間歇日記

世界Aの始末書


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98年7月下旬

【7月31日(金)】
▼自分の作ったリンク集であるからして、なるべく引っ越し先を追跡し死んだリンクを減らそうとたまにチェックしているのだが、リンクが増えてくるに従って、それもままならなくなってくる。リンクの生死をチェックできるツールを提供しているサイトもあるが、そういうものを使ったとしても、一時的に繋がらなかったのか引っ越してしまったのかは判断できないから、結局、いちいち見に行くのがいちばん確実だ。
 「リンクワールド」「科学関係のリンク」をひさびさにチェックしていると、新しい発見がいくつかあった。
 まず、 Okamoto Hiroyuki さんのあの有名なシンプルページ「うにの観察」が更新されていてびっくり。いつのまにか、うにうにくんは海に帰っていた。めでたし、めでたし。
 「世の中にはヘビの好きな人がいるもんだなあ」と、イラストの可愛らしさとヘビ写真の美しさに感嘆してリンクを張った「Love SNAKES」というサイトは、リンクが死んでいた。ディレクトリ構造を変えたのかなと思い、一階層上位のディレクトリに這い上がってみると、そこはストリップ・ダンサーの家永翔子氏のページだった。「おや、この人はたしか……」と思い当たりリンクのコーナーを開いてみると、はたして家永氏のお姉さんのページへのリンクがあった。「EVE's ROOM」、そう、女優でストリップ・ダンサーのEVE氏のホームページである。ヘビのページはこちらに移っていたのだった。おれがヘビページにリンクを張ったときには作成者のプロフィールは伏せられていたのだが、なんと、おれが感嘆したヘビページは、あのイヴちゃんが作っていたわけである。もちろん、いまはこれらの情報はご本人が開示しておられるから、ここにこうやって書いたっていいだろう。引っ越し先がわかったので、「Love SNAKES」のリンク先を改めておいた。こちらから入った人は、プロフィールを辿ってびっくりという寸法になっている。それにしても、この人のヘビ好きは本格的だ。芸名と関係があるのだろうか。EVE氏がパソコンを趣味にしていて、近年インターネットで活躍しておられることは知っていたが、スネーカー(と呼ぶことにしよう)としてこんな活動をなさっていたとは、まったくWWWってのは面白いところだ。
 いまは芸名を英語に変えておられるが、“イヴちゃん”はじつはSFと接点がないでもない。ツツイストの方はご記憶だろう。筒井康隆が犬神博士役で本格的な演技を見せた、映画『スタア』(原作・製作:筒井康隆/監督:内藤誠/音楽:山下洋輔/1986)に、タレントの浜口じゅん役で出演しているのだ。主演格は、水沢アキ原田大二郎峰岸徹である。面白い映画なのに、なぜかゴールデンタイムの映画劇場とかではやらんなあ。南伸坊のターザンが半裸で雄叫びを上げながら画面を横切ったり、タモリのアドルフ・ヒトラーがマンションの扉の向こうに立っていたり……ゴールデンタイム向きでしょう? 原作では、扉の向こうに立っているのは天皇陛下なのだが、やはりやばいというので映画ではヒトラーに差し替えられたという経緯があったそうだ。タモリの演じる天皇陛下(もちろん当時は昭和天皇である)、見たかったなあ。
▼とうとうカレーを食ってしまった。大塚食品の「あ!あれたべよ キーマカレー&サフランライス」というのがやたらうまそうで、食ってみたらほんとうにうまい。やっぱり夏はカレーだ。おれはともさかりえがあまり好きではないので、いままで「あ!あれたべよ」を食べずにきたが、これはうまい。さすがはボンカレーの大塚である。ことインスタントに関するかぎり、ラーメンは日清、カレーは大塚だ。二百円の「ラ王」の足元にも及ばぬ、泥水の中で回虫がのたうっているような代物に七百円も八百円も取っている店はざらにあるぞ。これからは、店でまずいカレーを食うたび、こんなことなら四百円で「あ!あれたべよ」を買って食えばよかったと思うことになるであろう。
 憎むべきは青酸カレー事件の犯人だ。被害に会った人々ばかりでなく、あの夏祭りに参加していた人々のすべてが、これから一生カレーを食うたびに厭な光景を思い出してしまうにちがいない。ラーメンにせよカレーにせよ、誰もが親しんでいる庶民の食いものである。ふつうの日本人なら、一生に数え切れないほどラーメンを食いカレーを食う。そのひとつに忌まわしい思い出を植えつけるとは、まったく憎んでも憎み切れぬやつだ。
 それはともかく、「あ!あれたべよ キーマカレー&サフランライス」はうまい。うまいうまいと後味に浸りながら、犯人への新たな怒りを滾らせるおれであった。

