間歇日記

世界Aの始末書


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2001年12月下旬

【12月31日(月)】
▼あやや、今年も終わりかあ。二○○一年――そのむかし、この言葉には、なんとわくわくさせる響きがあったことか。それがどうだ。実際に体験してみると、全然二○○一年らしくなかった。現実とはこういうもんだ。これからおれたちは、“未来”なるものの象徴をどこに求めてゆけばよいのだろう。二○一○年じゃ近すぎるし、三○○一年じゃ生きてるはずもなし(ひょっとしたら生きてる可能性もあるけれどもな。なにしろ向こう五十年くらいになにが起こるかわからん)、やはり二○六一年くらいが妥当か。まあ、それまで生きてるのは無理だろうなあ。
 いつものように、年越しそばを食いながら、@niftySFファンタジー・フォーラム(FSF)にチャットをしにゆく。チャットをしながら年を越すのが、ここ十年ばかりのおれの恒例行事である。今年はそれに加えて、映画『玩具修理者』のサイトで田中麗奈カウントダウンの生放送があると小林泰三さんがはしゃいでいるので、ちょいと行ってみる。おれは田中麗奈をそれほどいいとは思わないのだが、小林さんがあんまり騒ぐものだから、なにやら最近気になってきた。洗脳されているのであろうか。
 FSFでは年が明け、バッファリングのせいでタイムラグが生じている田中麗奈カウントダウンのほうも、少し遅れて二○○二年を迎えた。

【12月30日(日)】
▼朝まで唄ってちょっと寝て、朝飯食って、喫茶店に入ってお開き。なにごともなく例年どおりである。
 帰りに年末年始のこまごまとしたものを買おうと百円均一ショップに入る。電池の残量計というやつを見つけて買う。おお、こういうのが欲しかったのだ。ふつうの人の日常生活では、乾電池がどのくらい新しいかが大まかにわかればよいのであって、本格的な電流計などという高価なものは必要ない。この百円の残量計は、材料さえあれば小学生でも作れる簡単なものだが、必要にして十分な機能を備えている。たくさん置いてあったから、一応売れているのだろう。最先端技術でもなーんでもないこんな単純なもので金儲けしている人がいるかと思うと、まだまだ日本人の知恵も捨てたもんじゃないと妙に感動してしまったが、たぶん作ってるのは中国かどこかでだろうな。

【12月29日(土)】
▼恒例の“関西のSFな人々の忘年会”に参加。いまだに正式名称のよくわからない忘年会なのだが、青心社の方々や関西海外SF研究会まわりの人々が集まって催す会である――と毎年書いているとおりの忘年会に今年も参加する。例年は会社の納会が終わってから飛んでゆくのだが、今年は土曜日なので、ゆっくり出かけられる。
 今年は諸般の事情で堺三保さんが来ていないが、ひさびさに大森望さん一家が来ている。噂のご子息・トキオ社長とは初対面。赤ん坊だというのに、たしかに社長然とした堂々たる風格を漂わせていてさすがである。なにしろ、スジ者の血の濃さは半端ではないからなあ。蛇は双葉より芳し。
 鍋食ったあと、恒例のビンゴゲーム。カードが穴だらけになるも、いっこうにビンゴにならない。おれの二十一世紀を暗示しておるな。なにやらでかいウサギの貯金箱が当たる。少しは金を貯めることも考えろという辻占(?)なのやもしれんが、おれは単純なので、ふたつ以上のことがいっぺんにできない。本気でやりだしたら金儲けほどゲームとしては面白いものもなさそうだから、敬遠しているのである。ビデオゲームを敬遠しているのと同じ理由だ。時間がいくらあっても足りない。なんの努力もせず時間も使わずひとりでに金が入ってくるというのならけっこうなことだが、よく考えると、なんの努力もせず時間も使わずひとりでに金が入ってくるということは、あいだにいかなるもっともらしいプロセスが介在していようが、どこかの誰かをひとりでに搾取していることにほかならず、そういうのも夢見が悪いから、やっぱり分相応の金が入ってくる程度がちょうどよいのだろう。分相応の金でそんなにいろいろなことができるわけがないから、限られた人生の時間でやりたいことは、極力少なく絞り込むほうがよい。となると、おれの場合、本が読め音楽が聴け映画が観られてネットが使えれば、あとのことはほとんどどうでもよいということになる。Q.E.D. 貯金箱などというものは姪にでもやろう。
 宴会が終わって、テルミンの演奏会がはじまる。SF界のテルミン奏者といえば、東の大野典宏さん、西の菊池誠教授とはモーニング娘。だって知っているであろうと思うが、今夜はその菊池さんの生演奏だ。「モスラのうた」からビートルズディープ・パープルピンク・フロイドまで、観客のリクエストに応えて、演れるものは演ってくださる。おれはテルミンなるものを見るのは初めてだ。じつにケッタイな楽器である。独演会が終わったあと、少しいじらせてもらったが、むちゃくちゃに難しい。ドレミすら満足に鳴らせない。当然のことながら空中にはなーんの手がかりもないわけで、究極のフレットレス楽器と言えよう。これを子供のころからやったら、ずいぶんと音感が鍛えられるだろうなあ。
 それにしても、ひゅるひゅると不気味な音が響く薄暗い旅館の一室、長髪で髭面で長身の男が宙に掲げた両腕を妖しく顫わせているのを、畳に座った年齢不詳の人物と子供たちが息を殺して見上げているなどという光景は、どう見てもどこかの新興宗教の集会である。

