間歇日記

世界Aの始末書


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99年2月中旬

【2月20日(土)】
▼「いらっしゃいませこんにちわ」とマクドナルドで店員に言われたので、たまには新しいものを食ってみようと、おれはさらりと注文した――「チーズブリルギーフバーガーセット」
 驚くべきことに店員はちゃんとわかったらしく、やがて“チーズグリルビーフバーガーセット”が出てきた。なかなか優秀な店員である。必死に笑いをこらえていたのか、それとも、チーズブリルギーフバーガーを注文する人がたくさんいるのか。
 こういう言いまちがいは、malapropism ってやつですな。「なんじゃ、そりゃ?」とおっしゃる方は、なるべく大きな辞書を引いてください。辞書によっては、いろいろと面白い例が載っているはず。well-oiled bicycle (よく油をさしてある自転車)が well-boiled icicle(よく茹でたつらら)になる類のまちがいね。でも“チーズブリルギーフバーガー”は、まちがえた結果面白い意味が生じているわけではないので、厳密にはマラプロピズムとは言えないかもしれない。あっちゃこっちゃの子音が入れ代わるという意味で、広義に使うこともあるようだけども。
 それにしても、英語を喋っているときならともかく、元は英語とはいえ、日本語のカタカナ語でこんな器用なまちがいかたをするとは、おれの脳はどうなっているのだろう。ふつう、日本語で話しているときには子音と母音を分解して意識したりはしないと思うんだが……。あっ、そうか。いまは意識しながら書いているぞ。おれはローマ字入力で日本語を書くからだ。なるほど、これもワープロ病の一種か。

【2月19日(金)】
99年1月28日の日記で触れた林雄司さん(のお父様)の“納豆撹拌機”の写真がついに公開されていた。これはもう、おれがごちゃごちゃ言うより実物を見てもらったほうが早い。「Webやぎの目」「やぎコラム」(99年2月19日0時付)へゴー。いや、笑ってはいけない。いつの世にも、林さんのお父様のような人がたくさんいるからこそ、身のまわりがだんだんと便利になってゆくのである。
納豆の妖怪はおらんのかと、おれが民俗学的一大問題を提示したところ(99年2月14日)、プロの伝奇SF作家から非常に専門的な見解が寄せられた。さすがである。日本の民俗学を揺るがしかねない内容だけに、おそらく田中啓文さんは自分のウェブサイトでの公開に二の足を踏んでおられるのだろうと思い、おれが田中さんの許可を得て、この場で世に問うことにした。本人の許可を得てウェブページで公開した書簡があちこちで物議を醸すこともあると風の噂には聞くのだが、これはやはり、おれひとりで楽しむのはもったいない。やはり伝奇作家ともなると、おれなんかとは情報収集力がちがい、独自の文献入手ルートを持っておられるようだ。学会を揺るがすような情報を得た田中さん子飼いの情報屋は、まず兵庫県宝塚市のミニFM局「StationFM」(略称を“SFM”といい、スジ者にはただの放送局ではないとわかるようになっている)に「イヨマンテの夜」をリクエストする。それを聴いた田中さんは神戸新聞の広告欄に「XXX型トラクター売りたし ふえたこ商会」という一行で書ける三行広告を出す。その広告の電話番号にかけると田中さんから密会日時のみの指示があり、約束の日時に宝塚大劇場の楽屋口を狙って“入り待ち”をしていると、劇団員を装った田中さんが股間にバナナをぶら下げて現われるから、ファンのふりをして花束と一緒に極秘資料を手渡す――というところまではおれにも掴めている。ほかにもいろいろルートがあるらしい。
 さて、以下が“納豆妖怪”に関する田中啓文さんの研究成果である。専門家の論文であるから、心して読むように。なお、文中の太字は、読みやすいように冬樹が施したものである。

