間歇日記

世界Aの始末書


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2000年11月上旬

【11月10日(金)】
一昨日書いた“消毒液”の話に関して、田中哲弥さんから驚異的な洞察が寄せられた。「例のコマーシャルですが、消毒液とショートケーキが似ているというのはけっこう昔から言われていて、来客があるのでショートケーキ六つ買ってきてくれと上司に頼まれた馬鹿なOLが消毒液を六本買ってきたというようなエピソードはすでに都市伝説として定着しているようにも思われます」
 そんな都市伝説があったとは知らなかった。言われてみれば、どこかの病院で点滴に消毒液とまちがえてショートケーキを入れた医療ミスがあったようななかったような気がするが最近似たようなミスがあんまり多いので記憶の重畳効果のためにどれがどれだったかよくわからない。
 『というわけで、あのコマーシャルでは、わざと「しょうどくえき」と発音しているのではないかとぼくは思うのですがどうでしょう。そういうことで話題を作ろうとしているのではないでしょうか。最近の広告屋はひねくれてますし』 うううーむ。いかにもありそうなことではある。こういうのは〈広告批評〉あたりにこぼれ話として載っていそうだ。立ち読みしてみよう。
 「だから賢明なぼくはずーっと黙っていたのです。つまり、冬樹さんは、まんまとひっかかったのですわ。たぶん」 そ、そうだったのか。そう言われるとそんな気もしてきた。もしかすると、そのひねくれた広告屋はすべてを見通していたのかもしれん。おれがふだんテレビを背にして音だけ聞きながらパソコンを叩いていることが多いのも、この日記を読んで知っていたのだろう。なんという邪悪な広告屋だ。小林泰三もびっくりの邪悪さである。そしてそいつは、おれにアレを作らせ、流行らせようとしたのだ――「ショートケーキと消毒液くらいちがう」
 かくも邪悪な広告屋に目をつけられるとは、おれもずいぶんと出世したものである。

【11月9日(木)】
▼アメリカ大統領選は、はちゃめちゃな状況。世界に冠たる科学技術を誇るあの国が、数を数えるというだけのことが満足にできないとは、まあ、世の中そんなもんだ。
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『八月の博物館』
瀬名秀明、角川書店)

 じつは、〈SFオンライン〉でこの作品の書評をすることになっているので、ここでは余計なことを多く語らないでおこう。そんな無愛想な、もう少し詳しく教えろという方は、bk1「話題作インタビュー 『八月の博物館』瀬名秀明さん」をご参照ください。

【11月8日(水)】
▼いやあ、アメリカの大統領選ってのはエンタテインメントだねえ。エンタテインメントにするために、わざわざああいう仕組みを考え出したのではないかと思うほどだ。これほどの接戦になるとは。仕事の合間にCNNのサイトを見ては面白がっていたのだが、待てよ、なんだかこれにとても似たものをどこかで見たような気がするぞ……。あっ。あれだ! 『どっちの料理ショー』だ。
iモードのテレビCMの、あの“なんでも知ってるお父さん”は滑舌が悪くないか。テレビの音だけ聴いていたら、突然「ここの消毒液、うまいんだぞ」などと言うものだから、驚いて画面を見てしまった。誰かの小説のようなゲテモノ食いのお父さんなのだろうか……。画面を見たときには、すでにどういう状況だったのかわからなくなっている。不条理感に苛まれつつ、お父さんの台詞を何度も頭の中で反芻してみて、ようやく合理的な結論に達した。「ここのショートケーキ、うまいんだぞ」と言っていたのか。わかってみると俄然つまらなくなってしまった。消毒液のほうが面白いのに。

