間歇日記

世界Aの始末書


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98年7月上旬

【7月10日(金)】
▼仕事で遅くなり、あまり腹が減ったので、駅の売店で鳥の唐揚げと「桃の天然水」を買い、ひゅーひゅー言いながら食う。腹が減っていればなんでもうまいが、こういうふうにちょっとしたものを立って食うと、なぜにこんなにうまいのだろう。きちんと食卓について、ソース煎餅やらカルメ焼きやらリンゴ飴やらを食っても、ちっともうまくあるまい。
 子供のころ、子供向けの雑誌を読んでいてたいへん奇異に思ったことがあった。なぜか「よい子は買い食いをしない」ということになっていたのだ。“買い食い”とはいかなる言葉であろうか。食いものを買うのはあたりまえで、ほかにどうやって手に入れろというのか。盗み食いならよいのか――などと、ほんとうに首を傾げたものだった。最近では“買い食い”という言葉はすでに死語だろう。要するに、大むかしは、子供が自分で金を払って間食することは悪いことだったのである。おれの子供のころですら、そういう認識はすでに時代遅れであった(おれの育ちが悪いだけかもしれんが)。たしかに、むかしの露店や屋台などには、ずいぶんと非衛生的なものも少なくなかったから、「買い食いするな」という教育にはそういう点の考慮もあったのだろうが、まあ、よっぽどのお坊っちゃま・お嬢ちゃまでもないかぎり、おれたちはみな買い食いしていた。いまの時代に買い食いがいかんなどと言っていたら、マクドナルドなんぞ潰れてしまう。いったい、いつごろから買い食いが解禁(?)されたのかと記憶を辿ってみると、どうもカップヌードルが出現したあたりではないかという気がする。“道を歩きながらラーメンを食う”などという姿を、はなはだ下品なものから、一気に“かっこいい”ものに転じたのがカップヌードルの最大の功績(とは思わない人もいるだろうが)ではないかと思うぞ。
 買い食いの醍醐味を最も満喫できるものはなにか? これはもう、コロッケにとどめを刺す。皿に乗ったコロッケをナイフとフォークで食っても、おれはちっともうまいと思わない。コロッケなるものは、油紙に包んだ揚げたてを、道端ではふはふ言いながら食うのが正しいと信じるものである。寂れた駅前商店街などでコロッケを揚げていると、いまだに発作的に食いたくなって困るのだ。スーツ着たいいおっさんが、コロッケを買い食いしている姿はあまりにも貧相なので、ぐっとこらえるけれども。
 ということは、だ。皿に乗せて食卓で食ってもうまいものなら、買い食いすればもっとうまいのではないか――と、論理的に考えるのがSFファンたる者の習い性である。露店で焼きたてのサーロイン・ステーキを油紙に包み、道端にしゃがみ込んではふはふ言いながら食ったら、さぞやうまいことであろう。一枚千五百円くらいだったら、ぜひ一度やってみたいと思う。どこかにそういう露店や屋台はないであろうか? O−157のせいで買い食いには逆風が吹いているけれども、そこかしこにステーキ食いながら歩いている人がおったら、えらく景気のいい感じがして、暗い世相も明るく見えるにちがいないぞ。

【7月9日(木)】
▼仕事で初めて訪れたとあるビルのテナント表示板を見ると、中に名の知れた耐火煉瓦の会社があった。おお、これは眉村卓氏のいらした会社ではないか。むろん、当時からは事業所や営業所も増えているだろうから、眉村氏が踏んだ床をおれが踏んでいるというわけではない。それでもなんとなく、日本SF史の史跡を訪れたような気がする。大阪の街を歩いていると、「あ、この橋から若き筒井康隆は川面に原稿の束を叩きつけたのだな」とか、「ああ、地下に閉じ込められた“阪急グループ”“阪神グループ”の人々と“曾根崎グループ”の人々が、ここいらへんで戦ったのだな」とか、「もし、おれにだけ空へ向かって落ちてゆくように重力が働いていたとしたら、ここから会社までどうやって戻ろうか」とか(これは大阪でなくてもいいか)、虚実の入り交じったおかしな連想ばかりしてしまう。日本のSF界は、大阪出身、あるいは、大阪にゆかりの深い人々の比率が高い。フィクションの中でも京阪神が舞台となることが多いような気がする。“気がする”というのは、とくに舞台が明記されていなくとも、関西弁で喋る人物が多く登場するからである。
 考えてみると、舞台が東京であると明記されていないフィクションであっても、なぜか登場人物の多くは標準語のようなものを喋るし、「これは東京の日常生活だよなあ」と思わせるディテールがことわりもなしに出てくる(いちいちことわられたら煩わしいけれども)。よって、われわれは、なあんとなく、必要以上に東京が舞台であるがごとくに錯覚していることが多い。日本のフィクションの工場出荷時の“既定値”は、“東京”に設定されているのだ。「和広は息を切らせて電車に飛び乗った。ハンカチで汗を拭い、車内の鏡で乱れた髪を整える」などという描写がいきなり出てきたら非常に奇妙な気がするが、名古屋の人はべつに奇妙でもなんでもないと読み流すだろう。「切符を手渡すとき、美知子の指がそのハンサムな駅員の指に触れた――」なんてのも、おれには違和感はないが、毎朝東京駅で降りる人は反射的に変に思うかもしれない。バスともなると、自分があたりまえだと思っているちょっとした仕組みや習慣が、ほかの地方とはまるでちがっていることも少なくない。かといって、いちいち「この地方では、バスの構造はこうなっていて……」などと説明するのもうざったい。となると、標準を東京に設定してしまうか、堂々と地方色を打ち出してしまうかのいずれかにするしかないだろう。文章を読んだり書いたりしていて、こういうことがまったく気にならないようなら、その人は相当“東京既定値主義”に侵されているのだ。

