間歇日記

世界Aの始末書


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2000年10月下旬

【10月31日(火)】
「一般常識研究家」と名告る差出人から、ヘンなメールが来る。クイズが書いてあるのだった――「Q:人間の体の中で一番大きい細胞は何の細胞でしょう?」
 なぞなぞではなく、オチもないと断ってある。「知ってそうで知らない! 理系出身の方は簡単すぎてゴメンナサイ!」などと謝ったりしている。会社でもほかにもらった人がいて、会社で使っている別のメールアドレスにも、やっぱり同じメールが来ている。一般常識を研究しているわりには常識のない差出人であるが、くやしいことに差出人の思うつぼ、「はて、そもそもこれはどういう意味なのだろう?」と気になってしかたがない。文科系出身者をみくびっているわりには「何の細胞」などという表現があまり科学的とは思われないのだが、やっぱり気になる。細胞の種類を真面目に問うているのか、やっぱりなぞなぞのようなものなのか、はたまた叙述トリック(?)か。気色が悪い。

【10月30日(月)】
大学生に月に関する知識がないくらいで驚いていたおれが甘かった。事態はそれどころではないところまで進行しているようだ。「日本人が日常生活で日本語をきちんと使える能力」を測定する検定試験を、学研が来月からはじめるそうである。YOMIURI ON-LINE「教育新世紀」「正しい日本語 使えますか? 大規模検定、来月スタート」という記事によれば、現場の教師たちは子供たちの日本語能力の低下を嘆いているらしい。まあ、これは学校でなくたって、ふつうの会社などでも、驚くほど日本語が使えない若者が多いことは誰もが感じているだろう。とくに驚くにはあたらない。しっ、しかし、これは“臥薪嘗胆”とか“風光明媚”とか“欣喜雀躍”とか“天地無用”とか“焼肉定食”とかがわからないといったレベルの話ではないのであった――

『中学校では、「『しみじみと味わう』の『しみじみ』の意味が分からない生徒が多い」「ことわざを全く知らない生徒が目立つ。『百聞は一見にしかず』の『百聞(ひゃくぶん)』を読めない」などの声も出た』

『高校の世界史の授業で教師が「独立宣言の翌年」と話したら、生徒から「『ヨクネン』って何のことですか」と質問が飛んできた。「翌年」という言葉の意味自体を知らなかったらしい。教師は「同世代としか話さないので、使う言葉が非常に限られている」とあきれる』

 こうやって日記を書いているのすらバカバカしくなってくるような話である。え? あなた、作家でいらっしゃいますか? しょ、小説なんか書いている場合でしょーかっ? こういう連中相手に、「割れ姉にヒトブタ」などと言ったところで、ウケてくれるはずがないのだ。『アルジャーノンに花束を』(ダニエル・キイス、小尾芙佐訳、ダニエル・キイス文庫、早川書房)が若者にも安定的に売れるのは、はじめのほうと終わりのほうが彼らの日本語能力にはちょうどよいからかもしれないぞ。い、いや、待てよ。“同世代としか話さないので非常に限られている”彼らのボキャブラリーに、「経過報告」などという言葉があるとはかぎらない。「けえかほおこく」でも、そもそもなんのことかわからない中学生とかがいるのではあるまいな……。ぼっけえ、きょうてえ。
 と、一応型どおり嘆いてはみたが、「しみじみ」やら「翌年」やらがわからない連中は、そもそも小説を読む人々ではないので、おれの知ったことではないのだった。日本語がまともに理解できて、あまつさえ日常的に小説を読んだりするような人々の割合は、いつの世にもそんなに変わるものではなかろうとおれは思っている。日本語能力が上のほうの人たちには、さほど変化はないのだ。ただ、下のほうが、どこまでもどこまでも下へ転げ落ちていっているだけのことであろう。
 要するにこれは、4月10日の日記で指摘したように、ただの“デジタル・デバイド”にすぎない。言葉というのはデジタルなものだからだ。こんな子供たちがこのまま大人になって、単なる習慣としてインターネットなどを使い続けたとしても、それはテレビをぼ〜っと観ているのとなんら変わらないのだから、やっぱりデジタル社会のヒエラルキーでは下のほうに属することになるだけの話である。根の深い問題ではあるよなあ。このまま進めば、日本のデジタル・デバイドは、世代や収入などといった要因で生じるのではなく、他者とコミュニケートする必要性の有無によって最も深刻に生じてくるのではあるまいか。つまり、金持ちの子であっても、同じような価値観、同じような生活環境の連中同士で閉じてしまうようなコミュニケーション生活をしているやつはどんどんボンクラになってゆき、貧しい老人であっても、新しい出会いや他者との交流を求めるような人々は、たちまち新しい情報インフラに適応し“力”をつけてゆく……なんてことになるんじゃないかなあ。いやあ、これは不気味だが面白いぞ。情報階級社会の到来か……。おれは生き残れるかなあ。この情報階級社会の最も不気味な点は、巨大な不利益を被ることになる階級にまったくその自覚がなく、もしかするとそのなんの不自由もない状態に満足してしまうかもしれないところである。どなたか、こういうディストピア小説書きませんか?

