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(Moon)
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〔2つの基本的な意味〕 月の象徴的意味が明らかになるのは太陽のそれと関連してである。その最も基本的な2つの性格は、第1に月が固有の光を欠き太陽の反映にすぎぬという事実と、それに月がさまざまな位相を経て形を変えるという事実とに由来する。それゆえ月は依存と女性原理(例外を除く)、および周期性と更新を象徴する。その二重の意味で、月は変形と生長のシンボルである。

〔象徴・生命のリズム〕 月は〈生物的リズム〉のシンボルである。「満ちては、欠けていき、消滅する天体、その生命が生成、誕生、死の宇宙法則に従う天体である。……月は、人間の歴史と同様に、感動的な歴史を有する。……しかしその〈死〉はけっして最終的なものではない。……元の形への永遠の回帰、果てしない周期性のゆえに、月は生命のリズムを示す典型的な天体とされる。……月は水、雨、植生、豊饅……といった、循環的生成の法則に規定される宇宙のあらゆる次元を支配する」(ELIT、139)。

〔宇宙の測定手段〕 月はまた〈流れる時間〉、生きた時間をも象徴し、その規則的な位相の継起によって時間の尺度となる。「月は宇宙の測定手段である。……《月》、《水》、《雨》、女性の生殖能力、動物の生殖能力、植生、人間の死後の運命、イニシエーション儀礼を相互に関係づけているのは同一のシンボリズムである。月のリズムを明らか にして初めて可能となる精神的総合は、もろもろの異質な実在を照応させ統合する。もし原始人がこの天体の〈周期的変動の法則〉を直観的に把握しなかったなら、それら実在間の構造的対称性も、あるいは機能的類似性も発見されなかったであろう」(ELIT、140)。

〔死者とのかかわり〕 月はまた「最初の死者」である。太陰月毎に3夜の間、月はまるで死んだような状態で、やがて消滅してしまう。……それから月は再び現れ、輝きを増して行く。これと同様に、死者も「存在の新たな様相」を獲得するものとしてみなされる。月は人間にとって、生から死への、死から生へのこの移行のシンボルである。多くの民族において、月は地下の世界と同様に、この移行の場所とみなされてもいる。それゆえメーン、ペルセポネ(おそらくはヘルメスも)といった多くの月の神々が冥界と同時に墓にかかわるのである。地上で死んだ後の月への旅、月での不死の滞在は、一部の信仰によると、英雄王、秘義を極めた者、呪術師といった特権者に限られている(ELIT、152。また139-164頁の月と月の神秘思想とに関する章全体も参照せよ)。

〔象徴・反省的認識〕 月は論証的、前進的な覚めた〈間接的認識〉のシンボルである。「夜の天体」である月は隠喩として美を、また果てしない闇の中の光を喚起する。しかしその光は太陽の光の〈反映〉にすぎぬから、月はもっばら「反映(反省)」による認識、すなわち理論的、概念的、理性的な認識のシンボルとされ、その意味で月にはフクロウの象徴的意味が結びつけられる。またそれゆえ月は〈陽〉の太陽に対して〈陰〉とされ、「変動性、受容性」を持つとされる。月は太陽の火に対して水であり、熱気に対して冷気である。北と冬が象徴的に南と夏に対立する。

〔水とのかかわり〕 月は雨をもたらす。《准南子》の唱えるところによれば、水生動物は月の満ち欠けとともに大きくなり、また小さくなる。水の受動性と生産力を持つ月は、〈豊饅〉の源でありシンボルである。それは発現を生起させる原初の《水》と同一視される。月は周期的再生の芽の集積所であり、不死の飲み物を入れる杯である。それゆえにこそ月はこの飲み物と同じく〈ソーマ〉と呼ばれる。同様にイブン・アル・ファーリドも、月を知識の「陰」を入れる杯とみなす。また中国人は月に、不老不死の《霊薬》を作るための原料をすりつぶしている野ウサギがいるという。彼らは月から露も抽き出すが、この露にも上の霊薬と同じ効能がある(方諸水)。