【11月7日(火)】
▼ケータイで受けてる「日経goo」日経ニュースメールの見出しを見て苦笑する――「◆米大統領選、両候補が最後のお願い」
 どうも“最後のお願い”ってのが、しっくりこないんだよな。あまりにも日本的な見出しではなかろうか? 大統領候補たちが“お願い”しているようには見えん。見えなくていいのだ。あれは、「アメリカ国民よ、おれとあいつとどっちが大統領にふさわしいか、賢明なる諸君にはよくおわかりであろう。諸君の見識を形にして表明する権利を、さあ、いまこそ行使せよ!」と、候補者が有権者を鼓舞しているのである。「国民全員が直接政治に携わるわけにもいかんから、本来のおれの権利をあんたらに預けるので、よろしく頼んまっさ」と“お願い”しているのは、有権者のほうだ。少なくとも、そういう建前を捨て去らずに、みなで演じなければならないという矜持のような強迫観念のようなものがアメリカ人にはあるように思われる。彼らの国はそれだけでできているといっても過言ではないため、捨て去るわけにはいかないのだろう。べつに、理念があろうがなかろうが、同じような顔して同じようなもの食って同じような言葉をしゃべって天然の国境に守られて暮らしてきたわれわれ日本人にとっては、“くに”と言ったらきわめて限定された等身大の“故郷”のことなのであって、それが寄り集まった“大きいやつ”が“国”なんである。日本人の“マジョリティー”にはな〜んとなくそう感じられるようになっている。だが、連中はそうではない。連中の“国”はツクリモノなのだ。だからこそ、連中の“国家”は建前上は民主主義というシステムにすんなり乗っかる。“くにの大きいやつ”が“国”だとしか感じられない日本には、借りものの民主主義がなかなか定着しない。どっちが優れているかを云々するのには、あまり意味がない。歯ブラシと靴下の優劣を考えるようなものだ。優劣は比べられないが、好悪なら表明できる。おれ個人はどちらかというと、ツクリモノのほうが好きである。そのツクリモノが欺瞞だらけであることはよくわかっているが、少なくとも欺瞞を糾弾してもかまわないことになっている仕組みのほうが好きである。そう育っちゃったんだからしかたないわな。
 でも、政治家が選挙活動で実際にやっていることは、アメリカも日本もたいして変わらんみたいだ。アメリカの民主主義と日本の民主主義とを並べて考えると、どうもおれには、生きている中国人の脳と“サールの中国語の部屋”(説明するのが面倒なので、ご存じない方は“中国語の部屋”でウェブを検索してみてください。うようよと人工知能関係の説明が出てくると思う)とが並んでいるように思えてしかたがない。はて、“中国語の部屋”は中国語を理解しているのでありましょうか?
 同じような顔して同じようなもの食って同じような言葉をしゃべっているわれわれが、互いに“同じことを考えている”はずだという暗黙の前提がいよいよ崩れてきている。崩れちゃっていいのか悪いのかを云々することは、これまた意味がない。ヒトへと進化したサルと別のサルへと進化したサルとはどっちが正しかったかを云々するようなものだ。適応して変わってゆき生き延びれば、どっちも勝者である。これから先、短期間で日本は、いや日本人は変わるだろうか? 変わるとすれば、なにか大事なものを捨て去り、代わりに別の大事なものを得るのだろう。ただ、それだけのことだろう。

【11月6日(月)】
イトーヨーカ堂の銀行子会社、「アイワイ(IY)バンク銀行」ってあなた、それはやっぱり、『ポエム君とミラクルタウンの仲間たち』(横田順彌、集英社文庫)風の命名か? ほれ、“パーク公園”とか……。
▼宮城県上高森遺跡の石器発掘捏造事件に呆れる(ってまあ、呆れてない人はいないだろうけれど)。こりゃあアレでしょうな、どうもヘンだという声は以前から専門家のあいだであったそうだから、動物の珍しい生態を追う不撓不屈のカメラマンのようにずっと狙ってたでしょ、毎日新聞さん?
 それにしても、こういう人がひとりいると、日本の考古学界どころか、学者というものが多かれ少なかれこういうことをしているのではないかと疑われ、善良な学者が大いに迷惑するだろうなあ。

「も、申しわけありません。学者にあるまじき、たいへんなことをしてしまいました」
「じゃあ、お認めになるんですな?」
「は、はい。じ、じつは……n次元に於ける○×群の△※#関数が境界上で〆〜☆◎することを私は五年前に東京の自宅で世界で初めて証明して黙っていましたが、そっ、それをつい先週大阪のホテルで証明したかのようなふりをしていましたっ」

