間歇日記

世界Aの始末書


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99年2月上旬

【2月10日(水)】
▼うーむ、世間は広い。電動納豆撹拌機を手作りしている人がいるかと思えば(98年1月28日の日記参照)、三十郎さんからの情報によると、“納豆練りドンブリ”なるものが歴とした商品として売られているのだそうだ。三十郎さんが渋谷で発見なさったそれは、大ぶりの茶碗サイズの陶器で「内部には疣状の突起と縦縞が刻まれて」いたという。商品のキャッチコピーがすごい――「納豆喜ぶ最高の練り心地」
 疣状の突起と縦縞で納豆が喜ぶって、おいおい、なにかちがう分野の製品かと思うぞ、それは。件の電動納豆撹拌機に疣状の突起がついていないことを祈るばかりである。容器の縁にひっかけて固定するためのがついてたりしたら完璧だ。なにが完璧なんだか。
 なかなか洒落のわかるコピーライターではあるが、納豆を練るための専用丼を作るという製品コンセプトも、目のつけどころがシャープである。おれが見かけたら、思わず買ってしまうにちがいない。
▼下ネタが続くような気がしているが、なあに、かまうものか。この日記では、おれはあまりにも高尚な考察ばかりしているため、仮に全裸の藤原紀香がM字開脚で手招きしていても「この外側の楕円が冥王星軌道だとすると、内側の楕円は海王星の軌道で、海王星はちょうどいま長軸の一端にあり……」などと眉ひとつ動かさずに解説をし続けるようなやつだと思われているかもしれないが、そんなことはまったくない。どちらかというと、すぐに謎の皮――じゃない、ベールに包まれた海王星の探査に乗り出すほうである。なにを隠そう、おれはパソ通のチャットではちょっとした下ネタの猛者として鳴らしている。酒を飲んでやりだすと、自分でも呆れるほどの外道なギャグが次々と飛び出してしまう。一部で愛唱されている「やおい山脈、菊割り桜」という替え歌の作詞者はおれだ。問題は、おれの下ネタはすぐにSF方面へとシフトしてゆくため、だんだんいやらしさがなくなってくることで、いやらしくない下ネタなど面白くもなんともない。下ネタは下ネタとしてのえげつなさを追求すべきであり、その点、まだまだ修行が足りないと痛感している。
 そこで、昨日の日記に関連して林譲治さんからいただいた下ネタ――林さんのお知り合いの臨床検査技師の方が喀痰検査をしていたところ、若い女性の喀痰から大量の精子が見つかったとのこと。
 じつはこの話、けっこう人口に膾炙しているようだ。おれも幾とおりかのヴァリエーションを知っている。検査技師業界に伝わる都市伝説の一種ではないかとすら疑ったりもするけれど、うーむ、やっぱりこれは実話でしょう。実話であってほしい。いかにもありそうな話であり、女性の痰から精子を発見してこそ、ようやく一人前の検査技師――などと仲間内で言われていたりして。「先輩、とうとう見つけました」「おお、やったか。もう教えることはなにもない」とかなんとか。
 この話にインパクトがあったのは、ずっとむかしのことではなかろうかと思う。さすがに女子小学生の痰からそんなものが出てきたら、早熟だと考えるよりも児童虐待を疑って警察に通報するべきかもしれんが、若い女性の痰ならなんの不思議がありましょうや。まあ、中で出す出さない、飲む飲まないに関しては個々人の好みというものがあるだろうが(おれは飲んだことないが、客観的に考えると、せっかく口で受けたんならあんなに栄養のありそうなものを飲まないのはもったいないよな)、ホワイトハウスの女性研修生の痰からだって、精子なんぞいくらでも出てくるだろうに。
