間歇日記

世界Aの始末書


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99年8月中旬

【8月20日(金)】
▼あーつい、暑い。日差しはそれほどでもないがやたら蒸しむししていて、汗かきのおれは、ちょっと歩くと吸血鬼アセミドロになってしまう。こういう日は、よく背広が塩を吹く。シャツを通りYシャツを通り背広に染みこんだ汗は、冷房の効いたところに入ると逆の順序で乾いてくる。暗い色の背広を着ているときなど、肩甲骨のあたりやズボンのベルトと尻ポケットのあいだあたりに、白いまだら模様が浮かび上がったりするのだ。むかし初めてこの現象に気づいたとき、おれはそれを塩だとは思わず、コンクリートの粉かなにかが着いているのだろうと思った。うっかり妙な場所に座ってしまったのだろうと。ところが、帰宅して脱いだズボンをよく見ると、不思議なことに尻ポケットの中に入り込んでいる生地の部分にまで、白い模様が広がっている。もしや……と思い当たったおれは、その白い模様を嘗めてみた。やたらニガリが利いているが、それは塩味がしたのである。ずっと前、『探偵!ナイトスクープ』(朝日放送)で、人間から採った塩で料理をしてみたいという妙なやつが現われ、ほんとうに卵焼きかなにかを作っていたように記憶しているが、あれはたぶんまずいと思う。さすがのマダム・フユキも、実験してみる気にはなれない。もっとも、料理によってはああいうニガリの利いた塩のほうがおいしいかもしれないから、体力と暇のある方はいろいろ実験してみていただきたい。自分の汗から採った塩がぴったり合う料理が見つかれば、嬉しさもヒトシオであろう。これが言いたかっただけ。
▼先日、パソ通友だちの OCHIKA/LUNA さんから陶製のカエル型風鈴をもらったのだが、今日突然そいつにつけるべき名前を思いついた。これから、この風鈴を“ケロール・フリン”と呼ぼう。それにしても、エロール・フリンってなんとなく猥褻な名前だよな。
▼おれは鉄筋コンクリートの団地に住んでいるので、窓から遠いところに携帯電話を持ってゆくと、下手すると圏外になったりする。おれがいまキーボードを叩いているあたりは、圏外になったりならなかったりするぎりぎりの場所なのだ。だものだから、パソコンの横にケータイを置いておくと、かかってきても着信しない可能性がある。声の電話なら、ケータイがだめなら据え置き型電話(アレをどう呼んだものか困る。おれは最近“デスクトップ電話”と呼んでいる)にかかってくるだろうからまだいいのだが、メールはうまく受信できないかもしれない。それでは困る。
 携帯電話を使いはじめてから、あちこち試してはきたのだが、なかなかふだん携帯電話を置いておくのにいい場所がないのである。おれはひとまず“置く場所はない”と結論した。が、頭の中でそう言語化したとたんに、「置かなければいいのだ」と気づき、最適の場所を発見したのだった。蛍光灯のスイッチから垂れている紐に吊るせばよかったのである。
 おれの部屋では、いろんな観点から、ここがベストだ。まず蛍光灯というやつは、たいてい天井のど真ん中についている。したがって、六畳間のどこにいてもさほど遠くない。むろん窓からも遠くない。試してみると、そこは圏外にならないのであった。しかも、携帯電話のマニュアルには、本体を地面に対して立てたほうが電話をよく受信できるとある。吊るせば電話はおのずとそういう姿勢になる。また、ものぐさなおれは、ソファーベッドに横たわったまま点灯・消灯ができるように、蛍光灯の紐を接ぎ足して長くしている。電話を吊るすと、寝ていても手が届く位置にくるわけだ。蛍光灯の紐の末端には、巨峰の粒くらいの大きさの夜光ペンダントがついており(夜間の災害時に便利だと書いてあったので、こいつはいいと丸善で衝動買いしたのだ)、暗闇でも位置がわかりやすい。そのペンダントにストラップをひっかけると、電話は空中でやや斜めになってぴたりと安定する。ひとりでに外れたりすることはまずないが、電話器本体を掴んで下からしゃくりあげると簡単に外れるのだ。蛍光灯の紐にあまり重いものを吊るしてはスイッチ部の機構が傷んでしまうだろうけど、最近の携帯電話は軽い。おれのは六十六グラムだ。キャリングケース込みでも九十グラムしかない。なんということだ。吊るして悪いことは、ひとつもないではないか。
 というわけで、家にいるときは携帯電話はどこかに“置く”ものだという固定観念に囚われている方がもしいらしたら、ぜひ一度お試しあれ。ストラップを引っかけやすく、また、外しやすい大きさ・形のペンダントをつけるのがポイントだ(うちは最初からそれがあったのだが)。
 おっと、言い忘れていた。うっかりバイブ設定にしたまま吊るしておくと、蛍光灯のカバーがだしぬけにびりびりびりびりと震え出して、文字どおり仰天するので気をつけてください。

