ディオニューソスは、他のさまざまな救世主神と同一視されたが、同時にまた、バッカス、ザグレウス、サバージオス、アドーニス、アンテウス、ザルモクシス、ぺンテウス、パーン、リーベル・パテール、「解放者」とも呼ばれた[1]。ディオニューソスのトーテム獣はピューマpanther(牧神パーンの獣Panthereos)であった。また彼のエンブレムはテュルソス、つまり男根の形をした笏杖で、てっぺんに松かさがついたものであった。彼に仕える巫女たちは狂乱のうちに飲み騒ぐ女性たちで、酒に酔い、裸になり、肉を食らい、血を飲んで、ディオニューソスの狂宴を張った。
ディオニューソスは粗野なブドウ酒の神、ブドウ酒醸造の発明家、とされることが多い。しかしディオニューソスはそれ以上の神であった。彼はキリストの原型であった。中東地方のほとんどすべての主要な都市にもあったが、ディオニューソス崇拝の中心地はエルサレムであった。プルータルコスは、ユダヤ人の仮庵の祭りはディオニューソスを祝って行われるものである、と言った。「安息日の祭典はディオニューソスの祭典と全く無関係ではないと思う」[2]。ユダヤ人がブタ肉を食べないのは、彼らの神ディオニューソス-アドーニス(神ディオニューソス)が雄ブタに殺されたからである、とプルータルコスは付け加えた。紀元前1世紀頃、ユダヤ人自身が、ディオニューソスをそのプリュギア名ゼウス・サバージオスの名のもとに崇拝している、と言った[3]。
タキトゥスによると、ディオニューソス・リーベルは昔はエルサレムの神であったが、ディオニューソスに比してその特徴が魅力の薄い別の神が取って代わってしまった、という。「リーベル崇拝はお祭り気分の楽しいものであったが、ユダヤ人の宗教は味もそっけもないものである」[4]。ディオニューソスとエホヴァは、 5世紀においては、事実、貨幣の裏表を飾っていた。ガザ近くで発見された貨幣は一方にディオニューソスの、他方にひげをはやしたJHWH (エホヴァの意)という表示のしである人物像が見られた[5]。
レバノンでは、ディオニューソスは化身してアムペロスとなった。美青年であったが、雄ウシに八つ裂きにされ、ブドウの木として再生した。キオスでは、ディオニューソスに仕えたマイナスたちに殺された人々の血が、ブドウの木を実り豊かにするのに用いられた。オルコメノスでは、三相一体の女神がディオニューソスの儀式に「3人の王女たち」として現れた。この女神は男の子を引き裂いて、食べてしまった(大地が生贄の血を吸うことを表す)。テーバイにおいては、ぺンテウスという名前の王がディオニューソスの儀式にあえて反対した。それは、おそらくディオニューソス的な神王たちのように死にたくなかったからであったと思われる。しかしぺンテウスは、自分の母親(あるいは母神)が引き連れた女たちに、ずたずたに引き裂かれ、その頭は母親にもぎ取られてしまった[6]。のちには、テーバイにおけるディオニューソスの儀式は、ぺンテウスという名前を仔ジカにつけて、それを殺して食べることが中心になった。そしてマイナスたちは仔ジカの皮を身に着けた。ディオニューソスのリュディアにおけるトーテム獣はキツネのパッサレウスであった。このパッサレウスが中世のキツネのルナールの祖となったのである。そこでマイナスたちは自分たちは自分たちのことをバッサリスと呼ぴ、キツネの皮を着衣とした[7]。
こうした伝説は、他と比較すると暗い感じがするけれども、ディオニューソスが救世主の典型であることがわかる。最初の、最も原始的な救世主であり、また、大地と女性の子宮に豊穣をもたらす血を与えるために殺され、そして食べられた王でもあった。それから、身代わりの王でもあり、有罪とされた罪人でもあり、くじで選ばれた若者でもあった。そして更に、人間の代わりになった動物でもあり、しまいには、パンとブドウ酒として貧り食らわれる「肉」であり、「血」ともなった。このパンとブドウ酒は、ギリシア・ローマ神話では、エレウシースにおいてディオニューソスを祀るときに聖餐用として用いられたものであった。
