間歇日記

世界Aの始末書


ホームプロフィール間歇日記ブックレヴューエッセイ掌篇小説リンク

← 前の日記へ日記の目次へ次の日記へ →


98年8月下旬

【8月31日(月)】
▼北朝鮮がミサイルを撃ってきた。一瞬、筒井康隆が新作を書いたのかと思ったよ、まったく。“民草”が文字どおり道端の草を食っているというのに、ミサイルなんぞ作ってる場合か――などと、あの国に言ってみたところで詮ないことなんだよなあ。それにしても無茶をする。まあ、できたからといって「できたできた」とぶっ放しているうちは、ほんとうの意味では怖るるに足らないだろう。でも、当たりどころが悪いとこっちに人死にが出るんだから、怖るるに足らないなどとは言っていられない。おれの部屋の階下に住んでいる婆さんは相当耄碌していて、それだけならべつにかまわないのだが、ときに火遊びをしたりするものだから、同じ棟に住んでいる近所中がびくびくしていたことがある。いまは旦那さんがしっかり監視していて、すっかりおとなしくなってくれたので、ひと安心なのだ。おれの中で、北朝鮮という国のイメージは、この婆さんと重なっている。
 このぶんでは、新兵器を開発するたびに、「でーけたでけた」と試射をしては、「見た見た、ねねね、見たあ!?」と、ひとり悦に入るようになるんじゃあるまいか(もう、なってるか)。アメリカから見れば、ロケット花火を打ち上げて喜んでいる子供のようなものなのだろうが、隣に住んでるこっちはたまったものではない。“畏れられている国”と“怖れられている国”はちがうんだと、誰か金正日に教えてやってくれよ。韓国みたいに漢字も使えば、少しはちがいがわかるようになるかね?
 経済ライターの友人がむかし言っていた。「調べたことを全部書くと、ろくな記事にならない」 おれはそういうジャーナリスティックな文章を書くことはないが、なるほどそうなんだろうなとは思う。そういう文章は、どこか意地汚いというか、余裕のなさがぷんぷん匂ってきて、情報量が多ければ多いほどあさましさが増してゆくような悪循環に陥っているのがよくわかる。「わたしはこんなにお勉強しました」「わたしはこんなにあちこち歩き回って調べました」と大声で呼ばわっているような書物にときどきお目にかかるものだが、読者というのは残酷なもので、「よくがんばったね」と言ってほしそうに涎を垂らしている文章を読まされると、情報だけは適当にいただいておきながら、「はて、ところで、この本はなにが書きたかったのかな? そもそも、著者は誰だったっけ?」などと、まるで新聞かなにかのように忘れ去ってしまうものなのだ。あなた、自分が使った受験参考書の著者を憶えてますか? 憶えているとすれば、その本はあなたに剥き出しの情報以上のものをくれた、いい本なのだ。
 不思議なことに、蘊蓄をぶち込むのがうまい人の手にかかると、「すげー蘊蓄だなあ」と驚かされる部分はほんの氷山の一角で、さらにその下にもっとものすごいものが沈んでいるかのように思わされる。読んでいると自分がどんどん小さくなってゆく感じだ。鼻につかずに蘊蓄を垂れる技巧はたしかにあるのだろうけれども、蘊蓄を垂れるのがうまい人は、実際にすごい蘊蓄の持ち主であることが多い。非常に逆説的だが、蘊蓄を垂れていることを悟られてしまう程度の人には、さほどの蘊蓄はないものなのだ。
 で、なんの話だっけ? そうそう、北朝鮮のミサイルだ。はいはい、わかりましたよ。遠くまで飛ぶミサイルが作れるんだね。えらいねー、ボク。え? ボクじゃなくてキムだ? そんなところで突っ込まんでよろしい。でもね、世の中には、キミの家の犬小屋だけ狙って破壊できるような人もいるの。だからね、頼むから乱暴なことはやめて、ご近所に迷惑をかけないように、いい子にしていようね。

