S


魂、霊魂(Soul)〔Gr.yuchv

 ドイツ語のSeele (「霊魂」)は女性名詞であり、エックハルトやゲーテのような神秘主義者は、インドの「シャクティ」と同じ意味(すなわち「女性的な究極の実在」)で用いた[1]。「霊魂」の意の古典語はたいてい女性名詞であった(たとえば、プシューケー、プネウマ、アニマ、アルマなど)。神の霊魂は女神であった(たとえば、コレー、ソフィア、メーティス、サピエンティア、ユーノーなど)。古代人は、男はすべてその地上の母を介して、母神に由来する女性霊を持っている、と信じていた。

 エジプト人はそれぞれ7つの霊魂を持っていたが、これらは、惑星の7球層を守護し、子供が生まれたときの妖精の代母である、7柱のヘ(ウ)ト=ヘル〔ハトホル〕たちが授けたものであった。この7つの霊魂とは次の通りである。
 (1) アアクフ。血液中に宿る原初の生命霊。
 (2) アプ。母親の心臓の血で造られた心臓。
 (3) バー。死後姿を現し、墓を出入りする霊魂で、の姿をとることもある。
 (4) カー。似姿または影像、つまり、水や鏡に映るもう1人の自己。
 (5) カイブト。
 (6) カ-~ト。肉体で、死後、「肉をまとって」甦ると一般に信じられていた。
 (7) レン。秘密の名前すなわち霊魂-名前[2]

 ギリシア人は霊魂のもつさまざまな相を、それぞれ異なる神々と結びつけた。プシューケー(魂)はエロース(肉体)と結婚するが、やがて死によって引き離された。これが、プシューケーエロースのロマンチックな神話の哲学的な意味であった。冥界ペルセポネーの所有する霊魂は亡霊(shadow、 shade)であり、ラテン語ではumbraと呼ばれ、エジプト語のkhaibut(カイブト)に相当する(point.gifShadow.)。水に映った霊魂は、ナルキッソス神話に見られるように、水の女神エーコーと結びつけられたように思われる。

 父権制社会の著述家たちは、「息」pneumaと呼ばれる霊魂を強調する傾向があったが、それはこの霊魂が、父親が与えることのできる霊魂であったからである。この考え方はヴェーダの時代のインドに由来するものであった。父権制社会のバラモンたちは、生命原理、自我、または霊魂をアートマンAtman (「息」)と呼んだが、この語はギリシア語のatmos (「大気」)と同語源である。バラモンである父親は子供たちに息-霊魂を与えたが、これは母親の与えた、血、心臓、名前、肉体、心、といった種々の霊魂と対立するものであった。それゆえバラモンたちは、息-霊魂を唯一重要な霊魂とみなした。バラモン階級のある父親は、自分の新生児に息を3度吹きかけ、つまり、その身体に霊魂を吹き込むことによって生命を与えるのだと偽った[3]。アーリア人の他のすべての考え方と同じく、この考え方もまた、数世紀後のヨーロッパに、ライオンに関する迷信の形で再び現れた。「その母ライオンの子供たちは、生後3日間生きている兆しは一切なかったが、3日目に父ライオンがやってきて息を吹きかけ、子供たちを生き返らせた」[4]

 聖書の神もまた、息で同じような奇跡を行った。すなわち、殺されて干からぴた骨の山となっていた戦士たちを生き返らせたのであった。エゼキエルの嘆願を聞きいれて、神はその息を殺された者たちに四方から吹きつけたが、「すると彼らは生き、その足で立ち、はなはだ大いなる群集となった」(『エゼキエル書』37:10)。古代の予言者たちがいとも簡単に、信じがたい奇跡を引き起こす様にはいつもながら驚かされるが、このような奇跡は、今に伝えられた記憶による限りでは起こったためしがない。

 「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」 (『ルカによる福音書』 17:21)と言うイエスの主張は、徐々に浸透して来た、紀元前6、5世紀のイオーニアの哲学者たちの考えである。彼らは大気-霊魂と神とは同ーであると考え、人に宿っている聖なる生気は、まさに彼が呼吸する空気、すなわち、個人の霊魂と「大霊」とを同時に形造る「最も精妙な」元素であるとする説を出した。アポロニアのディオゲネスは、次のような見解を述べた。