東京の編集者「先生、ここんとこの描写ですけど、ふつう、バスってこんなふうになってないんじゃないすか?」
作家「いや、東京ではどうだか知らんが、鳥取ではこれがふつうだ」
編集者「舞台が鳥取だなんて、どこにも書いてないじゃないすか」
作家「東京だとも書いてないぞ」

 ――なんてやりとりが、しばしば交わされているのであろうか。おれは交わされているべきだと思うし、そのほうがいいと思う。アメリカの小説の描写は“既定値”がワシントンDCかというと、全然そんなことはあるまい。
 とはいえ、あまりにもあたりまえのように説明なしで地方色を出されても面食らう。ある程度は全国標準的なものも鑑みたうえで、妥協せざるを得ないだろう。「ちょうど雑煮の餅を口に含んだとき、被害者の写真がテレビに現れた。真由美だ! 彼の口から餡にまみれた餅が飛び散った」などと香川県の一地方在住の作家に突然書かれても、たいていの読者はびっくらこくのである。

【7月8日(水)】
一昨日の日記の“レーコー”の件について、思わぬ方からメールでご意見を頂戴した。ガイナックス武田康廣さんのご見解によれば、少なくとも大阪人に関して、“レーコー”などの表現は、特定の職業的符丁をかっこよがって使っているというよりも、大阪人特有の省略表現の一種なのではないかということである。“マクドナルド”“マック”と言わず“マクド”と称する類の表現だろうというご推察だ(ちなみに、おれは“マック”派である)。武田さんの少年時代、大阪では“冷やしコーヒー”と称する冷えたミルクコーヒーのようなものが屋台や駄菓子屋の店頭で販売されており、それを店の人も客も、略して“レーコー”と呼んでいたそうである。大阪というところは、「客と店の人の垣根の低い文化圏」だから、かかる用語は店の人のみが使うべきものだという意識が大阪人にはあまりないと思われ、喫茶店でおれの隣に座った客は、おそらく生っ粋の大阪人なのだろう――と、武田さんは推理する。
 なるほど。たしかに大阪では、店員と客の距離が近いのはおれも感じるところで、非常に鋭いご指摘だと思う。たとえば大阪人は、店頭に並んでいる品物の価格を最初から“建前上の最大値”くらいにしか思っておらず、値切らずにものを買ったりするのは、店の者に失礼であるといった感覚を持っている。大阪人がものを値切っている現場に居合わせたことのある人にはご納得いただけるだろうが、他府県人から見ると妙に不可思議な雰囲気が醸し出されているものだ。値切っている客は、必ずしもプラグマティックな財政上の要請から値切っているという感じではない。「もし私があなたと同じ売るほうであったとしたら、私のような客を相手に値引きをしてこそ商売人としての知恵と貫禄が示せるであろうに、なぜその好機をみすみす逃すような愚かなことをしようとするのか?」といった暗黙のメッセージを発しながら値切っているのである。つまり、客のくせに、店員と同化すべく懐に飛び込んでしまうわけだ。店員は店員で、「私がもし客であったら、私のような善良な商売をしている者にそこまで無理を言って自分の小人物ぶりを晒すようなことはしないと思われる」という反撃のしかたをする。店員と客とが心理的に相互乗り入れをして、奇妙なコミュニケーションを楽しんでいるかのごとくである。大阪人の値切りのやりとりは、常識的な“理”の応酬ではけっしてない。ふつうの値切りが debate であるとするなら、大阪の値切りは negotiation だと言えるかもしれない。ともかく、「客と店の人の垣根の低い文化圏」という武田さんのご指摘には、こうした観点からも肯けるものがある。ちなみに、おれは東京生まれの京都育ちで、文化的には関西人の部分が大きいのだが、売り手と買い手の距離の取りかたに関しては、一口に関西と言っても京都と大阪ではずいぶんちがうことに、武田さんのご指摘で改めて気づかされた。
 とはいえ、おれ自身はやっぱり“レーコー”の類の言葉を自分で使うことには抵抗がある。おれは細胞の75パーセントくらいは関西人のつもりでいるのだが、自分で思う以上に東京的文化がコアに食い込んでいるのかもしれない。三つ子の魂か。やはり、納豆を食うのがいかんのだろうか(おれは大好きで、なんなら丼一杯食ってもいい)。正月にすまし汁の雑煮と白味噌の雑煮を交互に食うのが細胞に悪影響を与えているのかもしれん。日々、関東的な影響を与える怖ろしい化学物質が身体に蓄積されていっているのか。これを俗に“関東ホルモン”と呼ぶ――ちゃんちゃん。とか言ってるところは、やっぱり関西だよな。