【7月30日(木)】
▼さすが知恵の塊みたいな風貌のヨーダ宮沢は、なにを言っているのかさっぱりわからぬ小渕氏とは、ちょっと言うことがちがう。「ハード・ランディングなら誰でもできる」のだそうだ。揶揄ではなく、一縷の望みをかけてお手並みを拝見したい。だが、“誰でもできる”と“いつでもできる”はかなり意味がちがうと思うぞ。何度もソフト・ランディングにトライしているうちに燃料がなくなり、最後のあがきで機首を上げたところがたちまち失速、錐揉み状態で地面に激突してバラバラに砕け散る――なんてのはご勘弁を。燃料が尽きたら、ハード・ランディングすらできなくなる。
 宮沢蔵相が妙な比喩を出すもんだから、日本中であちこちのSFファンが、トム・ゴドウィンの古典「冷たい方程式」(『冷たい方程式』トム・ゴドウィンほか、伊藤典夫ほか訳、ハヤカワ文庫SF・所収)を連想しているにちがいない。SFをあまりお読みにならない方のために、簡単に筋をご紹介しておこう。
 植民惑星に物資を運ぶ一人乗りの貨物宇宙船に少女が密航、航宙中に発見したパイロットは愕然とする。聞けばこの少女、植民惑星で働く兄に会いたさに無邪気にも乗り込んだだけだというのだが、宇宙船の燃料は目的地までの加速減速に必要なギリギリの量しかなく、余分な質量を積んだままでは十分な減速ができず安全な着陸は望むべくもない。規則では密航者は問答無用で船外投棄せねばならないことになっている。ましてや、この船が積んでいる物資が届かなければ、植民惑星で大勢の死者が出ること必定の重要なミッションなのだ。一刻も早く少女を放り出さなければならない。血の通った人間であるパイロットは悩みに悩み、納得した少女が従容として船外投棄を承認したことでさらに悩むのだが、やがて為すべきことを為す――という、じつに冷厳な暗い感動を呼ぶ話である。密航者がむさいおっさんだったらエアロックから蹴り出してやるのだが、なんの悪気もない可憐な少女であるところがニクい。なにも宇宙に放り出さんでも、ほかに方法があるはずだ――ってんで、その後、国内外で数多くの本歌取りが書かれ、“方程式もの”というサブジャンルを生むきっかけとなった記念碑的な作品である。「そんな作家知らんなあ」とSFファンでない方はおっしゃるでしょうが、まあ、ご本人には失礼だが、名作短篇一作のみがSFの歴史に残ってしまった“一発屋”さんと言わざるを得ない人である。缶コーヒーのCMに出てきたりすることはない。
 さてさて、わが日本号に密航した少女は、さしずめ護送船団に甘やかされてきた金融機関といったところか。「冷たい方程式」のほうは、ハードSFファンに言わせるとじつはそんなに冷たくなくて、少女ひとりぶんの質量くらいならなんとでもなるらしいのだが、不良銀行の質量はそんなに小さくはなさそうだ。船外投棄をいつまでもためらっていては、ハード・ランディングのチャンスすら失い、惑星表面に激突してしまうのではあるまいか。
 今日の The New York Times on the Web によると、アメリカの経済専門家たちは、日本の実質的な不良債権は、日本政府が公式に認めている額の倍、一兆ドルになんなんとすると結論づけているそうだ。ホワイトハウスの認識でもあると思っておいてよいだろう。これをアメリカの情報操作による外圧と見るか、事実に近い傍目八目と見るかは問題だが、徐々に暴かれた山一証券の小手先芸などを思うと、一事が万事だろう。大蔵省が把んでいる数字(あるいは、信じたがっている数字)など、粉飾決算を根拠にしたきわめて信頼性の低いものにちがいない。この件に関しては、どちらかというとアメリカの言うことを信じるね、おれは。外国人である連中のほうが、自民党より危機感があるんじゃないかなあ。日本経済の破綻で風邪を引くのは連中も同じだからね。
 おれはとっとと総選挙をやって博打を打たせてほしいと思っている国民であるが、ちょっとでも舵を取るからには、引っ掻き回して悪化だけはさせないようにがんばってね、ヨーダ宮沢さん。あまり期待せずに期待してますから。May the Force be with you.