〔インド・ローマ・神話〕 ヒンズー教では、「月の球面」は「祖霊の道」(ピトリ・ヤーナ)の終点である。彼らはそこでも個人としての条件から解放されず、周期的更新を繰り返す。形姿が完成すると消滅し、十分に発達していない形姿がまた現れる。これが〈シヴァ〉の「変形をもたらす」役割とも無関係ではないところから、シヴァのエンブレムは三日月となる。しかも月は過と月の循環の支配者である。この循環的運動(満ち欠けの相)は〈ヤヌス〉の月のシンボリズムとも関係づけられよう。というのも月は「《天国》の門」であると同時に「地獄の門」であり、ディアナであると同時にへカテであるからである。だがここにいう「天国」とは宇宙という建造物の天辺に他ならぬ。「宇宙からの脱出」は「太陽の門」からしか行われぬであろう。ディアナは月の好意的な面、ヘカテは恐ろしい面を表すことになる(DANA、GRAD、GUEV、GUED、GUES、SOUL)。

〔中国・満月の意味〕 コウガという女神の住む月の祭り(仲秋節)は中国の3大例祭の1つで、秋分の満月の8月15日に催される。神への捧げ物は果物と、この日のために作って売られる砂糖菓子、それに赤いケイトウの花である。男は祭礼に参加しない。これは明らかに収穫の祭りで、ここでも月は豊饅のシンボルである。月は水にかかわり、陰の本質である。太陽と同じく、月にも動物が住むが、それは野ウサギかヒキガエルである(MYTF、126-127)。

〔新月の意味〕 アルタイ系の諸民族は新月に敬度の念を表し、新月に「幸福と幸運」を願った(同書)。エストニア人、フィン人、ヤクート族は新月に結婚式を挙げる。彼らにとっても、月は豊鏡のシンボルである。

〔忌まわしいしるし〕 月はときに忌まわしいしるしとされる。サモイェード族にとっては、月がヌム(《天神》)の「悪い目」、太陽が「良い目」となるであろう。

〔中米・神話〕 マヤ族においても、たとえば最高存在の息子であるイツァムナー神(「きらめきの家」=《天》)は太陽神キニチ・アハウ(「太陽の顔の主」)と同一視される。「それゆえ《月》の女神イシュチェルは彼の伴侶であったが、また彼の敵意と不吉さの現れでもあった。彼女は額に女神の持ち物であるヘビのバンドを着けてはいるが、顔だちは彼とそっくりである」(KRIR、98)。

 月が周期的更新を司る事情は宇宙的レベルでも、地上的な植物・動物・人間のレベルでも同じである。そこでアステカ族の場合は、月の神々の内に酩酊の神々を含める。その理由は第1に、眠っては、何もかも忘れて目を覚ます大酒飲みが、周期的更新の現れだからであり(SOUM)、それに酩酊は祝宴に伴い、祝宴は取り入れに際して行われるから、したがって豊餞の現れだからである。ここにはすべての農耕文明に付き物の収穫儀礼が見出される。アステカ族は酩酊の神々を「400羽のウサギ」と呼んだ。このことは月の動物説話におけるウサギの重要性が大きいことを意味する。

 これもアステカ族の場合だが、月は、雨の神で火にも結びつけられるトラロックの娘である。メキシコの大部分の絵文書では、月は「ウサギのシルエットをくっきり浮き出させた、水の一杯入っている三日月形の容器の如きものとして」表わされる(SOUM)。