「人間と他の動物は空気を吸って生きている。放に空気は彼らにとって霊魂であり精神である。
 すべての動物の霊魂は同じもの、すなわち、我々がその中で暮らしている空気よりも暖かいが、太陽の近くの空気よりもはるかに冷たい空気である。
 私の考えでは、知力を持つのは人が空気と呼ぶものであり、これによって、すべてのものは導かれ、また、これには万物を支配するカがある。何故なら、私が神と考えるのはまさにこの物質であるから」[5]

 哲学者たちは、神=空気=霊魂であるなら、呼吸する人間の体内にある空気は、その人間の行動を判断する内なる神 — 内在する判断力ということになる、と論じた。そこで詩人ピレモンは次のように語った。

「神にせよ人間にせよ、誰もそのなすかもしれない行為、まさになさんとする行為、または過去になした行為が何であれ、私のを逃れることはできない。『空気』というのが私の名であるが、人はまた私をゼウスと呼ぶこともある。神の名にふさわしく私はいたる所に存在する。ここアテーナイに、パトライに、シチリアに、すべての町に、各家庭に、お前たちのそれぞれの中に、存在している。『空気』のない所はない。遍在するものは、必然的にいたる所に存在するので、すべてのことを知っている」[6]

 キリスト教徒は、この大気-霊魂説をほとんどそっくり受け入れ、この説から、空気のようにその存在を感じることはできても姿は見ることのできない亡霊の観念を引き出した。さらに、霊魂は息と同じく、鼻または口から身体の外に出ることができるという考えも引き出した。しかし古い霊魂観もまた残った。

 7つの惑星球層から下降してくる、 7つの霊魂に関するエジプト人の説は、グノーシス派キリスト教に取り入れられ、 7つの惑星球層から取り出され、その影響下にある霊魂の7つの「特性」となった。天から降りてきて新生児の体内に入る霊魂は、 7つの球層を通り抜けて行く間に、本来の清浄さが罪や情欲に汚されてしまう。「霊魂は天から降りてくるときに、土星の無関心、火星の憤怒、金星の色欲、水星の貧欲、木星の権力欲を身にひきよせる」。大罪は7つの惑星球層から得られるものであるが、死後、霊魂がこの同じ惑星球層を逆方向に昇って天にいたる間に、これらの大罪を再びかなぐり捨てることができた。キリスト教徒はたいてい霊魂の数を1つに限ったが、グノーシス派の信奉者のなかには、人は皆2つの霊魂を持っていると主張するものもあった。 1つは第1の英知から流出するものであり、もう1つは「7つの惑星球層の回転作用により身体に入りこんだ」神を凝める霊魂と呼ばれた[7]

 霊魂が身体のどこに宿っているかに関する説は種々様々である。古代人はたいてい、霊魂は心臓または肝臓に宿っているとした。父権制社会の思想家たちは、男の睾丸は彼の未来の子供たちの霊魂を宿していると主張した。聖トマス・アクィナスや他のキリスト教の権威たちもこの点で一致していた。いくつかの霊魂は身体の外側に宿り、へその緒、胎盤、切った爪、刈った髪の毛などがその座であった。これらのものを傷つけるのはその当人を傷つけるのと等しかった。啓蒙時代初期に起源を持つ、ごく最近のある説によれば、霊魂の座は松果体であることになる。


[1]Bardo Thodol, xxxv.
[2]H. Smith, 24.
[3]Hays, 223.
[4]Male, 15.
[5]Guthrie, 136.
[6]Guthrie, 142.
[7]Jonas, 157, 160.

Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)



哲学・2つの思考〕 魂という言葉はに見えない1つの力を想起させる。明確な存在なのか、生者の一部か、それとも単なる生命現象なのか。物質なのか非物質なのか。死滅するのか不死なのか。生命と有機体と行動の原理。つかの間の出現を除き、いつもに見えず、その行為によってのみ自己の存在を現す。その神秘的な能力により、超自然的な力を、精神を、エネルギーの中心を示唆する。しかしながら霊魂が存 在すると断言すれば、さまざまな反応を引き起こす。科学もしくは哲学にかこつけて、霊魂の存在が否定される(ダランベールによれば「坊主のペテン」、フォイエルバッハは「理論的にいって愚劣」、外科医にとっては「メスの先に魂はない」ことになる)。あるいはまた肯定される。肯定のされ方に違いはあるが、容認という点では同じだ。この2つの考え方が、人類学、倫理、宗教における本質的な相違となって現れる。しかし魂が、に見えない力を「想起させ」るとともに、1つの知、信仰もしくは拒絶反応を「挑発する」からには、少なくとも象徴としての価値を持つ。魂を表す言葉や身振りにおいても、イメージにおいても象徴になる。関連するさまざまな象徴の支えとなるのである。

