ギリシアの花の神で、ニンフのエーコーの水たまりに映った自身の姿に見とれて死んだ。春の植物の成長を司る神としては、ディオニューソス(アンテウス)の異形である。ディオニューソスは,魔法の鏡mirrorつまり霊魂を捕える水のニンフが住んでいる、物の姿を映す水たまりでティーターンに捕えられた[1]。ひとたび霊魂が捕えられると、神は死ぬが、やがて春の花のように、再び甦る。水に映った自分の姿に焦がれて死ぬナルキッソスの古代ギリシアの神話は、春の季節に行われる「花神祭」Heroantheiaのときに、人間の生贄を捧げるという古い物語を、想像力豊かに作り変えたものであった。
Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)
ナルキッソスの-イッソスも、ヒュアキントスの-イントスと同じく、クレータ系の語尾であるから、ナルキッソスもヒュアキントスもクレータの春の花の英雄の名前である。他の地方では彼はアンテオス(「花のような」)と呼ばれるが、これはディオニューソスの異名である。(グレイヴズ、p.415)
-ss-、-nth-/-nd-という二つの接尾要素に注目して、これの頻出するヒッタイト族、ルウィ族などの印欧語族アナトリア語派の民族移動について、次のように推測されている。
まず〔印欧11語族の中で最も早く移動を開始した〕ルウィ族が、南口シアから黒海東岸のクバン地方、次いでカウカスス山脈の西部の峠を越えて、おそらく前三千年紀の終りごろ、メソポタミアの文明世界の北の果てに姿を現した。まっすぐに南に下ることは、そこにいるフルリ人、またその南のアッシリア人の抵抗が許さなかったので、抵抗の少ない西南方向に向かい、この半島の第一の大河キズィル河の流域の原住民ハッティ族を征服した。そしてその間、すでに古くからメソポタミアの都市文明の影響を強く受けて開化されていたフルリ民族から多くの文化的影響を被った。
ところでルウィ族のあとには、これとはごく近い関係にある同じ印欧系のヒッタイト族が控えていた。そして跡を迫って同じ道を迫って、キズィル河の流域に迫ってきた。ヒッタイト族とルウィ族との間には、争闘があったであろう。そして最後の勝利者となったヒッタイト族がやがてハッティ王国を建てることになる。
さてルウィ族は、追われてタウルス山脈沿いに移動して行き、やがてエーゲ海に達して、半島の西南部にアルツァワ国を建てることになるが、しかし敗者ルウィ族の全人口が西南へ移動してしまったわけではない。相当数の者がキズィル河の流域にとどまって、原住民のハッティ族とともにヒッタイト族の支配に服した。象形文字の言語は、ヒッタイト王国の庶民層を形成したこのルウィ族残留民の言語であったのである。
さてルウィ族は、西南の海岸に国を建てたにとどまらず、さらに海に出て、エーゲ海の島々やギリシア本土にも活発な植民活動を行なった。その痕跡こそ、エーゲ海域のいたる所に見出される-ss-、-nth-の接尾辞を含む地名である。そしてそれらのルウィ人は、やがて、バルカン半島を南下してきたギリシア人と接触を持つことになる。クレータ線文字Bの解読の結果読めるようになったクノーソス文書やミュケナイ文書の中には、明らかにルウィ語またはリユキア語風の人名が認められるのである。(岸本通夫「印欧語族の移動とヒッタイト王国の擡頭」p.171-172)
画像は、 越前越廼(こしの)村で栽培されている ナルシッサスと呼ばれる水仙の原種。ナルキッソスの時代の姿をとどめていると考えられる。