいる”という自明の事実については、おれも知世さんと認識を同じゅうするところである。おれの書きかたに医者を特別視しているかのように受け取られる隙があったことは不覚であったと反省するが、おれが“医者になるほどの知能を持つ立派な成人”と書かずに、敢えて“医者になるほどの知能を持つはずの立派な成人”と口幅ったい表現をしているところに、知世さんと同じ事実認識を裏返しに言おうとしている意図をお汲み取りいただきたい。おれの考えと知世さんのそれとのちがいは、“知能”という言葉の捉えかたの差である。「医者になるほどの知能とインチキ宗教に惑わされる愚かしさに関係があるのだろうか。私にはあるとは思えない」と知世さんがおっしゃる際の“知能”とは、たとえば、難関とされている医学部の入学試験や医師免許を取るための国家試験に合格する能力という意味だと思う。一方おれは、インチキ宗教などに対する批判力も含めて“知能”と言っている。はっきり言えば、おれは空中浮揚だのなんだのを無批判に受け入れる程度の知能しか持たない人間が医者になるべきではないと思っているのだ。そんなやつにおれの身体をいじくりまわされてはたまらない。しかし、事実として、林郁夫は医者になることができている。よって、どうやら知能に不自由な人が医者になれるようなシステムが容認されているのが現状であるらしく、これは困ったことですね――と、おれは言いたかったわけなのだ。
医者が職業的要請として持っているべき知能と、インチキ宗教に惑わされるかどうかには、おれは関係があると思うし、あるべきだと思う。「なにやらドイツのほうで短肢症児が生まれていて、サリドマイドと関係があるらしいと巷の大衆向け週刊誌にすら書かれているが、“厚生省真理教教団本部”のほうからはなにも言ってこないんだから、処方したって大丈夫だろう」(おれの母は事実そのころ、おれを妊娠中にサリドマイドを処方された)とか、「エラい安部先生が大丈夫だとおっしゃるんだから、非加熱血漿製剤は大丈夫なのだ」とか、空中浮揚を鵜呑みにするように鵜呑みにされては困るのである。“はっきりと黒でないかぎり、どれほど灰色でもそれは白である”という妙な教義を、現場の医者までがことごとく信仰していたとしたら、患者はたまったものではない。みずからの情報収集と知識と経験と科学的懐疑精神で、「この薬(術式、治療法)の安全性はどうも疑わしい。疑わしきは避けたほうがよかろう」と官僚に先駆けて判断した立派な医師たちに救われた人々も少なくないはずだ。いや、そっちのほうが多いだろう。医者だって人間だから、弱いことも愚かなこともあるに決まっている。医者を特別視するなというご意見には全面的に賛成だ。だが、宗教も特別視するべきではない。患者の曖昧な訴えを鵜呑みにせず真の病変を見抜く洞察力や批判力のスイッチが、ことインチキ宗教にかけては切れたままになってしまうのだとしたら、結局のところ、その医者は“知能が低い”とおれは表現する。
誤解なさらないでほしいのだが、ここでおれは、知能が低いことが悪いなどと無茶を言っているわけではけっしてない。知能が高かったり低かったりするのは、身長が高かったり低かったりするのといささかも変わることのない立派な個性である。ただし、ともすると個性が他人に迷惑をかけるシチュエーションもたしかにあり、いい歳をして自分の個性に自覚のない人には、ひとこともの申すこともないではない。身長1メートル90センチはあろうかという大人が、劇場などでうしろの観客になんの気遣いも見せないとしたら、そいつは幼稚だ。池乃めだかがジャイアント馬場の車を借りてシートの調節もせずに運転し、咄嗟にブレーキを力いっぱい踏めず事故を起こしたとしたら、それはめだかが悪い(池乃めだか氏に於かれては、こういう文脈で勝手に引き合いに出すことをご寛恕ください)。職業選択の自由は基本的に保証されるべきだが、公共の福祉も無視されてはならないだろう。ナルコレプシーと診断されている人が長距離トラックの運転手になるべきではないのと同様、(おれの言う意味で)知能の低い人は医者になるべきではない。そういう人はそういう人で、自分の個性を活かせる職業はほかにたくさんあるはずだ。おれが林郁夫を許せないのは、いい大人のくせに自分の“知能”がどの程度であるかの自覚を欠いたまま医師になってインチキ宗教に自分の意志で入信したうえ、医師であることをインチキ宗教の箔付けに利用され信者の獲得に一役買ったばかりか、教団内では尊敬を集めてそれなりにいい思いをしながら、知能不相応に得た専門知識を悪用したからである。空手の達人が恐喝に拳を使うようなものだ。
