間歇日記

世界Aの始末書


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99年1月上旬

【1月10日(日)】
▼なんと、やってる人がいるものである。昨日「納豆を冷凍しておいたらどうなるのだろう?」と思いつきで書いたところが、♪きむらかずしさんから「我が家では、長期保存のために納豆を冷凍しております」と代々きむら家に伝わる一子相伝の奥義が寄せられた。食べるときは電子レンジで解凍するのだそうで、味は変わらず、二、三週間は保つとのこと。それ以上保つのかもしれないが、こればかりはやってみないとわからない。半年、一年と冷凍した納豆が味も変わらずいつでも食えるとなると、これは朗報ではあるまいか。どなたかやってみていただきたい。おれは遠慮しておこう。よく考えてみれば、納豆などというものは比較的安価にいつでもどこでも買えるわけで、一年も冷凍しておく必然性が見当たらない。納豆に冷凍庫のスペースを占拠させるコストを考えれば、そんなに長く保存するよりも新たに買ったほうが安いのではあるまいか。どのくらいまでは冷凍保存しておいたほうがお得なのか、冷蔵庫のスペックを見ながら損益分岐点を計算してみるのも一興かもしれん。暇で暇で気が狂いそうになったら、そのときにはやってみよう。とはいえ、冷凍しておけば三週間経っても食えるし、現に食って生存している人がいるというのは心強い情報である。きむらさん、ありがとうございました。
▼ひさびさに昆布茶などというものを飲んでみる。おれはけっこう好きだ。やたら塩辛くて身体に悪そうでもあり、いろいろありがたみのある栄養素を含んでいて身体によさそうでもあり、なんだかわけのわからない飲みものではある。そういえば、昨年の京都SFフェスティバルのとき、喜多哲士さんご夫妻と喫茶店で雑談していて、昆布茶の話になったのだった。喜多さんとおれが「昆布茶と言ったら“パッカパッカパッカパッカ――”」「“お馬でホイ!”でしょう」と哲学を共有していたところ、隣で喜多さんの奥さんはきょとんとしている。パッカパッカ云々は、不二の昆布茶」のあまりにも有名なCMソングなのだが、なぜか喜多さんの奥さんはご存じないとおっしゃるのであった。そんなバカな、とおれも喜多さんも驚いた。あのCMが京都ローカルであったとは思えない。しかし、大阪育ちの喜多夫人は知らないと言う。ううむ、謎だ。おれは「不二の昆布茶」のCMソングは、「てっちゃん、てっちゃん、かねてっちゃん――」「ぼくの名前はヤン坊、ぼくの名前は――」に匹敵する“みんなのうた”だと思っていたのだが……。さては、喜多さんの奥さんはモグリの関西人だったのだろうか。あるいは、なぜか「不二の昆布茶」が存在しない並行宇宙から、わざわざ喜多さんの奥さんになりにやってきたのかもしれん。どうもこっちの人間にしては美人がすぎると思っていたのだ。怪しい。次にお会いしたら「あなた、車売る?」をご存じか訊いてみよう。

【1月9日(土)】
▼さて、今日は仕事に追われてネタがないので、またまたお便り紹介で行こう。以前「納豆が腐るとどうなるか?」というおれに疑問に、腐った納豆を食ったことがある林譲治さんから悲惨な体験談が寄せられたが(98年12月19日の日記)、あれ以後、腐った納豆情報をほかの方々からもいただいていたので、ここに一挙公開する。
 まず、坂田健悟さんは写実派である。「僕が小さな容器に入った小粒納豆で確認した限り、賞味期限を切れると、納豆の表面に白い斑点が現れます。カビのようなものではなく、極小のパルメザンチーズ粉末のような立体感のあるつぶつぶでした」 腐った納豆のおどろおどろしいありさまが目に浮かぶ――と言いたいところだが、この描写を読むかぎり、なにやらうまそうな感じである。坂田さんもうまそうだと思ったかどうかは知らないが、ともかく「たべられるかなあ」とは思い、製造元の会社に問い合わせたのだそうである。ふつう、なかなかここまでの探求心はない。単なる食い意地である可能性もあるけれども、ここはやはり読者は神様であって、探求心であったにちがいないことにしておく。製造元の回答というのがすごい――「うーん、ちょっとねえ……てんぷらにしたら食べられるけど
 ほんまかいな。納豆が腐るというのは、たぶん納豆菌以外の雑菌が繁殖した状態を言うのであろう。とすると、雑菌からなんらかの毒素が出ているはずだ。天ぷらにして雑菌を殺すことはできても、毒素は消えないのではあるまいか? あるいは、納豆を腐らせる雑菌が出す毒素は、熱によって変成して無毒化されるようなものだと相場が決まっているのであろうか。謎である。結局、坂田さんはその納豆を捨ててしまったそうだが、坂田さんのご家族は、同じような状態になった納豆もわりと平気で食べておられて、「風味は確かに落ちるけど、今んとこなんともない」とおっしゃっているらしい。林さんが食べたのは、よほど腐敗が進んだものだったのであろう。やはり作家の探求心というのはすごい。単なる食い意地である可能性もあるけれども、ここはやはり読者は神様であって、探求心であったにちがいないことにしておく。
