間歇日記

世界Aの始末書


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98年8月上旬

【8月10日(月)】
▼今日から夏休み。といっても、やたらやることが多く、ただ会社へ行かないだけで、仕事ばかりしている。表仕事も裏仕事もだ。やれやれ。
「日経サイエンス」9月号の「液体で実現する量子コンピューター」(N.ガーシェンフェルド@MIT、I.L.チャン@IBM/北川勝浩訳)という記事を読んで唸る。ベッタラ漬けのお礼状を音声入力できるくらいで「すっげー」などと驚いていてはいけない。
 “量子コンピュータ”なるものが可能かもしれないという話は、かなり前から話題には上っていた。素粒子の量子力学的状態の変化を“演算素子”として用いれば、0か1かのフリップ・フロップではなく、0でもあり1でもあるといった、値が“重ね合わせ”られた状態を一素子で扱えるわけだから、現在のデジタル・コンピュータをはるかに凌ぐ高速演算ができるはず――というのだ。理屈では可能かもしれんが、そんなもん、どないして作るねん、とおれは浅はかにも思っていた。
 ところが、この論文は、「自然は、量子コンピュータの心臓部となる最も開発が難しい部品を,すでに完成させてくれていたのだ」などと大胆なことを言う。量子コンピュータを作るのには、ナノテクもなにも要らない。そこいらの液体があればよいというのである。観側による収束で量子コンピュータがたちまち“量子”コンピュータでなくなってしまう問題は、液体を膨大な数の量子コンピュータの集まりと看做すことで解決できるばかりか、核磁気共鳴を利用して液体中の分子を磁場で操れば、演算素子として振る舞わせることができるのだそうだ。理屈だけじゃなく、実際にこの研究者たちは、2キュービット(量子コンピュータの場合は、素子の取り得る状態は二値じゃないので、qubit と呼ぶそうな。quantum bit かなんかからの造語だろう)の量子コンピュータを実際に作って(といっても、心臓部はただの液体クロロホルムなんだが)、「4つの選択肢の中から1つの正解を見つける実験を実施し、わずか1ステップの演算でその正解を見つけだせることを実証した」ってんだからすごい。2ビットのデジタル・コンピュータなら、どう考えたって、この問題が1ステップの演算で解けるわけがない。解けたらそれは、25%の確率の“まぐれ”である。量子コンピュータの素子なら、この場合、四つの状態が一度に取れるので1ステップで解けるというわけだ。「すっげー」。
 これを読んだSFファンは、みんな同じことを考えただろう。つまり、ソラリスの海は量子コンピュータなんじゃないか、と。厳密には、ソラリスが自身の地磁気で海の分子を操って“思考”をさせているのかもしれない。磁場が異常に強い星(ということにしておこう)とその海とが相互作用するうちに、相互依存的な進化で知性を発達させたんじゃあるまいか。つまり、惑星と海とがそれぞれ部分構造である巨大な脳だ――なーんて、まさかいくらレムでもここまで想定していたとは思えないけど(あの人ならできたとしても不思議はないが)、あとから出てきた研究や知見を基にして、過去のSFを肴に「あれはこういう仕組みじゃないか?」などと空想してみるのも面白い。『虎よ!虎よ!』の“ジョウント”だとか『火星人ゴーホーム』の“クィム”だとかに、最新科学でもっともらしい理屈をつけるとかさ。まあ、筋金入りのハードSFファンの人たちは、寄るとさわると、こんな話ばっかりしてるから、いまさらなにをと言われそうだけどね。

【8月9日(日)】
▼栄養のある夜食がよかろうと温泉卵を食ったら、なにやら無性に甘いものが欲しくなり、サクラ印のハチミツ(あの哺乳瓶みたいなのに入ったやつね)をちびちび嘗める。嘗めているのがじれったくなり、口の中にだらだらと絞り出して飲んでいたら、気がつくとひと瓶全部飲んでしまっていた。身体にいいのやら悪いのやらわからない。この日記を続けて読んでくださっている人は、おれの奇怪な食生活についてなにがしかの知識をお持ちのはずであるが、誤解なさらないでいただきたいのは、ここに書いているものしか食っていないわけではないという点である。一応、ふつうの食事をしたうえで、神経系の常備薬やらビタミン剤やらを貪り食い、それでも足りずに食っている間食についての話題を主に取り上げているのだ。いくらおれでも、奇妙なスナック菓子や納豆やヨーグルトやナン付きカレーやハチミツだけで生きているのではない。いや、心配してくださる女性ファン(?)