間歇日記

世界Aの始末書


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2000年8月上旬

【8月10日(木)】
横山ノック前大阪府知事に執行猶予つき有罪判決。いくらなんでも、生ぬるいんじゃないの? 失ったものも大きく社会的制裁は相当受けているというのも執行猶予をつけた理由の一端だそうだが、そりゃちょっと理屈がおかしかないか? じゃあ、なにか、そこいらの浮浪者のおっさんがああいうことをしたら、社会的に失うものがあまりないからと、より大きな罰を与えるのか? 今回の事件で横山ノックが失ったものが大きかったのは、あくまで横山ノックの個人的事情にすぎない。そんなものがなぜ判決に影響するのだろう? そんな理屈が通るのならば、社会的に失うものが大きい犯罪者ほど、刑事罰は軽くてすむということになるではないか。そもそも今回のような権力を利用したセクハラは、社会的に失うものが大きい人間だからこそできる犯罪ではないか。大阪地裁はなにを言っているのだか、さっぱりわからん。社会的に成功した者の論理で裁いているとしか思えない。被害者の女子大生が失ったものは、横山ノックが失ったものよりも小さいとでも判断する根拠がどこかにあるのか? あるとすれば、それは裁判官の価値観の中にあるのだろう。
▼おおお、ゴライアスガエルだ。じつは、例の「動物世界遺産 レッド・データ・アニマルズ」フルタ製菓)の“シークレット動物”のひとつ、かの“ゴライアスガエル”を、パソ通友だちの真希さんがわざわざ送ってくださったのである。えーと、ご記憶の方もいらっしゃるかもしれないが、真希さんは、乗った電車を必ず人身事故で停めるという超能力の持ち主である。今回も超能力を発揮してゴライアスガエルを射止めたらしい。よくも悪くもくじ運がいいんだろうなあ。真希さん、どうもありがとうございます。これからもいろいろ当ててください(って、催促するな、催促を)。

【8月9日(水)】
▼駅から会社へ行くまでの道で、セミがガシガシと鳴いている。街路樹にうようよいるのだ。しかし、見上げてもおれの眼ではセミの姿を捉えることはできない。よって、まるで樹がガシガシと鳴いているかのような錯覚に陥るのであった。
 おれの頭の中で、むかしセミの声は「ミンミン」と翻訳されていた。いまでも単体のセミの声は「ミンミン」とか「ジージー」とか、まあ、そういった感じの文字が自動的に当たる。が、多くのセミがいっせいに鳴いている場合、これはもう「ガシガシ」以外のなにものでもない。谷岡ヤスジのせいである。彼のマンガでは、セミはいつもガシガシと鳴く。あれをひと目見て以来、おれの脳は、降るようなセミの声に「ガシガシ」という文字を当てるようになってしまった。
 マンガの効果音ってのは“画”なので、「セミがガシガシと鳴いていた」などと文字で書いてあるのとはまったくちがったインパクトがある。耳に残る(?)マンガの効果音といえば、滝田ゆうも名手だと思う。雨に濡れた路面の水をタイヤで巻き上げながら車が走る音――ビヤビヤビヤビヤ。これには驚いた。それまでそんなふうに聞いたことがなかったのだが、滝田ゆうのこれを見たあとでは、実物ですらそうとしか聞こえなくなってしまったものである。こうした効果音の名手たちは、詩人としての才能があるのだろうな。
 きっとセミたちは、おれにとってはずっとガーシガシガシガシ、ガーシガシガシガシと鳴き続けるのだろう。詩人、谷岡ヤスジに敬礼。