 
菊池誠さん
テルミンはこうやって
演奏するのが定説です
 大森望さん
出たな、テルミン!
ウルトラノゾミが相手だっ!
「Treva」で撮影したのち補正

 テルミン演奏会のあとは、岡田靖史さんや菊池鈴々さんたちと、またまた岡田さんが仕入れてきたドイツ製のボードゲームをしばし楽しんでから、例年どおり朝までカラオケへ。面子は、大森望さん、岡田靖史さん、菊池鈴々さん、藤元直樹さん。唄っているうちに日付が変わる。

【12月28日(金)】
「H"」 の端末を「KX-HV200」に乗り換える。色はシルバーとガンメタリックがあるのだが、おれの欲しいガンメタのほうが異様に品薄で、年内には無理かなあと思っていたところ、会社の近所にある直営店に一台未予約のものが入ったため、運よく入手できた。電源を入れてびびった。ハメコミかと思うほど、画面が美しい。同じメーカなのに、いままで使っていた先行機種が嘘のようだ。やればできるじゃん、九州松下電器。オープン価格ではあるが、直営店だから巷の最高価格、一万二千八百円也。量販店ならもうちょっと安いんだけどね。とはいえ、よくぞこの価格でこのスペックを実現したものだ。安すぎるのではないか、利益は出ておるのかと、こちらが心配になるほどである。こりゃあ、ほんとにいい端末だなあ。シェルタイプでも非常に薄くて、ちょうどおれの掌に吸いつくようにしっくりくるサイズと形だ。握っているだけで妙な快感があるくらいである。
 面白いのは、この端末、外側には「H"」のロゴマークがついていない。表には「SD」(SDスロット搭載のため)のロゴしかないのだ。開いてはじめて、「H"」のロゴを彫り込んだファンクションキーがひとつだけ見えるのである。よくDDIポケットがこういうデザインを許したなあ。PHSはお子様っぽくて厭だというお子様(なぜか、お子様のほうがこだわるらしいのだ。たしかに、むかしはお子様用だったからなあ)も少なくないようだから、表からはどう見ても携帯電話にしか見えないように企んだのだろうか。「SD」のロゴと「H"」のロゴが両方とも同じ面についていたのでは、ゴテゴテしてスマートさに欠けるというデザイン上の配慮かもしれん。
 まだ買ったばかりだが、これは大いに気に入った。気に入ったぞ!
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『UMAハンター馬子(1)湖の秘密』
田中啓文、学研M文庫)
「Treva」で撮影

