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98年8月中旬 |
【8月19日(水)】
▼最近、テレビのニュースが猥語をわめき散らすので、ひとりで顔を赤らめてしまう。おれのような純情可憐な青年には刺激が強すぎる。なにがそんなにいやらしいかというと、“クリントン大統領の体液が付いたドレス”である。“体液”などと言われると、生まれもつかぬおどろおどろしい姿をした軟体動物系の異星生物が地球侵略のために変身している仮の姿がクリントン大統領で、彼――否、それが這いずったあとの路上にぬめぬめと鈍く銀色に光る液体が付着している光景を想像しない人はいないだろう。しないって? さてはあなた、SFファンじゃないな。
それはともかく、ルインスキー嬢のドレスに付いていた(と言われている)のは、クリントン大統領の汗だろうか、涙だろうか、唾液であろうか? はたまた、鼻汁か、血液か、リンパ液か、膵液か、胃液か、胆汁か、脳脊髄液か? それぞれが、いったいどういう状況で付着し得たものかを想像すると――ああ、素敵にいやらしい。羞恥に身をよじらんばかりの妖しく邪な妄想がおれの頭の中を乱舞する。公共の電波であのようないやらしいことを言ってもいいものであろうか。
いちばんいやらしくないのは精液かカウパー腺液である。まあ、男女が一緒におれば、そういうものが付くこともあろう。あたりまえすぎて、そこにはエロチシズムのかけらもない。つまらん。
べつに成人男女が合意のうえでそういう関係になったのであれば、そんなもの本人たちの勝手である。不用意な妊娠を避けるために、口でどうこうしたというなら、その配慮はむしろ責任ある大人として褒むべきことだ。そりゃまあ、事実とすればヒラリー夫人は面白くないだろうが、夫人とクリントン大統領のあいだの感情的問題など、いわば“内政”なんであって、他人の知ったこっちゃあるまい。好きにしてくれ。たとえば、おれがヒラリー夫人と道でばったり出会って意気投合し、「ときに、今晩一緒に過ごしませんか?」「ええ、よろしくてよ」と、飯を食って性交して、朝に「バハハーイ」(古いね)と別れたとする。おれがヒラリー夫人と性交することで大統領がどう思おうが、意志を持った一個人たる夫人が自分の判断で同意したのだから、おれが大統領に気がねする必要などまったくない。夫人と大統領が気まずくなろうがなにしようが、よその家庭内のことである。おれは一応男性として機能する成人なのだから、性交の相手に女性を選ぼうが男性を選ぼうが、未婚者を選ぼうが既婚者を選ぼうが、地球人とシックスナインしようが異星人とアナルセックスしようが、とやかく言われる筋合いなんぞあるものか。そもそも、その異星人が単孔類から進化したやつだったら、アナルセックスしかしようがないじゃないか――って、ちょっと話がずれたような気がするな。まあ、クリントン大統領だって、誰とまぐわおうがかまわないじゃん、そんなもの。
ただし、だ。大統領が立場を利用して、ルインスキー嬢の意志に反して関係を強要したり、そのことについて公の場で嘘をついたり、事実の隠蔽のために工作をしたりしたのだというのなら、おれは激怒するだろう。アメリカ人への街頭インタヴューなどを聞いていると、おれと同じところで怒っている人が多く、話の合いそうな連中だと親しみを覚えるなあ。宇野元首相だって、女性と合意のうえで堂々とおまんこすりゃ、なんの問題もなかったんだが。こそこそするからいかんのだ。自由恋愛によって生じるかもしれない家庭内のごたごたが厭だったら、最初から結婚なんぞしなけりゃよろしい。じつに単純明快な話だ。一応結婚だけはしておいて世間体を取り繕い、しかも面倒事を起こさずに自由恋愛を楽しもうなんて了見は、はなはだ意地汚いと言わざるを得ない。おいしいとこ取りなんてできるものか。それは、配偶者をバカにしておるか、甘えておるかのいずれかだ。妻は夫のママじゃないし、夫は妻のパパじゃないでしょう。
おや、なんの話だっけな? ま、とにかく、誰が誰と性交しようがまったくかまわないのだが、それに伴うことどもを引き受ける覚悟がないのなら、一穴動物や一角獣でいるのも合理的な選択肢でありましょう。もっとも、人間、そういうふうにはできていないと、おれは思うけれども。仮に男性読者諸氏がああいうごたごたに巻き込まれたら、「ええ、彼女のドレスに付いてるのは私の精液ですが、それがなにか?」と胸を張って言いましょう。くれぐれも“体液”などと、卑猥な言葉を使わないように。
【8月18日(火)】
▼ひさびさにファミリーレストランで昼飯を食う。仕事で行った先にろくな食べもの屋がなく、目についたファミレスに入ったのだ。