 ……って、それはべつにかまへんがな。

【11月5日(日)】
EmCm Service が十一月いっぱいでサービスを終了するというので、有料版の TEL METHOD に乗り換える。いずれは有料化される可能性はあるということだったのでさほど理不尽な感じはしない(というか、いままで無料だったのが申しわけないくらいの便利なサービスである)。三か月で千円なら、まあ妥当な値段だろう。TEL METHOD も、システムはほとんど EmCm のものを流用しているようだ。インタフェースが少し変わっているが、EmCm の設定はコピー&ペーストで引き継げた。ちょっと面倒ではあったけどね。ケータイが十分に進化するまでは、まだまだこのサービスには続いてほしいものだが、公開実験段階での三万人の利用者がそのまま有料版の会員になるとはかぎらない。十人にひとりが移行したとして、ひと月あたり百万円の売上げか……。運営費用を考えると、かなりきついのではなかろうか。もっとも、一度このサービスを使いはじめるとなかなかやめられないと思うので、ひょっとすると三か月千円というリーズナブルな価格設定なら、ユーザの半数以上は有料版に移行するのではないかという気もする。商売として採算ベースに乗るか否か、注目のサービスではある。
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『奇憶(きおく)』
小林泰三、祥伝社文庫)

 おっと、いけね。一昨日届いていたのに、バタバタしていて日記に書き忘れていた。祥伝社文庫十五周年記念特別書き下ろしということで二十一点が出た“400円文庫”の一冊である。中篇一篇で一冊の本になっているのだ。頁あたりのコストパフォーマンスを考えるとなんだか損な気もする体裁だが、そもそも日常的に本を買う人がそんなことをあまり気にするとは思われない。べつに作品の長さに対して金を払っているわけではないからである。そりゃまあ、百ページで千円とかいうのがあれば理不尽な気はするだろうから、あくまで程度問題だとは思うけどね。中篇というのは、作品集がしょっちゅう出る作家以外は、一度雑誌に発表されたとしてもなかなか本にならない。アンソロジーに入れるには長すぎたりするわけだ。かといって、そのまま単行本にするとスカスカになってしまい、それこそ割高感が増す。書き下ろしとなると、なおさら発表の場に困るだろう。この“400円文庫”、けっこういいアイディアだとおれは思う。売れているのかどうかは知らんが、少なくともおれはこういう体裁が一般化してもよいと思う。
 一気読みするのにちょうどよさげな体裁で、構えずに気軽に読みはじめることができ(おれの場合、本というやつは読みはじめるまでがたいへんなのである。どれを読みはじめるか悩むからだ)、すぐに読んでしまった。この体裁で読んでみて改めて思ったのだが、小林泰三という作家は、中篇を書くとき、最も小林泰三らしさを発揮する。文章が淡々としていてキレがあるので、少々読み足りないくらいの気持ちが残る短篇独特の味もむろん好ましいのだが、理屈や奇想をこれでもかこれでもかと捏ねまわし読者を異界へと誘うには、短篇の分量ではやりにくそうに見えることがある。これは、小林泰三をあくまでSFとして読みにかかるおれのような読者特有の感じかたなのかもしれず、ホラー読み(なんてものがあるのかどうかは知らないが)をする人には感じられないことなのかもしれない。「酔歩する男」(『玩具修理者』角川ホラー文庫所収)にしても「本」(『人獣細工』角川ホラー文庫所収)にしても「獣の記憶」(『肉食屋敷』角川ホラー文庫所収)にしても、これくらいの分量の小林泰三が、おれとしてはいちばん面白く感じられる。もしかすると、本人も中篇がいちばん楽しく書けると思っているのではなかろうか。
 小林泰三は、その明晰な論理性とクールなルックスに反して、根が“いちびり”なのだと思うのである。たいてい、小林泰三作品は、一見余計なことを書いていると思われるところに最も小林泰三らしさが出ている。「これでもかこれでもかこれでもかこれでもか、いひひひひひひ、いひ、いひひひ」と声にこそ出さねど頭の中でにたにたしながら書いていそうな部分(声に出して書いていたら奥さんが気の毒である)というのがあって、おれなんかはそういうところをいちばん楽しんでいたりする。『奇憶』のダメ人間主人公の自己正当化と、ひとり暮らしのすさまじい部屋の描写を見よ。これは短篇ではできん。そして、ここが最も説得力を持つのである。すごいリアリティーだ。おれも、こういう生活にいつ落ち込んでも不思議ではないと空想することが若いころからよくあり(というか、いまの生活が分不相応に人並みなのではないかと思えることがあり)、あまりに馴染み深い描写なので懐かしささえ覚えるほどであった。日本家屋の座敷に電車が入ってくるとか、開けても開けても襖が続いているとか、そういうものに近い普遍性を持つ心象風景ではあるまいかとすら思う。いまふり向けば目に入ってくるおれの部屋の光景が、相当その心象風景に近づいてきているあたりがまた怖い。
 それにしても、あそこのブレードランナー・ネタは、相当好きな人にしかわからんと思うぞ。京都SFフェスティバルでアンケートを取るのはナシね。あれは標準的なサンプルではない。