【8月19日(木)】
玄倉川の水難事故のニュースを目にするたび、ああ、生き残った子供も死んだ子供たちもかわいそうだなと思う。次に、ああやって遺体を捜している人たちも、仕事とはいえ気の毒だなと思う。彼らには夏休みもへったくれもなかっただろう。
 SFにはよく便利な機械が出てきて、「D−51区画に生体反応。侵入者の可能性高し。レーザー照準、ロックオンします」とかなんとか、とにかく生きてるものがいたら発見できる装置があったりする。遠く離れた対象が“生きている”ことをどうやって検知しているのかしらんが、そこは未来の科学なのである。今回のような事故のたびに思うのだが、“死体反応”を遠隔検知できる機械があったら、災害の際にはさぞや威力を発揮するだろう。rescue のうちは、生体反応遠隔検知器を使う。recovery に入ると死体反応遠隔検知器に切り替える。一台で二役のやつは“ドッチーモ”というのだ。
▼東池袋のペットショップで、雄のオオクワガタが一匹一千万円で売れたという。一千万ですぜ、一千万! 所ジョージ風にいえば、一億使っても、まだ九千万の借金が残る。世の中には、つくづく金と暇のある人がいるもんなんだねえ。

【8月18日(水)】
▼夜、団地の階段をえっちらおっちらわが家へと上っていると、踊り場を照らしている両端が黒くなった蛍光灯のそばに、一匹のハナムグリがとまっていた。ここいらは昼と言わず夜と言わず、ハナムグリばかりが飛んでくる。不格好だねえ、あいつは。メタリックでかっこいいカナブンとはえらいちがいだ。
 子供のころ住んでいたところでは、窓を開け放っておくと、しょっちゅうカナブンが飛び込んできた。ちょっと近所の林に入ると、すぐに何匹かは捕まえられたものである。よく、糸をくくりつけて飛ばして遊んだ。遊んだあとは、糸をほどくのが面倒なので、そのまま逃がしてやったりしていた。いま思えば、やさしい子供だったのだな。一匹だけではまだやさしさが足らないような気がして、糸の両端に二匹のカナブンを結んで逃がしてやったこともある。しばらく空中でぐるぐる回ったりするが、ほどなく二匹仲良く林のほうへ飛んでいった。あいつら、あのあとどうなったのだろう。
 カブトムシを自動販売機で売るのが残酷だなどと嘆いているやさしい人たちがいらっしゃるようだが、そんなもの、むかしの子供は昆虫に対してもっと残酷なことをさんざんやっていたぞ。そこいらじゅうにいたからだ。おれの子供時代でも、さすがにカブトムシやクワガタムシとなると貴重で、それなりに優遇されていたけれども、もっとむかしの子供たちは、あれらをさほどたいした虫だとは思っていなかったらしい。小学生時代に友人から聞いたのだが、彼の父親が子供だったころは、木にとまっているあの手の甲虫類を「汚い虫だ」と草履で蹴り潰していたのだという。いったい、いまの何十万円ぶんを蹴り潰したのだろうか。もったいないことおびただしい。
 そのうち、一匹千円くらいのゴキブリをデパートから買ってきて喜んでいる近所の子供たちを前に、「わしらの子供のころは、そいつをよく台所のスリッパで叩き潰しておったわ」などと妙な自慢話をする羽目になるのかもな。そしたら、そこへ中年のやつがやってきて、「むかしは、糸をくくりつけてよく飛ばしたなあ」などと……。

