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99年8月下旬 |
【8月30日(月)】
▼珍しく納豆が切れてしまった。由々しき事態だ。たとえ米を切らそうとも、納豆を切らしてはならない。冷蔵庫に納豆がないというだけで、なにやら不安になってくる自分が怖い。
そもそも納豆のような重要な食品を、わが家は輸入に頼っている(といっても、店から買ってくるわけだが)。これは、安全保障上、好ましくない。きっと誰もが、「自宅で納豆が作れたら……」と夢見たことがあるだろう。じつは、自家製納豆製造機なるものがあるのである。うちにはないが、世の中にはあるのである。以前、ケダちゃんさん(ってのもなんだか妙だが)から教えていただいたサイトを見て、おれはのけぞった。自家製納豆製造機「夢」とな。「日本初登場」などと自慢しているが、ほかのどこの国で登場しそうだというのだ。おれには、ただの保温器のようにしか見えん。しかし、この夢のマシンさえあれば、自宅で納豆が作れるそうなのである。「格安・大量生産」という説明がすごい。「生大豆1升でなんと65パック(40g入り)。お店で買えば6,500円、わが家で造ればなんと350円」って、おい、まさかいっぺんに作るんじゃないだろうな。いくらおれでも、六十五パックも食おうと思ったら、ひと月ちょっとはかかるぞ。「これ一台で老後も安心です」ってのも頼もしいね。しかも、聞いて驚け、「購入申込の方にもれなく、納豆菌1年分サービス! 」なのだぞ。納豆菌一年分! それがいったいどのくらいの量の納豆菌なのか、さっぱり見当がつかないところがまた、じつに趣がある。よくクイズ番組の賞品などで、洗剤だのラーメンだのが“一年ぶん”もらえたりするわけだが、なにを以て一年ぶんとしているのだろう。“SF一年ぶんプレゼント”とあったら、あなたは何冊くらいを期待するであろうか?
それはともかく、仮にこの機械があったとしても、大豆を蒸したりするのはやはり手作業で行わねばならないのだ。面倒だなあ、それは。生の大豆を放り込んでおけば納豆になるとでもいうのなら、おれも真剣に購入を考えるかもしれん。だが、八万八千円は家庭用としては痛いなあ。六十五パックあたり六千百五十円得するわけだから、一パックあたり約九十五円の得である。ということは、元を取ろうと思ったら、九百二十六パック食わなくてはならない。ランニングコストを考えれば、それでも足りんはずだ。
そりゃあ、こうやって家で作れば味はいいのかもしれないけれど、スーパーやコンビニでいつでもすぐ手に入るのだから、おれは便利さを取るなあ。いずれにせよ、置く場所と金がないので、このマシンは見送りだ。
【8月29日(日)】
▼いまさらのようだが、インターネットはたいへん便利な媒体である。とくに一個人がこうして世界中の人に向けて己の意見を発信できるとは、なんとすばらしいことだ。しかるに、胸に手を当てて考えてみると、このすばらしい潜在力を持った媒体で、おれはいままであまりにも特殊な人々に向けてのみ、あまりにも特殊な意見ばかり述べてきたのではあるまいか。たまにはおれだって、反省の真似ごとはするのである。いくら個人の日記といえども、公の場で意見を述べるからには、「ああ、なるほどそうにちがいない」「私もそう思っていたのだが、うまく言えなかった。よくぞ言ってくれた」と、大勢の人に頷いてもらえるような説得力を持たねばなるまい。全人類とは言わぬまでも、全日本人、いや、せめて日本人の半数くらいには、心の底から強く賛同してもらえるような意見をたまには述べてみてはどうか――と、おれは今日、しみじみ考えた。
そこで、日本人の約半数にはおそらく頷いてもらえるような意見を、いまここに堂々と述べることとする。たぶん、言いたくても言えない人が大勢いるのだろう。やはり人それぞれ立場というものがあり、みんな声を大にして言いたいところを、ぐっと押さえているのにちがいないのだ。この日記で、いまそれを言おう。言いたくてしかたがなかったわが同胞たちよ、快哉を叫んでくれたまえ――「夏は、キンタマの裏が痒い!」
ああ、すっとした。
【8月28日(土)】