【8月8日(火)】
キリンビバレッジ「朝摘みまっ赤なトマト」にハエが混入していたとのニュース。おいおい、おれは雪印製品は毎日は飲み食いしていなかったが、ここの製品はほとんど毎日飲んでいるぞ。会社の自動販売機に入っているからだ。こないだも「スピード」の味がおかしいとやらで、自主回収騒ぎがあったばかりではないか。被害にあった主婦に、「公にしないでほしい」などと持ちかけていたと報道されている。一事が万事だと思われるのが怖かったんだろうな。実際に一事が万事であったとしたら、そっちのほうがよっぽど怖いわ。さらに怖いのは、このIT時代に、こういうことが「うまくすれば公にならない」とキリンビバレッジの幹部が考えていたらしいことである。仮に公にならなかったとしても、噂だけは必ずインターネット等を通じて広まる。そのほうが余計な尾鰭がつき、よっぽど風評被害(?)に繋がると思うのだがどうか。噂が先行し、あとで事実があきらかになったとしたら(十中八九あきらかになる。こういうのは“売れる”情報だからだ)、最初から公開していたのとは比べものにならない悪印象を顧客に与えることになる。「隠す体質がある会社だ」と大宣伝しているようなものだからだ。キリンビバレッジも表向きはホームページなど掲げていながら、東芝クレーマー事件からなにも学んでいないようだ。
 今回の事件の場合、キリンビバレッジのウェブサイトの「お詫び」には「お客様に大変ご迷惑をおかけし」とあるのでまだましなのだが、こういう事件の際、「消費者のみなさまにご迷惑をおかけし」などと謝っていることがしばしばある。誰もが耳に覚えがあると思う。おれは「消費者のみなさまにご迷惑をおかけし」などという言種を詫びとは認めない。たしかにおれたちは消費者にはちがいないけれども、「おまえらがおれたちを“消費者”などと、ひとごとのように呼ぶべき立場かよ」と腹が立つのだ。“お客様”じゃろうが。これは企業の謝罪文や謝罪会見などで、消費者として(自分で言うのはいいのだ)注意しておかなくちゃならないポイントね。消費者云々などと言っている会社は、それだけですでにお里が知れているのである。こういう表現を公の場でぽろりと使ってしまう人間をたくさん飼っている会社は、ふだんからおれたちを統計資料のカテゴリーやマーケティング上のセグメントかなにかとして、第三者的にしか捉えていないのが見えみえだ。そういう言葉遣いはおかしいとすら気づかないほどに骨身に染みこんだ姿勢が、語るに落ちるのである。
 もっとも、今回、キリンビバレッジが事件を隠そうとしたのには、もっと大きな理由があるのではないかとおれは考えている。企業秘密の漏洩を怖れたのではなかろうか。おそらくキリンビバレッジは、原料や商品の輸送に、密かに開発した物質電送機を使っているのだ。
ケダちゃん strikes again! ケダちゃんの運営する田中啓文ファンサイト「ふえたこ観測所」に、田中啓文さんご本人がエッセイを書きはじめた。しかも、ケダちゃんと掛け合い(?)でである。このふたりが駄洒落対決でもはじめたら、とどまるところを知らぬと予想される。田中啓文ファン、ケダちゃんファンは見逃してはならない。
 それにしても、同じくケダちゃんが運営する牧野修ファンサイト「ヴァーチャルヘヴンへようこそ」には、やっぱり牧野修さんご本人が近況「俺の眼にウロコを貼れ」を書いているから、これでケダちゃんは個人ウェブサイトにプロ作家の連載を二本抱えることになったわけだ。時代を象徴する現象であると言えよう。作家によるネット上のこうした活動を“非公式なもの”として見て見ぬふりをするばかりか、その存在にすら気づかない紙媒体偏重主義者(?)の編集者や評論家は、作家像の把握あるいは研究に於いて、なにか大事なものを見落とすことになってゆくだろう。いや、もうすでにそうなっているのだろう。