 納豆妖怪についての考察は伝奇的にもきわめて興味深い問題であると思ったので、どう納豆るんやといろいろ調べてみましたが、「日本俗信辞典」にも、大豆や豆腐に関する民間信仰はたくさん載っておるのですが、納豆に関するものは皆無でした。
 しかし、私のとぼしい知識を披露すると、「納豆坊主」という妖怪が存在するのです。これは、私が某ルートから入手した江戸中期の奇書といわれる「まめ納め」という書物(知恵伊豆の息子の知恵納豆が書いたという)に載っているのですが、この妖怪は、水戸のあたり出没する僧体の魔物で、「なっとー、なっとなっとー」と言いながら、被害者をとらえて、「ひきわり」にしてしまうそうです。女房役の妖怪もいて、これも女僧のかたちをしており、名前は「尼納豆」
 同書には「NATOの語源が納豆にある」という説や、群馬県納豆郡で古代から行われていた奇祭「納豆祭」(なっとうさい)についても触れられており、後者は、毎年、その年はじめて収穫した納豆を神にささげたあと、村中で「納豆祭デリアー」と歌いながら踊りくるうという儀式だそうです。
 ご納豆食ういただけましたでしょうか。
 納豆られんわ!

 ゆめゆめ疑うことなかれ。

【2月18日(木)】
▼とある駅近くのショッピングモールで『《異形コレクションIX》グランドホテル』(井上雅彦監修、廣済堂文庫)を買い、ふと隣のビデオ売り場を見ると、子供用のビデオを安売りしていた。いいのがあれば姪どもに買ってやろうかと物色をはじめる。「うみのいきもの」とか「こんちゅうのせかい」とか、ヤクザなおじさんの世界に引きずり込むための蟻の一穴となりそうなものが並んでいて、なかなか興味深い。お、「してつでんしゃ」「JRとっきゅう」などというのもあるぞ……。と、順番に見ていたおれの目が点になった。なんちゅうタイトルじゃ、これは――「レトロなのりもの」
 れ、レトロでっか。子供用、いや、こども用のビデオだぞ。ほかにもうちょっと言いようはないんかい――と考えてみると、な、なるほど、たしかに言いようがない。「むかしののりもの」とはまたちがうのである。かといって「かいこてきなのりもの」では、なにやらモスラの幼虫の背に怪獣王子がまたがってブーメランを投げているような絵しか浮かんでこない(浮かんでくる人は、けっこうなおじさん・おばさんであろう)。うむむむ。最近の子は、こんなものを観て育つわけか。いまに姪どもも、おれの部屋を眺めわたして「レトロやなあ」などとつぶやくのであろう。つぶやけ、つぶやけ。まだ、おまえらは“薄い”ぞ。いまにおっちゃんが、もっと悪いことをいっぱい教えてやる。

「お母さんお母さん、“レトロ”てなんか知ってるか?」
おれの妹「えらい難しい言葉知ってるな。またおっちゃんに教えてもろたんやろ」
「うん。なんか知ってるか?」
おれの妹「お兄ちゃんは子供に難しいことばっかり教えるしなあ……。“むかし風”とか、そういう意味やろ?」
「わー、やっぱりお母さん知らへんにゃわ。ちゃうで。“逆推進ロケット”のことやで」