▼体調最悪。一日うだうだと寝ている。今日は東京で〈 DASACON2 〉が開催されるはずで、夕方ころようやくベッドから這い出して、会場の旅館に直接祝電ファックスを打つ。昨夜のうちに D-MAIL を打っておけばよかったのだが、D-MAIL 会員でないおれは認証のために公衆電話まで外出しなければならず、身体が動かず億劫だったので、NIFTY-Serve からのファックスで失礼させていただいた。D-MAIL 会員になっておけば、トーン回線の電話からいちいち認証する必要がなくなるから、そのうち入会しておこうかな。今回はバタバタしていて、ネット企画の「架空書評勝負」にも投票し損なってしまった。一応、応募作には目を通していたのだが、精選する時間が取れなかったのである。かといって、適当に投票するわけにもいかず、残念ながら見送った。前回のDASACON賞で手前は投票してもらっておきながら、まことに申しわけないことだ。できれば作品で応募すらしたかったのだがなあ……。そのうちレポートが次々とウェブに上がりはじめるだろうから、それを読んで雰囲気を楽しむこととしよう。
▼『ウルトラマンガイア』(TBS系)は、いよいよ最終回。この“ガイア突っ込みアワー”も今週で終わりである。まだ放映されていない東海地方の方にはネタばらしになるので、厭な方は読み跳ばしてくださいね。
お約束の“リパルサーリフト転用兵器”(99年4月3日の日記参照)が登場。“兵器”と呼ぶのは語弊があるな。“リパルサーフィールド”なる、エネルギーを反射するらしい力場のようなものなのだ。世界各地の怪獣たちが体内に持っている“光”を十機のファイターに搭載したリパルサーフィールド発生装置で反射・集結させ、東京の一地点で待つ我夢と藤宮に再び“光”の力を与えようという計画である。そもそもなぜこれにリパルサーリフトを使わねばならんのかさっぱりわからないのだが、まあ、このへんまで来ると、細かい理屈もへったくれもなく、「あんなことしたら、ただ我夢と藤宮が蒸発してしまうだけではあるまいか」といった不信も停止して、最終回の感動に酔うのがよろしかろう。
さまざまな二項対立図式というか、ひとつのものが持つ陰陽の二面性を宙ぶらりんにしたまま解決しないのは、納得のゆくところ。根源的破滅招来体の持つ意味も謎を残したままである。もしかすると、『ウルトラマンダイナ』の最終回で襲ってきた敵に、隠された概念的な関連性を見て取ることができるのかもしれない。つまり、多様性・多面性の否定という概念そのものが、根源的破滅招来体の象徴するところであったのではあるまいか。考えてみれば、破滅招来体は、地球人の中にこそ潜む“多様性を否定する心理”を利用する戦法を取ることが多かった。そういう画一化・単純化の権化に対して、多様性をこそ存立基盤とする地球のバイオスフィア、ひいては、総体としての“ガイア”なる“生きもの”が立ち向かう物語であったのだろう。むかしの子供番組のように、“えーもん”と“わるもん”が闘う図式では、子供すら騙せなくなった時代だということだろうか。
ラストシーンはすばらしかった。この画が与えてくれる眩暈こそがSFだ。どうやら、先週の“ガイア突っ込みアワー”で、おれは図らずもラストシーンを予言してしまっていたようである。製作者の意図が伝わってきて嬉しい。そうだ、この作品はなんとしてもこういう画で終わってくれなくてはならない。突っ込みアワー最後の欲を言えば、地球の背景の宇宙空間に流れる星空は、ないほうがいい。ああやって地球が遠ざかって見えるスピードでは、星空があんなふうに見えるはずがないのである。つまり、ここで遠近感と速度感覚が混乱を起こし、嘘臭く見える。できれば、真っ暗な宇宙空間に浮かぶ地球が点ほどになったころに、ようやくわが恒星系の太陽が見えはじめ、さらに超高速でカメラが引いてゆくと近隣の恒星が見えはじめる――というところまでやってほしかった。まあ、今回の編集のしかたを見れば、かなり時間が押していてかつかつのところだったってのはわかるので、子供に概念が伝わればよしとしよう。タイトルは忘れたが、むかしカナダの教育用アニメで、これとそっくりの画を観たことがある。アニメでやるのはさほど難しくないと思うが、実写と特撮でここまでやるのは手がかかったことだろう。『ウルトラマンガイア』のこのラストシーンは、子供たちの心にも突き刺さって消えないにちがいない。大人の目で見れば最後の最後のキャプションは蛇足というものだが、子供番組だからあれでよろしいでしょう。
