間歇日記

世界Aの始末書


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98年7月中旬

【7月20日(月)】
▼あーでもないこーでもないと文庫解説にのたうちまわる。ときおりテレビを点けると、どこもかしこも自民党総裁選のことばかり。三候補の写真が並んで写っているテレビ画面が、こんなふうに見えるのはおれだけだろうか――

 小渕氏  梶山氏  小泉氏 

 なーんか、見れば見るほど似てないすか? 雰囲気も顔形もぴったりなんだよな。ウサギは党内外・国内外の評判に聞き耳を立て、クマは「おれについてこい」とばかりに士官学校風の行進をしている。一番右のポストマンは、もちろん郵政三事業を民営化しろと存在自体が主張しているわけで、ローラースケートの車輪の数が象徴的である。ちなみに、これらはフリー画像なので、欲しい人は Post Pet のサイトで注意書きをお読みのうえダウンロードしましょう。画像の改変は認められておらず、ホームページに使用するときは必ず総本山にリンクを張らなきゃいかんとのこと。おれはユーザじゃないんだけどね。
 さてさて、二十四日が楽しみだぞ。いまごろ自民党内を「ひみつ日記」が飛び交っているにちがいない。
▼それはともかく、最近、意外な番組に山田まりやがひょっこりコメンテーター(?)として現れることが増えているような気がする。なかなか鋭いことをすぱっと言っちゃう面白みがあるのはたしかだ。生来の頭のよさが表面化してきて、「このコは使える」ってことになってきてるのかな。バラエティ番組の進行などを観ていても、ちょっとしたところでただのボケではないキレを発揮していたから、頭はいい子だと思っていたが、なにやら大ブレークの様相を呈してきた。エッセイ集まで出しているようだ。彼女なら自分で書けるだろう。アイドル・ウォッチャーの物理学者、菊池誠さんが以前に野尻抱介さんのところの掲示板で絶賛しておられたもので、さすが達人は目の着けどころがちがう。ボディでもキャラでも口でも勝負できるちょっと面白いコという点で、山田まりやは鈴木紗理奈と好対照を成すと思っている(まあ、どちらもあまりおれの好みではないが)。いっぺん対談でもやらせてみたらどうだろう(もうやってるのかな?)。歌がうまくて頭がよくバラエティもこなせるキャラには森口博子山瀬まみがいるけれども、“国民のおもちゃ”というものすごいキャッチフレーズだった山瀬まみもそろそろアイドルでは通せぬ中堅、空いたニッチを山田まりやが埋めるのかもしれない。ああいう世界にも不思議なことに目に見えぬポストがあるようで、あんまり“キャラがかぶった”タレントが同時期にぼこぼこ出ると、視聴者のほうに記憶の重畳効果が起こり、結局、誰も印象に残らなかったりするのだ。たとえば、松たか子木村佳乃松嶋菜々子とで埋めているニッチ(なんてものがあるのかどうかわからんけど)に、もう二人くらい参入してきたとしたら、おじさんたちにはたちまち誰が誰だがわからなくなってしまう。ここいらを真面目に研究対象にする生態学者とかはいないだろうか――って、こないだから似たようなことばかり言ってるな。