【7月29日(水)】
▼例の青酸カレー関連のニュースを観るたびに、新たな怒りがふつふつと湧き上がってくる。むかしの青酸コーラ事件などとちがい、今回は、犯人がカレー鍋に近づけた機会は相当限られてしまうはずである。優秀な日本の警察のこと、捜査が進展していないと見せかけて、酒鬼薔薇のときのように、もはや限りなく黒に近い容疑者を詰めの段階まで絞り込んでいるのではなかろうか。二、三日中には「犯人逮捕」のニュース速報が流れ、「こんな意外な人物が――!」とまたまた日本中がびっくりしたふりをすることになるのだろう。不謹慎だとは思うが、なんだかそんな様子が目に浮かび、いっそう暗鬱な気分になる。また子供だったら厭だな。
 それにしても、おれはつくづく不謹慎にできているらしく、怒り心頭に発しながらも、ここ二、三日、無性にカレーが食いたくてしかたがない。しょせん人間、こんなもんかもしれん。
▼「年寄りの出る幕じゃない」とおっしゃったときには、おれの中で宮沢元首相の株が急騰したが、なんだ、結局やっちゃうのか。けっして老人を差別しているわけではないが、どんな有能な人物であったとしても、物理法則に従って生きているからには、限界というものがある。小渕氏らには敬老精神というものがないのか。こんな難しい時期に、いまは静かに暮しているご老体に大蔵大臣を押しつけるとは、無茶にもほどがある。おれは憶えてるぞ。総裁選の候補が定まる直前に、ある自民党議員が「わが党は多士済々ですから」と胸を張っていたのを。この人しかないと言わんばかりに担ぎ出したのが七十八歳の元首相だとは、ほんに多士済々であることよ。

【7月28日(火)】
▼蒸し暑い。脳の熱暴走は依然続いている。リーディングをやらねばならんのだが、これが横文字のくせに妙に暑苦しい文体で、とても電車の中で読む気になれず、弱冷車の中でぼーっと遠くを見ながらとりとめもないことを考え続ける。京都の夏は地獄だ。熱した水飴の中を泳いでいるような感じである――と以前にもどこかで書いたような気がするが、この際それくらいの重複は気にしないことにしよう。さすがに頭を冷やさねばやばいと思い、帰りの電車の中では仕事もせず、たまたま本屋で見つけた川原泉のエッセイ集『事象の地平』(白泉社)を読む。こ、これはいかん。植木不等式もそうだが、川原泉の文章もなんとなくおれと周波数が近すぎる気がして、一気読みは頭によろしくない。といいつつ、全部読んでしまう。頭を休めたのか酷使したのかよくわからん読後感がすばらしい。ところで、event horizon の訳語に“事象の地平線”を使う人と“事象の地平面”を使う人がいるけれども、あなたはどっちだろう? “事象の地平線”などと聞くと、おれはカーペンターズの兄妹が潮汐力に引きちぎられながらさわやかな声で歌っているシュールな絵が浮かんでしまう。SFは絵だねえ(なんかちがうぞ)。かといって、厳密には正しい言いまわしであることはあきらかだが、“地平面”なんて不自然な言葉はほかに聞いたことがない。“事象の地平”とぼかしたまま止めたところにかえって深遠さが感じられ、さすがは川原泉だと妙なところで感心する。もっとも、第11講にあるハイゼンベルクの不確定性原理だが、「すべての物体の位置を同時に知ることはできない」ってのは、法則というものをおもちゃにする意図の講義であるとはいえ、ちょっと省略しすぎかと思うぞ。“位置と速度”としないと意味がないですよ、川原教授――っつっても、おれもこれ以上突っ込まれると不確定になってゆくばかりなので、詳しいことは菊池誠先生か前野昌弘先生に訊いてください。
 家に帰ってもまだ暑い。「あついーっ!」と意味もなく吠える。外にいるどこかの犬が反射的に吠え返したとしたら、これがほんとの室外犬反射だ。ああ、くだらん。こういうのを思いつくと、それこそ反射的に類似のパターンを考えてしまう因果な精神構造で、下品になるからやめろというのに脳は止まらず、あわてて抜いたところ女性の膝に飛び散ってしまうのは膝蓋射精というにちがいない、などとひとり納得する夏の夜であった。