 よって、この伝説(?)をもっと面白くするためには、若い女性ではなく、若い男性の喀痰から精子が出てきたくらいのアレンジを加えたほうがよかろう。そっち方面の趣味はないヘテロの既婚男性であったとして、最近奥さんとはキスぐらいしかしてないなんてことだったら、いったい全体どういう経路でそんなものが痰に混じったのか、たいへんややこしい推理をしなければならなくなりそうだ。検査技師という職業も、いろいろ心労が多いのだろうな。

【2月9日(火)】
▼体調が悪くネタもないので、突然な話をする。
 さて、突然だが、男性読者諸氏よ、あなたはご自分の精子をご覧になったことがあるだろうか? おれはある。ああいうものはなにやらすごい設備がないと見えないかのように思っておられる方も少なくないようなのだが、なあに、ご家庭でも簡単に観察できる。
 ことの起こりは高校生のときである。夜中に勉強をしていて、なんとなく溜まってるなと催したおれは、オナニーをはじめた。まあ、いつもなら一発抜いて終わりなのだが(一日に十一発抜いたと自慢していたやつが同級生におったけれども、あいつは、いつ勉強してたんだろう?)、そのときはなんとなく魔がさしたというか、こういうことをただやるだけではもったいないなという気になったのである。
 おれは顕微鏡とスライドグラスを机の上に用意すると、まず精液の採取に取りかかった。詳しい採取方法を書きたいところだが、これは非常に専門的かつ高度な熟練が必要とされるハイテクなので、あえてここでは省略する。ティッシュペーパー(どこがハイテクだか)に採取した精液をまずじっくりと観察すると、抜きたてのナマの精液は必ずしも一様な状態でないことがわかる。なにやらぎょろぎょろした粘液(カウパー腺液などであろう)が混じっているのがふつうだろう。おれはできるだけ精液の本体であるらしきあたりをガラス棒で撹拌するようにして、スライドグラスに薄く塗りたくった。これだけでは、どうもまだ粘性が高すぎるような気がする。うまく光を透過しないかもしれない。なにか希釈液はないだろうか。おれはあたりを見まわしたが、精液を薄めるのに適当な液体が見当たらない。困った。しばし考えたおれは、精子は弱アルカリ性で活発に運動するということを思い出し、最適(とおれには思えた)の希釈液が手近にあったのに気づいた。おれは洗面所でうがいをしたあと部屋に戻り、なるべく不純物が混じっていないさらさらの唾液をスライドグラスの精液に垂らして、カバーガラスをかけた。余談だが、スライドグラスはスライドガラスともよく言うのに、カバーガラスをカバーグラスと言う人はあまり知らない。専門家はどう呼ぶのだろうか。
 さて、顕微鏡である。テレビのSFによく出てくる接眼レンズがふたつあるような高級品がおれの家にあるわけがない。小学校のときに親戚が買ってくれた、最高倍率四百倍のおもちゃに毛の生えたようなやつがあるだけだ。ミドリムシやらなにやらは、これで十分見える。精子の大きさは、頭から尾の先までで約五十〜六十ミクロンだ。それほど小さいものではないが、ほとんどが尾だから、四百倍程度では、あの音符のような姿にはとても見えまい。まあいいや。ごちゃごちゃ考えているよりも、見てみたほうが早い。おれは胸躍らせて左目を接眼レンズに当て、ピントを調節した。
 おおお。見えたよ、見えました。やっぱり音符型には見えないけれども、なにやら糸のようなものが、たしかに自発的に泳ぎまわっている。いや、泳ぎまわっているというよりも、目標がないためか、ただでたらめに右往左往しているという感じだ。こんなものが下手をすると人間になるのか――おれは感動に陶然としながら、その無数のイトミミズのようなものをしばし眺め続けた。もう少し上等の顕微鏡があれば、少なくとも音符型は確認できただろうし、さらに上等なものがあればテレビの科学番組でやってるような姿も見えただろうし、さらに一層上等な顕微鏡があれば、精子の頭のところに小さな人間がうずくまっているのも見えたにちがいない。だがおれは、レンズの下の世界で、自分が出した精子がもわもわと動いているのが確認できただけで満足だったのである。