【10月29日(日)】
けろすけさんが、21日の日記で触れた「@メル友診断」で、ものすごいスコアを出したそうだ。「文章年齢 3歳」「書いた時の精神状態 やや冷静さを欠いている」「知性 測定不能/ランク外」って、あのねー、こんなの狙ったって出せないぞ。じつは、「あいうえお。かきくけこ。さしすせそ。たちつてと。なにぬねの。はひふへほ。まみむめも。やゆよ。らりるれろ。わをん。」と五回繰り返して入力したら、「文章年齢 15歳」「書いた時の精神状態 錯乱しており、非常に危険」「知性 一般レベル」と出たのだった。おのれ、年齢も知性も高すぎる。そうだ、アレで試してみよう――「ええらっしゃいませ。ええらっしゃいませ。え本日の来店りとざいます。え本日うちろめないまいのさいですまいです。なおおてないのまえにおおりょくの、ひますからもありますか。れすか。れすか。りとざいます。りとざいます」
 日本文学史上、最も怖ろしい台詞のひとつと称えられる、言わずと知れた『大いなる助走』筒井康隆、筒井康隆全集21所収)冒頭のパチンコ屋のアナウンスだ。結果は――「文章年齢 13歳」「書いた時の精神状態 非常に冷静、つけいる隙なし」「知性 高い部類に入る」
 ううむ。これは当たっていると言うべきか、ハズレていると言うべきか……。

【10月28日(土)】
深山めいさんからタレコミ情報をいただいていたので、指定のURLへ行ってみる。うっ。こっ、これは……。おれでなくたって欲しくなるよなあ。台湾製のカエル型マウス「大眼蛙」。いいなあ。
▼近ごろ千手観音像を見かけると(そんなもの、ウェブでしか見かけないが)、パラパラを踊っているように見える。喜多哲士さんも日記で書いてらしたが(2000年10月18日)、おれもあれは盆踊りにしか見えん。

【10月27日(金)】
▼今日発売の〈アスキーネットJ〉(2000年11月10日号)の「本を読むよりおもしろい!? ネット書評サイト50選」という記事で、このサイトが紹介された。それにしても、この50選、非常に偏りがあるような気がするのはおれだけか? いやまあ、こういう偏りであれば大歓迎ではあるのだが……。えー、ネットJを見てお越しになった方、じつは、分量的にはこのサイトの売りものは日記にほかならないので、本の紹介を期待していらした方は、日記のほうも拾い読みしていってください。日記の中でもちょくちょく本の紹介はしているのであります。
▼雑誌ネタが続くが、〈週刊文春〉「読者の皆様ごめんなさい 森政権を痛罵したいのですが、あまりに愚かでタイトルさえ思いつきません。」というタイトルにウケたので、思わず買ってしまう。いくらなんでも言いすぎではあるまいかとページをめくってみると、〈週刊文春〉はみずからの言いすぎ傾向を殊勝にも反省しているらしいので感心した――「小誌は反省している。昔、一国の首相をして暗愚の帝王とまで愚弄したことを。森サンと比べれば、この人など上等な宰相に思えてくるからだ」
 ぎゃははははは。ちなみに、かつて〈週刊文春〉に“暗愚の帝王”と呼ばれたのは、鈴木善幸元首相だそうである。森サンは“脱力大王”の称号を受けている。暗愚の帝王のほうがひどいような気がするんだが……。もはや、記者もいい称号を思いつけないのだろう。おれとしては、怪獣の名がいいんじゃないかと思う。ほら、『帰ってきたウルトラマン』ツインテールと一緒に出てきたやつ……。