 ねこたびさんのご報告も、ほぼ似たような状態である――『さて、私の場合は「甘納豆」まで至らず賞味期限から3、4日のものですが、確かに糸を引かなくてぽろぽろになっています。練る前にだしを入れてから混ぜたような感じです。さらに、視覚的には、豆表面に納豆菌のコロニーとおぼしきものがびっしりとつき、食感も「つぶつぶ」というか「ざらざら」というか、何とも納豆らしくなくなります。(林さんのケースはこれが行き過ぎて既に豆全体が覆われてしまった状態なのかも)。さらに、内部まで侵食されるせいか、豆に歯ごたえがなく、柔らかくなっていました』
 ということは、ねこたびさんもこういう状態の納豆を食べておられるわけである。大丈夫かいなとは思うのだが、「幸い鼻が利くので、ぎりぎり食べられるものしか食べず、腹を壊した経験はありません」と、なんともスリリングなことをおっしゃるのであった。おれはあまり鼻が利かないから、賞味期限から二日くらいを上限にしておくことにしよう。
 ここでふと思いついた。納豆を冷凍しておいたらどうなるのだろう? なんだかむらむらと実験したくなってきたが、うちの冷凍庫はいつも一杯で、納豆のパックのような嵩張るものを酔狂で入れておくと家人が厭がりそうだ。冷凍した納豆をかき氷器で粉砕すれば、手軽に碾割納豆が作れるかもしれんな。練った納豆に割り箸を沈めて凍らせ、納豆アイスキャンディーを作ってみるのも面白そうだ。面白そうだが、うまいかどうかは別問題である。小豆入りの小倉アイスキャンディーなんてのもあるから、親類筋だと思えばそれほど奇異な感じはしないよね。するってか。

【1月8日(金)】
▼このところ携帯電話の話題が続いているが、林譲治さんがまたもや面白い話をお寄せくださった。なに? どうも最近人のネタを日記で紹介しているだけのようだ? まあ、いいじゃないか。ラジオのDJみたいなものである。
 林さんが以前小金井市にお住いだったころ、駅前をどこかのおばさんが大声で怒りながら歩いていたそうなー(常田富士男の声で)。携帯電話で話しながら怒っている人をよく見かけるので、てっきりその類だと林さんは思った。が、見ると、そのおばさんは携帯電話など持ってはいなかったのだった。
 これはありますなあ。なにやらわけのわからないことをひとりで叫びながら歩いている人というのは、むかしからよく見かけたものだが、昨今、携帯電話のおかげで、こういうヘンな人があまり目立たなくなってしまった。いいことなのか悪いことなのか、よくわからん。ああいうヘンな人は、なぜか忘れられないものなのである。風情があると言えば言えるよね。電車のドアに向かって「バカにしたらあかんで! ああん? わかっとんのか?」とひたすら繰り返しているおじさんがいたなあ。たぶん、相手は電車のドアだから、おじさんの必死の主張もさっぱりわかっていなかっただろうと思う。新手のチューリングテストと言えよう。
 駅のホームで突然空手の型らしき構えをしたかと思うと、「おう、やる気か! わしは国士館じゃあ!」と叫んでいたおっさんもおった。なんだ、あれは。たしかに“館”とか“社”とか“院”とかがつく学校は、なにやら独自の教育方針を持ったエラそうな響きがないでもない。かといって、「わしは立命館じゃあ!」「同志社じゃあ」「関西学院じゃあ」「神戸女学院じゃあ」と叫んで空手の構えをしているおっさんを見たことはないなあ。関東のほうだと多いのかもしれん。空手の構えをするかどうかはわからんが、「学習院じゃあ」と威張る人はけっこういるかも。もっともあれは、本人は威張っているつもりはなく、まわりの人が勝手に畏れ入っているケースがほとんどのようだが。
 で、話は戻るが、携帯電話が普及したおかげで、このように往来で意味不明の言葉を発する人々がますます無視されるようになってしまい、彼ら彼女らもやり甲斐がなくなってきたのではあるまいか。やっぱり見てほしくてやってるんだろうから、気の毒なことではある。この現象を逆手に取り、携帯電話を利用して人前で好き勝手なことをほざくというストレス解消法はいかがか? 携帯電話さえ耳に押し当てておれば、人前で平気でひとりごとが言える。着信音がしないと怪しまれる? バイブ設定だったような演技をすればよろしい。あるいは、携帯電話の機種によっては、いかにも人からかかってきたかのように見せかけることも簡単にできるのである。あまり公開したくない方法だが、べつに犯罪じゃないし、役に立つこともあるかと思うのでお教えしておきましょう。