【7月7日(火)】
▼あー、暑い暑い。本格的に夏だなあ。ただ暑いのならまだいいのだが、多くの人にとって、現代社会に於ける夏とは、焦熱地獄と極寒の世界とのあいだを往還しなくてはならない、たいへん身体に悪い季節である。家のエアコンはそこそこ快適なのに、一歩外の世界に出てゆくと、ちょうどいい冷房というものに出会うのはカバが針の穴を通るよりも難しい。「おれは夏の最中になんでガタガタ震えていなくはならんのだ」と、不条理ドタバタ小説の登場人物にでもなったかのような気になることもしばしばである。おれの子供のころに流行った“省エネ”とやらは、いったいどこへ行ったんでしょうね。過度の冷房に震えるたび、あの夏の日の“省エネ”が、谷川に落ちていった麦藁帽子のようにおぼろげに思い出される。ママーぁ、ドゥーユーリメンバぁー……ふ、古い。
▼おれには変な趣味がある。よくよく変な趣味がたくさんあることはとっくにばれているのだが、その中でもとりわけ変な趣味があるのだ。アダルトビデオのタイトルを考えるのが趣味なのだ。観たり撮ったりするのではない。あくまで、いかにも実在しそうな、くだらないタイトルだけを、ひたすら真剣に考えるわけである。
 週刊誌の広告とか、たまに郵便受けに投げ込んであるチラシなどのアダルトビデオのタイトルを見ていると、よくもまあ、これだけくだらない(褒めているのだ)タイトルを思いつくなあと感心させられることがたまにある。ひょっとして、あれを考えている人は、AV女優より重労働なのではないかと思うくらいだ。じゃあ、例を挙げてみよう――と思い出そうとすると、これがほとんど憶えていないというのだから、じつにあれは報われない仕事だと思う。ご存じのように、そのときそのときの社会現象や時事ネタなどのパロディが多いのだが、ときにひどく秀逸なものがあったりする。泡沫のように消えゆく短期決戦だけに、コピーライター(プロダクションの人が自分で考えたりもするそうなのだが)の半ばやぶれかぶれの才能が光ることがある。そうやって面白がっているうちに、「おれのほうがもっとうまくできる」とか「これはこうしたほうがよかったのに」とか、妙なライバル意識を燃やすようになってしまい、いつしか架空のAVのタイトルを頭の体操に考案するのが楽しくなってしまったのだ。
 最近作ったやつの中から、いくつかご紹介する。おれのことだから、SF寄りになってしまうのはいたしかたないが、それがどういう内容のAVになるべきものなのかは、適当にご想像ください。

『マッカンドルー房中記』――“ブラックホール”をこよなく愛する天才科学者マッカンドルー博士の性遍歴物語。
『闇の右手』――寂しい人の物語である。
『たったひとりの冴えたやりかた』――やっぱり寂しい人の物語である。
『ホストマン』――偽の身分証明書や手紙を武器に、顔だけはいいジゴロが千人斬りをする話だ。
『夜来たる』――関西人が夜這いをする話。
『輪姦の夢』――そのまんまである。
『天国への門』――そのまんまである。
『神々自身』――性器自慢の神様が大活躍。
『愛に時間を』――早漏に悩む人の話。
『子宮幼年期の終わり』――処女喪失もの。
『パイパンの幼女』――あたりまえだが、ロリータもの。

 ああ、今日はなんという下品なネタであろう。でも、こういうのになると、湯水のようにできてしまうのだから、われながら情けない趣味である。才能の浪費だ。ここまでやったのだし、SFばかりでもなんなので、なにか純文学路線でできないかと頭をひねってみる。なかなか格調高い名作ができた――『下の森の満開の桜』(監督:坂口万吾)
 ひいいい。原典の作家の方々、ごめんなさい。だけど、どれかは実在していそうだよなあ。