また食いものの話かというとそうではない。なぜファミレスが目についたかが今日のポイントである(そんなありがたい話ではないので、期待しないで読むように)。ファミレスには、たいていあのバカでかい看板が立っている。じっと立っているものもあるが、しばしば店名を大書した巨大な箱のような看板がぐるぐると回転していたりする。あれは非常に目につくものだ。食べるところを捜して歩きまわり、なかなか見つからずに絶望しかかったときなど、あの店名看板が現れてくれないかと一縷の望みを託して道路沿いを見渡したりするだろう。人事を尽くして店名を待つというやつだ。
今日、あの看板をしげしげと見上げていたら、はなはだもったいない気がしてきた。あれはやはり電気を使って回しているのだろう。わざわざ回さなくても、十分目立つではないか。おれのような近眼でさえ、遠くから「和食 さと」と書いてあるのが見える。あんな巨大なものを終日回していてはエネルギーの無駄遣いだ。
え? 回さないと目立たないって? じゃあ、風力で回せばどうか。ほれ、風力発電ファームとかで使うダリウス・ローターってやつがあるじゃないか。垂直軸の風車で、三百六十度、風がどの方向から吹いても大丈夫なのが特徴だ。よくガソリンスタンドに「営業中」と書いた鉄板が風でぐるぐる回るようにした看板が立っているが、あれもダリウス・ローターの一種である。ただ鉄板の左右の端をそれぞれ逆方向に折り曲げて風受けにしてあるだけの単純きわまりない仕組みだが、“回って目立つ”という役目を最低のコストで十二分に果たしている。さらに目立たせたければ、ローターに派手な色でも塗ればよかろう。ただし、まちがってもピンクに塗ってはならない。
「じゃあ、風のないときはどうするのだ。変な角度で止まったままだと、道路側から店名が見えないぞ」などと、自分の店でもないのに危惧する向きもあろう。そういうこともあろうかと、十分に風のあるときにはあれで発電をし、電気を蓄えておくことにしよう。看板が回らないほど風が弱まったら、コンピュータ制御で電動に切り替えて回し続けるのだ。十分な風が吹いてきたら、いままで看板を回していたモーターは、即、発電機になって、今度は電気を蓄えはじめる。コンピュータの力を借りれば、めまぐるしく風が吹いたり凪いだりしても、効率よくモードの切り換えが可能だろう。いわば、ハイブリッド風車看板である。これをプリウス・ローターと呼ぶ――ってのは、嘘だよ、もちろん。
【8月17日(月)】
▼夏休みも終わり、会社へ行かなくてはならない。多くの人はまだお盆付近に休みを取るようだが、その前後に休みをずらす人もかなり増えているようで、電車はいつもより空いている。驚くべきことに、朝、行きの電車で座れてしまう。この時分に、毎年思うことがある。どうして一年中、こんなふうであってはいけないのだ? 日本人の二十四人にひとりが一月前半に長期休暇を取り、ふたりめが一月後半に取り、三人めが二月前半に取り、四人めが二月後半に取り、五人めが三月前半に取り……二十四人めが首をくくって、そして誰もいなくなった――じゃないってば。つまり、まあ、そういう具合に分散して休めば、満員電車はいま少しはましになるのではあるまいか。いつも満員電車に苦しみ、休みは休みで、行く場所が変わるだけで、やっぱりみんな人の洪水に苦しんでいる。アホらしいことおびただしい。在宅勤務でいいというのなら、給料が六割くらいに減ってもかまわんぞ。会社や顧客との通信費を会社持ちにしても、会社は経費を削減できるだろう。で、空いた時間でなにをするかというと、近所でアルバイトをするなり、同時にほかの会社に勤めればいい。そのほうが地域も活気づくだろうし、結果的にひとりが複数の多種多様の仕事ができて、経済も活性化するような気がしてならない。複数の所得源を持っている人には、税制上の大幅な優遇があるようにすれば、みんなが知恵を絞ってあっと驚くような隙間仕事を考案して、複数の仕事を持とうとするだろう。ひとつの会社に生殺与奪の権を握られているよりは、一人ひとりに心のゆとりができ、みんなのんびりにこにこ仕事をする。それでいて、全体で見てみると、GDPは以前より高い――なーんて社会がやってこんかね。
▼SF翻訳家の岡田靖史さんから、“妙なもの売り”の情報が寄せられた。“チャルメラわらび餅屋”が出没するのは、おれと同じく京都にお住まいなのだから当然としても、なにしろ岡田さんのお宅は「京都と言えばここ!」というくらいの、たいていの外国人ですら知っている“京都京都”したところにある。やってくるもの売りも、京都のはずれのおれのところとはずいぶんちがう。半端ではない妙なものが現れるらしい。
先日、岡田さんは、「たけやーさおだけー」と、むかしながらの風情のある呼び声を聞いた。えーと、お若い読者にご説明いたしますと、これは森光子が味噌を売りに来ているのではなく、竿竹を売りにきているのである。むかしの人は、それを物干し竿にしてみたり、加工して日用品にしてみたり、削って串にしてはそこいらの悪人の延髄に突き刺したりしていたわけだ。まあ、ここまではよろしい。それに続けて、竿竹屋が呼ばわった声に岡田さんはずっこけた――「ご不要になったオートバイ高値で引き取ります」