【7月27日(月)】
▼先週観そびれていた『NHK人間大学 宇宙を空想してきた人々』(講師・野田昌宏)の再放送の録画を観る。「SFの三巨匠」というタイトルを新聞で見てチャンネルを合わせた人は、当たっていただろうか。クラーク・アシモフ・ハインラインだと思った人もいただろうし、星・小松・筒井だと思った人もいただろう。西城秀樹・郷ひろみ・野口五郎だと思った人もいないとはかぎらない。江利チエミ・美空ひばり・雪村いづみにちがいないと――はっ、なにを言ってるんだ、おれは? また脳が熱暴走している。要するに、SFにかぎったことではなく、誰もが認める“三巨頭”とか、誰でも知ってる“御三家”とかがなくなっちゃったのが現代という時代なんだよな。
『ハンサムウーマン』(明智抄・大原まり子・小谷真理・斎藤綾子・佐藤亜紀・島村洋子・菅浩江松本侑子・森奈津子/ビレッジセンター)を読みはじめるや、松茸が食いたくなる。松茸など、毎年トラックで注文しているのだが、残念ながらいまは夏だ。ああ、残念だ残念だ。それでも松茸が食いたくてたまらないので、コンビニで買ってきたチーズバーガーを食ってよしとする。はっ、なにを言ってるんだ、おれは?
高島礼子が出演している『女教師』というテレビドラマがあるらしいが(おれは観たことがないのだ)、なかなかヘンテコでインパクトのあるタイトルである。“女弁護士”とか“女検事”とか“女刑事”とかは、実際にはあまり目にしないのだが、フィクションの世界では慣れっこになってしまっていて新鮮味がない。教師という、むかしから女性がうようよいてあたりまえの職業に、あえて“女”をつけた妙な言語感覚はなかなかすごいと思う。インパクトがあるばかりではなく、それ自身が戦略的言説となっている。『男刑事コジャック』『地上最強の美男スティーヴ・オースチン』などと想像せざるを得ず(ひょっとして想像してるのはおれだけか?)、非常に痛快である。
▼英会話学校のNOVAのCMをご存じだろうか。発音のいい英語の先生をやたら尊敬しているらしい女学生が、“I wish I were a bird.”と海に向かって叫ぶやつね。ごく短いセンテンスなのに、なぜあの先生の英語があんなにうまく聞こえるのか、ちょっと英語の先生ぶって(といっても、おれは教師の資格は持っていないが)種あかししちゃおう。なるほど、あの女学生の発音がひどいことによって引き立っている効果もある。だが、決定的なのは、じつは個々の単語の発音ではない。イントネーションである。あの先生は、“I WISH I were a bird.”と“おれは望む”ところを力強く言っているが、女学生たちは“ I WISH I were a bird.”と、誰が望んでるのかいまひとつはっきりしない言いかたをしている。ここに気をつけるだけで、ずいぶんと英語らしくなる。“My name is Ray Fuyuki.”などと名告るときも同じ要領だ。日本人が名告ると、百人中、九十七、八人は、“My NAME is ……”とやる。ちゃうちゃう。“MY NAME is ……”と、やったんさい。「お、すげー、英語っぽい」って、自分でも驚くから。むろん文脈にもよるのだが、なによりも“わしが”“おれが”“あたしが”“わてが”と、手前が宇宙の中心ででもあるかのように世界を切り取るのが英語流である。発想の身売りをしているようで、おれはなんだかはしたなく感じるんだけどね。かといって、どこに責任があるのかはっきりさせず、ものごとが成り行きで流れてゆくかのような日本語の美点も程度問題ではある。ハイ、小渕さん、読んでみて――My name is Keizo Obuchi. Everyday, Low Profile. Have it your own way. I'm finger-licking good. Once you're on top, you can't stop. Intel Inside, I'm taking no side.