から、ときどき「ちゃんと食べてくださいね」などとありがたいお言葉を頂戴するのである。ご心配なく。ちゃんと食べております。むしろ、間食を入れると、人一倍ものを食っているのではないかと思う。これだけ食っても、おれはまったく肥らない。だからこそ、どこかおかしいのではないか、回虫でもおるのではないかとも思うのだが、消化器系の検査で深刻な異常が出たことはいままでに一度もない。おれの消化器系はただ全体が弱いだけで、どこがどう悪いということはないのである。強いて言えば、おれの身体は全体的に燃費が悪いのだろう。胃腸が強ければまとめ食いが可能だが、おれはあまりまとめて食うとすぐ腹具合が悪くなって、下から出てしまう。だから、ちびちびと栄養のあるものを間食するのがよいのである。これだけ間食しても、体脂肪率は18%くらいだ。まったくふつう、というか、むしろ痩せている。ちょっとはボディービルでもやって筋肉をつければいいのだろうが、とくに必要のない筋肉など無理につけても、それを維持するための食費がかさむだけだ。おれに必要な筋肉は、多少歩くための脚の筋肉と、キーボードを打つための手指の筋肉くらいである。
 そこでふと思い出す。中村紘子氏によれば、ピアニストは集中的に弾く楽曲によって筋肉のつきかたが変化し、体格まで変わってくるという。モーツァルトばかり弾いているときとショパンばかり弾いているときとでは、身体が変化するというのだ。これはすごい話である。だとすれば、作家やライターも、キーボードで書いている人は専門分野によって体格が変わるなどということが起こりかねない。SFばかり書いている人とミステリばかり書いている人とでは、手や指、肘や肩などの筋肉のつきかたがちがってくるかもしれないではないか。おれの知るかぎりではどうも相関はないようだが、たぶんパソコンのキーボードはピアノの鍵盤ほど力が要らないからだろう。ピアノの鍵盤はピッチや鍵数を除いては基本的にどれも同じだが、パソコンやワープロは千差万別だから同じような体格にはなりようがないのかもしれぬ。まったく同じ入力環境で、SF作家とミステリ作家の筋肉のつきかたを比べたら、どんな結果が出るだろう。どちらかというとSF作家のほうがカタカナをよく使うだろうから、そのあたりで筋肉に差が出てきたりはしないだろうか。
 さて、くだらないこと考えてないで、仕事しよう、仕事。

【8月8日(土)】
『ウルトラマンダイナ』のタイトル・クレジットを漫然と見ていると、「原案・京本政樹」と出てきてのけぞる。ほんまに好っきゃねえ、京本はん。おまけに、ずいぶんかっこいい役で出演までしている。どのあたりまでが京本政樹のアイディアなのかはよくわからないけど、お話自体はよくまとまっていた。地球を爆破しにきて地球人の暮らしが好きになっちゃう人のいい(?)宇宙人だとか、怪獣の腹の中に入って爆弾の信管を外そうとするパターンだとか、スーパーガッツの攻撃法をダイナがパクるところとか、どこかで見たような“おいしい”シーンをそつなく組み合わせた感じ。たしかに子供番組はこれでいいと思うな。「なんじゃこりゃあ!」という実験はたまにやるからいいので、通常のお話はこうでなくては。おれたちにとっては見飽きたパターンでも、子供たちにとっては初めてかもしれないのだ。やはり京本政樹は、怪獣特撮ものの、この大いなるワンパターンが好きなのだろう。脚本家であれば、「いままで誰もやったことのないものを」という思いが必ずあるだろうけど、京本政樹の視点は役者のそれである。つまり、「ああいうふうなものを演じてみたい」と、過去に感動したシーンを自分なりのやりかたで繰り返すところに重点があるんじゃないかな。爆弾の起爆装置を取り外す際に、「青のコードを切るか、赤のコードを切るか」なんてのは、つい最近でも『アビス』(コードの色はちがうけど)やら『古畑任三郎』やらにあったし、むかしから何度も観てるような気がする。それでも、あえて繰り返されると、やっぱりその都度手に汗握っちゃうんだよね。こういうシーンを“書きたい”とは思わないけれど、“演じたい”とは思うな。
 今回のラストシーンなんかも、おれくらいのおっさんが小説で読んだら「なんと陳腐な」と思うにちがいないが、ドラマで演じられると、やっぱりジーンとキテしまう。O・ヘンリーのがいちばん有名であろう、あの“自己を投げ打って人命を救助した犯罪者をわざと見逃してやる男”のパターンである。この見逃すほうを演じてみたいと思わない人はいないだろう。かっこいいもんなあ。案のじょう、いちばんおいしいところを京本政樹があざとさたっぷりに演じていた。これは京本が下手なんじゃなくて、子供番組だから、これでもかというくらいのあざとい演技でなくてはいけないのだ。彼は、あのラストシーンがやりたいがために原案を出したにちがいない。まあ、あの人くらいウルトラシリーズに愛があれば、なにやったって好感が持てるんだけどさ。やっぱり、愛があるってことは大事なことです、ハイ。