【8月17日(火)】
▼点けっぱなしのテレビから、“拿捕”という言葉が耳に入ってきた。新聞では、よく“だ捕”などと、わざわざ視覚的にわかりにくい書きかたがしてあるやつだ。ついでに言うと“ら致”ってのもよくわからん。「女子大生ら致!」なんてでかでかと見出しに書いてあると、複数の女子大生がなんらかの状態に達したのだろうかと、やたら猥褻な想像をしてしまう(するほうが悪いか、これは)。まあ、最近は“拿捕”や“拉致”を使う新聞もよく見かけるし、ウェブだとけっこう漢字で書いてあるんだけどね。新聞は学校の延長じゃないんだから、義務教育で習うか習わないかなどはさほど気にする必要はないと思う。むかしの新聞はよくルビが振ってあったわけだし、新聞の教育的側面を考えると、あれを復活させてもいいんじゃあるまいか。いまの編集・印刷技術ならそんなに手間がかかるとも思えない。ひとたび学校を出たら、本などまったく読まない人なんてざらにいるような気がする。それに、家庭の事情などで、義務教育しか受けられなかった人だって少なからずいるだろう(まさか、さっきの“拿捕”が読めなかった大学生はいないでしょうね?)。新聞にルビを振っておけば、そういう人たちも、やる気さえあればおのずと頻出語は読めるようになると思う。そりゃ辞書引きゃいいわけだが、新聞を読むとき辞書を持ち歩いている人はおらんだろうし、そのときその場で読みかたがわかったほうが記憶の助けになる。まあ、みんなが携帯情報機器やら家庭のヴューアーやらで新聞を読むようになり、わからない言葉が出てきたらスタイラスか指でちょんちょんとつつくと、ネットワーク上の辞書が検索されて即座に読みと意味が表示される――なんてことに、遠からずなるだろうけどもね。
 それにしても、“拿捕”と聞いて、知らずしらず「拿捕……甘えてばかりで〜ごめんね〜」と唄ってしまったワタシは何者?
▼ヴァージョン・アップを申し込んでいた T-Time のCD−ROMが郵便で送られてきた。プレーン・テキストの小説などを家で読むときにはけっこう重宝している。なるほど、今度の T-Time 2.0 はちょっとページめくりが速くなったような気はするが、これは文字どおり“気がする”だけらしい。ページをめくったときに、早くもその次のページを“先読み”しているのだ。いや、べつに貶しているわけではない。こういう工夫は大事である。処理速度がさほど変わらなくても、人間の心理や直感的な当てずっぽうをよく研究すれば、“体感処理速度”は飛躍的に向上する。マクドナルドのねーちゃんは、「ええと、少々お待ちいただけますか?」などとは言わない。それが結果的に嘘になったとしても、「あと五分ほどお待ちいただけますか?」と、客の目を見て言うのである。ほんとうに時間がかかりそうなときには、「少々お時間がかかってしまいますが……」と、できればほかのものを注文するように暗に促す。マクドナルドのねーちゃんみたいなインタフェースのソフトは、じつはそれほど処理が速くなくても、使っていて心地よいのである。かといって、「マックフライポテトなどいかがですか?」と言ってくるソフトはおれは好きじゃないが……(最近、マックのねーちゃんもあんまり言ってこないね。むかしとマニュアルが変わったのだろうか)。
 PDFが読めるというので、田中啓文さんの RAKUGO THE FUTURE(ダウンロードはガイナックスのサイトでどうぞ)を試しに読み込ませてみる。おお、テキスト部分だけがちゃんと読み込まれるではないか。わざとしかめつらしいフォントの縦書きにしてみると、人間存在の苦悩を余すところなく描いた純文学作品のような版面になった。もっとも、改行が少しおかしかったりと、必ずしもテキスト抽出が完璧なわけではないようだ。次に、野尻抱介さんの「沈黙のフライバイ」(お試し版のダウンロードと本篇のご購入は〈SFオンライン〉でどうぞ)を読み込ませたら、「Can't Open PDF」と表示されるだけだった。そりゃそうだろな。T-Time の説明書きにも、すべてのPDFファイルがうまく読み込めるわけではない旨が記してある。
 著者の多くは自分の意図した版面そのままで読んでほしいだろうし、読者には自分が好む版面に加工して読みたい人が少なくない。Acrobat と T-Time の中核にあるコンセプトは、それぞれの立場を代弁している。要するに思想が正反対なので、どっちが優れているかという単純な比較はできない。おれは両方ないと困る。T-Time が有償なのは普及という観点からは不利かもしれないが、金を払う価値はあるソフトだとおれは思う。両者のコンセプトがどう動いてゆくかに、おれは興味津々だ。電子出版に絡む文化的問題のあれこれが如実に浮かび上がってくるはずだしね。

【8月16日(月)】
▼おなじみ“マダム・フユキの宇宙お料理教室”である。今回挑んだのは、じつに簡単な(いつも簡単だけど)「納豆焼きそば」だ。当お料理教室のことであるからして、焼きそばはむろんカップ焼きそばを用いる。今日は「一平ちゃん 夜店の焼きそば」(明星食品)を使った。からしマヨネーズがついていて、なかなかうまい。作りかたは簡単である(だから、いつも簡単だってば)。ふつうにカップ焼きそばを作り、別途練っておいた納豆2パックを絡めて食うだけ。よく練ってねばねばを出しておいたほうがよい。いつもは、どちらかというとゲテモ――いや、食べる人を選ぶ料理を紹介しているが、今回は納豆が食える人なら誰でも食える、ごくふつうの料理である。カップ焼きそばはなんとなく食べ足りないとご不満の方にも、充実した食感とヴォリュームがお楽しみいただけよう。ひとつ発見がある。納豆を絡めると、物理的にも食べやすくなることが判明したのだ。ほら、カップ焼きそばの“具”って、どうしても最後にカップの底に残ってしまいがちでしょう。刻みキャベツかなんかを、あとから箸でつまんで食うのはなんとなくわびしい。ところが、納豆焼きそばにすると具が残らない。ねばねばのおかげで麺にくっつくからである。
 気をつけねばならないのは、焼きそばに湯をかける前に、からしマヨネーズと焦がしソースのスパイスをちゃんと取り出しておくことだ。ときどき麺の下に隠れていることがあり、「なんかが足りないような気がするな……」とそのまま湯をかけてしまうと、熱湯で分離したマヨネーズの小袋をあとから箸でつまみ出さねばならない羽目になる。いちばん悲惨なのは“かやく”を入れ忘れて湯をかけてしまうケースで、気づいてからあわてて別の容器でかやくに湯をかけても、そいつが軟らかくなるころには、麺がのびているのである。たとえば、しょっちゅうアホなことを考えていなくてはならない作家などの脳になにか問題が発生すると、こういう世にも怖ろしい事態が襲い来ることが報告されている(田中哲弥さんの99年1月6日付け「仕事に明け暮れる日々について」参照のこと)。職業病であろう。
amazon.com をぶらぶら流していると、オークションの出物に、ジョー・ホールドマンのヒューゴー賞受賞作 Forever Peace があった。ハードカバーの初版初刷・著者サイン入りである。どういうルートでいまそこにあるのか知らないが(アマゾンの在庫だったりして)、ほんの二年前に出た本、しかもサイン入りを、著者がピンピンしているにもかかわらず世界中の人が見ているところで競りにかけるというのは、なんとも無粋なことだ。もっとも、サインまでしてやった自著が古本屋で売られているのを見つけたら著者も腹立つだろうけど、オークションに出ているのは逆に気持ちがいいものなのかもしれん。定価二十一・九五米ドルの本が、六十ドルからの競りに上がっているんだしなあ。宣伝にはなるだろう。でも、いまのところ、ひとつも声が挙がってないから、やっぱり気ぃ悪いかもしれへんなあ。ペーパーバックでだって簡単に手に入る作品だが、どうしてもサイン入りの初版初刷が欲しいというホールドマンの熱烈なファンがいらしたら、ひと声挙げてきてご覧になってはどうか。一万円くらいで競り落とせそうだよ。オークションのコーナーでタイトル検索すれば、すぐ見つかります。