 マヤ族の場合、月は怠惰と性的放縦のシンボルである(THOH)。月はまた機織りの守護者でもあり、そのためクモを持ち物とする。

〔南米・宗教〕 ミーンズによれば(MEAA)、インカ族においては、月が4つの象徴的な意味を持っていた。第1に月は太陽とは関係なく、女神とみなされた。次に月は女たちの神、太陽は男たちの神とみなされた。次には月が太陽の妻とみなされ、太陽との間に星々を産んだ。最後にインカ族の哲学・宗教思想の究極段階として、兄弟である太陽の近親相姦の相手とみなされた。というのも月と太陽の2神は天界の至高神ヴィラコチャの子供だからである。その上、月は、天界の女王にしてインカ帝国の王家の始祖というその原初的機能によって、海と風を支配し、女王と王女たちを支配し、また分娩の保護者であった。

 太陽と月の神格化は必ずしも月を太陽の妻とするとは限らない。たとえば、ブラジル中部および北東部の原住民ジェ族にとって、この天体は男神で、太陽とは何の血のつながりも見られない(ZERA)。

 南西セム語の全世界でも(アラビア語、南アラビア語、エチオピア語)、月は男性であり、太陽が女性である。というのもこれら遊牧と隊商の民族にとっては、夜の方が快適で安らぎを与えてくれ、移動するのに好都合だからである。非遊牧民の他の多くの民族でも、月は男性である(SOUL、154)。月は夜の案内人なのである。

〔ユダヤ〕 ユダヤの伝承では、月はヘブライ民族を象徴する。月が位相を変えるのと同様に、遊牧民であるヘブライ人も絶えずその旅程を変更する。アダムは放浪生活を始める最初の人間であり(『創世記』3、24)、カインも放浪者となるであろう(4、14)。アブラハムはその土地と《父》の家を去れという意味の命令を神から受ける(13、1)。その子孫たちも、ディアスポラ(ユダヤ人の離散)、さまよえるユダヤ人などの示す通り、同じ運命をたどるであろう。

 カバラ学者は隠れては現れる月を「王の娘」になぞらえる。月は姿を見せては引き籠もるが、常に問題とされるのは可視の相と不可視の相の交替である。

 『創世記』(38、28-30)において、妊娠中のタマルが出産のときを迎えるが、胎内には双子がいた。出産のとき、1人の子が手を出したので、助産婦は「これが先に出た」といい、真っ赤な糸を取ってその手に結んだ。ところがその子は手を引っ込めてしまい、もう1人の方が先に出てきたので、この子はベレツ(出し抜き)と名づけられ後の子はゼラ(真っ赤)と名づけられた。ところで、〈タマル〉(ヘブライ語)とはシュロの木のことで、シュロには雄と雌がある。それゆえ、『バーヒールの書』によれば、タマルの2人の子供は太陽と月になぞらえられ(SCHK、107、186)、月が出ては引っ込んで、太陽を先に行かせたのだという。

〔イスラム〕 月(アラビア語で〈カマル〉)はコーランにも非常に頻繁に出てくる。それは太陽と同じく、「アッラーの神兆」(41、37)の1つである。アッラーによって創造されたゆえ(10、15)、月はアッラーを崇敬する(22、18)。「アッラーは人間たちのために月を役立たせて(14、37)、月の満ち欠けによって(2、185)、人間たちが年の数を知り、月日の計算ができるように取りはからい給うたお方(10、15;36、39)。月の循環のおかげで時刻の計算もできる(55、4;6、96)。しかしもうじきやって来る《審判》の日には、月が裂けるのが見られ(50、1)、月は太陽と1つになって、光を失うであろう」(75、8-9)(RODL)。

 イスラムには2つの暦が存在する。1つは太陽暦で、農耕上の必要性に応じたもの、もう1つは太陰暦で、宗教的理由から採用されたが、それは月が「宗規上の礼拝行為を規制するもの」だからである。

 コーラン自体も〈月の象徴的意味〉を用いている。月の各位相と三日月が死と復活を喚起している。

 イブン・アル・ムウタズ(908没)はユゴーより10世紀も前に、よく知られた次のイメージを、最初に発見した。

「三日月の美しさを見るがよい。それは現れるが早いか、その光の矢で闇を切り裂く。
さながら銀の半月鎌の如く、暗がりにきらめく花々の中から、スイセンを刈り取る。
極度に美しいものを描きたい、その究極の完壁さを示したいとき、真っ先に頭に浮かぶのは、そんな三日月に似た顔だと言おう……」。(H・ベレス仏訳より)