いやあ、よかったよかった。平成ウルトラマンの面目躍如たるものがある。あらゆる粗は、ラストシーンで許してしまおう。いいSFだった。
【8月27日(金)】
▼一昨日の日記に「いまの子もやっぱりニンジンが嫌いなのかね?」と書いたら、元学校栄養職員で日々給食の残飯を眺めていたという梅子さんから情報が寄せられた。「ニンジンは少し大きくなると食べられるようになるようです」とのことで、案外多いのが、椎茸嫌いなのだそうだ。これは意外であった。おれ自身がキノコの類ならなんでも大好きなもので、あんなに癖のないものが嫌いな子がいるとは想像の埒外だったのである。うちに子供がいないから、なおさらそういうことがわからない。ファミレスなどで飯を食うときには、よその子がなにを残すかをよく観察しておかねばならないな。まだまだ修行が足りぬ。でないと、小説に好き嫌いをする子供が出てきた場合、その子がしばしば子供が嫌うものを嫌う子なのか、特殊なものが嫌いな子なのかがわからず、若い読者には自明の理としてわかっていることを読み誤るおそれがある。当然、作家のほうは、そういうことを観察し抜き、調べ抜いて書いているはずだ。おれが一般的でないライフスタイルを選び取っているからといって、一般的なライフスタイルに無知であってよいということにはならないのである。自分が子供を持たないからこそ、よその子供の言動やよその親たちのくだらない繰り言も観察対象として切り刻んでおかなくては、他人の書いた面白いことを読み落とす危険がある。自分で面白いことも書けないだろう。それにしても、椎茸、うまいんだがなあ。椎茸は嫌いだが松茸は大好物なんてガキがいたら、張り倒してやれ。
もうひとつ、これまたおれには意外だったが、アンコが嫌いな子供も多いのだそうである。えーと、あのシンバルみたいな顔した魚じゃなくて、甘い餡のことね。とくに粒餡がダメな子が多いとのこと。不思議だねえ。漉し餡は食えて、粒餡は食えない子がいるというのだろうか。余談だが、粒餡のアンパン数個の中に一個だけ漉し餡のアンパンを混ぜ、ふたりで順に一個ずつ食ってみて漉し餡が当たったら負けだという“漉し餡ルーレット”なる遊びは、いまやあまりにも有名なギャグになってしまっている。あれは、おれの記憶の中では『週刊テレビ広辞苑』(97年10月24日の日記参照)が最初なんだが、さらに遡ることができるのだろうか。容易にかぶりそうなネタだから、あちこちで独立発生しているのかもな。そういえば、8月9日の日記で触れた『パタリロ! ダジャレ王(キング)』(魔矢峰央、白泉社)にも、ダジャレクイズで同じネタが出ていた。『パタリロ!』でも使われているのである。『週刊テレビ広辞苑』とどっちが先だったか、よくわからない。ほかにも何度か見たことがある。すでにこのネタは、パブリック・ドメインにあると言えよう。
おっと、ダジャレに熱くなってしまった。こういう研究は田中啓文さんにお任せするとして、餡の話だ。もしかすると、アンパンマンの餡の種類が子供の好き嫌いに影響を与えているのではあるまいかと推理したおれは、「アンパンマンは漉し餡なのか粒餡なのか」という大問題を解明すべく、ちょっとネットを漁ってみた。すると、あっさり答が見つかった。なんと、アンパンマンは粒餡だそうなのだ! びっくりである。彼が空腹な人に自分の顔を分け与えるときに脳(?)がどんな具合だったかよく憶えていないため自信がなかったのだが、おれはなんとなく漉し餡だろうと思っていた。「かおるちゃんのホームページ」というアンパンマンのファンサイトにある「おしえて!アンパンマン!」のコーナーで、熱烈なファンの方が明記していらっしゃる。『なんでもわかる!! アンパンマンだいずかん Vol.1〜7』(フレーベル館)を参考になさっているとのことだから、まず確実だろう。ほかにも、複数のサイトに粒餡だという情報があり、漉し餡説は見つからなかった。いやあ、勉強になりましたね。センター試験に出るかもしれないので、受験生の人は憶えておこう!