【7月19日(日)】
▼新しいパソコンが来て一か月になる。不具合はまったくなく、夜毎の調教の甲斐あって相当おれ色に染まってきたので、前に書いたように(98年6月19日)そろそろ名前をつけてやろう。ああ、気色悪いと思う方は読み飛ばしてね。無生物に名前をつける習慣のない人には、理解を超えた世界だと思われるからである。人間にとって、使い慣れた道具や機械は、比喩的な意味ではなく文字どおり身体の延長なので、自我の一部が乗り移っているものだとおれは考える。相手に人格(というか、個性)を認めて使ってやるほうが、メンテナンスもうまくいくような気がなんとなくするのだ。同じ製品が世界にいくつもあろうと、おれとしばらくつきあった機械は、おれにとってワン・アンド・オンリーのものである。製品名や型番以外のパーソナル・ネームを与えてやってもいいではないか。かといって、百円ライターに名前をつけるようなことはしない。すぐ別れがやってくるから、情が移ると困るからである。この感じ、わっかるかなあ? おれは自動車やバイクを運転しないが、ドライバーやライダーの中には、共感してくださる方がいらっしゃるのではないかと思う。
 おれの精神構造には、おそらく多数派から見た過剰か欠落があるにちがいない。だが、おれはけっしてそれを“異常”だとは思っていないのだ。無生物の感情を感じてしまう、というか、無生物に感情移入してしまうタイプの心性は、誰の心の奥にも多かれ少なかれ潜んでいる“野生の思考”からくるものではないかと思う。“もの”になにものかが宿っているという感じは、どんなに表層の意識の理屈で否定しても、現代人の中にも拭い難くあるものなのだ。だったら、いっそそれで楽しめばいいではないかと思うわけである。
 御託はこれくらいにして、命名式に移る。まず、おれたちLXer(HP200LXユーザ)は、PCカードやケーブルでノートパソコン等としばしばデータのやりとりをするため、200LXの相棒となる上位の(主にノート)パソコンを“母艦”と呼ぶ風習を持つ。誰が言い出した用語か知らないが、まことにしっくり来る言葉だ。よって、なんとなくパソコンには船(戦艦)の名をつけるのが妥当に思われ、200LXを使い出してからは、いままでもそうしてきた。おれにとっては、パソコンは it でなく she であるということもある。また、やはりSFにゆかりのある名がよかろう。先代、先々代のパソコンの名は、ほぼ同じ型式だったため、“クイーン・エメラルダス((C)松本零士)1号・2号”としていた。ちなみにモバイル系は、電子手帳も含めてすべて“ヌーサイト”((C)グレッグ・ベア)に統一しており、現在使っているHP200LXのパーソナル・ネームは“ヌーサイト5号”である。
 さて、そこで、新たなるわが愛機に与える名だ。一か月つきあってみて、かつてなく快適であるし、クールな黒い筐体とスリムなフォルムもたいへん気に入っている。“ノーチラス”((C)ジュール・ヴェルヌ)や“バシリスク”((C)谷甲州)もいいかと最後まで考えていたけれども、あまり非力なマシンにはもったいないと思い欠番にしていた名をいまこそ与えよう。同じ名をパソコンにつけていた友人もいるし、あちこちで同じ名をつけている人がいるにちがいないが(そうかな?)、これはおれのパソコンだから気にしないのである。ただいまより、わが愛機は“カーリー・ドゥルガー”((C)神林長平)と呼ぶことにする。パソコンという道具には、そもそもの生い立ちから海賊的なところがあるから、堅気の船よりも海賊船の名が似合いだろう。よろしく(って、そんなもん、読者の知ったことか)。
 今日の日記は狂人のたわごとと思われるやもしれないが(いつもそうだっけ?)、一方で、この日記を毎日読んでくださっているような方々の中には、相当数の共感者がいるのではないかとも思うのだった。

【7月18日(土)】
▼おお、小泉氏が総裁選出馬を正式発表したかあ。負けるケンカをまたするつもりか、それとも、勝算ありと見てのことか。国民投票でもするのならかなり勝算はあるかもしれないが、あくまで一政党内の選挙なんだぞ。おそらく負けるだろうけど、将来への投資になる可能性は十分にある。肉を切らせて骨を断つというやつか。このぶんでは、自民党が政権党であるのも時間の問題だと見切ったというわけかな。こいつは面白くなってきた。
▼小腹が減ったので(最近、なぜかこの言い回しがブームのようだが)、ぽてちのプリングルズに納豆を乗せて食ってみる。塩気が利いて、なかなかうまい。今度はクラッカーのリッツに乗せて食ってみよう。