語源・息〕 このような一連の象徴の中で主なものが息であり、これまた派生的な象徴を伴う。魂の語源からいっても、魂は生命の源として息や気と関係がある。〈アニムス〉は、思考の源、欲望や情念の中枢であって、息を意味するギリシア語のアネモスanemosとサンスクリット語のアニティanitâに相当する。知的・感情的な価値を持ち、男性の次元に属する。〈アニマ〉は、吸気と呼気の源で、女性の次元に属する。

エジプト〕 魂の象徴的な表現は、霊魂信仰と同じくらい数が多い。さまざまな象徴を理解するには、霊魂信仰についてごく簡単にせよ概略をつかんでおくことが絶対必要である。たとえばエジプト人の場合、〈ホオアカトキ〉が、不死の原理(アクAKH)を表す。天界の性質をそなえ、輝かしく強力で、人間にも神々にも共通に思える。この人頭の〈〉は、個人の持つ霊(バーba)に相当し、この霊は死者が生前によく行った場所を死後にさまようことができる。「したがって〈バー〉は、霊的原理であって、肉体の支えなしに姿を現せるし、自分勝手に行動でき、いわば自分の主人の代理を務められる……。生者の移動する魂であり、実際の行動が可能なのだ」。この2つの原理の他に、人間はさらに別の構成要素を持つ。たとえばと名前であり、名前は「私的な人格」を表す(POSD、10)。

アメリカ大陸〕 マヤのキチェ族(『ボボル・ヴフ』)では、死者は仰向きに寝かされる。魂が口から自由に抜け出して、「神があの世へ魂を〈引き寄せ〉られるようにというのだ」(GIRL、78)。魂は神の本質(精液)と同じように、〈リボン〉または〈綱〉によって表され、チョルティ族は魂を13個の果物をつないだ形で象徴し、これが死体を巻き、「主がわれらを引くロープ」と名づける。

 カナダの狩猟インディアン、ナスカピ族においては、魂はであり、火花であり、口から出る〈小さな炎〉である(MULR、233)。デラウェア・インディアンでは、魂は心臓に宿り、イメージ、反映、実質を持たない可視の現象とされる(同書、243-244)

 南米インディアンの場合、1つの言葉で魂ととイメージを指すことがよくある。あるいは、魂と心臓(カリブ族)と脈拍(ウイトト族)のこともある。

 人間にいくつも魂がある(2つ、3つ、5つ、それ以上)ことも多く、それぞれ異なる機能があり、程度の差はあっても微細な物質からなる。死後に天国へ行けるのはそのうち1つだけで、他の魂は死体とともに地上に留まる。あるいはまたもともと動物の魂なので、動物に生まれ変わる。南米インディアンの場合、カタレプシーや神がかりの状態と同じく、睡眠は魂の一時的喪失から生じると普通考える(METB)。

アフリカ〕 カサイ(コンゴの盆地)のパンツー族でも、魂はやはり睡眠の間身体から分離する。魂が旅から持ち帰る夢は、死者の魂と話をして得たのである(FOUC)。失神や、神がかりや、陶酔の際も、魂は同じく身体から離れる。しかしずっと遠くまで行く。霊の国まで出かけて、目覚めたときにその話をすることもある。

 フルク博士によると、バルバ族とルルア族は、人間の体には3台の「微細な車」が結びつけられているとみなす。最も粗末な車〈mujanji〉は「幽霊」と同一視され、動物の生命を導く。西洋のオカルティスムにおけるエーテル体と似たようなものだ。〈Mukishi〉は分身であって、下位の感情や知性を運び、オカルティスムのアストラル体と似る。最後の〈M'vidi〉は上位の知性と直観を運ぶ。死後に魂が別の肉体に宿るには、この3つの軽い物体がそろわなくてはならない。人間だけがこの3つの要素をそなえ、動物は幽霊(mujanji)しか持たない。ただしイヌは別で、分身(Mukishi)も持っている。だからイヌは祭式で重要視される。mujanjiは身体の生命を支配し、mukishiは睡眠の間に身体という外皮を脱して、死者のmukishiと対話する(夢)。m'vidiは人知を越えた危険、「あるいは兆候があっても知覚できない危険」を前もって知らせる(FOUC)。