となると、こういう可能性もある。もしかすると、やなせたかし氏は粒餡が嫌いな子供が多いということをご存じで、だからこそアンパンマンの中身を粒餡に設定したのではあるまいか? ありそうなことだ。作家はそこまで考えそうだものな。なんだったら、ついでにシイタケマンも登場させてはどうか……とは思ったものの、なんだかドルゲ魔人みたいだよな、それじゃ。『仮面ライダー』のキノコモルグは、あんまりうまそうじゃなかったし。
というわけで、ここを読んでいるよい子のみんな(よい子は読んでいそうにないが)、アンパンマンもつぶあんなので、おかあさんのかってきたつぶあんのアンパンも、もんくをいわずにちゃんとたべようね。
【8月26日(木)】
▼大阪府狭山市で、用水路を泳いでいたピラニアに小学生が噛まれて怪我をしたとな。よく生きてたな。いや、ピラニアがだよ。排水が温かかったのだろう。
ピラニアが泳いで海を渡ってきたはずがないから、誰かが捨てたのは確実だが、捨てる人間の心理がわからんよ。まず、よほどの阿呆でもないかぎり、捨てたピラニアが日本で生き延びることはなかろうと考えて捨てるのだろう。だったら、水槽の水を抜いて殺し、死んだピラニアを生ゴミとして出すのも同じだ。そうすればいい。なのに、わざわざ生きたまま放流するのは、いったいどういう心理だ? 死骸を見たくないということなのか。それとも、万が一にも生き延びてほしいと考えているのか。前者だったらわがままもいいところだし、後者だったら小学生並みの認識だ。仮に生き延びてしまったら、生態学的地位を奪われ滅ぶか激減する日本の原住種が出るのだぞ。あなたは赤くない日本産のザリガニを見たことがあるだろうか? おれは子供のころにたまに見たくらいで、そのころですら、ザリガニといえばアメリカザリガニのことだった。
おれがピラニアを飼っていて、なにかの事情で飼い続けることができなくなったとしたら、気味が悪くて生きたままでは捨てられないだろう。確率はきわめて低くとも、奇跡的に生き延び、まかりまちがって繁殖でもしてしまったらと考えると、夢見が悪いしアホらしいとは思いつつ、確実に殺してから捨てるにちがいない。生物というやつは、おれたちの日常的な常識を超えたことをしばしばやらかすから、生き延びる可能性が皆無だとはとても信じられないのだ。『ジュラシック・パーク』で数学者のマルコムが言ってたな。Life finds a way.と。おれもなんとなくそんな気がする。
まだ何匹か魚の姿を見たと当の小学生は言っているそうだから、もしもこいつらがどんどん増えていったら、それはそれで空想としては面白い。下水がピラニアだらけになり、野良犬や野良猫などを襲いはじめる。中州でキャンプをしようと川を渡ろうとした人が、たちまち白骨と化す。えらいことだとピラニア狩りがはじまるころ、一人の少年がピラニアのリーダーと仲良くなり、彼に“ベン”と名前をつける……わけはないが、日本の川や池にピラニアがいるのがあたりまえだということになったら、公園の池などに犬猫を投げ込んで遊ぶやつらが現われるにちがいない。そのうち動物では面白くなくなって、浮浪者を狩っては池に突き落とす遊びが、精神の箍が外れた若者たちのあいだで流行りはじめるだろう。目に見えるようだ。くわばらくわばら。狂暴な動物を飼ってる人たち、ちゃんと殺してから捨てましょうね。え? 狂暴な人間と一緒に暮らしている? それは然るべき専門家に相談してください。自分で殺しちゃだめだよ。
▼《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。
ずいぶん長いあいだ、原書を古沢嘉通さんに借りっぱなしなのだが(古沢さん、ごめんなさい)、なかなか読めないうちにとうとう翻訳が出てしまった。山岸真さん初の長篇翻訳である。冥王星軌道の倍の大きさを持つ暗黒の球体が、太陽系を突如すっぽりと包み込んでしまう話だというのだ。それじゃあ『首都消失』(小松左京)の宇宙版ではないか――って、当然、邦訳タイトルにはそういう遊び心があるんだろう。「ナノテクと量子論がもたらす、戦慄の世紀末ハードSF!」と腰巻に書いてあるうえ、おどろおどろしげな術語が頻出する前野昌弘さんの科学解説(先に読んじゃいかんと書いてあるから、読まないように眺めただけなのだ)までついているとなると、それだけで腰が引ける人もいるかもしれない。まだ読んでないくせに保証するわけにはいかないのだが、こういうのは十中八九、もし理屈がわからなければ壮大なバカ話として読めばいいだけのことなのである。おれは理屈のわからんハードSFはそうやって楽しんできた。理屈“だけ”が面白いのであれば、そんなものは論文として発表すればいいだけの話であって、小説として発表されているからには理屈以外の部分にも面白さがあるはずである(ただただ理屈だけの小説を、ごくごく少数の読者にために出版する蛮勇が編集者にあれば話は別だが……)。