【7月17日(金)】
一昨日の日記で触れた、扇子を動かさずに顔を動かすケチな男の話、「味噌蔵」の枕でしょう、と寺館伸二さんがご指摘くださった。そうそう、ケチの話だから、そうである。寺館さん、ありがとうございます。
▼今日はいろいろメールをいただく日だ。やはり一昨日の日記で、ロシア語がさっぱりわからんのが情けないとぼやいたところ、当の「ロシアSFの現在」特集を監修なさったロシアSF翻訳家の大野典宏さんが、ご自分の訳された作品の表題に関してコメントをお寄せくださった。ホームページをお持ちなのは知っていたが、ここを読んでくださっていたとは――。ロシア語の語彙が皆無に近いおれにとっては、たいへん参考になる情報をいただいた。大野さん、ありがとうございました。ちなみに、秀丸エディタにもロシア語入力マクロがあるそうなのだが、どのみちロシア語が読めなくては使えないよなあ。やっぱり今回は、コピー&ペーストで行こう。とほほほ。
 こういうときに痛感するのだが、コンピュータというやつは、えらく英語偏重だ。まあ、英語圏で主に発達したのだからあたりまえの話かもしれないが、だからといってなにもかも英語に合わせなくてはならないというわけではあるまい。先の大戦後、日本語をローマ字で表記せよと主張する人たちが現れて、ローマ字ならタイプライターが使えることをその大きな利点のひとつに挙げたというが、あんたら、そら、話が逆やがな。日本語は、絶対にひらがなカタカナ漢字ローマ字交じり表記をしないと成り立たない言語だ。おれは別段民族主義者ではないが、ひとつの国が歴史と共に育んできた文化の精髄たる言語の表記を、なにが哀しゅうて機械に合わせにゃならんのだ。まあ、日本の公用語をフランス語にしろとほざいた、志賀直哉とかいうバカな小説家がいた国だからね。日本人の主食をパンにしろと米屋が言うようなものだ。
 そういう阿呆もいたが、幸いにも日本人は、基本的に英語圏の文化が生んだコンピュータで、自国語を扱うのにさほど苦労をしていない(多少の厄介ごとはあるが)。平安時代の女性たちのおかげだ。まさか彼女らも、後年、こんなことで日本語文化に貢献するとは想像だにしていなかっただろうけれども、日本独自の表音文字という革命的大発明がなかったら、おれたちはもっと苦労していたにちがいない。ジャストシステムなんて会社はすぐ潰れていたであろうから、『SFバカ本』シリーズ(大原まり子・岬兄悟編)も出なかっただろう(笑)。漢字文化圏で自国仕様の表音文字を開発するという偉業は、朝鮮なんかだとずっとあとになってからトップダウンで行われたわけだよね。それを考えても、平安の女性たちはすごい。おれが思うに、かなを広めていった人々は、矢も盾もたまらず自己表現したかった、いわば“おたく”な女性たちであって、ほとんどお耽美やらやおいやらの同人誌のノリで日本語に革命をもたらしたんじゃないかな。紫式部だの清少納言だのは、偉大なる“おたく”だったにちがいないというのがおれの説である。その後、かなが日本語にもたらした影響は測り知れない。ちょうど、ちがう性質の金属を混ぜ合わせるとまったく新しい性質を生むことがあるように、かなと漢字、表音と表意の二重構造は、日本語に怖るべき造語能力と表現力を与えた。おれの知るかぎりでは、こんなユニークな表記方法を採っているのは、日本と韓国くらいのものである(それ以外の事例をご存じの方は、後学のため、ぜひ教えてほしい)。
 機械には機械のメリットがあるし、そのメリットが一国の文化的慣習を捨てるに値するものだというのなら、機械に合わせることも絶対にいかんわけではないだろう。しかし、くれぐれも軽々しく目先の利便を優先してはならないと思う。もしも、ロシア人がキリル文字をやめるなどと言い出したら、「ちょっと待て。わしの国でも、むかしこんなことを言い出した連中がおって……」と、おれは彼らに再考を求めることだろう。もっとも、ロシア語が喋れたとしての話だが……。