【7月6日(月)】
▼喫茶店で昼飯を食ってコーヒーを飲んでいると(またもや出た、この書き出し)、年配のおっさんが入ってきておれの隣の席に座り、横柄に注文した――「レーコー」
 おれはこういう客が大嫌いである。「おまえは店の者か?」と言いたくなる。どうして“アイスコーヒー”と言えんのだ(ちなみに、関西では“コールコーヒー”という奇妙な言いかたも生きている。炭火焼きというのもあるから、おそらく石炭を混ぜたコーヒーのことであろう)。“レーコー”だの“レスカ”だの“アイスミティー”だのは、一日に何度も同じ言葉を口にせねばならぬ店の者同士が労力を省くために使う符丁なのであって、客のほうが使うとはなはだ軽薄に聞こえる。これをかっこいいと思っているらしい人は、おれの観察では年配者のほうに多い。若い人のほうがかえって“レーコー”などとほざくかっこ悪さに敏感なようなのだ。
 余談だが、多くの喫茶店のメニューに“アイスオーレ”という不可思議な品がある。それを注文すると、幸いなことにも冷やしたカフェオレが出てくるのが常であるが、万が一“練乳がけのかき氷”が出てきたとしても文句は言えないのではないかと思うがどうか。ちなみにおれは、“カフェオレのアイス”と言うことにしている。これでも、カフェオレを凍らせたアイスキャンディーが出てこないか心配だ。棒に“あたり”と書いてあったら、もう一本もらえるとか。
 それはともかく、客側が使うべきでない職業的符丁というやつがあるだろう。寿司屋で“おあいそして”などという人の言語感覚を疑う。おれが腹痛を起こして病院に駆け込み、「先生、腹が痛くてステりそうです。エッセンのあとに急にですから、胃潰瘍がペルフォったのかも。プルスが上がってドゥルックが落ちてます」などとほざいたら、「自分で治せ」と言われるであろう。
 おれの母親は若いころスナックのホステスをやっていたので、むかしよく「ダスター取って」などと家で言っていた。しかも、“ラスター”などとまちがえて覚えていた。かっこいいつもりか癖が抜けないのか、家でもその言葉を使い続けるものだから、とうとう苛立ったおれは「“布巾”と言え」と、ダスターをやめさせた。水商売用語が悪いというのではない。ちゃんと布巾という日常の日本語があるのだし、ああいう非日常的な場所の雰囲気を引きずった言葉を、平々凡々たる日常生活に持ち込まれると気色が悪いからである。ホステスさんたちは、なぜ布巾のことをわざわざダスターなどと言っているのか(最近あまり言わんのかもしれんが)とつらつら考えてみると、簡単な理由に思い当たる。おしぼりと混同しないようにするためにちがいない。“布巾”と言ったのでは、咄嗟にまちがうおそれがなきにしもあらずだ。客が自分の使ったおしぼりでテーブルを拭くのは(あまりみっともいいものではないにしても)かまわないが、店の人間が客の目の前でそれをやっては、たいへん下品な感じがする。ホステスの教育の行き届いた店では、けっしてそんなことはしていない。おしぼりと布巾とは厳格に使い分けている。こういう些細な言葉の使いわけも、よーくよく考えてみると、なんらかの必要から生じているものだ。エスキモーは雪の状態を表す言葉を六十数種持つという有名な話がある。それだけ区別しないと命にかかわるような局面が、彼らの生活にはあるのだろう。飯を食う前に家族におしぼりを配る日本の家庭はあまりなかろうから、家ではあれは“布巾”でいいのだ。雑巾と混同しないようにしてさえいればいい。
 98年6月14日の日記で書いためるへんめーかーさんと坂口哲也さんのご結婚一周年記念パーティーの際、坂口さんが閉会の挨拶にあたって、ぽろりと漏らした言葉が思い出される――「えっと、そろそろお開き――ってのは、自分で言っていいのかな? ま、とにかく――」
 “お開き”というのは、“終わる”とか“閉じる”とかいうネガティヴな言葉を避けるための婉曲的言い換えだから、おれはべつに主催者側が言っても差し支えないとは思う。それが厳密に正しいかどうかはともかく、そんな些細な表現でも、自分が口にすべきものかどうかを反射的に気にかけるあたりに、坂口さんの社会人としての年季と言語感覚の細やかさが感じられ、さすがはめるさんのデリカシーにお似合いの旦那様であるなと、微笑ましく思ったものである(あー、べつに次回の原稿を遅らせようという魂胆ではないすよ、坂口さん)。
 横柄なおっさんの前に“レーコー”が運ばれてくるころ、おれはちょうどホットコーヒーを飲み終え、水(“おひや”ではない)を少し飲んで席を立つと、勘定(“おあいそ”ではない)をすませて店を出た。げに、喫茶店は日記ネタの宝庫である。

【7月5日(日)】
昨日の日記にまちがいを見つけた。『経済の文明史』(カール・ポランニー、玉野井芳郎・平野健一郎編訳、日本経済新聞社)を“カール・ポランニーの名著”などと書いたが、これは日本で編纂した論文集なので、ポランニーがこの本の形で書いたわけではない。『よりぬきサザエさん』みたいなものである。玉野井芳郎らが名編訳者であったと言うべきだった。
 お名前を出したついでに書くのも失礼かとは思うが、玉野井氏ご自身の著書も、おれはいくつか興味深く読んだ。七十年代にはすでに、いましょっちゅうテレビで言ってるようなエコロジーの問題を経済学の文脈に織り込もうとなさっていた方で、その“ものの考えかた”に、ある意味でおれはSFを感じる。学問的業績を紹介するのは専門の方にお任せするとして、ここの読者の方々に関心を抱いていただくには(もっとも、ご存じの方も多いと思うが)、『生命系のエコノミー』(玉野井芳郎、新評論)のカバー折り返しにある惹句を挙げておけば十分だろう――「近代思想の二分法の世界――自然と社会、自然と人文、自然と人間、理科と文科――を解消し、二分法の原理を克服して、これに代わる<人間等身大の生活規模――ヒューマン・スケール――の世界>の発見と構築を目指す。経済学・物理学・哲学、さらに歴史学へと大胆な挑戦を敢行し、本格的な学際的研究への道を提示する」
 おれがSFに期待しているもの、SFだと思っているものにかなり近い試みを、経済学者としてなさっていた方なのだ。えっと、この本は九十年代の本じゃないよ。一九八二年、日本がバブルに浮かれる前の本である。記憶がさだかでないが、バブってたころには、玉野井氏はすでに亡くなっておられたんじゃなかろうか。どうも、玉野井芳郎というと、『シャドウ・ワーク』(イヴァン・イリイチ、玉野井芳郎・栗原彬訳、岩波現代選書)の訳者やポランニーの紹介者としてしか、おれはあまりお名前を目にしない。不当に軽視されているような気が素人目にもする。いまこそ、もっと読まれていい学者だと思うぞ。
 じゃあ、おれは玉野井ファンなのかというと、じつはそうでもない。ものの“考えかた”が好きなのであって、主張を全面的に支持するわけではないのだ。とくに、イリイチをちょっと持ち上げすぎている点が性に合わない(まあ、訳者なのだからあたりまえかもしれないが)。おれはイリイチの着眼や分析力は優れていると思うが、「現代文明の困った点についてはあんたの言うことが、なるほどかなり当たっとるやろ。ほな、どないせぇっちゅうねん?」という段になると、単に「むかしはよかった」と言っているようにしか聞こえないのである。まあ、学者でもないおれがあまり生意気なことをほざいては、底が知れるな。ここらでやめておこう。
『カウボーイビバップ』は、やっと京都でも最終回。じつに唐突な終わりかただが、まあ、いろいろあったのでありましょう。ラストシーンで、[CLOSED]の看板が傾いでいるのが大写しになるあたりはなかなかクる。おれくらいの年齢の人は、Styx の名盤 Paradise Theatre のジャケット裏面を連想したんじゃなかろうか。表面が人で賑わう全盛期の劇場の絵でさ、裏面は閉鎖されて久しいだろう寂れた姿になってるのね。窓ガラスは破れ、風に飛んで行きそうなぼろぼろのポスターの残骸があちこちにしがみついている。で、TEMPORARILY CLOSED と入口の上に嵌め込んである文字が、ところどころ欠け落ちたりずれたりしているのだな。ちっとも TEMPORARILY じゃないところに哀愁が漂うわけね。いいジャケットだったな、あれは。ビバップも TEMPORARILY CLOSED にすればよかったのに。そのつもりなんでしょ?

