間歇日記

世界Aの始末書


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99年2月下旬

【2月28日(日)】
▼このところ“ほぼ毎日更新”の原則が破れがちである。体調がよろしくないのはいつものことだが、最近とくによろしくないうえに、ほかの媒体で仕事をしすぎて(おれにしては、だよ)かなりガタが来ているようだ。それでもまだまだ積み残しを抱えている。一度、なーんの締切も抱えていない状態というのを作って静養してみたいものだが、それはそれであまり長いとまた寂しいにちがいない。よく考えたら、初めて商業誌に雑文を載せてもらってからというもの、なにかの締切がなかった期間を体験していないことに気がついた。こりゃもう、めちゃくちゃありがたいことであって、にわかに信じがたいくらいである。してみると、SF周辺のライターというのは、ひょっとしてとんでもない人手不足なのではあるまいか。おれみたいな中途半端な兼業もの書きの仕事が絶えないくらいなのであるから、ちゃんとした人であれば仕事のほうからどんどん寄ってきて、その質量による重力場がさらに仕事を引き寄せ、早晩重力崩壊を起こすことであろう。「あんなやつに好き勝手をほざかしておいてはいかん」と憤慨なさっている若人よ。来たれ、SFへ。SF小説を書きなさい。SFマンガを描きなさい。SF評論を書きなさい。SF書評を書きなさい。誰も買ってくれなかったら、ウェブページで垂れ流しなさい。なんだったら、ウェブページで売りなさい。これからますます人手不足になってくるにちがいないから、いまのうちにどんどんSFに参入してくださいよ。あっ、そこのあなた、大蔵省に入るほどの能力があるんなら、もったいない、SFに来なさい。あっ、あっ、そこのキミ、そんな大企業に入ったって、好きなことをさせてもらえるとはかぎらんよ。いや、むしろ、その可能性は低いぞ。SFに来なさい。もう、猫も杓子もみーんな来なさいってば。そらあなた、なんたっていま、SFが熱いのよ――ただし、おれは無責任な呼び込みはやるけど、あとのことは知らんぞ。好きなことやるんやったら、末期哀れは覚悟の前やで。

【2月27日(土)】
言いまちがいネタ・SF篇再び――というわけで、またひとつ思い出した。
 映画『2010年』(これも『さよならジュピター』くらい古いですわなあ)で、米ソ(ソビエト連邦って国が大むかしにあったのだ)の宇宙飛行士と学者が、協同で木星付近の調査に当たるよね。呉越同舟ってやつだ。ソ連の飛行士にやたら威勢のいいのがいて、「そんなのは朝飯前だ」みたいなことばかり言う。言うのはいいのだが、慣れない英語で言うものだから、うっかりまちがえる。そのまちがいを、彼と仲よくなりはじめているアメリカの宇宙飛行士がいちいち訂正してやるのね。「そんなのは朝飯前だ」と言うつもりで“It's a piece of pie.”とソ連飛行士が言うと、「ちゃうちゃう、cake や。It's a piece of cake.」 でもって、それを覚えたソ連の彼がやっぱり「とても簡単だ」の意で“Easy as cake.”と胸を張ると、「Pie や。Easy as pie.
 たしかに、外国人にしてみりゃ、「どないせぇっちゅうんや」の世界であるが、そういうふうに言うものと決まってるんだからいたしかたない。このあたりの理不尽さが外国語を学ぶときの面白さだよね。いやまあ、母国語でもそうなんだけど。おれがなにげなく使っている日本語にも、「ドウシテ、コーナリマスカ?」などと日本語を学習している外国人に突っ込まれたら、説明できないものがたくさんあるにちがいない。かといって、あんまり部分部分の言葉の由来を意識しすぎると、「自分はどうやって歩いているのだろう?」とうっかり意識してしまったムカデみたいな、ぎくしゃくした文章になってしまう。難しいところだ。