――というのが、おれの考えなのだが、必ずしもご賛同はなさらないにしても、ご理解はいただけただろうか? 「おれは気が短く喧嘩っ早いから、空手を習ったりすべきではない」という自覚を欠くのは罪か否か? ここらはたしかに意見の分かれるところではあるだろう。
いまちょうどカート・ヴォネガットの『タイムクエイク』(浅倉久志訳、早川書房)を読みはじめたところだが、ノーベル平和賞までもらった物理学者のアンドレイ・サハロフの妻が小児科医だったことについて、ヴォネガットは厭になるほど苦いことを書いている――「サハロフの妻は小児科医だった! 子供の病気を治す専門家と結婚しながら、水素爆弾を完成させることができるのは、どういう人間なのか? それほど頭のおかしい夫と連れそっていられるのは、どういう医者なのか?」
これを読んであなたはどう思われるだろう? サハロフにしても林郁夫にしても、みずからの意志で無能を演じる(たぶん有能な人間には非常に辛いことなのであろうが)ことだってできたはずだと思われるだろうか? それとも――?
【5月28日(木)】
▼ゲコゲコ大王さんの「全国かえる奉賛会」が指定銘菓に認定している名古屋みやげ「カエルまんじゅう」(青柳総本家)を初めて食う。パッケージや菓子の形がかわいいだけだろうと思っていたが、これがなかなかどうしてうまい。ひよこ饅頭より、おれは好きだ。箱に描いてあるカエルの顔の絵を切り取って「お面をつくろう!!」などと、蓋の裏に作りかたまで載せてある。もっとも、たくさん入っている大箱を買わないと、ふつうの大人の顔のサイズには合いそうにない(ふつうの大人がカエルのお面をかぶって喜ぶかどうかを問うてはならない)。このくらいの饅頭を作れる会社ならなにをやっても成功するだろうから、思い切ってゲーム業界に進出してはどうか。“落ちゲー”で大ヒットを飛ばせるかもしれないぞ。商品名は、もちろん「けろけろ」がいいだろう。
【5月27日(水)】
▼あららら、昨日の日記に誤変換がふたつもあった。“操作”はもちろん“捜査”だし、“狭義”は“教義”である。もっとも、改めてじっと見ていると、図らずも誤変換のままのほうがおれにとってはしっくり来ないわけでもないのだが、一応直しておきました。
▼二月末に締め切った第三回「○○と××くらいちがう大賞」でありますが、まことに申しわけのないことに、まだ選考を終えておりません。けっして忘れてしまっているわけではありませんので、いましばらくお待ちください。「もうやらないんですか?」とご心配のお便りも頂戴しておりまして、募集しておきながら三か月もお待たせしてしまい、ほんとうにすみません。第三回どころか、早くも第四回用のご応募作品もたくさんいただいているのです。愚かなことに三月、四月、五月とサラリーマンがバタバタする時期に重なってしまい、ゆとりをもってじっくりと選考に当たるまとまった時間がなかなか取れないのであります。もちろん怠慢もあるわけですが、六月中にはなんとかしたいと思っておりますので、なにとぞご寛恕くださいますようお願い申し上げます。
▼先日ちょっと手に取った『生と死の幻想』(鈴木光司、幻冬舎文庫)を読了。いやあ、意外だったというか、やはりそうかというか、これは面白いなあ。こう言うと目を剥く人もいるかもしれないが、少なくともおれの正直な実感では、鈴木光司は、いわゆる“純文学”の作品のほうがホラーよりずっと面白いや。適性的にはこっちに根っこがあるんだろうな。大森望さんの言う“SFを再発見しつつある作家”の意味が、ようやくはっきりとわかった。おれが、いわゆる“純文学”を“特殊主流文学”、その変換座標系をもより寛容な方法論で包含し得るSFなどを“一般主流文学”と勝手に呼んでおり、純文学とSF(をはじめとするエンタテインメントとしてのジャンル・フィクション)とのあいだに横たわるスペクトルを境目のないグラデーションとして捉えていることは、この日記の常連読者はご存じかと思う。『生と死の幻想』を読んでいると、鈴木光司もおれと同じような捉えかたをしているのではないかと心強く思えた。おれはジャンル・フィクションのお約束も楽しいものとして好むけれども、小説ってのはもっと“なんでもあり”のものであるはずだ。おれの言う“一般主流文学”とは、要するに“なんでもあり”のことである。ただし、“なんでもあり”ほど怖いものはなく、力量が伴わないとただのオナニーになってしまうから、読むに堪える“なんでもあり”を書ける才能のある作家は少ない。