「なんで竹竿屋がバイク買うんだよ!」と、岡田さんは爆笑問題の田中のように突っ込んでおられる。おれもメールを読みながら、「なんでだろう?」と鈴木京香のように呆然とした。「そのうち金魚売りが段ボール引き取ったり、川魚屋がパン売ったりする日がくるんだろうか?」と、岡田さん。うーむ、まあ来るかもしれないなあ。やはりああいう商売も多角経営化を図らんと生き延びてゆけないかものかもしれない。いまに、竿竹屋がバイクを引き取ったり、スナック菓子や文房具や「毛穴すっきりパック」を売ったり、クロネコヤマトの宅急便を受け付けたり、公共料金の振り込みを代行してくれたり、「引っ張れ」と書いてあるビニールを引っ張ると海苔が一緒に引きずり出されてくるおにぎりを売ったり、ゲームをダウンロードさせてくれたり、コピーやFAXを使わせてくれたり、フランス書院文庫や廣済堂文庫を売ってくれたりするようになるのやもしれん。多角経営化を図った行商人には税制上の大幅な優遇があるようにすれば、みんなが知恵を絞ってあっと驚くような隙間仕事を考案して、複数の品目を扱おうとするだろう。ひとつの商品の売れ行きに一喜一憂するよりは、一人ひとりに心のゆとりができ、みんなのんびりにこにこと――あれ、どっかで似たようなことを書いた気がするぞ。
【8月16日(日)】
▼新しいパソコンにもすっかり慣れてきたのだが、おれはあまりにも低性能のマシンばかり使ってきたため、パソコンから動画が出たり音楽が流れたりすると、いまだに驚く。おしあわせなやつだ。やはり、どこまで行ってもおれは“テキスト族”だ。
せっかく高性能の(いまにすぐ低性能になる)マシンを無理して買ったのだから、ちょいと音も楽しんでみようと、ヤマハのソフト・シンセサイザー「S-YXG50 ver.2.1」と「MIDIPLUG for XG ver.1.00J」の試用版をダウンロードしてみる。インストールしてサンプルを聴いてみて驚愕。いくらハイエンド機とはいえ、しょせんノートパソコンである。が、いったいこの薄っぺらいパソコンの、どこからこれだけの質の音が出てくるのだ。魔法のようである。これを聴いてしまっては、とてもこのパソコン標準搭載のドライバには戻れん。いまどきなにを言っているのかと笑わば笑え。おれのマシンがマルチメディア化されたのはごく最近のことであって、会社のハイエンド機で MIDI ファイルの音楽を聴く機会などないのだからいたしかたない。ううむ、このソフトなら金を払って買う値打ちはあるな。ともかく試用期間中はゆっくり評価させてもらうこととしよう。マシンの性能評価にと、再大同時発音数128音、再生周波数44.1KHzという仕様限界設定にして、NIFTY-Serve の MIDI フォーラムで落としてきたファイルをがんがん聴いてみる。ほかのアプリケーションをふたつやみっつ立ち上げても、音切れや遅延はまったく起こらない。おお、さすがは MMX Pentium 266MHz 。もっとも、CPUには思い切り負荷がかかっているらしく、冷却ファンがたちまち最速モードに切り替わってやかましく回転をはじめた。仕事のBGMに使うぶんには、こんなに負荷をかけることはない。低負荷の設定にしておけば、ネットで調べものしながら秀丸エディタを数枚開いて仕事をしても、フラストレーションなく音楽が楽しめるだろう。世の中、進んだなあ。むかしDOS用の「MIMPI」という音楽ソフトがあって、こいつは、驚くべきことに内蔵ブザーをエミュレートして曲を奏でてくれるのだった。とんでもない力業だが、あのアイディアに感心した。あれを使ってびっくりしてからまだ十年も経ってないぞ。
コンピュータ・ミュージックもやりたいんだけれども、とてもそんな暇はない。当面、人の作ったファイルを聴いて楽しむことに専念しよう。一応、ヤマハ・ポータトーン「PSR-300」という MIDI 搭載の電子キーボードを持ってはいるのだが、忙しくてここ一年ばかり触ってもいない。あいつを入力装置に使って、そこそこの外部スピーカと音楽ソフトを買えば、リアルタイムで楽器を奏でることのできないおれにでも、理屈で曲が作れるはずだ。ま、老後の楽しみとでもするか。コンピューターおじいちゃんだ。
▼Linda Nagata さんのサイトのトップページが大きく模様替えされていた。新作の Vast(Bantam Spectra)が出たばかりで、小説に登場する星野の写真を入れるため、刊行に合わせて雰囲気を変えてみたようだ。