これはちょっと、優先順位を上げて読まねばなあ。おれはどちらかというと、キャラクター中心の話よりも、現象やら事件やら物体やらで度胆を抜いてくれる話のほうが好きである(本書がそうかどうかは、読んでみないとわからないけど)。おれ用語で言うところの“茶筒SF”(アーサー・C・クラークの『宇宙のランデヴー』で“ばかでかい茶筒”が宇宙から飛んできた故事に因む)というやつだ。茶筒SFは、SFらしさのエッセンスで楽しませてくれることが多い。ただ、この手でスベると目も当てられないから、たぶん書くほうは難しいのだろうな。人間以外のものを書いて人間の興味を引くほうが、人間を書いて人間を惹きつけるよりも格段に難しいに決まっている。読者は誰だって人間だからだ。誤解を怖れず大ざっぱにぶっちゃけたことを言ってしまうと、おれはなにも人間なんぞが読みたくてSFを読んでいるわけではない。それなら、平均的にずっとうまく描いてくれる分野がほかにある。おれは人類が読みたくてSFを読んでいるのだ。人間と人類とを同時に書いて眩暈をもたらしてくれる天才も稀にはいるが、天才ばかりを期待してはいけないだろう。
【8月25日(水)】
▼先日妹がやってきて、缶入りのキャロット・ジュースをたくさん置いていった。妹のやつ、にわかに谷山浩子のファンにでもなったのかと思ったが、さにあらず。町内会で地蔵盆に用意したものが大量に余ってしまったため、ひと箱ほど手に入ったのだそうな。そんなわけで、しばらくキャロット・ジュースばかり飲む羽目になった。おれは好きだからいいんだけどね。おれが野菜ジュースの類をまったく厭がらないことについて、母が天然ボケ花火を一発打ち上げた。「そりゃあ、子供のころに、よう“VO5”とか飲んでたさかいな」 そんなもん、誰が飲むか。V8だ、それは。そういう名の野菜ジュースがむかしあったのだ。
それにしても、いまの子もやっぱりニンジンが嫌いなのかね? ニンジンといえば、むかしは子供の嫌いな食いものの代名詞だったものだが、おれは全然平気だった。どちらかというと、好きなくらいである。この缶ジュースのデザインがいかんなあ。“にんじん”などと大書してあるばかりか、でかでかと写真まで出ている。“キャロット・ジュース”とも書いてあるが、こっちのほうをメインに据えるべきだ。なんだかハイカラな飲みものみたいに見えるではないか。ニンジンが原料だと知っている子供も、一度は飲んでみようかという気になるかもしれない。英語で言やぁハイカラだなんて時代はとうのむかしに過ぎ去ったとはいうものの、“人参汁”などと書いてあったとしたら、やっぱりちょっとまずそうだよね。親孝行な娘が悪代官の慰みものになる代償に和蘭帰りの医者からやっとのことで入手し労咳の父親に煎じて飲ませそうな感じがする。「おまえには苦労をかけるねえ、げほげほ」「お父っつぁん、それは言わない約束よ」「そうだったな、がほごほ。しかし、わしももう長くないような気がするんだよ……」「弱気になっちゃだめ、お父っつぁん。さあ、あの夕陽に向かって走るのよ!」「先生っ!」「お父っつぁん!」「ファイト・オー!」――君はー、なにをいーまー、見つめてーいるのーと唄いながらそこへ闖入してくるのは植木不等式……って、いったいなにを書いてるんだ、おれは。
話を戻す。“青汁”だって“ブルー・ジュース”とでも呼べば、少しはおいしく飲めるかもしれんぞ。だけど、あの“青”は“緑”の意だよな。“グリーン・ジュース”にするか。しかし、それではまるで安楽死させた人間の絞り汁のようにも聞こえてしまうかもしれん(聞こえるやつが特殊だってか)。テレビCMが目に浮かぶなあ。顔をしかめてグリーン・ジュースを呷る八名信夫(チャールトン・ヘストンでもいいな)、きれいに飲み干してカメラ目線で言う――「んーーーまずいっ。人間がいっぱい!」
おあとがよろしいようで……。
【8月24日(火)】
▼どうもお下品なネタが続くような気がするが、思いついてしまうものはしかたがないので書く。
“織姫と彦星”と漢字で書いてあれば、べつになにを感じるわけでもない。これが人工衛星の名前になって、“おりひめ・ひこぼし”とひらかなで表記されていると、とてもとても不思議なことに一瞬「はっ」としてしまう。おれの超自我が関西人である証拠か。まあ、このネタは“おこめ券”という有名なやつがありますからなあ。