 というわけで、もし自分の精子を見たことがないという男性読者がいらしたら、ぜひ試してみましょう。子供の理科教材用程度の簡易顕微鏡なら、最近の相場はよく知らないが、一万円もしないと思う。おれが買ってもらったやつは、当時で五千円もしないものだったと記憶している。こういう面白い体験は、死ぬまでに一度はしておくべきです。希釈液に唾液を使うのはおれが勝手に思いついたひどく乱暴な方法にちがいないので、そこいらは各自工夫してみていただきたい。当然のことながら、女性器の分泌液を使うのが最もよいはずだから、協力が得られる方はお願いしてみるとよいかも。理屈で考えれば、排卵期に採取すれば、精子の運動に適したpH値の液体が入手できるのではなかろうか。冗談抜きで、いっぺんやってみてください。いや、感動しますぜ、ほんと。

【2月8日(月)】
みくろさんの日記「MicroNote」99年2月7日)を読んでいたら、この日記にリンクが張ってあった。一昨日書いた海王星と冥王星の位置関係の話題に関する言及である。“冥海”が“海冥”に戻るのは二月前半だとみくろさんは指摘しておられて、たしかに最近増えてきたマスコミの報道でもそう言っている。「あれえ、おっかしいなあ。どっかで三月十四日だとたしかに見たぞ」とおれは悩んだ。ホワイトデーだからわかりやすいと意識したから、いくら耄碌してきているとはいえ、一か月もまちがえて憶えていたとは思えない。そこでいろいろなサイトを調べているうち、どうやら“海王星と冥王星の順番が変わる”ということの解釈がちがうらしいとわかってきた。
 たとえば、Marc W. Buie さんの Pluto, the Ninth Planet というページなどでは、海王星が冥王星よりも太陽に近くなるのは今年の二月十一日だと記されているのに対し、Views of the Solar System というサイトの Pluto のページには、冥王星が海王星軌道の内側にあるのは三月十四日までだと書かれている。ほかにもあちこち記述を捜してみたが、やはり両者と太陽との実際の距離に着目している記述では二月前半に逆転するとしてあり、冥王星が海王星の軌道を横切ることを以て逆転と解釈している記述では三月十四日がその日だとしている。要するに、冥王星の軌道は他の惑星の公転面に対してかなり傾いており、しかも他の惑星の公転面に垂直に射影した場合は海王星軌道の内側に入り込んでいるから、冥王星と海王星の太陽からの距離が逆転する日と、冥王星が海王星の軌道を横切る日はちがってあたりまえだということなのだろう。したがって、おれの一昨日の記述「冥王星は今年の三月十四日には、また海王星軌道の外側に出てくる」というのは必ずしもまちがいではないが、太陽からの距離が実際に逆転することを以て“海冥”に戻るとするなら、二月前半が正しいということなんじゃなかろうか。うーむ、勉強になった。やっぱり、SFについての御託を並べて金をもらうようなことをしているからには、簡易なものでも天文シミュレータくらいは手元に置いておかなくてはいかんよなあ。そのうち買おう(っつってるうちに忘れる)。
 もっとも、野尻抱介さんのおっしゃるように、楕円軌道の長径でソートするのがいちばんすっきりしていていいのだろう。軌道が交差しても、いちいち順番を言い替えたりしなくていいしね。
 話は変わるが、一昨日の日記を読み返していて、自分の無意識の言葉遣いにハッとした。おれは、冥王星が海王星軌道の外側に“出てくる”などと言っている。このあたりが、われながらSFファンだなあと思う。こういう話をしている時点で、すでに視点は太陽系の“外側”にあるわけだ。堅気(?)の人なら“出てゆく”って言うよね、やっぱり。言わんかな?

