Antiphon弁論集・目次
アンティポンは、父ソピロスの子、区はラムヌウス区の人。自分の父親の学徒となり(というのは、〔父は〕ソフィストであり、アルキビアデスも、まだ子どものころ、この人のもとに通った〔といわれている〕人であった)、そして弁論の能力を――一部の人たちの信ずるところによれば、持ち前の自然本性によって――獲得するところとなって、政治に専念する一方、学校(diatribe)をこしらえたが、言論をめぐって、愛勝のためではなく究明のためという、〔ソクラテスとの〕意見対立から、哲学者ソクラテスと不仲になったと、クセノポンは『ソクラテスの思い出』(第1巻 第6章)の中で述べている。そして、いくつかの弁論を、法廷における争訟目的で、必要とする市民たちのために代筆(syngraphein)し、このことに従事した最初の人となったと、一部の人たちは主張している。たしかに、彼より以前の人たちの法廷弁論は誰のも伝存していないばかりか、彼と同時代の人たちのも〔伝存していない〕。代筆〔著述〕ということがまだ習慣になっていなかったゆえで、テミストクレスのも、アリステイデスのも、ペリクレスのも〔法廷弁論は伝存してい〕ない。時代は彼らに多くの機会と必要性とをもたらしていたにもかかわらずである。というのも、〔彼らの法廷弁論が〕残らなかったのは、著述の〔能力が〕弱かったからでないことは、上述の各人に関する著述家たちの述べていることからして明らかなとおりである。とはいえ、できるかぎり昔にさかのぼっても、この種の弁論を手がけた人としてわれわれが思い起こし得るのは、すでに老齢に達していたアンティポンを継承した人たち――例えばアルキビアデスなり、クリティアスなり、リュシアスなり、アルキノスなり――を見出し得るにすぎない。したがって、彼〔アンティポン〕はまた初めて弁論術を創始した賢者でもあった。それゆえネストルとも渾名されたのである。 また、カイキリオスは(fr.99 Ofenloch, FHG III 332)、彼に関する著作の中で、〔アンティポンは〕著述家(syngrapeus)トゥキュディデスの師匠であったと証言しているが、その根拠は、アンティポンが彼〔トゥキュディデス〕によって称賛されていること( 『戦史』第8巻 第68章)からである。〔アンティポンは〕弁論においては、明解(akribes)で、説得的(pithanos)で、創意工夫にとみ、錯綜したことにおいても練達で、思いがけないところから法習に着手し、感情に訴えることなく、特に弁論の尤もらしさ(to eu-prepes)を追求した。生まれたのはペルシア戦争時代、つまり、ソフィストのゴルギアスの時代であるが、彼よりは少し若年である。そして、「四百人」によって民主制が解体される〔411年〕まで生きながらえたが、この解体は彼自身が共謀したものと思われており、時には2艘の三段櫂船奉仕者となり、 時には将軍となって、多くの戦闘に勝利し、自分たち〔「四百人」〕にとって重要な同盟関係をもたらし、盛年にある者たちを重装歩兵化し、艦船60艘を艤装し、さらには、エエティオネイアが城塞化されたときには、何度も自分たち〔「四百人」〕のためにラケダイモンへの使節に立った。しかし、「四百人」〔政権〕解体の後は、「四百人」の一人アルケプトレモスとともに、弾劾裁判にかけられて有罪判決を受け、売国者たちに対する量刑を課せられて、〔屍体は〕埋葬なしに遺棄され、生子たちもろとも市民権喪失者として登録された。ところで一部には、彼は「三十人」によって処刑されたと述べている人たちもいる。例えば、リュシアスがアンティポンの娘のための弁論において〔述べている〕ように(断片11)。つまり、彼〔アンティポン〕には娘子がいて、これをカライスクロスが〔家付き娘として〕申し受けたのである。さらに、「三十人」によって刑死したということは、テオポムポスも『ピリッポス王伝』第15巻(FGr Hist 115F 120)で述べている。しかし、こちらは、父親がリュシドニデスであるから、別人であって、こちらについては、クラティノスも『ピュティネ』(fr.201, I p.74 Knock)の中で、破落戸として言及している。だから、先に死んだ者、つまり、「四百人」時代に処刑された者が、「三十人」時代にもまだ生きているなどということがどうしてあり得ようか。ところが、彼の最期については別な話もある。すなわち、彼は使節としてシュラクウサイに航行したという。この時はディオニュシオス1世の僭主制の盛時であった。そして酒盛りの時に、誰の銅像が最善かという問題が起こり、多くの者たちも種々異論を唱えていた中で、最善なのはハルモディオスとアリストゲイトン〔像〕が作られたものだと彼が述べ立てたという。そこでこれを聞いたディオニュシオスは、その意見は〔自分に対する〕攻撃を扇動するものだと猜疑して、彼の処刑を命じたというのである。また一部の人たちは、彼〔ディオニュシオス〕の悲劇作品を彼〔アンティポン〕が酷評したので、彼〔ディオニュシオス〕が腹を立てたため〔処刑を命じた〕ともいう。 この弁論家の弁論として伝存しているのは60編、このうち25編は偽作だとカイキリオスは主張している(fr.100 Of. FHG III 332)。〔喜劇作家〕プラトンの『ペイサンドロス』の中では、守銭奴として喜劇化されている(fr.103, I p.629 Kock)。また、単独で、あるいは僭主ディオニュシオスと合作で、悲劇作品をこしらえたとも言われている(p.792-6 Nauck2)。ところで、まだ詩作に従事しているときに、医者たちの手当てが病人たちに適用されるごとき無痛術を編み出した。