【8月7日(月)】
ハリソン・フォードが、登山中に脱水症状に陥って動けなくなった女性を救助していたことがあきらかになったそうだ。人命救助自体にはそれほど驚かないが、自家用ヘリコプターを自分で操縦して助けたってのがなんともすごい。さすが金持ちはちがうと思うのを通り越して、ほとんど『マカロニほうれん荘』のヒトコマのようなものを想像してしまう。地元警察が依頼したのだそうだが、いったいどういうやりとりがあったのだろう? 「えらいこっちゃ、警察にヘリコプターないわ」「近所のフォードさんとこやったら持ってはるで」「おお、そやな。行ってもらお行ってもらお」などとひょいひょい話が運んでしまったのだろうか。地元警察、そんなことでいいのか。謎だ。
 それにしても助けられたほうがびっくりするわな。生命の危機に瀕しているとき、空から颯爽とハリソン・フォードが現われたら、「ああ、とうとう幻覚が……」と思うのがふつうであろう。事態が呑み込めてからも、とてつもない不条理感に捕われ続けるにちがいない。でも、ハリソン・フォードに助けられるのって、なんだか厭じゃありませんか? 一難去ったと思ったらまた一難が、それが去ったと思ったらまたまた一難が、果てしなく襲ってきそうだ。まあ、レスリー・ニールセンが助けにくるよりはいいか。それでもO・J・シンプソンよりはましか?
▼最近なにやらキラキラと金属光沢のある微粉末が入った口紅がやたら流行っているようで、さすがに職場では見かけないのだが、街では唇金粉ショウをやっている若いコをしばしば目にする。テレビのCMも、なぜかどこの化粧品メーカもキラキラ口紅なのである。
 あれはいったいなんなのであろう? なんなのであろうって、まあそりゃ口紅なのだが、あのような製品のコンセプトは那辺にあるのであろう? おれは勝手に勘繰っているのだが、あれは男に唾をつけるためのものなのではあるまいか? つまりその、あのキラキラは、なんだか取れにくそうなのである(実験してみたことはないのだが、どなたか妙齢の美女の方、おれと実験しませんか?)。ちょっと魔がさしてキラキラ口紅の女性Aと口吸いなどしてみたあと、別の親しい女性Bと会うとする。きれいに口を拭ったつもりが、まるでお好み焼きを食ったあと歯に付着する青海苔がごとくにあなたの唇の皺に潜んだあのキラキラのほんの二粒、三粒が、女性Bの目に留まるのではあるまいかと邪推する次第だ。まだ唇くらいならいいが、あんなところとかこんなところとかもう絶対に言い逃れができないところがキラキラしていたらえらいことになりそうである。いや、体験談ではないぞ体験談ではない、いかにもありそうなことであるとおれの明晰な頭脳が演繹したシナリオだ。とにかくああいう製品にはこういう隠された意図がありそうで、ほとんど兵器というかスパイ用品というか銀行強盗に投げつけるカラーボールというか、そんな気がしてならない。
 かかる状況に陥りかねないと身に覚えのある方は、くれぐれも注意されたい。ティッシュペーパーで拭ったくらいでは、あれは取れそうにないぞ。しかし困った手近に鏡がない。あわてて公衆トイレに駆け込み臭い水で口をすすぎ唇をごしごしと擦ってはみたが、トイレのくすんだ鏡では目の悪いあなたにはちゃんと取れたかどうか確認できない自信がない。そんなときのため、模型店かどこかで手に入れた金粉銀粉を携帯することをお勧めする。もう時間がない、まもなく女性Bがやってくるというとき、頭といわず手足といわず、全身にそれをふりかけるのである。木を隠すなら森の中とむかしから言うではないか。「いやあ、さっき出会いがしらに美川憲一とぶつかっちゃてね」とか「むかしの友だちにばったり会っちゃってさ、もう涙ナミダ、思わず抱きしめ合っちゃってこのザマよ。あ、今度紹介するよ、ちょっと変わったやつでさ、マグマ大使っていうんだけどね」とか、説得力のある言いわけはあとからいくらでも考えればよろしい。「その粉の色はゴアよ」とか言われたりしてもおれは知らん。