【10月26日(木)】
ブルース・ウィリスデミ・ムーアが正式に離婚したとのこと。いつも思うのだが、どうして放送局のアナウンサーともあろう人々が、あまりにもしばしば“ブルース・ウィルス”と発音するのだろう? テレビやラジオでブルース・ウィリスの名が十回出てくるとすると、そのうち七回くらいは“ブルース・ウィルス”になっている。そう思いませんか?
▼大学四年生の清水勇希さんからむちゃくちゃに面白いメールを頂戴した。これはここで紹介せずばなるまい。ハードSFファン必読。
 清水さんが就職活動中の出来事である。某社の採用試験で“グループ・ディスカッション”をやらされ、その題材が“アレ”であったのだそうだ――

『その日の試験は“グループディスカッション”でした。
採用希望者が何人か集まって、与えられたテーマについて議論する。
審査官は黙ってその様子をチェックする、という試験です。
私が部屋に入ると、そこには一人の審査官と、7人の大学生がいました。
最初に全員の自己紹介。いわゆる“名門大学”の学生も何人か混じっていたのを覚えています。
自己紹介が終わると、審査官は一枚の紙を全員に配りました。そこに記されていたの は以下のリストです。

・酸素ボンベ(40kg×8)
・飲料水(30L×8)
・パラシュート
・4平方メートルの白い布
・ビスケット
・粉ミルク
・非常用信号弾
・宇宙食
・ライター
・45口径の拳銃
・方位磁石
・無線機(受信のみ)
・救急用医療セット

なんだこりゃ、と私が顔をあげると、審査官は宣言しました。
「あなた方8人が乗っていた宇宙船が故障し、月面に不時着することになりました。
着陸の際の衝撃で宇宙船は大破。あなた方にお渡ししたのは、中から持ち出すことができた品物のリストです。救助隊とのランデブー地点まで180km、あなた方はその距離を自らの足で進まなければなりません。現在の状況下でリストの品物に優先順位をつけてください。質問は一切受け付けません」

 はいはいはいはい、アレでありますな。おれは就職試験ではなく、会社に入ってからの新人研修でやらされた。詳しくは知らないが、NASAが考案したとかしなかったとかいうやつだ。最初にひとりで考えさせられ、次にそれを持ち寄って数人のグループでディスカッションしてさらにグループ回答を出す。たいていの場合、個人回答よりはグループ回答のほうが想定されている正解に近づくので、ディスカッションは大切ですねと体験させることができる。まあ、おれが思うに、日本の場合は、ディスカッションそのものの訓練が学校生活に於いてろくろくなされていないため、このテストをやらせているほうの理想とやらされているほうの実態とは、『十二人の怒れる男』『12人の浮かれる男』くらいちがう。
 続きを聴こう――

『まさか就職活動中に月面で遭難することになろうとは。
予想外の展開に、私はわくわくする心を抑えられませんでした。
まず、これらの品物は宇宙空間仕様になっているのかを考えねばなるまい。そうでなかったら、ライター、拳銃は使い物にならない。おそらく信号弾もだめだろう。そしてさらに重要な点として、装着している宇宙服は、外部から食料を供給することが可能なのかという問題がある。月面で顔をむきだしにしたらどうなるかなんて考えたくもない。