 あっ。この日記の常連読者の方はおそらくご存じだろうが、おれはだしぬけに予知能力の発作に――って、何度やれば気がすむんだろう、おれは。まあ、そういうわけで、〈SFオンライン〉59号で、この本の評を書くことになるので、詳しくはその未来の書評をご笑覧いただきたい。
 タイトルでまるわかりだけど、むろん『妖怪ハンター』(諸星大二郎)の本家取りである。《栞と紙魚子》のテイストもかなり入ってるかも。「e-NOVELS」で連載中の連作短篇を文庫化したもので、収録作三篇を一篇ずつデータでも買えるし、まとめて紙の本でも買えるという、消費者にとっては選択肢が多くてまことにけっこうな試みである。両方とも買ってあげると、田中啓文さんからあなたのところに、強い感謝の念が超光速で送られてくると思う。「e-NOVELS」の“バラ売り”版は、第一話「湖の秘密」の前半が無料でダウンロードできるから、それを読んで紙版を購入するかどうか決めるといったこともできる。まあ、そこまで読めば、よほど我慢強い人でもないかぎり、「続きは読まんでもええわ」とは思わんだろうけれども。
 個人的には、UMA解説のコーナーのタイトル「ベストヒットUMA」(この部分は「e-NOVELS」の「読み物を読む」コーナーで無料で読める)ってのが異常に気に入っている。「e-NOVELS」で最初に見たとき、ひっくり返って笑ったものだ。もっともこれは、我孫子武丸さんが考えたネタだそうで、さすが『銀河帝国の弘法も筆の誤り』の解説で、書名の二大候補になったという「銀河帝国の弘法も筆の誤り」「銀河帝国弘法大師」とを「目くそ鼻くそ」と評していた作家だけのことはある。

【12月27日(木)】
ジュンク堂大阪本店で本を買い、堂島アバンザからドーチカへ出ようとすると、ドーチカの出口のところで、看護婦の格好をした若い女がふたり、立ち話をしている。なにやら場ちがいな感じだ。ははあ、どこかの風俗店の客引きだな。阪急東通商店街あたりではよく見かけるのだが、こんなところまで出張してきているのだろうか――と、通りすぎざまに近くで見たら、これがどうやらほんものの看護婦らしい。似合ってねえなあ。日活ロマンポルノのようだ。椎名林檎のほうがずっと似合っているぞ。ここいらのビルにある診療所かなにかの看護婦なのだろうけれども、あのカッコが似合わないのに、職業柄(?)ほんものでなければならないというのも、よく考えたら気の毒なことではある。
▼バスに乗っても電車に乗っても、パック旅行の広告はカニだらけ。カニカニカニ、どこ見てもカニである。牛肉が食えないぶんカニを食おうとでもいうのだろうが、もし狂蟹病なんてのが見つかったらどうなるかなあ。なんとなく、みんなカニなら少々危険があっても食うんじゃないかという気がするんだが……。それにしても「蟹」って気色の悪い字だなあ。蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹螢蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹蟹。さて、まちがいはどこでしょう?

【12月26日(水)】
▼おれの使っているザウルスにはあらかじめカレンダーにいろいろな記念日が入力されているのだが(まあ、誰の使っているザウルスでもそうだ)、それによると、今日は「雪印の日」なのだそうである。ほお、さすが腐っても大企業、記念日まであるのか――と説明を読むと、どうやらちがう。「1938年(昭和13年)のこの日、物理学者の中谷宇吉郎が、雪の結晶を人工的につくることに成功したことにちなむ記念日」とある。だったら、「雪の日」とか「雪の結晶の日」とかにすればよさそうなものだ。やっぱり、この記念日の命名には、雪印の暗躍があったのではなかろうか。