【7月4日(土)】
▼おお、今日、日本が初めて火星探査機を打ち上げた。ピテカントロプスになる日も近づいているな、ってのはあまりにもネタが古いか。
 「のぞみ」って名を見ると、ついつい「みずたま」「さかい」「さやか」などと2号機(弐号機かも)の名前を考えてしまうのが人情というものであるが(一部の読者だけか)、とにもかくにもめでたい。詳しい状況については、おなじみ野尻抱介さんが現地から掲示板に刻々とレポートを書きこんでおられるので、そちらをご参照ください。
 この不景気なときに火星なんぞ調べてなんになるという声も聞こえそうだが(まあ、宇宙開発にはつきものの批判だ)、外国語を知ってはじめて日本語の新たな姿が見えてくるように、ほかの惑星を調べてようやく手前の足下の地球のこともわかってくる。故カール・セーガンは、そのことを大衆に広くアピールし、立派な研究業績も遺した。宇宙開発なくしては、現在ほどの地球物理学の知見は得られていないであろうし、地球の異変に手を打つ行動ももっと遅れていたはずだ。宇宙開発は、もはや“夢”とか“ロマン”とかいったふわふわした言葉で語られる“いろもの”や、国威発揚のための“甲子園主義的”お祭りの域を脱している。もろにわれわれの日常に関わってくる、地に足のついた課題なのだ。おれたちの孫の世代には、宇宙空間で生まれる子が出現するのは、ほぼ確実であろう。
 そうとは言っても、である。先日、財団法人 経済広報センターが発表した「第4回 会社員の関心事調査」の結果報告にはのけぞった。会社員の関心事の第一位は「地球温暖化防止」であるというのだ。「なんぼなんでも、そりゃおかしい」と思うよね。そりゃまあ、重大な問題であるからして関心を持っている人が多くても不思議ではないが、一位だなんて気色の悪いことがあるものか。もし、ほんとうだったら、カール・セーガンが草葉の陰で泣いて喜ぶ。調査の結果自体はほんとうなのだろうが、結果があまりにも予想と食いちがう場合、たいてい調査のやりかた自体がおかしいのだ。家計簿の計算をしていてエンゲル係数が5%などと出たら、夏だから食欲が落ちているのだな、お父ちゃんの給料も上がったしなと解釈するより先に、電卓を叩きまちがえたと思うのが自然である。
 はたして、先の調査結果のページをよくよく読んでみると、『全国の「会社員の声」ネットワーク・メンバー 1,623名を対象に』とある。この「会社員の声」ネットワークとやらの性質が臭い。では、この母集団はいったい何者なのかというと、同じページにこう書いてある――『(財)経済広報センターでは、1992年から、就業人口の大きな割合を占める会社員の生の声を聴き、その内容を広く社会に発信していく「会社員の声」ネットワークの構築に努めてきました』
 あ、なるほどね。要するに、今回の調査にかぎったサンプルを無作為抽出したわけではないのだ。この成員は、「会社員の声」ネットワークなるものに参加していることによって、すでにフィルターを通っている。おそらく、こういう調査に積極的に協力し、社会的関心も高いだろうアクティヴな人で構成されていると推察される。アンケートを行なった時期(は書いてないが)にも影響されている可能性は高い。ひょっとすると、京都の国際会議の前後じゃないのか? これでは、「魚屋さん100人に聞きました。いま、いちばん関心のあることは?」というのと、さほど変わらない。あの有名なクイズ番組は、べつにリサーチ番組じゃない。アンケートが一過性の話題になれば、それでいいのである。そういう意味では、この団体は、経済“広報”センターなのであって、研究センターではないのだから、正しく仕事をしていると言える。エコロジカルな活動は、個々人の心がけだのなんだのというきれいごとを離れて、金になるビジネスとしてわれわれの社会に組みこんでいってこそ、はじめて意味のあるものになる。統計的にあまり価値のない調査ではあっても、経済広報センターは、ちゃんと“広報”をしていることにはなるだろう。絵空事が現実にフィードバックすることも、しばしば起こる。
 本来、エコロジーとエコノミーは、なにか同一の名前で呼ばれるべき不可分のもののはずだ。現代の日本なら、子供でも気づくことだろう。栗本慎一郎があちこちで指摘しているように(『幻想としての文明』講談社・など)、エコのノモス、すなわち“外にある理法”“共同体の摂理”としての“オイコノミア=エコノミー”に、“経世済民=経済”などという、まるでハウツーかなにかのような狭すぎる訳語を充てたのは(栗本氏の前述書によれば、隋の王通の仕業だそうだ)、おれが考えても不適当だと思う。どう不適当かは、栗本氏の師匠(ジョージ・ドルトン)の師匠筋にあたるカール・ポランニーの名著『経済の文明史』(玉野井芳郎・平野健一郎編訳、日本経済新聞社)第八章「アリストテレスによる経済の発見」をお読みいただければ、栗本氏の指摘の根を見出すことができる(“孫弟子”って言いかたがあるのに“祖師匠”って言葉はないのかね? “祖師”とは言うが、意味がちがう)。ちなみにおれは、『意味と生命』(青土社)あたりまでの栗本経済人類学の展開はたいへん好きだが(全面的に納得するというわけではない)、どうもそれ以降、“ちょ〜”科学的な部分が表に出てきて、とてもついていけなくなってしまった。残念なことである。栗本氏はきっと、おれみたいな読者は頭が固いのだとおっしゃるだろうけれども。
 それはともかく、かなり近い未来、やっぱり人類は「コカ・コーラを飲んで火星に行こう!」とかやってると思うな。それもまた、人類らしくていいじゃん!