【7月26日(日)】
▼おやおや、夏祭りのカレーで食中毒かあ、夏場は外でもの食うときには気をつけんとなあ……などと、ほとんど一種の風物詩のように思い、さほど気にも留めていなかった和歌山市の事件だが、今日になってびっくりである。死者が出ているではないか。しかも、食中毒なんぞではなく、カレーから青酸化合物が発見されたという。無差別殺人事件だ。毎年お祭りを楽しみにしていただろう小学生や高校生が死んでいる。なんともえげつないことをするやつがいるものだ。こんなふうに利用できる形での青酸化合物がそこいらに転がっているわけもないから、どのみち犯人はすぐ捕まるだろう。
 おれは基本的に死刑は廃止の方向へ持って行くべく努力すべきだろうとは思っているが、オウム真理教のテロだとか、こういう無差別殺人事件だとかが起こるたびに、やはりこいつらのために死刑は残しておいてやらねばなるまいと考え直す。死刑をやるのなら、方法が絞首刑だけというのも納得がいかない。同じ死刑でも等級をつけるべきで、人間としての尊厳を保ったまま一瞬で死ねる楽なやつから、虫けらのようにのたうちまわって数日かけてやっと死ねるというものまで幅広く取り揃えるべきではないか。もちろん、愉快犯の無差別殺人なんてのには、後者がふさわしい。
 むかし“破れ傘刀舟”というテレビ時代劇のヒーローがいた。庶民に慕われている赤ひげみたいな医者なのだが、権力者の悪事を暴くや相手の屋敷に単身乗り込み、みな殺しにして帰ってくるのだ。とんでもない医者である。この男が悪漢どもを斬り捨てる論理が面白かった。「刀というのは人間を斬るものではない」「このような悪事を働いたおまえらは人間ではない」「ゆえに、叩っ斬ってやる」というのであるが、心情的にはたいへんよくわかる論理だ。叩っ斬ってやりたいやつは、いっぱいいる。
 ――しかし、だ。やはり、冤罪の可能性は常に残るのである。ここが悩むところだ。百パーセント客観的な事実なんてものはない。そもそも人間に人間を裁く権利などあるのかという根源的な問題もある。だが、社会秩序の維持のためには必要悪として裁かねばならない。妥協案として不可逆的な刑罰は行わないという考えが死刑廃止の論拠にあるけれども、懲役だって不可逆的だ。まちがいで臭い飯を食わされた年月は帰ってこない。最終的には、社会秩序と人権とのコスト論に帰着するのだろう。じつに難しい問題だ。少なくともおれは、「死刑廃止が世界の趨勢」だからといって、そうそう手放しには賛成する気になれないのである。
 なにはともあれ、今度の事件の犯人は一刻も早く捕えてほしい。こいつが愉快犯で、まだ残りの青酸化合物を持っていたとしたら、あまりの愉快さに味をしめて再び犯行に及ぶ可能性もある。これからあちこちで小さな夏祭りがある。「こんなことが起こっているから、食べものはやめておこう」などと大事を取るところも出てくるだろう。おれが自治会町とかだったら、やっぱり考えるよ。これは四人を殺しただけの犯行ではない。日本全国の子供たちの想い出に対する犯行だ。こんな不埒な輩は叩っ斬ってやってくださいよ、刀舟先生。