「SFマガジン」9月号の予告でご存じの方も多いと思うが、日本でもリンダ・ナガタの長篇初訳がもうすぐ出る。『極微機械(ナノマシン)ボーア・メイカー』(中原尚哉訳、ハヤカワ文庫SF)、リンダ・ナガタの長篇デビュー作で、ローカス賞(処女長篇部門)を受賞したナノテクものだ。本来、文句なしに面白い作品に解説など要らないのだが、その要らないものをおれが書いてしまっているので、刺身のツマによろしくね。長篇二作目の Tech-Heaven も重厚ないいSFなのだが、重厚すぎてやや派手さに欠けるきらいがある。『極微機械ボーア・メイカー』のほうは、SFファンの喜びそうなアイディアがてんこ盛りの派手なエンタテインメントで、ナノテクばかりでなく、軌道エレベータに電脳空間に人造人間に宇宙飛行に進化論に追跡劇にと、まあ、およそ飽きさせることがないスピーディーなストーリー展開の作品。最近SF読んでないなあという方、ぜひどうぞ。
【8月15日(土)】
▼一昨日の衝撃的な情報が引鉄になり、“チャルメラわらび餅屋”系のタレコミが次々と舞い込んでいる。まずは、マイルドなところからご紹介してゆこう。
まずは、“ひらパー”でおなじみ、大阪府枚方市のマヘルさんから、レギュラーの“チャルメラわらび餅屋”目撃情報が寄せられた。やはりこれも、かき氷を併せて売っているそうだ。そういえば、大むかし「広島カープ、枚方パーク」という早口言葉があったものだ。いまディスプレイの前でのたうちまわって懐かしがっている人は、二十数年前、近畿放送(当時)ラジオの『サンマルコからボンジョルノ』という番組のリスナーだった人であろう。最初はまともな音楽番組だったが途中から完全にギャグ番組と化して、あろうことか、それから爆発的に人気が出てしまった、知る人ぞ知る伝説の京都ローカル番組である。京都iNETでホームページ持ってるような人には、葉書を書いていた人もきっといるにちがいない(って、おれのことだよ)。以前、翻訳家の岡田靖史さんとチャットしているとこの番組の話になって、やたら盛り上がったものだ。SFファンってのは、たいていバカ話が大好きである。やはりこういう番組に惹かれる人間は、立派に道を踏み外してSFの翻訳やら紹介やらをやっているもので、業というのは怖ろしい。
さてさて、ヘンなもの売りの話に戻ると、静岡県はやはり侮り難いものがあり、ちぇろ子さんからの情報によれば、トラックで貝を売りに来るおじさんがいたそうだ。「あさりに、しじみに、はまぐりと、ながらみに。ほたてと、さざえと、かいばしらは、どうですか?」と独特の節まわしで歌うとのことで、チャルメラでないのは残念だが、じつに風情がある。“ながらみ”とはなんぞやと思って調べてみたところ、静岡や千葉ではよく食用に供される巻貝の一種であるらしい。冬になると、このラインナップに牡蠣が加わる。それにしても、淡水の貝も海水の貝も一緒くたに売っているとは、このおじさん、自分で獲ってきているのだったらたいへんな重労働だろう。あるいは、河口付近に両方が獲れる秘密の漁場を確保しているのやもしれない。同じトラック系だと、ねこたびさんからの情報によれば、鳥取県では松葉ガニを売りに来るそうで、これもチャルメラじゃないが、なんだか豪勢な感じがする。
東京都も意外と面白いもの売りがいるらしく、同じくちぇろ子さんによれば、町田市に出没する石焼きいも屋は、例の「はやく来ないと、いっちゃうよー」型で、「はやく来ないと、売れちゃうよー」と、人気をアピールするフレーズも加えて変化を付けている。また、新宿御苑近辺には“なぞなぞ焼きいも屋”なるものがいるそうで、三つのなぞなぞに答えるとタダで焼きいもをくれるらしい。スフィンクスみたいなやつだ。よほどむずかしいなぞなぞなのであろう。「惑星メスクリンの赤道付近の重力は何G?」とか。第32回・日本SF大会(DAICON VI)のクイズ企画で出たやつだけど。答えは『重力の使命』(ハル・クレメント、浅倉久志訳、ハヤカワ文庫SF)を参照のこと。これ、意外と盲点だったな。極地付近の700Gってのは、みんな憶えてるんだけどね。
えっと、なんの話だ? そうそう、もの売りの話。行商でもチャルメラでもないけれど、林譲治さんによれば、なんと札幌市の薄野には露店のフランス料理屋という妙なものがあるという。「ビルの裏口の前に夜になるとテントのようなものを広げ、壁の前に細長いテーブルを出し、壁にフランスの写真なんかを張りつけている」のだそうであります。お洒落だねえ。
「ビルの裏口は引っ込んだ空間になっており、オーナーとどういう契約が結ばれているか知りませんが、その空間がワインクーラーになっている」
「だから店は屋台の癖にワインとチーズの品数が豊富、常連客も多いようでした」
「ルパン三世が乗ってるような外車でやってきた客もいました」