 地球を愛してしまい、地球人の姿で平凡に暮らしている宇宙人(赤井英和)の奥さん役に、ホームページ自作女優としても有名ないとうまい子が出ていたので、なにか撮影秘話でも書いてあるだろうかとひさびさに見にゆく。「今週のディレクターさん」のコーナーに、ダイナの監督(北浦嗣巳)とカメラマン(倉持武弘)がいとうまい子と写っている写真があった。監督のほうがよっぽど怪獣みたいな風貌である(失礼)。

【8月7日(金)】
▼今日はどうもいまひとつネタがないから、昨日触れたアイザック・アシモフ『科学技術人名辞典』Asimov's Biographical Encyclopedia of Science and Technology)について詳しく書く。この世紀の名著をご存じない方は意外と多いらしい。もっともな話で、七一年に翻訳(皆川義雄訳、共立出版)が出ているのだが、おれは本屋で一度しか見たことがない。おれが持っているのは Pan Books の New Revised Edition で、イギリスで出た初めての版である。amazon.comで検索してみると、もはや海外でも絶版のようだ。ヒットはするけれども、アマゾンの“絶版注文サービス”の画面が出てきてしまう。要するに、古本をアマゾンが捜して差し上げましょうというわけである。原書が絶版になっているくらいだから、翻訳書もそうである可能性は高い。いずれも古本屋を捜すしかないのかもしれない。いったいいくらくらいの値がついているものかわからないが、少々無理してでも、ぜひ入手しておかれるとよいと思う。
 この人名辞典のなにがすごいかというと、まず科学者の専門領域にまったくこだわっていない点が挙げられる。ほぼ年代順に1195人(おれの持っている版でだが)の科学者が一見なんの脈絡もなく並べられているのだ。科学技術人名辞典なのに、心理学者のユングまで出てくる。もし、頭から読んでゆけば、そのままで科学史辞典になる。まあ、ペーパーバックで800ページを超える“辞典”だから、そんな読みかたをする人はあまりいないだろうけど。
 この辞典がその怖るべき全貌を現わすのは、誰かひとりを検索してみたときである。たとえば、ガルヴァーニを引いてみる。カエルの脚の実験は有名だ。一度頭に入れたことはけっして忘れないという人間離れしたアシモフの手になるものだけあって、その説明は科学技術的側面に留まらず、科学者同士の交友関係やちょっとしたエピソードにまで及ぶ。読んでいて面白いのだ。当然、記述の中には、ほかの科学者の名前が出てくる。ガルヴァーニの場合だと、フランクリンボルタアンペールの名が挙がってくる。科学者の名にはいちいち番号が振られていて(アンペールなら343)、そこから簡単にアンペールが引けるようになっている。つまり、リンクが張られているわけである。でもって、アンペールに飛んでみよう。すると今度は、エルステッドファラデーガリレオニュートンケルヴィンなどが登場する。さらにケルヴィンを引くと、そこにはジュールデュワーシャルルなどが名を連ねており、カルノーマクスウェルが現れる。もののついでじゃとばかりにマクスウェルに飛ぶと、今度はベルヌーイボルツマンがいて、そしてついに、マイケルソンモーリーアインシュタインの名が記されている。アインシュタインに飛んだが最後(でもないんだが)、プランクコンプトンローレンツパウリハイゼンベルクボーアなどがぞろぞろ出てきて、もうどうにでもしろとハイゼンベルクを引くと、ゾンマーフェルトド・ブロイシュレーディンガーマッハフォン・ノイマンラプラス湯川などが乱入してくるといったありさまだ。