「北アフリカの民間信仰では、身体に2つの魂が住みつく。植物的な魂の〈nefs〉と、微細な魂もしくは息の〈ルーフ〉である。植物的な魂は、情念や感情的な行動に相当し、血がこの魂を運搬する。肝臓にその中枢がある。微細な魂もしくは息に対応するのは意志で、この魂は骨の中を循環し、中枢は心臓の中にある」(SERP、23)。

 2つの魂の結合は一対の木と岩に象徴される。「岩は女性原理、木は男性原理を表す……。木はを作り、植物的な魂〈nefs〉に水分を与える。しかしとくに、微細な魂〈ルーフ〉の特権的な支えとなり、この魂はのように止まりにくる。〈nefs〉は岩や石の中に存在し、石の聞から噴出する泉は、下の世界からきた多産性の象徴にほかならない」(SERP、28)。

 魂はミツバチあるいはチョウになって身体を抜け出すことができる。しかしになることが最も多い。

シベリア〕 シベリア諸族にとって、動物も人間と同じく1つないし複数の魂を持っており、魂の持ち主のはよく魂と同一視される。北シベリアのユカギール族では、狩人が獲物を捕まえられるのは、狩人の亡き身内の1人が獲物のをすでに捕らえておいた場合に限る(HARA、184)。

エスキモー〕 エスキモーにとって、魂と〈小さな魂〉はあらゆる実生活の場や葬式に神秘的な役割を果たす。ヤクート族やチエワシュ族などでは、魂は睡眠中に口から出て旅をし、一般に昆虫やチョウの形を取る。中欧にはハツカネズミになるとする伝説もある。

北アジア〕 「北アジア諸族は、他の多くの〈未開〉民族、とくにインドネシア人と同様、人間が魂を7つまで持てると考える。人間が死ぬと、魂の1つは墓に留まり、2つ目は黄泉の国へ下り、3つ目は天に上がる……。第1の魂は骨に宿り、第2はたぶん血の中に宿るのだろうが、肉体を離れ、ミツバチやスズメバチになって飛び回れる。第3の魂はすべての点で人間とそっくりで幽霊のようなものだ。死ぬと、第1の魂は骸骨の中に留まり、第2は精霊どもに食われ、第3は幽霊になって人間の前に姿を現す」(ELIC、196-197)。

シベリア〕 ウノ・ハルヴァが引用したバータロフによれば(HARA、264)、ブリヤート族は、3つある魂の1つが地獄へ行き、2つ目は邪悪な霊(ボホルドイ)となって地上に残り、第3は他の人間の中に再生すると信じる。

 大部分のチュルク・モンゴル系民族は、肉体から常に分離した魂の存在を信じ、この魂は一般に動物、昆虫、の形を取る(HARA)。キルギス族の叙事詩『ェル・テシチュク』において、英雄は驚くべき力と武勇をそなえていて鉄のやすりを魂とする。人間を殺すには、その魂を具現した動物または物体を魔術で破壊すればよい。

吸血鬼〕 ヴォルガ川のタタール族の〈ウブル〉は特殊な魂で、すべての人間がこれを必ずしもそなえるわけではない。ウブルを持つ人間が死んでも、ウブルは生き続け、夜に「死体の口のそばの小さな穴から」外へ出て、「眠る人の血を吸う」(HARA、199)。だからこの魂は吸血鬼伝説と関連がある。ウブルを破滅させるには、死体を掘り出し、胸に杭を突き通して地面に固定させる。生きた人間のウブルも有害で、よく身体から抜け出してはありとあらゆる悪事を働く。火の玉とか、ブタ、黒ネコ、イヌの形を取って現れることがある。ウブルが「力を失うのは、その姿を見た者が木製のこやし用の熊手とか、樹木の股を割いたときである」(HARA、198)。

