間歇日記

世界Aの始末書


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2000年9月上旬

【9月10日(日)】
またもや頚を寝ちがえてロボコップになりながらも、終日ひたすら仕事をする。も少し頚を鍛えんといかんな。最近、電車の中で居眠りをすると、やたら頚が痛い。頭の重みを支えきれなくなっているのかもしれん。それほどたいしたものが詰まっているとは思われぬのだが、重量だけはあるのだろう。
 疲れると、こないだついつい買ってしまったムック「新映画宝庫Vol.1 モンスターパニック 超空想生物大百科」(大洋図書)などをぱらぱらと眺める。古今東西の怪物映画を紹介した見るからに胡散臭い本で、その胡散臭さがなんともそそる。手元にあると、資料としてなにかの役に立つかもしれん。いつどこでどういうふうに役に立つのやら(そもそも「役に立つ」とはこの場合どういう意味なのか)さっぱりわからんが、役に立ちそうだと思ったらもう買ってしまっているというあたりが、おれの貧乏の源である。
 それにしても、なんだこれは――「妖怪巨大女」(1958年/米/監督:ネイザン・ハーツ(ネイザン・ジュラン)) こんな映画があったのか。胡散くせ〜タイトル。どうやら、ただただ女が巨大化するだけの話らしく、解説も糞味噌である。ここまで貶してあると、話の種に観てみたいと思わないでもない。よっぽど暇なときに。原題は、The Attack of the 50 Ft. Woman というのだそうだが、となると、当然続篇ではキラー・トマトと闘わさねばならない。そこまでやったら逆に名画になるかもしれんぞ。

【9月9日(土)】
「中年女性100Links」というリンク集から、なぜか「冬樹蛉のページ」がリンクされているのを発見。「私が独断と偏見で中年女性のために選んだホームページ100を紹介します。毎月一度は入れ替えを行います」とあるので、おれのページは最近入ったのだろう。そうか、おれのサイトは中年女性に人気があるのか。言われてみれば、三十代以上の女性からメールをいただくことが非常に多い。いい歳をして好き勝手なことばかりやっているので母性本能(そんなものはないとおれは考えているが)を刺激するのか、重箱の隅のつつきかたが女性的(なんてのは言葉の綾だとおれは考えているが)で共感を呼ぶのか、単におれみたいなタイプが周囲にいないので珍しがられているのか、ともかく、リアルワールドでは女性にまったくモテない(じつは「モテようとしない」というのが正しい。ほんとだぞ)おれは以前から首を傾げているのだ。
 それにしても、このリンク集を作ってらっしゃる岡崎博志さんという方は、怖るべき慧眼の持ち主だと感心し、ほかのページも見てみたら、「中年100Links」からも「世界Aの始末書」が、「面白いページ−日記などのページ」からも「冬樹蛉のページ」がリンクされていた。いやあ、たくさん張ってくださってありがとうございます。つまり、おれのサイトは、男女を問わず中年向きなのでありましょう。まあ、中年にしかわからないような話がしばしば出てきますからなあ。よい子には読ませられない話も多いし……。悪い子はどんどん読んでね。
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『肉食屋敷』
小林泰三、角川ホラー文庫)