【8月30日(日)】
昨日みたいな書きかたしちゃうと、SF大会が一九六一年からはじまったかのように読めてしまうが、第一回SF大会「メグコン」一九六二年なので、おまちがいのないよう。待てよ、“SF大会と同い年”という言いかたをした場合、同い年なのは六十一年生まれの人なのだろうか、六十二年生まれの人なのだろうか、どっちだろう? 人間は生まれた年に一歳になるわけではないから、やはり六十一年生まれの人が同い年か。それとも、“何年間続いているか”と考えて、六十二年生まれの人を同い年と言うべきか。うーむ、これは難しい。これだから数学は苦手だ。
▼で、SF大会と来れば星雲賞なのだが、受賞作のリスト(「SFオンライン」ここなど)を見てフクザツな感想を抱く。ううむ。まあ、ファン投票であるから、独自のカラーがあってもいいけれども、こ、これは……。国内部門はまだ肯ける面もあるとして、海外部門はきわめて、はなはだ意外である。
 思うに、“なにを選んでいるのか”という基準が、あたりまえのこととして不問に付されているのではあるまいか? ちっともあたりまえじゃないんだけどな。そこをはっきりしないと、なんの賞なのかわからなくなる。「星雲賞に選ばれたから星雲賞受賞作なのだ」というトートロジーになってしまうのだ。ある人は“優れていると思う作品”に投票し、ある人は“自分の好きな作品”に入れ、ある人は“星雲賞にふさわしいと思う作品”を推す――といった具合に、バラバラになっているのではなかろうか。ファン投票という性格を重視するとすれば、いっそ“好きか嫌いか”だけを基準に投票してもらえば、その結果はたいへん重いものとして意味を持つかと思うが、あながちそうでもないらしい。おれ個人も、優れていると思う作品と好きな作品と星雲賞にふさわしいと思う作品とは、一致しないことがある。SF大会に参加申し込みをして、「星雲賞を選んでください」といきなり投票用紙が来たら、はなはだ困ると思うのだ。なんの賞だかよくわからない賞を選べと言われたら、おれならその賞の過去の受賞作を眺めて、「ははあ、こういうノリ、こういう性格、こういうレベルのものを選ぶ賞であるな」と当たりをつけて選考にかかるだろうが、金がもらえるわけでもない(いや、むしろ金を払っている)投票にそれだけの手間をかける人が多数派だとは思えない。
 ここらで、「星雲賞はこれこれこういう性格の賞であり、これこれこういう選考基準を重視することが望ましい」と、きちんと賞の性格を定義し直しておいたほうがいいのではなかろうか。しているのかもしれないが、おれ自身、最近よくわからなくなってきているのだ。べつに元祖が生んだ基本形式を頑固に守り抜く必要はなく、時代時代で賞の性格が変わっていったっていいだろう。星雲賞ができてから、もう三十年近く経つわけだから、いくらSF大会参加者の高齢化が進んでいるとはいえ、世代だって入れ替わっている。また、これはあちこちで聞く意見だが、母集団が少なすぎるのも問題で、大会に参加しなくても希望者はいくらか金を払えば投票できるようにしてはどうか。千円では安すぎてよくないから、五千円くらいが妥当かな。票を買収する不届き者が現れんともかぎらないが、その危険はいまでも基本的には同じことだろう。もっとも、参加費以外の大金を扱うとなると、事務局への負担もたいへんなものになるにちがいない。手前が手を汚していないのだから、虫のいいことばかり言えないけどね。
 まあ、大会に参加していないおれが文句を言う筋合いではないかもしれないし、日本には日本の基準、日本のカラーがあって然るべきだとは思うけれども、日本はSFの翻訳大国である。出版社各社、翻訳家諸氏の努力によって、少なくとも英語圏のSFは、かなり豊富に供給されている。もう少しナニなアレがカニしてもよかったんじゃないかなあ……と、おれ個人は思うんだけどね。あくまで、おれ個人は、だよ。ともかく、日本にはSFの大きな賞は、日本SF大賞と星雲賞しかないわけだし。むろん、受賞した作品の作者・訳者の方々には、素直にお祝いを申し上げる。なにより、日本のSFファンが支持したという動かぬ勲章を手になさったのだから、一SFファンのロートルがなにをほざこうが無視してくださってよいのだ。

【8月29日(土)】
▼名古屋では、いまごろ第37回日本SF大会「CAPRICON 1」が開催されているはずであるが、おれは今年も見送り。行く方々は楽しんできてください。おれはSF大会には一度しか行ったことがないという出不精だ。今回は企画参加のお誘いもあったのだが、「出ます」と予告しちゃうと体調不調で不義理をしてしまう可能性もなきにしもあらずで、大事を取った。案の定、体調がよろしくないから、これは正解であった。山岸真さん、またどこかでよろしくお願いします。
 さて、第37回という文字を見て、改めて気がついた。おれは今年で三十六になる。ということは、一九六一年生まれの人は、SF大会と同い年であるわけだ。大森望さんとか。よくよくSFに呪われた――もとへ、SFに縁の深い人なのであろう。大森さんの本名も、SFファンには知ってる人も多いだろうけど、たいへん未来的なお名前である。そのころの時代の空気というものを感じさせる。
 六十一年あたりに、宇宙から未知の波動(毒電波とする向きもある)が降り注ぎ、SFファンを量産したという説があって、おれも半ば本気で支持しているのだった。さすがに三十年以上も経つと、そのときの波動のパワーは衰えてしまったかに見える。が、じつは来年また波動が降り注ぐ予定なのである。一九九九年に空から降ってくる恐怖の大王とは、このSF波動のことなのだ。「その前後の期間、マルスが支配する」とあるのは、火星の名古屋で開催されている「CAPRICON 1」の影響が前後の期間に及ぶという意味である。
 では、SF波動は三十八年周期でやってくるのだろうか? ちがうんだな、これが。大きな波動は三十八年毎にやってくるのだが、中くらいのやつが、その半分の十九年周期で降るのである。つまり、一九八○年にそれは来ている。七十九年にインベーダーゲームが、八十年にルービック・キューブが流行し、八十一年に最初のスペースシャトル打ち上げが成功したのは、この波動のせいなのである。そのころ生まれた人々が成人するころを狙って、九十九年にでかいのが来るようになっているわけだ。では、なぜ十九年周期なのか? 十九は、十七と二十三のあいだの素数だからである。それになんの意味があるのかって? 大事の前に些細なことにかかずらわっていてはいけない。
 ついでに言うと、「アンゴルモワの大王を甦らせるため」というのは、一部のノストラダムス研究家が指摘するように“モンゴロイドの大王”を意味するのであるが、“甦らせる”とあるからには、かつて栄えていたものが再び栄える、すなわち、“日本SFが再び栄える”ことを示しているのは火を見るよりもあきらかだ。ハルキ文庫の名作日本SFの復刊や、「SFオンライン」第18号の日本SF特集は、その予兆である。ゆめゆめ疑うことなかれ。