王の生まれ変わり〕 ゾウ、トラ、ヒョウ、ライオン、サイ、サメ、その他多くの動物、とくに冥界に属するとみなされた動物は、死んだ国王や頭(苦し)の生まれ変わりとされることがある。フレイザーはそのおびただしい例を、アジア(セマンやマレーシア)およびブラック・アフリカ(ダホメとナイジェリア)について挙げる(FRAG, I, 84以下)。

中国〕 「中国では魂は二重であって、2つの要素、〈鬼〉と〈神〉からなる。〈鬼〉の方が重く、生者の欲望によって重くなる。墓のそばに留まり、慣れ親しんだ場所に出没する……。〈神〉は精霊であって、人体に宿る1かけらの神である……。紀元前4世紀に、この民間の二元論は公式の宇宙開闢論に基づく大いなる二元論と合致する。すなわち地上的で女性的な〈陰〉と、天上的で男性的な〈陽〉である」(SERH、76)。

ケルト〕 ケルト人の世界では、エロースプシューケーにぴったり見合う伝説は1つも知られていない。しかし魂âmeに相当する名詞〔アイルランド語ではainim、ブルトン語ではeneとanaonとなり、死者の魂を意味する〕について新ケルト語の語彙を検討すれば、古代ケルト人もまた語彙、および宗教的・形而上学的概念において、〈アニムス〉animusと〈アニマ〉animaの区別を知っていたことがわかる。この区別はそれぞれ、âme(精神)とâme(息)の意味に対応する。後者の意味は4世紀以後典礼用語としては廃れる(アニムスの方は霊魂spiritusに取って替わられる)。アナモンanamonは魂に相当し、ケルト世界全体に広がる名前であるが、語源的にはanavo-nつまりharmonie(調和)、およびアナAnaっまり原初の女性神の名前にきちんと対応する。だからこのアナモンは、「霊的」存在としての人間の潜在能力の充実を象徴する」(OTC XIX, 1967, n 113-114)。

 ガリアとアイルランドのドルイド僧は、霊魂の不滅を根本的な教義の1つとして教えた。人間は死ぬと《来世》へ行き、この世と似た生活を送る。このような概念の名残はブルトン人のAnaonに見られる。万聖節〔アイルランドのサムハイン祭に相当〕の翌日の死者の日に、彼らはなじみ深い道を通って元の住居へ帰ってくる。古代の著述家たちはよくこの魂の教義と輪廻を混同するが、両者は別物である。神々は定義からして不滅であって、霊魂の不滅は必要がない。それに引き替え人間は、一時的かつ例外的にしか≪他界≫へ行けない(OGAC、18、136以下)。他界は来世とは違う。

ユダヤ〕 魂を返す(rendre l'âme)とは死ぬことであり、魂を活気づけたり、与えたりするのは生きさせることである。ユダヤ思想によれば、魂は2つの傾向に分けられ、1つは上位(天上)、もう1つは下位(地上)である。またユダヤ思想は男性原理(ネフェシュ)と女性原理(chajah)の2つがあると考える。両者は変わる運命にあって、唯一の霊的原理の〈ルーフ〉、すなわち息(souffle、esprit)になることを目的とする。この〈ルーフ〉は雲や霧といった神性や宇宙のイメージに結びつく。生命もしくは地上の要素は外在性を、霊的もしくは天上的要素は内在性を意味する。

 「魂の天界旅行」のテーマは、動く太陽の形で示される(日の出から日没までの運行)。光る実体としての魂(魂=霊)は普通炎やの形で表現される。

ギリシア・哲学〕 『イーリアス』時代のギリシア人にとって、「プシューケー(魂)はラテン語のanimaと同じでまさしく息を意味した。エイドーロン()は厳密にいえば1つのイメージである。さらに霊1'espritは実体を指す単語phrenes(横隔膜)で表された。すなわち思考と感情の中枢である。感情は生理的な土台と切り離せないのだ(ジャン・デフラダス)。