【2月26日(金)】
▼ある仕事のため、このところ『さよならジュピター(上巻・下巻)』(小松左京、徳間文庫)を再読しているが、あまりの面白さにやたら読むのが遅くなってしまう。ちょっとした設定やガジェットに深く考えさせられ、あるいは想像力を刺激され、しばしばページを繰る手を止めて夢中になってしまうのだ。「あまりの面白さに、すいすい読めてしまいました」などとわれわれはよく言う。たしかにそういう面白さも重要である。最近の例で言えば、『水霊 ミズチ』田中啓文、角川ホラー文庫)にようやく手をつけたおれは、ぐいぐい引き込まれて半分読んだところで、いまだから言うが〈SFオンライン〉の締切を思い出し、「いかん。あと半分は入稿してから読もう」と強く決意して原稿を書きはじめ、少し書いたところで「やっぱり、あとちょっとだけ読もう」と『水霊 ミズチ』に戻り、はっと気がついたら「この作品はフィクションであり、登場する地名、人名、団体名その他は全て架空のものであります。万一、実在する事象との類似が見られたとしたら、それは偶然の結果であることをお断りしておきます。」という部分を読んでいた。“ちょっと”ってのは、三百ページであることもあるのだ。ごめんなさい、堺さん坂口さん
 こういう面白さは、おれの大いに歓迎するところではある。だが、面白さのあまり読むのが遅くなるという、別種の面白さもあるのだ。必死でどんどんページを繰ってしまうのも好きだが、読者側があれこれ想像せざるを得なくなって遅々として進まぬような作品もオツなものだ。いやしかし、おれはもともと小説の『さよならジュピター』を高く評価しているけれども、十六年を経て再読してみて、面白さが減じていないどころか、ますます面白く感じるとは思わなかった。作者もあとがきで述べているように、この作品はシナリオとして書かれたもののノヴェライズであり、小説として見た場合の構造上の欠点はかなりある。それでも、そんなものをぶっ飛ばすほどの面白さだ。映画が失敗作だからと小説のほうを読まず嫌いしている方がいらしたら、ぜひぜひお読みになってほしい。シナリオの影響を小説が引きずっている欠点があるからこそ、小松左京という作家の哲学的側面がSF初心者にもわかりやすい作品だとも言えるのである。

【2月25日(木)】
▼携帯電話の時計が少し遅れてきたので、その電話で117に電話して時報を聞きながら内蔵時計を合わせる。しかし、だ。いつも思うんだが、携帯電話のくせになぜこんな手間が必要なのかねえ。おれがいまいる部屋で最も正確な時計は、ビデオデッキの時計である。一日に三度、NHK教育放送の時報を自動的に受信して、内蔵時計を補正する機能があるからだ。最近のビデオデッキには、たいていこんな機能がついているだろう。ビデオデッキにできることが、専用の無線通信機である携帯電話にできないとはなにごとか。そういう機能やサービスを提供してくれてもよさそうなものだ。きっと喜ばれると思うぞ。なぜなら、暗いところで時間を知りたいとき、バックライトつきの腕時計をしていない人は、携帯電話を見ることが多いからである。おれの腕時計にはELのバックライトがついているが、ライトを点灯させるには時計をしていないほうの手でボタンを押してやる必要がある。つまり、たかが時刻を知るために、一瞬両手が必要なのだ。もっと上等な野外向けの腕時計には、ある角度に腕を傾けるだけでライトが自動点灯するものもあるけれども、おれはそこまでたいそうな時計をしていない。これはすなわち、おれのと同じようなバックライトつき腕時計の仕様では、一方の腕が不自由な人は、暗闇で時計が見られないということを意味する。片手で操作することを前提に作られている携帯電話のほうが便利にちがいない。
 バックライトのついていない携帯電話など見たことがない。しかも、携帯電話は室外で、それどころか、路上で夜に使うことも少なくないはずだ。電話会社や電話器のメーカが、携帯電話の電話がビデオデッキほど正確である必要はあるまいと考えているのだとしたら、ちょっともったいないと思うぞ。少なくともおれの場合は、腕時計を見るよりも携帯電話を見たほうが手っ取り早いことも多い。知らずしらず、腕時計に準ずる使いかたをしている
 おれのビデオデッキみたいに日に三度とは言わんから、一週間に一回でも自動補正してくれれば、たいへんありがたいのだが……。携帯電話を買ったときに説明書を見ながら時計を合わせたきりで、頻繁には使わないものだから時刻合わせの操作をいつも忘れてしまうという人も少なくないんじゃなかろうか。とくに最近の携帯電話は機能が多すぎて、機械の操作が苦手な人が「憶えきれない」と言っているのをよく聞く。時刻の自動補正機能があれば、概して機械に弱いお年寄りなどには大いに喜ばれると思う。
 どうですかね、電話会社の方、メーカの方? おれが知らないだけで、もうすでにどこかがやっているのかな?
〈SFマガジン〉99年4月号を見てびっくり。「MEDIA SHOW CASE」のコーナーで、大森望さんのサイトとおれのサイトを編集長御みずからが「愛読している」とお薦めくださっているではないか。ありがたやありがたや。特集記事の「SFファンのためのインターネット・ガイド」にも、ライター名にウェブページのURLが併記されている。電脳系の雑誌では珍しくもなんともないが、文藝誌ではあまりないことだ。そんなこととは知らなかったため、おれは執筆者近況でも手前のサイトのURLを宣伝している。つまり今月号には、都合三回もこのサイトのURLが出てくるのだ。もったいなやもったいなや。
 というわけで、〈SFマガジン〉で見て初めてこのサイトにお越しの方がいらしたら、こんなところでまことにあいすみません。あなたがSFのほかに、カエルチョコレート納豆もお好きならいいのですが……。

