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98年9月上旬 |
【9月9日(水)】
▼会社から帰ったら、とっくに今日になっていた。飯食ってひと息つくと、どちらかというとすでに朝に近い時間。下手に寝ると起きられないのは必定なので、腹を括って日記を書いたり仕事をしたりする。
そういえば、むかしNHKのラジオ英会話の講師をやっておられた東後勝明氏が、ものすごいことを書いていらしたのを思い出す。東後氏が学生のころには、ラジオ英会話の放送は早朝に一回あるきりで、むろん、その時代にはタイマー付きのテレコもなければ、本屋でレッスン用のカセットテープを売っていたりもしない。夜更かしをしてしまったときなど、東後氏はラジオ英会話を聴き逃すのが怖くて、朝まで起きていたものだという。「おれはいい時代に生まれたなあ」と思ったことである。まあ、これだけの熱意の持ち主だからこそ、のちにご自分が講師になったりなさったのだろうが、頭の下がる話だ。
初めてホームビデオを買ったころ、嬉しくて映画を片っ端から録画していたものだが、やがて録画したテープが溜まってゆくばかりになっているのに気づいて、アホらしくなってやめた。いまでは、よほど狙いを定めたものしか録画して保存したりはしない。録画してしまうといつでも観られる気になってしまい、結局、いつまでも観ないという経験はどなたもお持ちだろう。テレビでいい映画が放映されるときは、都合のつくかぎりリアルタイムで観るようにしている。なんらかの縛りを自分に課さないと、一生観もしない映画、聴きもしない音楽、読みもしない本(あわわわわわわ)に金を使って、それらがただただ溜まってゆくなんてことになる。本に関しては、完全にそうなってるな、おれ。まだ本の場合は、流し読みをしたり、必要なときに必要な部分だけ参照したりといった利用法があるが、時間藝術はそうはいかない。三時間の映画を十八分でざーっと観たとて、あなたが映像の専門家でもないかぎり、なんの意味もないのだ。その十八分が完全に無駄になるだけで、虚しいことおびただしい。
そんなことを考えているうちに朝になり、ユンケルを飲んで会社へゆく。昼休みに喫茶店で飯を食っていると、珍しく大リーグの中継などやっている。
「なあ、八っつぁん」
「なんだい、熊さん」
「なにやら、メリケンで“まぐわいや”が記録を作ったそうだよ」
「へーぇ、あちらにはそんな商売があるもんかね? どこの国でも、そっちの欲は変わらねぇもんだな。で、その“まぐわいや”は別嬪なのかい?」
「なんでも男だそうだ。棒を振りまわさせたら右に出るやつぁ、いねぇんだってさ」
「あいや、メリケンってのは、やっぱり進んでるねぇ。で、そいつぁ、なんの記録を作ったんだい?」
「おれもよく知らねぇんだが、六十二本なんだそうだ」
「莫迦言うんじゃねぇよ。いくら“まぐわいや”でも、ひと晩に六十二本ってこたぁ――」
「ひと晩ってこたぁねぇだろう。一週間……いや、それでも化けもんだな……ひと月じゃねえかな?」
「それでも化けもんだよ。おれなんざ、前に嬶ァの尻を撫でたのは、長屋で花見に行った日の晩だったからな。酒ってのは怖ぇよ。素面じゃ頼まれてもできねぇことをしちまう」
「そりゃまた、えれぇ前の話だが、よく憶えてやがるな」
「それが姫はじめでよ」
「ものぐさな野郎だね、まったく。それでよく五人も餓鬼ができたもんだ」
「考えてみりゃ不思議だよなあ」
「まあまあ、あんまり考えんほうが面倒事がなくていいやな」
「それにしても、まめなやつだな、その“まぐわいや”は。やっぱりナニかい、いま流行りの南蛮渡来の“倍夜蔵”でも使うのかい?」
「ドーピングしてたら記録にはならんだろう」
「嬶ァが買ってこいってうるせぇんだ、その倍夜蔵をよ」
「で、買うのかい?」
「一度試してみるのも悪くねぇなと思ってな」
