間歇日記

世界Aの始末書


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2002年1月上旬

【1月10日(木)】
▼髭を剃るとか眼鏡を拭くとか、なにかしら単純作業をしているときにふと口をついて出てくるのが、初代『ひみつのアッコちゃん』のエンディング曲「スキスキソング」である。これはもう不滅の名曲であって、リアルタイムでアニメを観ていたころから三十年以上経っているにもかかわらず、ちょっと口寂しいといつのまにか唄っている。いきなり唄うわけではなく、まずなんとはなしに『バットマン』のテーマを唄っていると、いつのまにか「――バットマーン、バットマーン、スキスキー。ハーヨォイト! バットマン来るかと団地のはーずれまっで出てみたがー」と「スキスキソング」になってしまうのであった。同じ病を抱えた人も、きっと大勢いらっしゃることと思う。
 で、その「スキスキソング」だが、子供のころから引っかかっている部分があるのだ。アッコちゃんを捜して団地のはずれまで出てみるところまではよい。問題はそのあとである。「アッコちゃん来もせず 用もないのに納豆売りが」というのだが、これはずいぶんと納豆売りに失礼な言種ではあるまいか。納豆売りは、なにしろ納豆を売っているのだから、用があってうろついているのである。用がないのはこちらのほうなのだ。むろん、納豆売りに用がないというこちらの勝手な都合を納豆売りに押しつけて「用もないのに納豆売りが」とあびせ倒してしまう言いまわしこそが面白いわけであるが、われわれにその面白さが理解できるのは、そのあまりに自己中心的な視点を滑稽に感じる良識があるからだ。ところが、そういった戯れ言としてのニュアンスを離れて、「用もないのに」をまさに「スキスキソング」のように使って平然としている言語感覚の人間が増えてきているような気がしてならない。もしかしたら、「用もないのに」には、「こちらが向こうに用もないのに」という意味がすでにあたりまえの日常的用法として認められているような気さえする。たとえば、公園やらガード下やらをホームレスの人が歩いているとする。それを見た乱暴な若者たちがなにやら“むかついて”、ホームレスを殴ったり蹴ったり、気が向けば殺したりするとする(が、必ずあとで「殺すつもりはなかった」と涙ながらに言ってみせなければならないことは、言うまでもない)。そのような光景を想像する場合、あなたの頭の中には、すでに若者たちの台詞が浮かんでいるはずだ――「用もねーのにうろついてんじゃねーよ!」
 ホームレスのほうは、納豆売りと同じく、たいてい用があってうろついているのである。新聞紙や段ボール箱だって捜さにゃならない。そこいらに小銭が落ちているやもしれない。用がないのは、若者たちのほうなのだ。
 文章で書くと長いが、こんなことを一瞬のうちに考えてしまうため、「スキスキソング」を唄っていて納豆売りの箇所に来ると、決まってホームレスを若者が集団で叩きのめしている図が脳裡に浮かんでしまうのだった。おれ、病んでるかなあ。
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『星の、バベル(上)』
新城カズマ、ハルキ文庫)
「Treva」で撮影

 「グローバル化が進む世界で絶滅危惧言語を研究する若き言語学者・高遠健生は、南洋のメソネシア共和国で、和平合意直前のはずのゲリラによる爆弾テロと旧友の不可解な死体に遭遇(コンタクト)する。高遠の眼前で次第に暗示される地球外知性(ETI)の痕跡は何を意味するのか?」――おお、言語ものですか。「著者渾身の侵略SF登場!」ともある。言語、侵略、そしてタイトルにはバベル――おぼろげながら話の大枠は想像がつきそうな感じだが、たぶん想像どおりにはならんのでしょうなあ。言語ものは個人的に好みである。楽しみに読ませていただきます。
 それにしても、ハルキ文庫のヌーヴェルSFシリーズ、ヌーヴェルSFというだけあって、いろんなところからSFを書きたがっていそうな人を引っぱり出してくる。さすが角川春樹事務所。書評屋がこんなことを言っていてはいかんのだが、明確に若年層向けの市場で活躍している人や、コミックやゲームなどの別の媒体でSFを温めている才能にまでは、おれはなかなか手が回らないのである。そういう意味で、ハルキ文庫がどんな人にSFを書かせるかは、おれとしても楽しみなのだ。夏緑『イマジナル・ディスク』なんかは、なかなか新鮮で面白かった。SFとして非常においしい着想を得ていながらも、人物の動かしかたがぎくしゃくしているうえ、クーンツ風の安全牌的定型に進行を頼りすぎている面があって、小説としては粗削りだったのだが、ともするとこぢんまりとまとまってしまおうとする小賢しさを、抑えても湧き出てくるような妙な情念がうまく内側から破壊していて、そこがよかった。これからの人には、「ハイ、きちんとよくできました」なんて部分よりも、壊れているところ、どうしようもなく壊れてしまうところに、むしろ可能性を感じるわけである。ハルキ文庫には、そういう人をうまく見つけて引っぱり出してきてくれそうな期待をしているのだ。