【8月6日(日)】
第31回星雲賞が決定。あまりにも妥当な結果で、おれとしてはなんの驚きもない。じつにSFらしい、いい作品ばっかりだ。おれがいいと思うものを人もいいと思うのだと思うと(ややこしいな)、なんだか安心する。小説部門は早川書房が総ナメというのは、ちょっと寂しい気もするけどね。受賞なさった方々、おめでとうございます。
▼ひさしぶりに MP3.music.co.jp@nifty支店はこっち)を覗いてみたら、いつのまにか「テレビ主題歌」のコーナーができていた。以前から、「ここって、絶対おれたちの世代を狙ってるよなあ」と思っていたのだが、ますますそんな感じである。懐かしさに思わず買っちゃうよ、これは。子供のころ欲しくても買ってもらえなかったテレビ番組の主題歌を、三十余年を経てこんな形で手にすることができようとは……。買ってもらえた人も、いつしかなくしてしまったり、セルロイドのレコードを聴くプレーヤーなどもう手元になかったりするケースがあるだろう。実家の納屋の中に眠ってるはずだなんて人もあろう。黎明期の音楽配信は絶対に懐メロ向きであるとは思っていたけれど、ここの週間ランキングを見ると吹き出してしまう。おれみたいなやつが世界中にいるわけである。若い人には全然ピンと来ないだろうなあ。
 てなわけで、『怪奇大作戦』のオープニング・テーマ曲「恐怖の町」(唄:サニー・トーンズ、作詞:金城哲夫、作曲:山本直純)、「キャプテン・ウルトラ」(唄:ボーカルショップ・マイスタージンガー、上高田少年合唱団、作詞:長田紀生、作曲:冨田勲)、「スーパージェッター」(唄:上高田少年合唱団、作詞:加納一朗、作曲:山下毅雄)を買う。いやあ、こうして見ると、なかなかの豪華メンバーだよなあ。そりゃあ、子供のころからこんなのにどっぷり漬かって育ちゃ、おれたちみたいなのができるわ。
 いやしかし、『怪奇大作戦』はよかったなあ。『怪奇大作戦』をリアルタイムで観ていたおれには、『X−ファイル』なんぞ二番煎じにしか見えない。岸田森のなんとも言えぬ存在感に比べれば、デヴィッド・ドゥカヴニーなんぞ大根じゃ。『X−ファイル』が超自然的なものに対する科学の無力を描くことが多いのに対し、『怪奇大作戦』は、テーマソングにもあるように科学が怪奇を暴く。暴くのだが、番組は人間の心の闇や社会問題に斬り込み、科学が暴ききれぬ部分をこそ重く描く。いま思えば、金城哲夫の匂いがぷんぷんする(実際に金城が書いた話は少ないようだが)。戦争の爪痕を描いた話もいくつかあった。毎回、事件が解決したようで全然解決しない、子供心にじつに後味の悪〜い番組であった。少し大きくなってからも再放送をしょっちゅうやっていて、観れば観るほど惹かれていった。どうも、人格形成に相当影響しているような気がするなあ。
 テーマソングを繰り返し聴いていたら、そろそろ全話を手元に置きたくなってきた。LDは出ているそうだが、いまからならDVDにしたほうがいいだろうな。DVD版は出ているのかな? どのみち、こんな名作は必ず出るだろう。その前に再生機を買わなくちゃならんのだが……。
 一九六八年の作品だから、この日記の読者の中には「なんじゃ、そりゃ?」とおっしゃる方も少なくないだろう。機会があったら、ぜひ観てみていただきたい。むかしは、たった三十分でこういうドラマを作っていたんだなあと感嘆なさること請け合いである。詳しくお知りになりたい方は、「site S.R.I.」というすばらしいところがあるので、ぜひご覧ください[◆2002年11月4日追記◆「site S.R.I.」はどうやら移転先を探しているらしくウェブから消えている。現時点では、その名も「怪奇大作戦」というこのサイトが、最も充実しているようだ]。ここを運営している方は、どうやらおれよりはるかに年下で、レンタル・ビデオで初めて『怪奇大作戦』を観て人生狂ってしまった(?)人らしい。それほど魅力のある円谷プロの異色傑作である。