 要するに、さまざまな分野の科学の発達史を縦糸に、人名を横糸にして織りあげた壮大なハイパーテキスト(マルチメディアではないが)なのである。どこからどんなふうに読んでいっても、最初に引いた科学者から関連分野の科学者へと記述が連なってゆき、「この人はこんなこともしていたのか」「この人とこの人は、生身で会っていたのか」などと楽しみながら、おのずと科学史が頭に入ってゆく仕掛けになっている。こんなものすごい辞典は、博覧強記のアシモフを措いてほかの誰に編めようか。最初の版が出たのは一九六四年なのだが、いまであればまずまちがいなくハイパーテキスト仕様のCD−ROMで出ていただろう。おれがWWWなるものを知ったとき、まず連想したのがこの辞典である。版権の問題があろうから勝手にやるわけにはいかないが、この辞典をぜひWWW版にして公開してもらいたいと思っているのはおれだけではないだろう。たとえば、森下一仁さんの「私家版SF辞典」は、あきらかにこの『科学技術人名辞典』の構想をWWWで実現した(しつつある)ものだ。きっと森下さんも、「WWWなるものは、アシモフのあの辞典のでかいやつだ」と思われたのではなかろうか。
 さてさて、この辞典の最後を飾る科学者、1995番は、カール・セーガンになっている。二十年前くらいまでで終わっているのだ。その後得られた科学的知見によって、アシモフの記述にも古くなってしまった部分が相当あるにちがいないのだが、この本が名著であることに変わりはない。理科系・文科系を問わず(そもそもアシモフの中にそんな不可解な区分があったとは思われない)、ぜひお薦めしたい一冊だ。
 番外の科学者として、お茶目なアシモフは、自分自身の業績をこの辞典の書式に則って記している。Born: Petrovichi, USSR, January 2, 1920”とあり、「キャンディー屋の息子として生まれ」た少年が科学者として、SF作家として成功してゆく過程を、自慢屋のアシモフらしく淡々と書き綴っているのがおかしい。アシモフとクラークの自慢合戦は有名だが、どちらも「おれの取ったカブトムシはおまえのよりでかい」「いや、おれのクワガタのほうが値打ちがある」などと言い合っている子供みたいで、厭味がないのが微笑ましいよね。アシモフの訃報が世界を走った日、おれは『科学技術人名辞典』を取り出し、書式に則って書き加えると、あの世なんてものを金輪際信じていなかったわが同志に別れを告げた――Died: New York, USA, April 6, 1992”

【8月6日(木)】
▼広島に原子爆弾が投下された日。べつにこの日がさほど特別な日であるわけではないのだが、昨年の8月6日に書いたように、やはりこの日は真面目に科学技術と人類の性(さが)について考える日にしている。人類の愚行の記念日を調べ上げてカレンダーに書き込んでいったら、三百六十五日全部埋まってしまうばかりか、一日が何十、何百、何千もの記念日になってしまうに決まっている。これからもそんな記念日はどんどん増えてゆくだろう。毎日毎日そんなことばかり考えていては精神衛生に悪いので、便宜的理由から、人類の愚行の記念日をすべてひっくるめた代表の日として、おれは8月6日を特別視することにしている。
 “核兵器を発明した科学者”なんて表現がある。いったい誰のことを言っているのだろう? アインシュタインか? ラザフォードか? オッペンハイマーか? 核兵器なんてのは、「さあ、発明しよう!」と誰かが思いついて、一朝一夕に“発明”されるような単純なものではない。ひとりの科学者の業績は、先人の業績の上に、あるいは、新しい着想のアンチテーゼとしての先人の業績があればこそ、成り立つものである。“核兵器を発明した科学者たち”とあえて複数にしたところで、どういう形でどこまで関係した科学者を含めるのか、とても線が引けるものではない。アインシュタインを“悪党の一味”だとするのなら、ニュートンやマクスウェルを含めたってよかろう。だとすれば、ケプラーやファラデーだって無実じゃあるまい。いや、ティコ・ブラーエがいなければケプラーにあれだけのことができたかどうか。また、リーマンの幾何学がなかったら、アインシュタインはその卓抜な着想や思索を他人に伝えられる形で体系化できただろうか? そもそもユークリッドがいなければ、非ユークリッド幾何学なんてものが現れるはずもなく、リーマン幾何学も金輪際生まれなかっただろう……こうやって辿ってゆけば、あたかもアイザック・アシモフ『科学技術人名辞典』Asimov's Biographical Encyclopedia of Science and Technology)のように、リンクしていない科学者なんていないにちがいない。いや、科学者の着想や思想だって時代の産物だ。政治にも社会にも藝術にも哲学にも宗教にも、ほかのあらゆる分野の文化に大きな影響を受けている。つまるところ、核兵器は人類がみんなで発明したのだ。おれも発明者のひとりである。あなたも、これから生まれる子供たちもだ。おれの中にも、あなたの中にも、自然の神秘を観察や思惟で暴いてゆく崇高な能力と、邪魔者を消し去るための巨大な力を欲しがる卑しさが同居している。