 “ヒトブタのヤス”こと(勝手に通り名をつけるな)小林泰三のSFでホラーな短篇集、待望の文庫化である。著者も「単行本あとがき」で述べているように、「怪獣小説、西部劇(ウエスタン)、サイコスリラー、ミステリーというバラエティーに富んだ構成」で、「小林泰三の作品世界を大雑把に掴んでいただくにはちょうどよ」いとおれも思う。ホラー「玩具修理者」でデビューした(本人がしばしば言うには“ハードSF”なのだが)小林泰三が、確信犯的にさまざまな分野に挑み、分野が広がるほど逆に着々とその本性を顕わしはじめた時期の作品がバランスよく収められている。作法としてさまざまな分野を書き分ける技量を備えた作家だが、とくに灰汁の強いところのない淡々とした文章の底からは、どうしようもなく小林泰三的なものがいつも立ち昇ってくる。あたかも、できるだけ個性的に見えないように、必死で個性を覆い隠そうとしているかのようだ。それでも隠しきれないほどの強烈な個性なのである。
 たとえば、あなたが小林泰三の家を訪れたとしよう(おれは小林邸に行ったことはない)。たぶん、な〜んの変哲もないサラリーマン家庭で、面食いの奥様(と、小林泰三が書いている)がな〜んの変哲もなくコーヒーなど出してくださることであろう。ホームドラマに出てきそうなな〜んの変哲もない居間で、あなたが小林泰三と談笑していると、小林泰三が座っているソファーのクッションのあいだから、なにやらぬめぬめとした触手のようなものがちょろりとはみ出して蠢いているのにあなたは気づく。「そ、それは……」とあなたが指差すと、小林泰三は手近なクッションで平然とそれを覆い隠し、「いい天気ですね」などとにこにこと言う。奥様もにこにこと洋菓子など持ってくる。すると、天井裏でどすんっと音がしたかと思うと、人間の顔をした小さなヤモリのようなものが降ってきて小林泰三のコーヒーカップの中にぽとりと落ちる。彼は「ところで、最近なにか面白いSFを読みましたか?」と真顔であなたに問いながら、なにごともなかったかのようにスプーンでカップをかきまわしている。「え、『永遠の森』とかどうですか?」とあなたが言うと、空中でばきっ、ぱきーんと怪しい音がして、玄関のほうからなにやら緑色の臓物のようなものが「うけけけけけけ」と笑いながら床を滑るように小林泰三の足元に駆け寄ってくる。彼は「ああ、菅浩江さんのですね」などと微笑みながら、片足でぼすっとそいつを踏んづけ、床の上に糸屑でも見つけたかのようにひょいと掴むと自分の尻の下に押し込んでコーヒーをずずずと啜る――といった感じの小説(どんな感じだ?)が、小林泰三の小説なのである。よくわからん? とにかく読みなさい。
 文庫版の解説「小林泰三は、ぐふふふ……と笑う」田中啓文)も読み応えがある。一見バカ話に見え、よく読むとアホ話に見えるが、冗談抜きで出色の小林泰三論と言えよう。
 それにしても、この解説もそうだが、あのマンガカルテット(小林泰三、田中哲弥、田中啓文、牧野修)は、ことあるごとに互いを大嘘つき呼ばわりしている。ほんとうに嘘つきなのは誰なのか、余人にはさっぱりわからない。小林さんの話はどこまでがほんとうなのかわからないし、哲弥さんの話はどこに部分的な事実が入っているのかわからないし、彼らの嘘つきを横からたしなめる啓文さんの話は、駄洒落を成立させるための事実の歪曲や捏造がどこに潜んでいるかわからない。おれが思うに、いちばん正直なのは牧野修さんであって、牧野さんは電波の命ずるままにきちんとその言葉を伝えているらしい。