【7月25日(土)】
「SFマガジン」9月号は怪獣特集「巨大怪獣の咆哮」。作家陣が楽しい。牧野修、朝松健、小林泰三、田中啓文――って、朝松氏を除く三人は、昨年の京都SFフェスティバルでステージ・デビューした(?)“マンガトリオ”97年11月15日の日記参照)じゃあーりませんか。この三人で怪獣座談会でもやってもらったら、500号くらいのページ数が必要かもしれない。
 小説はあとでじっくり楽しむとして、先にエッセイだけ読む。「人生を変えたこの怪獣」ってのがすごいね。ふつうだと「なにをオーバーな」と思われるタイトルだろうが、この業界のこの年代の人間にとってはちっともオーバーではない。小林泰三さんの「キャプテンウルトラ」についての回想には大笑い。思えば、ロボットの“ハック”ってのはいいキャラクターだったよなあ。あのころは、チョコやらラムネやらを詰めたハックの人形がお菓子屋で売られていて、おれも同じものを何体も持っていた。一体くらい残しておけば自慢できたのに、残念だ。『宇宙戦艦ヤマト』のロボット“アナライザー”を見て、「あ、ハック入ってる」(なんて言いまわしは当時なかったが)と思ったのは、おれだけじゃないだろう。そうそう、バンデル星人型の消しゴムなんてのもあった。全然消えないんだ、これが。こすればこするほど紙が黒くなってゆくばかりで、そのうちバンデル星人の首が折れたり手が取れたりする。ああ、こういうネタは若い読者にはウケないとわかっていても、やっぱり書いてしまう。いいんだ、日記だから。
 それはともかく口惜しいのは、ここで小林さんがネタにしている「キャプテンウルトラ」の最終回が、まったくおれの記憶にないということである。なにかの都合で観られなかったのかもしれないし、裏番組に浮気していたのかもしれない。『「キャプテンウルトラ」の最終回ほどぶっとんだものにお目にかかったことはない』と小林さんのような猛者に言わしめる最終回とは、いったいどのようなものであったのだろう。ハックやキケロ星人ジョーやバンデル星人やらがみんなでキャプテンを取り囲み、「おめでとう、おめでとう」とやったのだろうか。
 田中啓文さんのエッセイにあるクイズ、おれは苦もなくわかってしまった。どんなのか知りたい人は、ちゃんと本屋で買うように。面白いのでおれも同じようなクイズを作ってみようと、「松竹怪獣の中でいちばん……」と考えはじめたら、ギララしかおらんやないかと気づいてやめた。誰だ、そこで「日活怪獣の中でいちばん……」と突っ込んでるのは。

【7月24日(金)】
▼大山鳴動して鼠一匹――ってのはべつに顔のことを言ってるわけじゃなく、おれの正直な感想。こうなる可能性が最も高いことがわかっていたとはいえ、もしかしたら……と、期待もあったんだがねえ。そうかそうか、やはりまだまだわが党は大丈夫だと思ってるわけね。それとも、どうせ半年ほどの首相だから、いままでがんばってきた人柄のいいおじさんに最後の花を持たせようってわけだ。その半年の遅れが、わが国にとって致命的にならないことを祈るばかりである。
 まあ、たしかに小渕氏は人のよさそうなおやじではあるよ。プライベートでつきあったら面白い人なのかもしれん。でもねえ、“調整力”だかなんだかしらんが、そんなもんを評価している場合じゃないだろう。いまは、調整するときじゃなく、打開するときだ。もう、笑っちゃうしかない。
 テレビってのは怖い。先日、小渕氏が喋っているのを聴いていて、「あーあ、やっぱこりゃあかんわ」と決定的に思ったことがあった。恒久減税額について触れたとき、小渕氏は言った。「……というわけで、六兆円という額を計算していただきました
 あのなー、言葉が丁寧なのはいいけれど、時と場所を考えろよ。公のテレビ放送で国会議員が官僚に敬語を使ってどうする。しかも、自分の政策を述べている重要なときにだ。官僚は、自分の能力で官僚になったという、ただそれだけのものだ。あんたは有権者の投票で選ばれた議員、しかも大臣である。実態はともかく、あんたのほうが偉いんだよ。「……、計算させたところ、六兆円という額になりました」ってのが、大臣の正しい言葉遣いだろ。国民の代表が公僕を使って行った計算の結果を、国民に報告しているわけでしょーが。誰が誰に権限を委託していて、誰に主権があるかもわかってない政治家に、官僚に痛みを与えるような改革ができるものか。せいぜい“身内”で調整力を発揮して、仲間褒めされているがいいよ。テレビってのは、こういうところが怖いわけ。こうやってわざわざ言語化するやつが少ないだけで、テレビ観てる人はみーんなその一瞬、「あれ?」と、ひっかかりを感じてるわけ。公約の言語を文字で読んだのではわからないメタメッセージをテレビは伝えてしまうの。おわかり? それがちゃんとわかっていた佐藤栄作元首相は、むしろテレビにのみ身を晒すことのほうを選んで、つまり、メタメッセージのほうを重視して、あのときああ言ったわけ。ちょっとは先輩から学んだら?
 まあ、「自分をもっと知ってくれ」とばかりにテレビに出まくった小渕氏の目的は、おれに関するかぎり、十二分に果たされたと言ってよい。たしかに、よくわかりましたからねえ。