【8月28日(金)】
▼ヘンなもの売りシリーズの続報。ちぇろ子さんからお寄せいただいた“三つのなぞなぞに正解するとタダにしてくれる焼きいも屋”(98年8月15日参照)であるが、その後、ちぇろ子さんからさらに詳しい情報が入った。なんでも、その三つのなぞなぞにみごと正解した人は、会員として登録されトラックに名前が貼り出されるのだそうである。「二十分で全部食えたら一万円もらえる」ジャンボラーメンかなにかのようだ。しかも、会員になった人は、いつでもタダで焼きいもがもらえるらしい。ほんとかねー。会員が正解を漏らせば、この焼きいも屋はたちまち潰れてしまうのではないか? それとも、この焼きいも屋は、常に新しい難問を用意して客を迎え撃っているのだろうか。都市伝説だとすれば、「なぞなぞの正解を漏らした女子高生が、口いっぱいに焼きいもを頬張った変死体で発見された」くらいの話が付けば完璧である。逃げようと思ってもだめなのだ。正解を漏らした若い男がスポーツカーで東名高速を走っていると、コツコツと窓を叩く者がある。ふと横の車線を見ると、件の焼きいも屋が時速百四十キロで屋台を引きながら、にたにた笑いながら走っている。泡を食った若者は、そのまま空港へ乗りつけ、取るものも取りあえず田舎へ帰ろうと飛行機に乗り込む。水平飛行に移り、ほっと窓際のシートに身を沈めたとき、コツコツと窓を叩く者がある。見れば、主翼の上に屋台を引いた焼きいも屋のおやじがちょこんと乗っかっていて、燃料タンクに穴を空けて焼きいもを詰め込もうとしている――とかなんとか。
 京都市の岡田靖史さんから寄せられた“オートバイを買う、多角経営の竿竹屋”(8月17日)だが、クノさんの情報によれば、これが千葉県にも出没する。千葉のやつは、オートバイを買うだけでなく、網戸を売っているそうである。「アミード、アミーゴ、アミード、アミーゴ」という呼び声かどうかはさだかでない。それにしても、竿竹屋はオートバイを買い、網戸を売り、いったいなにを企んでいるのであろうか? オートバイを砕いてペースト状にし、さらに線維にして編み、網戸にして売っているとか。網戸のフレームを見ると、「オートバイから再生した地球にやさしい網戸です」と書いてあったりして。葬儀屋が網戸を売ってたら、ちょっと疑ったほうがいい。緑色の網戸って、よくあるじゃないか……。
▼郵便受けにバイアグラの個人輸入代行サービスの広告が入っていた。以前にも書いたが、ここいらは爺さん婆さんの比率が非常に高く、若い人はあまり住んでいないのである。まあ、よくリサーチして広告しているとも言えるな。それにしても、このバイアグラ熱はちょっと異常である。性的不能に悩む人って、そんなにいるのか? どちらかというと、不能ではないけれども、さらにパワーアップ(?)しようとする人に受けているのではあるまいか? まあ、アダルトサイトとか見てると、ときに「恐れ入りました」と爆笑してしまうほどのご立派な道具をお持ちの方がいらっしゃいまして、みんな要求水準が高くなっているのかも。
 そういえば、最近、山田正紀『最後の敵』(徳間文庫/第三回日本SF大賞受賞作)を必要があって再読したら、主人公は冒頭でいきなりインポテンツに悩んでいる。いろんな出だしがあるものだが、これほど変わったものも少ないだろう。度肝を抜かれる壮大なスケールと哲学的テーマを具えた傑作だけに、この出だしとのギャップがすごい。もちろん、その効果を意識してのことだ。1982年の作品だけど、このころにバイアグラがあったら、『最後の敵』はまたちがった話になってしまったかもしれないよな。