 そのすばらしさとバカさ加減をひっくるめて、おれは人類という種がいとおしい。自分もその一個体だからだ。そのバカさ加減のために滅びたとしても、それが人類だったのだから、ありのままの人類を愛してやりたい。そのすばらしさを大いに発揮して宇宙に繁栄し、いつの日か異星起源の知性やみずからの手になる人工の知性に対面したとしたら、人類は自滅に到る性(さが)を克服した自分たちの歴史を、彼らに誇らしく語るかもしれない。そうなればそうなったで、おれは嬉しい。ひとつひとつの分かれ道で、棒がどちらに倒れるかはわからない。まだまだ、誰にも、わからない。

【8月5日(水)】
▼朝、カッターシャツの頚のところに、ほつれた糸の端が出ているのを見つけた。首に当たって気色が悪い。引っ張るとほどけてしまうだろうと、鏡を見ながら鋏で切ろうとした。なかなかうまくいかない。鏡の中の鋏はおれの思う角度で糸に当たってくれず、だんだん苛々してくる。ブラック・ジャックは鏡を見ながら何度か自分の身体を手術していたが、いくら天才でもあんなことができるとは到底思えない。おれはもちろん自分でネクタイを結ぶことはできるが、人にネクタイを結んでやるとなるとまったく勝手がちがうはずである。よくホームドラマなんかで、奥さんが旦那さんのネクタイを結んでやっているシーンが出てくる。あんなこと、ふつうの家庭ではほんとうにやっているのだろうか? 少なくとも、おれはいままで一度たりとも、そんな光景を生で見たことはない。また、他人の服のボタンを外したことはあるが、よく考えたら、掛けたことはない(ホックはあるかもしれん)。そうか、男ものの服と女ものの服がそれぞれ左前・右前になっているのは、お互いに相手の服のボタンが外しやすいようにした工夫なのではあるまいか。
 それはともかくといたしまして、ブラック・ジャックの話だ。鏡の中の自分の身体にメスを入れることができるくせに、臓器がきれいに左右逆になっている珍しい患者を手術する羽目になったときは、思いどおりに腕が揮えず、やたら難儀していたものである。ケッタイなやっちゃ。そのときは、とっくにネタがバレバレのピノコの機転で難局を脱するのであったが、なんぼなんでも妙じゃないかと思った。まあ、手塚治虫にだって、こういう粗はいっぱいある。あれだけ完成度の高い読み切り短篇を、よりによって週刊誌に連載していただけでも超人的偉業だ。多少の粗には目をつぶろう――というか、かえってそういうのを捜すのが楽しかったりする。得な作家だなあ。
 朝にそんなことがあって手塚治虫が頭に残っていたせいであろうか、会社の帰りに『手塚治虫キャラクター図鑑1 「鉄腕アトム」とロボット・変身ヒーロー編』『手塚治虫キャラクター図鑑2 「ブラック・ジャック」と不滅のスター名鑑編』(監修:手塚プロダクション、構成・文:池田啓晶)の二冊を衝動買いしてしまった。一冊千八百円もするのだ。全6巻の刊行予定だから、一万八百円の出費はすでに約束されてしまったようなものだ。こういうのって、つい買っちゃうよねえ。パラパラ見ていると、懐かしい顔があちこちに出てきてとても楽しい。「こいつにも名前があったのか」なんてキャラクターも出てくる。どうせ好きものの大人を狙って企画した図鑑なんだろうから、いっそのこと、キャラクターの名前の部分を空欄にしておいて、解答篇を7巻めとして売り出せば二度楽しいのに。
 あっ、さっそく2巻にまちがいを見つけてしまった。『ブラック・ジャック』の「しめくくり」に登場した瀕死の小説家の名前は、“井中大海(いなかたいかい)”ではなく“井中大海(いなかおうみ)”だぞ。むろん「井の中の蛙、大海を知らず」から着想した人名だろう。こういう愉快なネーミングセンスも、手塚治虫の才能のひとつだよね。天は二物を与えずなんてのは、絶対嘘である。五物も六物も与えられてる人ってのは、たしかに存在するのだ。ひとつくらい分けてくれてもええやないか。

【8月4日(火)】
▼さて、やってまいりました、マダム・フユキの宇宙お料理教室の時間です――というわけで、ついに決行する。なにをって、決まってるじゃないか。本日のお料理は「納豆のヨーグルト和え」98年8月1日の日記参照)でございます。みなさま、メモのご用意を。
 まず、納豆であるが、これにはアサヒマツの「なっとういち」(ダブルパック)を使用した。この製品、「におい控えめ」というのを売りにしており、いわば関西人向けにマイルドにした邪道である。あまりおれの好むところではないが、これしか手に入らなかったのでいたしかたない。本来であれば、きちんと藁苞に入った水戸納豆あたりを使用したいものだ。ここらではまず見かけない。残念だ。