かかる現象から実感されるのは、おれたちは、書かれたテキストをいかに深く“絵”として捉えているかということである。文章の“香り”みたいなものには、あまり表層の意識に浮かんでこないこうしたタイポグラフィカルな要素が、存外に大きく寄与していると思う。見るからに優れた文章を書く人は、おそらく自分でも深く意識せずに、絵的なレベルでも読者を操ってしまえるのにちがいない。そういう魔法が使える人は、たしかに存在する。
たとえば、あなたの好きな作家の作品から適当な部分を選んで音読し、録音してみていただきたい。次に、原文を見ないで、自分の朗読を聴き取りながらワープロで入力し、原テキストを再現してみる。すると、その作家の文字遣いの特徴が非常によくわかるうえに、あなた自身の文字遣いにどんな癖があるか、そもそもいかに文字遣いを意識していないかが浮き彫りになってくるものである。一発で寸分違わぬテキストを再現できたとしたら、あなたは自慢していいほどにその作家に詳しいか、天性の“字面絶対音感”の持ち主かのどちらかだ。
多少なりとも文章修行なるものに挑んでみた人は、好きな作家やライターの文章をただただバカのように丸写しした経験があるにちがいない。恥ずかしながら、おれもやったことがある(やってこの程度か)。だが、テキストを目で見て丸写しするのは、それ自体が作業として惰性になってしまいやすい。書き写す快感に酔ってしまうのだ。好きな書き手の文章とまったく同じものが自分の筆跡でできあがってゆくのだから、ほとんどオナニーと同じくらい気持ちがいい。気持ちよくなってしまっては、いったいなんのためにそんなくだらない作業をしているのかわからなくなってしまう。だから、一度音にするのだ。そのほうが、己の悪癖(個性ともいう)と他人の個性(悪癖ともいう)とのちがいがわかりやすいし、「ああ、おれはトーシローだ」といちいち実感させられる不快な作業なので、酔ってしまうこともない。あっ。ここに書いてみて初めて気がついたが、むかしは原稿用紙とテープレコーダが必要だったこの作業は、なんと、いまはすべてパソコン一台でできてしまうではないか。ちくしょう。もう二十年遅く生まれるべきだったな。
これは企業秘密である。しかし、その成果がこの程度であるのだから、たいした企業秘密ではないと判断し、ここに初めて公開する。もっとも、自分の悪癖は個性なのか、他人の個性は悪癖なのかを最終的に判断するのは自分であって、この実験ではただ“差異がわかる”にすぎない。悪癖やら個性やらを云々する以前の、単なる“下手くそ”は少しずつましになってゆくだろうとは思う。才人の魔法は盗めなくても、気の利いた手品くらいはできるようになるかもしれない。
【8月23日(月)】
▼最寄り駅からのバスがない時間になったので、夜道をてくてくと歩いて帰る。人通りの少ない道ばたの叢から、さまざまな虫やカエルの声が聞こえてきてなかなか風流である。少し遠くの虫の声は渾然一体となり、まるで月光が降り注ぐ音ででもあるかのようだ。近くの叢では、これまた十種や二十種ではない異なる音が、異なるがゆえに互いを引き立てあって響いている。健気だ。一寸の虫にも五分の魂。心が和む。もう秋も近い。
と、ここでやめておけば、少しは枯れた味わいの日記にもなろうが、どうしても余計なことを考えてしまうから始末が悪い。気苦労の絶えない精神構造をしている。呪われた脳といえよう。
なるほど、こうして黙って耳を傾けていると、虫の声というやつはじつに涼しげでよろしい。だが、なにかの拍子に、これらが全部日本語に翻訳されて聞こえてきたとしたら……。私にソロモンの指輪があったなら(って、むかしの〈科学朝日〉の植木不等式みたいだが)、はかなげで美しい虫の声はこんなふうに聞こえることだろう――
「やりてぇーやりてぇーやりてぇーやりてぇーやりてぇーやりてぇーやりてぇー一発やらせろやりてぇーやりてぇーやりてぇーやらせろやらせろやりてぇーやりてぇーやりてぇー一発やりてぇーやりてぇーやりてぇーやりてぇーやりてぇーやらせろやらせろへるもんじゃねーやりてぇーやりてぇーやりてぇーやりてぇーやりてぇーやりてぇーへるもんじゃねーやらせろやらせろ一発やりてぇーやりてぇーやりてぇーやらせろやらせろやらせろやらせろやりてぇーやり……」
おれはやっぱり、天性の詩人にちがいない。
【8月22日(日)】
▼「○○と××くらいちがう」(が、なんのことかわからない方は、98年8月12日の日記へどうぞ)の“合わせ技”を考えてみた。「カレーライスとライスカレーは人魚と魚人くらいちがう」という具合にやるのだ。ちがわねーよ。