【8月5日(土)】
▼引き続き体調がすぐれないため、ひさびさに山下達郎『TREASURES』など引っぱり出して聴く。なぜ体調がすぐれないと山下達郎なのかよくわからないのだが、聴きたいと思ったのだからたぶん身体が欲しているのだろう。思うに、健康的だが押しつけがましくなく上品だからではなかろうか。病気のときには頭に突き刺さってくるような声やら、なにやら頭を使ってしまいそうな曲は聴きたくない。
 それにしても、山下達郎のリゾート・ミュージック的なものを、この狭苦しい本だらけの魔窟のごとき部屋で聴くのは、それだけで妙な異化効果があるよなあ。SFだ。
 ライナーノートを読み直していたら、あ、なんてことだ、「高気圧ガール」ため息竹内まりやだったのか。こんなところに書いてあったとは知らなんだ。まあ、菅井きんではないだろうとは思っていたのだが。あ、「高血圧ガール」というタイトルを思いついた。どんな話になるのだろう? たぶん、子供がことごとく成人病に冒されている厭な近未来SF(近未来じゃないか)なのだろうが、暗い話じゃなくドタバタでなくてはならないだろうな。
 美空ひばりなどと同じく天性の耳の持ち主なのだろう、山下達郎の英語はとても自然だ。英語歌詞の曲を聴いていても、まったく違和感がない。唯一、訛ってるかなと思うのが[h]音である。これは訛りというよりは、わざとやっているのにちがいない。つまり、[h]音は楽器の音にかき消されて聞き取りにくくなるため、山下は呼気を硬口蓋あるいは軟口蓋で思いっきり破擦している。要するに、[h]音が、ほとんどドイツ語の nachdochichch のようになっているのだ。これは、山下達郎の真似をするときの重要なポイントのひとつである。
 わざとやっている訛りといえば、これはいつごろ誰がはじめたものなのだろうか、日本語の歌詞なのにバ行の子音を[v]音で発音するというやつがある。いろいろ思い当たるでしょう? 息が続くかぎり出し続けられる[v]音とちがい[b]音は一瞬しか出せないため、曲の要請から“引きずる”ように唄いたいときとか、[b]音の破裂音が耳障りになりそうな状況とかで使われるようだ。完全に[v]音にせず、微妙に合わせた唇のあいだから呼気を出し唇を連続的に振動させ、[b]と[v]の中間のような音を出している場合もある。最近のわかりやすい例で言えば、宇多田ヒカル「Automatic」の序盤、「でも言葉を失った瞬間が一番幸せ」「一番」だが、宇多田は i・chi・van と唄っている。終盤の「側にいるだけで愛しいなんて思わない」「側」so・va になっている。こんな日本語はないのだが、この曲のこの箇所ではこうでなくてはならないと思われるほどに、[v]音のおかげで必然的な“タメ”のような“粘り”のようなものが出ている。きっと宇多田はこんな効果をいちいち意識的に狙っているわけではないだろう。彼女の優れた音感と語感が自然にそうさせるにちがいない。もうひとつ、おれにはすぐに思いつく例は、「ウルトラマンダイナ」(歌・前田達也)だ。序盤にある「夢を誰かが奪う」「奪う」が、あきらかに u・va・u なのである。こっちはあんまり必然性が感じられない。
 日本語の音素の数は歴史的にはどんどん減ってきているのだが(ものの本によれば、ポリネシア語に次ぐ少なさだという。おれはポリネシア語なんぞ知らないが)、もしかしたらこれからは外国語の影響を受けて増えてゆくことになるのかもしれない。少なくとも、これからの若い世代には、人間の言語音として聞き取れる音素の数が増えてゆくような気がする。幼いころから脳が晒される音の環境が、年配の人間のそれとはまるで異なっているからだ。おれはあまりにも早期の英語教育には懐疑的だが、「人間が出す言葉の音にはこんなものがある」と無意識のうちに脳に認識の鋳型を作るという意味では、幼いころにいろんな外国語をBGMのように聴かせておくのも悪くはないと思う。のちにちゃんと外国語を学びはじめたときに、それが呼び覚まされるような気がするのである。あくまで気がするだけだが。

【8月4日(金)】
▼あらら、第39回日本SF大会「Zero-CON」は、もう明日か。といっても、おれは今年も行かないのだけれども、行く方々は楽しんできてください。
▼エアコンのせいか、どうも夏風邪を引いたみたいだ。熱っぽいうえに喉が腫れて、唾を呑み込むと鼻の奥と耳管が痛い。炎症を起こしているようだ。こういう日は、酒でも食らってとっとと寝るにかぎる。仕事はあるが、こじらせるとますます仕事ができなくなるので、早めにやっつけることにする。
▼コンビニで「動物世界遺産 レッド・データ・アニマルズ」フルタ製菓)の「11番」を買う。帰って開けてみると、くそっ、またジャイアントパンダではないか。二匹になったから姪たちにやろう。
 味つけ海苔がうまそうに見えてしかたがないので、また買う。例によってバリバリとひたすら海苔だけを食うわけだが、今日は食わずに週末の楽しみにとっておく。
 え? 今日はまるで日記みたいだって? 風邪で調子が出ないのである。まあ、たまにはこういう日があったっていいじゃないか。