【7月16日(木)】
▼自民党総裁選(“相殺戦”だっけな?)は、どうやら小渕対梶山の一騎打ちになりそうな気配が濃厚。いや、ちっとも一騎打ちじゃないよね。小渕グループと梶山グループの対決ですな。いずれにしても、つまらん。みんながみんな思っていたとおりじゃないか。国民と関係ないところで勝手に決まるのはけしからんと多くの人が言っているが、関係ないところで勝手に決まっているわりには、国民は正確に予想している。ことほどさように単純な原理で決まっているということの証左だろう。
 マスコミでは、いろーんな人がいろーんな観点から予測じみたことを言っている。いちいちお説ごもっともとは思うが、いまのところ、日本の政局を予測するのに政治評論家もエコノミストも要らない。政治や経済を勉強する必要などまったくない。おそらく、日本の政局を最も正確に予測し得る人々は、動物行動学者だ。揶揄ではなく真剣にそう思うし(それが揶揄なのかもしれないけど)、たとえばサル学の研究者が、その知見やノウハウを以て日本の政治家たちの行動を分析すれば、呆れるほど正確な予測ができるのではないか。主義主張などまったく度外視し、科学者の目で政治家の集団をサルの群れとして客観的に分析するのだ。どんぴしゃりになりそうな気がして怖い。研究テーマとして非常に面白いと、マジで思うのだがどうか。まあ、こんなことやっても迫害されるばかりで、学者として出世できないだろうけど、案外、海外からは高く評価されるかもしれない。
 それにしても、政治家をおもちゃにするのが大好きなマスコミが、京都大学霊長類研究所にコメントを取りにゆかないのが不思議でしかたがない。やったら面白いのに。立花隆氏ならこの企画を真剣に考えてくれるかもな。でも、いかに真面目にやっても『ニュースステーション』的な揶揄に見えてしまいそうだから、アホらしくてやってくれないよね、きっと。「そんなこと、あたりまえじゃないか。学者にインタビューするまでもない」とか言われそうだ。
 巷では、いつものごとく、「誰がやっても同じ」という声が聞かれるが、だったら小泉氏がやったっていいじゃないか。それがいちばん面白いまず面白くなくっちゃあ。おれが思うに、日本はいま“破壊のとき”だ。新しいものを創造することなど、いまや誰もお上には期待していない。それは民間にやらせたほうが、ずっとうまくゆく。現段階でお上にできる最良の仕事は、要らんもの、時代遅れなものを、とにかく叩き壊すことである。あとさきのことなんか考えなくてもいい。それは民間に任せろ。内政干渉ばりの諸外国の声など、知ったことか。これはまず、おれたちの日本の問題である。おれが叩き壊せと行ってるのだから、それによる一時的な混乱や不利益は承知のうえだ。叩き壊してさえくれるのなら、そのことによるデメリットは引き受ける所存である。これは一種の博打だ。そして、いまは博打を打たなければ、どうにも立ちゆかないところまで来ているのだ。その点では、小泉氏のあの危なっかしさが面白い。今回の擦った揉んだで、おれが「この人がいい」と思える人材が自民党には皆無であることを改めて確認したけれど、浮上している中で最もましなのは、小泉・現厚生大臣であろう。もっとも、彼自身は、自分が属しているところがサルの群れにすぎないことをとうに痛感しているにちがいなく、その力学的綻びが見えないうちは、一撃必殺の攻撃に備えてじっと体力の温存を図る狼のように、しばらくはおとなしくしていたいのかもしれない。そういう大人の判断をしているところからして、この人はそのパフォーマンスから想像されるほどには危なっかしい人物ではなさそうだと、おれは思うのだが。

