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2000年8月下旬 |
【8月30日(水)】
▼『「カエルのきもち」の者です』というサブジェクトのメールが来て、一瞬、身構える。カエルの気持ちがわかるということだろうか。カエルファンはあちこちにいるが、少なくともおれの知っている人はみな一応社会生活に支障がない程度である。これはもしかすると、カエル好きが昂じて“あっちの世界”に行ってしまった人であろうか……。
というのは嘘で、『カエルのきもち』(千葉県立中央博物館監修、晶文社出版)の担当編集者の方が、おれの8月2日の日記を読んでメールをくださったのである。しかし、別の意味で驚いたのはほんとうだ。SF関係の思わぬ方からメールを頂戴してのけぞったことは過去に何度もあるが、出版関係者でもカエル関係の方からメールをいただいたのは初めてである。天網恢々疎にして漏らさず、ってなにがだ。「まったく、ウェブページというやつは誰が読んでいるかわからん」などと、みな頭ではわかっていてそう言うのだけれども、ほんとうに誰が読んでいるかわからんのですぞ。
つい先日も、かなり前に日記の感想をくださったことで知り合ったアリアドネさんが、ナニがアレしてカニしたようなややこしい偶然と必然を経てウェブ上で慧眼の編集者の目に留まり、『屍船』(倉阪鬼一郎、徳間書店)の表紙絵をお描きになることになったのであった。ほんとに世間は広いようで狭く、やっぱり広い。アリアドネさんから経緯を知らせていただいて、あまりの不可思議かつ痛快なめぐり合わせに、おれは心底びっくりした。
インターネットの最大の力は、それなくしては関係が生じるはずのないところに容易に関係を生じさせてしまうところにある。それはあなたと誰かとの直接の関係だけではない。あなたのウェブ上の言動が、あなたが知ると知らずと好むと好まざるとにかかわらず、あなたの知らないAさんとBさんとのあいだに、CさんとDさんとEさんとのあいだに、新たな関係を生じさせてしまうかもしれないのだ。日夜生じさせているのかもしれないのだ。他者と関係することを拒みながらなぜかネット上で発言している不思議な人を見かけることも少なくないが、そういう人々も(本人たちにとっては不本意なのかもしれないけれども)、大いに不特定多数の役に立っているのだなと痛感したことであった。
ウェブ上で発言するときには、手間を惜しまず、できるだけあちこちにリンクを張りまくることにしよう。どこかで誰かの役に立つかもしれないぞ。まあ、もともとそれがハイパーテキストの思想というものだ。
【8月29日(火)】
▼深山めいさんからカエルのポスターをいただく。世界のカエルがずらりと紹介されたセクシーなポスターである。むかし雑誌なんかに等身大のポスターというやつがついていたものであるが(いまもあるのか?)、人間と同じくらいのサイズのカエルのポスターがあれば、なかなかにそそるものがあると思う。どこか企画しませんか? 袋綴じのカエルグラビアとか、スクラッチとか匂いつきとか、まだまだカエルの世界には試みられていない企画が残っている。出版関係者に於かれては、ぜひカエルファンの度胆を抜くべく日夜奮励努力していただきたい。なんでも、カメにコスプレをさせて写真集を出した人もいるそうではないか。カエルのヘアヌード写真集とかはどうだろう? なに? カエルには毛がない? そんなことはない、ちゃんとケガエルというのがいる。まあ、前のあそこいらへんはどんなふうになってるのか、おれはいまだにどの本でも見たことがないけれども……。
▼念のために注意を促しておくと、『君よ憤怒の河を渡れ』は、キャサリン・アサロの新作ではない。
などと小ネタを一発かましたところで、翻訳ものの文学作品を、全部アレ風タイトルにしてみると、けっこうイケるのではないかと思いつく。たとえば、『変身』などと言われてもはなはだ抽象的でわかりにくく、読者に対する“引き”がない。ここはやはり、『毒虫よ、不条理に悶えよ!』くらいのほうが、書店で手に取りやすい。『青年よ、聖なる燭台を盗め!』とか『若者よ、邪なる老婆を屠れ!』などもよかろう。『船乗りよ、あの白鯨を追え!』なんてのも、ロシアの潜水艦が出てきそうで読書欲をそそる。哲学っぽい小説や哲学書そのものも、『人間よ、実存に嘔吐せよ!』『存在よ、投げられつつ投げよ!』『語る者よ、語れぬなら黙れ!』などとしてみると親しみやすい。いっそ、新聞の見出しなんかもこれ一本槍で行ってはどうか。「首相よ、神の国に羽ばたけ!」「朗読せよ、原稿をそこで!」「費消せよ、公共の名の下に!」
あ、なんか口癖になりそう。定説よ、彼は生きている! 少年よ、法の下に甘えろ! 骨太よ、飲んで痩せよ! 病院よ、いま一度よく見よ!