 最近出まわってる、スカイウォーカーやらスカイメッセージやらスカイワープやら(同じものだけども)といったサービスが使える機種がありますわな(おれのもそうだが)。同一電話会社なら電話番号だけでショートメッセージの送受信ができ、インターネットを経由すれば電子メールの送受信もできるというやつだ。このタイプの携帯電話をお持ちの方は、まずインターネット・サービス・プロバイダやパソコン通信会社のメール転送サービスを利用して(提供していない会社もあるが)、自分のメールアドレスAに来たメールを携帯電話のメールアドレスBに転送する設定にしておく。これはとくにトリッキーなことをするつもりがなくても、設定しておくとふだんも便利だ。たとえば、NIFTY-Serve にしても京都iNETにしても、メールをほかのアドレスに転送しつつ元のメールボックスにも残しておく設定が有料でできるので、携帯電話の受信文字数制限で桁落ちしても、あとでパソコンで全文がゆっくり読める。さて、ここからはトリック。次に、携帯電話のメール受信音と電話着信音とを似た音(まったく同じ音にできればベスト)に設定しておく。「ピピ」なんて短い音じゃなくて、「ピピピピピピピピ」と、ひと続きが長い音のほうがよい。厭な相手に捕まってしまって「あんまり長々とつきあってられないんだよなあ」なんてときは、相手の隙を見はからい、たとえば NIFTY-Serve の自分のアドレスに向けて携帯電話から電子メール(インターネットメール)を打つ。電話会社のセンターから帰ってくる送達確認通知は切っておこう。メールはいったん NIFTY-Serve で受信され、それは当然再び手元の電話に転送されてくる。要するに、NIFTY-Serve に当たって跳ね返ってくるわけである。跳ね返ってくる時間は、早くて一、二分、遅いときは十分くらいだ。携帯電話がメールを受信すると受信音が鳴る。ここで素早く電話に出ると、あたかも人からかかってきた電話に出たかのように見える。“素早く”出なければならないのは、それが電話の着信音ではなくメールの受信音だということを見破られないようにするためだ。電話の着信音は鳴り続けるが、メールの受信音は一回鳴って終わりである。あとはあなたの演技力次第。急な用事ができたような会話をするふりをして、厭な相手とおさらばすればよろしい。特別な機器を使わなくとも、そこいらの個人向けサービスを組み合わせてできるお手軽なトリックである。ただし、相手がパソ通やインターネットに詳しい人なら容易に見破られるおそれがあるので、人を見て活用しないと知りませんぞ。え? 通話圏外の喫茶店に連れ込まれてしまった? そりゃ、諦めてください。

【1月7日(木)】
昨日の日記に、冗談のつもりで“1/1綾波レイ抱き枕”もし存在しても云々と書いたところが、ガイナックス取締役統括本部長、武田康廣さんから直々に「存在します」とメールが寄せられた。UCCコーヒー“エヴァ缶”って企画があったが、アレの景品として実在するのだそうである。今夜も抱いて寝てる人がどこかにいるわけだ。おそれイリヤのムウロメツ。有名な“1/1綾波レイ・フィギュア”ってのは写真で見たけど、抱き枕まであったとは。これからは、そうそう存在しそうにないものを思いついても、もうひと押しせねばなるまい。ええい、“1/1堺三保抱き枕”ってのはどうだ。抱き心地はよさそうだぞお。これならまだ存在しないにちがいない。はっ――待てよ。“1/1ファンシーミホ抱き枕”なら、早くも誰かが作っている可能性はあるかな。スピーカーが内蔵されていて、胸のところを押すと「ボクメツよ! ボクメツよ! ボクメツよ! ボク――」と叫ぶのである。「SFマガジン」読んでないと、さっぱりわからんネタですみません。だから読もうね。
 綾波抱き枕はハズしたけれども、一昨日の日記「大便をしながらケータイで話している人」のほうは、思ったとおり実在した。ガイナックスの取締役統括本部長、武田康廣さんとおっしゃる方である。紹介のしかたが単調では文章が間延びするので、今度は菅浩江さんのご夫君の武田康廣さん”と書こうかと思ったのだが、なんとなくこの文脈では菅さんに「いけずやわぁ、すかんたこ」とか言われそうな気もして、熟考の末、この紹介のしかたはやめておくことにした。われながら紳士的である。
 武田さんがおっしゃるには、大便をしている最中に急な用件で電話がかかってきて、そのまま話し続けたことが何度かあるとのこと。また、「大便しながら急を思い出してしたことも」当然あるのだそうである。すっきりして大事な用件を忘れてしまうのを怖れたのであろう。ビジネスマンの鑑だ。武田さんがいつも大便をしながら電話をしていると思われてはいけないので、武田さんの名誉のために大便して、じゃない、代弁しておくと、さすがに世間話をするためにわざわざ大便をしながら電話したことはないそうである。しかし、世の中にはもしかするとそういう人もいるやもしれぬ。テレビ電話だったら厭だよな。想像し得るかぎり最もすさまじい事態のひとつは、大便をしながら知人に電話したところが、相手も大便をしていたというケースであろう。携帯電話やPHSがこれほど普及している現代のこと、まったくあり得ない事態とは言えない。万が一、経験者がいらしたら、ぜひメールをください。