 ジャラール・ウッディーン・ルーミー(1273没)にとっては、「月が太陽の光を反映するように、《預言者》は神を反映する。神の輝きによって生きる神秘家も月に似て、夜闇の中の巡礼者は月を頼りに進むものである」。

〔ケルト〕 大地、太陽、四大と同じく、月(esca)は〈アイルランドの誓いの定型表現〉において保証の役目を果たす。コリニーの太陰太陽暦として知られるケルトの暦は、初めは太陰暦であった。「ガリア人がその月と年を、30年からなるその世紀とともに、決めているのはこの天体(月)によってである」(プリニウス『博物誌』16、249:OGAC、13、521および以下)。

〔月の斑点〕 〈月の斑点〉については、それぞれの民族の想像力に応じて、あらゆる月の動物説話が存在する。

 グアテマラとメキシコでは、斑点はウサギを表し、ときにイヌを表す。ペルーではジャガーかキツネである。

 だが同じペルーでも、一部の伝承は、ヨーロッパの民間伝承と同様、そこに人間の顔の表情を見てとるし、他方インカの伝承によれば、それは太陽が月を自分よりきれいだと思い、嫉妬して、月を曇らせるため月の顔に投げつけた塵だという(MEAA、LECH)。

 ヤクート族にとっては、月の斑点は「2つの水桶を下げた天秤棒を肩に担いだ少女」を表す。ブリヤート族の場合、これと同じイメージにヤナギの林が追加される。類似の形象表現はヨーロッパでも用いられるし、トリンギット族やハイダ族のようなアメリカ北西沿岸の若干の民族集団にも見出される(HARA、133-134)。

 アルタイ山脈のタタール族はそこに、神々が人類を守るため地上から連れ去った人食い老人を見てとる。アルタイ系諸民族はそこに野ウサギを見る。月にはイヌやオオカミやクマも住んでおり、中央アジアの、中でもゴリド族、ギリヤーク族、プリヤート族の月相の変化に関する神話中には、それらが登場する。

〔28という数字〕 月は、その視表面が太陽のそれと同じ大きさなので、〈占星術〉ではとりわけ重要な役割を果たす。月は受動的だが豊餞な原理、夜、湿気、下意識、想像力、精神現象、夢、受容性、女性と、それに(太陽の光を反射するものとしてのその天文学的役割からの類推によって)不安定で一時的な、影響されやすい一切のものを象徴する。月は28日で《獣帯》を一周する。一部の歴史家の考えるところでは、28宿からなる月の《獣帯》(西洋の占星術では現在稀にしか使われない)の方が、12宮からなる太陽の《獣帯》より古い。このことはあらゆる宗教と伝承における月の重要性を教えている。

 仏教徒の信じるところによると、プッダ(仏陀)はボダイジュ(聖なるイチジク)の下で28日間、すなわち太陰暦の1か月、あるいはこの世界の1サイクルの間、静観思索して、ついに《ニルヴァーナ(浬柴)》の域にいたり、世界の神秘の完全なる知識に到達した。ブラーフマナ(僧職)の教えによると、人間の状態の上には28の天使的ないし楽園的状態があるという。すなわち月の支配力はこの世界に対してと同様、微妙な超人間的次元にまで作用しているのである。ヘブライ人は月の《獣帯》を、普遍的人間アダム・カドモンの両手と関連づけるが、それは28が〈シャラール〉(命)という語の数であり、両手の指の関節の数だからである。右手は祝福を与える手で、満ちてくる月と関連し、左手は呪いをかける手で、月が欠けて行く14日間と関連する。ヒンズー教の月の28宿のさまざまな象徴的イメージは、ゲラン師の『インドの天文学』(パリ、1847)中に描かれている。