【2月7日(日)】
水野寛之さんから『ウルトラマンガイア』(TBS系)に面白いご指摘。「リパルサーリフトで飛ぶピースキャリーが、同じくリパルサーリフトで浮いているエリアルベースの上を進めるのはどうしてなのか」というものだが、なるほど、たしかになんとなく不思議だ。そもそもリパルサーリフトなるものがどういう原理で作動する装置なのか、こじつけでもなんでもいいから知らないことには推測のしようがないな。どこぞの設定本とかに載っているのかもしれないが、おれはテレビ番組なるものはテレビだけを観ている人にもわかるように作るべきだと思うので、設定本の類は滅多に読まないのである。
 そういえば、この問題、前に書いた“どこでもドア・トランポリン”(97年7月21日)にどことなく似ている。エリアルベースの上の空間では、重力がどのように働いているかがポイントだな。リパルサーリフトは反重力を発生させるのか、それとも重力そのものを無効化もしくは遮断するのか。それとも、なんらかの未知の力を発生させ、それが地球上では浮力あるいは揚力として働くのか。嘘でもいいから、なにか手がかりになる理屈を出せよ、我夢君。

【2月6日(土)】
▼いいないいな、バドワイザーの新しいCM、最高だねー。バドガールの出てくるヴァージョンよりも、よっぽどいい。おや、まだご覧になったことないですか? カエルが三匹出てくるわけ(もう、これだけでセンスがいいとわかる)。で、代わるがわる鳴くわけ。最初、いったいこれはなんのCMなのだろう、このカエルどもはなんと鳴いているのだろうと首を傾げることだろうけど、よーく聴いていると、それぞれ“Bud”“Weis”“Er”と鳴いているのだった。大爆笑。いやあ、近年のカエル系CM(なんてジャンルがいつできた?)の中でも出色の出来である。「おめー、ヘソねーじゃねーか」の時代からずいぶんと映像技術も進んだものだ。
▼ネタがないので、やっぱり“ガイア突っ込みアワー”をお送りする。といっても、今日の『ウルトラマンガイア』(TBS系)みたいな話に、基本的におれはとても弱い。少々の、多少の、かなりの、相当の粗があったって許せてしまう。いかんなあ、甘くて。でも、ヴォイジャー1号、2号に想いを馳せる少年ってだけでよろしいです。なにしろ、最近の子は、ヴォイジャーなんて知らないのだ。
 とはいえ、突っ込むところは突っ込んでおきましょう。これはもう、あまりと言えばあんまりなミスなので、みなさまお気づきのことだろう。千葉参謀、『ウルトラマンガイア』はいったいいつの時代の話なんでしょう? 子供に太陽系の惑星の順番を教えるのに「その(土星の)向こうが天王星、そして、冥王星、海王星だ」などとおっしゃってましたが、冥王星は今年の三月十四日には、また海王星軌道の外側に出てくることになってるんですが……。次に海王星軌道の内側に入るのは、西暦二二二六年の九月です。いくらなんでも、千葉参謀、あなたの世界はそんなに未来じゃないでしょう。XIGの参謀ともあろう方が、冥王星と海王星の位置関係を忘れておられては困りますなあ。参謀は物理学にはあまりお詳しくないらしい描写がありましたが、子供にヴォイジャーの話をしてやるくらいだから、天文学はお好きなんでしょう?