【12月25日(火)】
▼会社から帰ると新しいテレビが届いていた。さっそくビデオに繋ぎ、スタンバイする。おお、映った映った(あたりまえだ)。安物ではあるが、なにしろいままでのがいままでのであるから、めちゃくちゃにきれいに見える。さすがフラット画面である。またリモコンが増えて煩わしいなあと思っていたら、電源やボリュームなどの基本的操作は、いまのビデオのリモコンでできることがわかった。こりゃいいや。三洋電機で揃えた甲斐があった。まあ、テレビ単独で使うことは少なく、ほとんどビデオデッキのモニタとして使っているから、それほど便利になったわけでもないんだけれども。
 ところで、おまえ、二十三年保つか? 保たんだろうなあ。
〈SFオンライン〉が更新される。と同時に、正式に休刊が発表された。二月更新の60号が最後となる。事前に聞いてはいたけれども、改めて休刊の発表を読むと寂しい。ほぼ五年間、毎号なにかを書いてきたのだ。紙幅を気にせず、書きたいことが書けるよい媒体だった。ぎりぎりに入稿してずいぶんご迷惑もかけた。書評した作品の作者の方々からときおり思わぬメールを頂戴したりして、やり甲斐も感じた。なにもかもみな懐かしい。おれの三十代の半分は〈SFオンライン〉と共にあったと言っても過言ではない。苦し紛れにひねり出したような評もけっこうあったけれども、おれにとっては大きな財産である。
 サイトとしては維持し、小説のダウンロードやバックナンバーの閲覧は継続するとのことだから、いままでどおりリンクを張ったりもできるだろう。休刊になっても、すべてのバックナンバーが参照できるなんてところは、ウェブ・マガジンの大きな魅力だ。
 なにはともあれ、編集部のみなさま、お疲れさまでした。

【12月24日(月)】
▼古いテレビ最後の日。さすがに二十三年も使っていると、なんとなく寂しい。こいつの面を二十三年見つめ続けてきたわけだ。おれが最も長く使った家電製品である。ひとつの家電製品をこれほど長く使うことは、これからのおれの人生に於いても、まずないだろう。おんぼろテレビよ、よく頑張ってくれた。納屋でもあれば保存しておいてやるところだが、残念ながら、おまえのような嵩張るものを置いておいてやるだけの甲斐性がおれにはない。明日、会社から帰ってきたらおまえはいないであろうから、いまのうちに別れを言っておく。さらばじゃ。
 寝る前に、アンテナのケーブルや電源コードを取り外し、玄関に運ぶ。『ザ・ベストテン』もおまえで観た。『ブレードランナー』は何度観たことか。スペースシャトル・チャレンジャーの爆発チェルノブイリ原発事故阪神淡路大震災アメリカ同時多発テロも、みんなおまえの窓を通して観たのだ。もしかしたら、おまえの身体を構成していた分子や原子のいくつかは、そのうちおれの身体に入ってくることになるかもしれない。そのときまで、さらばじゃ。

【12月23日(日)】
テレビを買いにゆく。どのみち大きなのを買う金もなし、金があったとしても置く場所もなし、近所の電器屋を何軒か回り、二万円程度の15型を買う。同じくらいのスペックで東芝のと三洋電機のとが並んでいて、どっちにしたものかちょっと迷ったが、東芝という会社がいまひとつ好かんのと、うちのビデオが三洋電機であるのとで、サンヨーのにする。それでも、いままで使っていたテレビより画面は大きい。明後日に配達してくれるそうだ。古いテレビは持って帰ってくれるように手続きする。配達にくる人は、自分が持って帰ることになるテレビを見て、さぞや驚くことであろう。
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『ダイヤモンド・エイジ』
(ニール・スティーヴンスン、日暮雅通訳、早川書房)
『SF入門』
日本SF作家クラブ編、早川書房)
「Treva」で撮影