 おいっ、おっちゃんの教えたこと、試験には書くなよ。

【2月17日(水)】
あっ、なんてことだ――と書くたび、ああ星新一の影響だなあ、筒井康隆の影響だなあ、なんともオリジナリティーのない文体だ、困ったことだと思うのだが、もはや日常生活に於いてすらおれは「あっ、なんてことだ」と心内発声して驚くようになってしまっていて、いまさらどうしようもないからやっぱりこう驚く――あっ、なんてことだ
 で、なにをそんなに驚いているかというと、今月は一割引きだということをすっかり忘れていたのだった。「どこのスーパーが?」って、ちがいますがな、今月は通常の一割引きの日数しかない月だというですがな。道理であわただしく感じるはずだ。一割引きのインパクトはすごい。してみると、5%の消費税というのは、百円くらいのものを買うときにはたいしたことはないが、一千万円くらいのものを買うときにはどえらくふんだくられるような気がするにちがいない。まあ、そんな買いものをする心配などまったくないのであるが。
▼などと、くだらないことを考えながら川沿いの道を駅に向かって歩いていると、近所の中国人が橋の上から川面を指差して、なにやら中国語で話し合っている。見たところ、彼らが指差しているあたりにはなんの異変もなく、ただただ水が流れているだけ、淀みに浮かぶ泡沫はかつ消えかつ結びて、諸行無常のAV業界に沙羅樹の花の色盛者必衰の股割りをあらわにす。なんのこっちゃ。ともかく、川にはなにも指差して珍しがるようなものは流れていない。あの中国人たちは、もしかすると「水がきれいだ」と言っているのやもしれん。たしかに透明で、底の石まで見えている。中国人の感覚からすると、うちの近所を流れているようなものは川なんぞではなく“溝”であって、そこに透明な水などというものが流れているのがかえって珍しいのであろうか。
 そう思って改めて川を見ると、どうも最近異常に透明度が高くなっているような気がする。以前はもっと、見るからに汚かったものだが……。ああ、きれいになったなどと単純に喜ぶ気がしない。透明だが有毒な物質が溶けているせいで微生物などが棲息できず、正しく濁っていないだけかもしれないと思ってしまうのだ。
 むかし読んだ『酸性雨』(ロス・ハワード&マイケル・パーレイ、田村明監訳、新曜社)によると、酸性雨が流れ込んでいわゆる“酸死”の状態になった湖などは、むちゃくちゃに透明度が高いらしい。たいへん怖ろしいことだが、そういう湖を一度見てみたいものだ。おれは妙にこうしたイメージに惹かれるのである。ミジンコ一匹いない、魚の跳ねる波紋もない、凄惨なばかりに透明な死の湖のほとりに佇み、何時間も沈黙に耳を傾けておったら、さぞや心が落ち着くことであろう。なぜかおれは、人類が滅びたあとの光景というのをよく夢に見る。黄色い荒野がどこまでも広がっていて、なんの説明もないのに「人類はもう滅びたのだ」ということがおれにはすでにわかっている。そこでおれはひとり、岩の窪みに腰を下ろし、マンガや小説を読んでいるのである。こうして描写すると殺伐とした夢に思えるが、主観的にはまったくそんなことはなく、そんな夢を見た翌朝は、目覚めたあともすっきりさわやか、自分でも不思議なくらいとてもとても心が落ち着いているのだった。おれのペンネームにしてからが、そういう心象風景を描いたもの(のつもり)である。冬の樹になぜかまだ生き残っているトンボが一匹だけとまっていて、その大きな複眼でどこか向こうのほう、ここではないどこか、来たるべきなにかをじっと眺めている光景が――そんな光景を実際に見たことがあるはずはないのに――おれの心に突き刺さっていて消えない。おれ、ヘンかな? でも、人類が滅びたあとの光景を夢に見る人は、きっとたくさんいると思うぞ。おれたちの世代に共通した心象風景かもしれんとすら思う。同世代の方々、どうです、見ませんか? おれたちは冷戦の子なんだろうな。

【2月16日(火)】
▼わははは。ReadMe! JAPANの2月16日分のデイリー・ランキングを見たら、この日記と風野春樹さん「サイコドクターあばれ旅(読冊日記)」が、377でまったく同じ参照数だった。これ、数だけじゃなく、内訳もまったく同じだったりしたら、なんか怖いものがあるよなあ。
▼先月末ごろから、「SFオンライン」「SFオンラインボード」東京創元社の方がときおり書き込みをしておられて、四月にはウェブサイトを立ち上げるとおっしゃっている。めでたいことだ。創元さんがホームページを持ったら、サイト名はぜひ「紙魚の電子手帳」にしてほしいなどと以前どこかの掲示板に戯れに書いたことがあるのだけれども、サイト名はともかくとして、コーナー名くらいにはほんとに採用してもらえないだろうか。いいと思うんだけどなあ。軌道に乗ってきて大手ウェブ書店の広告が出るようになったりすると、その書店にもノリのわかる人がいて、「スポンサーから一言」なんてバナーを作ったりする。そんでもって――って、どうして人様のやる仕事だとアホなアイディアが次々と出るんだろうね。自分の仕事をせんかい。

