間歇日記

世界Aの始末書


ホームプロフィール間歇日記ブックレヴューエッセイ掌篇小説リンク

← 前の日記へ日記の目次へ次の日記へ →


99年8月上旬

【8月10日(火)】
▼会社の帰りにあまりに腹が減ったのでマクドナルドに入ろうとしたら、そばにCDの露店が出ていた。ほれ、よくJR東京駅の八重洲口地下に出ているようなやつだ。ああいうところでは、最新のヒットアルバムだのはあまり売っていない。ヒジョーに懐かしいスタンダードがほとんどで、どうも音源が怪しげなものやら、かなりチープな感じの直輸入盤やらが混じっていたりする。それでも一応中身はそこそこの音質で(ひどい直輸入盤はたまにある)、愛蔵するような盤ではないが安いことは安いので、ちょっと聴きたいときに便利だ。この手の露店を見るとついつい足をとめ、妙にナツカシゴコロを刺激されて、ふらふらと一、二枚買ってしまったりする。
 今日も The Sound of Music のサントラを買ってしまった。大むかしによく聴いていたのだが、むろんうちにあるのはLP盤で、再生できる機械がないために、もう十数年は針を落とした(なんて懐かしい表現だ)ことがない。CDで一枚置いておいてもバチは当たるまい。
 タモリがよく言うように、劇中でいきなり人間が唄い出すあたり、ミュージカルってやつはたしかに滑稽だ。真面目に観ていると笑いがこみ上げてきたりする。だが、そこのところに目をつぶれば、映画になるような(あるいは最初から映画として作られるような)ミュージカルには、さすがに名曲が多いのは事実だよね。ときおり、うちにあるCDをかき集めて発作的にまとめ聴きしたりすることもある。
 晩飯のあと、The Sound of Music のサントラをひさびさに通しで全曲聴いてみた。うーん、やっぱいいすね。おれが好きなのは、ギター一本でマリアと子供たちが唄う表題曲と、なんつっても My Favorite Things 。あの歌詞って、「よこはまたそがれ」と同じでほとんど名詞の羅列だけでできているんだが、口ずさんでると生理的快感があるでしょう。メロディーもかっこいい。しかも、どういうわけかおれは、三拍子のリズムをとても快く感じる体質である。先祖は騎馬民族だったのであろうか。
▼たとえば、皇居爆破計画とか首相官邸襲撃計画とか東京都知事誘拐計画とか人類補完計画とかセブン暗殺計画とか1/8計画とか、いかにもぶっそうな計画を持ちかけるメールを、冬樹蛉本名のおれに向けて出してみるとする。本名のおれは冬樹蛉と意気投合し、メールでやりとりをはじめる。こんな大計画をふたりで実行するのは荷が重いので、彼らは相談のうえハンドルのおれに声をかけ、三人のあいだで不穏なメールが飛び交って計画が次第に固まってゆく。「そこで市民を巻き添えにすることはないだろう」「いや、そんなことを言っていたのでは大義を通すことはできん」「そうだ、拝金主義に頽落した大衆どもの千人や二千人……」などと、お定まりの読者サービスも必要だろう。ROT13/47 程度の素朴な暗号化もしておいてやるほうが、読むほうもスリルがあって楽しいかもしれん。そんな遊びをしているうち、屈強な黒服の男たちがおれの尾行をはじめるかどうか、おれはいま実験してみたくてしかたがないのであった。