【8月27日(木)】
▼わけのわからない事件がよくもまあ次から次へと起こるものだが、和歌山で毒カレーが、新潟で毒茶が出てみなが騒いでいるときに、いかにも稚拙な手書きの説明書がついた「モアスレンダー」なる痩身薬らしきものの見本なんぞが送って来られたら、飲むかね、ふつう? 命に別状なくてよかったことだ。べつにおれは被害者が悪いと言っているわけではないよ。もちろん、そんなものを送りつけたやつがいちばん悪い。だが、中学三年にもなって、世間でなにが起こっているかに、こうまで無関心なのは考えものだ。そういう中学三年生ができあがる環境に問題があるんだろうけどねえ。世の中いい人ばっかりとかなんとか、キレイキレイの温室で育てているんじゃあるまいか。
 十数年前あたりから、“倒れるときに手をつかない子”が出現していることが話題になっている。ふつう、人間は躓いたりして倒れるときには、咄嗟に手をついて衝撃を和らげる。というか、衝撃を和らげようなどと考えるまでもなく、反射的に手が出る。下手に手をつくよりもうまく転げたほうが怪我をしない状況もあるんだが、まあ、ともかく手が出るのが自然ではある。ところが、そういう当然の防御反応がプログラムされておらず、まるで棒を倒すように倒れる子供がしばしば見られるというのだ。
 物理的なことばかりではなく、社会的な反応に於いても、同様の子供が増えているのかもしれない。どう考えてもおかしい悪徳商法に引っかかって、いい歳をした大学生などが消費者センターに泣きついたりしていると聞くと、食うに困ったら詐欺師でもやろうかとふと思うことがある。むかしより、ずっと商売がやりやすそうだ。
 今回の「モアスレンダー」事件について、精神科医の香山リカ氏のコメントが asahi.com に載っていた。「日ごろから何かの恨みや不満を抱いている人たちが、和歌山の毒物混入事件に潜在的な攻撃性を刺激されて、犯行に走ってしまったのではないか。普通の人なら、空想することによってそうした感情を自分の中で昇華することができる。しかし、それができず、もろにコピーした形で実行に移してしまう人もいる。原因の一つとして、凶悪事件が一部の報道でドラマ化して伝えられることがあり、恐怖感など事件のリアリティーを失わせていることも考えられる」
 新聞のコメントというやつは、往々にして喋った人の意図から離れてしまうことがあるので、おれはこれを香山氏のコメントとして鵜呑みにはしないが、リアリティーを失っているのは、犯行に走ったほうばかりではなく、素性の知れぬやつから送られてきた妙なものを飲んだほうも同様ではあるまいか。カレーやらお茶やらに入っていた毒で死んだり苦しんだりした人は、どこか別の世界の人たちであって、隣のミイちゃんやクラスのテツジくんや、ましてや自分にそんな災難が降りかかってくるはずはない――こういう精神構造の子供が増えているのだとしたら、それは事件そのものよりもはるかに怖ろしいことだ。いや、子供だけの話ではない。「まさかと思うような名の知れた会社が次々と潰れる。たいへんな世の中だ」と嘆いてみせる大人が、そのじつ手前の会社だけはまず潰れないと理不尽にも信じ込んでいたりはしないか? 報道されると、それはフィクションに見えはじめるという効果は、たしかにバカにできないものだ。事実、報道はフィクション性を持っている。しかし、まるまるフィクションそのものだというわけではない(そういうのもあるから厄介なのだが)。どこかの子供の生首が学校の校門前に転がっていたとすれば、それはあなたの子供の生首であってもまったく不思議はないのだし、山一證券が、三田工業が、大倉商事がぶっ潰れたとすれば、明日あなたの会社がなくなっていても驚くにはあたらない。じゃあ、報道されることをいちいち鵜呑みにしてびくびくしていればいいかというと、それがいかに危険かは言うまでもない。結局、報道の中のフィクションと真実とを百パーセント見分けるのは、原理的に不可能である。そもそも、唯一絶対の真実などというものを基準に認識の座標を据えることは、人間にはできないのだ。なにかが言語化されれば、そこには必ずフィクションがある。
 となれば、こういう時代に、リアリティーとやらを失わないためにできることはひとつしかないだろう。たいへん逆説的な方法だが、自分の身のまわりのことどもも、フィクションの一種だと考えてしまうのだ。テレビの中の“フィクション”によれば、世界のある地域で子供が飢餓に苦しんでいる――となれば、おれのまわりのフィクションも同じようになる可能性は大いにあり得る、と、こう考えるわけである。自分のまわりにあるものが“リアリティー”で、テレビの中のことは“フィクション”だと思い込み両者を分断していると、かえってリアリティーを失うのだ。
 むかし、We Are the World という歌があった。このタイトルをつけた人は、おれがいま述べたようなことを、分析的にか、感性的にか理解していたのだろうと思う。新聞紙面で分かれているせいか、われわれは「これはうちの国のこと」「これは“世界”のこと」と、それこそあたかも“世界がちがう”かのように捉えがちだ。あの歌のタイトルは、「いや、そうじゃないんだ。“おれたち”が、すなわち“世界”なんだ。“世界面”とやらに載っているのは人ごとじゃないんだ」ということを、簡潔かつ的確に言い表わしたものである。とても真似のできない、怖るべき文才だ。
 そういうわけで、なにしろ We Are the World なんだから、あなたのところに、より美しくなる「モアビューティフル」だの、もっと頭の良くなる「スマーター」だの、さらに映画に詳しくなる「もあべたあ」だのが送られてきても、飲んではいけませんよ。

【8月26日(水)】
▼おれが冬場にときおり食いに行くラーメン屋の従業員が、何者かに刃物で刺されて店で死んでいるのが発見された。なんとね。うまい店なので潰れてほしくはないものだ。とはいえ、深夜も営業している店は、利用するほうには便利だが、働いているほうには物騒だからなあ。アルバイトが気味悪がって逃げちゃったら、やっていけないだろう。なにより、客のほうが嫌がるかもな。おれはべつに殺人事件のひとつくらいあっても、うまければさほど気にならないが、気にする人は気にするものだしね。
 それはともかく、深夜にコンビニとかで働いている人は、くれぐれもご注意を。ショットガンを突きつけて「金を出せ」なんてのは、幸い日本ではまだまだ少ないが、今後増えこそすれ減りはしないだろう。そりゃもう、素直に金を出すしかない。時給いくらか知らんが、命あっての物種だ。よく、防犯カメラの映像を繋いだだけの安易なテレビ番組で、強盗と銃撃戦を演じたり、賊の武器を素手で奪い取って反撃したりする(主に海外の)店員が出てくるが、よほどの勝算がないかぎり無茶はいけない。ああいうラッキーな例は珍しいからこそニュースになるわけで、実際には黙って金を渡す店員のほうがはるかに多いに決まっている。タクシーの運転手なんかも、いかにもアブナそうなやつが乗ってきたら怖いだろうなあ。金だけ取っておとなしく帰ってくれればいいのだが、中には、顔を見たやつはどのみち殺すつもりの賊だっているだろう。こりゃやばいと思ったら、一か八かで反撃せねばならないこともあろう。鉦や太鼓で宣伝はしないにしても、きっとタクシー運転手の中には、スタンガンくらいはダッシュボードに入れてる人がいるのにちがいない。
 コンビニにしてもタクシーにしても、小額ながらも確実に現金があるのがわかってるから狙われるわけで、電子マネーが普及すると、コンビニ強盗などが減るという効果はあるかもしれないよね。襲われにくい店だとアピールできれば、危ない店より少々賃金が安くたって働きたいという人は少なくないだろう。結局、投資に見合う競争力がつくかもしれない。まあ、こんなことが電子マネーの普及に一役買うとすれば、なんとも皮肉な話ではある。
 さて、件のラーメン屋殺人事件、情報が少なくよくわからないのだが、何度も刺されていたというから、単なる金目当ての犯行ではないのかもしれない。怨恨の線もなきにしもあらずだ。人間どこでどう恨まれるかわかったものではなく、「自分を殺したがってるやつが二、三人は必ずいる」くらいの心構えでいたほうが(人によっては、もう少し多めに考えておいたほうがよいかもしれない)、いざというとき、あわてずにすむだろう。恨みなんてのは抱くほうの主観的なものなのだし、どんなに当たり障りのない生きかたをしている人でも、命を狙われるほど恨まれている可能性はあるのだ。「煙草を吸うやつは片っ端から殺してやる」とか「眼鏡をかけているやつは邪悪の権化だと、宇宙人が電波を送ってきた」などという妄想に凝り固まった狂人が徘徊していないともかぎらない。怖いよなあ。