【2月15日(月)】
▼先日のことだ――という書き出しの日記も珍妙だが、ご存じのようにおれは何度となくこの手を使っている。どうせわからんのだから、今日起こったことにして書いてしまえばいいのに、それではなんとなく良心が咎める。このあたりにおれの正直な人柄が滲み出ていて微笑ましい。この正直さと謙虚さが女性に人気のある秘密であろう。やはり人間、要領よくなってしまっては嫌われる。だが、要領よくなっていないぞということをさりげなくアピールするほどに要領よくなってしまったら、もっと嫌われる。いずれにしても嫌われるのであるから、結局、手前の好きなようにやるのがいちばんよろしい。
 で、先日のことだ。バス停でバスを待っていると(バス停で飛行機を待つ人はあまりいない)、若い男女がぴったりと寄り添って立っている。最近の若い男女のことだ、バス停でぴったりと寄り添って寝ていてもさほど不思議ではないが、ともかくこのカップルは、まだ一応ぴったりと寄り添って立っていた。微笑ましい光景であるが、では自分がこいつらくらいのころにこういう微笑ましいことをしたかというと、さっぱり記憶にない。きっと、いっぱいしたのを忘れてしまっているのだろう。そうにちがいない。絶対そうだっ。どうも最近もの忘れが激しくていかん。若いころ、おれとこういうことをしたという女性がいらしたら、ぜひ名乗り出てほしい。
 などと、自分のもの忘れの激しさを呪いながら、この若い男女をぼーっと見ていると、突如、男のほうが自分のマフラーを解いて、女の首に巻きつけた。「あっ、危ない!」と、おれは反射的に思ったのであった。
 にっこり笑って男を見上げた女のほうを見て、おれは自分の思考回路に愕然とした。ふつう、男が自分のマフラーを解いて女の首に巻きつけたら、これはもう、キレて絞め殺そうとしているのに決まっているではないか――と、反射的に考えるような人間におれはいつしかなってしまっておったのだ。嘆かわしいことである。いまの世の中で暮らしておればまったく無理もないことだと思うが、それにしてもちょっと病的だ。きっと、おれみたいな人はたくさんいるのだろう。無理もない、無理もない。
 今日も、晩飯に出てきた竹輪を恐るおそる噛んでみて、縫い針が入っていないことを確認してから、ようやく安心して咀嚼をはじめたくらいだ。いかん。世間の人が狂うのは勝手だが、おれだけは狂ってはならん――そう思っていると、なおさら狂わされてゆくのだろう。表面上は世間が正気であるとおれも思っているかのように取り繕いながら、心の底では世間は狂っていることを前提に据えて生活している。たいへん精神衛生に悪い。こんなことを続けていたら、いまに狂ってしまうにちがいない。よって、論理が導くところはひとつだ。己の正気を保つためには、ある程度は世間に合わせて自分も狂うという柔軟な姿勢が必要なのにちがいない。正気の人は、意識するとしないとにかかわらず、みんなそうしているのだ。わははははははは、わーっはっはっはっは。いひ、いひ、いひひひ、いひひひひひ……。