文化人類学の概念に“文化のパラドックス”というやつがある。人間は任意の文化体系によっていったんは枷をはめられないと、それを相対化する視点を得ることができない、すなわち、自由になれないということだ。最初から“なんでもあり”にどっぷり浸かって育ったのでは、自由になるどころか、人間にすらなれないのだ。おれはこの“文化のパラドックス”を、フォーミュラ・フィクションと前衛文学を統合して語るための概念装置に使えないかと以前から思っているのだが、まだまだ未整理だ。ともあれ、どうやら鈴木光司は、小説に於ける“文化のパラドックス”を実作によって感得している作家であるらしい。つまり、その気になれば、拡散することなく、いくらでもめちゃくちゃができる人なのだろう。頼もしいな。
【5月26日(火)】
▼松田聖子が無期懲役――じゃなかった、オウム真理教の林郁夫に無期懲役の判決が下された。うーん、フクザツな心境だねえ、おれは。死刑にしろと言っているわけではない。おれは死刑が極刑だとは思ってないが、無期懲役ってのは軽すぎるんじゃないか。こんなもの、司法取引以外のなにものでもなかろう。
生きて償えという意味かもしれんが、それはすなわち林郁夫に課題を与えることであり、課題があるからには、それがいかに困難な課題であっても、生きているかぎりは、なにがしかの希望や、前進の喜びや、いくばくかの達成感すら伴うに決まっている。そんなしあわせをこの男に与えてよいのか? 捜査に協力的であったかなんかしらんが、医者になるほどの知能を持つはずの立派な成人が自分の意志でインチキ宗教の信者になったことの愚かさを軽視しすぎではないか? おれは基本的に宗教はみなインチキであると思っているが、インチキにも上下があって、インチキはインチキなりに他人に危害を加えないようにしつつ主観的には幸福な気持ちになれる(らしい)よくできたインチキだって存在する。おれ自身はそういうインチキに頼るのはまっぴら御免だが、インチキを必要とする人間がたくさんいるからには、プラグマティックな観点から社会の安定のために罪のないインチキを許容するのも、多様性を維持できてよろしいと思っている。それにしても、林郁夫がひっかかったインチキはあまりにもインチキであるから、おれはそもそもそんなものに入信したバカを許すことができない。迷える若者のために、基本的にインチキである宗教の中からとくにインチキなものを簡単に見破る方法を教えておいてあげよう。入信することによって君の優越感が満たされる、あるいは増幅されるような教義を持つものは、まずろくな宗教ではないと断言できる。詳しくは、「迷子から二番目の真実[33] 〜エリート〜」を熟読されたし。
かといって、死刑にするのは、あまりにも林郁夫にとってしあわせすぎる。礼拝堂で跪いているクローディアスの背後に「いまなら殺れる」と迫ったハムレットがはたと思いとどまり、チャンスをみすみす逃す場面が『ハムレット』にある。いま殺したら、こやつ、天国へ行ってしまうかもしれず、それでは泥棒に追い銭だというのがハムレットの論理だ。おれも林郁夫に対してそう思う。
では、彼に対する極刑はどういうものであるべきか? 難しい。非常に難しい。おれが考える極刑はあまりにSF的すぎ、現在の技術水準では執行できないのだ。SFにたまに出てくる“不死刑”ってのは怖いぞ。死刑の逆なんだが、どんなに苦しんでも絶対に死ねないような存在にしてしまう究極の刑罰である。あるいは、脳だけ取り出して生かし続け、本人にとってのトラウマや根源的恐怖を抉るような夢を永遠に見せ続けるなんてのもある。もっとも、こんなことをすればすぐに発狂してしまうだろうから、それではあまり刑罰にならない。タイムマシンがあれば、“こんな人間は存在しなかったことにしてしまう”という刑も可能だ。ただし、それだと被告がそんな刑を執行されるそもそもの原因がなくなってしまうから、解釈のしかたによってはタイム・パラドックスになる。
結局、林郁夫クラスの犯罪者に対する最も現実的な極刑は、こんなのになる――刑務所で模範囚として過ごし、もし出所できたら、こんなことをして償おう、あんなことをして償おうと、心の底から自分の生きる新たな意味を見出した林の前に、ある日看守が現われて無表情に言う。「十五分後に死刑を執行する」
じつは林に最初から予定されていた刑罰は、“無期懲役と判決しておいて、希望を見出しはじめたころに死刑にする”という新しい刑罰だったのだ。こんなことを考えるおれは残酷だろうか。しかし、林に殺された人々が執行された刑は、まさにこういうものではなかったのか?