▼8月11日の日記で触れた『つかぬことをうかがいますが…』(ニュー・サイエンティスト編集部編、金子浩訳、ハヤカワ文庫)は、どうやら売れているようだ。会社のそばの本屋で最初見たときには、ひと山が平積みにしてあった。その山がみるみるうちに谷になってゆき、先日見たらまた山に戻っていた。我孫子武丸さんも「思わず買ってしまった」と書いてらしたな(「ごった日記」99年8月18日)。水玉螢之丞画伯のイラストが、科学に対する警戒心を氷解させる効果もかなりあるのだろう。いやじつは、この表紙の女性、“眼鏡フェチ”で“白衣フェチ”のおれにはたまらない。にひひ。
おれとしては、この本の読者層がすごく気になるね。いったい、どういう人が買っているのだろう? ふだん科学を敬遠しているが雑談風で面白そうだと手に取った人なのか、科学に興味はあるが仕事にはしていない人が買うのか、それとも「科学者も思わず苦笑した102の質問」という副題を見て苦笑したくなった科学者か……。
科学が小難しげな印象を与えるからSFが売れないんじゃないかなどという説もあるようなのだが、科学のどこが難しいものか。科学ほど、アホでもわかる学問はないのではなかろうかと思う。「文学とは?」と尋ねられたら、千言万語を費やしても十全には説明できないのに対し、科学の方法論は単純そのものだ。関西弁で書くと、「なんでやろう?」「こうとちゃうやろか?」「こうとはちゃうんとちゃうやろか?」「試してみたろ」「どうやら、ちゃうらしい」「ほんなら、こうなんとちゃうやろか?」「試してみたろ」……をひたすら繰り返すだけやがな。科学なるものは、「あ、やっぱりちごうてたわ、すまん」「どうも、こっちのほうがよさそうや」「ほんまにそうかあ?」「それだけではまだわからん」「わからんもんはわからんとしか言えん」「それが科学でわかるわけがないがな」と、身のほどをよーく知っていて正直に言っちゃうものだから、頼りない不甲斐ない優柔不断なものに見えてしまうのだろうな。「そりゃもう、絶対こうに決まってるがな」「黙ってわしについてきたらええ」「見たん〜だから、しようがない」などと、ビシっとコタエを与えてくれる傲慢さのほうが、なにやらありがたそうに思える人が多いのだろう。そんな人があまり増えないように願いたいね。
【8月21日(土)】
▼朝方、かなり大きな地震があった。大きな揺れはさほど続かなかったが、持続時間が長い。阪神淡路大震災の悪夢が甦る。部屋の襖を開け放って、ダイニング・キッチンに跳び出すと、寝ていた母も起き出してきてテーブルの下に潜っていた。
幸いたいした地震ではなかったようだが、ずっと京都に住んでいるとはいえ、阪神大震災のトラウマは大きいと痛感した。意識の深いところに組み込まれている地震というものに対するプログラムが、あれ以降書き換わってしまったらしい。というのは、今回おれは、阪神大震災のときには取ろうにも取れなかった行動に出ている自分に驚いたからだ。「おや、これはちょっとでかいぞ」と思ったそのとき、おれはすぐさま携帯電話を掴んでいた。充電もままならない災害時にこいつがどの程度役に立つものかはわからないが、これほど小さな無線通信機が手元にあるというのは心強いことだ。万一、建物が倒壊し自力で脱出できない状態になったとしても、暗闇の中でこいつは電池の保つあいだは役に立つだろう。日付や時刻を知ることができる。これは心理的に大きな支えとなるだろう。おそらく災害直後は中継所がやられて圏外になってしまうだろうが、救助活動や被災者支援活動のために臨時のアンテナや中継装置が早急に設けられるにちがいないので(設置のコストと手間ではPHSのほうが便利だろう)、電波の受信状況によって救助や復旧の進み具合を知ることができるかもしれない。災害直後に運よく通話ができる状態であれば、外部と連絡が取れる。おれがここに埋まっているぞと知らせられるかもしれない。おそらくショートメッセージやインターネットメールの機能はあまり役に立つまい。平時でさえ電話会社の設備投資が追いつかず、しばしば滞留を起こしているのだ。しかし、もしそれが使える状態になれば、メールの送受信をしたほうが電池の消耗ははるかに少ない。いよいよ助けが来て瓦礫を撤去する物音が聞こえはじめても、ひょっとすると負傷、衰弱して声が出せない状態であるかもしれない。そんなときも、意識があって手が動かせれば、最大音量で着信音のテスト機能が起動できる。ほかにも、災害時にはいろいろと思わぬ使いかたを思いつくにちがいない。問題は電池だが、考えてみれば、最近の携帯電話は二百時間から三百時間くらいは待受けができる。動けず救助を待っている状態なら、電池が切れるよりも先に人間のほうが参ってしまうだろう。