【8月3日(木)】
▼この日記のファイルの総容量をローカルディスク上で見てみると、いつのまにか四メガバイトを超えている。タグのぶんがかなりあるだろうし、ファイル数も多いのでクラスター・ギャップもバカにならないはずだ。まあ、文章は四メガバイトのうち多くて七割くらいじゃないかなあ。仮に七割だとすると、二・八メガバイトか。原稿用紙一枚で八百バイトだから、この日記は三千五百枚くらいはあるということになる。いやはや、塵も積ればだ。一枚千二百円の稿料がもし出たとしたら、四百二十万円か。稿料計算でなく、一アクセス十円もらえていたとしたら、四百四十万円を超えている。
 みみちい皮算用はともかくとして、三千五百枚はあろうかという日記を、最近新しく読者になってくださった方がいちいちネット上で全部読んでくださるとはとても思えない。そろそろまとめてダウンロードできるようにするとか、読者の便を図らなくてはならないかなあ。でも、そんなことをしている時間はとてもないのである。せいぜい、古い日記で出した話題に関連することに言及するときには、まめにリンクを張るくらいしかないなあ。『よりぬき「世界Aの始末書」』でも、ちびちび編纂してゆこうかな。
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『星方武侠アウトロースター 雲海のエルドラド』
(堺三保、原作:伊東岳彦・矢立肇、集英社スーパーダッシュ文庫)

 おおっと、およそSFと名のつくことならなんでもやってきた堺三保さん、これは小説デビュー作ということになるんだよね。堺さん、またひとつ肩書きラインナップが増えて、おめでとうございます。おれはアニメのほうはとんと疎くて、堺さんの仕事もてんで観ていないのだが、「原作マンガやTVアニメを見たことのない方にも楽しんでいただけるように配慮した」とのことなので、楽しみに読ませていただきます。
 それにしても、7月に創刊されたこのスーパーダッシュ文庫、体裁はヤングアダルトだが、創刊五冊の紹介を読むと、な〜んとなく波長が合いそうなものを感じる。純然たる勘以外のなにものでもないのだが、「むむむ?」みたいな成分をおれのアンテナが検出するのである。こういうこと言うと、かえって迷惑がられそうだな。おれにウケるということは、きょうびの若い人にはウケないということかもしれないからだ。なにはともあれ、「bk1」に行って、あとの四冊もまとめて注文しておいた。

【8月2日(水)】
7月28日の日記で触れたフルタ製菓「動物世界遺産 レッド・データ・アニマルズ」だが、タニグチリウイチさんから驚くべき情報が寄せられた。やはり11番の“シークレット動物”は一種ではなかったのだ。なんと、ゴライアスガエルがあるというのである! すばらしい! 惜しむらくはこのシリーズが「レッド・データ・アニマルズ」であって「レッド・データ・フロッグズ」ではなかったことだが、まあ、そういう些細な欠点は許そう。よーし、11番を狙い撃ちじゃ!
▼高知県の宮地さんから、この日記のカウンタの「444444」を踏んだという記念すべきメールを頂戴する。おめでとうございます! といってもなにも出ませんので、あしからず。「なんとも不気味な番号でしたので、厄除けのために」メールをくださったとおっしゃるのだが、なあに、不気味なことなどありません。こういうゾロ目は、このウェブサイトが開設されてからまだ四回しか発生していないのだから、きわめて運がよかったとご解釈ください。いま宝くじでも買えば、けっこういい線いくかもしれません。もっとも、宝くじを買えばけっこういい線いったはずなのに、ここでその運を使い果たしてしまったという可能性もなきにしもあらずであります。
▼帰宅すると、「bk1」に注文していた『カエルのきもち』(千葉県立中央博物館監修、晶文社出版)が届いていた。カエルのネタが重なるときには重なるものである。腰巻にいわく、「最近、カエルのことが気になりませんか?」なりますなります。「カエルをつかまえたこと、ありますか?」ありますあります。「カエルをいじめたことは?」ありますあります。「カエルを食べたこと、ありますか?」ありますあります。「最近、カエルに会いましたか?」そういえば、実物には会ってませんなあ。「カエルが減っているって、知っていましたか?」いましたいました。「カエルは好きですか?」好きです好きです。
 あまり専門的な本ではなく、カエルの紹介、座談会、思い出話、おもちゃなどなど、多角的にカエル像を切り取った楽しい本である。楽しいばかりではなく、もちろん激減の現状も憂えている。個人的には、おれがとくに好きなコバルトヤドクガエルの新しいカラー写真(同じ写真がちがう本で使われていることってよくあるでしょ?)が出ていたのが収穫。巻頭カラー写真で、千葉県に棲息するカエルの“正面顔”が四ページぶんも紹介されているのが愉快。前から見ると、ほんとに憎めない顔してますわな。アフリカツメガエル「最近になって千葉にすみついた種」だとは知らなかった。「実験動物として輸入され、一部の地域で帰化した」とある。アフリカツメガエルが自然の中に棲息しているとは、千葉県侮り難し(なにがだ)。まあ、水中で過ごすカエルだから、そこらを跳ねていたりはしないだろうけどね。
 ちなみに、この本では、ゴライアスガエルは“ゴリアテガエル”となっている。聖書の怪力大男から名を取ってるわけだから、おれも本来後者のほうが日本語の名前としてはよいと思っているのだが、どうもゴライアスガエルのほうが優勢みたいだ。なんでもかんでも英語読みが力をつけてくるのは、なんとも風情に欠けるよなあ。とかなんとか言いながら、“レヴィアタン”よりは“リヴァイアサン”のほうがしっくりくるのはどういうわけだ? 難しい問題ですな、これは。結局、自分がそれで育った表記の呪縛が大きいだけという気もしないではないけど、それも変わっていったりするからねえ。