【1月9日(水)】
ガッツ石松がにわかにパソコンをはじめるというパソコン教室のテレビCMをやたらと目にする。たしかに、ああいう業界は景気がいいらしい。だけど、あのCM見ると、なんとなく不快になるんだよなあ。ガッツ石松くらいの年齢のおじさんが「パソコンを使えない」といったことは、企業にとって“切る口実”にはなるだろうが、彼くらいの年齢で「パソコンが使える」だけでは、けっして“新たに雇う理由”にはならないのである。そんなもん、「“わーど”も“えくせる”も“ぱわーぽいんと”も使えます」などとアピール(?)する四十面、五十面提げたおっさんなど、どこの企業が欲しいものか。長年企業で働いてきて見識豊かな(はずの)人に企業が求めるのは、まったく別のものだろう。ITで雇用が創出できる部分も比較的若年層の労働市場にはたしかにあるかもしれないが、壮年層以上の雇用とパソコンとが直結するとはとても思われない。それを直結させるビジネスモデルが出てきて栄えないと、IT講習などやったところで、ただただ“パソコンが使える壮年・老年の失業者”ができあがるだけなのではないのか? どう思います、小泉さん?
 そういうわけで、おれにはあのCMが、「新しい技能を身につけて道を拓こう!」というふうには見えず、「ほれほれほれほれ、パソコンが使えんと切られるぞ」と人の弱みにつけこんで脅しているかのように見えるのだ。
 とは思うものの、そりゃあ、パソコンが使えないよりは使えたほうがいいに決まってますわなあ。結局、最後に突き放すんかい。

【1月8日(火)】
▼おかしい。例年、この時期には少し肥ってしまい、ズボンのベルトがちょびっとだけきつくなってしまっているものなのだが、今年はそれほどでもない。よく考えたら、今回の年末年始には、それほど餅を食っていないのだ。むかしは、年末年始ともなると、丸餅を五、六個ほど丼に放り込んで電子レンジでどろどろに溶かし醤油をぶっかけて呑むようにして夜中に食うという生活を一週間ほど続けていたものだが、さてはあれが悪かったのか――っていまごろ気づいたか。まあ、コーラを湯水のように飲むよりは身体にいいと思うがどうですか、堺三保さん?

【1月7日(月)】
▼とかなんとか言ってるうちに、休みが終わってしまう。会社のメーラを立ち上げると、メールがうなるほど溜まっている。年末年始は休みになるメールマガジンなども多いのだが、それでもけっこうな量だ。情けないことに、かつかつの空きディスク容量で使っているため、一度でローカルのPCには落としきれず、二度に分けて、スパムを消しながらダウンロードする。いくら不景気でも、そろそろ新しいパソコン買ってくれよ、とほほほ。

【1月6日(日)】
▼いろいろな企業トップの年頭訓示が毎年決まってニュースになるけれども、三題噺じゃあるまいし、午年だからってなにも必ず馬を入れなきゃならないってわけでもないだろうに。「天馬空を行くように」だの「一馬当先、馬到成功」だの「荒馬を御する」手腕を発揮しろだの、べつに午年でなくとも毎年使えそうな文句を、ほんとに面白いレトリックだとでも思って入れているのだろうか? まあ、聴くほうは「馬耳東風」かもしれんからいいか。

【1月5日(土)】
北朝鮮が観光客誘致用の日本語ホームページを開設したというのだが、ううーむ。あんまり行きたいとは思わんなあ。拉致しないか? ロケット弾撃ってこないか?

【1月4日(金)】
▼おれの勤めている会社の仕事はじめは今日なのだが、今日だけ出ていってもどうせ仕事になるわけがなく、バカバカしいので有給休暇にしてある。社長の挨拶やらなにやら、あとでイントラネットで読めばこと足りるようなものは、偉い人たちだけありがたくライヴで聴いてください。
「かえる新聞」のドメインが「www.gekogeko.com」になっていて驚く。いやあ、こりゃわかりやすいわ。外国人がこのドメインを見たら、なんのサイトだと思うだろうな。案外想像がついたりして。

【1月3日(木)】
▼最近よく「素人画像サイトはじめました」などというスパムメールが来るのだが、これを見るたびに笑ってしまう。たとえば、「そりゃいい」などと助平ゴコロを抱いて、メールに書いてあるURLにアクセスしてみたとする。するとそこには、ピンぼけの運動会の写真やら頭の切れた学芸会の写真やらが無数に貼ってある――などという光景を想像してしまう。つまり、撮るほうが素人の画像サイトというわけだ。こんな冗談サイト、ほんとにありそうだよなあ。