【8月9日(月)】
『パタリロ! ダジャレ王(キング)』(魔矢峰央、白泉社)なる本を見かけ、思わずライバル意識を感じて買ってしまう。「魔矢峰央の大人気ロングセラーギャグ『パタリロ!』に登場する、選りすぐりのダジャレを図解入りで一挙公開。この本はダジャレの聖典、バイブルである」とまで書かれては、ふつう「なんだとぉ、負けるものか」と思うじゃないか。どこがふつうじゃ。
 晩飯のあと腹ごなしに開いてみる。要するに、ダジャレシーンだけを一ページずつ集めた“よりぬきパタリロ!”に解説(ダジャレの応用例多数)がついている本である。はっきり言って、ぜーんぜん面白くない。おれも憶えているシーンが多数あって、『パタリロ!』で読んだときには大笑いしたやつもあるんだが、こんなふうに細切れに並べられると、ただただ寒いだけである。魔矢峰央のダジャレがとくに定性的に寒いわけではない。寒いという人もあろうが、おれは好きだ。だが、あれはやはり『パタリロ!』の呼吸の中でこそ活きるのだろう。笑いというのは、そういうもんだ。ホラーコミックのとりわけ怖いページだけを抜き出してきて、「これはこんなふうに怖い」と文章で解説したところで、なにが怖いものか。この本は企画ミスですな。パタリロファンにとっては名場面集(?)として価値があるだろうけど、それだけのものでしょう。
 おれがこの本の中でいちばん好きなのは、「早起きは16文キック」ってやつだ。うっかりすると、ピタゴラスの定理を自力で導いた幼き日のガロアのように、おれも独自に同じネタを思いつき、トップページの「今月の言葉」に使ってしまったかもしれない。ネタがかぶらないようにするためだけにでも、この手の本で勉強する意義はあるだろう。ダジャレの道は厳しいのだ。

【8月8日(日)】
▼寝つかれないので、朝方寝酒を飲む。グラスにアイスキューブをひとつずつ入れてゆくと、カラン、カランという音が、ド・シ・ラ・ソ・ファ・ミ……に近く聞こえてびっくり。偶然、そういう大きさの氷を順番に入れていったのだろう。キューブだからほぼ大きさは揃っているはずだが、微妙な大きさのずれが長音階に近いものを生み出したようだ。正確に計算して氷を作り、パーティーなどで披露したらウケるんじゃなかろうか。音痴ばっかりのパーティーだとやり甲斐がないのでご注意を。
▼最近、“ムンドゥムグごっこ”に凝っている。相手がSFファンと見ると、見境なしにやりはじめるから困ったものだ。「なんだ、それは?」とおっしゃる方は、『キリンヤガ』(マイク・レズニック、内田昌之訳、ハヤカワ文庫SF)をぜひぜひお読みください。まだ今年は五か月残っているが、どう転んでも今年出たSFのベスト5、このままぱっとしたものが出なければベスト3には入るだろう名品である。非常に重層的な解釈と思索を喚起する傑作で、少々科学に疎い人でもなんの苦もなく読める。口あたりのいい重ーいものを食ったような読後感は、否が応でも読者に反芻を迫ってくるだろう。いま「大贋なんでも伝言板」というところが、この作品に関するさまざまな解釈で盛り上がっている。既読の人を対象にした掲示板なので、ネタを割られるのは厭だという方は『キリンヤガ』を読んでから見に行ってね。
 で、その“ムンドゥムグごっこ”というのはですな、やりかたは簡単だ。だしぬけに「今日はきみたちに□□□な○○○(動物の名がよい)の話をしてあげよう」と話をはじめて、わけのわからない寓話を適当にでっちあげて語る。“キリンヤガ”(山の名)、“ンガイ”(神の名)、キクユ族、マサイ族などの単語を混ぜると、もっともらしさが増す。最後に「さて、この物語の教訓がわかるかな?」と、自分も教訓なんぞ考えてはいない話の教訓を相手に考えさせるのである。「いまの話にはおかしいところがある」などと突っ込まれそうになったら、「ムンドゥムグに反論してはならない」と言えば、相手はサフ(呪い)をかけられるのを怖れて引き下がるので安心である。なんとも無責任な遊びだが、『キリンヤガ』を読んだ人相手なら、けっこう遊べる。こんな遊びをやってるから、SFファンは楽屋ウケする話ばかりしていると言われるのかもな。
 “ムンドゥムグごっこ”はアホみたいだが、『キリンヤガ』自体はたいへん格調高く面白い作品なので、誤解なさらぬよう。とくに第二話の「空にふれた少女」は泣けるねえ。これにビビッとクる人は、SFがとても好きになる素質があると言える。そういう人間のツボにハマるのだ。ぜひご一読を。