〔月と女神たち〕 無数の神話、伝説、信仰の源である月は女神たちに月のイメージを提供する(イシス、イシュタル、アルテミスまたはディアナ、ヘカテ……)。それは太古から現代までのあらゆる時代にわたって、あらゆる地域で一般化された宇宙的シンボルである。

 このシンボルは神話、民間伝承、民話、詩を通して、女性の神性と豊餞な生命力とにかかわるが、この2つのものは植物と動物の生殖力の神々として具象化され、《大いなる母》(マーテル・マグナ)の信仰の内に一体化される。この永遠にして普遍的な流れは占星術のシンボリズムを通してさらに延長される。すなわちそのシンボリズムによって、この夜の天体には、母親が(授乳者としての母、温かさとしての母、愛撫としての母、感情世界としての母の名において)個人に及ぼす感化の浸透までが結びつけられるのである。

〔占星術〕 占星術師にとって月は、個人の誕生時の星位(ホロスコープ)の内にあって、「動物的な魂」の部分を表すが、この魂とは、精神(プシュケ)の小児的、太古的、植物的で、美的、霊的な生命が支配する領域にあるものと想定される。人格の月にかかわる領域とは、我々の動向、我々の本能的欲動の、無意識的でもうろうとした夜の領域のことである。それは我々の内にまどろむ「原始」の部分で、睡眠や夢、幻想、想像的なものの中に今なお根強く残っていて、我々の深部感覚を形成している。それは心の内なる「秘密の庭園」の静穏な呪縛、魂のかすかな歌の静穏な呪縛にかかった内奥の存在の感性であり、その幼年期の楽園にかくまわれ、自分の殻に閉じ籠もって、生のまどろみの内にうずくまり(本能の陶酔にふけるまでにはいたらず)、生命の揺らめきの恍惚状態に身をゆだねる内奥の存在の感性である。この感性はその内奥の存在の移り気で、落ちつかぬ、気まぐれな、幻想にふける、夢想的な魂を、気の向くままに運び去る……。

〔象徴・夢と無意識〕 月はまた、夜の価値としての夢と無意識のシンボルである。ドゴン族においては、青いキツネ《ユルグ》が月を象徴するが、これは予言を司り、「神の最初の言葉」を知る唯一の存在である。神の最初の言葉は〈夢〉の中でだけ人間に現れる(ZAHD)。

 しかし無意識と夢は夜の生活の一部をなす。月と無意識の象徴的コンプレックスは夜に対し、四大の水と大地とともに冷気と湿気の両性質を結びつけるが、これと対照的に太陽と意識の象徴的意味は昼に対し、四大の気と火とともに熱気と乾燥の両性質を結びつける。

 夜の生活、夢、無意識、月はいずれも、「第二存在」の神秘的領域と共通点を持つ言葉である。その意味で、プリヤート族の伝説において、「エコーの槍」という美しい隠喩が月に結びつけられるのを見るのは印象深い(HARA、131)。

 ポール・ディエルの解釈によれば、月と夜は下意識から生じる不健全な想像力を象徴する。この著者は下意識という語を「克進的、抑圧的想像力」の意味で使っていることを付言しておこう(DIES、36)。こうした象徴作用は多くの文化において、月や夜にかかわる、未完成の、悪事を働く一連の英雄たち、ないし神々のすべてに適用されている。