【5月25日(月)】
▼帰宅してネットに繋ぐと、旭屋書店経営企画室という、なにやら畏れ多いところからメールが来ていてびっくり。旭屋書店さんのサイトの「おすすめウェブ」のコーナーからうちのサイトにリンクを張ったので、ご確認いただきたいとのこと。行ってみると、おれもよく知っている錚々たる書評ページの列に、もったいなくもおれのページを加えてくださっていた。たしかにうちには、多少なりとも希少価値はあるかもしれん未訳海外SF紹介などを置いてはいるが、書評コーナーはときどき思い出したように更新する程度で、もはや完全に日記がメインのコンテンツと化している。日本有数の大手書店にご紹介いただいたのではなんだか申しわけないが、とくに間歇日記も評価してくださっているようなので、なんとか申しわけが立つだろうとは思う。少なくとも、日記の更新だけはまめだ。
というわけで、旭屋書店のサイトからいらした方、ご期待なさっているような本のコンテンツが少なくてすみません。商業誌に書くときは肩書きがないと不便なもので、おこがましさに赤面しながら“レヴュアー”などと名告ってはおりますが、おれは読みたい本を読みたいように読んで、書きたいことを書きたいように書いているだけの単なるネット藝人にすぎませんから、小難しいことを考えずに呆れながら読んでくだされば、ご納得のゆく言説のひとつやふたつは見つかるやもしれません。じつは日記の中でもけっこう本の話題に触れておりますので、日記の目次からご興味のあるあたりを捜していただければ幸いであります。
▼アメリカぽてちの「PRINGLES」を最近けっこう食う。高いだけあってうまい。ぽてちの一枚一枚がやたら画一的な形をしているあたり、本来おれの思想に反するのであるが(笑)、なにもぽてちを思想で食うこともあるまい。とはいえ、どれもこれも同じ形をしている「PRINGLES」(ちなみに「チップ・スター」もそうだ)を食っていると、日本人としてなにやら共食いをしているかのような気持ちになるのは事実である。
活字人間の宿命とでも言おうか、おれは本以外のものでも、とにかく“読もう”としてしまう。身のまわりの事物であろうが、人間の言動であろうが、本を読むようにして認識しようとするのが習い性になってしまっているのだ。まったく、この世界は、おれにとって最も興味深い“本”にほかならない。
むかし、ある女性に「あなたって、あたしのことも本を読むように読んでるのね」と言われたときにはさすがにどきりとしたが、まったく否定できないどころか、この女はなんと頭のいいやつだと惚れ直したものだ。おれという人間の本質を余すところなくシンプルな言葉で表現し得ている。驚くべき洞察力だ。もちろん彼女は「私は本ではない。女だ、人間だ」とおれをなじっているわけであるが、おれに本扱いされているように感じるということは、すなわち、最上級の愛情と関心を払われているのにほかならず、喜ばれこそすれ、なじられるのはさっぱりわけがわからない(理解はしているのだが、主観的には実感できない)――なあんて心理が正常な人間に通じるはずがないともよーくわかってはいるんだが、おれはまず自分の実感に正直でありたいのである。うーん、おれのこんな気持ちがわかる人っているだろうか。この日記の読者にはけっこういそうな気がするぞ。
【5月24日(日)】
▼話題の『カウボーイビバップ』、アニメ環境の悪い京都では、毎週日曜日の十二時から三十分、京都テレビがほぼ週遅れで放映している。この作品、ドラマ作り自体は非常にオーソドックスなパターンを微妙に捻ってリミックスしているだけだが、一話完結を三十分でビシッと決めるしっかりした脚本になっているのが心地よい。宇宙を舞台にする必然性があるかどうかはともかく、文句なしに安心して観ていられるプロの仕事になっている。ちょっとした物理現象、宇宙船のメカ、銃器の動きなどにほとんど不自然さが感じられない。もちろん、しょせん地上波テレビ番組(というと失礼かもしれないが)の制約の中でやってるからには、涙を呑んで細部のこだわりを省略している部分はあるにちがいないけれども、どんな番組にもあるそうした粗の部分を目立たせず、また、それをぶっ飛ばす“雰囲気”を醸し出すことに成功している。不信の停止を心地よく維持させてくれる藝が伴っていれば、ご都合主義も大いにけっこうなものだ。何話か観ているうちに、なんとはなしに“古畑任三郎”を連想した。三谷幸喜を思わせる職人的ウェルメイド性のゆえであろうか。いいね、これ……うん、いいよ。