【9月8日(金)】
5日に書いた「-H"」受信箱クリア事件関連だが、♪きむらかずしさんが「ウクレレ日記」「H" 端末フリーズ!」で似たような現象について書いてらっしゃる。似たようではあるが、よく読むとあんまり似ていない。きむらさんの端末は東芝 DL-S200 だが、おれのはケンウッド ISD-E7 で、載っているソフトウェアがちがう。また、きむらさんの遭遇した現象には再現性があるが、おれのはまだわからない。
 おれも以前ツーカーホン関西の東芝製端末(もうとっくに現役機種ではなくなっている)を使っていたことがあるが、きむらさんの遭遇した「いつのまにメール一覧でブランクの項目が現れて」という現象が、やはりかなりしばしばあったものである。おれの場合は、タイトルがブランクであるそのメールを消してしまうとまったく問題なく動作を続け、きむらさんの端末のようにフリーズしてしまうことはなかった。
 昨今のケータイは、同一キャリア内だけでのショートメール交換といった初期の形態からは想像もつかぬ多様な使われかたをしているので、設計者の思いもよらぬ仕様上の穴が、まだあちこちに残っているのかもしれないなあ。バグなんだか攻撃なんだかよくわからない現象に、これからもちょくちょく出くわすことになりそうだ。JAVA なんかがケータイで走り出すと、もっとややこしいことになるだろうな。ケータイにユーザの好みでソフトがインストールできるようになる時代も、もう目前だろう。というか、PDAと電話とが融合(接合や嵌合じゃなくて)すれば、たちまちそういうことになる。ケータイやPDAにワクチンソフトを載せなきゃならなくなるのは確実だ。載せなきゃ“ならなくなる”どころか、すでに載せなきゃならなくなっている。「『Palm』をねらう初のトロイの木馬」(CNET JAPAN TECH NEWS)だとか「ウイルスの新たな標的は携帯端末」(ZDNet NEWS)だとか、じつに物騒な話が聞こえてくる(「空気感染」とはうまく言ったものだ)。さらに、共同通信によれば、「コンピューターウイルス対策ソフトウエアのシマンテックは6日、iモード携帯電話向けにウイルス対策ソフトを提供するためNTTドコモと交渉していることを明らかにした」とのことである。そのシマンテックは、昨日から「iモードで最新ウィルス情報の提供」(ちなみに、シマンテックは以前から頑なに“ウィルス”と表記するのだった)を、今日から「世界初のPalm OS用ウィルス対策プログラム」の無償提供をはじめている。他のワクチンメーカも当然、タッチの差くらいでこういうことをはじめるだろう。
 こういうのはまさに“イタチごっこ”だねえなどと識者はよく嘆くのだけれども、ぶっちゃけた話、こうしたイタチごっこを観察するのはとても面白いのだ。草上仁「キッチン・ローダー」(〈SFマガジン〉2000年9月号)じゃないが、非常に近い将来、ウイルスや悪意を持つプログラムの類が、多くの家電製品に害を及ぼす世の中がやってくるだろう。そんでもってワクチンメーカは、「炊飯器に感染し害を及ぼす[C-IH-OKOGE2005]に対応しました」だの「冷蔵庫に火を噴かせて最悪の場合火災を引き起こす悪質な[O7-800]の被害が拡大しています」だのと、毎日、いや、毎時のように発表しなくてはならなくなるのだ。たいへんだぞ、これから。

【9月7日(木)】
▼会社でなにげなく上司の机の上を見ると、『図解でわかる統計解析 データの見方・取り方から回帰分析・多変量解析まで』(日本実業出版社)という本が置いてあって、はなはだ驚く。いやべつに上司が統計解析を勉強していることに驚いたわけではない。上司が統計解析をしようが『東亰異聞』を読もうが、さほど驚くべきことではない(後者だったらちょっと驚くかもしれないが)。この本の著者を見て驚いたのである。「前野昌弘、三国彰著」
 なに!? おれはキリヤマ隊長のように目を剥くと、もう一度前者の名をよく見た。何度見ても「前野昌弘」である。い、いろもの物理学者さんではないか。ひょっとして、トンデモな統計解析を笑い飛ばす本だろうか、統計解析をハードSF的に考察する本だろうかと、あわてて巻末の著者紹介を見ると、なんと同姓同名の別人なのであった。ああ、そういえば、むかし前野さんが同姓同名で専門分野がちがう学者がいると言っていたなあ。思い出した思い出した。この人だったのか。分野がちがうといっても、理工系であることにはちがいない。こりゃあ、まちがわれることも多かろう。
 前野さんは、「前野昌宏」と書かれてしまうことも多いそうだ。「昌弘」が正しく、「昌宏」野田大元帥のほうなのである。先日も書いたように、前野さんに言及する可能性のある人は、パソコンの辞書に登録しておこう。いま、しておこう。
 いやしかし、絶対に見るはずのないところで見るはずのない名前を見ると、じつに奇妙なものだなあ。おれのいまの上司ははなはだよく勉強する人ではあるが、物理やSFの話をしているのは聞いたことがないのだ。ああ、びっくりした。

【9月6日(水)】
▼電話の話が続く。昨今面白いのは、電話とPDAなのだから(そのうち、両者は別のものではなくなってしまうだろうが)いたしかたない。
 NTT西日本が、個人名の電話帳「ハローページ個人名編」を加入者全員に無料配達するサービスを廃止することを発表した。
 「あっ、そうか」と、おれはちょっとくやしくなった。この日が来ることは、96年11月14日の日記を書いたあたりで、必然として予測していなくてはならなかったであろう。おれは電話帳などめったに使わないものだから、発想の盲点になっていた。うーむ、まだまだ修行が足りぬ。テクノロジーが等身大の人間のありきたりな生活風景をどのように変えてゆくかを、SF者は頭の体操として常に考えていなくてはならない。いや、べつに考えていなくてはならないことはないが、とにかく面白いし、面白いことはいいことなのだ。ボケ防止にも役立つかもしれん。予測が当たるのも楽しいし、現実に裏切られるのもこれまた楽しい。なにも考えていなかったら、未来が面白くないではないか。忘却とは忘れ去ること、焼却とは焼き捨てること、未来とは未だ来ざることなのである。