▼昼休みに喫茶店の二人掛けのテーブルにひとりで座ってカレーを食っていたら、「ご相席お願いします」とウェイトレスに連れられてきた客がおれの前に座った。なかなかの美人である。ふつうのOL風の美人というのではなくて、なにかこう、プロの美人という感じの美人だ。おお、ラッキーと内心小躍りしながらも平静を装ってカレーを食い続ける。すると、かの美人はおもむろにバッグの中から紙束を取り出し、驚いたことにそれを音読しはじめた。なんだこいつはと耳をすますも、日本語であることがわかるだけで、読んでいる内容がさっぱりわからない。どう聴いても、脈絡のない日本語の羅列である。やがて「ぶぐばぐぶぐばぐ……」などと言い出したころ、ようやくわかった。早口言葉なのだ。この女性はたぶんMCかなにかで、本番を前にして喫茶店で舌の準備運動をしているのであろう。道理で芸能人風の華やかさがあるはずだ。
 しかし、プロというのは、やはりプロだねえ。サラリーマン連中が飯を食って雑談している中で、平気で早口言葉の練習ができるのだ。でも、目の前で飯食ってるほうは驚くよ。いまに外郎でも売りつけられるのではないかと思ったが、彼女はスパゲッティを食うとさっさと去っていった。ちょっと不気味ではあったものの、声フェチのおれにとっては、いい昼休みであったことよ。

【1月6日(水)】
▼パソ通友だちから「アニマル抱きまくら」というのが送られてくる。パッケージを見ると、クマ、サル、カエル、ウサギと四種類あるらしいが、おれに送ってきてくださるくらいであるから、言うまでもなく“カエルの抱き枕”である。サイズからすると子供用らしい。まあ、カエルの抱き枕に大人用というのがあったら、それはかなり不気味であろう。
 さっそく試してみようと“組み立て”をはじめる。空気を入れて膨らませるようになっているのだ。それから服を着せてできあがり。布団の中でちょっと抱いてみる。おお、なかなかいい。それがなんであろうと、ふわふわと柔らかいものを抱いて寝ると、なんとなく精神が落ち着く。これが針金でできておったらそうはいかん――って、わしゃハーロウの実験のサルか。えっと、心理学ネタがピンと来ない方は、『愛のなりたち』(H・F・ハーロウ、浜田寿美男訳、ミネルヴァ書房)をご参照ください。
 いや、抱き枕というのは一度試してみたかったのだが、なるほど、これはいい。とにもかくにも、柔らかいものを抱いて寝るだけで落ち着く程度のものが人間であるとわかるのがなにやら楽しい。しかし、これって考えみれば、“カエルのダッチワイフ”以外のなにものでもないわけで、四十も遠くない男がカエル抱いて寝てるところを傍から見たら、ほとんどサイコな世界ではあろうな。でも、気持ちいいぞ。とくに脚のあいだに柔らかいものが挟まっているという感触は、非常によろしい。これで膝頭から太股のあたりになにやら湿った温かいものがぬちゃっと密着してくると最高なんだがってなにを書いてるんだ、おれは。十八歳未満の方は読まなかったことにしようね。
 これで今日から独り寝でなくなった。おれにはカエルちゃんがいる。真希さん、ありがとうございました。あ、でも、ウケたからって、“1/1綾波レイ抱き枕”とかはもし存在しても遠慮させていただきますので、あしからず。

【1月5日(火)】
▼持病の薬をもらいに病院へ行く。そこでおれはものすごいものを見た。びっくりである。今年こんなにびっくりしたことはないほどの驚きだ。
 おれが小便をしようとトイレに入ると、ひとりの中年男が先に小便をしている。それはまあいい。中年男だって小便くらいする。なぜかその男は、左手を耳に当てて片手で小便をしているのである。まあ、病院のことだから、いろいろややこしい疾病を抱えた人が小便をしていても不思議ではない。あんまり珍しそうに見てはいかん。おれはその男の左隣の便器の前に立ち、もう一度よく見ると、なんとこの男は、携帯電話で話をしながら小便をしているのである。器用なやっちゃなー。よっぽど忙しいのか。タランティーノだって、そこまではせんかった。そもそも病院の中で携帯電話を使うのは非常識だが、おれはあまりのことに小便が止まりそうになり、ただただ笑いを堪えていた。
 以前「迷子から二番目の真実 〜 携帯電話 〜」で、携帯電話での話しかたを分類したことがあったが、これは新たな例としてファイルしておかなくてはならないなあ。
 このぶんでは、大便をしながらケータイで話している人だっているにちがいない。便器に落としたらどうする。次に入った人がしゃがむと、誰かが肛門に向かって「もしもし! もしもし!」と話しかけてくる。あちらはあちらで、妙に間延びしたゲップやら、奇妙な咳払いやらが聞こえてきて首を傾げている。いいなあ、これ(なにがいいものか)。

