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パーシパエー( Pasifavh)

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 「万物のために輝く女性(she who shines for all)」を意味し、擬人化されて女王となったクレータ島の女神。彼女は聖なる雄ウシと交わって、ミーノータウロスMinotauros(雄ウシ- ミーノース)を生んだ。彼女の子孫がクレータ島の王の系統となった。クレータ島は7年ごとに行われる聖なる結婚 hieros gamosの祭式において、雄ウシの仮面をかぶって女神と交わり、その後で供犠としての雄ウシ殺しが行われた[1]。クレータ島入植者が、パーシパエーミーノースの信仰をスペインにもたらし、聖なる遊技を始めたが、それが闘牛として現在に至ったと信じられている。


[画像出典]
Picasso and the Myth of the Minotaur


[1]Graves, G. M. 2, 403.


闘牛(bullfight)

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 闘牛には2つの形式が区別される。牛と人とが闘う形式と、牛と牛とが闘う形式である。前者は今日ではスペインから移植されたメキシコなどに見られるが、かつては東部地中海世界に盛行をみたものであった。古代ギリシアではポセイドーン神への奉納儀礼として、牛を怒らせこれを人々がとりおさえるタウロカタプシア taurokaqavyia がンュミルナ、シノベ、イオーニア、テッサリアの各地方に行われたし、また前2000年紀のクレタ島、先史時代のナイル川下涜域、イスラム教徒侵入以前に北アフリカに住んだベルベル族などに知られた牛跳び〔疾駆してくる牛の角に手をかけ、牛が角をもちあげる勢いを利用して空中に跳ね上り牛の背後に降り立つ技〕も1つのヴァリエーションであった。

 これに対し牛と牛とが闘う形式は古代のエジプトにも知られていたが(ストラポンによればオシーリス信仰に伴う儀礼であった)、むしろインド、東南アジア、東アジアにまとまった特徴的な分布をもっている。こうした分布を手がかりに、ピショップ(C. W. Bishop)は闘牛の文化史的地位に言及して、闘牛の2つの形式はより基本的には旧大陸の新石器時代の犂耕文化に豊穣儀礼として位置づくものだが、牛と人とが闘う形式は東部地中海世界の麦作文化において、しかし牛と牛とが闘う形式はアジアの水稲耕作文化において発達したと論じている。

 ところで、牛と人とが闘う形式は早くにショースポーツ化したが、牛と牛とが賜う形式は最近までよく儀礼性を保存していた。それは、エーパーハルト(W. Eberhard)が南中国について闘牛を春牛〔粘土製や紙製の牛人形を棒や鞭で打ちこわす春先の豊作予祝習俗〕と共にタイ文化の牛供犠文化複合に属させたように、供犠としての性格が強い。たとえば、貴州省のミャオ族では闘牛用の牛は初めから供犠獣と定められており、それ故に他の用には一切使わず、特別の仕方で飼養される。中でも白ミャオ族は7年あるいは13年ごとに行う大祖先祭に闘牛を行うが、試合の翌日、牛は祖先に捧げるために木につながれ、額に鉄釘を棒で打ち込んで殺し、角を丁寧に保存する。同じ貴州省のチュンチア(プイ)族もやはり闘牛用の牛は犂耕獣ではなく毎年早春に催す闘牛大会のためにだけ飼い、試合後は敗けた牛だけを殺す。また今日では見世物化してしまった浙江省の闘牛も、闘技場の門に東南アジアでは供犠柱としてお馴染みのY字形の柱を立てる習慣にかつての姿をとどめている。さらにインドネシア系住民が移住したマダガスカル島でも、闘牛が済むと牛は供犠されて共食されるのが習わしであった。→牛
文献
 C. W. Bishop,“Ritual Bullfight, "Cina Journal of Science and Art 3, 1925.
(寒川恒夫)(『文化人類学事典』)