願わくば、どんなに人気が出たとしても、予定の本数を終えたらすっぱり打ち切り、以後、品質をキープできる本数の新作をコツコツ作っては、ときたま思い出したように放映してほしいものだ。せっかく良質の作品が出現しても、ちょっと評判になると、金の卵を産む鵞鳥を骨までしゃぶるようにして消費し尽くし、あとには食べ散らかされたガラしか残らない――なんてことをやるのは無粋の極である。それは工業製品の扱いであって、文化の扱いではない。
にしても、日曜の昼ってのは、あまりにハズした放映時間じゃないすか、京都テレビさんよ。これは、一日の仕事に疲れた大人が、深夜に暗い部屋でグラス傾けながら「やってくれるじゃねーか」などと口元に微かな笑みを浮かべて観るべき“童話”だぜ。まあ、録画しておいてそういう観かたをすりゃいいんだけどね。
【5月23日(土)】
▼おれの経験から言えば、人間は歳を食ってくると、ふたつの種族に分かれてくる。“エロい族”と“モウロク族”である。H・G・ウェルズ(“ウエルズ”と表記するのがSF関係では一般的だが、とくに物言いがつかない場なら、おれは“ウェルズ”を好む)は、日本語を知っていたとしか思えない。どうしてもどちらかにならねばならんのなら、おれは“エロい族”になりたいものだが、“エロいモウロク族”というのもいないわけではなく、それはできれば避けたい。でも、こればっかりは努力でどうなるものでもないんだよなあ。
▼ときどき夜中におれの家のドアを殴りにくる酔っぱらいのおっさん(98年3月8日、3月17日参照)だが、自室で死んでいるのが発見されたらしい。腐敗がはじまっていたということだから、たぶん近所の人が臭いに気づいて警察に通報したのだろう。まあ、団地ではさほど珍しいことではない。というか、将来、おれにとってもひとごとではない。
おれは結婚しない主義である。気に入った相手がいれば、一時的、あるいは長期継続的に同棲はするかもしれない。どのみち近い将来、制度としての結婚など実質的には解体してしまうに決まっている。いまだって、法的手続きを取ったほうが単に“便利”であるというだけのことであり、純プラグマティックな観点から面倒を避けるために結婚している人が相当数いるものだ。結婚という法的手続きからなんの実利も得られないとすれば、わざわざ結婚するやつなど、ごく少数になることだろう。だいたい、男と女(あるいは、男と男、女と女、元男と男、元男と元男、元女と女、元女と元女、元男と元女)が好きで一緒に暮らしたり別れたりするだけのことに、国家になんの遠慮がいるものか。おれの考えかたを知っている知人にも結婚している人はたくさんいるが、「好きな人間と暮らすのはいいものだ」という点では概ね考えかたは一致するし、結婚制度は必ずしも必要でない、あるいは、必要悪だと考えている人も少なからずいて、結局、そんなに意見が対立することはないのだ。「人間が大むかしからやっていることなのだから、なんらかの知恵が集積されている制度なのだ」などとほざいて無知をさらけ出し説教をするやつもたまには現われるけれども、当人がそう思っていてしあわせなのであれば、なにもほんとうのことを教えてやって恨みを買うこともあるまいから適当に話をはぐらかすことにしている。別段、おれは田嶋陽子のような戦闘的フェミニストではない。じつのところ、人間が大むかしからこんな不自然なことをやっているわけがなく、みんながみんな一夫一婦でくっつくような現行の結婚制度は、女性に市場内労働をさせないようにするかぎりに於いては現行の資本制の発達に最も便利な手段だったからこそ、ごくごく最近メジャーになったにすぎない。たかだか百年や二百年程度のスパンで“大むかしから”などと言ってもらっては困るのである。それも、現行の資本制の変容にしたがって、然るべき再編を受けるのは当然のことだ。ただ、おれが生きているあいだには間にあわないかもしれず、おれは結婚しないことによって多大な不利益を被るであろう。その代わりと言っちゃなんだが、過渡期だからこそ、少数派であることによって得られるものも大きいと実感している。