【1月4日(月)】
▼年賀状をたくさん頂戴するも、こちらからはまだ全然出せないのであった。ああ、心苦しい。それにしても、正月の休みというのは、どうしてこうも細々とした野暮用が多いのか。これでは普段よりも忙しいではないか――って、そんなことはないはずだ、会社行ってないんだから。芸能人がハワイに行きたがるというのもわからんではないが、いまどきハワイに逃げたとて、くだらん正月番組に参加させられたり、芸能リポーターに追いかけられたりするに決まっていて、ほんとうに金持ちの芸能人はハワイなどという日本の出島みたいなところじゃなく、オーストラリアとかニュージーランドとかリヒテンシュタインとかイラクとかリビアとか北朝鮮とかでゆっくり羽を伸ばしているのにちがいない。
 それはそうと、今年は海老一染之助・染太郎を見なかったな。なんか正月が来た気がせん。
 フジカラーのCM、恒例の六福神、じゃない、七福神篇である。いまウケた人は諸星大二郎ファンですね。やっぱり弁天様は観月ありさでなくてはならない。せっかく定着して、熟れてきたのに。ああいう弁天様であればこそ、XXなXXXXで、ああ、XXX、XXXXなどとXXながらXXXX、XXっ、XXっ、XXXそんなXXXXX、XXXX、もうXXXXXXXXXっと妄想とXXXXをXXXする楽しみがあろうというものであって、いまウケてる人は筒井康隆ファンですね。と憤慨しながら観てはいたものの、これだけあちこちで観せられると田中麗奈の弁天様も悪くはないと思えるようになってきた。というか、けっこういいのではないか。もしかすると、非常にいい。もう二、三年もすると「弁天様は田中麗奈でなくてはならぬ」といま時分の日記でほざいているような予感に顫えるおじさんであった。
 しかし、まだ田中麗奈の弁天様とXXXXしたいとは思わんな。可愛いけどね。やはり思わずXXXXがXXするようなXXなXXXX弁天様は、葉月里緒菜にやってもらいたい。CMの女王だったのはつい最近のことのような気がするのに、まったくテレビ界というところは右へ倣えだよなあ。そんなにイメージ悪いかね? イメージが悪いなら悪いで、そういうイメージを利用したCMというものができんか。むかしポケベルのCMやってたけど、いろいろあったいまの葉月里緒菜こそ、携帯電話のCMにうってつけではないかと思うがどうか(あくまでイメージの話だよ)。駅の柱の陰で携帯電話を手で包み込むようにささやき声で話している黒い服の女。カメラに背を向けているので誰だかわからない。女、電話を切ると、『オーメン』のダミアンのごとく、ゆっくりと肩ごしに振り向いて妖しく微笑む。この“妖しく微笑む”ところに演技力が要求されますな。これ、葉月里緒菜にやらせたら、携帯電話は飛ぶように売れそうな気がする。まあ、放映後二週間ほどでどこぞの団体から抗議が来て打ち切りを余儀なくされるわけだが、そのときはあらかじめ作っておいた続篇をいけしゃあしゃあと放映する。葉月里緒菜、駅の雑踏の中に誰かを見つけたのかぱっと顔を輝かせ、にこにこと手を振りながら、会社帰りのお父さんに駆け寄る。どこから現れたのか、お母さんやお兄ちゃんや妹やらがわらわら集まってきて、これから一家でお食事――というわけなのであった。なんか、ますます抗議されそうではあるが、やったらおもろいやろなあ。

【1月3日(日)】
リンダ・ナガタのサイトが更新されたとロボットが知らせてきたのでひさびさに見に行く。A bibliography of my published fiction というコーナーが新たにできていた。そうだよね、作家にかぎらず、自分の名前で仕事を公表する類の方は、過去にやった仕事をリストをにしておいてくださると、見るほうもありがたい。べつにウェブページにしなくてもいいけど、「はい、私がいままでにやった仕事のリストね」とテキストファイルで渡せるようにしておくと、なにかと便利でありましょう。キャリアも長く功成り名遂げている人がいまからやるのはなかなかの手間だし、また、放っておいてもファンがやってくれるでしょうが、そうでない人は仕事が少ないうちに自分で作っておくといいんじゃないかと思う。いまに、編集者や書評家のほうでも「ええっ、データじゃないんですか!? か、紙ですか?」(ちっ、面倒だなあ)とみなが思うようになるに決まっているのだ。
 で、リンダ・ナガタだけど、へー、『極微機械(ナノマシン)ボーア・メイカー』(中原尚哉訳、ハヤカワ文庫SF)は去年ポーランド語版も出てるんだなあ。ポーランドってのが、なんとなく渋いすね。さすがはスタニスワフ・レムの国というか。じつは皮肉なことに、この作品はローカス賞(処女長篇部門)まで獲っていながら、オリジナルの英語版が版元在庫切れなのである。いま英語版を手に入れようと思ったら、流通在庫か古本を捜すしかない。ナガタ氏も、いまのところいちばん高く評価され露出も高かった作品が、日本語版とポーランド語版でしか入手できない状況に苦笑なさっていることだろう。けっして売れっ子というわけではないが、ここ数年でデビューした人の中ではかなり注目されているほうなのに、いまだに出世作に重版がかからないとは、なんとも厳しい世界である。ハワイの本屋にはけっこう並んでいるって話なんだけどね。