【8月25日(火)】
「NIFTY SERVE MAGAZINE」10月号の「創刊1周年記念企画 ニフティサーブ何でもランキング」ってのをパラパラと見ていると、「連続長時間アクセス」ってのが載っていた。NIFTY-Serveのホームページ上で実施したアンケート結果だというのだが、最長記録は二十一時間だとさ。やはりパソコン通信やインターネットの日常化で、最近の利用者には豪傑がいなくなってきているのだろうか。むかし、テレホーダイなんてものもなく、課金も高かった時代に、SFファンタジー・フォーラムで“二十四時間耐久RT”を完走(?)するという偉業を打ち立てた男がいたものだが……。えっと、RT( Real Time )ってのは、いわゆる“チャット”のニフティ方言ね。
 同じ号のすがやみつるのただいまアクセス中」では、すがや氏が、近ごろ「固有名詞が思い出せない」と記憶力の減退を嘆いておられる。博覧強記を以て知られる蘊蓄の権化みたいな人にこういうことを言われると、おれなんぞどうなるのだと頬が引き攣るぞ。二十歳を超えるころから「おや、むかしに比べると記憶力が落ちたな」と実感しはじめ、いまではもう、忘れること、忘れること、あたかも砂地が水を吸うように忘れる。水のほうに視点を据えれば、まさにそういう感じだ。歳には勝てん。
 そこでふと、“耄碌したゴルゴ13”という妙なものを想像する。ご存じのようにデューク東郷は、依頼人の秘密を守るため、依頼内容に関するメモなどは一切残さない。ターゲットの写真や関連資料なんぞも、壁を背にして細巻きの煙草を一本吸うあいだに完璧に頭に叩き込んでしまう。だが、彼とて人間、いずれはそういう芸当も難しくなってくるにちがいない。麻薬組織の首領とまちがえて大工の棟梁を射殺したり、政府の要人とまちがえて男装の麗人を狙撃したりと、徐々にミスが多くなってくる。それでも依頼者たちは、なにしろゴルゴ13なのだから、大工の棟梁や男装の麗人をヒットしたのは凡人の想像を絶する深謀遠慮あってのことと信じて疑わず、彼の評判は毫も揺らぐことがないのだ。「さすがはゴルゴ13――あいつはモンスターだ」などと、依頼者はラストのコマで空を見上げながらつぶやくのだが、じつはつぶやいている依頼者にも、なぜ大工の棟梁が撃たれたのか、さっぱりわかっていないのである。
 ある日、文筆業者に恨みを持つ大富豪に「神林長平と鈴木光司と岡田斗司夫を殺ってくれ」と依頼されたデューク東郷、細巻きの煙草を何度も口から落としそうになりながら(入れ歯が合わないのだ)、ターゲットたちの写真を精一杯遠ざけて確認すると、やがて老眼鏡ごしに目を上げて言う――「スイス銀行の口座に入金が確認され次第取りかかる。げほげほ」
 あのゴルゴ13が仕事を請け負ってくれた嬉しさにいそいそと入金をすませた依頼者は、翌日の朝刊を見て椅子から転げ落ちる。宅八郎大仁田厚伊集院光が、正確に眉間を撃ち抜かれて死んでいたのだった。タチの悪いことに、狙撃の腕だけは衰えていないのである。そのころ、アメリカに映画を観に行っていた堺三保は、ホテルで胸を撫で下ろしていた。「眼鏡をかけていてよかった」
 ひいいい。ネタにした方々、ごめんなさい。ギャグです、ギャグ。他意はございませんので、お許しを。松尾貴史浅田彰が狙われたら、おれも気をつけたほうがいいよな。