――なにやら、ただごとでない雰囲気だぞ。林さんも友人に連れられて一度行っただけで、再び行こうとしても場所がわからないのだとおっしゃる。「あるべき場所にない」というのだ。いやあ、ますます魅力的な話ですな。藤子不二雄のホラーとかにありそうな設定である。こんな店なら、いつのまにか隣に座っていた喪黒福造に名刺を差し出されても不思議はないだろう。これは行ってみたいなあ。以前、買い食いの話(98年7月10日)の話を書いたけれども、日本ではしゃっちょこばって食うものとされているフランス料理をこんなふうに買い食い感覚で食ったら、さぞやうまいだろう。ううむ、さすがは薄野である。おれはまだ北海道に一度も行ったことがないのだが、札幌に行く機会があったら捜してみることにしよう。
【8月14日(金)】
▼今度は地元京都だ。ケーキを食った人がしびれを訴えて病院に収容されている。食中毒にしては異常が出るのが早すぎるから、またもや毒物混入事件なのかもしれない。「へえー、意外とうまく行くもんなんだな」などと気が大きくなったバカが次々と真似しはじめているのだろうか。だとしたら、じつに独創性のないやつらだ。なにかどうしても犯罪を企てねばならない事情があるのであれば、己の全身全霊を傾けて、ほかの誰も思いつかなかったような画期的な手口でやってもらいたいものである。また、なんの関係もない者を無差別にターゲットにしたり巻き添えにしたりするような犯罪は、犯罪の格としては下の下である。どうしても殺したいやつがいれば、堂々と一対一で立ち向かってこれを滅ぼし、自分で警察に通報し笑って捕まるくらいのことをしてもらいたいものだ。人を殺しておいて自分は無傷でいようなどと考える了見があさましい。殺したい相手が、この俺様と刺しちがえるくらいの値打ちのあるやつだと判断したら、全存在を賭けて抹殺すればよろしい。その覚悟が持てないのであれば、相手がごくつまらないやつか、自分がごくつまらないやつかのいずれかである。こういうことを書くと誤解を招くのは承知のうえだが、誤解されたってかまわん。犯罪は必ずしも悪いことではない。犯罪なるものは、それが犯罪だということになっているから犯罪だというトートロジーにすぎない。法律で禁じられていることを行うしか手がないという状況はたしかにあるにちがいない。おれが犯罪に手を染めないのは、得失を考えた場合、犯罪が割に合うと判断できる状況に置かれたことがないからにすぎない。おれは神も仏も持たないから、おれの中には絶対的な“罪”などというケッタイな概念はない。あるのは、思考力とポリシーと美意識だけである。よって、従容として身を滅ぼしても“割に合う”と判断したら、なんのためらいもなく法を冒すだろうと思う。
おれはべつに犯罪を奨励しているわけじゃないよ。ただ、やるんなら、それくらいの覚悟を持った“値打ちのある犯罪”をやれと、軟弱な木っ端犯罪者どもに言いたいわけ。松本智津夫(麻原彰晃)なんてのは、おれの基準でも下の下の下、堅気の市民としても犯罪者としても最低のクズである。首尾一貫した思想もなければ、美しくもない。どうも、あのバカが現れてから、日本の“犯罪の質”が著しく低下したような気がしてならない。男の腐ったような犯罪ばかりが雨後の筍のように出てくる。鼠小僧の精神はどこへ行った。ろくな犯罪者が出ないのは、やはり教育が悪いのだろう。文部省に於かれては、国家百年の計たる教育を立て直し、アントレプレナーシップに溢れた良質の美しい犯罪の育成に努めていただきたいものだ。
▼「やれやれ、物騒な世の中だなあ」と、テレビのニュースを消して仕事をしていると、買いものから帰ってきた母が開口一番、「おいしそうなチーズケーキあったから、買うてきたで」
ひいいいい。
【8月13日(木)】
▼“水道検査男”情報が入ったと思ったら、今度は“チャルメラわらび餅屋”情報である。チャルメラわらび餅屋については、98年2月18日、2月20日、3月4日、3月7日の日記に詳しい報告があるので、興味のある方はご参照いただきたい。要するに、チャルメラと同じメロディーで「わぁらびぃ〜もちっ、わぁらびもちだよ〜」と奇怪な呼び声を上げて売りに来るわらび餅屋は、日本のどのあたりに分布しているのかという話だ。
京都の女子大生、Keikoさんがお寄せくださった報告によると、チャルメラわらび餅屋は、彼女の実家がある静岡県磐田市近辺にも出没するとのことである。「わらび〜もち、冷たくておいしいよー。はーやくこないと行っちゃうよ〜」という例の“行っちゃうよ”タイプではあるが、以前に報告されている「し〜らないっ」と、わらび餅を買わなかった責任を客に押しつけるやつではない。これで“わらび餅・行っちゃうよ”型の東限は、名古屋から一気に磐田にまで東進したことになる。“行っちゃうよ”型の石焼きいも屋であれば札幌での目撃例が報告されているが、因果関係は不明である。
静岡県に出没するとなると、さくらももこ氏あたりがいかにもネタにしていそうな気もするのだが、氏の著作を全部読んでいるわけではないからわからない。もしもお目にかかる機会があったら、ぜひ一度訊いてみたいものだ。SFセミナーや京都SFフェスティバルには来ないだろうなあ。