 さて、これから推測されるのは、今回の話を書いた脚本家は、一九七九年以降に太陽系の惑星の配列を覚えた人ではないかということである。早い子なら幼稚園くらいでも知ってるだろうが、遅くとも小学校高学年までには覚えるだろう。すなわち、二十代後半くらいの人じゃないかな? あるいは、もっと歳食ってる脚本家が、単にポカをやっただけかもしれないけどね。え? もしかすると、『ウルトラマンガイア』の時代には、冥王星はカイパーベルト天体として惑星の地位をとうに剥奪(?)されているかもしれないって? うーむ。もしそうなったとしても、人々が日常会話で冥王星を太陽系の惑星仲間から外すようになるには、かなり年月がかかるとおれは思うな。
 さて、それはともかく、今回のチーム・ライトニングの戦闘シーンはなかなかよかった。リパルサーリフト搭載機ならではの、ちょっと変わった機動を見せようとしていたのがよくわかる。あんな機動をして梶尾たちはよく血反吐を吐いて死なないものだとは思うが、そこはそれ、訓練の賜物ということにしておきましょう。それにリパルサーリフト自体の原理もよくわからんから、もしかすると物体の慣性にも作用してパイロットの安全を図る機構になってるのかもしれないしね。ぼかしてあるということは、ある意味で強いことだ。
 これだけ文句を垂れても、おれは今日の話は好きである。初めて太陽系を脱出した探査機パイオニア10号の立場はどうなるんだといささかの義憤を感じないでもないが、やっぱりなんと言ってもヴォイジャーのほうがメジャーだ。親子で観ながら、子供にヴォイジャーの話をしてやったお父さんお母さんもきっといらっしゃるだろう。
 余談だけど、松任谷由実のアルバム『VOYAGER』には、どうして映画『さよならジュピター』の主題歌「VOYAGER 〜日付のない墓標〜」が入ってないんだろう? 著作権絡みのなにかがあるのだろうか。おれは挿入歌の「青い船で」のほうがずっと好きだが、「VOYAGER 〜日付のない墓標〜」の歌詞に、一箇所だけすごく好きな部分がある。初めて聴いたとき、鳥肌が立つほど「いいな」と感じた。二番の冒頭「冷たい夢に乗り込んで/宇宙(おおぞら)に消えるヴォイジャー」ってところ。いいねえ。“冷たい夢”ってのがいい。宇宙船内で冷凍睡眠を取る飛行士=航海者の隠喩にすぎないと取る向きもあろうが、松任谷由実の意図がどうあれ、おれは“冷たい夢”ってのをもっとストレートに捉えたほうが、より詩的でいいと思うから、そう思うことにしているのだ。つまるところ、SFってのは“冷たい夢”を描くものだろう。SFファンってのはたぶん“冷たい夢”というフレーズに、なにかこう、共振するものを持っている人々なんじゃないかと思うんだな。ちょっと、おセンチすぎるか。
 そういえば、みんな『さよならジュピター』に冷たいねえ。いや、理由はよーくわかるよ。映画としてはたしかにナニなアレで、相当期待を裏切られたものではありましたからね。小説のほうは、おれは高く評価するんだが……。まあ、映画作品としてはお世辞にも褒められたものではないにしても、この映画に携わった人々が製作過程で得たノウハウやら人脈やらは、おそらくおれたちに見えないところでいろいろな形の実を結んでいるのだろうとは思う。SF映画に理解のない日本映画界に対する、小松御大の身銭を切っての挑戦ではあったわけで、例の“失敗であることを度外視すれば成功”というフレーズがここでも使えるだろうという意味では、おれは評価している。小説はいいんだがなあ……。
 今日はやたら話が飛びまくったな。まあ、いいじゃん。ヴォイジャーもいまごろ冷たいところを飛んでいるだろうし。

【2月5日(金)】
▼体調最悪のため脳がうまく働かず、この日記に不可欠なアホなことの考察すらできない。よって、今日は機械的作業で指を動かし、脳を刺激した。以前からちびちびと改装をしてきてはいたのだが、最後の作業とテストを行って本日リリースする。この日記のインタフェースを大幅に改良したのだ。