パレスティナにおいては、ディオニューソスはノアと同一視された。聖書にいちばん先に出てくる太祖で、酔っぱらったあのノアである(『創世記』 9 : 21)。ノアのギリシアにおける添え名はデウカリオーン(「しぼりたてのブドウ酒の船乗り」の意)で、ヘレニック以前の神話における洪水伝説の主人公である[8]。ディオニューソスはまたアダムに相当する人物で、父なる天界と母なる大地(ゼウスとデーメーテール)の子であった。彼は他人の罪をあがなうために自分の血であるブドウ酒を献じて、八つ裂きにされた[9]。彼は、のちに、オルペウスOrpheusに化身したが、オルぺウスは有名なオルペウス教秘儀の中心人物で、やはり生贄となった神であり、マイナスたちに八つ裂きにされた。プロクロスは「オルペウスはディオニューソスの儀式の中心人物であったために、ディオニューソスと同じ運命に遭ったと言われている」と言った[10]。
オルペウスは救世主としては3世代目に当たる人物で、ディオニューソスがその聖なる父ゼウスと同一視されたと同じように、オルペウスは彼の聖なる父ディオニューソスと同一視された。したがってゼウス、ディオニューソス、オルペウスとなり、オルペウスは3代目に当たるのである。ディオニューソスは、天界の父の玉座につき、電光の笏を振りまわして、王の中の王、神の中の神、と呼ばれた[11]。彼はまた神がみごもらせ、処女が生んだ「油を塗られた者」(クリストス)であった。彼の母親は三相一体の女神のそちの3つの相全部、すなわち、大地母神、冥界の女王ペルセポネー、月の乙女セメレー、であったと思われる。彼が木に吊された、あるいは、十字架刑の儀式を受けたと思われるのは、その供犠のときの添え名がデンドリテス(木の若者、の意)であったからである[12]。彼はまた、雄ウシ、雄ヤギ、雄ジカといった姿の「角のある神」でもあった。
ギリシア・ローマ神話によると、ディオニューソスは手足をばらばらに切り裂かれたが、ティーターン神族〔へレニック以前の大地の神々〕の攻撃をかわすために、素早くそうした動物につぎつぎと変身したのであった。しかし、ティーターン神族は、結局、彼をつかまえて、八つ裂きにし、食べてしまった。ディオニューソスが鏡に映る自分の姿に見惚れている間に、ティーターン神族は彼の霊魂を鏡の中に閉じこめてしまった。ディオニューソスは、この意味で、春の花の神であるナルキッソスと同じである。ディオニューソスはさまざまな人物に変身したというが、ナルキッソスもその1人であった。パウサニアースによれば、ティーターン神族をディオニューソス受難の張本人だとしたのはオノマクリトスであったが、こうした古い仔細についてはオルギア〔古代ギリシアの、ディオニューソスなどを崇拝するために行われた秘教的儀式〕は無関係であった。おそらく、ディオニューソスの最古の姿の1つはディオニューソス・メランアイギス(黒いヤギ皮のディオニューソス、の意)で、マルシュアスのような贖罪のヤギ-サチュロスであったと思われる[13]。ディオニューソスは、昔から、黒いヤギの皮を着ていたと言われていたが、そのために、中世のキリスト教徒たちは悪魔はいつも黒いヤギの姿をして現れる、と考えた。
エレウシースがディオニューソス出現の地とされたが、そのときディオニューソスは聖なる新生児として箕の籠liknonの中に入っていた。このことのために、ディオニューソスはディオニューソス・リクニテスと呼ばれた。彼の揺鑑であるこの聖なる物は、リクノポロスliknophoros (駕籠かき、の意)と呼ばれる特別な役人が、その行列のときに、かついで運んだ[14]。この箕の籠というのは、乳児イエスが入っていた飼い葉桶の原形であった。穀物神はすべてその肉体をパンの形で食べられるものであったが、新生児のときは、種トウモロコシを入れる容器の中に入っていた。
ディオニューソスがこの世に化身した人物として長く人々の記憶にあったのが、シラクサ(シシリー島の古代都市)の玉ディオニューソスであった。彼は、紀元前4世紀、王を生贄とする習慣を改めてしまった。自分が生贄となるときが近づくと、王はダモクレス(「征服する栄光」か、「血の栄光」の意)という廷臣を自分の身代わりとした。ダモクレスは王権のもつさまざまな特権をうらやましく思っていたので、自ら進んで王の身代わりになった、という話であった。彼はしばらくその特権を享受したが、すぐに、 1本の髪の毛で吊された剣が頭上にあることに気づいた。その髪の毛は、王、または、玉が化身している神が定期的に死ぬ運命にあることを象徴するものであった[15]。 Kingship.
Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)
1 ディオニューソスの神秘的な経歴を解く主要な手がかりは、ヨーロッパ、アジア、北アフリカ一帯にわたる葡萄の木の信仰のひろがりのなかにもとめられよう。葡萄酒は、もともとギリシアでつくりだされたものではなく、はじめはクレータ島から甕にいれて輸入されたものらしい。葡萄は黒海の南岸に野生していたが、ここからその栽培法がパレスティナをへてリビアのニューサ山へ、そしてさらにクレータへとつたわった。それはやがてペルシアを通ってインドにおよび、また琥珀(アムパー)ルートを通って青銅期のブリテン島へもひろまっていった。小アジアやパレスティナの葡萄酒祭は カナアン人の幕屋祭も、もとはといえば酒神バッコスの狂乱の祭である トラーキアやプリギュアのビール祭とまったくおなじように恍惚としておどり狂うのが特色であった。どんな地域でも、葡萄酒がほかの麻酔剤をおしのけてしまったところに、ディオニューソスの勝利があったわけである。ベレキューデース(一七八)によると、ニューサは「樹木」の意味だという。
2 ディオニューソスは、かつては月の女神セメレー またの名テュオーネーあるいはコテュットーの配下に属していて、彼女の祭のときには、生贄となる運命にあった。彼がアキッレウスとおなじく、少女として育てられたという話は、クレータ島で、少年が思春期に達するまで「暗がりで」(スコティオイ)、というのは婦人の部屋で養育されたあの慣習のことを思いおこさせる。ディオニューソスの名前のひとつにデンドリーテース(「木の若者」 というのがあって、木々がにわかに若葉をつけ、天地のものことごとく欲望に酔いしれているころ行われる春の祭は、彼の解放を祝う祭なのである。ディオニューソスを形容するのに、「角のある子ども」とだけいうのは、彼を崇拝する土地柄に応じて、雄ヤギの角となり、雄鹿の角となり、また雄牛や雄羊の角とそれぞれ変化するので、角の種別をとくに指定しなかったまでのことである。アポロド一口スは、ディオニューソスがヘーラーの怒りにふれて身をほろぽさないように子ヤギに姿をかえられたと書いているが 彼の異名のひとつに「エリボス(「子ヤギ」)」がある(ヘーシュキオスの辞典・エリボスの項) これはディオニューソス・ザグレウス 巨大な角をもった野生のヤギにまつわるクレータの信仰にふれているのであろう。ウェルギリウス(『農耕詩』第二書二二八〇−八四)が、生贄としてディオニューソスの神前にささげられる動物は、ふつうヤギがいちばん多いが、これは「ヤギが葡萄の木に噛みついてこれを傷つけるからだ」と述べているのは誤りである。アタマースがヘーラーのために狂人にされて殺したというレアルコスは、じつは雄鹿となったディオニューソスであった。トラーキアでは彼は白い雄牛となった。ところがアルカディアで。ヘルメースが彼を雄羊の姿にかえたのは、アルカディア人たちがもともと羊飼いで、彼らの祝う春の祭のころに太陽が白羊宮にはいるからであろう。。ヘルメースがディオニューソスの養育を託したヒュアデスたち(「雨を降らすものたち」)は、ここではそれぞれ「背の高いもの」、「びっこをひくもの」、「気短かなもの」、「うなり声をあげるもの」、「憤るもの」と異名がつけられて、つまり彼をまつるさまざまな儀式の様式を示しているのである。ヘーシオドスは『アラトスについて』(一七一・テーオンの引用による)のなかで、ヒュアデスたちのもっと古い時代の名前は、パイシュレー(「もれてきた光」)、コローニス(「カラス」)、クレイア(「有名な」)、バイオ(「うす暗い」)、エウドーラー(「心のひろい」) であったと書いている。ヒュギーヌスがあげているリスト(『詩的天文学』第二書・二一)も、ほぼおなじである。ニューソスとは「びっこ」 の意味で、山中で行われるビール祭のとき ぺサハ〔過越の祭〕(「びっこをひく」)とよばれたカナアン人の春の祝祭のときとおなじく 聖王がやまうずらのようにびっこをひいておどりまわったものらしい。しかし、マタリスがディオニューソスをハチ蜜で養ったとか、マイナスたちがテュルソスという蔦をまきつけたもみの枝の杖をつかっていたなどという話は、葡萄酒よりも古い種類の麻酔剤があったことを示している。なかに蔦の葉をまぜ、蜜酒で甘くした唐檜いりのビールがそれだ。蜜酒というのは、ハチ蜜を発酵させてかもしだした、つまり「ネクタル」のことで、ホメーロスの叙事詩にでてくるオリュムボスの神々がさかんに飲んでいるのは、これのことである。