【8月7日(土)】
▼おおお。こんな幸運があってよいものか。マクドナルドのスクラッチくじで、コカコーラのSが当たった。むごたらしいばかりにくじ運の悪いおれ(99年7月15日の日記参照)にしては、異例の大当たりである。しかし、このスクラッチくじは、バリューセットのL・Lにだけついてくるのだから、すでにおれはコカコーラのLを飲んでいるのだ。当たったコーラは密閉容器でくれるわけではない。持って帰ったりしていては気が抜けてしまう。では、次回当たりくじを持ってきて使うか? いや、おれはいつも軽い昼飯にはL・Lセットを注文する。Sのコーラでは、昼飯には飲み足りないにちがいない。うーむ、よく考えたら、こんなものが当たっても使いみちに困るではないか。しかたがないので、その場でSのコーラをもらって飲んでしまう。げふっ。
 じつは、最近妙にコーラが好きになってきて、ビールの代わりにコーラを飲んでいるようなありさまなのである。ビールだと眠くなるから厭なのだ。おれは外見とは裏腹に常時緊張しがちなので、努めて弛緩するようにしていなくてはならない。だが、弛緩しなければならないと強く意識しすぎるのは、それすなわち緊張であって、考え出すとわけのわからないループにはまり込んでしまう。頭脳は常に緊張し、身体は常に弛緩している状態が望ましい。そういう状態をなんとか保ちたいといろいろやってはいるが、言うはやすし行うはきよし。むかしの人は穿ったことを言う。
 こういう体質の人間は刺激物は避けたほうがよいのだろうが、あんまりぼーっとしてどうしようもないときは、ついついクスリに頼ってしまう(といっても、コーヒーやコーラやエスタロンモカくらいだが)。おれはまちがってもモルモン教徒にはなれまい。
 文化を“覚醒剤系”“麻薬系”とに分ける考えかたがあるようだが、おれは本来両刀使いだ。ハイな状態が好きなのだ。面白いことに、アルコールでハイでなっているときと、カフェインなどでハイになっているときとでは、湧いて出てくる想念の方向性がちがうような気がする。どうちがうかと言われても困る。なーんとなくだが、アルコール型の発想は醒めてから思い返すとあまり面白くないが、カフェイン型のそれは醒めてからでもいじくりまわすと“使える”やつが多いように思う。ただし、アルコール型にはたまーにぶっ飛んだやつがあって、そういう“当たり”はカフェイン型より破壊的パワーがある。あくまで、おれのきわめて主観的な印象だよ。どなたか、ここいらへんを科学的に研究して“薬物発想学”かなにかを創始してくださらんかな。
▼今週の『ウルトラマンガイア』(TBS系)は、平成ウルトラマンのお約束どおり、我夢藤宮がウルトラマンであることが周囲の人々にあきらかになった。そろそろ大詰めである。石橋けいの出番も多く、個人的には嬉しい。
 さてさて“ガイア突っ込みアワー”だ。今回の“魔人”が身体のまわりに張りめぐらせているバリアを分析したチーム・ファルコンの米田リーダー、それが「特殊な電磁波」であることを知る。はて、電磁波だとわかったのなら、特殊も一般もへったくれもなく、それはどこまでもひたすら電磁波だろうと思うのだが……。“特殊な波動”とか“特殊な力場”とか言うんならわかるけどね。子供にわかりやすくするための意図的な工夫だと好意的に解釈することもできるが、いままでにも“反物質”だの“シュレーディンガーの猫”だの“ワームホール”だの“モノポール”だの、さんざん子供向けとも思えぬ用語を使いまくってるんだから、そんなこといまさら気にする必要もないだろう。しかもこの“特殊な電磁波”、魔人の眼だけは覆うことができないのだという。器用な電磁波やな。眼だけ覆わないようにするほうが、よっぽど難しいだろうに。
 さらに重箱の隅をつつくと、米田リーダーが魔人を分析していたとき、モニタにその“特殊な電磁波”とやらが英語で表示された。special electromagnetism wave はないだろう。それを言うなら、special electromagnetic wave だ。“電磁波”なんて、べつに意味領域に大きな幅がある言葉でもなく、外国語と日本語とが一対一で対応する。要するに、辞書引きゃ誰にでも訳せる言葉だ。なにをどうすればまちがえることが可能なのか不思議である。ほんの0.5秒ほどしか映らない画面だけど、子供はこういうのよく見てるからねー。録画していればスチルで見ることもできる。気をつけたほうがいいと思う。