といったことを私が一人で考えていると、他のメンバーが手をあげて自分の主張を始めました。
……その内容は、驚くべきものでした。
「パラシュートはあったほうがいいでしょう。崖があったら降りられない」
「この白い布ですけど、ライターで燃やせば救助隊への目印になりますよね」
「酸素ボンベは重すぎて持ち運べない。海にもぐる必要はないだろうし、おいていきましょう」
「水も最小限でいいんじゃないですか? 足りなくなったら途中でくめばいい」

途中まではジョークに違いないと思いながら聞いていましたが、誰もにこりともしません。
どうやら彼等は本気のようです。
やがて私の番がまわってきたとき、すでに私は冷静さを失っていたのでしょう。
「月をなめるな」
それが私の第一声でした。
その後、えんえんと月面について語り、そのままタイムアップ。
当然のように不合格でしたとも。ええ』

 まるで国会のようではないかなどとスレた大人は思うわけで、社会人への第一歩としてのショック療法としてはある意味で効果的であるかもしれない。
 それにしても、あまりといえばあんまりである。おれが新人研修でやったときには、多少科学知識にバラつきはあっても、ここまでひどいことはなかった。まあ、おれたちの世代は小学生のときにアポロが月に着陸しているわけで、どんなに科学に興味のないやつでも、月がだいたいどんなところであるかは知らずしらずのうちに叩き込まれているせいもあるだろう。それにしても、いやはや……。十六歳年下の大学生の月知識はここまで落ちているらしい。清水さんが遭遇した学生たちがどういう学生なのかはわからないが、少なくとも大学と名のつくところ(下手をすると“名門”と呼ばれるところ)に入学し、四年生にまでなった人々であることはたしかなのである。それが、少なくとも月の知識に関しては、おれたちのころの小学生以下だということだ。学校の理科教育は、機能不全どころか、完全に壊滅していると言えよう。三雲岳斗氏の書きかたは、ますます正しいのではないかと思われてくる。もはや、基礎の理科教育は教師の仕事ではない。教師は親の仕事を押しつけられているので、それどころではなかろう。現代の理科教育は、SF作家の仕事なのだ――って、なんだかなあ。でもまあ、おれたちのころだって、ある程度はそうだったんだよね。そういう役割を正しく担うジュブナイルSFや科学読みものは、きちんと提供されるべきなのだろう。
 その後清水さんは、ほかの会社にシステムエンジニアとしてめでたく就職が決まったそうである。正義は勝つ。
 ところで、野尻抱介さん、あちこちの就職試験会場の出口で『私と月につきあって』(富士見ファンタジア文庫)の即売会をやるってのはどうでしょう? え? つきあってられんて? ごもっとも。