【7月3日(金)】
▼世間並みにボーナスなどもらったので(“もらった”のが世間並みなのであって、額が世間並みかどうかはノーコメント)、たまにはいいもの食って帰ろうと、ひとり居酒屋に入る。なにやら無性に焼鳥が食いたかったのだ。おれはけっこう、ひとりで居酒屋などに入るのが好きである。仕事を離れて一緒に酒を飲みたいような相手が身近にきわめて少ないということもあるが、なにより“立ち聞き趣味”が満喫できるのが大きな理由だ。“盗み聞き”というのは人聞きが悪いので、座っていても“立ち聞き”である。日本語には、おれの趣味を指すいい言葉がない。eavesdropping ではなく、overhearing が趣味とでも言おうか。おれに向かって話しかけられることや、おれが居合わせる場所で話されることは、“おれがいる”という事実によってフィルターがかかっている。おれという存在の社会性が剥奪される状況に於いて話されていることは、おれが会社でも家でも仲間うちでも聞くことができない内容を含んでいるはずなのである。あたりまえのことだが、あなたに面と向かって話されないこと、あなたが聞き得ない場所で話されることは、あなたの寝顔のようなものだ。そこには、ある種の“観測問題”が生じている。“立ち聞き”は、そういうものから自由なので、やたら面白いのである。おれがくだらないことに思いを馳せる際の“取材”と言えないこともない。
 さて、注文を取りに来たのは、高校生くらいのアルバイトらしき女の子。ずいぶんと堅苦しい感じのもの言いだ。客がかっこいいおじさんひとりなのでアガっているのではなく、チェーン店だからきちんとマニュアルがあり、そのとおりやろうと緊張しているのだ。なぜそう判断するのかというと、以前にいた調理担当の男の子が「ちゃんとビデオを観ただろう!」と店長にこっぴどく叱られていたのを聞いたことがあるからである。さすが全国的な居酒屋チェーンだけあって、調理法を教えるのにもビデオまで作っているのかと感心したものだ。その男の子はすでにいなかった。見るからに手際の悪い子だったから、長続きせず辞めたのだろう。
 いかにも真面目そうなこの女の子に、メニューにあった冷酒が甘口か辛口かを尋ねてみる。べつに意地悪するつもりはない。率直に知りたかったのだ。すると、マニュアルになかったのだろう、彼女の返事がよかったね――「……飲んだことないんで、わからないんですけど」
 かわーいいー。あまりの可愛らしさに、その場に押し倒しておじさんが味を教えてやろうかと思ったが(こういうこと考えるようになったら、ほんとにおじさんだ)、酒の味を教えるのになぜ押し倒さねばならないのかよく考えたらおかしいので、おれは不埒な想像を中断し、「そら、そうやな」と爆笑しながら、とにかくそれを注文した。ふつー、こういうとこでバイトしてたら、未成年でも(未成年だからこそ)悪い先輩たちに売りものの酒くらい飲まされそうなものだよね。おれがビアホールでバイトしてたときには、終わったあとは責任者ぐるみでこっそり飲み放題だったぜ。同僚には高校生のほうが多かったから、未成年とはいえおれが大学生だったからだとは思えん。この子がカマトトなのかもしれんが、まあ、それくらいしっかりした店なんだろう。
 不思議なことに、わが国では、事実上高校生から、建前上も、高校を出れば酒が飲めるのである。実態を伴わない法律があることよ。まあ、飲むほうは罪にならんのだけども。いっそのこと、酒も煙草も十八から嗜めることにして、一緒に選挙権も与えればよろしい。いや、選挙権は十六くらいで与えたほうがよい。義務教育を終えていれば、十分投票する資格があるはずである。「世間のことはおろか、自分のこともわからん子供に投票させるべきではない」なんてことを言う人もいるかもしれないが、だったら二十歳以上の人間は、みなご立派な人間ばかりなのか? おれはむしろ、高校生くらいの子に、よっぽど世の中のおかしいところが見えているやつがいるだろうと思うぞ。そりゃ、バカもいるだろうが、そんなの年齢に関係ないし、参政に必要なのは知能ではない。自分の考えがあるかどうか、だ。「うちの教祖様が入れろとおっしゃる人だから」とか「取引先から頼まれたから」とか機械的にほざくご立派な“大人”からは、選挙権を剥奪すればいい。なにより、若者に選挙権を与えたほうが、政治家がいまより真剣になるにちがいない。彼らには建前や立場によるごまかしが通用しないからだ。「若いやつは宣伝やきれいごとにごまかされる」って? そうかな? じゃあ、若くないやつはごまかされないのか? 歳食ったやつは、“きれいごとでないこと”にごまかされやすいんじゃないか? 若者はそんなにバカじゃないとおれは思うよ。政治ってのは、即効性のあるものじゃないだろう。いま税金を払っていないからといって、高校生に選挙権がないのはどう考えてもおかしい。税金払ってるかどうかというなら、未成年の就労者にも選挙権を与えるべきだし、そもそも投票の効果が現れるのは何年か先のことなのだから、そのときに大人になっている者が投票の結果を引き受けるようにして、なんの不都合があろうか。高校生が選挙権を持っても“怖くない”と胸を張れる政治家だけが残ればいいと思うぞ。
 「飲んだことないんで、わからないんですけど」の子が、誰に、どの党に投票するか、あるいは、しないかを訊いてみたい気もするな。