【8月28日(月)】
▼26日の日記で、「判官贔屓でメジャー嫌いのおれはどこへ行ってしまったのだ」などと嘆いていたが、まだまだ大丈夫であることに気づく。女の趣味だけは、自他ともに認めるマイナー派であったのを思い出したのだった。だけどこれは、ことさら判官贔屓しているわけではない。メジャーが嫌いなわけでもない。やはり藤原紀香などを見れば、かっこいい、きれいだ、とは思う。だが、どこかに過剰や欠落を抱えたいびつなものや病的なものがないと魅力を感じないし性欲も覚えない。最近、光浦靖子がけっこう魅力的だと思っている自分がやや怖い。藤原紀香と光浦靖子とが仮に“触れなば落ちん”状態であった場合、おそらく後者を選んでしまいそうですらある。単なる貧乏性だったりして。だけど、藤原紀香じゃ怖気づくよな、ふつう。
▼22日の日記で触れた“ゲサクい”なる方言であるが、元熊本県民とおっしゃる紅蘭るいさんがメールでご教示くださった。やはり、“品性下劣”で当たっていたようだ。『お粗末でみっともない、出来の悪い、とかを意味する言葉です。「マズい」に近い言葉でしょうか。主に、製品や仕事の出来不出来、人物の品格などを厳しく批評するときに用います』とのことである。『日常会話においては、「あら〜(あれは、あのひとは)ほんなこて(本当に)げさっかよ〜」というふうに用いられます』 な、なるほど、“げさくか”は“げさっか”と音便を生ずるわけか。
面白いのでさらにご紹介すると、『熊本弁のユニークな、”程度”をあらわす表現には、そのほか、まうごつ(あまりのことに舞い踊ってしまうほどに)<はうごつ(這いつくばるほどに)<なばんごつがあります。さらに、「とつけむにゃあ(トホウもなく)」「そーにゃ(それはそれは)」がよく用いられます』ということで、いやあ、味があるなあ。いきなり「とつけむにゃあげさっかよ」などと言われたら、トツケムニャーゲとかいう作家が東欧かどこかにいるのかと思ってしまいそうだ。ソーニャってのも東欧風だよな。
【8月27日(日)】
▼あ、しまった。20日の日記で、「羽野晶紀」を「羽野亜紀」などと表記してしまっていたので直しておいた。TJさんからご指摘をいただいたのである。やはりこういうのは、面倒くさがらずにすぐさま辞書登録しておかんといかん。羽野晶紀羽野晶紀羽野晶紀。よし。まちがえそうなものは、気がついたときにまとめて登録しておきたいものだ。松任谷由実松任谷由実松任谷由実。登録しておかずとも人の名前らしく出てくるやつが要注意であって、下手すると、まちがえたまま憶えていたりする。まず一発では出ない名前は、あまりまちがえないのである。今日泊亜蘭今日泊亜蘭今日泊亜蘭。略字でない名前をうっかり略字にしてしまうのも、はなはだ失礼であるから気をつけたい。水玉螢之丞水玉螢之丞水玉螢之丞。まちがえるとご本人が激怒するものもきちんと登録しておかねばならない。田中哲弥田中哲弥田中哲弥。日常的な発音と文字表記とが一致しないものは、登録しておくのが好ましい。妹尾ゆふ子妹尾ゆふ子妹尾ゆふ子。全部ひらかなの名前であっても、変換キーを押すと勝手に漢字やカタカナに変換されてしまうものは登録しておくと便利である。めるへんめーかーめるへんめーかーめるへんめーかーかんべむさしかんべむさしかんべむさし。中黒が入ったりする名前は、読みを入力すれば中黒も出るように登録してしまうにかぎる。とり・みきとり・みきさいとう・たかをさいとう・たかをさいとう・たかを。しかし、あまりパソコンの辞書に頼りすぎると、いつまでもなかなか憶えないという弊害もある。逆に、漢字は難しくないのだが読みが珍しい名前は、正しい読みで入力しないと変換されないように、やっぱり辞書登録しておくとおのずと読みも憶えてしまえる。森下一仁森下一仁森下一仁。誰だ、“かずひと”と読んでるのは? “かつひと”が正しい。日本SF作家クラブの会員名簿は、日本語版・英語版ともにまちがっているので注意されたし。森下さんの紹介ページのほうは、日本語版・英語版ともに正しいんだけどね(でも、ファイル名はまちがっている。さすがにこれは訂正しにくかったようだ)。