 『ダイヤモンド・エイジ』は、ニール・スティーヴンスン目下の代表作と評判の高い、ヒューゴー賞、ローカス賞受賞の大作。ナノテクノロジーが日常化し、ダイヤモンドですら自在に作り出せる世界のお話。あっ。またおれの予知能力発作が――二月に〈週刊読書人〉のSF時評で書評をしそうな気が激しくする。いや、もうしてしまったような気さえする。おそらく三月には、このサイトに掲載するはずだ。なんでもできてしまうナノテクという小道具は、SF作家にとって両刃の剣であるが、『極微機械(ナノマシン)ボーアメイカー』リンダ・ナガタ、中原尚哉訳、ハヤカワ文庫SF)に似たやりかたで、うまくナノテクを捌いている。ナガタもスティーヴンスンも、ナノテクそのものを描くことが目的ではないので(ナガタとちがい、スティーヴンスンはかなり細かくナノテク描写をするが)、必然的に似てしまうのかもしれない。
 『SF入門』は、ざっと眺めて首を傾げた。「編集後記」によれば、「SFをいかに知るか」よりも「SFをいかに創るか」に焦点を当てているとのことで、それならこういう構成もひとつのありかただろうとは思うものの、だとすれば、これは『SF入門』というよりは『SF作家入門』なのではなかろうか。おれたちの子供のころには、“SF作家”という言葉は魔法の言葉であった。“SF作家”と呼ばれている人々は、少年少女にとってそれはそれはものすごいヒーロー的存在、神のごとき存在であって、「SF作家になりたい」というのは、ほとんど「宇宙飛行士になりたい」というのと同じような響きがあったように思う。そういう時代であれば、『SF作家入門』=『SF入門』でもあり得ただろうけれども、もはや現代のSF作家はそういう存在ではない。
 最近はそうでもないらしいが、おれたちが学生のころの日本の英語教育は、「あたかも日本人全員を英文学者や英語学者にしようとしているかのごとき教育である」と批判されていたものだ。どうも本書を見ていると、同じような印象を受ける。『SF入門』というタイトルとは裏腹に、読者全員をSF作家やらSF評論家やらにしようとしている教科書みたいに見えるのである(だってそういう企画だよと言われれば、そうですかとか言いようがないけど)。教科書というやつは、一応歴史を語らにゃならんし、ニュートン力学より先に相対性理論や量子力学に触れてはならんことになっているものである。ちょいと古い浅田彰用語で言うなら、積分的な“パラノ”でしかあり得ないのが教科書の宿命だ。それが教科書をつまらなくしている。子供たちは学校なんぞで習う以前に、日常的に最新の情報に晒されている。微分的“スキゾ”な世界に生きている。教科書なら学校で否応なしに読まされてしまうが、スキゾな子供たちが自発的にパラノな本を手に取るであろうか? そこに本書に対する違和感があるのである。
 先日奇しくもこの日記で『動物化するポストモダン』に触れたばかりだが、この『SF入門』にほかならぬ東浩紀(えっと驚く人もあるかもしれないが、彼は日本SF作家クラブ会員なのである)が寄稿していること自体が、また、その内容が、自動的に本書に対する秀逸な自己批判になっている点はなかなか興味深い。

【12月22日(土)】
『ウルトラマンコスモス』(TBS系)を観ていたら、なんの必然性もないのに、アヤノ隊員「コンタクトの調子が悪くて……」などと言いながら、突如眼鏡をかけた。女なら誰にでも声をかけるノリの軽い医者がアヤノにアプローチするという回想シーンである。眼鏡をかけたアヤノの前に現れたこの医者、アヤノの目の前にカエルのぬいぐるみをちらつかせながらデートに誘ったりしている。アヤノがカエラーだというのは以前のエピソードでも紹介されていたが、それにしてもこのシーンは怪しい。眼鏡、そして、カエルである。以前はこの日記で“ダイナ突っ込みアワー”“ガイア突っ込みアワー”をやっていたのに、“コスモス突っ込みアワー”をやらないせいで、ひょっとして、おれは狙われているのだろうか?

【12月21日(金)】
▼おお、昨日から手塚治虫漫画全集のネット配信がはじまっていたのか。だが、忙しくてゆっくり見ている暇がない。なにはともあれ、「ああ、あれが読みたいなあ」などというときに手元や書店に現物がなくても、ネットで入手できるとわかっていればじつに心強い。でも、さすがにこれはブロードバンド環境でないと根性が要るだろうな。


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