〔そこで〕コリントスの市場近くに一軒の家をしつらえ、苦痛に見舞われた人たちを言葉によって治療することができるとの看板を掲げた。そして、原因を聴取し、患者たちを癒したのである。しかし、この技術は自分にとってはあまり価値がないと信じ、弁論術に方向転換した。また、レギノス人グラウコスの書『詩について』(FHG II 23)もアンティポンに帰する人たちがいる。しかし、彼の書で最も称賛されているのは、 ヘロデスに関する弁論(第5弁論)、エラシストラトスに対する孔雀に関する弁論(fr.57-59 Thalh.)、弾劾裁判に関して自分自身のために書いた弁論(fr.1-6 Thalh.)、そして、将軍デモステネスに対する違法提案の嫌疑での弁論である。彼はまた将軍ヒッポクラテス告発の弁論をも書き、これを欠席裁判で有罪にした〔以上の断片については、 Antiphon断片集 参照〕。 テオポムポスが執政官の年〔411/0年〕――「四百人」〔政権〕が解体した年――の決議にもとづき、アンティポンは裁判にかけられることが決定されたが、この決議〔文〕をカイキリオスが採録している。 「評議会決議、当番の第21日目。書記、アロペケ区出身デモニコス。議長、パレネ区民ピロストラトス。提案、アンドロン。内容は――ラケダイモンへの使節でありながら、アテナイ人たちの国家と軍に仇なす目的で、敵国の艦船に乗って渡航し、帰りは陸路デケレイアを通っとして、将軍たちが申し立てている者たちについて。 すなわち、アルケプトレモス、オノマクレス、アンティポンを逮捕し、法廷に引き渡し、しかして償いをさせるべきこと。また、将軍たちは、評議会の中から将軍たちによって補佐役として選任されるべく決定される10人までとともに、被告人出席のもとに裁判が行われるよう、これを出頭させるべし。またテスモテタイは、明日、被告を召喚し、召喚〔期限〕が過ぎたるときは、売国の罪で民衆法廷に提訴すべし。しかして、代理訴追人(synegoroi)として選ばれた者たち、および、将軍たち、および、他にも望む者は何びとなりと、告発すること。しかして、民衆法廷が有罪票決せし者は、売国奴たちに関する現行法にしたがってこれを処刑すること」。 かかる議定に、その判決が付言されている。 「売国の嫌疑で有罪――アグリュレ区出身ヒッポダモスの子アルケプトレモス、出席裁判によって。ラムヌウス区民ソピロスの子アンティポン、出席裁判によって。 両名に下されし量刑は、「十一人」に引き渡され、財産没収、その10分の1税は女神のものたること。さらに、彼ら両名の家屋は破壊し、敷地に標石を立て、これに「売国奴アルケプトレモスおよびアンティポンのもの」と刻すること。また、両区長は両名の家産を〔現金で〕決済すること。さらに、アルケプトレモスとアンティポンとは、アテナイはもとより、アテナイ人たちの支配する地にも埋葬することは許されず、アルケプトレモスおよびアンティポンは市民権喪失者にして、両名から生まれし子孫も、庶子であれ嫡子であれ、〔市民権喪失者たること〕。たとい、アルケプトレモスおよびアンティポンの血を引く者たちのいずれかを養子にする者あるとも、養子にした者は市民権喪失者たること。以上のことを銅の標柱に刻し、プリュニコスに関する決議のある所にこれをも立てること」。 |
- 『戦史』(第8巻 第68章)
「かれは当時アテーナイにおいて最も傑出した人物に数えられ、知謀、弁論ともにその力はまさに抜群とされた。しかしあまりに器量人であるとの評判に禍いされて、一般市民から疑惑をもって迎えられたので、自ら好んで民議会に出席することはなく、また人が優劣を競うような場所に姿を見せることもなかった。しかし、他人が、法廷や議会で己の主張を遂げんとして、相談を求めるときには、これを助ける力にかけてアンティポーンの右にでる人間はいなかった。そして遂にかれ自身、演壇に立つ時が来た。後日民主政治が旧に復し、四百人政権は失墜して民衆派から手痛い報復にさらされたとき、アンティポーンはこれを画策した責任者として弾劾され、死刑の求刑をうけたのであるが、かれが一命を賭して己の無罪を弁じた論述は、今日までに筆者が知りえた数ある例の中でも、とくに秀逸なものであったと思われる」(久保正彰訳)。
もとにもどる
- 時には将軍となって
前5世紀のアテナイにおいては、アンティポンは平凡な名前であって、そのため種々の混乱が生じている。弁論家アンティポンに加えて、以下のアンティポンを区別する必要がある。
1)国家に献身的な人物で、快速三段櫂船2艘を国家に提供した( 『ヘレニカ』第2巻 第3章 第40節)。この人物の娘のための弁明をリュシアスが書いている(アンティポン断片集(2)「アンティポンの娘について」)。したがって、本編において弁論家アンティポンに帰せられている軍事行動は、彼に帰せられるべきものである。
2)シュラクウサイの僭主ディオニュシオスによって死をたまわった悲劇作家(アリストテレス『弁論術』第2巻 第6章 1385a9)。
3)ソフィストのアンティポン(クセノポン『ソクラテスの思い出』第1巻 第6章、DL『哲学者列伝』第2巻 第46章)。コリントスで言葉による心理療法を試みていたのも、通常はこの人物に帰せられる。
4)ピュリラムペスの子、プラトンの義弟(プラトン『パルメニデス』126A-B)。
5)リュソニデスの子(『倫理論集』833A)。
6)その飢餓ぶりがアリストパネスによって嘲笑されているアンティポン(『蜂』1270)。
本編の著者は、以上のアンティポンを混同している。
もとにもどる