してみると、「大森望」というのは、ほんとにいいペンネームだよなあ。絶対まちがわんもんな。どんなワープロソフトでも、買ってきてインストールした状態で、ほとんど一発で変換されるはずである。せいぜい「大森望み」となることもあるくらいだろう。みんながワープロで書くようになるずっと前から大森望さんはあの名前で活躍していたわけだから、もし大森さんがこういうことを考慮してペンネームをつけたのだとしたら、怖るべき先見の明である。たぶん、本名が一発で変換されそうにない人ほど、反動でワープロ・フレンドリー(?)なペンネームにするのだ。そうだ、そうにちがいない。
【8月26日(土)】
▼〈日経モバイル〉2000年10月号を読んで愕然とする。「読者がつける2000年モバイル通信簿」という調査ランキング記事(有効解答数702)の「PDA編」では〈ザウルス アイゲッティ〉シリーズが二位、「携帯電話/PHS編――キャリアー編」ではDDIポケットが二位、「プロバイダー編」では @nifty が一位――と、おれがユーザであるものがやたら上位に来ているではないか。知らないあいだに、おれはずいぶんとメジャーな人になってしまっている。いかん。判官贔屓でメジャー嫌いのおれはどこへ行ってしまったのだ。他人にはわけがわからないこだわりよりも、便利さや快適さを取ってしまうのが、すなわち老いるということなのであろうか。おれには猛省を促したい。もしも、子供のころからまわりの人間がみな、「おお、SFが好きだとは、なんと高尚な子だ」「SFが好きなの? わあ、かっこいい」「SFが好きなのか。健全でよろしい」「SFが好きなんだって? 頭いいんだな」「SFが趣味なんですって? お願い、今夜はめちゃくちゃにして。縛って。ぶって。つねって。噛んでっ」とおれに言い続けていたとしたら(最後のやつはちょっと勘ちがいしているかもしれないが)、おれはたぶんSFファンにはなっていないであろう。正直なところ、そう思う。あなたもそうじゃないすか? い〜え、そうです。いまでも、「SFが好きだ」と口にしたが最後、世間の大部分の人は腹の底で「幼稚なやつめ」と言っているのです。それが世間の正しい反応です。そうでない世間など嫌いです。世間がそうであるかぎり、まだまだ世間は信用できます。ぼくを入れてくれるようなクラブには入りたくないっ! どうだ、まいったか。
【8月25日(金)】
▼〈イリジウム〉の六十六個の衛星(「それではジスプロシウムではないか」と周期律表を見ながら突っ込んでいた人も多かろう)が軌道から外されて廃棄されることになったそうだ。あとは大気圏に突入して燃えてしまう。残念だなあ。砂漠や南極からも電話がかけられて、おれのような生活をしている者にとってはたいそう便利だったのに。やはり、単体でeメールが出せないとか、画面がカラーでないとか、地下で使えないとか、着信音が十六和音でないとか、三十分水中に置くと壊れてしまうとか、インターネットに繋いで人妻とえっちできないとかいったあたりが致命的であったのだろう。〈カドミウム〉のほうは、まだ大丈夫みたいだな。