【8月24日(月)】
▼家に帰ると、早川書房から『極微機械(ナノマシン)ボーア・メイカー』(リンダ・ナガタ、中原尚哉訳、ハヤカワ文庫SF)が、amazon.com からは、注文していた本が一箱届いていた。以前に「SFマガジン」で紹介した Infectress の著者、Tom Cool が長篇二作め Secret Realms にしてハードカバー・デビューを果たしている。ペーパーバックのデビュー作は、かなりあざとくB級の香り高い野趣のあるものだったが、二作めをもうハードカバーで出してもらえるところからして、 Tor はけっこうこの人を買っているらしい。いつ読めるやらわからないのだが、なんでも今度のも近未来アクション・アドベンチャーSFだそうで、電脳空間に住まわって戦闘訓練に明け暮れる(?)凄腕の仮想兵士たちが、現実世界で勃発した日中戦争のシミュレーションをさせられたあげく、現実世界に飛び出してくるという、『歌と饒舌の戦記』(筒井康隆/新潮社)だか『朝のガスパール』(筒井康隆/朝日新聞社)だかよくわからん話である。カバーのデザインはなかなかかっこいい。とにもかくにも面白そうで、早く読みたいものだ。
▼煙草をパカパカ吸いながら長時間仕事をしていると、どうしたって部屋の空気が汚れてくる。そこで空気の汚れを知る目安にと、ふとレーザーポインタ(なぜか、そんなものを持っている)のビームを振りまわしてみる。横から糸のようなビームがよく見えるようなら、部屋の空気は相当汚れているはずだ。レーザーポインタにこういう用途があったとは――って、実際、気象観測にも似たような方法があるよね。バカとレーザーは使いようってか。

【8月23日(日)】
▼原稿追い込み。今月は連載以外に一本あるばかりか、表仕事にまで原稿の締切がある。ディスプレイを睨みっぱなしで目が霞む。ときおり目薬を挿すのだが、この目薬というやつ、おれは苦手である。目が細いので挿しにくいのだ。正面を向いたまま、目の隅からひょいと挿してしまう目薬挿しの達人をときどき見かけるが、あんな芸当はおれには到底できない。右手に目薬の容器を持ち、ぽかんと口を開けて真上を向き、それでも照準が定まらないので、左手で瞼をこじ開けて、ようやく挿すといったありさまである。うまく眼球をロック・オンしてくれる電子目薬挿し器でも発売されないものか。
▼クリントン大統領の“不適切な関係”というのがあちこちでギャグになっているようだが、これは訳しすぎだ。原文もあちこちに載ってるからご参照いただくとして、彼は“不適切”などという歯切れのよい言いかたをしたわけではない。Indeed, I did have a relationship with Miss Lewinsky that was not appropriate. と、婉曲もここに極まれりといった表現をした。堺屋長官なら、厳しく指導なさるところである。子供じゃあるまいし、「えっと、appropriate の否定は un- だっけな in- だっけな。待てよ、dis- かもしれん」などと大人の英語国民が悩むはずがなく、ふつう、I did have an inappropriate relationship with Miss Lewinsky. と言うのが自然でしょう――と、カマトトぶってもしかたがない。これはテレビ演説での効果を絶妙に計算した、練られたテキストだ。苦渋の表情を浮かべて、こうした歯切れの悪い言いかたをした直後に、迷いを振り切るように In fact, it was wrong. と言うことで、より潔さが強調されるという演劇的効果がある。演説の前に迷いを振り切って、“不適切な関係”とあっさり言ってしまってはいかんのだ(そのほうが実際には潔いわけだが)。迷いを振り切る過程を演説の中でこれ見よがしに示してこそ、それはひとつのショーになる。また、公人の発言は、三人称で伝えられ広まってゆくことになるから、そのテキストは三人称主語で言ったときの響きも考慮されているものだ。たとえば、ある具体的な問題について意見を求められた政治家が「ちょっとわかりませんなあ」と言ったとする。それが三人称で言及されると、「彼はわからないと言った」なんてことになってしまい、一人称で直接聞く以上にバカに聞こえる。ここらは日本語も英語も同じだ。これを避けるには、できるだけ一部分を切り取って引用しにくい言いかたをしたほうがよい。そうしておけば、「彼は不適切な関係と言った」とあとで言われたときにも、「いや、不適切という言葉を使ったわけではない。恣意的に簡略化されては困る」などと反撃ができるのである。どうでもいい些末事に思えるが、時間が経つと人間の記憶など歪曲され簡略化されてゆくから、印象というのはけっこう重要だ。「彼はあのとき、正確にはなんと言ったっけなあ……ま、いいや。言葉は忘れたが、こんなふうな意味のことを言ったよな」と、曖昧な形で人々の記憶に残ってゆくことになるのだ。いちいち記録をほじくり返すやつは稀である。「三人称主語での印象」「時間を経た“印象”の歪曲・簡略化」は、政治家の演説スクリプトでいつも考慮されていることだ。
 本来、政治家の演説というのは、今回のようなアホみたいなことでも、学者にとっての論文、作家にとっての作品に匹敵するレゾン・デートルなのである。日本の政治家に失言がやたら多いのは、手前の商売にとって言葉がいかに重要なものであるかという意識を欠いているからだ。言葉の組み立てかたや聴かせかたに関わる小手先のテクニックでは、日本の政治家など、欧米の政治家に比べれば赤子のようなものだろう。ヴァイツゼッカーの演説なんて、日本語で読んでも惚れぼれするもんな(内容に同意するかどうかは別問題として)。「口先だけ華麗でもしようがないだろう」という美意識はおれにもあるにはあるが、じゃあ、逆に政治家から言葉を取ったらなにが残るかというと、なにも残らないのである。同じ中身を話すのなら、より効果的に聴かせる技術があったほうがよい。ここらでは、まだまだ欧米に学ぶべきことはたくさんある。そういう技術を意識することによって、演説を聴くほうの耳も肥えてきて、実体を効果的に述べているのか、実体のないところに空虚な言葉の楼閣を築こうとしているのかも見破れるようになってくるのではなかろうか。
 さてさて、クリントン大統領の告白演説であるが、例の“適切でない関係”を反省したあと、大統領といえども私生活はあるが、そんなものにいつまでもかかずらわっていてはいけない、現実を見よ、アメリカの明日を見よ、いまこそ明日に向かって前進せねばならぬ云々と、いつのまにか天下国家の話になってしまう。こういう技術は見習いたいねえ(こういう技術を駆使せざるを得なくなるに至った過程は見習いたくないけれど)。We have important work to do -- real opportunities to seize, real problems to solve, real security matters to face. などと言ってるわけだが、いま思えば、このころにはもうミサイル攻撃を決意していたんだろうね。疑うなっつったって、伏線張ってたように見えちゃうよ、これは。

