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back.gif第15弁論


Lysias弁論集



第16弁論

評議会において 資格審査を受けるマンティテオスの弁明






[解説]



 アテナイにはさまざまな資格審査制度が存在したが、それは次の六種類である。

  (1)壮丁(epheboi) の資格審査〔 [解説]参照〕
  (2)騎馬・騎兵の資格審査〔 第14弁論参照〕
  (3)働けぬ者(adynatoi)の資格審査〔 第24弁論参照〕
  (4)新規に市民権を授与される者の資格審査
  (5)民会・評議会における動議提案者(rhetor)の資格審査〔 第8弁論参照〕
  (6)公職者の資格審査

である。

 公職者の資格審査の場合、評議員と九執政官とは、評議会において審査を受け、その他の役人と九執政官(の二次審査)とは民衆法廷において審査を受ける(つまり、九執政官は二度の審査を受けることになる)。

 評議会の資格審査がどのように行われたかについては、『アテナイ人の国制』第55章に詳しい。

 先ず、「汝の父は誰でどの区に属するか、また父の父は誰か、また母は誰か、また母の父は誰でどこの区に属するか」と議長が問う。次に、家と先祖の墓、両親に親切であるかどうか、国に納めるべきものを納めているか、かつて遠征に参加したことがあるかなど、市民としての最低の義務遂行状態について尋ねた後、「以上についての証人を呼べ」と言う。証人を出した時、「誰かこの人を非難しようと思う者はないか」と尋ねる。もし非難する者があれば非難と弁明とを許し、しかる後に挙手採決にかける。非難する者がなければ、ただちに票決に付す。失格になれば、立候補者は民衆法廷に上訴することができる。

 審査に合格すれば、切り刻まれた犠牲獣の横たわる石の前に進み、この石の上に登って、「正しく法律に従って治め、その役目柄収賄するようなこともせず、もし収賄した場合には黄金製の像を奉納する」ことを誓う。誓いが終わったら、そこからアクロポリスに進み、そこでも再び同じ誓いを為し、しかる後に任務に就く。

 以上からわかることは、資格審査とは、その役職に適任であるかどうかの審査ではなく、完全市民としての資格を満たしているかどうかの審査であった。市民=役人=為政者、これが、アテナイ民主制の原理にほかならない。専門家をつくらない、いわゆる素人政治こそが目的であってみれば、料理人は調理術を身につけ、医者は医術を身につけ、船頭は操船術を身につけている、そのように、政治家も何らかの専門的技術を身につけていなければならないはずだとするソクラテス(プラトン)の論理は、まったくの言い掛かりだといわなければならない。

 アテナイ政界に足を踏み入れて、野心に燃える壮年マンティテオスは、評議員に立候補したが、評議会の資格審査において、たちまちにして非難者の標的にされた。「三十人」時代、騎兵の名簿に登録されていたという理由である。第16弁論は、これに対するマンティテオスの弁明である。

 騎兵であったことが、なぜ、それほどまでに問題になったのか。

 古来、戦士は武器自弁が原則であるから、武器の優劣はそのまま財産の多寡を具現していた。戦闘形態の変化により、さまざまな兵種が出現すると、兵種の違いは一種の階級性を表すことになる。古代ギリシアにおいては、馬は貴重品であったから、騎兵は貴族階級の若者の独占するところとなった。重装歩兵は、それだけの装備を自弁できる中産自営農民が担った。騎兵による一対一の闘いから、重装歩兵の密集隊による進撃へという戦闘形態の移行は、アテナイの民主化への契機になったといわれる。それでは、武器を自弁できない者はどうしたのか? 彼ら貧困な市民層は、兵船の漕ぎ手となった。そして、彼らの働きによってペルシア軍を二度にわたって撃退した時、アテナイの民主化は徹底したものとなった。

 前5世紀の前半、騎兵に選抜された者には補助金が与えられ、一日につき1ドラクマの馬匹飼育料が支給されるようになったが、その勤務はなお多くの費用を要したため、騎兵になるには相当の資力を必要とした。その結果、騎兵には名門の子弟が集まることとなり、彼らは父祖の時代の貴族制への誇りと、したがって寡頭制への憧憬を共有していた。長髪は彼らのstatus-symbol であったが、それはまたスパルタ兵の風俗でもあった。

 「三十人」時代にも、騎兵たちは最後まで抵抗をやめなかった。したがって、これに対する民衆の憎悪は相当なもので、BC 399年、ペルシアとの戦争状態にあったスパルタが、敗戦によってスパルタの同盟国に組みこまれていたアテナイに、騎兵300 の派遣を要請した時、アテナイは「三十人」時代に騎兵勤務した者たちを送りつけたほどである。「彼らが外地に行き、そこで破滅したら、民主制にとって利得になると考えて」(クセノポン『ヘレニカ』第3巻、第1章4-5)。

 これがBC 399年であることに注目したい。BC 403年の民主制回復は完全なものではなく、BC 401年、エレウシスにたてこもっていた寡頭派を制圧した後、一種の民主派革命が起こった。この時、「三十人」の暴虐に荷担した者には、役人の資格審査の際に任官を拒否すべしとの決議がなされた模様である。この決議によって、「三十人」政権下の騎兵勤務は、役人の就任から排除されるようになった。

 本弁論の年代は、カイロネイアの戦い〔BC 394〕以降、トラシュブウロスの死〔BC 389 〕以前の期間に比定される。

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