移動体通信インフラとしての商業ベースでの成否はともかく、おれはけっこうこの試みが好きであった。発想が壮大だ。こういうことを実際にやってみる(そして、失敗もする)人々がいつの時代にもたくさんいたからこそ、おれたちの現在の生活があるのだ。低軌道衛星群のネットワークというアイディアは、いつの日か、またちがった形でおれたちの生活に直結するサービスを提供してくれるようになるのではなかろうか。たとえば、『終末のプロメテウス(上・下)』(ケヴィン・J・アンダースン&ダグ・ビースン、内田昌之訳、ハヤカワ文庫SF)に登場する、低軌道太陽熱集積衛星群とマイクロ波を用いた分散的大規模発電とか。え? 『終末のプロメテウス』は、こないだ目録落ちした? ひ〜ん、い、イリジウムの祟りか。
▼そういえば、まだ二千円札を一度も見ていない。わざわざもらいに行く気にもならない。というか、むしろ自然にまわってくるのを楽しみに待っているのだ。金は天下のまわりものと言うではないか。でも、おれのところには、ほかの紙幣もあまり活発にはまわってこないから、二千円にめぐり合えるのはまだまだ先になりそうだ。
【8月24日(木)】
▼帰りの電車で、疲れたオヤヂが持っている夕刊紙だかスポーツ新聞だかに「フグ」だの「急死」だのの大きな文字が躍っているものだから、おれはまた食中毒方面の報道かと思っていたら、K−1のアンディ・フグが白血病で急死したという。ひょええ。なんか、このあいだなにかのバラエティー番組で見かけたばかりのような気がするのだが、まったく人間万事細胞が馬、下腹はあざなえる蠅のごとし(「バイオテクノロジーと物質電送機は気をつけて使おう」という意味)とはよく言ったものである。あの鉄人に比べたら、おれなんかとっくに何度も死んでいなくてはならない虚弱人間なのだがなあ。
出版界のアンディ・フグといえば梅原克文氏であるが、こちらはまだまだ健在だ。“抗議文”とやらを出しはじめたころから、その芸にはいっそう磨きがかかり、次にどっちへ矛先を向けるのかが楽しみでしかたがない。だいたいこういうパターンでは、最後には“神”を敵にまわすのが基本形式だと思うので、その段階がやってくるのを刮目して待とう! 健康には気をつけて、末永くおれたちの度胆を抜き続けてほしいものである。
【8月23日(水)】
▼「ここがヘンだよ日本人」(TBS系)というわけのわからない番組があって、母がよく観ているため、帰宅したおれは晩飯を食いながら、否応なしに観てしまう。ダイニング・キッチンから母の部屋のテレビが見えるのだ。
日本に滞在している外国人に、日本人はヘンだヘンだと言わせて楽しむだけの趣味の悪い番組なのだが、どこがどう面白いのかよくわからない。そんなもの、任意のある国民は、その国にとっての外国人から見れば、ヘンなところがいっぱいあるのがあたりまえである。どうも、むかしから日本人というやつは、ガイジンからヘンだヘンだと言われることに、えも言われぬ快感を覚えるようにできているらしい。同じ日本人にそういうことを言われると激怒するのだが、ガイジンに言われると「ああ、もっと言って、言って、そこ、そこよっ!」と悶え狂うのが習い性になっている。そこがヘンだよ、日本人。この番組でガイジンがなにかほざきはじめると、無性に突っ込みを入れたくなってしまう。こらこら、そこの共同幻想中毒のおシアワセなおまえ、ほれほれ、そこの対幻想狂いの帝国主義者、おらおら、神なんぞを信じているそこのラッダイト、バカ野郎、ここは日本だ。ここじゃ、ヘンなのはおまえらのほうだよ――と、ブラウン管を叩き割りたくなるのはおれだけか?