【7月15日(水)】
▼なんでも、東京は拍子抜けするくらい涼しいらしいのだが、京都や大阪は暑い。ちょっと歩くと汗だくになってしまう。パソコンのCPUなどの冷却に使うペルチェ素子をスーツの裏にびっしりと貼りつけ、ベルトに提げたバッテリーから電気を流したら涼しくなるだろうかなどと、アホなことを思いつく。だが、よくよく考えたら、あれはそのものが冷たくなるのではなく、片側の熱を反対側に汲み出す熱ポンプにすぎないから、かえってスーツに熱がこもってしまうだけだと気づく。まあよい。偉大な発明はこういうアホなことの積み重ねから生まれるのだ。
 あまりの蒸し暑さに扇子でバタバタ顔を扇いでいると、なんとなく田中角栄になったようで面白くないが、それでも扇ぐ。扇げば尊し、和菓子の温――などと、わけのわからぬフレーズが頭をよぎる。脳が熱暴走しているらしい。
 そういえば、扇子を動かしたのでは扇子が減ってもったいないので、顔のほうを動かすというケチな男の話が落語にあったように思うが、あれはいつごろのネタなのだろう。なんとなく、かなり新しいネタのような気はするのだが……。こういうことには、喜多哲士さんや田中啓文さんがお詳しいはずで、「冬樹はん、なにをアホなことを言うたはるか」と笑われそうなので、あまりワイルドな推測はしないでおこう。
 このネタを初めて聞いた子供のころ、顔のほうを動かしたって涼しくはならんだろうなどと、至極ありきたりな感想を抱きつつ笑ったものだ。が、いま思えば、この発想はじつにすごい。つまり、絶対空間という概念を批判しているわけであり(?)、このどケチ男は、ここで既にニュートンを超えている。アインシュタインはこの東洋の笑い話をたまたま翻訳で読み、思想的に多大な影響を受けた――わきゃーねーだろ。とはいえ、いくらなんでもニュートンよりは後だろうが、このネタのほうがエルンスト・マッハよりはずっと早いはずだ。落語、怖るべし。
▼次の連休にはハヤカワ文庫の解説を仕上げて、「SFオンライン」の原稿にも目鼻をつけねばならない。今月のSFオンラインはきつい。なにがきついかというと、「SFマガジン」8月号の特集は、「ロシアSFの現在」だからだ。「いまのロシアには、こんなものを書いている人がいるのか」と、目から鱗がぼとぼと落ちたのはいいけれども、内容を手短かに紹介しにくい作品ばかりだ。おまけにおれは、ロシア語がまったく読めない。作品タイトルには微妙なニュアンスや深い含意などがあるにちがいないのだが、今回ばかりは訳者の方々の解説を鵜呑みにせざるを得ない。べつに解説を疑っているわけではないが、自分の解釈と対比して確認することができないのは、なんとももどかしく情けない。おまけに、作家名や作品名は「SFオンライン」でもいつも原語を併記していることもあって、おれ自身わからなくとも、ロシア語が読める読者のために今回も併記はせねばならないだろうと「SFマガジン」に載っているとおりに引き写しているわけだが、ふつうのパソコンでキリル文字を綴るのはむちゃくちゃにストレスの溜まる作業である。しょっちゅうロシア語で文章を書いている人は、キリル・アルファベットのキーボードとか、ロシア語ワープロとかを使っていらっしゃるのだろうが、おれはそんなものを持っていない。エディタの隅にキリル文字を全部打ち出して、一文字一文字、見慣れぬ文字をコピー&ペーストしているのだ。せめて、アルファベットくらいはしっかり勉強しておくんだった。「SFマガジン」が、「バスク語SFの現在」などという特集を組まないことを祈るばかりである。
 若いころはたいてい自分の能力を過信しているもので(定義が逆か。それが若いということなのだ)、せめて十か国語くらいで小説が読め、二か国語くらいで書けるようになりたいものだなどと、いま思えば夢のようなことを半ば本気で考えていたが、日本語と英語を除けば、おれが辞書を引ける程度には文法がわかる言語はドイツ語だけである。「おれは語学に向いているのやもしれぬ」と自惚れていたのは高校生くらいまでで、その後は自分の才能と根気のなさを思い知らされるばかりだ。いまではむしろ、おれは語学が苦手なのだと思っている。学生時代にラテン語を齧ったときに、それをはっきりと自覚した。おれは語学を“勉強”するのに耐えられないのだ。よく考えたら、日本語や英語を“勉強”だと思って覚えたことは試験勉強以外にない。ただただ小説やマンガを読み、歌謡曲を聴き歌い、映画を観るのが好きだったにすぎず、要するに、遊んでいるうちにそれ相応の知識が結果として身についてしまっただけなのだった。ブラッドベリやクラークやディックがスペイン語で書いていたとしたら、スペイン語が読めるようになっていたであろうし、ビートルズやカーペンターズがフランス語で歌っていたら、フランス語ができるようになっていただろう。結局、自分の生活習慣に空気のように組み込めない言語は、少なくともおれには身につかないのだ。こういう人は、語学の才能があるのではないのである。入力と出力の多い言語に、ただ順応しているだけだ。ほんとうに才能がある人というのは、それはもう、さながらモーツァルトのごとくであって、一度耳で聴いただけのセンテンスをこともなげに正確に再現し、しかも忘れない。羨ましいというのを通り越して、化けものじみている。
 もっとも、おれだって、額の絆創膏を取れば、それくらいのことはできるのであるが、周囲の人が取ってはいけないと言うのだ。どれ、ちょっとだけ剥がしてみようか――アブトル・ダムラル・オムニス・ノムニス・ベル・エス・ホリマク。われとともにきたり、われとともにほろぶべし。アブトル・ダムラル・オムニス・ノムニス……。