 先日から、この日記にリンクを張りやすくするために最新ファイルをデュアル化して、一方のURLを固定するという試みを行っているが、それ以前に、従来のインタフェースが抱えていた最大の欠点として“まとめ読みがしにくい”ことが気になってはいた。開設当初はそもそもこんなものをまとめ読みしようという酔狂な方は少ないだろうと、その点をまったく考慮に入れていなかったのだけれども、おかげさまであちこちで身に余るご紹介をしていただけるようになったきた。プリントアウトして読んだり、ウェブが見られないお友だちにテキストをメールで配信してくださっている方もいる。ありがたいことだ。そこで気がついてみると、どこかのリンク集から飛んで来られた新たな読者が過去のものを読むのには、この日記のインタフェースははなはだ不親切なのであった。バックナンバーを順番に読むには、いちいちインデックスに戻らねばならない。自分で操作してみても、これははなはだ苛立たしい。
 というわけで、今日からご覧のようにしてみた。この改装はけっこうな手間で、だからこそちびちびと進めてきたのだが、ようやく過去のファイルの改造が最新日記に追いついた。ここまでやるくらいならフレームを使えばいいじゃないかと思われるだろう。だが、おれはあまりフレームが好きじゃない。単に好みの問題である。また、フレームを使うと、やはり実質読者数に比してページヴューが徒に増大してしまうため、プロバイダのログを見る以外にはとくに詳しいアクセス解析を行っていないおれには、ますます読者数が見えにくくなる。
 まだまだ使いにくいところが残っているのは自覚しているが、これで少しは“連続読み”はしやすくなったことと思う。もったいなくもまだまだ新規読者が増えるようであれば、いずれはオフラインでの“まとめ読み”を可能にするために、圧縮ファイルのダウンロードもできるようにしようかとも考えている。もっとも、その際にはきちんと編集して、いろいろな文書形式で読めるようにしたほうがいいだろうとか、書き下ろしを同梱して売ってみたらどうなるだろうとか、いろいろ実験的なことをしてみたい欲もある。いずれにせよ、いまは時間的にとても手がつけられないから、当面はこのまま続けることだろう。人はこうやって徐々に電子出版の世界に近づいてゆくのだろうな。

【2月4日(木)】
▼すごい雪である。もっとも、この程度の雪を“すごい”などと言っていては雪国の人に爆笑されてしまうだろうが、それでもここいらではすごい雪なのだからしかたがない。
 京都でこんなに雪が降ることは滅多にない。思えば、おれたちが小学生のころ、京都にしては珍しい、ちょうどこんな雪が降ったことがあった。校庭に見るみる雪が積り、おれたちは授業のあいだの十分間の休みも惜しんで外に飛び出すと、土まじりの雪だるまを作ったり、雪玉を投げ合ったりした。教室に戻って授業を受けていると、突如校内放送が入り、おれたちは耳を疑った。「いまから全員校庭に出て雪合戦をせよ」という命が下ったのである。学校にもよるのだろうが、じつに粋なはからいだ。塾に通っている小学生などきわめて珍しかった時代の公立小学校である。授業の一時限や二時限潰そうが、子供たちに雪合戦をさせてやるほうがよっぽど教育的であると判断した賢明な先生方がいらしたのだろう。こうして三十年近く経っても憶えているのだから、やはり教育的だったのだ。
 夜になってまた降りはじめた雪の中を帰宅し、熱い茶を飲みながら、おれはなにげなく小学生のときに雪合戦をさせてもらった話を母にした。「そうゆうたら、そんなことがあったなあ」 おれは一日に何度となく妹と電話で話している母は知っているかもしれぬと思い訊いてみた――「○○(小学生の姪)の学校は、そういうことをしたんやろか」「さあ、知らんけど、せえへんのとちゃうか。いまは勉強勉強やしな」
 はて、小中学校の授業内容は、むかしよりむしろ負荷が軽くなっているのではないのか? もっとも、理科の実験を減らすとかいった、わけのわからない軽減のしかたらしいが……。そもそも、小学校でいったいなにをそんなに勉強しているのであろうか? 中世英語の前置詞の変遷か? バスク語初等会話か? ポスト構造主義による母性的原理の措定を中核としたテクスト理論の問題点か? テンソル解析か? 偏微分方程式か? ヒルベルト空間に於けるコンパクト作用素の固有関数展開か?
 まあ、これからの日本を背負って立つ連中だ、おれたちの小学校時代からは想像もつかぬことを日夜学習しているのかもしれぬ。でもねえ、そういうことはまず、雪合戦をやってからにしないか?