【8月15日(日)】
▼日本だけの現象だろうけど、インターネットがやけに静かだ。アクセスするといきなり音が出てびっくりするサイトもあるが……って、そういう話じゃなくて、ネットの血流量が落ちているというか、ネットが軽い貧血になっているかのような感じである。終日、解説を書くことになっている文庫のゲラを読む。ゲラというやつは、通勤電車では読みにくいので(必要に迫られればパンチレス・バインダーに少しずつ挟んで車内で読んだりもする)、休みのうちに一度“通し”で読んでおきたいのである。
 よって、めちゃめちゃ面白そうな《SFマガジン》9月臨時増刊号「星ぼしのフロンティアへ」には、まだ手をつけていない。増刊号は往々にしてすぐ店頭から姿を消すから、“宇宙活劇っぽいもの”がお好きな方はお早めに入手しておかれるとよいと思う。地方在住の方で、「近所の本屋が注文を受けつけてくれない」(けっこうあるそうなんだよ、これが)という方は、早川書房のサイトで直接買えるので、二十一世紀の消費者たる者、ややこしい中間流通には早々に見切りをつけよう。
 さて、なぜ“宇宙活劇っぽいもの”などとややこしい言いかたをするかというと、最近はジャンル間、サブジャンル間のクロスオーヴァーが進んで、すごいやつらが宇宙狭しと活躍するからといって、どうも“スペース・オペラ”と括ってしまうのが憚られるような作品が増えてきているような気がするからである。おれが“スペース・オペラ”なる言葉から連想してしまうのは、たとえば《キャプテン・フューチャー》みたいな“ワイルドなおもちゃ臭さ”をあっけらかんと楽しむ態のもので、原色のペンキを毛羽立った刷毛で豪快に塗りつけた落書きとでもいったイメージがある。ホワイトを含ませた筆に息を吹きかけた飛沫の星空が“スペース・オペラ”の星空とでも言おうか。こういう感性自体が古いのかもしれないが、昨今“スペース・オペラ”という言葉が、パステルカラーの塗料やエアブラシの星空も含むようになってきているように感じる。洗練されているのだからいいことではあるのだが、おじさんには違和感があるのだよ。たとえば、“アイドル”といえば、おじさんは七十年代の天地真理だとか(九十年代のやつは忘れよう)アグネス・チャンだとか山口百恵だとかキャンディーズだとかをいまだにかすかにイメージするのだが、小泉今日子あたりからそのイメージ領域が戦略的にずらされてきて、いまでは“アイドル”という言葉はまったく別のものを指している。なんか、そんなふうな違和感なのね。若者はわからなくていいです、ハイ。