【10月25日(水)】
22日の日記でご紹介した高瀬彼方さんの“<背水の陣>企画”だが、『骨牌使い〈フォーチュン・テラー〉の鏡』五代ゆう、富士見書房)三十冊は、さきほどみごとに完売したそうだ。二千三百円もする本格ファンタジーのハードカバーが、足かけ四日で三十冊も売れてしまうとはどえらいことである。“モルタル書店”では、とてもこうはいかないだろう。その書店にやってくる人々の顔ぶれは概ね限定されているからである。ふつうの書店には、とくに特定の分野の本が好きな人が集まってくるわけではない。二千三百円のハードカバー本格ファンタジーを買う人が、無作為抽出したサンプルの仮に一万人にひとりであったとしたら、四日(しかも営業時間内)で三十万人の異なる客を動員しなくてはならない。そんなことができる書店はない。特定の分野に関して“エッジの立った”品揃えをすることで生き残っている“ニッチ書店”にしても、まずは店の絶対数が少ないし、そこに足繁くやって来られる客の数も少ない。やはり、こういう本をこういうふうに売ることができるのは、ネット書店だけなのだ。ネットであれば、物理的距離を超越した緩やかな結びつきの同好のコミュニティー内には、あっという間に情報が伝わるのである。たとえば、「浜崎あゆみがどこそこでけつまづいてよろめいた」といった、マスコミですら報道されないじつに些細な情報であっても、浜崎あゆみ関連の情報をネットで取っている人々には、一両日中には伝わってしまうことであろう。「ナインティナインが千葉県のどこそこにやってくる」というニセ情報が女子中高生のケータイ(PHSが多かったようだ)のあいだでチェーンメール化し、きわめて短時間のうちにたいへんな人数を動員してしまった事件が以前あったけれども、むろん同じ手でナイナイ本だって売れたことであろう(TSUTAYA Online がiモードを使って展開している“クリックス&モルタル戦略”は、ほとんどあの事件のパロディーである)。要するに、ネット上のもの売りは、コミュニティー・ビジネスにほかならない。もはやユーザは情報がありすぎて困っているわけだから、インターネット上を走っているいわば“経絡”の部分を狙い、どのツボにどう効果的に鍼を打ち込むかが勝負ということになるだろう。
 ネットでしかできないことをネットでやったという点に於いて、非常に示唆に富む企画であったと思う。こういう商法は、インターネット上でどんな具合に情報が伝播してゆくかを体験で掴んでいる人でないと、感覚的に理解できまい。ワン・トゥ・ワンCRMだとお勉強はするものの、手前自身には欲しいものがない、手前自身には打ち込めるものがない無趣味なオヤヂどもでは、絶対に思いつけないにちがいないのだ。

【10月24日(火)】
▼音楽に疎いのでよく知らないのだが、ラジオを聴いていたら〈ソウル・クルセダース〉だか〈ソウル・クルセイダース〉だかに言及していた。そんなグループがあるとは知らなんだ。ファンキーな「帰ってきたヨッパライ」でも唄っているのだろうか。
▼古くからのこの日記の読者は、おれが「ちりめんじゃこの中に小さなタコが入っているのを見つけたくらいには嬉しい」“小さなしあわせ”を表現するのをご存じかと思う。ちなみに、おれはあのタコを子供のころから“ちりめんタコ”と呼んでいる。今日、ぼんやりしていたら突然、ちりめんタコだけが食いたくなった。あれだけ袋に詰めて売っていないものだろうか? ぎっしりと袋に詰まったちりめんタコの中に、一匹だけちりめんじゃこが入っていたらやっぱり嬉しいものなのか、ぜひ確認したい。しあわせとは相対的なものなのだ。

【10月23日(月)】
〈SFオンライン〉が更新された。創刊号からはじめた「SFマガジンを読もう」を今回で降板。そろそろ新しい血を入れて、書評の布陣を変えようということなのだ。いやあ、がむしゃらにやっているうちにけっこう続いていたのに驚く。約三年半、四十四回分である。〈SFマガジン〉一号分に短篇が平均五作掲載されていたとして、二百二十本の作品をどうにかこうにか紹介しながら寸評をつけてきたわけだ。おれのこれからの人生でも、こんなことをする機会は二度とあるまい。苦しかったが楽しかった。来月からは「書籍レビュー」のコーナーを担当するので、今後ともよろしく。
▼あわわわわわわわ、怖れていたことがついに起こってしまった。「腕時計型のデジタルカメラで女性のスカート内部を盗み撮りし」て逮捕されたやつが現れた。腕時計型のデバカメ、じゃない、デジカメといったら、カシオリストカメラ「WQV-1」しかないではないか。おれがして歩いているやつである。いかん、「して歩いている」などと書くと、まるでおれが女性のスカート内部を盗み撮りして歩いているかのように読めてしまえないこともない。おれが「身につけて歩いているやつ」である。
 うーむ、じじじじじつに迷惑だ。しかも、捕まったこの自衛官、おれと同い年の三十七歳である。同じように三十七年前に生まれたある男は、いまスペースシャトルに乗って地球を見ながら、子供たちに「夢を持て」と語っている。またある男は、おれたちが子供のころに夢見た腕時計型のカメラで女性のスカートの中を撮影しようとして捕まっている。テクノロジー万歳!
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『異形家の食卓』
田中啓文、集英社)