【2月14日(日)】
▼今日はゆっくりと風呂に入る。これもまたヴァレンタインデーでもらったカエル型の入浴剤のようなものを湯に浮かべ、思いつくかぎりの歌を次々と唄う。いちいち全曲唄っていてはのぼせてしまうので、連想と気分の赴くままに数をこなすのがリラックスするコツである。美空ひばりが突然『ゲッターロボ』になったかと思うとまた美空ひばりに戻り、だしぬけにピンキーとキラーズになったりする。「ひぃと〜り酒場で〜、飲〜む〜酒ぇは〜、若い命が真っ赤に燃えて〜、真夏の海は恋の季節なのぉ〜、恋の季節よ〜」 ほとんど嘉門達夫のネタを風呂で作っているようなものである。人には見せられない光景だ。とうとう痴呆になったかと思われること必定。
 そうやってだらしなく惚けていると、目の前に先ほどのカエル入浴剤がぷかぷかと二匹ならんでやってきた。この二センチほどの可愛いカエル、湯に溶けるカプセルになっていて、封入されたミントの香りのオイルが徐々に溶け出すようになっているのだ。仲よく並んで浮かんでいるのっぺらぼうの二匹のカエルを眺めているうち、まったく無意識に歌が口から出た。藝術というのは、こうして誕生するものなのだろう。「ウルトラの父ガエル〜、ウルトラの母ガエル〜」
 すっかりこのフレーズが気に入ったおれは、その部分ばかりを飽かず唄い続けた。ほんとうに人には見せられぬ。
▼夜、台所で納豆を練っていて、ふと考えた。髪を振り乱して納豆を練るこの姿を暗いところで人が見たら、さぞや怖ろしいのではあるまいか――。
 と、そこでひとつの民俗学的問題が浮かんだ。納豆の妖怪というのはおるのだろうか? “小豆洗い”というのがいるくらいだから“納豆練り”とかがいても不思議はないはずだが、はて、そんなのいたっけ? 夜中に沢のほうから「にちょにちょにちょにちょ」と、なにやら音が聞こえてくる。「あれはのぉ、納豆練りじゃ」と、村の年寄りは子供に語って聴かせるのだ。なんでも、むかし偶然に目撃した村人によれば、異形の小男が髪を振り乱して沢のところで楽しそうに納豆を練っていて、耳をすますと「納豆練ろうかぁ〜、人取って食おうかぁ〜」と唄っているというのである。ときおり「ウルトラの父ガエル〜、ウルトラの母ガエル〜」などと意味不明の文句も混じる。人取って食われてはかなわないので、この村では沢の“蛙岩”のところに納豆のお供えを欠かさない――などという言い伝えが、日本のどこかにあってもよさそうではないか。じつはあるのだが、おれが知らないだけなのかもしれん。なにしろ、納豆は弥生時代からあると言われているのだ。しかも、日本人の日常に密着した食べものである。妖怪がおらんわけがない。身近なものが歳月を経ると妖怪になるという話はよくあるではないか。三百年ほど放置した納豆は神通力を持つとかなんとか、そんな話がどこかにあるはずだ。よし、今後は気をつけて捜してみることにしよう。
 歩いていると取り憑かれ、突然猛烈に納豆が食いたくなる納豆餓鬼、目の前に納豆の壁が現れ、うかうかしていると練り込められてしまう練り壁、だしぬけに納豆を投げつけてくる納豆かけ婆あ、旧家の座敷になぜか藁苞にくるまって現われる座敷藁子などなど、納豆にまつわる妖怪のことをご存じの方がいらしたら、ぜひお教えください。もし、納豆妖怪なんてものがほんとうに皆無であるとしたら、それはそれでまた非常に興味深い謎ということになろう。