3 J・E・ハリソンは(『ギリシア宗教研究の序説』第八草)、葡萄酒の神ディオニューソスというのは、ビールの神ディオニューソス またの名をサバージオスともいわれた にあとになってからつけ加えられた性格であることをはじめて指摘したひとだが、彼女はまた、悲劇ということばが、ウェルギリウスのいうようにトラーゴス「ヤギ」から派生した語ではなくて(上記におなじ)、おなじ綴りのトラーゴスではあっても、「スペルト小麦」 アテーナイでビールの醸造に用いられた小麦に由来するのではないかという新説をたてている。彼女が書きそえているところでは、古代の襲に焼きつけられた絵画にえがかれているディオニューソスの従者は、ヤギ人間ではなく鳥人間であり、またディオニューソスのもっている葡萄の籠は唐箕になっているということだ。事実、リビアあるいはクレータ島のヤギは葡萄の木にゆかりがあるとされたし、ヘラディック期の馬は、ビールやネクタルに結びつけて考えられていた。そのために後期のディオニューソスに抵抗したリュクールゴスは、荒れ狂う馬 雌馬の頭をもつ女神につかえる巫女たちによって八つ裂きにされたが、これは初期のディオニューソスの運命を物語っているわけである。リユクールゴスの話がごたごたしていて辻つまがあわないのは、彼がドリュアース(「樫」)を殺したあと、凶作のたたりがその領土全体をおおうようになったなどという場ちがいな記述のためである。ドリュアースというのは、毎年殺される樫の王のことであった。彼の手足を切りきざんだのは王の霊魂を寄せつけないためで、また樫の神木をみだりに伐採するのは死罪にあたった。コテエツトーというのは女神の名前で、エドーノス人の祭式はこの女神のために行われたのであった(ストラボーン・第一〇書・三・一六)。
4 ディオニューソスは、獅子と雄牛と蛇の三様の姿であらわれる。というのは、この三つが一年を三期にわける暦のうえでの表徴だからである。彼は、冬に蛇として生れ(彼が蛇の冠をいただいているのはそのためである)、春には獅子となり、夏至のころ雄牛かヤギか雄鹿として殺され、そしてむさぼり食われる。ティーターンたちが彼に襲いかかってきたとき彼はこの三つのものに姿をかえたのであった。オルコメノス人たちのあいだでは蛇のかわりに豹だったらしい。ディオニューソスの秘教はオシーリスの秘教に似かよっていた。彼がエジプトをおとずれたのはそのためである。
5 ディオニューソスや彼の酒盃にたいするヘーラーの憎しみは、ペンテウスやペルセウスのそれにたいする敵意とおなじく、当時トラーキアからアテーナイ、コリントス、シキュオーン、デルポイヘ、さらにはその他の文明のすすんだ多くの都市へとひろまっていった祭祀のとき葡萄酒を飲んでマイナスたちが大げさに浮かれ騒ぐ流行にたいして保守的なひとたちがつよく反対していたことを物語っている。そして、前七世紀のおわり、前六世紀のはじめになると、コリントスの独裁者ぺリアンデル、シキュオーンの独裁者クレイステネース、アテーナイの独裁者ペイーシストラトスは、ついにこの信仰をみとめることにし、ディオニューソスをまつる祝祭の制度を公に設けた。そこで、ディオニューソスと彼にゆかりの葡萄の木が、天上においてもうけいれられることになったものと考えられる − オリュムボス十二神のひとりとしてのヘスティアーの地位をディオニューソスがおしのけたのは、前五世紀のおわりだった。もっとも神々のなかには、依然として 「酒ぬきの生贄」を要求しつづけたものがありはしたが。ただし、ビュロスにあったネストールの宮殿から出土し、最近解読された数枚の香坂のうちの一枚によると、前十三世紀にはすでにディオニューソスは神格をあたえられていたというが、かといって彼はけっして半神であることをやめたわけではなく、彼が毎年死んで毎年よみがえるその墓は依然としてデルポイに残されていた(プルータルコス 『イーシスとオシーリスについて』三五)。そのデルポイの祭司たちは、彼の不死の部分をアポッローンとみなしていたものである。ディオニューソスがゼウスの大腿から生れかわったという神話は、ヒッタイト人の信仰する風の神がクマルビの太股から生れたという神話とおなじく、彼の信仰が生れた当初の女家長制の背景を切りすてているわけである。子どもがあらためて男性から生れることを示す祭式は、ユダヤ人のあいだにみられた有名な養子縁組の儀式で(『ルツ記』第三章・九)、もともとヒッタイト人から借りいれた慣習なのである。