【2月3日(水)】
“歳の数だけ豆を食うデーモン小暮”というのをふと想像してしまったが、よく考えたら、なにが哀しうて悪魔が福豆を食わねばならんのだ。
▼会社の帰りに雪が降ってきて驚く。あまりの寒さにしーはーしーはー言いながらようやくバスに乗り込み、コートに身を埋める。ふとバスの窓から外を見ると、紅白だんだら縞のなにやら派手な店の前で、カーネル・サンダースがいつもとまったく変わらぬ表情で突っ立って客を差し招いている。思わず笠をかぶせたくなってしまった。と、そう感じた途端、米俵を担いだ六人のカーネル・サンダースが、深雪の中を深夜黙々とおれの家に向かって歩いてくるさまがヴィジュアルに浮かび、爆笑しそうになった。「うっ」と声が出てしまったかもしれない。また、悪い病気がはじまった。例の、こんなくだらないことで笑い出しそうになりそれを必死でこらえている自分の姿がこれまたやたらおかしく笑い出しそうになりそれを必死でこらえている自分の姿がこれまたやたらおかしく笑い出しそうになりそれを必死でこらえている自分の姿がこれまたやたらおかしく笑い出しそうになりそれを必死でこらえている自分の姿が……という、笑いのハウリングが起こってしまったのだ。バスから降りるまでが地獄であった。なるべく思い出さないように、懸命にほかのことを考えようとするのだが、意識してそうしているということは、やっぱりカーネル・サンダースのことを考えているということであるから、なかなかほかのことが考えられない。まるで、テレパスに心を読まれまいと、懸命に脈絡のないことを考えようとしている人間のようである――おお、そうだ、その手があったか!
 おれは頭の中で、She'll be coming around the mountain when she comes.と繰り返し繰り返し唄い続けた。このクソ単純な唄が“強迫唄”98年3月28日の日記参照)として使えるか試みてみたのである。いや、これは効きます。おれと同じ病気の人は、ぜひ適当な唄を見つけておいてお試しあれ。
 ちなみに、おれが強迫唄に使ったこの童謡のメロディー、英語国民は誰でも知っているだろうが、ご存じない方でも、この日記の読者であれば一度は聴いておられる可能性が高い。映画『未知との遭遇』で、最初にUFOが登場する場面がありますよね。リチャード・ドレイファスが家族連れで山中のハイウェイにやってくると、どこからともなく集まってきている人々が“なにか”を待っているらしいところ。あのシーンで、カウボーイ・ハットをかぶった髭面のヘンなおっさんが口笛を吹いている。あの曲です。つまりあれは「あいつがくるときは、山をまわってやってくるよ」と、UFOの現れかたを口笛の曲でさりげなく示しているのだ。案の定、“山をまわって”やってきたアイスクリーム・コーンみたいなUFOが、赤い光球を伴って高速で飛び去り、そのあとをパトカーがけたたましいサイレンを鳴らしながら追ってゆく。
 こういうのは字幕に出ないから、知らないとわからない。英語を使う連中の文化圏では説明の必要もないあたりまえの知識なのに、おれたち外国人はバカバカしいと思いながらも意識的に勉強しておいたほうがお得なことってのがある。童謡(マザーグース等)聖書シェイクスピアだ。新聞雑誌の見出し、広告、ちょっとしたギャグと、とにかくありとあらゆるところに出てくる。知っていれば他愛のないことなのに、知らないとわざわざこういうことを調べるのはけっこうな手間なのである。「おや、これは童謡かな」と気づけばまだ調べることもできるが、自分が知らないことにすら気づかないというのがいちばん怖い。そのために、小説や映画の意味が部分的によくわからないなんてこともしばしばあったりするのだ。まかりまちがって英語関係で金をもらったり飯を食ったりしようと考えている学生さんは、いかにアホらしいと思っても、童謡の歌詞(と、できればメロディー)をどこかで勉強しておいたほうがよいと思う。こればっかりは、海外帰国子女などの特別な例を除いては、意識的に身につけるしかないのだ。
 おや、あなた、海外ミステリの翻訳家になりたいんですか? 「六ペンスの唄」って唄えます?