【7月2日(木)】
▼ひさびさに Catherine Asaro のニュースグループ(最近のネットスケープ用語では“ディスカッショングループ”というようだが)を見に行ったら、 Bantam Spectra にテクノスリラーが売れたと、ご本人が半月ほど前のポストで喜んでいらした。ほほー、これは喜ばしいことだ。Tor Books が弱小というわけではもちろんないのだが、トーがなんとなく“ローカス受け”(ちゅうことは“ヒューゴー賞受け”)しそうな印象があるのに対し、バンタムのほうはやや小難しげな“ネビュラ賞受け”の感じがして(あくまでイメージの話で、実際どうかは自分で実例を調べてみてね)、アサロのような奇妙な作風(浪漫チック・ハードSF?)を持つ人は、いずれの読者層にも波長の合う人がいそうだからである。二社めの取引先を開拓できたというのは、新進作家にとってたいへん嬉しいことにちがいないが、やっぱり、バンタム・スペクトラってブランド名に、欧米のSF作家には“クる”ものがあるのやもしれない。自分がかつて読んで憧れた「あの作品と同じブランドで……」「あの作家たちと名を連ねて……」という気持ちはあるんだろうなあ。まあ、作家個人の感慨を推察しててもしようがない。どんな作品か楽しみだ。アサロさん(っつっても、ご本人は存じ上げませんが)、おめでとうございます。
 それにしても、アサロ氏はえらく“サイバースペースまめ”である。自分のニュース――じゃない、ディスカッショングループだからといっても、ファンとの交流が好きじゃないと、あれほどまめにポストはできまい。処女作 Primary Inversion の謝辞に GEnie で質問に答えてくれた人々を挙げたりしているくらいだったから、もともとパソコン通信のコミュニティー感覚に親しんでいる人のようだ。
 もっとも、だから作家はどんどんネットに出てきましょうと断じるつもりはない。各人の資質によるだろう。べつに作家じゃなくたって、性格的にネット活動に馴染む人とそうじゃない人がいるのはたしかだ。なにしろ、インターネット上の発言は遠慮会釈がない。相手にする価値があるかどうかを、ある意味で気楽に判断できる性格でないとやってられないだろう。たとえば、ゲーテが生きていて、自分のホームページにメールアドレスを公開したとする。すると、「『若きウェルテルの悩み』とかいう作品を読みましたが、くだらないことで悩んでないで、さっさと押し倒せばいいと思いました」とか、「おまえの詩を読んだが、なんだあれは? スケベ爺い」とか、「一緒に生パンティーを狩りませんか?」とか、ゲーテにメールするやつが必ずいるのだ。作家は「読者の率直な意見を聞きたがっている」ことになっているが、あれは本音半分、営業半分だと思うよ。「そんなもの聞きたくもない。わしはわしが書きたいように書く」というのと、「どんなふうに読まれているのか、怖いもの見たさで知りたい」というのが率直なところじゃないかと思うのだが、どうなんだろう?
 ある作家が「パソコン通信など百害あって一利なし」と編集者に禁止されたという話をむかし人伝てに聞いたことがあるけれども、この編集者氏の考えもわからないではない。あくまで、作家の性格や資質によるとは思うけどね。きっとこの編集者氏なら、編集部気付のファンレターだって、厳格に選別したりしてるんだろうな。パソコン通信やインターネットは、そういう編集者の気遣い(あるいは、おせっかい)を無力化する。編集者側で“育ててる”意識のある作家の場合、“ほんとうのナマの読者の声”が作家に届いてしまうのは、編集者にとって必ずしも愉快なことではないだろう。でも、作家側は、新人ならいざ知らず、いつまでも“育てられてる”のは愉快でないはずで、読者のナマの声が聞きたくなるにちがいない。その結果、自信をつけたり身のほどを知ったりすることになるのだろう。それがいいのか悪いのかは、編集者でないおれにはわからない。編集者が欲しいのは作家の人格じゃなく才能なので、遠慮会釈ない消費者の声が効く作家と、箱庭での純粋培養が効く作家とを見きわめて、より才能を発揮してくれる対処方法を選別するのだろうとは思う。
 いや、おれのサラリーマンとしての仕事でも思い当たるところがあるわけよ。「こんなもん世間で通用するかよ」みたいな品質の製品を作ってくる技術者に、「こんなもん世間で通用するかよ」と言うのが必ずしもよい結果を生むとはかぎらない。「このくらい世間じゃあたりまえ」と腹の中で思いつつ、「おお、すごいすごい」と言うこともときに必要だ。「うちの開発予算でそんなもんできるかよ」と優秀なやつに思われたら他社に移られちゃうおそれもあるし、「おれの技術は低いのだ」と悲観されたら、ますます品質が落ちる。まあ、ほんとうに優秀な人は“自社並み”と“世間並み”とをちゃんと別ものとして把握していて、状況に応じて使い分けることができるのだが……。で、“自社並み”と“世間並み”とがほぼ一致している数少ない企業を、人は一流企業と呼ぶわけだ。そんでもって、いままで成立していた“自社並み”と“世間並み”、“自国並み”と“世界並み”との区別が崩壊しちゃうのが、いわゆる“大競争”の時代というやつで、これはまあ、じつに怖ろしいことであります、ハイ。