『古畑任三郎 VS SMAP』(フジテレビ系)を楽しむ。いやまあ、三谷幸喜にうまいと言うのはジャイアント馬場に背が高いと言うようなもので、その点では驚きはあまりないのだが、今回の長時間枠でよりはっきりしたのは、この脚本家はやはりミステリ作家ではなく、とことん脚本家なのだということである。はっきり言って、トリックの完成度や整合性を重視する筋金入りのミステリファン(SFで言えば、ハードSFファンみたいな人々)にとってはもの足りなかっただろうと思う。おれのような、ミステリにさほど詳しくない人間ですら首を傾げるようなディテールが散見されるのが古畑シリーズである。が、テレビドラマとしての作劇テクニックは天才的で、今回の作品の完成度には呆れるばかりだ。観た直後は、テレビにしてはずいぶんと重いものを食わされたような感じで、しばし呆然としていた。おれはトリック自体の整合性にはさほどこだわるほうではなく、その見せかたにこだわるので、こういう作品は好きなのである。ミステリとして観るのではなく、演劇として観るわけだ。
 ここからちょっとネタばらしになるので、録画しておいたものをいまから観る方はご注意を――。


 さて、そういう観点からすれば、このドラマの主役はほとんどSMAPのマネージャー前田を演じていた戸田恵子と言っていいだろう。前田がSMAPの共犯、と言って悪ければ、犯意を持って殺人幇助をしたことはあきらかだ。あきらかというのは語弊があるな。その可能性を演劇的には非常に明確に示しつつ、論理的には遊びを持たせてぼかしている。このあたりの見せかたが、むちゃくちゃにうまい。「そんなことちっとも“あきらか”じゃないぞ」と思われる方は、ミステリの論理で観ておられるのだろうと思う。そう、その解釈も正しい。論理的に前田の犯意を立証はできないが、作劇上の象徴操作に注目すれば、やはりかぎりなく共犯に近いのである。アンパンマン精神を発揮したのだろうか。古畑はそのことを知っているし、やろうと思えば立証できたはずだが、あえてやらなかった――ということもちゃんと匂わせる作りかたがしてあるのだから小憎いほどだ。
 前田をめぐることどもは、ひとつの解釈でもまったく差し支えはないが、常にふた通り以上の解釈ができるよう巧妙に練り抜かれている。(誰が決めたか知らないが)ひとつであるはずの事実を、言語と象徴と所作(映像)と(劇中の)時間の力でかぎりなく不明確にしてしまう“事実の不確定性”を駆使する作劇手法は、とくに不条理演劇ではおなじみのものである。三谷幸喜は、“事実の不確定性”などというものと一見馴染まないミステリに於いて、作劇上の挑戦をしてみたかったのだろう。ちなみに、この“事実の不確定性”を扱わせたらほとんど右に出る者がいないくらいの達人がハロルド・ピンターで、稲垣吾郎が練習していた舞台の演目『背信』は、まさにこの手法の品評会みたいな作品なのだ。稲垣が『背信』に言及するのは、彼が“裏切り者”である可能性を匂わせるミスディレクションであると同時に、三谷のピンターに対するオマージュもしくは挑戦状でもあるのだろう。もっとも、稲垣絡みのミスディレクションはあまりにあざとく、誰にでも中居の自作自演が見破れてしまうけれども、このあざとさすら三谷の“テレビ的”な計算であろう。
 どうも納得がいかないとおっしゃる方もあるだろう。いや、べつにそれでいいのだ。こういう手法は、「表の意味はAだが、じつは裏にBという真実がある」という単純なものではなく、「事実はAであると同時にBでもあった。どちらも真実であり、また真実でない」と混乱させるところに真骨頂がある。
 たとえば、前田はSMAP以上にあの劇場の構造に精通しているはずだが、映写室で木村と一緒にいることになっている中居の“携帯電話”になぜわざわざ電話をしたのか? 単に映写室の外線番号を知らなかったのか。あるいは、映写室には内線しかなく公演直前の多忙なスタッフに取り次いでもらうのをはばかったのか(スタッフが据え付け電話で携帯電話の前田と会話しているカットもちゃんとあるから、劇場各所の据え付け電話と携帯電話との通話が可能なことは明示されている)。あるいは、映写室は必ず通話圏内にあるという確信が前田にはあったのか(地方の小さな劇場なのに? 構内中継アンテナはありやなしや? 電子機器の多い映写室はむしろ図らずも電磁遮蔽性が高いという可能性もありやなしや?)。あるいは、単なる前田の癖か。あるいは、気まぐれか。あるいは……??