「ようやくその気になってきやがったか。しかし、なんだな、ほんとに効くもんかね、そいつは」
「そりゃあ、夜が倍になるってぇくれぇだから、効くんだろうよ」
「おいおい、お手柔らかに頼むぜ。ぺらっぺらの壁一枚あるきりで、もうおれんちだ。夜中にぺたぺた餅つかれた日にゃ、独りもんにゃあかなわねぇ」
「夜中に餅つき? するもんけぇ。せっかく夜が倍になるんだ。いつもの倍眠らぁ」
はっ。なにを書いてるんだ、おれは。お粗末さまでした。
【9月8日(火)】
▼ディアモール大阪を歩いていると、やたらばかでかいショルダーバッグを提げた石地蔵のような小男とすれちがった。桂南光氏である。だからぁ、なぜ葉月理緒菜とすれちがわないのだ? 大阪で仕事はないのかっ。なぜかおれがすれちがう関西の芸能人はおっさんばかりである。芸能人ではないが、ローカル局の女子アナになら出くわしても不思議はないのだがなあ……。おれは朝日放送(ABC)の鳥木千鶴アナウンサーのファンである。そこで「マニアックだ」っつってるのは関西の人ですな。たしかに、なんとなく垢抜けないおばちゃんっぽいイメージはあったのだが、ここ二、三年で見ちがえるように貫録が出てきて、ずいぶん色っぽくもなったのである。藝術的なばかりの美脚の持ち主でもあると、おれは知っているぞ。
え? ローカルな話ばっかりするな? いやいや、じつは日本全国の人が一度は鳥木アナを見ているはずなのだ。あの阪神淡路大震災の日、不幸にも早朝番組の生本番中だったアナウンサーである。どかーんと揺れが来たとき、鳥木アナは一瞬ひるんだが、すぐにカメラの向こうの視聴者を見据えると、安全なところへ身を寄せるよう、凛と言い放った。あれには惚れるぜ。もっとも、おれも地震のさなかにはテレビどころではなかったから、鳥木アナの勇姿はあとから録画で観ることになったのだが、いや、しびれましたね。おれもほかならぬ朝日放送のスタジオを見学させてもらったことがあるけれども、テレビ局のスタジオなんてものは、いつ落ちてきてもおかしくないような機材が頭上にいっぱいぶら下がっている。いつ倒れてきてもおかしくないようなセットがここかしこに立ち並んでいる。あの状況で阪神大震災級の地震に遭遇したら、頭を抱え腰を抜かして、その場にへたり込むのがあたりまえの人間の反応だろう。おれがアナウンサーだったとしたら、われらが鳥木アナのような対応ができたとはとても思えない。どちらかというと地味で、全国区に躍り出るというタイプの人ではないが、鳥木千鶴アナこそ、関西放送界の女神であるとおれは崇拝している。
おっと、趣味に走ってしまった。で、桂南光であるが、じつは、すれちがいざまにすぐ「あ、桂南光だ」と思ったわけではない。「あ、桂べかこだ」と一瞬思い、「いや、南光だ」と、おれにはいまだに名前を思い出すのにタイムラグが生じるのであった。南光氏には失礼かもしれないが、まあ、それほど関西在住の人間に深く刷り込まれた名前だったのだということでお許しいただきたい。
以前、水玉螢之丞さんが書いてらしたけど、作家も襲名したら面白いだろうなあ。“二代目アーサー・C・クラーク”には大笑いした。二葉亭四迷なんてのは、いかにも襲名しやすそうだ。二葉亭迷朝とか雀迷とか小四迷とかいう作家がじつは日本のどこかにはいて、誰も知らない名作を書いていたりして。
【9月7日(月)】
▼ふう。表仕事がやたら忙しくて、ゆっくり日記を書いている暇がない。ログによると、この日記は一日平均五百ページヴューくらいあるから、固定読者を三百人くらいと見積って、仮にひとり一回三十円を徴収するとすると、一日九千円の稼ぎになる。ひと月で二十七万円だ。贅沢しなけりゃ、会社行かなくても十分食っていける――なんて皮算用はホームページを持っている人なら誰でもやるだろうが、世の中そんなに甘くはない。タダであるからこそ、この程度のガチャ文を暇つぶしに読んでやろうという気にもなるわけで、月に九百円も払って購読する人がいるわけがない。