【8月22日(土)】
▼晩飯の寿司を食いながら『真相究明! 噂のファイル』(テレビ朝日系)を観ていると、厚さ6mmのガラスにパンチを食らわせて割ったという、イギリスの水族館のシャコが出てきた。今日の寿司ネタにはシャコはない。というか、見るのも気味が悪いと母が嫌がるため、家ではシャコが食えないのだった。まあ、気持ちはわからんでもない。あれはみたいだもんな。だが、それを言えば、エビやカニの類なども見るからに昆虫っぽいにもかかわらず、母はそれらなら平気で食うのである。さっぱりわからん。ヒカリモノも気持ち悪いと言って食わないから、母が食う寿司ネタはエビカニイカタコ卵焼きくらいのものなのだ。なにが楽しくて寿司を食っているのだろう。にもかかわらず、「寿司が好き」だと公言してはばからないばかりか、食いながら「お寿司ちゅうのは……」などと蘊蓄を垂れるのだ。おれから見ればおかしくてしかたがないのだが、家族サービスだと割り切って、好き放題喋らせておく。おれの母は、よくこれで生きているなと思うほどの好き嫌いの塊である。料理をさせても、自分が食えないものはとんちんかんな味になるのがわかっているらしく、潔く出来合いのものを買ってくる。自分が食える非常に狭い領域のものに関してはそこそこの料理の腕前であり(おれの舌には必ずしも合わないが)、おすそ分けして褒められたりするものだから、母は自分のことを料理がうまいと思っている。あまりにも好き嫌いの多い人間は、家庭料理は作れるかもしれないし、それで差し支えないわけであるが、まちがっても職業的な料理人にはなれないだろうから、客観的に身のほどを知っておくべきであろう――なんてことを面と向かって指摘したりするとヒステリーを起こされてうるさいので、まず言わんけれどもね。小説読んでいても、同じように感じる作品というのはあるよね、実際。
 そういう親から、なぜおれのような人肉以外はなんでも食ってしまう人間ができたかというと、こんな母でも、子供には泣こうが叫ぼうがなんでも食わせるという分別を持っていたからである。おれにも子供のころには好き嫌いがあったはずなのだが、いまではなにが嫌いだったのかすら思い出せない。出されたものは全部食わんと怖ろしい目に会うと思って育つうち、“嫌いな食いもの”なるものがどういう感じなのか、さっぱりわからなくなってしまったのだった。食ってみて“まずい”といったんは思っても、「待てよ、しかしこれは、ほんとうにまずいのだろうか?」と、“まずさを味わう”ような構えになってしまうのだ。そうこうしているうちに、その食材なりのうまみのようなものがまずさの中にほのかに浮かんできて、それなりに食えるようになってしまうわけである。小説読んでいても――もう、いいか。
 それはさておき、『真相究明! 噂のファイル』は、早い話が『特命リサーチ200X!』(日本テレビ系)の二番煎じにすぎないけれども、司会の内藤剛志の味と、レギュラーの黒鉄ヒロシ伊集院光の才気で保っている(中田喜子はちょっと影が薄い)ような番組である。『知ってるつもり!?』『驚きももの木20世紀』との関係に非常によく似ている。どちらの場合も、後発のほうがかなり“いろもの”っぽいのはご存じのとおりだが、たいていおれはいろもののほうが好きになるのだった。
 今日も今日とて、「ほお、シャコちゅうのはどえらいもんやな。それにしても、人間に換算して70tのパンチ力というあたりが、いかにもいろもの系の発想やな」と妙なところに感心して観ていた。たいていの小動物の運動能力は、体重で人間に換算するとスーパーマン並みになるに決まっている。ひとつには、運動能力を等しく保ったまま、アーキテクチュアを変えずにサイズだけ大きくしてゆくことは非常に困難だろうからだ。立方体の生物がいるとして、一辺の長さの変化に対して当然体積(ひいては重量)は三乗で効いてくる。生物は立方体じゃないけれども、三次元的な構造を持っているからには、おおまかには同じことだろう。棲息環境こそちがえど、同じ物理法則が働いている環境では、どんどん大きくしてゆくと効率が悪くなってくるのは容易に想像できる。いまひとつには、人間は“汎用機”として進化してきているのに対し、小動物は、いわば一藝を磨いた“専用機”としてそのハードウェア・ソフトウェアを発達させてきているからだ。PDAとデスクトップ・パソコンとのどちらが優れているかは一概には言えず、常に状況依存的な評価しかしようがない。
 などと、つまらんことを考えながらシャコの“タイソン”(という名前なのだそうだ)を見ていたら、ふと、もっとつまらんコントが浮かんだ。寿司屋に入ってゆくと、なぜか主要なネタがほとんどないのである。ヒカリモノは全滅で、イカやトリ貝すらもない。「これはどうしたことだ。ろくなネタがないじゃないか。シャコすらもないのか」と板前に詰め寄ると、板前はすまなさそうに歌い出す――