【7月1日(水)】
▼会社の帰り、ぼけーとバスを待っていると、分譲マンションの看板が目に入る。コピーがすごいね――「静寂を堪能する潤いの立地」
 “静寂を堪能する”ってのがいい。なんにでも応用が利きそうだ。航空会社なら、「静寂を堪能する空の旅」とか、パソコン周辺機器メーカなら、「静寂を堪能するハードディスク」とか。ニューギニアの奥地にでも分譲マンションを建て、「静寂を堪能する潤いの立地」と広告すれば、公共広告機構も文句の言いようがなかろう。お喋りな女性が嫌いな彼には、「あたし、静寂を堪能させる女なの」と言い寄ればよろしい。最近の流行り言葉もつけたほうがインパクトがあるだろう。「それに、TCOも低い女よ」とか。あ、これは男尊女卑的言葉遣いであるな。女性の ownership とはなにごとか、と言われそうだ。ま、女性が口説き文句に自分で言うぶんにはいいかもね。
 それにしても、最近、箸の上げ下ろしに Total Cost of Ownership という言葉を聞くが、いったいなにが新しい概念なのか、おれにはさっぱりわからん。こういう外国語のアクロニムは、頭の中でちゃんと元の言葉に展開しながら使わないと、やがてなんの略だったか忘れてしまい、はなはだ軽薄な感じがする。村上龍『五分後の世界』(幻冬舎)で、アメリカ人はオレンジ・ジュースをO.J.などと言いかねぬと揶揄していたのを思い出す。まあ、アメリカ人がオレンジ・ジュースだとちゃんと知りつつ母国語で言うのならべつにかまわないと思うが、外国人がそんなアクロニムを連発し、「O.J.ってなに?」「えーと……なんだっけ?」なんてことになるのは、あまりかっこのいいものではない。
 もっとも、“レーザー” laser なんてのは、日常ではアクロニムであることすらすっかり忘れ去られてしまっているから、そういうのをいちいち元の言葉に頭の中で戻しながら使うのも面倒だ。でも、たまには記憶をリフレッシュするのも頭の体操にいいだろう。laser を三秒以内に復元できますか? できたって? あなた、ひょっとしてSFファンじゃないすか? むかしパタリロも言っていたように、Light Amplification by Stimulated Emission of Radiation が正解。復元してみると、「レーザーで焼き切る」といった表現が、厳密には奇妙だということにも気づいたりする。慣用としては、十分容認されるだろうけどね。“レーザー”という言葉は、ああいう位相の揃った光が出てくるプロセスと現象を説明しているのであって、光そのものを指しているわけではない。うるさいことを言えば、「レーザー光線で焼き切る」とでもせねばならないはずだ。だけど、こっちのほうがクラシックな感じがして、なんだか冴えないのもたしかだよね。
 で、TCOなんだが、たぶんこんな言葉、数年後には誰も口にしなくなってるんじゃあるまいか。しょせん、外国語だからだ。いっそのこと、日本では“TCOが低い”ことを“NMY”(長い目で見りゃ安上がり)とでも言うことにしておけば、みんな元の意味を忘れないと思うよ。NHKがなんの略か知らない人はいないでしょう?


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