十円でも金を取ったら、この日記の読者は一気に三人くらいになってしまうことであろう。そもそも九百円もあれば、もっと有意義なことや、もっと面白いことを書いた本、感動に打ち震えんばかりのプロの名文が本屋で買える(はずだ)。だいたい人様からお金など頂戴したら、気楽なことが書きにくくなる。肩に力が入って日記として面白くなくなる。もっとよーく調べて書かねばもうしわけないような気になることだろう。文章ももっと時間をかけて推敲に推敲を重ねないと気がすまなくなるだろう。結局、人様のお役に立つような立派なものにしようという気が先に立って、ガチガチになってしまうにちがいない。この日記からおふざけを取ったら、なーんにも残らなくなってしまう。それでは本末転倒もはなはだしい。なにをやっているのかわからなくなってしまうのではないか。
よって、ここで商売する気はまったくないので、もったいなくもご愛読くださっている方は、安心して暇つぶしにいらしてください。「いひひひ、ひとり一回百円取ったら、月収九十万だ」などと、想像だけして涎を垂らすのが一小市民のささやかな楽しみである。天下って遊んでいるだけで年収七百万などという結構な御身分の方には、まだまだ及ぶべくもない。がんばらねば(って、がんばっちゃったら元も子もないんだよな)。
【9月6日(日)】
▼体調が悪く一日のびていると、黒澤明監督の訃報が入ってきた。おれにとっては、やっぱり『生きる』と『椿三十郎』の人ですな。『七人の侍』をなぜみんながあんなに褒めるのかよくわからない。それはともかく、これで志村喬も三船敏郎も黒澤明もいなくなった。昭和が遠のいてゆく。湯舟(というか、バスタブ)に身を沈め、ふと口ずさむ――「命ぃ〜短しぃ〜、たすきにぃ〜長し〜」 ああ、この名文句を作った星新一ももういない。寂しいなあ。
で、命短いわけだから、せいぜいがんばって恋をせねばならぬのだが、金も力もなく色男でもないという三重苦、貧乏暇なしで、なかなか恋などという非効率的なことをしている暇がない。これは、もの読み・もの書きの端くれとしては怠慢である。恋ほど豊富なネタの供給源はない。いろんなことを考えさせてくれるし、なによりエイリアンと交わるわけであるから、さまざまな発見がある。ネタ集めのために恋をするのかと非難されると困るが、恋をした結果、ネタが集まるなら一石二鳥ではないか。お梶さん、ごめんね。
この日記にもかなり女性読者がいるらしいので、「恋人募集」と看板を掲げたら蓼食う虫が寄ってこないともかぎらないのだが、困ったことにおれは“おれごときに簡単に引っかかる女性には最も興味がない”というウッディ・アレン風の自家撞着的な精神構造の持ち主なので、お手軽に恋人を“ゲット”したところで虚しくなるのが見えてしまって寒々とした気持ちになる。結局、成りゆきにまかせることにしているのだ。ハンティングに出かけてゆくほどの金も暇も気力も体力もない。結婚に興味はないが、パートナーは持ちたいという女性を見つけるのはなかなか難しいのである。
おれが思うに、人は、配偶者と恋人とセックス・フレンドをそれぞれ持っているのが自然なのではなかろうか。いや、人間に“自然”なんてものがあるとも思えない。自然と言って悪ければ、それが合理的であるとおれは思う。つまり、社会的、精神的、肉体的パートナーが要求するものは往々にして異なるので、ひとりで三役やるなんてのは、お互いにたいへんな負荷になるだろうからだ。三者がぴったり一致しておればそれはそれでたいへんにしあわせなことだが、一致してなかったら、無理に我慢することはあるまい。夫が精神的になにも満たしてくれないのであれば、既婚女性もほかに恋人を持つべきであるし、さらにその二人と肉体的に相性が悪いのであれば、セックス・フレンドを持つのもよかろう。べつに珍しいことでもなんでもなく、いままでも男はそうすることを社会的に容認されてきた。それどころか、そうすることが甲斐性の証明ですらあった。ようやく女が追いついてきたからといって、なにを非難することがあろうか。最近、この社会で著しく割を食っていることに気づく女性も増えてきたようで、じつに頼もしいことである。男女共に、生きかたのオプションが増えるのはいいことだ。