【2月24日(水)】
99年2月20日の日記で書いた malapropism だが、「あの手のまちがいは spoonerism というのではないか?」とのご指摘を、ねこたびさん我孫子武丸さんのお二方から頂戴した。そのとおりである。言われて思い出した。頭音転換のみを指す言葉がちゃんとあったのだった。マラプロピズムも頭音転換を伴うことが少なくないので、スプーナリズムはマラプロピズムの一種と言えないこともないが、おれがやった“チーズブリルギーフバーガー”みたいなやつは、もろにスプーナリズムである。ねこたびさん、我孫子さん、ご指摘ありがとうございました。我孫子さんによれば、「エラリー・クイーンなどをよく読んでいるミステリマニアはその類の言い間違いをスプーナリズムspoonerismと覚えているはず」ということなのだが、おれはエラリー・クイーンに疎いのでわからない。スプーナリズムを以て鳴る登場人物がいるのだろうか。
 そういえば、山村美紗令嬢キャサリンが、よく日本語の慣用句をヘンテコにまちがえて言うことがあるが、ああいうのも含むのがマラプロピズムのほうである。当人にとって外国語であれば、まちがえても無理もないけど、うっかり母国語でやるとバツが悪いよね、あれは。うっかりどころか、まちがって憶えた表現を正しいと信じて使い続けていることもたまにあったりする。長年のあいだには誰かが指摘してくれてもよさそうなものなのに、日本人は慣習としてあまり他人のまちがいを指摘しないから、その人はずっとまちがえ続けることになるのだ。厭な国民性である。
 とかなんとか言ってるが、おれ自身、他人の憶えまちがいに気づきながら、指摘するタイミングを逸したり、放置してしまったりすることがある。おれが大学生のころアルバイトをしていた塾の経営者が、生徒たちの授業中の態度があまりにもひどいので呆れていたおれに、「いやあ、あんなものは日常茶番事ですわ」と、まるで生徒の行儀が悪いことを自慢するかのように言った。「それは“日常茶飯事”では……」と訂正しようかと一瞬思ったが(その経営者の先生は国語も教えていたのだ)、よく考えると、この場合むしろ“日常茶番事”のほうが適切な表現だとすら思われたため、あえて指摘しなかった。おれはこれをヒントに、“あまりに面白くて笑わずにはいられないが、笑いを我慢しなければならない状態”を指す言葉として“噴飯やる方ない”という表現を発明した。
 言いまちがいの面白さをミステリに独占されては癪なので、SFにもなにかいい例はないかと考えてみるも、なかなか思いつかない。『月は無慈悲な夜の女王』(ロバート・A・ハインライン、矢野徹訳、ハヤカワ文庫SF)に登場するコンピュータのマイクロフトみたいなのは、言いまちがえているのではなく、意図的に寒いユーモアを発揮しているのだからだめだろう。ちなみに、ミステリに疎いおれだが、なんと、シャーロック・ホームズに兄がいることは知っている。
 あ、映画ならひとつ思い当たったぞ。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』に笑える言いまちがいがありました。主人公マーティーの父親は、ハイスクール時代から宇宙がどうしたのと夢みたいなことばかり話している典型的な nerd タイプ。気が弱くて、好きな女の子の前ではしどろもどろになってしまう(いちばん感情移入するキャラだよなあ。しませんかそうですか)。やがてマーティーの母親になることになる女の子にガチガチに緊張して愛の告白をするシーンで言うことにゃ、You are my density.
 なんぼなんでも、「そぉんなやつぁ、おらんやろう」(なんてギャグはそのころまだないのだが)と思うけれども、文字で考えるタイプの人間ならやりかねないまちがいだ。科学好きの気弱な若者という設定にぴったりハマる、秀逸な言いまちがいギャグである。もちろん、当時の流行歌を連想させて、マーティーの親父が若かった時代に観客の意識を無理なく引き戻そうともしているわけだ。将来マーティーの親父は、文字で考える科学好きな人間にいかにも向いていそうな“ある職業”に就くのだから、キャラクターとの整合性も完璧である。この台詞ひとつで、観客を笑わせながらキャラクター描写と時代描写とを同時にやっている。そら怖ろしいばかりだ。名画というのは、じつに細かいところまで練り抜かれているんだよなあ。
 ところで、この You are my density.だが、字幕や吹き替えでなんと訳されていたか記憶にない。映画の公開当時には使えなかっただろうが、いまなら通用するかもしれない訳を考えてみた。「キミはボクの濃い人になるさだめなんだ」ってのはどうでしょうね? この台詞を言われた女学生は、結果的にマーティーの親父と結婚するんだから、もともとかなり“濃い人”だったんじゃあるまいか。子供たちとシャトルで宇宙に飛び出したり、喋るアヒルとキスしたりしてたもんな。