【7月23日(木)】
▼ひょっとすると、おれは変わり者である可能性もないではないかもしれない――と、さすがに今日は首を傾げてしまった。またもや自民党総裁選関連の話である。
 小渕氏が選ばれるようなら新党結成も辞さぬとの動きが若手党員から出ているそうなのだが、それに対して「選挙に負けたら出てゆくなどというのはおかしい」などとコメントしている御仁があった。そ、そうかあ? おれにはごく自然な主張だと思われるのだが……。政治に携わるという営為にあたって、最も基本的なところでまったく考えかたのちがう人間が同じ政党にいるほうが、よっぽど奇妙なことである。一緒にいられないんなら、新党でもなんでもどんどん作って、国民により多くの選択肢を提供するがよかろう。それが政党政治というものの本来のありかたではなかったのか? おれは大きなかんちがいをしてきたのだろうか? 先のコメントを吐いた人は、自分の言っていることがいかに珍妙かにまったく気づいていないにちがいない。要するに、「政党なるものは第一義的に“数合わせ”のために存在しており、その数合わせは組織票が決定的に支配する」という、目的と手段とがひっくり返った論理の世界にあまりに長く浸りすぎたせいで、この人の知性は摩耗し、感性は鈍化しているのだ。たぶん、「おかしいですよ」と教えてあげても、きょとんとするばかりだろうな。語るに落ちるとはこのことだ。
 こういうヘンな人を教育し直すためにも、ひとつマスコミの方々に提案したい。“浮動票”という言葉をやめてはどうか。「それぞれに己の考えを持った人々が、みずからの投票権をより効果的に活かすため、考えを同じゅうする人々同士で示し合わせて投じる票」“組織票”の本来の定義(だとおれは思うのだが、ちがうかな?)だとすれば、対する“浮動票”には「己の考えの定まらない人々が、主に好悪や雰囲気のみに流され、行き当たりばったりに投じる票」という侮蔑的なニュアンスがある。だが、もはやこの定義は逆転していると言ってもいい。そこで、旧来の“浮動票”を“自由票”、“組織票”を“自動票”とでも呼べば、より世の趨勢にマッチしてわかりやすくなると思うのだがどうか。マジだよ。ぜひ、検討していただきたい。

【7月22日(水)】
▼ひっさびさに、昼飯にビフテキを食う。どうもおれたちの世代(などと人を巻き込んではいかんかもしれんが)は、ビフテキなるものは、それはもうたいへんに高級な食いものであり、年に何度も口に入るものではないという刷り込みを受けているのではないかと思う。べつにガイジンが食っていても「あ、こいつは金持ちだな」とは思わんのだが、自分で食うとなると話はべつだ。質にこだわらなければ千円くらいでそこそこのものは食えるにもかかわらず、なぜかビフテキは意識の底で神格化されているような気がするのだ。何千円も出してビフテキ以外のものを食うことだって、ときおりはある。だが、千円だろうが八百七十円であろうが、ビフテキはやはりおれの中では食いものの王者なのである。今日のように昼間から食ったら、なにやら悪いことをしているような気がして落ち着かない。たとえばの話、どう考えてもおれなど相手にしそうにない美女が言い寄ってきたかのような、「嘘でしょう、これは」という気持ちが、ビフテキにはついてまわる。単に“貧乏性”という言葉では言い表わせない、精神病理学的ななにかが絡んでいるのではないかと思う。
 ま、こうしたうしろめたさを感じながら食うビフテキは、ことのほかうまい。高校生が便所で煙草を吸ったら、こういう味がするのかもしれない。
▼自民党総裁選が近づいている。おれはべつにこの日記で政治活動をしているわけではないから、特定の人を推すつもりもないのだが、そろそろ好き嫌いだけはあきらかにしておこう。どう転ぶにしても、小渕氏だけは勘弁してくれ。政治家たちは誰もこの人を正面からは攻撃しないではないか。「あの人は敵のいない人だね」などといけしゃあしゃあと評している。敵のいない人間など、よほどのボンクラか大天才かに決まっているじゃないか。おれが信用する最後のタイプの人間が(英語的なロジックだなあ)、「敵がいない」と人に言われているような人間である。およそ自分の主義主張というものがあれば、敵を作らないのは原理的に不可能だ。というか、敵ができないようなものは、主義主張と呼ぶに値しないとおれは思っている。敵のいないようなリーダーはもう要らんってば。ときには、アメリカを敵にまわしてでも、言うべきことをびしっと主張してくれる人がよい。
 それにしても、もどかしいよなあ。なんで内閣総理大臣をおれたちが選べんのだ。ご存じない方のために一応宣言しておくと、おれは憲法改正論者である。天皇制を廃止して、日本を大統領制の共和国にしてしまえと思っているのだ。べつに皇室を御家御取り潰しにする必要はないから、あの一族には洒落で存続してもらってもいっこうにかまわない。京都に戻ってもらい、古くからの珍しい風習をいまに伝える人たちとして、観光客の呼び込みに活躍してもらおう。そうすれば、京都も潤い、おれたち市民も、よりよい公共サービスが受けられる。おお、いいことずくめじゃないか。