で、なんの話だっけな? そうそう、だから、既婚者も遠慮せずどんどん恋をしましょう。紅き唇褪せぬ間に、熱き血潮の冷えぬ間に。
【9月5日(土)】
▼そつなく終わった『ウルトラマンダイナ』に替わって、今週からは『ウルトラマンガイア』(TBS系)。初回なので期待して観る。設定はまだなにがなんだかよくわからず、「たぶんこういうこっちゃろな」と想像をかき立てて楽しんだが、嬉しいのは人間側の防衛組織のメカ。ファイターチームの発進シーンは、往年のウルトラホークに匹敵する高揚感がある。モニタの前に座ってる二人の女性のうちひとりが外国人で、英語で状況報告やアナウンスを行うのもいい。べつに英語至上主義に与するわけではないのだが、飛行艇の発進シーンなんかでは、やっぱり英語じゃないとなんとなく間が抜けるよね。絶妙にエコーのかかった女声で、This is NOT a drill. This is NOT a drill.と聞こえてくると、それだけでわくわくしてきませんか。雲海を見下ろす空中要塞ってのもいいねえ。怪獣もちゃんと道路を踏み抜いてるし(『ミラーマン』に出てきたアイアンみたいな怪獣だったな)、モブシーンもけっこう藝が細かい。ガイアに変身する青年がちょっと大根だが、これはいまのところしかたがないでしょう。若いだけにテレビの演技の呼吸もすぐ吸収しちゃうだろうし、それはあまり大きな問題ではない。子供番組なのだから、多少素人臭さがあったほうがいいくらいだ。篠田三郎だって、最初はずいぶんギクシャクしていた(笑)。
テーマソングのメロディーはいまいち気に入らないんだけども、歌詞は子供にわかりやすくていい。98年3月22日の日記で触れた『帰ってきたウルトラマン』の精神を歌ってますな。そうなのよ、簡単にウルトラマンに変身してはいかんのよ。うん、これはいいぞ。この日記でもダイナには突っ込んでばかりだったけれども、ガイアはほんとうに楽しめそうだ。
▼身体に喝を入れようと、やたらに辛いものを食いまくる。晩飯にキムチと青唐辛子を食い、食後、小腹が空いてきたので、ニッポンハムの『ナーン&キーマカレー』で追い討ちをかける。この『ナーン&キーマカレー』、最初のころはなかなか本格的な辛さだと思っていたのだが、最近おれの舌が慣れてしまったのか、それとも製品が少し軟弱になったのか、あまり辛さを感じない。もの足りないので、手近にあったタバスコをキーマカレーにドバッと振りかけて食ってみる。うむ。なかなかいい。さらに深夜近くに腹が減ってきたため、ヨーグルトを食おうと冷蔵庫を開けたとき、おれの身体を天啓が貫いた。「ヨーグルトとタバスコは合うのではあるまいか……」
さっそくやってみる。250gのヨーグルトにまず添付されている砂糖を入れ(付いているものはとりあえず入れるのだ)、タバスコをビトビトと振りかける。よくかき混ぜると、ヨーグルトがほんのりとオレンジ色に染まってきた。子供用のオレンジ味の練り歯磨きってのがむかしあったが(いまもあるのだろうか)、あれに似ている。食ってみると、こいつがなかなかどうして捨てた味ではない。口の中に入れたときには、タバスコの味はほとんどせず、甘酸っぱいヨーグルトの味が広がるのだ。それを嚥下すると、ピリピリと舌を刺すタバスコの効果がようやく出てくる。面白い後味である。マイルドな辛さだが、絶対量としてはかなりのタバスコが入っている。辛いのが嫌いだが、身体に喝を入れたい人にはお薦め。あとから身体がぽかぽか、唇がひりひりしてくる。けっこう健康的な食いものではないかと思うのだがどうだろう?