【8月6日(金)】
▼冷蔵庫を買う――っつったってあなた、コンビニで見つけてむらむらと買いたくなりビニール袋で提げて帰ったわけではなく、電器屋が持ってきたのである。99年7月20日の日記で、「そろそろガタがきているから、一、二年のうちになんとかしてくれと母に言われているのだ」などと呑気なことを書いていたら、霜だらけになって小便を垂れ流すようになった。冷蔵庫が壊れてなにが困るといって、納豆がすぐ悪くなってしまうのが困る。由々しき事態だ。むちゃくちゃに痛い出費であったが、いたしかたないので新しいのを買うことにした。あまり安物買いの銭失いになってもまずいが、とにかく金がないから、最近流行りのパーティションだらけの新型などには目もくれず、安くしてくれる近所の電器屋でサービス品の松下製を買った。“モーターもの”に松下ってのはいささか抵抗がないでもないけれども、背に腹は代えられぬ。十年くらい保ってくれれば、そのうちに多少金回りもよくなるだろう(悪くなっているかもしれんが)。これで、わが家から東芝製品は完全に姿を消してしまった。べつにボイコットしたわけじゃなく、ひとりでになくなってしまったのである。それにしても、おれが二十年間使っている日立のテレビがまだ映り続けているのには、ありがたく思いつつも、半ばあきれるな。こんなもの作ってて商売になるのか?
毎日新聞中部本社発行の朝刊に掲載されたコラム「一語一話」「憂楽帳」の計十篇が、朝日新聞「天声人語」を盗用してたって??? ぎゃはははははははははは。よりによってライバル紙の看板コラムから盗用するとは、執筆者はいったいなにを考えていたのだろう? なんにも考えてなかったんだろうな。そりゃまあ、毎日毎日気の利いたエッセイを書いて金をもらうなんてのは、想像を絶する苦行にはちがいない。日記を書くのとはわけがちがうのだ。だからといって、ここまで恥知らずなことをするかね。同じ時期に書かれたコラムが多少似てしまってもいたしかたないだろうが、わざわざ一九七四年・七五年の「天声人語」を流用するとは、明白な破廉恥行為である。パクったのはもちろん恥知らずだが、「むかしの記事ならわかるまい」と、読者に対する侮りが見えみえなのが輪をかけて不愉快だ。
 などと言ってはみたものの、たしかに二十四、五年前の「天声人語」と似ているなどと指摘してくる読者がいようとは、ふつー思わないよなあ。「天声人語」怖るべし。読者、さらに怖るべし。天声人語と言おうか天網恢々と言おうか、悪いことはできないね、まったく。おれ個人は、べつに「天声人語」がそれほどの名文だとは思わないのだが、試験に出るからとまとめ読みしているやつは学生時代にけっこういたよ。それどころか、和英対訳版で勉強しているやつすらいた。あいつらいまごろは、さぞやすごいエッセイストになっていることだろう。新聞で流し読みしたものは忘却の彼方に飛び去っても、書籍として読んだものはけっこうよく憶えていたりするから、盗用を見破った人も、案外「天声人語」を“勉強”したクチなんじゃなかろうか?
 毎日新聞がむかしの朝日新聞を盗用したってのもさることながら、このニュースでおれがいちばん驚いたのは、それを発見した人がいるってことだわ。不特定多数に向けてなにかを書くというのは、げに怖ろしいことだ。“不特定多数”の中には、こういうマニアックな(?)人もいるわけである。いまから三十年後くらいにどこかの新聞コラムを読んで、「あっ。このコラムは、あの日の間歇日記と文章までそっくりだ」などと指摘してくれる人が……いるわきゃねーか。でも、けっしていないとは言えないところが、これまた怖ろしいのだよねえ。あちこちの掲示板でバカを晒して歩くのは、ほどほどにせんといかんな、おれも。