【7月14日(火)】
98年7月11日の日記に書いたヘンな政党の公約、「SFは人心を惑わすから、書いたら市中引きまわしのうえ打ち首獄門、読んだら終生遠投、所持が発覚したら切腹のうえ御家御取潰し」に関して、大久保潤さんから誤字のご指摘。あっ、ほんとうだ。“遠投”などと書いている。直しておきました。“遠島”が正しいので、学生さんは試験に書いたりしないように。もっとも、手で書く場合はまずまちがわないだろうけどね。そのうち学校の試験も全部パソコンで答案を書くようになるだろうから、そのときは気をつけてください。だけど、そうなったら、漢字の試験というのはどのようなものになるのであろうか。
 それはともかく、“一生ボールを遠くに投げ続けないといけない刑”というのがあったら、それはそれで面白いと大久保さんはおっしゃる。おれも一票。受刑者がボールを力のかぎり遠くに投げると、しばらくして同じ強さで手元に戻ってくる。「おーい、でてこーい」と叫ぶと、向こうからも「おーい、でてこーい」と叫び返してくるのだ。戻ってくるとわかっているボールを、受刑者は繰り返し繰り返し投げ続けるわけである。シジフォスの労働だ。やがて、受刑者は手近な材料で投石機を作って、さらに遠くに投げてみるのだが、やはりボールはさらに遠くから正確に投げ返されてくるばかり。さらに受刑者はピッチングマシンを開発するが、投げ返されてくるボールの球威を増す結果にしかならず、それに当たってはたまらないので、びくびくしながら暮らすことになる。機械に完全に支配された状態だ。いっそのこと、投げ返されてくる剛速球にわざと頭をぶつけて自殺しようとまで考えた受刑者は、最後の最後にいい手を思いつく。ピッチングマシンを調整し、ボールを正確に真上に投げ上げるようにするのだ。計画は図に当たり、自動的にボールを投げ返し続けるピッチングマシンの傍らで昼寝をしながら、受刑者は機械と人間性とが必ずしも相反するものではないことを悟りはじめるのだった――って、「イカルスの翼」(堀晃)だよな、これじゃ。
 もっとも、誤変換の“終生遠投”は、よく考えたら、すべての人間が生まれたときから課されている刑罰だと言えないこともない。お、今日はやけに哲学的だぞ。
▼会社から帰ると、なにやら大きな袋がおれ宛に配達されている。持ってみると、ずしりと重い。なにしろこの日記にはろくなことを書かないから、爆発物でも送ってこられたのかと一瞬緊張する。オウムの残党の仕業かもしれん。差出人の名を見ると“真由美”という人物からだ。ますます爆発物の線が濃厚になってきた。
 恐るおそる開けてみると、中から巨大なゴム製のカエルが出てきた。6月14日にサンシャイン水族館で見た世界最大のカエル、ゴライアスガエルをひとまわり小さくしたくらいのでかいカエルだ。腹のところに電池を入れる場所があったので、とにかく入れてみる。ゲコゲコと大声で鳴きはじめた。振動を感じるセンサーでもついているのだろうかと、よくよく観察すると、どうやら口のところから赤外線が出ているらしい。
 この鳴きガエル、商品名を「RANDY RIBBET」といい、前を人などが通って赤外線を遮ると鳴き出すという仕掛けになっているようだ。つまり、防犯ブザー(?)として使えるわけである。パソ通友だちの那須高子さんうさぎ屋さん真希さんが、面白いのでわざわざ送ってくださったのだった。ありがとうございます。
 これは使える。非常に実用的だ。さっそく玄関の下駄箱の上に設置する。もし何者かがドアをこじ開けてわが家に潜入せんとしたとすると、カエルの出す赤外線ビームを横切ってしまう。するとこの“ランディ君”がゲコゲコと大声で鳴き出し、危険を知らせるというわけである。まさかカエルの置物が防犯グッズだとは、ルパン三世も気がつくめえ。もちろん、ふだんはドアに鍵がかかってはいるのだが、人間、うっかり忘れるということもある。そんな万一のときに、大いに役立ちそうだ。侵入者に物理的ダメージを与えることはできないが、心理的には相当動揺するにちがいない。ここらはけっして治安がいいとは言えないから、たいへんありがたいプレゼントだ。問題は、毎朝家を出るたびに、ゲコゲコ鳴き出すだろうことだが、出がけの挨拶だと思えば可愛いものである。
 図らずも、今日もカエルの話になってしまった。