【2月23日(火)】
▼インターネットが生んだ“SF系ネット者”のコンベンション「DASACON」の企画のひとつ「DASACON賞」に、なんと、このサイトがノミネートされた。なんでも“SF系の優れたウェブサイトに送られる賞”で、うちは“大宇宙に燦然と輝くページ”のひとつなのだそうである。「ここのどこがSFなんだ?」というご意見もありましょうが(おれ自身、SF関連のコンテンツの少なさに忸怩たるものがある)、実行委員会の濃〜い方々にそう見えているということであろうから、単純に嬉しい。うるうる。なにしろおれは三十六年異常、いや、以上生きてきて、賞と名のつくものにノミネートされたことなど一度もない。長生きはするもんじゃ。げほごほがほげほ。お前には苦労をかけるねぇ。お父っつぁん、それは言わない約束よ。え、お呼びでない? お呼びでない? こらまった、すっつれーいたしぁしたっ、と――おい、誰かとめろよ。
 「DASACON賞」は読者投票で決定する。ノミネートされていないサイトに投票するのも自由だ。詳しくは、「DASACON賞」のノミネート一覧ページをご覧ください。ご用とお急ぎでない方で、うちがこのような賞にふさわしいと思ってくださる方がいらしたら、投票してね。
▼あいもかわらず納豆を練っていて、ふと気づいた。「これは……よく見るとなにかに似ている」
 泡立ったネバネバがとろーりと蠢き流れるのをじいっと見る。そうだ、マックシェイクだ、マックシェイクに似ているのだ!
 マクドナルドに於かれては、この納豆ブームを利用しない手はない。このネバネバだけをシェイクして、新しい飲みものとして売り出せばよろしい。想像するだに、さわやかなドリンクである。いや、じつは、ミキサーでさっそく作ってみようと思ったのが、ミキサーがしまいこまれてしまっていて容易に取り出せない。残念だ。それにしても、どうしてたいていの家庭では、ミキサーがしまいこまれてしまうのであろうか。あ、お宅もそうですか? なに、ミキサーを取り出すには、まずぶらさがり健康器をどける必要がある? それからルームランナーアブフレックススタイリーが絡み合った山を崩さねばならないですと? なにやらパサパサのイトミミズの山みたいなものが出てきましたな。なんです、これは? ほう、去年一回だけ家庭でやってみた流し素麺ですか。は? そこからが難関だ? 桐の箪笥が出てきましたが、これがなにか? 抽出しを開けると、マタンゴに進化した紅茶キノコ高枝剪り鋏を振りかざして襲ってくるからやめてくれって? や、やめときましょう。
 もっとも、あとの掃除のことを考えると、すぐにミキサーを使えたとしても二の足を踏んだろう。よって、マダム・フユキの宇宙お料理教室、今回は構想のみである。どちらかというと、この“納豆シェイク”は、マクドナルドじゃなくモスバーガーの守備範囲かもな。