 後のギリシア人は、哲学者たちの影響にょって、人間の魂の中に、さまざまな部分・原理・能力・機能を区別するようになった。ピュタゴラスにおいては、霊魂(プシューケー)は生命力に、感性(アイステーシス)は感覚的知覚に、精神(ヌース)は知的能力に一致し、この〈ヌース〉だけがとくに人間の原理とされた。プラトーンにより展開された魂の諸部分と階級や社会的役割との平行関係はよく知られている(『国家』第4部)。アリストテレースは〈ヌース〉の中に受動的知性と能動的知性を区別し、後者は後にロゴスおよび神と同一視された。〈プネウマ〉の概念は後になってようやく神学の流れを引いた文献に現れる。たとえば魂が神々の世界に住むよう約束されているとする文献であり、完全に霊的な〈息〉は天界に向かうとされる。この概念はプラトーンの思想に基づき、6世紀後のプローティーノスが発展させたとはいうものの、〈プネウマトロジー〉の誕生をみるのはキリスト紀元になって初めの数世紀になってからであり、グノーシス主義において開花する。象徴神学は魂=霊の何たるかを示す最上のイメージとして、神の口から出る息以上のイメージは見つけられないはずである。

プネウマ〕 古代ローマ人にとってプネウマ(ラテン語ではspiritus)とは、ジャン・ボージューによれば、「生物全体の生殖原理であるとともに、その純粋に英知的・霊的な面からすれば人間の思想の原理でもある。プネウマとみなされる火は、地上での燃焼から生じるのではなく、エーテルの純粋な火から生じる。このような起源により、魂と天の類縁関係が確立される……」。

 プネウマは空気と体温の混合物であり、世界の魂としてのエーテルの純粋な火ときわめて密接な関係があり、よくこの火と同一視される。このようなプネウマの概念は、アリストテレースの初期の論文を出発点としているらしい。これはストア派に継承される。しかし宇宙と生物を同一視する考え方は、ピュタゴラスが起源のようだ。こちらはプラトーンを通じてストア派に継承された。同様に、肉体が魂を麻痔・鈍化させ、闇と情念の両方に従わせ、一種の牢獄に閉じ込めるという観念も、プラトーンから始まって一連の思想家、哲学者、宗教家の間に広まつた。

 聖パウロは体系的で首尾一貫した人間学を教示する意図はなかったが、十全な人間の中に、霊(プネウマ)、魂(プシューケー)、肉体(ソーマ)を区別する。『テサロニケ第一』(5、23)と『コリント第一』(15、44)を付き合わせれば次のことが明らかになる。魂=プシューケーは肉体に生命を与えるものであり、霊=プネウマのほうは、最も高い次元の生活や聖霊の直接の影響に対して開かれた人間の一部分なのである。このプネウマこそ、救済と不死の恩恵を受け、恩寵により聖化されるものなのだ。しかしその影響はプシューケーによって肉体に、したがって十全な人間にも及ぼされねばならない。この世で生きるべき、また復活の後に再生する十全な人間に。

スコラ哲学〕 スコラ哲学の伝統、とくにトマス・アクイナス派の思想は、人間の魂に3つの水準を区別する。植物的魂は、栄養摂取、生殖といった基本的な機能、原始的な動きを支配する。感覚的魂。は五感を統御する。理性的魂は、認識(intellectus)や愛(appetitus)といった高度な働きにかかわる。ここでは後世の下位分類である能力や機能などには立ち入らない。

 この理性的魂によって、人間は他の動物と区別され、「神と似ている」と自称できるのだ。その「最先端」を考察すれば、〈悟性〉に到達する。これは魂の最高の部分であって、恩寵を授かり、神殿になり、至福直感を直接享受できる部分である。

キリスト教〕 魂の神秘的な意味はキリスト教の伝統の中で発展していった。神秘思想家たちが到達した霊的水準は心理学とは無縁であって、彼らの魂は聖霊により鼓舞されている。

 魂には、活動とエネルギーのさまざまな部分もしくは水準がある。聖パウロにならって神秘思想家たちは、生命原理と霊的原理を区別し、魂と霊を分ける。霊的人間のみが聖霊によって動かされる。聖パウロは神の言葉に言及して、それを剣になぞらえ、霊と精神を切り離すほど深く刺し通すという(『へブル』4、12)。新しい人間を身に着けるには、霊的変化が必要とされることが明白になる(『エペソ』4、23)。

 アレクサンドリアのクレメンスだろうがオリゲネスだろうが、キリスト教の教父たちは、プローティーノスの分類を採用することになる。それによれば、人間には感覚型、理性型、英知型の3つの型があり、これはホミニゼーション(ヒト化)の3水準に対応する。