【9月5日(火)】
▼じつに面白い体験をした。「-H"」にメールが来ていたので落としてみると(「-H"」はeメールは取りにいかなくちゃならないのだ。最近の新型端末では自動的にセンターから落としてくれるが、取りにいっていることに変わりはない)、メールのタイトルが表示されるべきところに、なにやら妙な文字列が表示されている。こんなのである――

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 多くの「-H"」端末は一行に全角で八文字が表示される。よって、このような文字列がこのような形で表示されるということは、ケータイで受信されることを前提にケータイに直接送ってきた可能性が非常に高いだろう。eメールが転送されてきたとは考えにくい。
 おれは先にタイトルだけ見てゆくことが多いので、次のメールのタイトルを表示した。すると、なにやらわけのわからぬ文字化けメールのような記号列がタイトル欄に表示された。「文字化けかな?」と思ってさらに次のメールのタイトルを表示すると、やはり同じような記号列だ。次のタイトルを表示しようとさらにスクロールボタンを押すと、凍りついたように画面が動かない。一、二秒後、ふだんは薄緑色の画面が突然真っ赤になり、電源が落ちた。画面が赤になるのはこの端末の機能で、ブラックリストに乗せた番号からのコールがあると、そうなるようになっているのである。しかし、目下ブラックリストに登録している番号はない。とにかく、なにやら異常が起こって電源が落ちたようだ。
 とりあえず電源を入れると、オープニング画面が表示されず、数秒後にまた電源が落ちた。今度は赤くならず、突然である。もう一度電源を入れると、今度はオープニング画面が表示され、メールの受信箱を開くと、消さずに残してあったメールがすべて消えて空になっていた。送信履歴のほうは無傷である。
 「ををを……」おれは興奮した。べつにケータイのメールに消されて困るような情報を残しているわけでもなく、実害はまったくない。そんなに大事なメールをケータイに直接送ってくる人はあまりないし、これは残しておきたいなと思ったメールは、とっとと自分の別のアドレスに転送してパソコンで保存しておくからである。それはともかく、もしかしてこれは、「-H"」を狙ったウイルス、というか、この場合、正確には破壊プログラムの一種ではあるまいか。特定のiモード端末に特定の文字列を送るだけで画面をフリーズさせることができるいたずらについて、先日からあちこちで報道されている(なんでも、一部報道によると、フリーズさせているのではなく、なにかの演算をさせて過負荷に陥らせているそうなのだが……)。さてはアレの「-H"」版が出たかとわくわくし、帰宅してからめぼしい報道サイトを見てまわったが、それらしき記事はない。
 一部のメールをケータイに転送しているアドレスのメールボックスを見ても、当該メールらしきものは来ていない。ということは、やはりケータイに直接送られてきたのだ。まあ、アドレスはどこからでも漏れる可能性はあろう。管理しているところをクラッキングしたのかもしれない。しかし、まったくの偶然で端末が誤動作を起こした可能性も残る。
 そのあと、端末はまったく問題なく使えている。そりゃそうだ。ROM焼きのアプリケーションが破壊できるはずがない。なんだか気色が悪いが、こういう体験は初めてなので、なにやら得したような気分である。「私も同じ体験をした」という方がいらしたら、情報をお待ちしております。もしもほんとうに事件だったら面白いじゃないか。