 また、古畑ほどの人間が、なぜ仕出し屋の体重を正確に聞き込みしていないのか? 聞き込みする時間があったのか、なかったのか。あるいは、聞き込みしているが、謎解きの体重計算の際にはあえて触れなかったのか。仕出し屋に聞き込みしているとすれば、そこでほかに重要な情報を掴んでいないのか。あるいは、仕出し屋の証言からある重要なことを掴んだが、あえてそれには突っ込まなかったのか。古畑が最後に前田にかけた「一緒に行かれますか?」という言葉はどういう意味だったのか――ほかにも「あれ?」と思う箇所はいくつかある。前田はSMAPの計画を完全に知っていたのか、おぼろげながら察して陰ながら幇助したのか、まったく知らなかったのか。どれであってもよいのである。こういうの好きやなあ。
 まだ納得いきませんか? そりゃまあ、作りものだから、ここには唯一絶対の“事実”などない。“いつもの古畑”として楽しんでもまったくかまわないようになっている。が、三谷幸喜自身がこういう重層性を“読んで”もらいたがっていることはたしかだ。こりゃもう、断言しちゃいます。作者からのメッセージは、中居のネックレスの珠の数が暗示しているのだ。また、中居が自分ひとりに容疑を向けるために行ったネックレス絡みの工作には、さらに象徴的な意味と、もうひとつの解釈の可能性が重ねてある。ここいらはすでに純ミステリとしての論理ではなく、演劇的なメタ論理だ。いや、じつにすばらしい。ここまで練り込んだものなら、一年に一本作ってくれれば充分だし、また、濫造はとてもできないだろう。
 三谷幸喜はミステリ作家としては非凡の域には遠いかもしれないが、脚本家として超一流であることを再認識した。『古畑任三郎 VS SMAP』は、『刑事コロンボ』のほとんどの作品を演劇として凌駕している。というか、狙いがちがうんだけども。

【1月2日(土)】
▼例年のごとく、妹一家がたこ焼きを食いにやってくる。正月二日はなぜかたこ焼きを食うことになっているのだ。正確にはたこ焼きではなく明石焼きを作っているつもりなのだが、家で明石焼きの真似ごとをしても専門店で出しているようなものとは似ても似つかないものになってしまう。よって、いつしかおれたちも“たこ焼き”と呼んでいるのであった。
 こういうことを言うと、「たこ焼き用の鉄板なんて家にあるんですか。すごいなあ」などと感心されたりすることがある。感心するのはたいてい関東の人だ。たこ焼き用の鉄板など、関西、と言って言いすぎなら、京阪神の家庭には、各戸に郵便受けがあるのと同じように、まず必ずと言っていいほど、ある。「お宅にたこ焼き用の鉄板ありますか?」と訊いてまわったわけじゃないけれども、そんなことをいちいち尋ねる気にもならないだけだ。「お宅に郵便受けありますか?」とは尋ねないでしょう、ふつう。
 いつも納豆の話ばかり書いているくせに、いったいどういう家庭かと首を傾げておられる向きもあるだろう。種明かしは簡単である。おれの父親だった人は東京生まれの東京育ちであり、おれの母親は京都生まれの京都育ちである。おれ自身、東京で生まれた。東京オリンピックのとき、おれは母親に抱かれて間近にアベベが走り去ってゆくのを見たそうだ。「ほら、見たやろ」などといまだに母親は言うのだが、そんなもん、三島由紀夫やあるまいし、憶えてるわけないじゃないか。おれが一九六二年生まれだということを忘れているとしか思えん。東京でオリンピックがあったのは六四年だぞ。ま、そんなわけで、おれは東京と京都の折衷文化の中で育ったのだった。とはいうものの、実際に暮らしているのは関西が圧倒的に長いので、関西的なものへの愛着のほうがはるかに強い。食生活と言語だけは、いまだにこんがらかっている。正月にはそれを痛感するのである。うちの雑煮は、元日は白味噌で、二日以降はすまし汁になる。それでなんの違和感もない。強いて言えば、おれはすましのほうが好きだが、白味噌もなければないで寂しく思うだろう。餅は丸餅だ。妹は完全に京都の人間であり、白味噌のほうを好むようである。