【8月1日(火)】
▼喫茶店で飯を食って食後の煙草を吸っていると、灰が飛びそうになり、あわてて手で煙草を覆う。この喫茶店は“開放型”とでも言おうか、要するに、出入口はあるがそこにドアがないため、冷房などなく扇風機が回っているのである。
 扇風機。なんという懐かしい響きであろう。子供のころ、新幹線の頭みたいな形をした軸のカバーを指で押さえトンボを取るようにして回して遊んだあの機械である。羽に向かってしゃべると“宇宙人の声”になったあの機械である。足の指でスイッチを操作して叱られたあの機械である。猛暑のときはただただ生暖かい風が吹いてくるだけでかえって羽と空気の摩擦熱とモーターの放熱とで気温が上がっているのではないかとバカバカしく思いながらもやっぱり回していたあの機械である。それでも少しくらいはましだろうとなにかの本で読んだとおりにイチゴの入っていたパックにアイスキューブを入れうしろにくくりつけてみたりしたあの機械である。まあ、とにかく、涼を取るためよりもおもちゃとして使っていた記憶しかない、あの武骨な機械なのである。
 それにしても、いつごろからか業務用の扇風機というのは、ずいぶんと洗練された形になった。むかし銭湯の天井とか電車の天井とか安食堂のテレビの横の棚の上とかで活躍していた、プロペラごと首を振るタイプのものはいったいどこへ行ってしまったのだろうか。最近のは首など振らず、プロペラの前についているグリッドのほうが回転し、風向を周期的に変えている。あれを考えたやつはえらい。コロンブスの卵と言おうかなんと言おうか、あんな簡単な仕掛けをどうしてそれまで誰も思いつかなかったのだ――と思わせるところがえらい。初めてあれを見たときに、おれは愕然としたものである。おれたちの子供のころ、一所懸命首を振っていた扇風機の立場はどうなるのだと、ものの哀れを覚えたね。冷蔵庫の取っ手に頭をぶつけて何度も痛い思いをしたおれは、扉の側面に手をひっかける窪みがついているだけの最近の冷蔵庫を見ると、おれの痛みはいったいなんだったのだとくやしい思いに駆られる。きっと、いま使われている機械の形にも、まだまだ「こうすりゃもっと簡単で便利じゃん」という部分がたくさん残っているのにちがいないぞ。まあ、そんなものがひょいひょい見つけられりゃ、簡単に金儲けができるんだけどね。人間の思考というものが、いかに強く既存の鋳型に囚われているかは、誰かが卵を立ててみないことにはなかなかわからないのだ。


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