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最初に話したように、 私はアルパックに入社する前、 2年ほど建築設計事務所に在籍していました。 建築設計をだいたい終えた後、 次は土木設計をしたいと思ってアルパックに入社しました。 建築の仕事からもう少しスケールの大きい仕事がしたかったからです。 当時アルパックには、 私より10歳ほど年長の道家駿太郎という、 今は岐阜の大学の先生をしている先輩がいました。 その人と一緒に、 京都の西にある桂坂のマスタープランを作りました。 図15がそれで、 1983年のニュータウン開発で、 私が28歳のときです。 全体の計画作りと、 1、 2号区の実施設計をしました。 この計画を推進していたのは、 西洋環境開発で、 当時はまだ都市環境デザインという言葉もなかったのですが、 ここではまだ珍しかったコミュニティ道路を入れた住宅団地を作ろうということでスタートしました。 全体の計画では、 地区の真ん中の古墳を活かして「古墳の森」を作り、 バードサンクチュアリをその後ろに持ってきたのが特徴です。 後は歩車共存のコミュニティ道路を全体に取り入れたのが面白かったと思います。 私が1、 2号区の実施設計を担当する中でやったことを紹介しますと、 当時京都にはなかったコミュニティ道路を住宅団地に入れるために、 維持管理をどうするかを考えたり、 関係機関の同意を得るために同じ形状の実験道路を作り、 消防車を走らせてみたりしたことです。
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ここの団地は京風を意識していまして、 和風の門構えで外構デザインをして商品化しました(上)。 歩車共存のコミュニティ道路は下の写真で、 イメージハンプという段がある道路です。 今はとても高級な団地になっていて、 私の給料では買えません。
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上の写真は緑道です。 下の写真に見える丸い屋根は中層の集合住宅です。 我々がマスタープラン段階で配慮したのは、 戸建て住宅の中に中層集合住宅を入れることです。 戸建て住宅ばかりだと平板な景観になってしまうので、 地形的に戸建て住宅に不向きな場所に集合住宅を入れて景観のアクセントにしました。
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図18がその中層集合住宅です。 3階建てのタウンハウスのような建物が、 地形的に変化のあるところに造られています。 ランドスケープという言葉が出始めた頃ですが、 そういうことにも配慮したということです。 戸建て住宅が並ぶ土地の端で変な形の土地が出て、 ランドマークになるような場所でもあったので集合住宅を建てることにしました。 建物の設計はたしか内井昭蔵さんだったと思います。 ただ集合住宅の設計が行われたときは、 私はすでに大阪に転勤になっていたので、 設計には関与していません。
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30代に入って手がけたのが、 明石市の西にあるJR大久保駅前の開発計画で、 1989年の頃です。 ここは工業専用地域の中で区画整理をして、 住宅団地をつくるというプロジェクトでした。
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このようなプロジェクトでコンサルタントは何をしなければならないかと言うと、 まず図20のような計画が必要になってきます。 これは周辺の土地利用計画図ですが、 これを見ると住宅地に転換したいという工業専用地域は住宅地としては基盤整備が不十分です。 全体的に道路が足りないし、 学校も作らねばなりません。 さらに、 周辺の工場との関係を整理した上で土地利用を転換しなければなりません。 工業専用地域の中で再開発を考えた、 当時としては珍しい例です。 単にこうした計画図を描くだけでなく、 計画を実現するためのシステム作りが重要だと考えたのもこの頃です。
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その後、 こんな街が出来上がりました。 意匠や色彩にも配慮したポップな街になっています。
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また現実に出来あがる「もの作り」ばかりだけではなく、 図22のように用途地域の見直しの検討などもいたします。 私は都市環境デザインの中で用途地域や土地利用計画は重要な要素だと思っています。 ひとつひとつの建築や開発が都市の環境を作っていくのと同時に、 景観や土地利用を建築の集合体としてみて全体をどう考えていくのかを論じなければなりません。 用途地域の見直しの仕事をしたときには、 このまちでは都心居住の促進や臨海地区の土地利用転換の誘導、 住居系の用途の細分化が政策上の課題でした。 またそうした課題とは別に、 日々の生活の中で変わっていく建築活動の流れに対する見直しが必要だという4つの課題の中で方針を確立して、 新しい用途地域を指定していくわけです。 建築行為を誘導していくのも、 環境デザインの中では重要なファクターです。
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この景観復興マスタープログラム(1997、 兵庫県)については、 JUDIのホームページに詳細が掲載されていますので、 そちらも参照していただきたいのですが、 これは私が40代になってからのプロジェクトです。 この仕事をしたときのキーワードは、 「地域景観イメージの共有」です。 規制誘導によってひとつの枠にはめるタイプの景観づくりは今までよくやってきたのですが、 景観復興の場合はいったん壊れてしまったものをどうするかからスタートしますので、 マスタープログラムでは「人の心にあるイメージの復興」が景観づくりの目的だと設定しました。 ですから、 地域景観イメージの共有(私はこの時コモンセンスという言葉を使いました)を強調した仕事です。 この仕事は考えさせられる内容で、 私にとっても印象深い仕事のひとつでした。
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これは、 沖縄の那覇新都心というところの再開発プランです。 米軍の官舎跡地214ヘクタールの土地区画整理事業です。 今は、 区画整理が終わり、 造成が完了した段階です。 ここの中心地区の計画作りを行っている最中です。
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図25がその街区ごとの空間構成パターンで、 動線やアクティビティの計画をしています。
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図26を簡単に説明すると、 地区のシンボルとして国の庁舎、 市役所、 大型スーパー、 美術館などを配するスーパーブロックと、 それをつなぐように一般の宅地があるという空間構成にしています。 大型敷地の施主にはまとまって景観の約束ごとを作って下さいねと頼んでいますし、 小さい敷地の地主もそれなりに考えてもらいます。 お互いの敷地の中に通り抜けできるような道を作りましょうと提案しています。
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これが懇談会用に作った資料です。 沖縄にかぎらず「こんな空間になりますよ」ということを地元の人に判ってもらうために平易な言葉を使うよう気を使っています。
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その中で、 小さい街区(1000m2以下)はできるだけ共同化しましょうと提案したのが図28です。 沖縄では地下駐車場が少なく立体あるいはピロティにするパターンが多いのですが、 駐車場は立体にして裏側にまとめるプランを出しました。 それをどうやって実現するかというプログラムとして、 役所には連担建築物の指定(建基法86条)、 容積率緩和とか地区計画など、 都市計画の手法を提案しました。 また、 土地権利者には通路部分を負担していただかなくてはいけないので、 建築費用の負担減とか容積率緩和などの支援策を提案して、 共同化へのインセンティブがとれるように提案しました。
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最後になりましたが、 私の大昔の仕事を紹介して終わりたいと思います。 これは1978年に大学の卒業設計で作った大阪・船場の再開発ケーススタディです。 いろんな先輩と話しながら作りました。 今見ても、 そんなに悪いプランじゃないなと思います。 先ほど沖縄のプランを見てもらいましたが、 大学時代にも同じように街区の中に空間を作ることを考えていました。 ですから、 大学時代から同じようなアイデアを持って生きてきているわけで、 20年前と違うのはいろんな知恵がついてきたということぐらいです。 結局私がやってきた仕事は、 要素技術の積み重ねとその繰り返しです。 仕事には終わりがないものだなと思います。 これから若い人が専門職を選んでいくわけですが、 仕事には終わりがないものですから、 単純に結果を決めつけないでいただきたいと思います。 これで私の話を終わります。
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