【8月5日(木)】
7月28日の日記でおれが『48億の妄想』筒井康隆、筒井康隆全集2・新潮社所収)に触れたせいではないと願いたい。だが、山梨県の民家に自動車が突っ込んだ事件は、どう見たって『48億の妄想』の冒頭ではないか。重傷者も出ているし、不謹慎だとは思うのだが、突っ込んできた車を半壊した民家の中から撮った写真を『ニュースステーション』(テレビ朝日系)で見たとき、どうしようもない既視感に襲われた。『48億の妄想』では、煙草屋の一家がテレビを観ながら、ニュースが難しい、もっと面白くしろ、事故で子供を死なせた母親の悲しみかたが陳腐だなどと、突っ込みを入れているところにダンプカーが突っ込んでくるのである。
 まるでフィクションのような事件だなあと人ごとのように(人ごとなのだが)ニュースを観ているうち、妙なことに気づいた。これはしたり、家に車が突っ込んでくるという事態に、おれはまったく恐怖を感じていないではないか。もう少し、明日はわが身と感じられないものか? はて、これはいったいなぜだろう? 理由は簡単であった。いまさらのように考えてみると、おれが地面とほぼ同じ高さ(つまり一階)で生活したのは、人生のうちほんの二、三年でしかないのだった。あとの三十数年は、ほとんどアパートや団地の二階か三階で暮らしている(おれは借家にしか住んだことがない)。早い話が、空中で寝起きしているわけである。ゼロ、ゼロ、エーイト(エーイト!)と思わず口ずさむ。どうも地に足が着かない人生のような気はしていたのだが、なるほど、事実そうであったか。
 待てよ。するとおれは、ずっと一階の高さで暮らしている人に比べて、ほんの少し速く歳を取っているはずだ。なんだかとても損をしているような気になってきた。もっとも、地上人たちは、今日の事件のように車が突っ込んでくるリスクを負っているのだから、おれのほうが得をしているとも考えられる。とはいえ、安心しているわけにもいかない。なにしろ、旅客機を「おれに操縦させろ」などというやつが現われるくらいだから、おれの部屋に飛行機が突っ込んでこないともかぎらない。いやいや、そればかりではない。テポドンが突っ込んできても不思議はないのだ。
 現代人には、おれみたいな人はけっこう多いんじゃなかろうか。むしろ多数派であろう。空中で生まれ、空中で暮らし、空中で働き、空中で老いて死ぬ。あとは『空中墓地008』ができれば完璧である。
『グローリー・シーズン(上・下)』(デイヴィッド・ブリン、友枝康子訳、ハヤカワ文庫SF)を買う。もちろんまだ読んじゃいないが、男性がほとんど排除され女性のクローンが覇権を握る、閉鎖的な家母長制社会の惑星が舞台だと書いてある。どうやらジェンダーをテーマにした話らしい。なかなか面白そうだなと思いつつ、下巻・裏表紙の“アオリ”を読んでちょっと頬の筋肉がとまどった。こ、ここは“笑うところ”なんだろうか――「巨匠ブリンが雄渾の筆致で綴る感動のSF巨篇」
 うーむ。なんか、わざとやってるような気もするよな。ともあれ、ハヤカワ文庫では久しく雌伏していた感の強いブリンだけに、楽しみに読むことにしよう。