【9月4日(金)】
▼ようやく涼しくなってきたのはいいが、突然涼しくなりすぎである。自律神経が狂う。内分泌もおかしくなる。身体がガタガタである。ミサイルが飛んでくる。矢が飛んでくる――ってのは、もういいか。
晩飯にやたらでかいトマトが出てきたのはいいが、これがなんと腐っている。昨日買ってきたものだというのだが、腐っているんだからしかたがない。もしや注射器で毒物を注入されているのではあるまいかと本気で疑ったが、先に食って吐き出した母はどうやらまだ生きているようで、少なくとも青酸の類ではないらしい。安心してものが食えないというのは困ったものだ。
そもそも人の食いものに毒物を混入する輩は、想像力に欠けているからああいうことができるのだろう。なんとなれば、「現に自分がこうして毒を混入しているからには、おれの食いものに毒が入っていたとしてもまったく不思議ではない」と、ふつうの人なら思うだろうからだ。あの手の連中は、自分の食いものだけは絶対に大丈夫だと信じる鈍感さがあればこそ、あんなことができるわけである。どこかのバカが毒を入れた食物が、本人の想像を超えたルートでまわりまわってそいつの口に入ったら、さぞや愉快であろうな。おれは万人の生命がすべて尊いと思えるほどには人間ができていない。自分の仕掛けた毒でのたうちまわって苦しんでいるバカを見つけたら、ケタケタ笑って見殺しにするだろうと確信している。してみると、医者というのは厭な商売だ。そんなやつでも助けるべく努力せねばならないからである。松本智津夫であろうと弁護しなければならない弁護士と同じくらい因果な商売だろう。おれが医者や弁護士だったら、そういう輩は、わざと手を抜いた治療をして殺したり、穴だらけの弁護をして有罪にしてやったりするにちがいない。おれのような人間が医者や弁護士でないのだから、世の中、まだまだ捨てたものではないのかもしれないのだが、おれ以下の人間が医者や弁護士である可能性もないとは言えないのだ。
ちなみにおれは、時代劇の“必殺シリーズ”が大好きである。
【9月3日(木)】
▼道を歩いていると、ミサイルは飛んでくるわ、矢は飛んでくるわで、生きた心地がしない。家に帰れば帰ったで、母がペットボトル入りの緑茶を持ってやってくる。おれに底を見せて、「これ、大丈夫やろか?」 大丈夫やろかと言われても、ふだんペットボトルの底を丹念に調べてから飲むわけではないから、おれには正常なペットボトルの底というものがどのような状態であるべきなのか、いまひとつ確信が持てない。「大丈夫かもしれんし、大丈夫でないかもしれん。そんなに気になるんやったら、店でほかのやつと比べたらどないや?」 われながら平凡なアドバイスである。
矢が飛んでくるといえば、トム・ホルトの『疾風魔法大戦』(古沢嘉通訳、ハヤカワ文庫FT)がむちゃくちゃに面白い。いや、まだ途中なんだけど、あまりにもおれのツボにハマるので、電車の中で読んでいるのは危ない。ぴくぴくと頬が引き攣り、ときおり「いひっ」とか「ぎひっ」などと声が漏れてしまいそうになる。「ああっ、だめ……声が出ちゃうっ……」と頭の中でのたうちまわりながら顔を歪めて本を読んでいるおやじ――不気味だよなあ。遺跡から甦ったヴァイキングが現代で繰り広げる珍騒動と言えばそれまでだが(それまでかどうか、最後まで読まんとわからないよ)、おれの大好きなイギリス風のブラックユーモアとナンセンスの塊。文章のひねこびたノリが絶品である。解説にもあるように、まさに「《モンティ・パイソン》とダグラス・アダムスが好きな人にはたまらない一冊」だ。おれなりにひとつ付け加えるとすれば、「ジョージ・ミケシュのエッセイが好きな人にもたまらない一冊」といったところか。同じようにヴァイキングと現代人とが演じるドタバタコメディという点では、アメリカ風のストレートなユーモアが横溢している『テクニカラー・タイムマシン』(ハリイ・ハリスン、浅倉久志訳、ハヤカワ文庫SF)と好対照を成す。あっちは、現代人のほうがヴァイキングの時代に行っちゃうから、これでおあいこだ(って、なにが?)。ハリスンには悪いが、おれには『疾風魔法大戦』のほうが面白い。