【8月14日(土)】
▼じつは、少し前からこの最新日記ファイルに EmCm Service のウェブ検索ロボットがアクセスするのを許容していたのだが、今日正式にアクセス可能サイトとして登録した。
 「EmCm Service とはなんぞや?」とおっしゃる方は当該サイトをご覧いただきたいのだが、早い話が、WWWのテキスト・コンテンツを自動的に電子メールのフォーマットに整形し、ショートメッセージ対応の携帯電話やPHSに分割配信してくれるサービスである。iモードや WAP とちがうのは、端末側から能動的なウェブ・ブラウジングをするのではなく、予約しておいたコンテンツを電子メールで受動的に利用する点だ。リアルタイムの自由度はないが、定期巡回するテキスト中心のサイトであれば内容が読めればこと足りるので、通話料の節約にもなるし、狙ったページの更新を自動的にチェックしてくれるから、単純に更新通知代わりにも使える。ウェブページをどういう条件で検索し、どの部分を切り取ってどのくらいずつ何通のメールで送るか(二十通まで設定できる)など、細かい設定はユーザ側で行う。つまり、ウェブページ作成者側から言えば、iモードや WAP 用のコンテンツを別途作る必要がない。
 また、常用アドレスに届いた電子メールを EmCm Service で取得した専用アドレスに転送する設定にしておけば、携帯電話やPHSの文字数制限を超えるメールでも分割転送してくれるので、そこそこの長さのメールなら全文がケータイで読める。これも、繰り返す飾り文字を省くなどの整形条件をユーザ側で設定できるので、うまく設定すれば必要な部分だけに圧縮されたメールがケータイに送られてくることになる。
 電子メールを携帯電話に直接転送している人もよくあるが(おれも最初のころはやっていた)、これはかなりのリスクを覚悟でやらねばならない。なんらかのトラブルで転送ができなかった場合、差出人に MAILER-DAEMON からエラーメールが返ってしまうからだ。そこには届けられなかった転送先のアドレスが記載され、多くの場合、ケータイやPHSのアドレスは電話番号そのものを含むから厄介だ。メールをくれた人がお友だちならいいが、万一、悪いやつだったらかなわない。不特定多数の人間に電話番号が漏れる潜在的な危険を伴う。そして、電話番号がわかれば、金はかかれど個人情報を入手する方法などいくらもある。「携帯電話の番号で個人情報調べます」なんて、堂々と商売しているウェブサイトすらあったくらいだ(さすがにいまは表からは消えているだろう)。なんでそんなことが可能なのかじつに奇ッ怪ではあるのだが、一次情報源は誰が考えたって同じ商売の会社になるに決まっているのは、みなさまマスコミ等の報道でご存じのとおり。厭な世の中である。EmCm Service のメール転送機能は、このエラーメールを吸収してくれるため、ほぼ安心して携帯電話にメール転送ができる(絶対安心できるものなんてこの世にはない)。
 おっと、機能の説明が長くなった。つまり、目下存在しているインフラ間のインタフェース部分の弱点をカバーしながら付加価値を提供するという、なかなか着想の鋭いサービスである。もっとも、まだ実証実験の段階で無料だから(そろそろソフトでいえばシェアウェア的形態も考えるとのことだ)、客のつもりであまり多くを期待してはいけない。「そいつぁ、いいや」という人も、モニタとしてリスク覚悟で利用するべきだろう。おれが思うに、モバイル・コンピューティングの急速普及期に生じたニッチにうまく着目したサービスだが、現行の EmCm Service 機能の多くはやがて主流のインフラが吸収してゆくだろう。ただ、モバイル・コンピューティングから、いわゆる pervasive computing への流れの中で、こうした電子情報の“付加価値整流サービス”とでも呼ぶべきものは次々と現われてくるにちがいないので、変貌を遂げながら技術の普及状況に応じたニッチに移り棲んでゆけば、ビジネスとして安定する芽はあるのではないか。電子情報付加価値整流サービスには、ソフトウェア・エージェント技術と暗号技術が、きわめて重要な要素として絡んでくるだろうね。
 今日の日記は、「おまえ、サラリーマンのほうの仕事をしてないか?」と言われそうなので、堅い話はこれくらいにしよう。要するにですね、この日記を携帯電話やPHSで読みたい人は読んでくださってけっこうですと、いけしゃあしゃあと宣伝し、コンテンツを私的利用のため整形(改竄ではない)することを認めたということなのだ(コメントタグをひとつ入れるだけでいい)。こんなものが電子メールで最大二十通も携帯電話に送られてきたら迷惑以外のなにものでもないかもしれないが、希望者が利用するのだからいいだろうと、まあ、面白いのでやってみた。面白いことはいいことだ。ひょっとしたら、奇特な方が電話で読んでくれるかもしれないではないか。考えてみれば、一個人の日記を、あろうことか電波で配信するなど、正気の沙汰ではない。だが、それを言えば、ウェブで日記を公開していること自体がすでに正気の沙汰ではないのである。毒食らわば皿まで、暑さ寒さも彼岸までだ。
 すがやみつるさんなどは、ご自分のサイトに iモード向けのフォーマットで書いたコラムを載せていらっしゃるが(EmCm Service のロボットも許容なさっている)、この日記はとくに携帯電話やPHS向けの対応はしない。いままでのまんま、そのまーんまである。今日みたいに長い日もありゃ、短い日もある。端末の機種によっては、一日分が全部入らないこともけっこうあるだろうが、そこはご勘弁を。「くだらない日記なのに、気になるところで切れると気色が悪い」という方は、パソコンからブラウザで見に来てね。
▼そろそろ“ガイア突っ込みアワー”も最終回に近づいている。『ウルトラマンガイア』(TBS系)が終わってからも、このコーナーだけは続いてたりして。
 さて今週は、巨大イナゴ(?)の大軍が世界各地の空を覆い、電波による通信網が役に立たなくなってしまう。しかし、どういうわけかテレビの(しかもおそらく一局の)電波だけが影響を受けないという設定なのである。なんじゃ、これは。なるほど、テレビ局のクルーが危険を顧みず中継車で乗り出し、怪獣と闘うガイアとアグルの姿を中継して人々に希望を与えるって感動的な展開になるのだから、テレビが映ってくれなくては困るのはわかる。だけど、テレビだけが影響を受けないことに関して、こじつけでもいいからひとことくらい説明があって然るべきではなかろうか。来週に続く終わりかたをしたので、次回説明があるのかもしれない。このままなんの説明もないとしたら、あまりにあまりなご都合主義だ。XIGの連中もどうかしている。テレビだけが無事なのがわかっているんだから、通信網が麻痺したくらいであわててないで、あのテレビ局の周波数帯付近の電波で臨時通信網くらい組めそうなもんだ。民間に傍受されてはまずいのなら、暗号化すればいいだろう。エリアルベースを失ったXIGは、ことほどさように弱体化しているということなのか。
 それはそれとして、今回はすごい発見があった。ウルトラマンといえども、闘う前にハンバーガーを一個食うか食わないかで、力の出かたがちがってくるらしいのだ。出陣前の藤宮が「いざというとき腹が減ってたんじゃな」と、ハンバーガーを食うよう我夢に勧めていた。人間のときに食ったハンバーガーのエネルギーも、変身と共に増幅されるのだろう。そのむかし、アイアンキングは闘ったあと人間に戻ってからもしきりに水を飲んでいたが、あれと似たようなものにちがいない(どこがだ)。だとすると、来週、ガイアとアグルは、というか、我夢と藤宮は、北陸三県・愛知県・岐阜県・三重県・滋賀県以西で闘うべきだ。八月十六日から三十一日まで、マクドナルドではハンバーガーが六十五円、チーズバーガーが八十円と、半額になるからである。六十五円で地球が守れたら安いものではないか。しかも、ハッピー・サマークーポンがあれば、チキンマックナゲット五個入り(二百八十円)が百四十円、マックフライポテトM(二百四十円)が百五十円、ホットアップルパイ(百五十円)が七十五円で食えるのだぞ。しかも、クーポンは一枚で五名様まで利用できる。だが、我夢、藤宮、気をつけろ。クーポンは他のクーポンと併用はできないのだ。それから、チキンマックナゲットとホットアップルパイは一部店舗では販売していないから、油断は禁物だ。さあ、ゆけ、ガイア、アグル。マクドナルドはビーフをすべてオーストラリアから輸入し、牛肉の味を左右する脂肪含有率を一定範囲に保ち肉の旨みを大切にしているんだ。破滅招来体など怖るるに足らぬ。ピクルスの原料は、直径3.5〜4.5センチの整った形と適度な固さのキュウリだけに限定しているぞ。怪獣が束になってかかってきてもへっちゃらだ。
 よおし。これくらい宣伝しておけば、モニタとして一年間全店舗で無料食い放題くらいのことは、マクドナルドからメールで言ってくることだろう。