 ギヨーム・ド・サン・ティエリによれば、この3種類の人間が修道院に見出される。ただし常に一定しているわけではなく、理性型と霊型の2つは絶えず移動する。

 各段階に、神との結びつきの程度に見合った愛の質が対応する。

精神分析〕 精神分析の見地からすれば、魂が多様な解釈を許す概念であることを示したユングは次のように述べる。「魂とは、意識の限界の中で、一定の独立を保つ心理的状態に相当する……。魂は心的機能の全体には合致しない。(これが意味するのは)無意識との関係であり……、また同様に無意識的内容の擬人化である……。民族学と歴史学の魂に対する考え方によれば、魂とはまず主体に帰属する内容であるが、それだけでなくさまざまな精神の世界、つまり無意識なのである。だからこそ、魂は常にその中に、地上的なものと超自然的なものを合わせ持つ」(JUNT、251?5)。地上的というのは、魂が自然の、大地の母性的イメージと接触するからであり、天上的というのは、無意識が常に意識の光を熱烈に希求するからである。そういうわけで、〈アこマ〉は自我とプシューケーの中核をなすエスの媒介として機能する。

 〈アニマ〉はユングによれば、4つの発達段階がある。第1はイヴに象徴され、本能的・生物学的次元にある。第2はそれより高次だが、性的要素がまだ含まれる。第3は聖処女マリアによって代表され、愛は完全に霊的水準に達している。第4は英知だ(JUNS、185)。この4つの段階は何を意味するのか。地上のイヴは女性的要素とみなされ、霊化への道を歩む。地上的なるものがすべて天上的なるものに照応するとすれば、聖処女マリアは天上のソフィアの地上的な側面とみなされるべきである。

 このように個人の魂は、4つの段階を経て行くべきことがわかる。我々の内なるイヴは、聖マリアを模倣するために、上昇して自分を清め、〈エス〉の中に光の子(pueraeternus)、すなわち自分自身の太陽を発見するのである。

アニマ〕 ユングによる別の定義を取り上げよう。「〈アニマ〉は女性的なるものの元型であり、人間の無意識においてとくに重要な役割を演じる」。

アニムス〕 〈アニマ〉が男性の無意識の女性的なるものの徴候であるなら、ユングによると〈アニムス〉は女性の無意識の男性的なるものの徴候である。あるいは、アニマは男性のプシューケーの女性的構成要素であり、アニムスは女性のプシューケーの男性的構成要素である(JUNM、125、446)。「女性的なるものの元型」としての魂は、歴史上のさまざまな時代によって活動の程度が異なる。

〕 魔術の伝承によれば、人間は悪魔に自分の魂を売り、それと引き替えにこの地上で欲しいものが手に入れられる。多くの形態がありうるが、ファウストのメフィストフェレスとの契約が代表的な例である。しかしドイツの伝説では、魂を売った人間はを失う(TERS、26)。これは古代エジプト人が信じた2つの魂、二重性の名残なのだろうか。いやむしろ、その人物が固有の存在を完全に喪失した事実の象徴ではなかろうか。そうなると、は放棄された魂の具体的象徴であり、以後この魂は闇の世界に属し、太陽の下に再び姿を現すことができない。がないということは、光も実体もないことのしるしである。

 魂に関する概念はこれほど多様であって、その1つを記述するだけでも何巻もの書物になってしまうが、そのような概念は、芸術作品・伝説・伝承に基づくイメージに反映され、そのいずれもが人間に働きかけるに見えない現実の象徴なのである。こうした象徴を想像した諸民族の魂に対する信仰を参照しない限り、象徴の意味は見えてこないはずだ。

 ここでは大まかにいくつかの信仰をスケッチしただけだが、それでも象徴の研究者が魂の象徴に手を染める際に、慎重の上にも慎重であってほしいと注文をつけたつもりである。〈アニムス〉と〈アニマ〉についての有名な論争にしても、アンリ・プレモンやポール・クローデルの精微すぎるほどの議論にもかかわらず、生命原理に対する、混乱の中に豊かさを秘める人間の直観の内容をすべて言い尽くしたとは到底いえない。この生命原理は物質の一部と霊の息をつなぐだけでなく、両者を同一の主体において結合させるのである。
 (『世界シンボル大事典』)