一度、「結婚せんと親の世話がたいへんだぞ」とおれにほざいたおっさんがいたが、語るに落ちるとはこのことだ。つまり、この御仁には自分が手を汚して親の世話をするつもりは毛頭ないのである。貨幣を持って帰ってくるという得なほうの仕事に徹するつもりだ。その仕事は社会から評価され自己実現に繋がる機会にも開かれているが、手ずから老親の世話をしたとて誰が評価してくれるわけでもない。そもそも、この男の論理でゆけば、相手の女性の親は誰が世話するのだろう? 若い女性諸君、よく聴け。こういう男に捕まると、自分の親の世話をするうえに、他人の親の世話まで女中としてタダでやらされる羽目になるぞ。この男は少数派だろうか? それとも――? 時は満ちた。武器はそこにある。こういう奇妙な仕掛けを作った社会に、いまこそ静かに叛逆せよ。
おれは多様性が好きだから、とにかく「みんながやっている」という言葉を聞くと、まず眉に唾をつける根性が染み着いていてどうしようもない。よって、おれは結婚制度を滅ぼせと言っているわけではまったくないのだ。ただ、判で押したようにみんなが結婚しなくてはならないように見える(見せかけられる)社会が気に食わないだけだ。もっといろいろ生きかたのオプションがあったほうがよい。少なくとも、形骸化した家庭でお互いを憎み合いながら(あるいは、お互いを石ころのように扱いながら)制度を守るためだけに結婚している状態を続けている例などは、おれには人生の無駄遣いだとしか思えない。そんな家庭でろくな子供が育つはずがなく、さっさと状況を改善したほうが子供のためにもよほどよいにちがいない。多様性維持の観点からは、いかに時代が結婚制度に逆風を吹かせていても、結婚制度を滅びさせてはならないし、また、滅びてはしまわないだろう。二十一世紀にも、祇園祭や時代祭のように生き延びてゆくはずである。
また、きわめて短期的かつ地域的観点からすると、むしろいまは結婚を奨励したほうがよい。結婚・離婚に伴うあれこれや、結婚しているからこそできる結婚外恋愛(もうそろそろ“不倫”という言葉をやめてはどうかと思う。あまりにもあたりまえになりすぎて、むかしのような淫靡な風情が香らなくなってきたからだ)がもたらす経済効果には測り知れぬものがあるだろう。だから、みんなどしどし何回も結婚しよう(笑)(余談だが、おれの女性の友人にはいわゆる“バツイチ”の人がなぜか多い。そういう人と気が合うようなのだ)。つまるところ、資本制というやつは、どんどん無駄を省いて合理化を要請するベクトルを内在しながら、それ自身が無駄の極である“お祭り”によって支えられているという、なかなかに味わい深い制度ではある。
さて、なんの話だっけな? あ、だから、おれの老後の話だ。たまたまひとりで暮らしている状態で死を迎えることになった場合、自分の死体を腐乱させて人に迷惑をかけるのはよろしくない。よって、経済的に許せばセキュリティ会社などと契約するのがいいだろうし、少なくとも、死んだら死んだことがわかるような仕掛けを工夫しておく必要があるだろう。97年11月5日の日記で触れた“デッドマンズ・アラーム”のようなシステムを作っておくべきだろうな。今後コンピュータや通信インフラはどんどん発達するだろうから、頭がしっかりしているうちは、おれにでも扱える簡便な仕掛けをしておくのは容易だろう。いまからいろいろ考えてはいるのだが、たとえば、パソコン通信の期日指定メールを用いて自分の死亡通知と警察への通報依頼を親しい友人宛に設定しておき、生きているあいだはこれを解除・設定し続けるなんてのはどうだろう? ある程度死期の予測がつく場合にはいくらでも工夫のしようがあるが、急死した場合も考慮に入れたシステムにしておかなくてはなるまい。こんな仕掛け、あんな仕掛けと考えているとなかなか楽しいものである。