 母と妹に共通しているのは“東京はとても怖いところだ”という意識だ。幸か不幸か、おれはその意識を共有していない。母は実際に東京で厭な目にもあったのだろうが、それとて三十数年以上むかしの話である。妹はそういう母の嫌悪と恐怖を吹き込まれているだけなのだ。傍で見ていると、すごい似た者親子だ。こいつらときたら、東京ではまるで毎日のように人が殺され赤ん坊が捨てられあちこちで爆弾が破裂し、人はみな他人を蹴落とすことばかり考えていて、道を歩いていると昼間から目を血走らせた若者が肥後守かバタフライナイフを腰だめに突進してきて社会党の委員長といわずマカロニ刑事といわず誰かれかまわず刺すかと思えば、全員ルーズソックスを履いた真っ黒い顔の女子高生が中年男相手に売春をしている横でしばしばモスラが東京タワーに繭をかけている物騒な都市だ、くらいに思っている。誰だ、そこで、そのとおりだと納得してるのは。
 それはともかく、一度、たこ焼きに納豆を乗せて食ってみたいと思っているが、試してみるのはさすがに心理的にはばかられる。なんだか、たこ焼き一個と納豆ひと粒が2mc^2のエネルギーをガンマ線として放出し、双方とも消滅してしまうような気がするのである。

【1月1日(金)】
あけましておめでとうございます。いや、べつにお正月などというものはひとりでにやってくるわけで、なにがそんなにめでたいのかよくわからんが、考えてみればなにをせずともしようとも生きてさえおればやってくるのであるから、やっぱりめでたいと思えばめでたい。めでたついでにこのサイトにもなにかお正月らしい装飾を入れようかと一瞬思うも、飾ると飾りを取るのが面倒くさいのでやめる。なんてやつだ。
 手前のところは手抜きをするくせに、人様のサイトがお正月飾りをしていると華やかで嬉しい。とことん勝手な野郎である。妹尾ゆふ子さん「うさぎ屋本舗」など、むこう一年間自動的にお正月飾りをしていることになるという、はなはだめでたいサイトだ。うちの場合は“はなはだおめでたいサイト”と呼ぶべきで、それはそれでけっこうなことかもしれない。なにを書いてるんだ、おれは。酔ってるわけじゃないすよ。それどころか、正月そうそう酒も飲まずに仕事ばかりしている。「一年の刑は元旦にあり」などとむかしの人はよく言ったもので、日ごろの行いが悪いと一月一日の朝から報いを受けることになるという意味にちがいない。
 年賀状をくださった方々、ご丁寧にありがとうございます。あ、三村美衣さん「SFマガジン」2月号「CROSS REVIEW」“隠しギャグ”にウケてくださったそうで、嬉しゅうございます(私信モード)。「え? 読んだけど、ギャグなんてあったっけ?」と首を傾げておられる方、べつに気にしないでください。非常に状況依存的なギャグで、ごく一部の人にだけギャグに見えるけれども、そう思わなくともまったく支障はないというささやかないたずらでございます。『ダスト』(チャールズ・ペレグリーノ、白石朗訳、ソニー・マガジンズ)の書評にある「三村美衣のレトリック」というやつ。おれはこういうときはたいてい「三村美衣のレトリック」と書くんだけど、まさに三村美衣さんにだけウケればいいと思って遊んだのであった。そうですか、ウケましたか。わははははは。京都SFフェスティバルに参加してなくて、同号の「SFまで10000光年」(水玉螢之丞)だけの情報からおれの隠しギャグを見破った人がもしいたとしたら、その推理力には脱帽する。おれの文章ごときをそんなに頭使って読んだら精神衛生に悪いですよ。
 それにしても、“○○風”ってのは便利な言葉だ。便利すぎて、ついつい多用してしまう。“○○みたいな”とか“○○っぽい”とか“○○ってカンジー”ってのも麻薬的な表現で、思考力が減退しているときなど会話でも文章でも乱発しがちである。この症状が末期的になってくると、「ほら、三村美衣風の書評みたいなキツっぽいカンジー」風の言葉遣いみたいな感じになってしまい、なにやら女子高生っぽくてみっともない。待てよ、これでもまだ女子高生っぽくはないな。電車の中やらファースト・フード店やらで聴いていると、いつのころからか、“○○みたいな”は“○○みたく”と形容詞風に活用する若い人が増えている。ありゃいったいなんなんだろうね? どこかの方言にこういう言いかたをする例があってそれが広まったのか、それとも一音節でも短くしようとする節約傾向の表われなのか。
 ま、ともかく、しばらくは“風”で遊べそうだなあ。「リング風ワールド」(少し歪んでいる)なんて誰かが作ってそうだけど、いいよな。「人間風以上」ってのは、いったい人間に近いのかそうでないのか。ああ、また春からバカなことに頭を使っている。早くも今年の過ごしかたを暗示しているなあ。


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