【11月4日(土)】
▼近所の眼鏡屋の前を通りかかると、歩道に見慣れぬ足型が貼りつけてあって驚く。なにやら行儀のよい飛び降り自殺現場のような風情の足型だ。なんだこれはと思い足型の爪先が指すほうをふり返ると、そこには電信柱があり、視力検査表が貼ってあった。すげえ商魂だけど、おいおい、こんなの道交法違反じゃないのかなあ?
▼きっとあちこちで言われていることなのだろうけれども、“早稲田雄弁会”というのは、そろそろ“早稲田訥弁会”あるいは“早稲田失言会”とでも名前を変えたほうがよいのではなかろうか。

【11月3日(金)】
▼おや、今日は「アリー・myラブ3」がないのか。残念だ。第三シリーズはいちだんと壊れてきて、早くもどこまで壊れるのかを期待しているのに。先週の I WANT MY PENIS! I WANT MY PENIS! PENIS! PENIS! PENIS! PENIS! PENIS! の大合唱には大笑いだったな。あとで日本語トラックを聴いたら、「ムスコ! ムスコ! ムスコ!」と連呼していてさらに笑った。べつに“ペニス”“ちんちん”でいいじゃん。原語でニュートラルな言葉を使ってるわけだから、さすがに“チンポ”“チンコ”は品格を落としすぎだろうが、「ムスコ」にしなきゃならんとは、NHK独特の規準かなんかがあるんだろうな。吹替えのほうを聴くと、どうもそうしたNHK規格(?)に訳者が苦労しているのではないかと思えるフシがある。同じく前回、トレーシー先生の代理の、やたら薬に頼る女性精神分析医が、アリーを前に According to my notes, you slept with a male model once because you were infatuated by his oversized member.と、男性器に言及していた。「記録によると、あなた、前に男性モデルと寝たこともあったわよね。超ビックリサイズに惹かれて」というのが吹替えだ。oversized member とは、これまたやたらお上品な婉曲表現だが、こっちは「超ビックリサイズ」と、翻訳のほうが直截的なのである。直前にアリーがさらりと口にした penis「でっぱり」と面白おかしく訳されている。「アリー・myラブ」の訳は、若い現代職業婦人(いつの言葉じゃ)のしゃべりの“ノリ”を重視しているのがよくわかり非常にうまいとは思うのだが、こと性器まわりの表現に関しては、なんとなく原語のノリと品格のレベルが微妙にズレているような気がする。上すぎたり下すぎたりまわりくどすぎたりするのだ。おれが思うに、アリーくらいの(想定では三十歳)年齢のホワイトカラー女性なら、“おちんちん”“ペニス”くらいはふつうに口にするのではないかと思うのだが……。いや、“口にする”って、あのその、そういう言葉を発するという意味だよ。森奈津子さんなら、絶対“男性器”と言うよな。まあ、森さんの言葉遣いが標準的であるかどうかは難しいところではありましょうけれども。おれは妙な婉曲表現よりはずっと好きだけどね。