それはそれとして、である。Keikoさんのメールになにげなく書かれていた一行に、われわれ取材班は目を疑った(ここで矢島正明のナレーションに思いきり力が入り、CMになるところだ)――「ちなみに、過去にはチャルメラの天ぷら屋も辺りを徘徊していました」
徘徊するなー! ちゃ、チャルメラの天ぷら屋とは、いったいいかなるものであろうか!? チャルメラのメロディーに、なにを乗せて歌うのか? 「イカリーング、イカリングだよ〜」か。それとも、「エビフーライ、エビフライだよ〜」だろうか。あるいは、字足らずをものともせず、「てんぷ〜ら、てんぷ〜ら〜だよ〜」などと朗々と叫ぶとでも言うのか。謎は深まるばかりである。そもそも、天ぷら屋というのは、焼きいも屋やわらび餅屋のように、軽トラックかなにかで徘徊するようなものであろうか。流しの天ぷら屋なんてものを、おれは見たことないぞ。
驚天動地の新事実だ。このぶんでは、チャルメラを呼び声に、ほかのどんな商売人が、いかな意外なものを“徘徊”しながら売っているかわかったものではない。
「天ぷら屋くらいで驚いていてはいけない」と、おれの蒙を啓いてくださる方がいらしたら、ご遠慮なく情報をお寄せいただきたい。Keikoさん、どうもありがとうございました。
【8月12日(水)】
▼さてさてさて、たいっへん長らくお待たせいたしておりました。第三回「○○と××くらいちがう」大賞の発表である。多忙と怠慢のため、ずるずると選考が夏休みまで延びてしまい、ご応募くださった方々にはまことに申しわけない。深くお詫び申し上げる次第であります。もう応募した作品を忘れておられる、あるいは、応募した事実を忘れておられる、あるいは、「○○と××くらいちがう」大賞とはなんであったかを忘れておられる方々もいらっしゃるかもしれない。また、新しい読者の方は、「なんじゃ、そりゃ?」と思っておられるにちがいない。毎度ルールを説明するのも面倒なので、「○○と××くらいちがう」大賞の詳細については、第一回の募集(97年9月18日)と結果発表(9月27日)、第二回の募集(10月1日)と結果発表(11月1日)、および第三回の募集(98年2月6日)の日記をご参照ください。
今回の第三回「○○と××くらいちがう」大賞には、なんと28名の方から154(+番外3)もの作品をお寄せいただいた。応募が多いのは嬉しいのだが、ここまで企画がオーバーシュートしてしまうと、ひとりで選考するのも限界だ。おかげさまでずいぶんと読者も増えたから、次回を催した日には、いったいどれだけの応募が押し寄せるものか見当もつかない。じつは第四回へ向けての作品もすでにいくつかいただいているのだけれど、当面、第四回の開催は見合わせることにする。やるとすれば、まとまった時間が取れる予想がつく時期に短期で行うことだろう。気軽にやってしまうと、せっかくお遊びにおつきあいくださった方々をお待たせしてしまう羽目になるからである。あしからずご寛恕ください。
では、前回の形式に倣って、まず全応募作品を下に挙げる。こんなことができるのも今回が最後かもしれない。なお、字面の公平を期すため、文字遣いはこちらの指定したフォーマットに統一してある。一次選考を通過した作品は太字で示し、過去に発表された作品とダブっているものは研究不足として“×”印をつけた。また、今回の募集で奇しくもダブっている作品には、その旨注釈をつけてある。ダブっていても選考には影響はない。複数人同時受賞ということもあり得る。では、いってみようかあ――
【なんだか捨て難いぞ賞】
「インディ・ジョーンズとシンディ・ローパーくらいちがう」(喜多哲士さん)
《講評》ちがうもなにも、“iンディ”しか合(お)うとらんやないか――と一瞬思うのだが、実際に会話の中で使用すると、ギャグとして苦しく成立するだろうと思われる。この“苦しく”成立するあたりに関西的ベタネタの絶妙の呼吸があり、なにか賞を出さざるを得ないものを持っている。
【実物がちがいすぎるぞ賞】
「田原総一朗と原田大二郎くらいちがう」(天川さん)
《講評》この賞を出すべきかどうか悩んだ。というのは、田原総一朗と原田大二郎は、もともと存在様態が似ているではないかというご意見もあろうからである。しかし、音の妙と奇態な取り合わせがやはり捨て難い。
【佳作】
「ほりごたつとポリバケツくらいちがう」(御船博之さん)
「2親等と2頭身くらいちがう」(光デパートさん)
「ハリ・セルダンとハリー・キャラハンくらいちがう」(ギロチン男爵の謎の愛人さん)