【8月4日(水)】
▼おやおや? 夜、この日記にアクセスしてみると、カウンタの数字が百番台になっている。おいおい。今日、二十四万を超えたはずだぞ。もしかすると、不正アクセスによる改竄か? なにしろ、セキュリティー製品の大手シマンテックのサイトですらクラッカーに改竄される世の中だ。なにが起きたって不思議ではあるまい。
 とりあえず、あわてて復旧したりはせず、状況を京都iNETにメールで報告した。故意の破壊行為であるとすれば、同一サーバ上のウェブページはみんな危ないということになるからだ。もし故意にカウンタが破壊できるセキュリティーホールがあるのなら、内容の改竄だってできるかもしれない。
 二、三日はこのままにせざるを得ないかなと思っていたら、すぐに技術担当者から返事がきた。初心者がいかにもやりそうな“あるミス”(よからぬことを考えるやつが出ないともかぎらないので詳しくは書かない)をやったのではないかとの指摘だったが、おれはうっかり者なので、自分がいかにもやりそうだと想定できるミスに対しては、極力フールプルーフの手順や機構を設ける(あるいは、設けないことでフールプルーフにする)ことにしている。機械は信用できない。おれの脳は機械だ。よって、おれの脳は信用できないのだ。しかし、逆説的だが、信用できないと認識することで機械の信頼性は上がる。自分の脳を信用しすぎるのは、尻の青い子供か耄碌した年寄りの悪いところだ。
 おれがそのフールプルーフを説明し、原理的にそのミスではあり得ない旨を書き送ったところ、またしばらくして返事がきた。夜間だというのに、京都iNETの対応はやけに早い。たいしたものである。納得して調べてくれたのだろう。昼ごろ、サーバにほんの一時的にトラブルがあったということだ。運悪く、その少しのあいだにおれの日記にアクセスがあったため、カウンタがリセットされてしまったらしい。ゼロからカウンタが上がったぶんの数値と、平日のこの日記へのアクセス数とを照らして考えると、たしかに昼ごろリセットされたらしいと推定はできる。まあ、不正アクセスでなくてよかったことだ。仕様上の弱点は、早急に改良するとのことである。むかしは京都iNETは不親切だという話をよく人から聞いたものだけれども、最近はサービスの質も向上しているようだ。
 一応原因がわかったので、カウンタの数値に二十四万を上乗せしてこちらで復旧した。百〜二百は損したかもしれないが、べつにアクセス解析を厳密にやっているわけではなく、カウンタは読者数概算のための目安だから、さしたる実害はない。
 今日、カウンタが百番台に戻っているところを見た方々は、“あたり”だということにしておこう。運がついているうちに宝くじを買うといいかもしれない。もっとも、こちらで当たったためにすでに運を使い果たしていても、当局は一切関知しないからそのつもりで。