【11月2日(木)】
10月19日の日記で取り上げた岐阜県のポルターガイスト町営住宅騒ぎは、なんだかひどいことになっているらしい。野次馬が押し寄せてゴミを捨てたり、どこかから墓標を引き抜いてきて(?)アパートの中に立てかけたり、住民に無言電話をかけてきたりと、品性下劣な輩の格好の餌食になっているのだそうである。自称霊能者とかいう連中も山のようにアプローチしてきて、高額のお祓いを持ちかけるのだという。こういう連中に比べれば、幽霊のほうがよっぽど行儀がよいと思うのだが……。
 それにしてもいやらしい。日本はどうしてこんなにいやらしい国になってしまったのだろうか。住民が狂言をしている、けしからんと思うのなら、堂々と公の場所でそう主張すればいいではないか。手前が傷つくやもしれぬリスクはけっして負わず、安全なところからうじうじいじいじべとべとじとじとと厭がらせをするとは、まことにいやらしい。だが、考えてみると、日本はこういういやらしい国にいつのまにか“なった”のではなく、もともと日本が持っていたいちばんいやらしいところがマスコミやインターネットによって拡大されているだけなのかもしれん。こういういやらしさは日本の“文化”などと呼ぶに値しない。一刻も早く払拭したいものである。言いたいことがあるなら、表ではっきり言葉で言え! けしからんと思うやつがいるなら、己もリスクを負って公の場所で闘ってこれを滅ぼせ! 叩き潰せ! 葬り去れ! 皮を切らせて肉を切れ! 肉を切らせて骨を断て! おまえらにはスポーツマンシップやサムライ精神というものがないのか? それだけの労力を費やすに値しないと思うのなら、放っておいてやれ。わかったか、ポルターガイスト・ゴロの野次馬ども!

【11月1日(水)】
真鍋博氏の訃報が入る。おれなんかは意識の深層にある“未来未来した感じ”を、相当真鍋氏のイラストによって作られているような気がするな。おれは、本を読むときあまりイラストを気にとめないほうなのだが、それでも日本SFに欠かせぬ“あの絵柄”を刷り込まれてしまっている。ありがとうございました。
10月26日の日記でご紹介した「月をなめるな」の話があちこちでウケているようであるが、堀晃さんがたしか『マッド・サイエンス入門』(新潮文庫)でそのテストについて触れていらしたと、きしもとさんとおっしゃる方がメールでご指摘くださった。『マッド・サイエンス入門』を調べてみると……あっ。そうだそうだ。思い出した。おれとしたことがコロッと忘れていた。堀さんも企業研修でやらされたそうなのである――「自慢するわけではないが、小生の点数は個人ではトップでした。が、あとがいけない。グループで議論しはじめたら、もうしんどくて意見を通す気力がなくなってしまった。結果は――グループ討議が結論を悪くした珍しい例となってしまった」
 わははははは。さもありなん。このテストは、飛び抜けた人がいると(あるいは、多数派のレベルがあまりに低いと)、こういう結果になりがちなものらしいのだ。NASAが想定したらしい正解は一応用意されているのだが、それとて絶対の正解とは言えない。優れた頭脳が討議を繰り返して磨き上げた“妥当な答え”はあるけれども、そもそも、この種の問題に絶対の正解はない。そのことを学ぶ(そう、それを大人になってから学ばねばならない人だっているのである!)だけでも研修として意味があるわけであり、ディスカッションをするのが主目的なのである。
 しかし――しかし、だ。あまりといえばあんまりなことは、堀さんがこれをやらされたむかしからあったようである。『しかし、「パラシュートの布は体に巻いておけば布団がわりになりませんか」などというレベルで熱心に議論ができますか?』 そりゃまあ、灼熱の小惑星でのサバイバルを描いてデビューした方には、これは脱力ものであったろうなあ。
 それにしても、堀さんは、いったいいつごろこれをやらされたのだろう? やはり新人研修、もしくは、若手社員向けの研修だと思われる。とすると、堀さんは一九四四年生まれでいらっしゃるから、人類が月に立つ以前にこのゲームをやらされた可能性が出てくる。だったら、「布団がわりになりませんか?」もいたしかたないような気もしないではない。いつの世にも、宇宙に興味のない人はまったく興味がないというだけのことで、政治に興味がない、経済に興味がないというのとさほど変わらないとも言える。だけど、「布団がわりになりませんか?」は、「比例代表制ってなんですか?」「株式会社ってなんですか?」のレベルじゃないかなあ……。生活に密着したことに興味がないにもほどがあるというものだ。え? 宇宙は生活に密着してないって? そんなことあるか、おれたちは宇宙の中に住んでる――いや、おれたちは宇宙の一部なんだぞ。


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