【2月13日(土)】
▼パソ通の友人からヴァレンタインデーのプレゼントが送られてきた。ありがたいことである。大きな手提げ紙袋にさらに紙袋が入っていて、はて、振るとなにやらガサガサと奇妙な音がする。なんと、中から藁苞が二本出てきた。ついに納豆が送られてきたのかと唖然としながらよく見ると、「チョコレート 水戸納豆」。ひえええ。こんなものがあるのか。長生きはするものである。藁苞に入ったチョコレートなどというものは、生まれて初めて見た。キャッチコピーがよろしい――「ねばる想い チョコにたくして あなたに伝えて 納豆チョコ」 玉置宏のナレーションみたいだ。
 もちろん中身はコーヒー豆型をしたふつうのチョコレートである。これは“納豆チョコ”、すなわち納豆の姿を模したチョコレートなのであって、おれが前に作った“チョコ納豆”98年9月19日の日記参照)ではないからご注意を(って、誰もまちがわないか)。いやしかし、おもろいなあ。宇海遥さん、ありがとう。
▼土曜日の日記では『ウルトラマンガイア』(TBS系)に突っ込むのが恒例になっているが、今日は石橋けいも出たことだし、あまり突っ込まない(色仕掛けに弱いやつ)。とはいうものの、稲森博士と我夢が話しているところへ、梶尾が「怪獣が出現した」と走って知らせにくるのは、いくらなんでも不自然でしょう。どうして、XIGナビ(腕時計型の通信機)を使わない? まあ、たぶん梶尾君は非常に人気があって、無理してでも出番を増やしたいということなんだろう。ファンサービスは大事だが、ちょっと無理しすぎでは? 男のおれが見ても、たしかに梶尾のほうがかっこいいもんな(演技は我夢といい勝負だが、滑舌は梶尾のほうがいい)。キャラ配置としては、妥当なところだろう。むかーしのむかしは、変身ヒーローは変身前もいちばんかっこいいキャラクターであることが多かったけれども、いつごろからかその定石は破れている。どのへんからでしょうね? なんとなく、『アイアンキング』あたりからかもしれんとは思うけど、自信はないなあ。
 今日の怪獣はデザインが古風で、おれの好みだ。ツインテール(『帰ってきたウルトラマン』)が逆立ちして出てきたのかと思ったが、よく考えたら、ツインテールのほうが逆立ちしているのであった。それにしても、怪獣のデザイン考える人もたいへんだよね。人間の発想なんてたかが知れているものであって、どうしたって実在の生物っぽい造形を組み合わせたものになってしまうものなんだろう。中に人間が入るという技術的制約も考慮しなくちゃならない。それに、ある程度擬人化(擬動物化)しやすいものでないと、結局、子供たちにも人気がないのではないかと思う。バルンガ(『ウルトラQ』)とかグローバー(『ジャイアントロボ』)とかが大好きだなんてやつは、かなり変わった子供ではあるまいか。バルンガは名前から風船型と推測はつくとしても、グローバーってどんな形だって? 非常に説明が難しいですな。“大魔球”などと冠がついていたくらいだから基本的に球形なんだが(あ、globe からつけたのか)、その球のあちこちから突起が出ていて、転がって移動するおおざっぱなウニみたいな怪獣(?)である。うちの母が「掌を刺激するとボケ防止にいい」とどこかでもらってきた握り玉が、このグローバーそっくりだ。グローバーの突起がいくつだったかよく憶えていないが、この握り玉はなかなか美しい形をしている。木製の球の表面に十二個の突起がついていて、その突起は三個一組で球の表面を二十等分するように規則的に配置されている。すなわち、突起三個が4π/20=π/5ステラジアンの立体角を見込むように配置されているわけで……ええい、どんな形かさっぱりわからんな。こういうのは写真を見るほうが早いが、あいにくデジタルカメラはない。
 なんの話だ? そうそう、怪獣の造形ね。おれがいちばんすごいと思うのは、やっぱりバルタン星人である。美しい。先日、バルタン星人のフィギュアがついた携帯電話用ストラップを見つけて、嵩張るから使いもしないのに思わず買ってしまったくらいだ。いろんなシリーズに何度も出てくるのはむべなるかな。バルタン星人を主役にしたOVAでも作ってほしいものである。あったりして。

