「生贄として女神ヘーラーHeraに捧げられた男性」をさしたギリシア語。この語の起源は、おそらく、サンスクリット語ヘルカHeruka(「知識をいだいている神」)にあり、それが、供犠の死をとげる神としてのヘル〔ヘル〔ホルス〕Horus〕-ウシル〔オシーリスOsiris〕をさす古代エジプト語ヘルHeruまたはハラクティHarakhtiを経て、ギリシア語に取り入れられたものと思われる[1]。
ギリシアの五月祭は、エーロアンティアhjroavnqia(「英雄が花開く祭」)と呼ばれた[2]。この場合の「花」は、豊穣をもたらす英雄の血をさした。英雄の血は、赤または紫の花で表され、聖書の中で経血をさすのに用いられたFlowersと同じ言葉で表現されていた(『レビ記』第15章 24節)。したがって、五月祭の英雄は、花の神(ナルキッソスNarkissos、ヒュアキントスHyakinthos、アドーニスAdonis、あるいはアンテウスAntheus)だったのである。これらの花の神たちは、本来は同じ1柱の神であり、その神は、アプロディーテーの愛人だったことから、ときにはナーマン(「いとしい人」)と呼ばれた[3]。
Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)
『レビ記』第15章24節
And if any man lie with her at all, and her flowers be upon him, he shall be unclean seven days; and all the bed whereon he lieth shall be unclean.
ここで「flowers」を使っているのは、欽定訳(それも、欽定訳のみ)である。バーバラ・ウォーカーの所説は、これのみを根拠としている。
天理教の教祖・中山みきは、月経の不浄観に挑む。
それそれ、あの南瓜や茄子を見たかえ。大きい実がなっているが、あれは花が咲くで実が出来るのやで。花が咲かずに実のなるものは、一つもありやせんで。そこで、よう思案してみいや。女は不浄やと、世上で言うけれども、何も、不浄なことありやせんで。男も女も、寸分違わぬ神の子や。女というものはな、子を宿さにゃならん、一つの骨折りがあるで。女の月のものはな、花やで。花がのうて実がの〔ママ〕ろうか。よう、悟ってみいや。南瓜でも、大きな花が散れば、それぎりのものやで。むだ花というものは、何んにでもあるけれどな、花なしに実るという事はないで。よう思案してみいや。何も、不浄やないで。(『天理教教祖伝・逸話編』)
経血と花との観念連合は、例えば、つげ義治の『紅い花』にも見られる。