【8月13日(金)】
▼いままで黙っていたが、おれは世界征服を企む悪の秘密結社ショッカーの一員である。イーーッ、イッ、イッ、イーーーーーッ。コードネームは“ドラゴンフライ”だ。この日記はくだらないことばかり書いてあるように見えるけれども、じつは世界各地に点在する同志への通信文なのである。事前に同志に配布されている特殊なブラウザで見ると、世にも怖ろしい世界征服計画が読み取れるようになっているのだ。木を隠すなら森の中、死体を隠すなら戦場、おたくを隠すならコミケかSF大会であるのは常識ではないか。こんなことにも気づかないとは、日本の官憲などたかが知れているわい。イーーーッ。学校秀才の温室エリートどもが、どろどろの修羅場で培われた民間の知恵と技術力にかなうものか。手前は電子メールも使えないようなオヤヂ政治家どもが、おれたちの通信を傍受しようなどとはカタハラ痛いわ。イッ、イッ、イッ。数十万台の高性能コンピュータを宇宙が終わるまでフル稼働させて、「やあ、元気かい?」という電子メールを解読でもするのかね?
 おれたちは日常会話でも暗号を使っている。ショッカー日本支部には三種類の暗号言語体系が割り当てられており、メンバーは誰もがこれらの言語で会話できるのだ。盗聴されていても平気である。たとえば、「イーーッ、イッ、イーーーーーッ!」というのは、「バケラッタ、バケラッタバケラッタ、バケラッター」あるいは「ピカー、ピーカピカピカピカ、ピカー、ピカッ」とほぼ同じ意味である。わかるまい。わかられてたまるものか。ショッカーのメンバーは、血の滲むような努力で習得するのだからな。こうして文字で書くと単純に見えるが、口頭で会話するときには微妙な強弱や抑揚によって、自然言語以上の情報量を短時間で伝達できるようになっているのだ。イギリス支部ではさらに圧縮率の高い高速言語を開発中で、すべての情報伝達を「ニッ」のひとことだけで行なっている研究所もある。どうだ、まいったか。
 おまけに、なんだって? 改正住民基本台帳法も成立させたって? イーーーッ、イッ、イッ、イッ、イッ。あのなあ、おまえらが二、三年のうちに作るとか言ってる個人情報保護の法律を先に成立させるのがあたりまえじゃないか。自自公のアホ議員どもめらには、審議の順番もわからんのか。自分以外の世の人間は全部善人だとでも思っておるのかね、けけけけけ。公務員と称する人間の中に、精神の箍が外れた輩がどれほどおるか、ご存じないようだな? 連中は簡単にわれわれの手先となり得るのだぞ。NTTなんかよりずっとやりやすいくらいだ。これでしばらくは、われわれショッカーの天下じゃわい。まあ見ててみろ、どこで調べたのか、自宅に押しかけてくるストーカーが激増し、それに絡んだ傷害事件や殺人事件がきっと増える。これは統計数字としてはっきりと出るから、そのときになってあわてても遅いんだよ。
 それにしても、とくに公明党とやらに投票したやつらは、いい面の皮だ。手前の支持政党に完全にアホ扱いされておるのだからな。「ああ、あいつらは宗教で縛ってあるから、自分の考えなど持たん。選挙さえ終わってしまえば、こっちのもの。党がなにをしようが、また次も自動的に投票するに決まっている」と思われておるのだ。なんとも悪辣な話である。ショッカーだって、ここまでメンバーをバカにしたことはせんぞ。
 じつは、あの強行採決で、おれも迷惑しているのだ。イギリス支部の連中が、「おまえの国は議会制民主主義の伝統が浅くて、まだまだ猿真似にすぎんから、さぞや仕事がやりやすいだろう?」などと、まるでショッカー日本支部ではボンクラでも仕事ができるとばかりに、おれたちに皮肉を言うのである。
 なにはともあれ、これで日本はショッカーのものだ。ショッカーは怖いのだぞ。どういうわけか幼稚園ばかり襲っている類似の組織とおれたちを一緒にしてもらっては困る。なんといっても、おれたちは老舗だ。ショッカーの世界征服計画は着々と進んでいるぞ。イーーーッ、イッ、イッ、イッ、デーストローン。あ、まちがえた。