おれは不勉強にもトム・ホルトを読むのは初めてなのだが、巻末の著作リストを眺めていると、タイトルだけで買っちゃいそうな作品がある。「S・ナロンと共編のサッチャー元英国首相の非公認自叙伝」が、I, Margaret だってさ。むろん、アシモフの I, Robot をパロってるんだけど、なんだかほんとに鉄でできたサッチャーの絵が浮かんでしまい、妄想が膨らむ。面白そうだなあ。買うだけ買っておこうかな。
タイトルだけで思わず買っちゃうことって、あるよねえ。先日、Carolyn Ives Gilman の Halfway Human ってのを買ってしまった。『人間以上』(More Than Human /シオドア・スタージョン、矢野徹訳、ハヤカワ文庫SF)のパロディ・タイトルには、チャールズ・プラットの Less Than Human というのがあったけれども(おれは読んだことないが、大森望さんがお読みのはずだ)、まだ Halfway Human って手が残っていたか。これはもう、どなたが訳しても『人間途上』とするしかないだろう。さて、しかし、いつ読めることやら。
【9月2日(水)】
▼三菱自動車の「PAJERO io」のCMで、小野リサが歌っている Moonlight Serenade はとてもいい。不明にもボサノバばっかり歌っている人だと思っていたけど、ジャズ・スタンダードもおいしいじゃん。美空ひばりの Stardust を聴いて、目から鱗が二十枚くらい落ちて以来の発見である。小野リサがジャズだけ歌ったCDとか出ているのだろうか? ウェブで調べておくとしよう。ぜひ、この人で Lullaby of Birdland を聴いてみたい。
おれはふだんテレビを背にして音だけ聴きながらパソコンを叩いているが、最近のCMで音楽を聴いて思わず振り向かされたのは、小野リサのこれと「桃の天然水」だけだ。むろん後者は、「銀座ジュエリー・マキで懲りていないのか!?」という驚愕と戦慄に振り向いたのである。華原朋美なる歌手をときおりテレビで見かけはじめたとき、「もしかして、この歌手は音痴なのではなかろうか」とぼんやり疑ってはいたのだが、おれは音楽にさほど詳しいわけでもないから、これが新時代の歌唱なのやもしれぬ、おれが耄碌しているのやもしれぬと自分に言い聞かせていたのだ。だが、さしもの鈍いおれも「銀座ジュエリー・マキ」のCMソング(曲名すら覚えようと気にならない)で確信を得たのであった。小説なら読まなければいいも悪いもわからないが、歌は望みもしないのにだしぬけに流れてくるから始末が悪い。たしかに歌が下手な歌手というのがいてもいい。が、華原朋美は、小説で言えば“日本語の文法がおかしい”というレベルではないのか? つまり、巧拙を云々する以前の段階であって、これを商品として提供する側の見識を疑わせしめるほどのものだと思う。なんぼなんでも、もう少し練習してから人前に出るべきだ。ルックスで売れるということに甘えずに、原型を留めぬほどにデジタル加工したっていいから、せめて聴いて不快でない程度にしてから売ってほしい。いまにして思うと、おれが子供のころの歌手は、みんな歌がうまかったのだなあ。子供心に「これはひどい」と記憶に残っているのは、浅田美代子くらいのものだし。