タコ、甘海老ばかりで〜ごめんね〜
シャコはとっても品薄〜なの〜

 それにしても歌が古い。最近、こんなネタばっかりだな。待てよ、むかしのボキャブラ天国にでも応募しておけば、八万円もらえたかもしれんな。この程度では無理か。映像が付けば、かなりいい線行くような気もするけど。

【8月21日(金)】
▼なんだってー!? 青酸カレーには、青酸が入っていなかっただってー? いや、入っていたことはいたのだが、ふつうのカレーに入っている程度にしか入っていなかったということらしい。どうなってるんだ、日本の警察は? “ふつう”の基準をあきらかにせずに、“異常”を見つけようとしていたのか。信じられん。やっぱり、おれは日本の警察を買い被っていたのだなあ。おれたちくらいの年齢だと、「日本の警察はすごく優秀なんだぞ」と言われ続けて育っているもので、さして警察のお世話になっているわけでもないのに「そうなのかー、優秀なのかー」と、勝手に思い込んでしまっている。どうやら、そういう時代ではなくなっていたようだ。認識を改めねばならない。落ちてゆく落ちてゆく、日本のなにもかもが落ちてゆく……。
▼戦争がはじまってしまった。いくらなんでも、アメリカは“世界の警察官”を気取りすぎではあるまいか。何様だと思っているのだ?(アメリカ様だ、と思ってるんだろうけど) 正面切って挑戦されて頭に血が上っているのはわかるが、他国の領土に雨霰とミサイルを撃ち込むなど、これはもはやテロ組織に対する報復攻撃なんてものではない。アフガニスタンとスーダンという国家に対する宣戦布告と受け取られてもいたしかたあるまい。たとえば、だ。一歩まちがって、オウム真理教の連中が霞ヶ関ばかりでなくワシントンD.C.にもサリンを散布し、アメリカ人が大勢死んでいたとしよう。アメリカは「狂信者との戦いに屈服はできない」とのたもうて、上九一色村や青山をミサイル攻撃していたにちがいない。少々の犠牲など、アメリカの“正義”の前には、なにほどのものであろうか。いくらなんでも、友好国の領土に出張ってきて、一テロ組織を叩いたりはせんだろうって? おれはそこまで楽観的にはなれないね。ほんの数十年前、殺し合いをしていた相手である。狂っとるぞ、クリントン。発射するのは精液だけにしておけ。
 呆気に取られているところへ、追い討ちをかけるように小渕首相のコメントを聞いて、おれはあまりの情けなさに「しおしおのぱー」とつぶやいて脱力した。「米軍の軍事行動の事実関係については調査中だが、米国のテロリストに対する断固たる姿勢は理解できる」だとさ。あなたの口から“断固たる姿勢”などという言葉を聞くとは思わなんだ。そういう言葉は、あなたの人生の辞書には最初から載っていないのだから、柄にもないことを言いなさんな。だったら、パキスタンの“断固たる姿勢”も絶賛してさしあげるがよろしいよ。それでも日本の首相か? 日本国憲法第九条は、それができた経緯はともかくとして、現存の人類にはもったいないくらいの未来的なものだ。怪我の功名とはいえ、そういう世界に誇れるものを持っている国の首相として、なぜにひとこと友人に苦言を呈してやることができないのだ? なるほど、国家の存立基盤のひとつは暴力だ。それはわかっている。だからこそ、その行使には細心の注意と熟慮が必要だろう。いくら否定しようとも、クリントン政権なる、たかが一過性の政権が抱える内部事情が、今回の派手なパフォーマンスに毫も関わっていないなどとは、世界中の誰ひとりとして思っていないぞ。「クリントンはん、あんた、女の問題で恥かいたから言うて、むちゃしなはんなや。“ええカッコしぃ”やと思われるだけやで」くらいのことを言ってやればいいのだ、小渕さんよ。おれはもう、あなたを首相だとは思わないことにする。アメリカ合衆国ニッポン州の知事だということにしておこう。あなたはそこで揉み手をしていてくれればいい。日本のことは、宮沢首相堺屋大臣たちに任せておきなさい。
 降りかかる火の粉は払うのが当然だ。だが、今回のアメリカの軍事行動は、どう考えてもやりすぎである。たしかに大使館爆破事件で死傷した人や、その家族や友人たちははらわたが煮え繰り返る思いだろうが、国家の頂点に立つ者までが一緒になってはらわたを煮え繰り返らせるべきではない。けっしてひとごとではないことを、ある意味でひとごとのように捉えねばならぬ苦しみを背負うことが、人の上に立つ者には求められるのではないか? などと、エラそうなことを言っているおれには、とてもそんな精神力も度量もない。おれが大統領だったら、「おれにもミサイル一発撃たせろ!」と逆上するにちがいない。幸いなことにおれは大統領じゃないが、クリントンさん、あなたは、事実、アメリカ合衆国大統領なのである。「アホ言うもんがアホや」「アホ言うもんがアホ言うもんがアホや」「アホ言うもんがアホ言うもんがアホ言うもんがアホや」――なんてことをやっててどうする。自分にはとてもできないことを人に要求するのは気が引けるが、あなたには、日本の歌人、若山牧水の有名な句を贈ろう。ちょっとだけ改竄したが、日本語だからばれないだろう――

白鳥は 悲しからずや
空のアホ 海のアホにも
染まずただよう


↑ ページの先頭へ ↑

← 前の日記へ日記の目次へ次の日記へ →

ホームプロフィール間歇日記ブックレヴューエッセイ掌篇小説リンク



冬樹 蛉にメールを出す