【7月13日(月)】
▼もし夜中に起きられたら、起きて仕事をしようと目覚まし時計をセットして寝たが、やっぱり起きられなかったのか、気がついたら朝だった。夏は体力の消耗が激しくていけない。朝刊によれば、おれにとってはまことに喜ばしい開票結果。やっぱり、投票率が上がるとガタガタになるね、自民は。 vote for ではなく、vote against の選挙というやつだ。まあ、日本に議会制民主主義を定着させるためには、まずはここからはじめるしかないや。欧米の民主主義国は、事ある毎に日本の政治の後進性を揶揄するが、今回のような場合は「おお、よくできました。花丸花丸」とでも言いながら、やっぱり腹の底では「ようやくここまで来おったか」と上から見下ろすような目で見ているのにちがいない――と思うと、喜ばしいと同時に非常に不快である。そんなもん、あんたらとは議会制民主主義の年季と意味がちがうんだから、しょーがねーじゃねーか。いまに見てろよ。
▼「この冬樹蛉って野郎、なにやらカエルに妙なこだわりを持っているのは知っていたが、こんなところにまで出張ってカエルの広報活動をしているのか」と呆れている人が、そろそろいらっしゃるのではなかろうか。『まんちゃーだ妖異譚 カラミティ・プリンセス 災の凶姫』(秋津透、角川スニーカー文庫)のあとがきに、「蛙関係の資料調達で絶大なる御協力をいただきました、SFレビュアーの冬樹蛉さん」と、怪しい人物の名が言及されているが、これは誤植ではなく、たしかにおれのことである。“SFレビュアー”とかいう人が、なにゆえに“蛙関係の資料”などを持っているのか、繋がりがさっぱりわからないのだが、わかる人にはわかるからいいのだ。まだ全部読んでいないのだが、この話には“モンテデラーナオオベルツノガエル”という架空のカエルがうようよ出てくる。全国かえる奉賛会の推薦図書に認定してもらえるかどうか、タレ込んでみようかな。
▼うちのウェブページをちょいとお化粧してみた。トンボ壁紙を白一色にして、テーブルにバックグラウンド・カラーを指定しただけだ。テーブルは全部いじるのはけっこうな手間なので、さしあたり各コーナーの入口ページだけ。追いおい全部手を入れよう。テーブルのバックグラウンド・カラーは、ブラウザによっては見えないのでいままで避けていたが、もうそろそろ、見える人が58%以上にはなっているだろうと判断し、導入することにした。誰にでもストレスなく見てもらえるページにしようとすると、それこそテーブルすら使えないし、どのみち、万人におれの意図した姿でこのページを見てもらうのは不可能なのである。極論すれば、一人ひとりがちがう色、ちがう姿でこのページを見ているわけだ。してみると、ウェブページってのは、ちょっと小説に似ているかもね。

【7月12日(日)】
▼さてさて、参議院議員選挙の投票日。いつもの日曜どおり、昼ごろ起きてうだうだしつつニュースを見ていると、なにやらやたら出足がいいらしい。テレビってのは怖いねえ。こういう報道を見て、「おや、みんなが行っているようだから、私も行かねば」と思い腰を上げた人も少なくないにちがいない。そう考え出すと、昨日あんなことを書いていたわりには、正直なところ、大衆というものに対する侮蔑に似た感情が湧き起こってくるのだが、手前もその大衆のひとりなのだから始末が悪い。要するに、おれは天邪鬼なのである。午前中でこれだけの投票率が出ているということは、すでに結果が見えたも同然で、投票所に足を運ぶのがますます億劫になってきたが、体調がよくないので夕方までうだうだとウェブページのお化粧などをし、涼しくなってからようやく投票に行く。
 晩飯を食っても、まだ体調が悪い。身体にまるで力が入らず、およそなにをしようという気も起こらない。早くも夏バテの様相を呈している。テレビ報道によれば、どうやら国政選挙としては近来稀に見る投票率になったようで、となると、選挙速報など観ていてもしかたがない。食後、ものすごい睡魔に襲われてなにも手に着かず、とにかく倒れるように寝る。今日は、じっくり仕事をするつもりだったのだが……。