 そして、ここにも一九六二年生まれの男が……。田中啓文、初のハードカバー、すでに《異形コレクション》シリーズ(井上雅彦監修、廣済堂文庫)等でおなじみのぐちょぐちょぬとぬとべとべとげろげろのこよなく食欲をそそる作品群を中心に、これまたさらに食欲をそそるにちがいない書き下ろし三篇を加えた短篇集である。腰巻の推薦文は筒井康隆――「この本は食卓で読むべきものである。ここに展開される遺恨・嗜虐・汚物・人肉・怨念・吐瀉。タナカ・ワールドはまさにグロテスクの饗宴だ。いったい作者の、かくも徹底した想像の、過剰なエネルギーの源泉は何であろうか?」
 何であろうかってあなた、あれほどうまそうにウンコを食う話や吐瀉物評論家が嬉々としてゲロを語る話を書いた人がよう言うわと思わんでもないが、「最高級有機質肥料」はハードカバーまるまる一冊分ではないし、『俗物図鑑』は吐瀉物評論家が主人公ではない。だからこそ、やはりほかならぬこの人に腰巻を飾ってもらった作者の感慨が伝わってくる。作者の感慨なんか読者にとってはどうでもええわいとおっしゃいましょうが、おれたちの年代のSFファンでとくにこういう作品を好む者には、筒井康隆に“グロテスクの饗宴”とまで言ってもらえることがどれほど誇らしいことであるかがひしひしと想像でき、ニュートラルな紹介なんぞはこの際横へ置いておくとして、こっちの昭和三十七年男にはとにかく個人的におめでとうと申し上げたい。食前食後食中食間そしてもちろんお食事中、胃痛胃もたれ食欲不振食べ過ぎ胸やけ膨満感滋養強壮肉体疲労時の栄養補給に、一家に一冊常備されたし。

【10月22日(日)】
高瀬彼方さんが「bk1」でとんでもないことをやりはじめた。高瀬さんは、五代ゆうさんの『骨牌使い〈フォーチュン・テラー〉の鏡』(富士見書房)が書店から姿を消していることに義憤を感じ、bk1で自分が売ろうと“<背水の陣>企画”なるものに挑戦なさっているのである。すなわち、同書三十部をbk1で「24時間以内」発送可能の体制にしてもらい、売れ残ったらご自分が全部買い取るとおっしゃるのだ。けっこう高い本だ。捨て身の企画である。おれはファンタジーはたまにしか読まないのだが、高瀬さんの作品紹介を読むとなかなか面白そうなので、ここまでおっしゃるならと一冊買った。
 いやしかし、面白い企画がはじまったものだ。今後も「おれにこの本を売らせろ!」という人に次々と挑戦してもらってはどうか? 完売したら、利益の半分を売り子に支払うというのはどうだろう? なんだか、「二十分以内に食べきったら一万円進呈! 残したら千八百円いただきます」というジャンボラーメンかなにかみたいだが……。

【10月21日(土)】
「@メル友診断」というやつが流行っているらしいので、さっそく試してみる。メール友だちから来たメールの文面を入力すると、その人物の評価をいろいろとしてくれるのである。面白いが厭な企画だ。電話番号などの個人情報が入っていない軽い文面のメールをコピー&ペーストして、いくつか評価させてみる。概して、おれのメル友の知性はたいへん優れているようだ。田中哲弥さんなんぞ、知性は「非常に優れています(最高レベル)」である。人を診断させているうちに己のことが気になり、この日記を入力して評価させてみた。10月19日のポルターガイストの話でやってみると、知性は「相当ハイレベル」である。ちょっとむっとする。驚いたことに、文章年齢は「38歳」、ほぼ一か月の誤差しかない。それでは最近の日記でできるだけバカバカしいやつをとばかりに、10月3日“ケツ割るコアトルス”を入れてみたら、知性は「非常に優れています(最高レベル)」に跳ね上がった。田中さんと同じである。なにが同じなんだか、よくわからない。


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冬樹 蛉にメールを出す