【7月21日(火)】
▼バスの吊り革にぶら下がってぼーっとしていると、ふと目の前のボタンが目に留まった。「お降りの方はこのボタンを押して下さい」
 ああ、いやだなあ。おれは「ください」と書くほうが好きだなあ。でも、このボタンに書くのでは、一文字でも少ないほうがいいしなあ……。
 などと漫然と考えたとき、突如、おれの脳裡に鮮烈な映像が浮かび上がった――

 腰の曲がったお婆さんがよろよろとバスに乗り込んできて、空いている席に座る。やがて、お婆さんの降りるバス停が近づいてくる。お婆さんは「お降りの方はこのボタンを押して下さい」と書いてある例のボタンを押す――。だしぬけにバスの天井が吹き飛び、数秒後、お婆さんは座席ごと天空高く射出される。

 じつにくだらないネタであるが、あまりにくっきりと絵として浮かんだものだからおれのツボにハマってしまい、爆笑しそうになるのを必死でこらえた。頬がぴくぴくと引き攣る。ここで笑い出したら、ほかの乗客を驚かせてしまう。力なく吊り革にぶら下がっている額の広い貧相な男が、なんの前触れもなく「わははははははは、わはははははははっ」などと笑い出してみろ。黄金バットかと思われること必定だ。バスに乗っているあいだ繰り返し襲ってくる笑いの発作をこらえるのは、じつに苦痛であった。
 おれのギャグは、たいてい文字か音の形で脳に像を結ぶものなのに、今日のように画像でやってくることは珍しい。昨日、ハヤカワ文庫の解説原稿に苦しんだために言語優位脳が疲れていて、反対側の半球が相対的に強くなっているのやもしれぬ。
 それにしても、これ、ぜひ映像化してほしいなあ。「巨泉・前武のゲバゲバ90分」(なーつかしー)向きのネタなのだが、ああいう番組が最近見当たらないのが残念だ。まあ、あれを一年もやった日にゃ、放送作家はバタバタ倒れるでしょうな。いま考えても、よくもあんなものすごいことができたもんだと感嘆する。お若い読者のためにご説明いたしますと、九十分間で百本のコントをのべつまくなしにやるという、とんでもない番組だったのだ。のちに、同じノリで「カリキュラ・マシーン」という教育番組(!)が出現したときにはたまげた。あれは、まずまちがいなく「ゲバゲバ90分」と「セサミストリート」のコンセプトを融合させたものであろう。出演者の何人かは、当時ですら懐かしいゲバゲバの面々だったしね。「セサミストリート」を観て、「なんだこりゃ。ゲバゲバじゃねーか」と思った人はたくさんいたのだろうけれど、そのぼんやりとした印象を明確に言語化して「セサミストリート」の教育理論に照らし、破天荒な教育番組として企画を通した人には敬意を表する。まったく世の中には頭のいい人がいるものだ。
 おっと、いま気づいたよ。“ゲバゲバ”が放送されていたちょうどその年の昨日、人類は初めて月面に立ったのだった。タメゴローはアッと驚き、月には星条旗がはためいた――と言いたいところだが、はためくわけがないので、宇宙飛行士が無理やり手で広げていた。あれからもう二十九年かよ。おれが死ぬまでに、人類は火星の土を踏むかなあ。


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