【2月22日(月)】
『犯罪心理捜査ファイル ボーダー』(日本テレビ系)をひさびさに観る。ロバート・K・レスラーの“おかげ”なのか“せい”なのか、この手のプロファイリングものが定番になってしまったような感がある。いつもどこかでなにか似たようなものをやってますよね。『ボーダー』はネタが薄すぎて、心理ものとしてもミステリドラマとしても、あまり面白くない。今日の後催眠暗示ネタも、じつにありきたり。テーマソングがはじまるまでの序盤で、ほとんど話の展開が読めてしまう。そういう意味では、倒叙ものと言えないことはないが……。まだ三回くらいしか観たことないんだが、精神を病んでいる犯人の異常さがいかにも作ったような異常さで、ちっとも異常じゃない。まあ、まったく感情移入しようのない、異星人のようなホンモノの異常を扱ってしまうと、番組として成立しないのであろう。これなら、日常生活で遭遇する現実の人間のほうが、よっぽど異常度が高い。
 じゃあ、なぜこんなのを観るかといえば、そんなもん、インテリ役の中森明菜が観たいからに決まってるじゃないか。はっきり言って、この人の演技はワンパターンである。スキーや海水浴から帰ってきた人が、よく中森明菜になっている。紫外線で目をやられて、眩しそうにしているからだ。それからカラオケに行けば、さらに中森明菜に似てくるだろう。声がかすれるからだ。要するに、眩しそうにしながらかすれた声でぼそぼそ喋ると、女性はみんな中森明菜になれる(そこまで言うか)。でも、役者としての技量と、おれの好き嫌いとはまったく別なのである。中森明菜は歳食うほどよくなってくるよね。なんかこう、壊れてる感じがいい。
 この番組のプロファイラー役なら、洞口依子がやってもよかったんじゃないかと思うけど(インテリ役の彼女はすごい。惚けたように見とれてしまう)、洞口は基本的に童顔なので、少女っぽさがときおりチカッチカッと見えてしまう。それが彼女の魅力ではあるが、このプロファイラーは“壊れている”だけではなくて“すり減って”いなくてはならないから、やっぱり中森明菜の妙な“無存在感”が活きるだろう。えっと、ボロクソ言ってるように聞こえるかもしれませんが、おれは三十すぎてからの中森明菜は好きですからね。刑事が洞口依子でプロファイラーが中森明菜、私立探偵が葉月里緒菜で、犯人はもちろん岸田森(彼が死んだりするものか)――なんて異常心理ものが観てみたいなあ。街の浮浪者は天本英世で、コンビニの店員は嶋田久作、被害者は神戸浩あたりがいいか。ほかにも、徹底的に“どこか壊れてる”感じの役者ばかりを集めて犯罪ドラマを作ってみたら面白いかも。得体の知れない怖さを通り越してギャグになるほどの配役を、ときどき夢見たりする。

【2月21日(日)】
「男性は自分の精子を観察してみよう」という話(98年2月9日)をしたところ、“若い女性の喀痰に精子が見つかる”という、けっこう有名な臨床検査技師の都市伝説(実話かもしれんが)を林譲治さんから頂戴したのは書きましたよね(2月10日)。林さんご自身が検査技師をしておられたので、その手の話はほかにもいろいろあるそうなのだが、“最悪のケース”とおっしゃる事例をさらにご投稿くださった。
 スピロヘータと総称される、その名のとおり螺旋状をした微生物がおりますわな。ああ、あの、ビデオテープが媒介して人間を殺すやつ――って、ちゃいますがな、ベタベタなネタやな。
 そのスピロヘータの類は、とくに病原性のないやつなら、ふつうの人の口腔内にも生存が確認できるのだそうな。でも、スピロヘータはわりと弱いやつらで、人体で生存可能な部位はごく限られているとのこと。で、東南アジア某国へ遊びに行ったある男が、梅毒スピロヘータを身体にくっつけて帰ってきたそうだ。どういうわけか、口の中に感染させて……。おれが推理するに、この男は某国で痴漢行為に及んで、梅毒スピロヘータを飼っている女性の局部に素手で触れたんでしょうな。で、どういうわけか、この男にはふだんから指しゃぶりの癖があって、けしからぬ行為のあとすぐに、ついついいつもの癖が出てしまったのでありましょう。すばらしい。われながら鉄壁の論理である。
 この男を検査した技師に林さんが直接話をお聞きになったところ、「アフリカでは10円の薬が買えなくて死んでゆく子供たちがいるというのに、どうして我々はこんな馬鹿のためにこれだけの労力を費やすんだろう」と嘆息しておられたとか。臨床検査技師の苦悩は深いようだ。
 まあ、この指しゃぶり癖のある方には、とりあえず「世界の子供にワクチンを」日本委員会のホームページ」でもご覧いただいて、わざわざ経済的に弱い立場にある国まで指をしゃぶりに行かないようにお願いしたい。おや、なんだか今日はおれらしくないぞ。でも、こういう男は、はなはだ不愉快だよね。人間としてのおれにではなくて、おれの地位や金(どっちもないけど)に惹かれて脚を開く女性を前にしたら、おれなら興ざめするけどなあ。そもそも、勃たないんじゃないか。まあ、もし勃ったら、排便でもするようにすることはするかもしれんが、そんなことして楽しいかね?


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