【9月4日(月)】
大阪府庁で電気容量が足りないと慌てているそうだ。なんでも、“パソコン一人一台体制”とやらを実現させるために計算していったら、とても足りんことがいまごろわかったらしい。とりあえず一人に一台持たせるというのはたしかに正しい。だが、それだけではちっともITの活用にならないことはあきらかなのだ。一人に一台持たせるのと同時に、業務に欠くべからざる書類や通達などを、パソコンでしか見られない、パソコンを通じてしか得られないような状態に断固としてしてしまうことが重要である。全部電子化するのは、たしかにたいへんだ。電子化できて、業務に不可欠な書類から、どんどん電子化してしまうのがよい。慣れるまで電子媒体と紙媒体とを併用するなどという甘っちょろいことをしていたのでは、慣れない人間はすぐ紙媒体に逆戻りしてしまい、いつまで経ってもパソコンを仕事に不可欠な道具として認識することができない。「あれは特殊な人が特殊な仕事に使う道具」だと思い続け、自分が使うことを極力避けようとしはじめるのだ。
 仮に、会社から新型の電卓が支給されたとしよう。この電卓は、あなたの会社の業務には欠くべからざる改造が施されていて、ふつうの電卓とは少々使い勝手がちがう。これが使えないとヒラと言わず管理職といわず重役といわず、文字どおり仕事にならないのだ。だとしたら、なにしろ首がかかっているものだから、社員はみなその電卓の最低限の操作くらいは一刻も早く覚えようとするだろう。あたりまえの話だ。「私は電話と電卓が使えません。許してね」などという言種が通る会社はあるまい。だが、ことパソコンにかぎっては、なぜかこれが許される空気が日本にはあるのである。仕事に不可欠なものという認識を欠いているからだ。年配者の中にもたちまちパソコンに馴染んでしまう人はじつは少なくないのだが、なぜか年配であることを理由に覚えようとしない奇ッ怪な人々がいる。人の上に立つほどの知能と経験と見識を持ち、いままでいろんな局面で血の滲むような努力をしてきたにちがいない人々が、不思議なことにパソコンにかぎっては覚えようとしない怪現象がしばしば見られる。まわりもそれを甘やかす。キーボードをパチパチ叩くなど、下っ端の女のコのすることだとこの期に及んでまだ思っている生きた化石は、ますます化石化してゆく。秘書に電子メールをプリントアウトさせて読んだりするのがステータスだと思っているバカがのさばる。人件費も紙資源も電力資源も(読んだあとは当然シュレッダーにかけたりしなきゃならないのだ)無駄なことおびただしい。そういう人間が経費節減をほざく。殊勝にも必死でパソコンを身につけようとしている年配の管理職は、苦労しているのがアホらしいと思いはじめる。バリバリ使いこなしている連中と生きた化石との意識のずれは、ぐんぐん拡大してゆく。そういう化石が、ビジネス雑誌や経済新聞などを読み、ITだeビジネスだとわけもわからずほざく。結局、旧態依然たる業務プロセスを、わざわざ機械を導入して忠実にトレースするような使いかたをする。ご苦労なことに、社を挙げてする。ITによって変わるのは、業務フローの途中に通過する部品だけであって、部品の組み立てかた、すなわち、フロー自体はなあ〜んにも変わらないのである。これをIT導入とは言わん。たとえて言えば、ビデオデッキを買ったのに、どの番組も結局リアルタイムで録画しながら観て、しかも録画したものは二度と観ないという使いかたをしているようなものである。
 IT導入で飛躍的に生産性が向上し仕事のクオリティーが上がったなどという会社は、もともとそういう文化があったのにちがいない。すなわち、本来無形である知識を極力有形化し、他の成員とできるかぎり共有するようにしている文化だ。形になっていないものに関して、ITは手も足も出ない。右顧左眄せず堂々と意見を言葉で主張する。誰が言うかではなく、なにを言っているかを傾聴する。論理的に討論をする。それをその場にいない不特定多数の利用者のために書き残す。先人の知恵をマニュアル化する。成功を分析し書き残す。失敗を分析し書き残す。誰にでもそれらが利用できるように窓を開く。もともと同じ考えかたの者同士がべたべたと馴れ合うための麻薬として言葉を使うのではなく、誰もがちがう考えかたを持っているという基本認識の下に相互理解のために言葉を使う――な〜んて、日本にそうそうあるわきゃねー組織にとって、ITってのは、そりゃあ鬼に金棒だろうよ。もともと鬼の素質がなかったら、金棒など振りまわせないのだ。ITは、そもそもが日本人の組織とは相性が悪いのである。森さん、そのへんわかってるか? 日本人がITを駆使するには、とてつもない自己変革の痛みと犠牲を伴うのだ。土木工事やケーブル張りですむ問題じゃないんだよ。いっそのこと、出井さんを説得して通産大臣にでもしてはどうだ?
 え? なんだか今日の日記にはただならぬ殺気と怨念がこもっているように見える? そっ、そんなことはない。あっ、あくまで一般論である。かかかかなり経験的にものを言ってはいるが、あっくまで一般論である。それにしても、むかし怨念をこめて、じゃない、一般論として書いたアホ小説「電子メールがやってきた」が、読み返してみるとこれほどまでに古びていないとは、喜ぶべきか悲しむべきか。とほほほほ。