【8月3日(火)】
▼テレビ局で働いていると痴漢がしたくなるのだろうか? 秒刻みの仕事が多く、想像を絶するストレスが溜まるからだろうか。あるいは、女子アナだのタレントだの、そそる女性ばかりが職場をうろついているため、不必要に性欲が昂進するのか。はたまた、いまだ解明されぬ電磁波の影響でもあるのだろうか。
 しかし、原因不明の職業病で痴漢がしたくなるのであれば、どの局もまんべんなく痴漢を輩出していてもよさそうなものだが、なぜにTBSばかりから次々と痴漢が出る? 不思議な放送局である。そりゃあ、おれも男だ。秋沢淳子有村美香の尻のひとつも、できればふたつも、撫でてみたいと思わないでもない。自社の社員の尻を撫でるわけにはいかないので、外に捌け口を求めてしまうのだろうか。そんなアホな。
 おれは痴漢をやったことがないのでよくわからないのだが、ふと「触ってみてえなあ」などと思うときはある。そう思っているときの心理を内省してみると、対象を“物体”として見ているのに気づく。つまり、雄としてのおれの本能に訴えるなんらかの物理的刺激を発している雌に注目している状態である。風呂上がりに目の前にビールが置いてあるような感じだろう。ここまではおれにもよーくわかる。わからないのは、ここから先である。対象がどういう人間かまったくわからない場合、触って楽しいのだろうか? 「この女性に触りたいな、抱きたいな」とおれが思うとき、「おれの知っているこの女性が、セックスのときにどんなふうになるのか見てみたい」という知的好奇心のようなものが、最大のドライヴとして働いているように思う。相手が物体であれば、そういう好奇心は感じないであろう。ビールが飲みたいってのとは、かなりちがう欲動だ。ビールを飲むように女性に触るだけなら、ちっとも猥褻じゃない。猥褻じゃないその程度の行為に、社会的生命を賭してまで挑む痴漢という人々の心理が、おれにはよくわからないのである。痴漢の人たちは、知らない女性を、ただ触るだけで満足できるのだろうか? 交接はしてもセックスはしないタイプの人々なのかもしれん。
 大阪の駅や電車の中には「痴漢は犯罪!」97年6月3日の日記参照)という、ものすごいポスターや車内吊り広告がある。なるほど、そのとおりだ。痴漢は犯罪である。犯罪だが、ちっとも猥褻ではない。おれは犯罪より猥褻のほうがはるかに好きだ。痴漢が楽しいというのは、性欲が幼稚なのではなかろうか?
 余談だが、先日近所の本屋に入ったら、「万引きは犯罪です」と書いた札が平積み台に立ててあった。じつに教育的なことである。「えっ、そうだったのか!」と驚きあわてて、青少年たちはたちまち万引きをやめることであろう。「殺人は犯罪です」というポスターをそこいらに貼っておいたら、きっと殺人が激減するにちがいないぞ。みんな、ママや先生に教わらなかったんだよ、きっと。

【8月2日(月)】
▼おれが「スカイメロディ」の曲を腹の中でうっかり貶してしまったせいだろう。ツーカーセルラー東京ツーカーセルラー東海ツーカーホン関西の三社がDDIに買収されることになってしまった。日産自動車が携帯電話事業から撤退するためで、他のデジタルツーカー六社の株式も日本テレコムに渡る。大きな声では言えないが、おれがちょっと「不快だ」と思うだけで、いままで五十四人中、五十三人が謎の死を遂げているらしい。ひとりだけ助かったやつは、現在、ある施設に収容されているが、来る日も来る日も「か、カエルが……カエルの大軍がぁーっ!」などと意味不明の譫言を言い続けているそうだ。かわいそうに。われながら怖ろしい能力である。
 ツーカーがどこに買収されようが、サービスが続けば文句はない。業界再編がユーザの好ましいほうに進むことを望む。値上がりでもしようものなら、DDIの社長はカエルに気をつけたほうがいい。おれは判官贔屓のところがあるので、NTTのひとり勝ちみたいな状態が気に入らない。まあ、なんの世界でも、勝ってるやつには勝ってるだけの理由があるんだけどね。どうもなんというか、2足す2が4になるとわかっていて、2に2を足してみて、やっぱり4になったーみたいな感じで勝っているやつを見ると、奇妙な苛立ちを覚える。「それでおもろいか?」と思ってしまうのだ。勝つことよりも、おもろいことが優先しているわけで、こういうやつはまず出世しないし、一生苦労する。苦労するというのは語弊があるな。客観的には苦労しているように見えるのだが、本人はそれが“おもろい”のである。おれは、手段のためには目的を選ばない。なんとなれば、人生には“目的”などなく、それはただ一日一日の“手段”の集積でしかないからだ。手段がつまらない人生は、すなわち、つまらない人生である。とくにこの国は、夏のあいだ身を粉にして働いたアリの多くが、冬に腹を空かせて凍え死ぬようにできている。キリギリスにならなくては損ではないか?
 でも“ツーカー”という名前は惜しいな。秀逸なネーミングだ。かっこいい。なんでもかんでも英語にしてしまう昨今、これ以上日本的にはできんというくらい日本的なネーミングである。DDIに於かれては、なんらかの形でこの名前を残していただきたいものだ。
 さてさて、文字どおり三つ巴の決戦となる携帯電話業界、近い将来の巨大な市場を得るため、巨大な設備投資の血をだらだら流しながらの三系列の死闘が続くことだろう。電話会社の人はたいへんだなあ。テレビ・コマーシャルは、もちろん J-PHONE がいちばん好きなんだけども。