moon2.jpg〔タロット〕 〈月〉または〈薄暮〉は「タロットの18番目の大アルカナで、解釈者によってそれぞれ次のようなものを表す。すなわち物質への精神の埋没(エネル)、憂鬱、悲嘆、孤独、病気(G.マケリー)、狂信、虚偽、見せかけの安心、人を欺く外見、間違った進路、近親者もしくは召使いが働く盗み、無価値な約束(Th.テレスチェンコ)、苦労、骨の折れる真実の獲得、苦痛を通して学んだ知識あるいは錯覚、失望、罠、強請(ゆすり)、悪行(0.ヴィルト)。このアルカナは〈恋人たち〉というアルカナの意味を補完し、その絵札と同じように、占星術ではホロスコープの第6宮に対応する。ヘールト・ヴァン・レインベルクが引用した、18世紀初めのフランスのタロット〈月〉は、普通用いられている札に見られるように、2匹の吠えイヌではなく、雌ウシとコウノトリと雌ヒツジを照らしている、ということを付言しておこう。このことはホロスコープの第6宮への伝統的な家畜の帰属と比較対照してみてもよい問題である」。

 だがこの絵札をもっと近くに寄って吟味してみる必要がある。このカードは3つの面に分割されているように思われる。青い月の視表面(そこには三日月の中に横顔が描かれている)からは29本の光の矢が発し、その内7本は青、7本は白、もっと小さい15本は赤い光の矢である。天と地の間では、8滴の青い露、6滴の赤い露、5滴の黄色い露が月に吸い寄せられているように見える。

 地面は黄色く起伏が多く、そこには3枚の葉をつけた2本の小さな植物しか生えていない。その一方で背景の左右には、隅切りにした銃眼を施した2つの塔が建っていて一方の塔は青天井だが、もう一方は閉ざされているらしい。風景の中央には、肌色の2匹のイヌ(あるいはオオカミとイヌ)が向き合って、口を開き、吠えているようで、しかも右のイヌは青い露の1滴に食いつきそうに見える。

 最後に絵札の一番下の3分の1のところでは、黒い筋の入った青い水の鏡の中央に、これも青い巨大なザリガニが、背中を見せて進む。

 これらのはっきりと分かれた3つの面は天体と大地と水の面を示す。それらを見下ろす月は反射光で輝くだけだが、この世のすべての現れを自分の方に吸い寄せて、それらに精神と血の色、霊魂とその神秘的な力の色、あるいは物質の勝ち誇った黄金の色を与えようとする。2匹のイヌは、番犬で霊魂導師のケルベロスで、月に吠えて、我々に次のことを想起させる。ギリシア神話の中で、ケルベロスは狩りをする月の女神アルテミスの動物であると同時に、《天界》と《冥界》の強力な女神へカテ(対立する両世界の境界である2つの塔はそのことを暗示している)に捧げられた動物であるということを。ザリガニまでが、月の歩みに似て、後ろに進むところから、しばしば月に結びつけられた。

 しかし月は常に嘘つきとみなされた。我々はこうした宇宙的レベルの表面的意味だけに満足すべきではない。なぜならこの絵札にはもっと深い、精神的レベルの意味作用があるからである。「月は善良な人間の死後に身を置くところである、とプルタルコスはいう。彼らはそこで、神的とも至福ともいえぬが、心配事のない生活を送って、第2の死を迎える。なぜなら人間は2度死ななければならないからである」(RIJT、252)。こうして月は、霊的分離から第2の死までの間の人間のすみかとなり、そこからやがて新生が始まるのである。

 霊魂は3つの異なる色(おそらく霊化の3段階に対応するのであろう)の露となって、月を目指して昇って行く。イヌが霊魂を怖がらせようとするのは、霊魂が想像力の錯乱から、越えてはならぬ境界を越えないようにするためである。反映と外観の世界は実在の世界ではない。ザリガニだけは月の光が岐々と照らす青い水の中にいる。それは占星術の《巨蟹宮》を想起させるが、これは伝統的に月の宮で、自己への回帰、良心の究明を促す。それはエジプトのスカラベ(聖甲虫)と同じく、移ろい行くものをむさぼり食って、精神の再生に一役買うのである。

 17番目のアルカナ《星》が我々を導いた神秘的照明への道で、月は常に危険な、想像力と魔力の道を照らすのに対し、太陽(XIX)は照明と客観性への王道を切り開く。



[画像出典]
   Selene, by Susan Seddon Boulet.