【9月3日(日)】
▼左肩から頚にかけての筋肉が痛くて動かせず、えらい目にあう。頚を寝ちがえたのか。それにしては、肩甲骨や肺にまで響いてきて、深呼吸もできない。左上半身にバンテリンを塗りたくって、一日中ロボコップみたいな動きで過ごす。うぃ〜ん、がしゃ。うぃ〜ん、がしゃ。うう、なんなんだ、これは。
▼眠気覚ましにエスタロン・モカやらとんがらし麺やら、いろいろなものを試してきたが、最近、思わぬ効果があるものを見つけた。「悶絶 梅ぼしばあちゃん」カンロ)という、はなはだ趣味的なAVのタイトルみたいな名前のキャンディーである。酸っぱいのだ。ひと粒口に入れると、目のまわりから汗が出てくるほど酸っぱい。二、三個一度に食うと、たちまち目が覚めること請け合いである。ひと袋にふたつだけ「夏みかん味」「大玉」が入っていて、これがまたほんとうに悶絶するほど酸っぱい。
 なるほど、酸味というのも、眠気覚ましになかなか効果があるのだなあとハマってしまい、眠気が襲ってくるたび、この「悶絶 梅ぼしばあちゃん」をむさぼり食っている。ふつうの人がやると、たぶん肥ると思うので、ほどほどにどうぞ。

【9月2日(土)】
NTT東日本「GATCHAMAN CAMPAIGN」にようやく行ってみる。ずいぶんと凝ったサイトだ。SMAPのガッチャマンを見ていると、「あ、これはSMAPでなくてもイケる」と、またもやろくでもないことを思いついた。みみずくの竜ってのがあるのだから、ミズチのヒロがいてもよかろう。ヒトブタのヤスデンパのオサムイカナゴのテツが当然続く。響きがいいなあ、イカナゴのテツ。あとひとりは、かまいたちのタケマルで、きれいに決まる。なにがだ。

【9月1日(金)】
▼赤塚不二夫公認「天才Webバカボン」なるサイトができているというので行ってみる。なぜ、いま突然バカボンなのかよくわからず、コンテンツもあまり面白いとは思えないが、「赤塚不二夫気まぐれ日記」だけはじつに壮絶である。酒飲んで壊れた身体をまた酒を飲むために癒しては癒えたと思ったら待ってましたと酒を飲み、その間仕事をしているというのだからとんでもない人だ。壮絶なのだが、全然深刻じゃないのである。バカじゃなかろかと思う人もあろうが、人間ここまでやればいっそ清々しい。赤塚不二夫を見ていると、なんだか元気が出てくる。おれはまだまだ死なんぞと思えてくるのだ。これでいいのだ。
▼遅くなったので、最寄り駅近くの居酒屋で外食する。そろそろサンマを出しているかと思ったが、残念、まだか。なぜかカウンタのところに、ペプシMONSTERS MEET PEPSIMAN ボトルキャップがずらりと並べてある。ドラキュラがいいな。腰に手を当てて銭湯のマッサージ機の横でラムネを呷っているオヤヂのようにペプシコーラを呷るペプシマンの傍らで、緑色の顔のドラキュラがコップに入った血液を呷っているのである。ワイングラスで血を味わっていた吸血鬼エリート((C)水木しげる)を思い出すな。うむ。吸血鬼はいい。吸血鬼というやつは、どこか滑稽で哀しくて高貴で憐れなところがいい。たぶんおれたちは、誰もが多かれ少なかれ吸血鬼なので、彼らに惹かれてやまないのだろう。


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