【1月2日(水)】
▼年賀状をたくさん頂戴いたしました。まことにありがとうございます。今年もまたもやお出しすることができませんで、毎年不義理をしてしまっておりますが、ひらにご寛恕ください。
 それにしても、小林泰三さんからの年賀状にはびっくりした。小林さんが若い女性と並んだ写真がでかでかと刷ってある。へえ、小林さんの奥さんってずいぶん若いんだなあ――と、一瞬は思ったのだが、よく見ると女性のほうはどこかで見たことがある。なんとなく田中麗奈に似ている。見れば見るほど、ますます似ている。いや――これは田中麗奈だ。
 なんという“嬉しがり”のおっさんであろうか。いやまあたしかにこういうものは二度と入手できない貴重な年賀状だとは思うが、それにしてもなんだか癪に障る。おれはべつに田中麗奈ファンでもなんでもないにもかかわらず、同い年のおっさんが田中麗奈とのツーショットを見せびらかしているという事実が、なんというかどう表現したものか、端的に羨ましい「玩具修理者」などという気色の悪い話の映画に、なぜこんな若い娘が主演するのだ? べつに菅井きんでもいいではないか。いや、菅井きんのほうがよかった。絶対そうだ。世の中まちがっておる。小林さん本人ですら、まさかあれを書いているときに、将来自分がこのような写真をあちこちに見せびらかすことになろうとは思っていなかったにちがいない(思っていたとしたら、その怖るべき計画性に脱帽する)。ううむ、それにしても……。そうだこれは合成にちがいない合成くらいパソコンがあれば最近は誰にでもできるうんうんそうだそうにちがいない――そやけど、作家て、ええなあ。
 例年どおり、妹一家がタコ焼きを食いにくる。姪たちがビデオの録画をセットしてきたかどうかをしつこく親に確認しているので、なにごとかと思ったら、今晩、モーニング娘。のドラマがあるらしい。新聞を見てみると、ほー、安倍なつみ「時をかける少女」をやるのか。これは一応観ておかずばなるまい。
 妹一家が帰ったあと、ちょうどはじまった「時かけ」を観る。まあ、すっきりしてていいんじゃないすか。ラストがちょっとくどかったけど、芳山和子の妹役のカゴちゃんが可愛かったので許そう。いくらおれでも、安倍なつみと加護亜衣なら、裏返して股ぐらを調べなくても見分けがつく。ツジとカゴはちょっと自信がないが……。
 以前に内田有紀の「時かけ」を観ていたときにも思ったけど、「深町君」やら「福島先生」(そういえば、安倍なつみ版には出てこなかったような……)やらといった名前を、いまの少年少女は、どういうふうに認識するのだろうなあ。おれたちの世代にとっては、ほとんど神々の名前お茶目な神様のひとりが戯れに使っているという感じであったような気がする。深町眞理子先生は現役でご活躍であるが、「福島先生」はわからんかもしれんなあ。
 おれは必ずしも楽屋ネタの使用には反対ではない(程度問題だけれども)。少年少女には、「あ、ぼくはこの楽屋ネタがわかる」ということが、なんだか背伸びして大人の話に耳を傾けているようで、ちょっと嬉しかったりするものだ。目に見えないコミュニティーへの帰属意識のようなものを感じ、言葉は悪いが、神々がじゃれ合っているのを眺めるような楽しさがあったように思う。読者をよりディープに巻き込むためにそういうサービスも必要だといった作家や出版社側にとっての現実的な意味ばかりではなく、少年少女が、自分たちの日常とはかけ離れた世界の人たちの交流を垣間見る、あの“わくわく感”を味わうのはいいことだと思うのだ。

【1月1日(火)】
▼あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
 ふー、ようやく二○○二年だ。いったい全体、なにが“ようやく”なのか、月日が経ってからこの日記を読んでくださる方にはさっぱりわからないかもしれないのだが、とにかく“ようやく”二○○二年なのである。「ああ、ようやく二○○二年だなあ」とわかってくださる方はほぼリアルタイムで読んでくださっているわけで、まあ、それがわかることがリアルタイム読者の特権だと思って、得した気分になってください。なりませんかそうですか。
 元日くらいはゆっくりしようと、買ったばかりの「KX-HV200」をいじりたおす。あんまり画面が美しいものだから、パソコンで壁紙など作ってみる。多くは権利侵害をしてネットで配布されているアイドル画像などを適当に入手し、画像加工ソフトでサイズや色調などを整え、ケータイ向けにするわけだ。「本上まなみ」「カーミット」「火の鳥」の壁紙を作り、さっそくケータイにメールで送って見てみる。おおおおお。下手すると、最近バックライトがくたびれてきたおれのパソコンで見るよりきれいかもしれぬ。いや、「下手すると」どころじゃない。ふだんおれは、パソコンのディスプレイ・ドライバを16ビットの High Color で使っているから、「KX-HV200」の六万五千五百三十六色2インチTFT液晶ディスプレイなら、まさに同じ色数が出ているわけではないか。ケータイ風情が、いや、PHS風情がオーバースペックもいいところだ。オーバースペックだが、一度味わってしまうと、もうこれ以下の画質には戻れそうもない。本上まなみもきれいだ。カーミットもきれいだ。火の鳥を眺めていると、いまにも輪廻転生の夢を見そうですらある。
 とかなんとか言っているのはいまのうちだけで、一年もすれば、「なんてショボいディスプレイだ」と感じるようになるにちがいないのだ。ホモ・サピエンスとは罪深い動物であることよなあ。


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