【8月12日(木)】
▼いつもヘンな占いやら診断遊びやらを見つけてくるヒラノマドカさんのサイトで、またまたヘンなのが紹介されていた。「あなたのPC汚染度チェック」ってやつだが、むろんやらずばなるまい。まあ、おれはパソコン自体が好きなんじゃなくて、パソコンでできることが好きなわけだから、さほどの点数は出ないだろう――

あなたは 91.45%
コンピュータに汚染されています。

ぎりぎり一般人のレベルに残れるかどうかというところです。
しかし一歩間違えば奈落の底へ落ちていくだけです。
というか、落ちていく可能性の方が高いですね。
ここまできたら無駄なあがきをせずに、どっぷりはまった方が
貴方のために良いかも知れません。

 おいおい。これはかなりアブナイではないか。もっともこのテスト、百%以上も出るらしいので、これでも相当低いほうなのかもしれない。やはり「問18:自分のマシンには名前がついている」「お気に入りのキャラの名前がついてる」を選んだのが敗因(?)であろう。
 このテストが“パソコンに淫している”度合を量っているのか、“パソコンでできることに淫している”度合を量っているのかがよくわからない。自分で環境設定することすらできないにもかかわらず、一日中パソコンの前に座っていなくてはならない仕事の人だっているよね。そういう人は点数が低くなると思うんだけど、パソコンに汚染されている度合は非常に高いと思うぞ。テレビの仕組みはさっぱりわからないが、テレビがないと精神が不安定になるなんて人もいるだろう。どちらかというと、パワーユーザよりもヘヴィーユーザのほうがいろいろな問題が出てくるように思うのだが……。
連濁というやつがある。たとえば“ごみ”“はこ”の二語がくっつくと“ごみばこ”となって、うしろの語頭の清音が濁音に転じる現象だ。これはふつう外来語では生じないのだが、おれの母方の婆さんは“バスタオル”のことを生涯“バスダオル”と言い続けていた。これは母にも受け継がれており、いまだに彼女は“バスダオル”と言っている。聞くたびにおかしくてしかたがないのだが、タオルのように日常生活にすっかり根付き日本語に食い込んでいる外来語だと、次第に違和感がなくなってくるから不思議である。新刊の帯に「戦慄のメディカルボラー」などと書いてあったら、これは驚くだろう。“医学ボラー”くらいだと、年寄りなら言う人もいるかもな。“角川ボラー”などと言うと、なにやら角川書店ならではの角川角川した、ほかの出版社には絶対真似のできないような特有の個性を持ったレーベルであるかのような感じがしてくる。その反面、角川のホラーを侮蔑したようなニュアンスも生じるよな。「今度、角川から出たあのホラー、けっこういいんじゃない?」「けっ。あんなものはいつもの角川ボラーさ」みたいな会話が浮かぶ。
 田舎のおじさんあたりが、ウルトラマンの必殺技を“スペシウム光線(ごうせん)”と呼んでいたとしても不思議はないような気もするし、「最近、うちの息子はSF小説(じょうせつ)ばっかり読みよってからに、ちぃとも勉強しよりまへんのや」などとぼやきそうでもある。
 誰かが“紙ゴップ”と言っていたとしたら、あなたは違和感を覚えるだろうか? “紙ズプーン”ならどうだろう? “紙皿”と並んでいたら、だんだん違和感が薄れてこないだろうか? 連濁ってのは、規則がありそでなさそでウッフンな不思議な現象なのである。連濁が生じてもさほど違和感がなくなったら、その外来語は完全に“帰化”したと言えるのかもしれない。