【8月1日(日)】
ツーカーホン関西も、着メロを電子メールで配信する「スカイメロディ」なるサービスを今日からはじめるというので、一応試してみる。といっても、おれは外にいるときにはほとんどバイブ設定にしている。電話を鞄に入れずに身につけて歩くから、べつに不便はない。電車の中などでピーピー鳴るのがあまり好きではないのである。おれが着メロをオンにしているのは、いかに素っ頓狂な着メロが鳴ろうともそれが茶目っ気になるようなカジュアルな場にいるときか、家に帰ってケータイを身体から離しているときくらいのものだ。
 なのに、着メロ遊びなるものには、なぜか惹かれる。携帯電話やPHSのちゃちな音源から、精一杯“らしく”聞こえるようにアレンジされた曲が流れてくるさまは、なかなか健気でよい。制約の中からこそ生まれる、一種俳句のような趣すらある。最初のころは、使いもしない着メロをせっせと音を探しながら入力して遊んでいた。着メロの本もよっぽど買おうかと思っているのだが、おれが着メロに使いたくなる(というか、一度は入力してみたくなる)ような曲は、まずそういう本には載っていそうにないので最初から諦めて、よく調べもせずに本を買わずにいるのである。さいとうよしこさん、ごめんなさい。
 しかし、自分で入力しているといらいらしてくるのはたしかである。とくに、スタッカートがうまくいかない。おれの持っている機種は、八分音符、四分音符、付点四分音符、二分音符、付点二分音符の五種類しか使えず、休符も二・四・八だけだ。なかなか思ったような曲になってくれない。どんな曲も、みょーにまぬけだ。どうも、スウィング感に欠ける(そんなものを出そうとするなよ)。おれはよく知らないのだが、十六分音符が使える機種ってのはあるんだろうか。あるんだろうな。ほとんど着メロのためにケータイやPHSを持っているような人っているらしいからね。PHSは、とりわけすさまじそうな気がする。
 先日、ケータイをいじっていてふと思い立ち、Lullaby of Birdland の冒頭をなんとか入力してみた。着メロにちょうどよいと思ったのだ。…… Never in my wordland could there be ways to reveal in a phrase how I feel. で、また同じメロディを繰り返すでしょう? 音は合っているが、リズムがまぬけだ。これはもう少しいじくりまわして、極力それらしく聞こえるようにアレンジしてみることにしよう。
 それはともかく、スカイメロディである。まず「古畑任三郎オープニング テーマ」(曲名が正しいかどうかは知らない。ツーカーのサイトに書いてあったのだ)ってのを受信して聴いてみた。まぬけだー。着メロとしては選曲が悪いな。「ミッションインポッシブルのテーマ」なんてのもある。言いかたが好かんな。やっぱ『スパイ大作戦』じゃないとなー。これはまあ、そこそこ使えるかもしれん。「スターウォーズ ダースベーダーのテーマ」ってのは、どんな曲だっけ? おれは『スター・ウォーズ』には、さほど興味がないのだ。それでも『スター・ウォーズ』に中黒がないのはけしからんなと思いつつ、落として聴いてみる。ああー、あれか。SFファンがよく歌詞をつけて唄っている「帝国はー、とてもー、強いー」だな。おれ、あの歌詞つきヴァージョン(?)を全部聴いたことがない(そもそも全部歌詞がついてたっけな?)もんで、ご存じの方は機会があったら唄って聴かせてね。


↑ ページの先頭へ ↑

← 前の日記へ日記の目次へ次の日記へ →

ホームプロフィール間歇日記ブックレヴューエッセイ掌篇小説リンク



冬樹 蛉にメールを出す