《講評》実際に作ってみるとわかるが、御船さんや光デパートさんの作品のようなシンプルかつ誰にでも通じるものは、できそうでできないものである。いずれも、まったく違和感なくふつうの会話を潤すことができるであろう。ギロチン男爵の謎の愛人さんの作品は、ハリ・セルダン(アシモフの“銀河帝国興亡史”シリーズに登場する心理歴史学者)がどのくらい有名なものか判断に窮したが、ありそうでなかった組み合わせのインパクトを高く評価し佳作とした。
【入選三席】
「マライア・キャリーとマラリア・キャリアくらいちがう」(悪太@人間失格プロジェクトさん)
《講評》マライア・キャリーなる名を初めて目にしたとき、意識の底でちらと同じことを考えた人は多いのではなかろうか。前回の講評でも述べたが、傑作とはそういうものである。
【入選二席】
「永野のりこと永山則夫くらいちがう」(風野春樹さん)
《講評》これも会話の相手を選ばないと、まったく通じないおそれがあるが、わかってもらえなくてもいいと思わせるほどに美しい作品である。ノリコとノリオの対照の妙が、音読したときに光る。ついつい、「加藤紀子と伊藤典夫くらいちがう」などと選者が返歌(?)を作ってしまったくらいだ。
【入選一席】
「蝿の王と蝉の女王くらいちがう」(タカアキラ ウさん)
《講評》これはもう、ほとんど大賞と同等と思っていただいてもよい完璧な作品である。「なんだ、こんなのならむかしからみんな言ってるじゃないか」と思うでしょう? 似ていることは、みんなぼんやりと気がついているのだ。ギャグにしたことのある人もいるだろう。だが、あえてこの遊びのフォーマットで作品化されたのは初めてである。また、ウィリアム・ゴールディングの『蝿の王』とブルース・スターリングの『蝉の女王』は、日本語訳だから似るのだ。原題はそれぞれ Lord of the Flies 、Cicada Queen である。前者のほうが古いが、スターリングが「蝉の女王」を書くときにゴールディングを意識したかというと、たぶんそんなことはないと思う。本歌取りのつもりなら、Queen of the Cicada(あるいは、Cicadae)とでもしたことだろう。英語国民には、この二作品のタイトルが“似ている”という感じはあまりないにちがいない(指摘されれば、そういえばそうねくらいには思うだろうけど)。日本語だからこそ“蝿と蝉”“王と女王”の対比の面白みが出る。ノーベル賞作家の作品と比べて、「蝉の女王」の知名度がいささか低いのは気になるが、そんなことはどうでもよくなる美しさだ。すばらしい。
【大賞】
「水木しげると弓月光くらいちがう」(繁村さん)
《講評》これもすばらしい。二人の画風が一瞬頭に浮かび、なるほどちがうにちがいないとしみじみ納得する(なにを言ってるんだ、おれは)。それでいて、この音の類似は文字を見ているだけでは、たとえひらかなで書かれていたとしても、なかなか気づくものではない。作者の鋭い音感・語感を物語る。何度も音読すれば、この作品の美しさに気づいていただけるであろう。水木しげるに比べると弓月光の知名度が劣るのではないかという危惧はやはりあるが、小説に比べてマンガをさほど読まない選者が知っているくらいであれば、十分実用に耐えると判断した。入選第一席との僅差は、“文字型”と“音型”との差である。必ずしも音型を優先しているわけではないのだが、この遊びの本来の主旨に鑑みた場合、日常会話を潤すレトリックとしての効果は、大賞作のほうがやや上であろう。
毎回述べているけれども、どこかで誰かが作っていそうで、誰もが一度はちらりと考えたことがあるかもしれない――が、新しいにちがいない作品が真の藝術というものである(まあ、この遊びはそんな大層なもんじゃないけれども)。万人の中にあるが、それがそこにあることに気づく者は稀であるような“なにか”に形を与えるのが、真のクリエイターというものではなかろうか。形になったものを見て、「ああ、これは私の中にもあったものだ」と感じるのは、感受性豊かな者であればあたりまえのことなのであって、それすなわち「私にも作れたものだ」という意味ではない。極論すれば、これなら私にも作れると誰もが思うのに誰も作れていないようなものこそが、分野を問わず、傑作の名に値すると選者は思っている――あー、この調子で書いてると、どんどん話が壮大になってゆきそうなので、ここらで終えることにしよう。
むろん、会話というのは生きものであり、上に挙げた応募作品は、いずれも時と場所を得れば“どんぴしゃり”のすばらしいレトリックになり得るものである。しばらくはこの大賞を休ませていただくけれども、応募者各位に於かれては、平板な表現で意を伝えれば足れりとされがちな日本人の日常会話表現にゆとりと潤いをもたらさんとする「○○と××くらいちがう」スピリットを忘れず、日々精進に励んでいただきたい。
ご応募くださったみなさま、ほんとうにありがとうございました。
【8月11日(火)】
▼ご記憶であろうか? 98年4月17日、19日、21日などの日記に登場した、例の“水道検査男”であるが、今度は神戸市郊外に出現したという情報がねこたびさんから寄せられた。