【8月22日(火)】
▼あっ、なんてことだ。「厄介なことに、ザウルスに内蔵されているダイアラーは、複数プロバイダの管理ができないようだ」などと17日に書いたが、よくよくいじくりまわしていたら、ちゃんとできることに気づいた。そりゃそうだよなあ。おかしいなとは思っていたのだ。やはりこういうことは、じっくりいじくりまわしてから言わんといかん。日記の情報を真に受けて迷惑する人もいるかもしれないではないか。いくら報道ではなく日記だからといって、あまりに気楽に書き飛ばすのは公害だ。自戒自戒。嘘は意図的につかないと意味がない。
▼『カジシンの躁宇宙+馬刺し編』(梶尾真治、熊本日日新聞社)を読みはじめる。「あれ、前にも読んだぞ」と思ったら、そうか、1997年10月21日の日記で言及したカジシン初エッセイ集『カジシンの躁宇宙 オンリー・イエスタデイ1982〜1996』(梶尾真治、平凡社)の増補版なのだな。“馬刺し編”の部分が新たに加わっただけではなく、平凡社版では省いたという「熊本でしか通用しないローカルネタ」や「アブナイネタ」をほとんど入れたのが今回の版なのだそうだ(それでも「アブナイネタ」をいくつか省いたというから、熊本の人が羨ましい)。イラストは、カジシンといえばこの絵が浮かぶ、おなじみ林田抖與子(百鬼丸)。改めてまたもや一から読んでいると、まるでウェブ日記を読んでいるかのようだ。地方紙連載ならではのトーンというかノリというか、そのあたりのものがウェブ日記的なのである。
最初のほうにいきなり「ゲサクい」なんて言葉が出てきて感動する。おそらく熊本弁なんだろうな。他府県人にもよく感じが伝わってくるのが不思議だ。どうやら“品性下劣である”といった意味らしいけど、標準語にはこれほどのインパクトはない。あちこちの地方のこうした秀逸な方言(?)をどんどん標準語に取り入れちゃえば、標準語が豊かになっていいのになと思う。いまやおれの知り合いの範囲では、「ぼっけえ」とか「きょうてえ」とかはふつうに通じるぞ。あれはもう標準語だろう。広辞苑に載せろ。
【8月21日(月)】
▼結局のところ、ザウルスのなにが便利といって、日記等のネタ帳にはなはだ便利である。データを眺めていじくりまわしたり関連づけたりしているうちに、どんどん日記の構想(たいそうな!)が膨れ上がって暴走していってしまう。これでは、たちまち一日では書ききれない日記になってしまうではないか。だったら、論文かエッセイか小説にすりゃいいのにと思わんでもないけれども、そういうものは気楽に書き飛ばせる日記とちがって、むちゃくちゃにエネルギーを消耗するだろうから、おいそれとは手をつけてはならないのである。ちゃんと日常に還ってくる自信がないのだ。
それはさておき、潜水艦の事故である。結局、乗組員は助からなかったようだ。どんな事故なのかもさっぱりわからん。早いうちに国際救助隊を呼んでおけば、サンダーバード2号と4号とが大活躍して……というシナリオが反射的に浮かんでしまうわが身の不謹慎さにも慣れたおれは、四十も目前なのだった。たぶん、一生治らんな、これは。だが、テレビのニュースもいいかげん不謹慎ではある。判で押したように、『レッド・オクトーバーを追え!』(いまごろ気づいたんだが、映画のほうは「!」があるのね)の映画音楽を映像にかぶせておるのは、なにか言いたいことでもあるのか。あるんだろうな。みな、よくわかってはいる。ここでもう一回ロシアの潜水艦が遭難でもしたら、きっと世界中の人がわざとらしくこう言うのである――You lost ANOTHER submarine!?
▼今度は、ブルボンのチョコレートから蛾が出たそうだ。自主回収をしているくせに、ウェブサイトのトップページにはそれらしきお知らせはなにもない。キリンビバレッジやカルビーのときに、明日はわが身と、同業者のウェブサイトをチェックする程度のこともしていないのだろうな。だいたい、工場で食いものを作っているからには、少々の異物が混入するようなことは、どこでもいままでも同じようにあったはずなのである。そんなもん、大衆食堂や屋台のラーメンにハエが浮いている程度のことは、みな体験しているはずだ(さすがに指やら手首やらは珍しいかもしれないが……)。それを最近は、みながとくに神経質になって気をつけて見るようになり、マスコミも頻繁に取り上げているだけなのである。そういうことが起こらないに越したことはないが、発生確率はゼロにはならん。あたりまえだ。だからこそ、起こったときの対応で企業の品格がわかるのである。モンド・セレクション金賞が泣くぞ。ところで、モンド・セレクション金賞てなんや?
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