【2月12日(金)】
一昨日の日記でご紹介した“納豆練りドンブリ”三十郎さんがついに購入なさったそうで、実物の写真を送ってきてくださった。ご覧の丼がそれである。この日記に写真が登場したのは初めてだ。デジタルカメラやスキャナを持っていないという単純な理由によるところもあるが、べつに事実を報道するつもりで日記を書いているわけではないので、たとえそういう機材を持っていてもあまり使うことはないだろう。具体物にイメージを押し込めずに“想像の余地”そのものを伝達する能力なら、言葉は写真なんぞをはるかに凌ぐ。しかし、事物にできるだけ近いものを伝えるのなら、それこそ百聞は一見にしかずなのである。したがって、おれは言葉なるものは文藝にこそ向いている媒体なのであって、報道には向かないと考える。どんなに客観的に言葉を使うように訓練された報道のプロであっても、そもそもその目的に適さない道具を使っているのだから、たいへんな仕事だろう。逆説的だが、それを意識している報道者のほうが、より信頼できる。自分が伝えていることが“事実”だなどと勘ちがいしている不遜な報道者は三流にすぎない。彼らが伝えているものは、彼らの意識が捉えた“現実”でしかなく、それは“事実”とはまったく質のちがうものだ。しかし、報道を受け取るほうも、人間であるかぎり“事実”などというそら怖ろしいものをナマの形で把握する能力などないので、あくまで報道者にとっての“現実”を自分にとっての“現実”として再構成しようとしているだけである。まちがっても“事実”が報道され“事実”が伝わるのではない。この限界をしっかりと認識して“現実”を伝えようとしている報道者が、結果的に“事実”に最も近づくことができるのだろう。それは時間が経ってみればわかってくるのである。
 おれはよく思うのだが、新聞には縮刷版があるわけだから(たまに改竄されたりもするが)、テレビのニュースなども、あとで誰もが観られるように全部録画して図書館に保存しておくようにすれば面白いのに(無理でしょうけども)。記録媒体と通信回線の性能向上によって、やがて完全なビデオ・オン・デマンドが実現されたら、ぜひ過去のニュース番組が観られるようにしてほしい。「前の前の前の総選挙のときに、このキャスターはどんなことを言うておったかな」とか「あの殺人事件のときに、このコメンテーターはなにをほざいておったかな」とか、いつでも誰でも掘り起こして観られるのがあたりまえという状態になったとしたら、テレビの報道姿勢に革命的変化がもたらされると思う。『過去のニュースアワー』とかなんとか、ちょっと前のニュースを流して、「こいつ、よくいけしゃあしゃあとこんなことを言ってたな」などと、みんなで笑いものにする娯楽番組が出てくるにちがいない。いまテレビに出ている人々の相当数が、怖ろしくて二度とテレビに出たがらなくなるだろう。もっとも、インターネットだって似たようなもので、こんなふうに日記をつけている人間など、時間が経つにつれてどんどん恥をさらしているようなものである。ああ、怖ろしい。まあ、怖ろしいと思いながら書いているうちは、まだましかもしれん。
 と、納豆丼一個で、ここまで引っ張るかね。

【2月11日(木)】
建国記念の日だって? アホらしい。わが日本国は「いついつできた」などということがはっきりとわかるような“ぽっと出”の国とはわけがちがうぞ。いかにも人工的に作って、二百年やそこらで微笑ましくも嬉しがっている国の真似みたいなことを、なにが哀しうてせにゃならん。「いつできたかなんて、とてもじゃないがわかりません」でいいではないか。おれはべつに紀元節復活に政治的・思想的反感はない。そんなものを軽々しく無理やりに定めないほうが、重い歴史のある国だなあとよっぽど実感できると思うのである。
 しかし、架空の日付を国民の祝日にするというのは、ある意味でたいへん面白い。今後もどんどんやってはどうか。おれはぜひ西暦二○○三年四月七日を、その年以降、国民の祝日と定めてほしい。鉄腕アトムの誕生日である。いま現在生きている日本人のあいだでは、神武天皇よりもはるかに知名度が高いし、親しみを持たれているにちがいない。いや、それどころか、誰か暇な人は概算してみてほしいのだが、かつて日本人として生まれたすべての人間のうち、「鉄腕アトムとはどういう存在か」を知っている(いた)人と「神武天皇とはどういう存在か」を知っている(いた)人との総数を比べたとしたら、前者のほうがはるかに多いのではないかという気がするのである。だから鉄腕アトムのほうが知名度が高いとするのは無茶な論理ではあるが、考えてみると面白いことではないか。純粋に、人口動態と情報流通(当然、教育を含む)の問題である。こういうのは統計情報がないから、あくまでおおざっぱな推測しかできないけれども、「この人は、いままでに存在した全日本人の何人に知られています」などとたちどころに計算してくれる機械がもしできたら、楽しいことこのうえない。楠正成よりSMAPのほうが“有名”であるかもしれん。キャイーン安徳天皇には負けるかもしれん。大伴坂上郎女葉月里緒菜はどちらが有名か。はたまた、在原業平石田純一はどうか。宇野宗佑青沼ちあさは、いったいどちらが多くの人に知られているか――つまらんショートショートのネタくらいにはなりそうだよな。


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