 ヨーグルトは、いつもの500g入りプレーンを使わず、明治ブルガリア・ヨーグルト(200g)の低糖タイプを用意した。なにしろ、とんでもない味になるやもしれず、500gをいきなり使っては、万一のときにもったいないと思ったからである。
 さて、納豆の下ごしらえだ。ご丁寧にも、かつお風味のだしと練り芥子がついているのだが、これはもったいないからそのまま使う。納豆にだしと芥子をぶちまけ、よく糸を引くまで箸でぐちゃぐちゃと混ぜ合わせる。ほどよくネマリが出たらヨーグルトのパックにあけ、今度はスプーンで底のほうからヨーグルトをからめるようにかき混ぜる。おおお。納豆のねばねばとかつおだしのため、ヨーグルトはちょうど山芋おろしのような淡い山吹色になり、納豆は徐々に糸を引かなくなってくる。これでできあがりだ。なんという簡単な、しかし栄養のありそうな料理であろうか。ヨーグルトの中にほのかに納豆の粒が透けて見え、あたかも孵ったばかりのおたまじゃくしがそこかしこで蠢いているモリアオガエルの卵塊のようで可愛い。
 見栄えがなかなかうまそうなので、なんの抵抗もなくそのまま口に運ぶ。ううむ。不思議な味だ。ヨーグルトの酸味がやや強すぎ、ともすると納豆の風味を封じがちではあるが、納豆の粒を噛みしめると、一瞬ヨーグルトが後退し、納豆が舞台前面へと躍り出る。芥子もしっかりと脇を固めていて安定感がある。私の記憶が確かならばぁ、芥子入りアイスクリームなんてのがあるくらいだから、ヨーグルトにだって合うのだろう。やや塩気が足りないように思い、さらに醤油を加えてみる。やはりアイスクリームに醤油を垂らすとうまいことは経験ずみなので、ヨーグルトと不仲だということはないだろう。はたして、醤油を入れるときりりと雰囲気が締まり、どこへ出しても恥ずかしくない食いものになった。さらにタバスコを入れると締まるような気もするが、今回は一応の成功を見たということでやめておいた。
 このようにヨーグルトと混ぜると、面白いことに納豆の香り(おれは好きだが、これが嫌いだという人が多い)がほぼ完全に抑えられる。これであれば、納豆の嫌いな方にも自信を持ってお薦めできそうだ。もっとも、お薦めした途端、どつき倒されるかもしれないけれども。
 エキサイティングな味覚体験で、またひとつ人生が豊かになった。おれが鉄人になれる日も近い。

【8月3日(月)】
▼おお。おれの吸っているマイルドセブン・エクストラライト・ボックスが二百三十円に値下がりした。十円下がったということは、一日約ひと箱吸うとして、年に三千六百五十円の得。十年で三万六千五百円、百年で三十六万五千円、千年で三百六十五万円、一万年で三千六百五十万円か。なんだかすごく得した気分である。単純なやつだ。
 しかし、だ。一本あたりのタールが三ミリグラムとして、年に七千三百本で二十一・九グラム。一万年ぶんだと二百十九キログラムのタールになる。マイルトセブン・エクストラライトだと、ニコチンはその十分の一で二十一・九キログラムだ。全部身体に入るわけじゃないが、さすがにこれだけの量ともなると、もしかすると多少身体に悪いのではないかという気がおぼろげながらしてくる。やはり健康のためには、一万年も煙草を吸い続けてはいけない。千年くらいでやめておいたほうがいいだろう。
 いま話題の内分泌撹乱物質、いわゆる“環境ホルモン”の一種“X”を、仮に一本に一ピコグラム含む煙草があったとする(仮にだよ、JTの方)。一グラムの“X”を摂取するには、五百億箱吸わねばならず、一日ひと箱吸う人なら、一億三千六百九十八万六千三百一年とちょっとかかる計算になる。一億三千六百九十八万六千三百一年前といえば、中世代ジュラ紀の末期で、文字どおり『ジュラシック・パーク』に出てきたような恐竜たちがそこいらをのし歩いていたころだ(もっとも、あの小説はタイトルに反して白亜紀の恐竜のほうが多く登場するが)。そのころから今日まで毎日ひと箱ずつ煙草を吸い続けて、ようやく一グラムの“X”を摂取した人に、「ちょっと一本」ともらい煙草をしただけで身体に深刻な悪影響を及ぼす物質が“環境ホルモン”だというのだ。おれたち煙草吸いにとっては“プールに目薬”なんて例より、こういうバカな計算のほうがよっぽど説得力がある。
 まあ、とにかく、あなたの健康を損なうおそれがありますので吸いすぎに注意しましょう。SMOKING IS HAZARDOUS TO YOUR HEALTH.