阪神大震災のころは、いまほど携帯電話が普及していなかった。携帯電話で神戸から東京にいち早く大惨事を伝えた議員もいたけれども、当時は猫も杓子も持っているようなものではなかった。しかし、PHSも含めれば、昨今は小学生だって持っていたりする。あまりそういう役立ちかたはしてほしくないが、次に大きな広域災害があったときには、携帯通信端末が大活躍するにちがいない。政府および電話会社各社に於かれては、災害時の負荷に耐えられる無線通信網を構築し、運用体制を策定しておいていただきたい。たとえば、非常時には電話会社の壁を超えた無差別ローミングを可能にするとか、被災地域の周辺都市にあるコンピュータなどの設備で負荷分散して支援するとか、電話器本体の借り受けや充電が可能な仮設サービスセンターを被災地域に設置するとか、やることはいくらでも考えられそうだ。むろん、おれの知らないところでそういうことが検討されているとは思うけれども、この不況と通信関連業界の過当競争下では、国の後押しがないと民間の営利企業は災害対策投資にまで手がまわっていないかもしれないではないか。携帯電話やPHSがこれほど爆発的に普及し、さまざまな付加価値サービスが提供されはじめている国も珍しく(ケータイ先進国のフィンランドなどとは人口がちがう)、世界の注目を集めている。そんな国が、もしも災害時に通信もままならぬ状態で右往左往したのでは情けないではないか。「結局あれは、コギャルとビジネスマンのおもちゃだったのか」と言われることだろう。いや、面子なんかはどうでもいい。なにより災害時には、掌に納まる小さな箱で得られるほんのひとことの声、ほんの数語の文字が、人の命を左右することになるにちがいないのだから。
▼『ウルトラマンガイア』(TBS系)も、来週で最終回。“ガイア突っ込みアワー”も終わるかと思うと、なんとなく自分でも寂しい。土曜日に書くことがひとつ減る。
それはともかく、先週突っ込んだ“テレビの電波だけが影響を受けない謎”について、ちゃんと説明がありましたな。ウルトラマンが負けるところを広く地球人に見せつけるため、敵がわざわざテレビだけ残しておいたということなのだ。なるほど。じゃあ、あのテレビ局のクルーが先週巨大イナゴにやられていたら敵の作戦は失敗ではないか。そういう情報戦術を見破られないように、わざと少数の弱いイナゴでクルーを襲わせたということにしておこう。
ウルトラマン側にも誤算があった。あんなでかいやつが出てくるとわかっていれば、ビッグマックを二個は食っておかなくてはだめだ。チキンマックナゲットとホットアップルパイも食えばなおよい。来週は我夢たちも学習していることだろう。そうそう、正体がテレビ放映されてマスコミに追われるウルトラマンってのも、いままでありそうでなかった痛快な画だったよ。楽しませてもらった。
過去に出てきた地球の怪獣たちが、破滅招来体と闘いはじめるという展開はなかなかに感動的である。こういう図式は、キングギドラと闘うゴジラ、モスラ、アンギラスといった形で怪獣映画ではおなじみではあるが、ウルトラヒーローが主役のテレビ番組ではきわめて珍しい。ピグモンなどの友好的な怪獣が単発で出てくることはあっても、本筋にしっかりと絡めた形でこれほど大がかりな仕掛けをしたのは、『ウルトラマンガイア』が初めてではなかろうか。ガイアの名のとおり、本シリーズの真のウルトラヒーローは、じつは人間も動物も怪獣もウルトラマンも含めた“地球なるものの総体”だったというわけだろう。むかしの子供番組なら、こんな設定はわかりにくいと企画が蹴られてしまったかもしれないけれども、いまの子供たちにはちゃんと伝わるはずだ。彼らは、“世界”と聞いて“地球”をイメージしたり、“地球”と聞いてメルカトル図法やグード図法の地図を思い浮かべるような旧人類ではない。宇宙空間から見たほんものの画像で、虚無の中にぽっかりと浮かぶいまにも壊れそうな青い球体の姿を、生まれたときから刷り込まれている世代なのである。
さてさて、『ウルトラマンガイア』がどう着地するか、来週がとても楽しみだ。おれもいろいろ突っ込んではきたが、総合的にはウルトラシリーズ屈指の傑作になりそうだな。子供番組としての制約は最終回のまとめかたにも影響するだろうが、そこは大目に見よう。期待してるぞ。
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