▼名古屋のSF大会に行った人が、あちこちで「マウンテン」という喫茶店を話題にしている。ううむ、この店はおれも行きたかったなあ。残念だ。「甘口抹茶小倉スパ」といい「トマトパフェ」といい、すばらしいアイディアである。“食指が動く”とは、このことを言うのだろう。タニグチリウイチさんの「“裏”日本工業新聞」(8月30日)に、じつにうまそうな写真が出ているので、同好の士はぜひご覧ください。
今日たまたま三村美衣さんと電話で話したら、おれが「あの抹茶なんとかスパ」と口にしただけで、電話口でえずいておられた。大丈夫だろうか? 今度会ったら、「納豆のヨーグルト和え」の作りかたを教えてさしあげることにしよう。
【9月1日(火)】
▼某社編集者の細田さんのページを読んでいると、「…」(三点リーダ)の話が出てきた。おれはハンドルを使ったパソ通の書き込みやチャットなどでは「・・・」を使用するが、ペンネームで書く仕事のときは「…」を使う。ホームページでも「…」を使っているはずだよな、と改めて己のページを見てみると、あれ、なんてことだ、いつのまにか「・・・」(半角中黒三つ)を使っているぞ。あっ、六月中旬にパソコンが新しくなってからだ。いつのまにか三点リーダが半角中黒になっていたではないか。むかし「てんてん」で辞書登録して、「やっぱりよくないな」と使わなくなるうち変換候補の最後のほうに追いやられていたのだが、登録語を新しい辞書に移殖したとき順序が変わってしまっていたのだった。『「あ、この人、日本語FEPを変えたな」などと見透かされるほど、かっこわるいことはない』(98年6月22日)などと書いておきながら、なんのことはない、これは手前のことである。話題にされないと気がつくのが遅れたところだ。細田さんに感謝。半角中黒のままでは、なんとなく間が抜けていて読みにくいので(あくまで、おれはだよ。ポリシーで使う人は使えばいいと思う)、六月中旬以降の日記をチェックして該当箇所を三点リーダに置換しておいた。
▼先月末に続報が寄せられた(8月28日)“なぞなぞ焼きいも屋”について、かあくさんから詳報が入った。東京に住んでいる人には珍しくもなんともないものなのかもしれないのだが、ウェブ上では東京も一地方都市にすぎないから、どんどん書く。ちぇろ子さんが目撃したのは新宿御苑あたりだったのだが、神田にも出没するそうだ。クイズに答えるとタダにしてくれるとか、正解者の名前がトラックに貼り出されるというのは同じだから、まず同じ焼きいも屋だろう。かあくさんによれば、クイズの問題はB5のカードに書かれていて、チャレンジャーだけに見せてくれるそうである。やはり、何問もストックがあるらしい。かあくさんが例題(そんなものまであるのだ)を見せてもらったところ、なかなかの難問であったとのこと。新宿御苑はともかくとして、神田だの秋葉原だのには、ふつうより“おたく”な人がたくさんいそうで、この焼きいも屋も苦戦するのではないかと思うのだが、よほど難しい問題なのだろうか。あるいは、挑戦者の答えを聞いてから出題者側で恣意的に正誤を決められるような、ずるい問題なのだろうか。いくら難問でも、ちぇろ子さんのお友だちの情報が事実なら、正解者には半永久的に無料で焼きいもを提供せねばならないのだぞ。なんの仕掛けもなく正々堂々と“なぞなぞ”だか“クイズ”だかをやっているとすれば、たいした焼きいも屋である。
「一昨年の冬には、秋葉原駅の近くの万世橋から神保町の方へ続く通りの、スキー屋の並びが始まる手前に車をとめて店を開いていました」と、かあくさんはおっしゃっているので、冬に捜してご覧になってはいかがだろう。早川書房の方、ひとつ運だめしにどうですか? もし挑戦なさるのなら、堺三保さんをお連れになるとよいと思う。出入りの作家さんやライターさんは数あれど、『カルトQ』に出演したことのある猛者は、ほかにいないでしょう。
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