【8月2日(日)】
▼体調最悪。食欲も性欲も物欲もなく、ただただトドのようにうだうだ過ごす。ゴータマ・シッダルタは、きっとこういうときに悟りを開いたのであろう。エアコンを点ければ点けたでなにやら寒く、消したら消したで蒸し暑くてたまらない。妙なタイミングで汗が吹き出してくるかと思えば、出るべきときに出なかったりする。完全な自律神経失調だ。おれは生まれる時代をまちがえた。もう少し未来、機械が自意識を持つに到った時代に、機械として生まれてくるべきであったかもしれない。この蛋白質のヤワな身体には子供のころから悩まされている。むかし諸星大二郎「生物都市」を読んでいて、あの腰の痛い爺さんにやたら感情移入してしまったものだ。まあ、炭素をベースにした生物に生まれてしまったわが身の不幸を嘆いていてもしかたがない。機械知性は機械知性でそれなりの悩みもあろう。この身体、あと二十四年はなんとか機能させたいから、せいぜいメンテナンスに励むことにしよう。
 晩飯を前にしてもまったく食欲が湧かないが、薬だと思って機械的に胃に送り込む。薬ですらないな。燃料という感じだ。そうやって燃料を補給していると、テレビからニュースが流れてきた。なんと、例の青酸カレーには砒素まで入っていたという。カレーに混入した毒物の検出ってのは、たしかに素人目にもいかにも難しそうだが、こんなに時間がかかるものなんだろうか。地下鉄にサリン撒くやつとか、子供の首斬って校門前に置くやつとかがいるのがいまの日本で、今回の事件だって、みんな心の底から驚いたりはしていないはずだ。「あっても不思議はないなあ」というのが正直な第一印象だったんじゃないの? 当然、警察は、大勢が食う食品の鍋に毒物が混入されるような事件が起こることを想定していたであろう。帝銀事件や青酸コーラ事件やグリコ森永事件だってあったわけだし、アメリカじゃ売薬に毒物が混入された事件だって起こっている。準備がなかったなんてのは絶対嘘だと思うのだ。おれは日本の警察を過大評価しているのであろうか?
 じつに殺伐として厭な話だが、もはや日本人も“平時をたまに破るのが事件”という認識から、“事件のあいまにたまたまある時間が平時”といった具合に、意識改革をせにゃならんのだろうな。アメリカみたいで厭だなあ。そうは言っても世相は待ってくれない。やっぱり、自宅に武器になるものをいくつか置いておこう。いまの鉄棒だけでは心許ない。ヘンなやつがやってきたときには、おれのような貧弱なおやじでも、やはり闘わなくてはならないのだ。降りかかる火の粉を払ってこそ、文化的な生活も維持できる。曲者を生かしたまま捕えるなんてのは、強い人間だけができることであって、おれが曲者と闘わねばならない状況に置かれたら、たぶん頭の中が真っ白になって、相手を殺してもやむを得ないと、いや、むしろ殺そうとして立ち向かってしまうことだろう。市民の備えとして、正当防衛を構成する要件をしっかり学習しておかねばなるまい。まったく、日本はどうなってしまうのだろう。

【8月1日(土)】
▼話題がないので、またもやカレーを食う。といっても、カレーライスではなく、「ナーン&キーマカレー」(ニッポンハム)という、カレーとナンとがセットになったやつである。インド料理店で出てくる焼きたてのボコボコしたナンとは比ぶべくもないが、なかなか腰のあるそこそこのナンが食えるのはありがたい。飯にするには量が少なすぎるけれど、夏の夜食には持ってこいだ。カレーのほうもなかなか本格的で、食っているときは“うまさ”を感じ、食ったあとに“辛さ”が効いてきて、たちまち目のまわりに汗がにじみ出てくる。こういうカレーはいいカレーですよね。カレーを塗りたくったナンが家で食えるとは、便利な世の中になったもんだ。
▼さらに食いものの話。納豆を切らしてしまったので、しかたなしにヨーグルトを食う。おれが好きなやつは、フルーツやらなにやらが入った小ぶりのヨーグルトではなく、500gパックのプレーン・ヨーグルトである。掻き込むようにして、あっという間に食ってしまう。意識しているわけではないのだが、どうもおれには醗酵させた食品が合うようだ。納豆とヨーグルトなら毎日食ってもいい。いま気づいたが、おれとしたことが、まだ納豆とヨーグルトを混ぜて食ったことはない。なぜいままでやってみようとしなかったのだろう。よし、近々試してみるとしよう。植物性蛋白と動物性蛋白が一緒に摂れるヘルシーな食いものになりそうだ。問題は、納豆菌と乳酸菌の相性である。共存共栄してくれればいいが、互いを攻撃して双方の効能を無力化してしまったりしないだろうか。あるいは、体内でなにか未知の物質が生成され、突如、筋力が六千六百倍になったり、IQが三百くらいになったり、視力が六・○になったり、抜かずの六発くらいは平気になったりしないともかぎらない。身体が透明になったり、人格が善悪に分離したり、たまたまヨーグルトに混入していた蝿を一緒に食ったため蝿男に変身したりしたら、もっと面白い。