例によって「水の検査に来ました」とインターホンから呼びかける手口である。インターホンの音声からは表に複数の人間がいる気配がし、なにやら緊急であるかのようなことを口にしたため、ねこたびさんはドアを開けてしまった。青酸カレー事件のことがあるので、もしものことがあってはと思ったのだそうだ。なるほど、いまはとくに“水道検査男”たちにとってはやりやすい時期だろう。連中がそこまで考えているかどうかはともかく、「最近、妙に入れてくれる家が多いなあ」などとほくそ笑んでいるかもしれない。
ドアを開けたところが、立っていたのは「水道局の人も着ているかもなという地味な作業着の、40代後半とおぼしきオヤジ」だったという。もしかするとほんものかもしれぬと思わせる作業着で現れるところなどは、東京電力の職員を装った詐欺事件と手口が似ている。どうも怪しいので、ねこたびさんが「水道局なんですか? じゃあこのマンションの管理の? じゃあ屋上タンクの関係?」などとしつこく食い下がると、ようやく“浄水器”という言葉を出したそうだ。男がねこたびさんに見せた“調査用紙”なるものには、単純に匂い・色・塩素などの項目しかなかったので、ねこたびさんは「そういうことでしたら結構です」と撃退した。あっさり引き下がったそうである。おそらく、“作業着”や“調査用紙”といったアイテムによる威光暗示に引っかかる程度の人をカモにしているのだろう。「そういえばインターホンで声が聞こえていた、その男の相方は、その間どこにいたのでしょう」と、窃盗の下調べの線も疑って、ねこたびさんは気味悪がっておられる。
ねこたびさんは、たまたまその事件の翌日に風野春樹さんの日記(98年4月18日)や、そこからリンクを辿ったおれの日記を読んで、あちこちで同じようなやつらが現れているのを知り、驚いてメールしてこられた。「お二人の日記をもう1日早く読んでいれば」と悔やんでおられる。まあ、実害なく撃退できてよかったことだ。
同じ手口で悪質な商売をしていた静岡市の浄水器販売会社社長ら8人が以前捕まっているのだが(98年5月14日の日記参照)、まだ懲りずにやっているやつらがいるらしい。青酸カレー事件の模倣犯の可能性がないとは言えない事件が新潟で発生したけれども、この手の事件を公の媒体で報道することの矛盾を感じてしまう。おれの日記を読んで「よし、おれもやってやろう」と思うやつだって、いないとはかぎらないのだ。とはいえ、自衛に役立ててくださる方々のほうがはるかに多いだろうから、あえてしつこく書くことにした。「水の検査に来ました」などという怪しいやつがやってきても、けっしてドアを開けてはいけません。連中は、浄水器を売りつける以外の、どんな凶々しい目的を持っていないともかぎらない。いままでの情報からすると、連中は毅然とした態度に出れば、意外とあっさり退散する。警察を呼ばれては、連中も界隈で商売がやりにくくなって損なのだ。「最近これこれこういう悪徳商法が流行っているらしいので、水道局に確認する」と言えば、まず引き下がるだろう。「しつこいと警察呼びますよ」(おれの母の常套手段だ)も効く。警察呼ぶと言われて脅迫的な言辞を弄するようなら、いよいよもって疚しいところのあるやつに決まっている。仮に“ほんもの”の水道局員だったとしても、こういう事件が頻発している時世に事前に連絡もなくやってくるほうに非があるのだ。事実上手前の名を騙る詐欺事件が起こっているというのに、それも知らないのだとしたら、水道局の怠慢である。上記の東京電力の職員を装った詐欺事件では、電力会社の職員の名を騙り事前に訪問アポを取るという念の入った手口もあるそうだから、かかってくる電話は信用せずに、こちらから当局に電話をかけて確認を取るのが安全だろう。
余談だが、企業のシステム管理者になりすまして社員に電話をかけ、システムへの不正侵入に必要な諸情報を聞き出す方法は、“ソーシャル・エンジニアリング”というクラッキングの手口の古典的なものとして知られている。大きな企業になると、社員全員がシステム管理者の声を知っているとはかぎらないから、この手口が成り立つのだ。ちゃんとした管理者であれば、そういうことはまず認証のしっかりした方法で訊いてくるものである。ちょっとでもヘンだなと思ったら、いったん切って、こちらからシステム管理者に電話をかけ直すのが鉄則である。
ともかく、こういう小賢しい悪党は、以前にも書いたが、情報で包囲してしまうにかぎる。市民の自衛にインターネットが役立つなら、じつにけっこうなことだ。“水道検査男”を今回初めて知ったという人は、ぜひご家族やお友だちに教えて、お友だちも護ってあげましょう。イオナ、私は美しい。
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