虫の息のおれが最後の力で三味線の糸を切ると、家中に張りめぐらされた奇怪な仕掛けが水車の動力で(どこにあるんだ、どこに)次々とドミノ倒しのように作動し、然るべき相手に死亡を知らせ終わると薬玉が割れて鳩が出るとか、そろそろ死ぬなと悟ってスイッチを押すと、小鳥が舞い鹿が駆ける美しい自然の光景が部屋の壁いっぱいに大型プロジェクタで投影され、ベートーベンの『田園』が大音量で鳴り出すとか。これ、そこで笑ってるあなた、これはあなたの問題でもあるのだから、真面目に考えないか(笑)。まあ、なるべく人に迷惑をかけず、象のように死んでいきたいものだ。It's too bad she won't live. But then again, who does?(映画『ブレードランナー』)
【5月22日(金)】
▼会社からの帰り、すでに最寄駅からバスのない時間で、疲れていたのでタクシーに乗って帰る。「720円です」と運転手。財布から千円札を出したおれが気を利かせて十円玉を捜そうとすると、「いいです、いいです」と運転手が制した。財布から目を上げたら、彼の手の中に魔法のように280円分の釣銭が現われている。一瞬の出来事だ。えっ、と驚き運転席の横を見ると、運転手がなにか工夫をしたらしいコイン立てに、硬貨がひとつまみずつ水田の苗のように“植えて”あった。紙幣の額面から運賃を引いた額のパターンは限られているので、なんと彼は、出現頻度の高い金額分をすぐにつまめるよう、あらかじめ硬貨を場合分けしてまとめたうえ、垂直に立てて並べていたのだ。なんの道にもプロというのはいるものである。タクシーというやつは、本来停車してはならないとき、あるいは停車してはならないところに、客を降ろすあいだだけ停まらざるを得ないことがよくある。たとえば、赤信号で横断歩道の手前に停まったときなど、「ここでいいよ」と客が降りることも珍しくはない。そんなとき、金銭の授受でもたもたしていたのでは信号が青になってしまい、後続車に迷惑をかけたりもしかねないだろう。この運転手は、客を降ろす際に一秒でも早く発車できるようにしているのだ。そうすることによって、客を降ろせる場所が増えることにもなる。おれはいたく感心して、風のように走り去るタクシーを見送った。この運転手みたいな人が、いろんな業界のいろんなところでいろんな工夫を案出して世の中を回しているにちがいない。あたりまえのことではある。が、この運転手をたぶん凌ぐだろう知能と技術が、爆弾作って脅し合いするために浪費されていることもないわけではない。もったいねえなあ。ま、他人の頭の使いかたをとやかく言うのも大きなお世話だけどね。
【5月21日(木)】
▼「ワイアード」に連載中の「爆笑問題の日本原論」、今月は一段と爆裂している。声出して笑っちゃう文章書けるやつってのはすごい。爆笑問題ってのは、波長の合わない人は全然面白くないのかもしれないが、おれはハマっちゃったなあ。どうも太田光のギャグは、ほんとにキレてる人がつるつると生のままのものを出しているというよりも、どこか醒めた知性のフィルターでもってギュウっと漉し出してるような感じがあって、なんだか心配になってくる。ここでも何度か書いたが、こういう苦行を継続的にやってる人は、よく精神を病むのだ。最近のノリはとくに危ない。鴨川つばめの全盛期に近いものがあるよ。なんだか悪い予感がするほどだ。人気があるときには仕事を断われないのかもしれないけど、己が血で漫才を書くような作業がいつまでも続けられるわけがない。適当に肩の力を抜きながら充電しないとやばいんじゃないか。おれは、ひさびさに現れたギャグの才人には、打率二割八分くらいのところで長続きしてほしいと思うのだ。彗星のようにやってきて四割以上打ちまくり、彗星のように消えてゆくのもひとつの美学だけども、太田の才能はそのように爆発燃焼させるには惜しい。この人は緻密に構成した良質の喜劇だって書ける人だろう。まだ若いんだから(っつっても、おれより三つ下か)あんまり無茶しないでほしいな。おれは期待してるぞ。
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