 “苦虫を噛み潰す”とはよく言ったもので、われわれ日本人は虫を食うことにやたら抵抗がある。蜂の子だとかイナゴの佃煮だとかは食うけれども、一般家庭の食卓にしばしば上るわけではない。蟻の入ったキャンデーやらチョコレートやらが流行ったことがあるが、あまり食いたいとは思わないよなあ。
 もっとも、夏場は野外でものを食うことが多いから、蝿くらいなら誰もがいままでにも知らずに食っているはずである。知らなければいいのだ。ここで、英語のジョークなぞなぞをひとつ。“What is worse than finding a worm on your apple?”(君が食べているリンゴに虫がついていたのよりもひどい事態は?)答えは“Finding half a worm.”(虫が半分ついていたときさ)。お食事中の方、すみませんでしたー。
 じつはこれに近い経験が何度かある。子供のころ、一家で寿司を食いに行ったときのことだ。茶の入った湯呑みの底になにやら柿の種のようなものが沈んでいたのだ。目が悪いのとお茶が濃いのとで、おれにはそいつがなんだかよくわからず、まあいいやと気にせず茶を飲んでいた。だんだんと茶が浅くなってきて、ようやくその謎の物体は正体を表わした。成虫のゴキブリがまるごと一匹入っていたのである。おれはゴキブリの出し汁をたっぷり飲まされたわけだが、不思議なことにあまり不潔感はなく、嘔吐が込み上げてくることもなかった。飲んじまったものはしかたがなく、騒いでみたとてどうなるものでもない。どうしたものかと母に湯呑みを見せ、黙って中を指差した。母は愕然とし、これもまた黙って板前に湯呑みを示し、中を指差した。板前の顔からさっと血の気が引く音が聞こえんばかりであった。そのときの寿司代はたしかタダにしてもらえたはずで、ゴキブリ汁を飲んで一家で寿司がタダで食えるなら儲けものだなあと思ったものである。それにしても、あのゴキブリ、いったいいつ入ったのだろう。あとから入ったのなら茶に浮かんでしまうだろうから、それは考えにくい。ジャック・マイヨールみたいなゴキブリがおるとは思えん。最初から湯呑みに入っていたところへ、気づかずに茶を注いだのだろう。それでも、ふつうは浮かんできそうなものだ。いずれにせよ、相当根性のあるゴキブリだったにちがいない。ゲンゴロウでなかったことはたしかだ。
 おれはよくよくゴキブリに好かれているらしく、それから何年かのち、今度は中学生のころだったかと思う、またもやゴキブリ汁を飲む羽目になったのであった。近所の人たちと家族連れで琵琶湖に泳ぎに行った帰り、見るからに不潔そうな喫茶店に入った。おれはココアを注文した。誰かのカップをかき混ぜながらおれたちのテーブルに近づいてきたウェイトレスの女の子が、途中で「わ」と言って引き返した。やがて、同じカップを持って現れた彼女は、おれの前にそれを置いた。ココアであった。おれは少し砂糖を加えてかき混ぜ、半分ほど飲んだ。砂糖が溶けきっていないのではあるまいかと、さらにかき混ぜたとき、異変に気づいた。なにやら茶色いものが底のほうから浮かび上がってきて、「あれ」と思う間もなく再び沈んで行ったのだ。ココアの塊であろうか。このとき過去の経験からすでに厭な予感はしていたのだが、おれは剥がしたカサブタから血がにじんでくるのにも似た快感とも不快感ともつかぬ奇妙な感情に胸をときめかせながら、ココアのカップをスプーンで探索した。あった。そっとスプーンを引き上げると、そこにはとても見慣れた虫が――いや、虫の腹部が――乗っていたのであった。テーブルは大騒ぎになり、店の者は平謝りに謝って、新しいココアを持ってきた。今度はタダにしてくれなかった。おそらくウェイトレスは、運んでくる最中にゴキブリを見つけていたのだ。自分でかき混ぜているうちに、せっかくまるごと入っていたゴキブリをスプーンで分断してしまったのだろう。異物が入っているのに気づいた彼女はいったん引き返し、ゴキブリの大部分を捨てて、そのままおれのところに持ってきたにちがいない(どういう神経だろうね)。これが紅茶であれば、ウェイトレスもゴキブリの腹部がまだ残っていることに気づいたのだろうが、ココアだったので“取りこぼし”が発見できず、おれは half a cockroach の出し汁を飲まされることになったのであった。
 おれにとって、夏が来れば思い出されるのは、水芭蕉の花が夢見て咲いている涼やかな光景ではない。ココアの底から悪夢のように浮かび上がってくる“半分のゴキブリ”なのだ。日本には、いい諺がある。二度あることは三度ある、と。三度目はいつ襲ってくるのだろう。


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