【7月11日(土)】
▼なにやら、やたら不在者投票が増えているという。投票者の絶対数が増えているのではなく、投票が前倒しになっているだけだという穿った見解もあるが、少なくとも絶対数が減るのを効果的に防止できてはいるんじゃないかと思うね。そりゃあ、「貴様が日曜日に住所周辺に不在なのはいかなる理由によるものか、詳細に述べねば事前に投票することはまかりならぬ」などと、お上にエラそうにされたんでは、誰が不在者投票などするものか。日曜にどういう理由でどこにいようと、おまえらの知ったことか。「土日は愛人の家におりますので、事前に投票いたします」と正直に言うやつがいるか? 正直に言ったとして、不在者投票を認めてくれるのか? こんな簡単なことが、どうしていままでわからなかったのだろう。わかっていたのかもしれないが、なぜこうも改善が遅れたのだろう――などとカマトトぶってもしかたがない。理由はあきらかで、いま現在政治家であって力を持っている人間の多くは、じつは投票率が上がるのをけっして望んではいないからである。日曜日にわざわざ投票しにいくような人間が増えたのでは、組織票の力が弱まり、したがって、結果が読みにくくなってしまう。気軽に投票する人間が少なければ少ないほど、「こことここと、この団体を押さえれば大丈夫」とばかりに効果的な選挙戦が展開できる。組織票で支えられている類の政治家が、「みなさん、投票しましょう」などと言っているのは大嘘だ。みんなが投票したら困るくせに。投票率が低いことによって存在できているような政治家には、市場原理が働かない。よって、腐敗する。あたりまえの話である。だが、当の政治家にとっては、みずからの雇用の安定のためには、絶対に自分に投票してくれるとはっきりわかっている人々だけが投票所に行ってくれれば、それでいいのだ。
 これはまずい。積極的に票を投じようと思える政治家がいるかどうかはともかくとして、少なくとも“自分の職が安定している”と安心し切っているような政治家を駆逐するところからはじめなくてはならない。営利企業ではあたりまえのことではないか。えらく今日は真面目だが、心配ご無用。この日記が最後まで真面目なわけがない。
 そこで、だ。とにかく、洒落でいいから投票しよう。お友だちと誘い合わせて、トトカルチョをやればよろしい。なあに、ちっとも不謹慎なことなんかない。サッカーくじと同じようなものだ。まあ、お金を賭けてはいけないから、点数を賭けることにしましょうね(爆)。選挙を使って、もっともっと遊べばいいのだ。サイコロに政党と候補者の名前を書き、「なにが出るかな、なにが出るかな」と歌いながら投票所の表で転がし、出た目のとおりに投票する。「自由連合、略してェ?」「ジレーン!」などとみなで叫ぶ。当たった人にはライオン君からシャンプーだのなんだのをプレゼントしよう。比例区と選挙区の連勝複式で楽しむのもいい。日本の将来が云々などと肩に力を入れる必要などあるものか。思いつきでだろうが、顔の好き嫌いでだろうが、ネクタイの柄でだろうが、毛鉤に引っかかってだろうが、とにかくむちゃくちゃを投票すればいい。「いい人(党)を選ぼう」などと贅沢なことを考えてはいけない。しょせん、おれたちゃおれたち相応の政治家しか持つことができないのだから。そもそも民主主義が機能していない現段階では、むちゃくちゃな投票をしてでも票の絶対数を増やし、地位の安定にぬくぬくとしている粗悪な政治家を追い落とすことが先決だ。ちゃんとした民主主義はそのあとの話である。政治家なるものは、おれたちの気まぐれや思いつきで(あるいは、熟考や見識で)一夜にして失業者になり得るのだという本来の状態を実現し、政治の品質向上を怠っているくせに権力だけは行使する劣悪な政治業者を顫え上がらせてやらねばならないのだ。競争原理を機能させなければ、政策論義もへったくれもあるものか。まずはそこからだ。
 そういうわけで、今回は、とにかく遊ぼう! 洒落でいいよ、洒落で。みんなが洒落で入れるようになって投票率が上がれば、そのうち「核武装してアメリカをやっつけよう。もちろん徴兵制は復活させよう」とか「北朝鮮に攻め入って食いものをばらまき、クーデターを起こさせて傀儡政権を立てよう」とか「東洋人には害を及ぼさない致死性ウイルスを開発して北方領土に散布し奪取しよう」とか「宇宙人に生きかたを学ぼう」とか、いろいろむちゃくちゃを言う政党も出てくるだろう。そうなれば、たまたまそんな政党が与党になって、ほんとうにむちゃくちゃをやられてはかなわんから、みんな必死で投票する。「不倫・援助交際は死刑」「未成年は携帯電話やPHSの携行を禁止する」「SFは人心を惑わすから、書いたら市中引きまわしのうえ打ち首獄門、読んだら終生遠島、所持が発覚したら切腹のうえ御家御取潰し」くらいの公約を掲げる党が出現すれば、相当数の妻帯者と人妻と女子高生とSFファンが、少なくとも投票所には行く――とかなんとか、冗談だと思ってるでしょう? でも、いまの状態だって、本質的には同じことなんだけどな。あたりまえのように棄権する人は、投票しなくてもべつに実害がないという暗黙の宣伝に引っかかっているだけだ。そういう人は、「冬樹蛉の日記を一度でも読んだことがあるやつは死刑」と公約している政党が政権を握っても、絶対文句を言わないように。従容と死に赴いていただきたい。


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