【8月11日(水)】
▼今日から夏休み。といっても、べつにどこへゆくという予定もなく、溜まってる雑用と会社の仕事とSFの仕事をできるだけ片づけるだけである。暑い中、わざわざ会社まで出かけていってパソコンを叩くか、家でパソコンを叩くかだけのちがいである。しかも、家のパソコンのほうが性能がいいうえに、おれが最も快適なようにハード・ソフトの環境を張ってあるから、家で仕事するほうがずっと能率が上がる。しかも、下着にステテコ履いただけの格好で楽な姿勢で仕事ができ、身体にも精神衛生にもいい。クーラーは寒すぎず暑すぎず、自分に快適な温度に設定できる。体調が悪くなれば、すぐ昼寝でも夜寝でもできる。本でも資料でもウェブページでもメールでも、寝て読もうが立って読もうがY字バランスで読もうが(できねーよ)自由だ。そういう意味では、夏休みは非常によく仕事ができる期間である。
 とはいえ、さすがに初日からばりばり仕事をする気にはならない。ゆっくり休もうと、昨夜ひさびさにコンビニで買ってきた安ウィスキーをかっ食らい、『つかぬことをうかがいますが… 科学者も思わず苦笑した102の質問』(ニュー・サイエンティスト編集部編、金子浩訳、ハヤカワ文庫)など朝からちびちびと読みながら、寝たり起きたりする。それにしてもこの本、質問のほうだけ見てゆくと、まるでおれの日記みたいだ。こういう、知ったからといっておそらくなーんの役にも立たない“つかぬこと”を肴にあれこれバカ話をするのは大好きである。
 もっとも、この“つかぬこと”に対する回答のほうは、あからさまなジョークやなにやら眉唾なものも混ざっているが、その回答が正しかろうがまちがっていようが(ここが重要だ)、やたら勉強になる。世の中には、よくもまあこんなことを詳しく知っている人がいるものだ、よくもまあこんな方向へ思考がめぐるものだと感心すること請け合いだ。イギリスの科学雑誌 NewScientist のQ&Aコーナー The Last Word に掲載されたやりとりを厳選して本にしたというだけあって、読んでいて飽きない。理科の先生、必読。適当な質問を取り上げて、生徒に討論させてはどうだろう? 「冷蔵庫の冷凍庫に温かい水を入れると、冷たい水を入れたときより早く凍るというのはほんとうですか? もしもほんとうなら、どうしてそうなるんですか?」なんて質問には、なにしろこの本の中でも、非常に有力と考えられる仮説が論争の過程で導き出されているだけで、決定版の大正解なんてものは書いてないのだ。なにかの問題に対する“正解”が予め用意されていないなどという事態が、そもそもまったく理解できない子供はすごく多いんじゃないかと思う。だが、大人はみな知っているように、学校の外ではそれがあたりまえなのだから。
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

SFバカ本 ペンギン篇』
岬兄悟大原まり子編、安達瑶岡崎弘明・かんべむさし・高瀬美恵・友成純一・中井紀夫・牧野修・岬兄悟・森奈津子、廣済堂文庫)

 おなじみバカ本第五弾。こうしてリンクを張りながら編者・執筆者の名を連ねていると、作家のウェブページ所有率が怖ろしく高いアンソロジーだ。しかも、ウェブページ所有作家は、コンピュータ関連技術の協力者やブレーンはいても、基本的にコンテンツを自分で作っている人ばかりである。えらい時代になったものだ。大原さんの「編者あとがき」によれば、「ほとんどの著者がパソコンで原稿を書き、しかもネットワーク経由で入稿。原稿依頼や催促などもほとんど電子メールでやっています」とのこと。「編集業を安々と領域侵犯できてしまうところがきわめて今的ではないかと思います」などと過激なことをさらりと書いてらっしゃる。このアンソロジーは、企画でSF界に一石を投じたばかりでなく、本の作られかた・売られかたに関しても近未来的なヴィジョンを提示しているのである。岬:大原コンビのやることからは、片時も目が離せない。


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