6 ディオニューソスが新月の形をした船で海を渡り、海賊たちと争ったという話は、例の方舟に乗ったノアと多くの動物についての伝説の起源になったものとおなじ図像にもとづいていると思われる。獅子や、蛇や、その他の動物は、季節ごとにかわる彼の変身であった。ディオニューソスは、事実、デウカリオーンそのひとなのである(第三八章・3をみよ)。プラシアイのラコーニア人たちは、ディオニューソスの誕生について通説とはずいぶんちがった口碑をつたえている。それによると、カドモスがセメレーとその子ディオニューソスを方舟のなかに閉じこめ、方舟がブラシアイに漂着すると、ここでセメレーは死んで埋葬され、ディオニューソスはイーノーに養育されることになっている (パウサニアース・第三書・二四・三)。
7 ナイル河三角洲の沖あいに浮かぶ小島パロスには プローテウスがディオニューソスとおなじようにさまざまな変身を示したのは、この島の岸辺でだった 青銅期のヨーロッパでの最大の貿易港があった。それは、クレータや小アジアやエーゲ海諸島やギリシアやパレスティナの貿易業者たちの物資集積港となっていた。葡萄の木の信仰は、ここから東西南北にひろがっていったのであろう。ディオニューソスがリビアで戦った話は、ギリシアの同盟都市がガラマンテス人たちに援軍を送ったことを記録しているのかもしれない。また、彼がインドで転戦したという話は、アレクサンドロス大王が酒に酔っぱらいながらインダス河まで進撃していったという架空の歴史物語があやまりつたえられたのだといままでは考えられていたが、実際にはそれよりも年代が古く、葡萄の木の東方への伝播を記録しているのであろう。ディオニューソスがプリユギアをおとずれ、ここでレアーが彼に秘教をさずけたという話は、ディオニューソスをサパージオスあるいはプロミオスとしてまつるギリシアの祭式が、プリュギア起源であることを物語っている。
8 北かんむり座、つまりアリアドネーの花嫁の冠は、またの名を「クレータの冠」とよばれていた。彼女はクレータ系の月の女神で、ディオニューソスと交わって生んだ葡萄酒の子どもたち オイノピオーン、トアース、スタビュロス、タウロボロス、ラトロミス、エウアンテースは、それぞれキオス、レームノス、トラーキアのケルソネーソス、さらに北方に住んでいたヘラディック期の諸部族の名祖にあたるものだった。葡萄の木の信仰はクレータ島をへてギリシアやエーゲ海につたわってきたから−オイノス「葡萄酒」はクレータ語であるーディオニューソスがクレータのザグレウスと混同されるようになったのである。ザグレウスは、ディオニューソスとおなじように生れおちるとすぐに八つ裂きにされた。
9 ペンテウス王の母アガウエーは、ビールを飲んで乱舞する底ぬけさわぎを統べていた月の女神のことである。三姉妹−とはニンフの相を示す三面相の女神のことだーが、ヒッパソスを八つ裂きにした話に対応するのは、ディフエツドの王子であるピルにかんするウェールズ神話である。そこでは、五月祭の前夜に、リアノンーこれは、リガントーナ(「偉大な女王」)のなまった語形であるーが、子馬をむさぼりくらうことになっているが、その子馬というのが、じつは自分の息子プリデリ(「心配」)の変身なのである。ポセイドーンもまた、子馬の姿のままで父親のクロノスに食べられるが、おそらくより古い神話では彼を食べるのは母親のレアーであったろう。この神話の意味するところはこうである。−馬頭のマイナスたちが、毎年、少年の生贄−サパージオスや、ブロミオスや、そのほかよび名はなんであろうと−を八つ裂きにして生身のままむさぼり食った古代の祭式が、もっと秩序のあるディオニューソスの酒宴にとってかわられた。そして、その移りかわりの重要な点は、ふつうの少年のかわりに子馬を殺すようになったということである。
10 ディオニューソスの流した血から柘楷の木が生い茂った というが、この柘楷の木はまたタンムーズ=アドーニス =リムモンにゆかりの神木でもある。その果実は熟すると、傷のようにバッと裂けて、内がわの赤い種をそとにさらす。これを女神ヘーラーかペルセポネーが手にすると、死の象徴となり、また復活のきざしを示すものともなる(第二四章・11をみよ)。