【2月2日(火)】
▼駅の売店で缶ジュースを飲んでいると、カレン・カーペンターの声が聞こえてくる。そばのCD屋が特売をやっているのだ。なにを隠そう、というか、この日記にも頻繁に登場しているので常連読者の方はとっくにご存じだろうが、おれはカーペンターズが大好きである。むかしは、カーペンターズが好きだとカムアウトするのには、いささか勇気を要した。反社会的でもなし、ラディカルでもなし、要するに、ただ耳に心地よいだけの音楽、いかにも大衆ウケしそうなキレイキレイなだけの音楽が好きだと口にするのは、なんとなく阿呆だ俗物だと公言しているようで厭だと思われる時期が若いころにはあるものである。かつてカーペンターズを squeaky clean (耳ざわりなばかりにお清潔)と評したアメリカの音楽評論家があったそうだが、なるほど言い得て妙だ。バスタブなんかをピカピカに磨いて指で擦ると、なにかこう、発泡スチロールが軋るような厭ぁな周波数の音が出る。あんな感じで清潔すぎて不快だというわけである。だが、えーもんをえーと言うてなにが悪い、おれは声フェチだからいいのだ、カレンのようなヴォーカルは五十年にひとりも出たら上等じゃと、やっぱり好きだ好きだと言い続けて二十数年、昨今、また若いファンが新たに増えているようで、おじさんはたいへん嬉しい。
 だものだから、おれはカーペンターズの曲なら、全曲とは言わんが、いまだにほとんどソラで唄える。唄ってみようか。ソラララー、ソラソラソラ、ラソラー、ソラソラ、ソララー。え? 最近、どこかの悪い日記の影響を受けていないかって? うーむ、そうかもしれん。
 それはともかく、おれは声フェチであるからして、女性を好きになるときにも、たいてい最初に好きになるのは声だ。それから背中と整えられた指先。ときどき黙りがちになる癖――おっと、あまり続けるとJASRACに怒られる。
 そのカーペンターズも今年でデビュー三十周年。やれやれ、いつのまにやらカレンより長生きしちゃってるよ、おれ。カレンが生きていれば、聞いて驚け、来年で五十歳だぜ、五十歳! 五十のカレンがどんな声になっていたのか、ぜひぜひ聴いてみたかったなあ。

【2月1日(月)】
▼年賀状を出すのが遅れて年を越してしまうのはここ数年毎年のことだが、今年はとうとう、くださった方々にすら出せずじまいになってしまった。まことにまことに無粋かつ無礼なことだ。いつも著書や訳書をご恵贈くださる作家・翻訳家の方々、書評用にとご手配くださる出版社の方々をはじめ、お忙しいところ年賀状をくださったすべての方々に深くお詫び申し上げます。こんなズボラな野郎ではありますが、今年もよろしくお願いいたします。今年こそは、ゴールデンウィークと夏休みを利用して来年の年賀状を作り、住所録を整理しておこうと考えている。できれば印刷もすませておきたいので、郵政省の方々に於かれては、七月には年賀葉書を発売するようにしていただきたい。とかなんとか言いつつ、ゴールデンウィークや夏休みにも、ここぞとばかりになにかの締切に追われていそうな気もする。ああ、ダメなおれ。
▼おなじみ「SFオンライン」が、読者投票で決定する《SFオンライン賞》というのを創設した。詳しくは当該ページをご覧いただくとして、アンケート集計などがしやすいウェブ媒体の利点を活かした面白い賞だと思う。不肖、おれもちょこっと協力させていただいた。「世の書評家どもは、なんでこんな面白いSFに冷たいんだ」と憤懣やる方ない方々はもちろん、SF読者としてぜひぜひSF出版を盛り立ててゆきたいとお考えの方々、お祭りならなんでも好きだという方々、どしどしご投票ください。


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