11 ディオニューソスが、母のセメレーを救いだしてテュオーネー(「怒れる女王」)と名を改めさせた話は、アテーナイの「狂乱の女たち」にささげられた舞踏場で行われるある儀式の絵からひきだされたものであろう。その絵では、歌声や笛の音や踊りの足音にあわせ、籠のなかから花びらをまき散らしながら、ひとりの祭司がセメレ一にむかって、オンパロス、すなわち一種の築山のなかから姿をあらわすように招くと、若いディオニューソスが、「春の精」にともなわれてやってくるのである(ビンダロス『断片』七五・三)。デルポイでは、まったく女たちの手だけで行われていたおなじような昇天のヘロイン儀式が、ヘーローイス 一 つまり「半神女の祝祭」とよばれていた(プルータルコス 『ギリシア問題』一二、アリストバネース『蛙』三七三−九六および注釈)。トロイゼーンにあるアルテミスの神殿で行われていたもうひとつ別の儀式も、ここに加えていいかもしれない。忘れてならないことは、月の女神には三つの異なった相があるということだ。それは、ジョン・スケルトンのことばを借りると、こういうことになる。
ディアーナは緑の葉のなかに
ルーナはまぶしく光りかがやき
ペルセポネーは暗い冥府に
事実、セメレーはコレーまたはペルセポネーの別名で、この 昇天の光景は多くのギリシアの襲にえがかれている。そのうちのいくつかの絵のなかには、サテユロスたちが根掘り鍬で土を掘りおこして、半神女 − すなわちセメレーのあらわれでてくるのを手つだっている図柄のものもある。サテユロスがいることは、この祭式がベラスゴイ系の起源であることを物語っている。彼らが掘りおこしているのは、おそらく小麦の人形1秋の収穫のあとで地中に埋め、いま掘りおこしてしらべてみると緑の若芽をふきだしている小麦の人形であろう。むろん、コレーは昇天しなかった。地下の冥府に帰る時期がくるまで、彼女はデーメーテールとともに地上の各地をさまよっていたわけである。しかし、オリュムボス十二神の地位がディオニューソスにあたえられた直後に、処女のままでディオニューソスを生んだ母親も昇天さすべきだという説がつよく主張され、ひとたび女神となったセメレーはコレーとは分離されることになった。一方コレーは、半神女にふさわしく、地上にあらわれたり地下に降ったりする生活をつづけた。
12 葡萄の木は、神木の暦年の順位では十番目にあたり、月では葡萄収穫の祭が行われる九月に相当する。蔦は十一番目の木で、マイナスたちが浮かれさわぎ、蔦の葉を噛んで酔っぱらう十月にあたっている(第五二幸・3をみよ)。蔦が重要視されたのはまた、ほかの四つの神木 − えんじ虫が巣食うエルの樫の木、ボローネウスのはんの木、それにディオニューソス自身の葡萄の木と柘榴 − とおなじく、それが赤い色の染料のもとになったからである。ビューザンティオンの修道士テオピロスは、つぎのように言っている(ルゲロス『工芸について』第九八草) − 「詩人や工匠たちが蔦を愛したのは、それがかずかずのふしぎな力をもっていたからである。……その力のひとつについて話そう。三月、樹液がのぽるころ、蔦の茎に錐で二、三カ所穴をあけておけば、ねばねばした液がしみでてくる。それに尿をまぜて煮沸すると、レーキ(深紅色)とよばれる血の色の染料にかわるが、これは絵をかくにも本の彩飾をほどこすにも役にたつ。」赤い染料は、豊穣多産を象徴する男の人形の顔(パウサニアース・第二書・二・五)や、聖王の顔に塗るのにつかわれていた。ローマでもこの慣習が残っていて、凱旋将軍の顔を赤く染めるのにつかわれた。このとき将軍はマルスの神を象徴したことになるが、このマルスの神はローマでとくに軍神としてだけみなされるようになるまでは、じつは春のディオニューソスにほかならなかったし、三月(March)という名前もそこからでたのであった。英国王は、国家的な行事の際には、健康で意気さかんな姿を見せるために、いまでもその顔にほんのりと紅をさす。そのうえに、ギリシアの蔦は、葡萄の木や鈴掛の木と同じように、先が五つに分かれた葉をもっていて、大地母神のレアーがさまざまなものを創造する手をかたどってもいる。ギンバイカは死を象徴する木であった。(グレイヴズ、p.160-166)